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笑いの臨界点 #45 小走りのつもりが普通の歩き昼すぎ。横断歩道を渡ろうとした。信号は青。けれど、点滅している。私は少しだけ急いだ。急いだ、つもりだった。足に力を入れて、歩幅を少し広げた。腕も気持ちだけ振った。自分の中では、小走りである。でも、横からすっと抜いていった小学生の速度を見て、気づいた。これは小走りではない。やや真剣な歩きだ。信号はまだ点滅している。向こう側まで、あと少し。焦るほどではない。でも、余裕があるほどでもない。この中途半端な距離が、いちばん困る。本気で走ると大げさだ。かといって普通に歩くと、車に申し訳ない。私はもう一段だけ速度を上げた。上げたつもりだった。たぶん、見た目はあまり変わっていない。五十代の小走りは、本人の中だけで発生することがある。外から見ると、ただ少し顔が真剣な人だ。横断歩道の白い線を踏みながら、息が少し上がった。まだ何もしていない。いや、している。道を渡っている。道を渡るだけで、体が参加してくる年齢になった。膝。腰。ふくらはぎ。呼吸。全員が小さく出席している。「この案件、事前説明ありましたか」うるさい。青信号が終わりかけているだけだ。ようやく向こう側に着いた。歩道に上がった瞬間、私は何でもなかった顔をした。最初から普通に歩いていました、という顔。誰も見ていない。たぶん。でも、自分だけは見ている。さっきの中途半端な小走りを。若い頃なら、点滅していても何も考えずに渡った気がする。少し走れば済んだ。少し走ることに、理由はいらなかった。今は、走る前に考える。ここで走るほどか。荷物は揺れないか。足元は大丈夫か。変に急いでいる人に見えないか。最後のやつは、どうでもいい。でも気になる。小走りというのは、意外と恥ずかしい。全力疾走なら、理由がありそうに見える。普通の歩きなら、落ち着いて見える。小走りだけが、少し説明に困る。急いでいる。でも、そこまでではない。その中途半端さが、今の自分に妙に似ている。大げさか。横断歩道で人生を語るな。私は少し笑った。笑ったら、息がまだ少しだけ残っていた。それもまた、少し可笑しかった。信号の向こうでは、さっきまで待っていた車がゆっくり動き出した。別に怒っている様子はない。世界はそこまで私を見ていない。わかっている。それでも、点滅する青信号を見ると、今でも少し急いでしまう。迷惑をかけたくない。待たせたくない。でも、転びたくもない。五十代の横断歩道には、いくつかの配慮が同時にある。そのわりに、足はそんなに速くない。帰り道、また別の信号に引っかかった。今度は赤だった。私は素直に止まった。止まるのは楽だ。堂々と休める。青になるまで、空を見た。雲が少しだけ流れていた。急がなくていい時に限って、体は落ち着いている。青になった。私は歩き出した。今度は点滅していない。それだけで、少し安心した。普通に渡れる。普通に渡れるというのは、案外ありがたい。小走りのつもりが普通の歩きでも、まあ、向こう側には着いた。今日はそれでいい。たぶん、信号もそう思っている。知らないけれど。
2026.09.30
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ロスジェネ脱線学 #49 暗証番号が一瞬よそよそしい午前午前中、銀行のATMの前で一瞬固まった。暗証番号を押そうとして、指が止まったのである。覚えている。もちろん覚えている。何年も使ってきた番号だ。紙に書いたこともないし、人に言ったこともない。むしろ体で覚えているはずだった。それなのに、画面の前に立った瞬間、急に番号がよそよそしくなった。四桁のはずだ。いや、四桁なのは知っている。問題はそこではない。最初の数字は合っている。たぶん。二つ目も合っている。たぶん。この「たぶん」が、ATMではかなり怖い。後ろに人が並んでいるわけではない。店内も空いている。誰も急かしていない。それでも、自分で自分を急かす。五十代になると、記憶そのものより、記憶を取り出す時の手つきが怪しくなる。引き出しはある。中身もある。ただ、取っ手の位置が一瞬わからない。昔は、こういう数字には強いつもりでいた。FAX修理の現場でも、型番、エラーコード、部品番号。やたら数字が出てきた。あの頃の私は、数字を仕事の道具として使っていた。今は、数字に少し見られている気がする。昭和は、通帳と印鑑の時代だった。平成になって、キャッシュカードが当たり前になった。令和ではスマホ決済やネットバンキングまである。便利になった。本当に便利になった。ただ、最後に本人確認されるのは、やっぱり私の記憶である。私は一度、画面から目を外した。深呼吸というほどではない。ただ、口から少し空気を逃がした。急ぐな。誰も見ていない。そう思ったら、指が少し戻ってきた。一つ目。二つ目。三つ目。四つ目。押せた。画面が次に進む。たったそれだけで、少し安心する。金額を下ろしたことより、番号が合っていたことの方にほっとしている。ATMから出てきた明細を見ながら思う。人生も、ときどき自分の暗証番号がわからなくなる。何が好きだったか。何を大事にしていたか。どういう時に無理をしていたか。全部忘れたわけではない。ただ、画面の前で少し止まる。でも、少し待てば戻ってくるものもある。私は財布にカードをしまった。今度は忘れないように、少しゆっくり。外に出ると、午前の光が思ったより明るかった。番号は合っていた。それだけで、今日の私はまだ本人でいられる気がした。
2026.09.29
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一瞬永遠 第53幕 冷めたお茶机の上に飲みかけのお茶があるいつ淹れたのかは覚えているけれどいつ冷めたのかはわからない何かをしているうちに時間だけが先へ行った手に取ると湯呑みはもう温かくなかった少し前まで湯気が立っていたはずなのにこういうことが最近よくあるあとで飲もうあとでやろうあとで話そうそう思っているうちにちょうどいい時間が静かに過ぎていく昔は時間というものはもっとたくさんあると思っていた少しくらい冷めてもまた淹れればいい明日がある次があるそんなふうに思えていた今もたぶん明日は来るけれど同じ今日がもう一度来るわけではない冷めたお茶をひと口飲む少し苦いでも捨てるほどではないそれがなんとなく今の自分に似ていた思い通りにならないことも間に合わなかったこともいくつか抱えたままそれでも今日を飲み干していく窓の外で風が動いた私は残っていたお茶をもうひと口飲んだ温かくはないそれでも確かに自分の手で淹れた今日の味がした
2026.09.28
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午前2時17分。母がまた同じことを聞いた。父の部屋は静かだった|介護の朝は突然に【50代】午前2時17分。「ねえ、あれはどうなったの?」母が聞いた。さっき答えたばかりだった。同じ説明をして、母が部屋へ戻る。しばらくして、また足音がした。父の部屋は静かだった。余命一年と告げられた父が眠っている。私は台所の椅子に座ったまま、水をひと口飲んだ。冷蔵庫だけが低い音を立てていた。そして、ふと思った。俺の人生まで、ここで止まりかけているんじゃないか。52歳。夜中というのは、ときどき残酷なほど正直だ。昼間なら、考えなくて済む昼にはやることがある。仕事の連絡を返す。買い物へ行く。家の用事を片づける。母に何度も同じ説明をする。父の様子を見る。予定表を開けば、先に埋まっているのは介護の予定だ。その隙間へ仕事や自分の用事を押し込んでいく。忙しくしている間は、それでいい。ところが夜中になると、昼間に押し込んだものが出てくる。親を見送ったあと、この家で私は何をしているのか。仕事はどうする。自分の身体はいつまで動く。そして何より、ここから本当に間に合うのか。答えのない質問ばかりが、午前2時を過ぎてから起きてくる。FAXの奥に残っていた紙切れFAXを修理していた頃、どうしても直らない機械があった。紙を取り除く。センサーを拭く。ローラーを見る。それでも液晶には、「紙づまり」の表示が残る。客先で背中に視線を感じながら、側板を外す。見えるところには何もない。そこで、さらに奥のガイドを外す。すると、爪の先ほどの紙切れが出てくることがあった。こんな小さなものが原因だったのか。そう思う。でも、その小さな紙片ひとつで機械は止まる。人間も少し似ているのかもしれない。大きな出来事だけで止まるわけではない。母の同じ質問。父の細くなった腕。仕事の不安。値上がりしたレシート。鏡に映った疲れた顔。昔なら気にもしなかった身体の違和感。一つひとつなら耐えられる。だから奥へ送る。また送る。そしてある夜、全部が同じ場所で引っかかる。「修理不能」と書けば楽になるその夜、一度だけ思った。もう遅いんじゃないか。ロスジェネ氷河期第一世代。17年勤めた会社は、40歳を前に解散した。そこから何とか仕事をつなぎ、52歳まで来た。そして今は、父と母の介護がある。若い頃のように、徹夜して取り戻せる体力もない。失敗してもあと十年ある、と簡単に言える歳でもない。だから、「もう遅い」という言葉は便利だ。その瞬間から、何もしなくてよくなる。傷つく前に、自分で終わりにできる。昔の修理伝票なら、こう書くところだ。部品供給終了。修理不能。対応完了。でも、17年現場にいた人間には分かる。中をろくに見ないまま「修理不能」と書くのは、診断ではない。ただ、帰りたいだけだ。新品には戻らない父の病気を私が直せるわけではない。母の記憶も戻せない。過ぎた時間も戻らない。なくなった会社も、若かった自分も戻ってこない。人生には交換部品がない。仕様書もない。保守くらいなら、できる。母の質問に、もう一度答える。父の部屋を確認する。疲れている自分に水を飲ませる。頭の中に詰まっているものを、一行だけでも外へ出す。人生が逆転するわけではない。そんなことは分かっている。私はもう、逆転満塁ホームランだけを待つ年齢でもない。ただ、今日まで動いてきたものを、今日、自分の手で止める必要もない。夜の中で、対応を打ち切らなかった午前3時を過ぎた。母は眠った。父の部屋も静かなままだった。何ひとつ解決していない。窓の外もまだ暗い。私はパソコンを開いた。一行目を打った。すると胸の奥で詰まっていたものが、ほんの少しだけ先へ送られた気がした。朝が来たから希望が戻ったわけではない。問題が解決したわけでもない。ただ、その夜、私は自分への対応を打ち切らなかった。それだけだ。
2026.09.27
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土曜日って、まだ少しだけうれしい?|52歳別に旅行へ行くわけでもない。何か特別な予定があるわけでもない。それでも土曜日の朝になると、平日とは少しだけ気分が違う。52歳になっても、どうやらこれは残っていた。土曜日って、まだ少しだけうれしい?土曜日の朝は、平日の朝と少し違う。何時まで寝ていてもいいわけではないし、今日一日が完全に自由というわけでもない。仕事がある時もある。家のこともある。親の予定が入ることもある。それなのに、「あ、今日は土曜日か」と思うと、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。52歳になっても、これは残っていた。昔の土曜日は、もっと特別だった子どもの頃の土曜日を思い出す。私たちの世代には、土曜日も学校へ行っていた時代。ただし午前中で終わる。これがよかった。朝は普通に学校へ行くのに、昼頃には帰れる。家に帰って昼飯を食べても、まだ午後が丸々残っている。そして何より、明日も日曜日だった。この「まだ明日がある」という感じが、妙にうれしかった。日曜日とは少し違う。日曜の夕方になると、どこかに月曜日の気配が入ってくる。テレビを見ていても、外が暗くなってくると、「ああ、明日学校か」と思う。でも土曜日には、それがない。午後になっても、まだ余裕がある。夕方になっても、明日が残っている。子どもの頃の一週間の中で、もしかすると一番気楽だったのは土曜日だったのかもしれない。大人になると、土曜日も忙しいもちろん、大人になれば事情は変わる。土曜日だからといって、何もしなくていいわけではない。買い物にも行く。用事も済ませる。仕事をすることもある。家族の予定もある。今の私は、親のことまで含めれば曜日に関係なく何かしら動いていることが多い。昨日だってそうだった。歯医者へ行き、血圧の病院へ行き、血液検査をして、予防接種まで受けた。その合間には仕事があり、両親のリハビリや訪問看護もあった。昔みたいに、「やった、休みだ」だけでは済まなくなった。それでも翌朝になって、今日は土曜日だ、と思うと少し違う。何なのだろう。何をするかより、「まだある」がうれしかったたぶん私は、土曜日そのものが好きなのではない。土曜日が持っている、「まだ時間がある」という感じが好きなのだと思う。今日が終わっても、まだ明日がある。今すぐ全部やらなくてもいい。ちょっとくらい寄り道してもいい。子どもの頃ほど長く感じる一日ではなくなったけれど、その感覚だけはどこかに残っている。大人になると、「休みの日を有意義に使わなければ」と思うことがある。せっかくの休日だから出かけよう。何かしよう。たまったことを片づけよう。そうやって結局、自分で休日まで忙しくしてしまう。52歳になった今は、何もしない時間が少しくらいあってもいいと思うようになった。朝飯を食べる。コーヒーを飲む。ぼんやりする。それで午前中が少し過ぎる。昔なら「もったいない」と思ったかもしれない。今は、それも土曜日だと思える。うきうき、とまではいかないけれど子どもの頃みたいに、「土曜日だ!」と飛び起きるわけではない。そこまで単純でもなくなった。身体はそれなりに疲れているし、頭の片隅には今日やることも並んでいる。それでも、平日の朝とは少し違う。ほんの少しだけ肩の力が抜ける。このくらいが、今の私にはちょうどいい。うきうき、と言うには大げさかもしれない。でも、ちょっとうれしい。それならまだある。52歳になっても残っているのだから、たぶんこれは年齢とはあまり関係ないのだろう。今日は土曜日。何をするかは、まだ決めていない。何もしない時間があってもいい。まずは朝を始めよう。画像ところで、あなたにとって土曜日は、まだ少しだけ特別ですか?子どもの頃ほどではないけれど、土曜日には今でも少しだけ「明日が残っている」感じがあります。それだけで、ちょっと気持ちが軽くなる朝です。「あなたにとって土曜日は、今でも少し特別ですか?」さらにコメントを取りに行くなら、「土曜日の思い出があったら、ぜひ教えてください。」✨✨✨皆さん、良い土曜日を✨✨✨
2026.09.26
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東京タワーの灯りが消えると、私は眠った|52歳、いまも覚えている東京の夜東京タワーを見ると、胸の奥に古い夜が戻ってくる。まだ私が幼稚園に通っていた頃の夜だ。生まれたのは、港区三田。首都高速のすぐ横にあるマンションの三階に住んでいた。周りには大使館が多く、今思えば、ずいぶん東京の真ん中で子ども時代を過ごしていたことになる。もちろん、その頃の私にはそんな実感はない。ただ、寝室の布団に入ると、目の前の建物と建物の隙間から、東京タワーが見えた。全部がきれいに見えていたわけではない。少しだけ切り取られるように、夜の向こうに立っていた。距離にすれば一キロほど。でも子どもの私には、もっと近く感じられていた気がする。父も母も同じ部屋にいた。けれど私はまだ小さいから、先に寝る。その時間が、だいたい夜の八時だった。私の記憶では、東京タワーの灯りも、ちょうどその頃に消えた。布団の上から眺めていると、夜空に浮かんでいた塔の光が、ふっと落ちる。その瞬間に、今日が終わる感じがした。「あ、消えた」そのあと私は、眠った。寝る時間を時計で覚えていたわけではない。東京タワーが、私の眠る時間だった。布団の上から見ていた東京あの頃は、オイルショックの時代だった。世の中には、今よりずっとはっきりした節電の空気があったのだと思う。けれど幼い私は、そんなことは何も知らない。トイレットペーパーがどうとか、原油価格がどうとか、そういう話ではなく、私の中に残っているのは、布団の上から見た夜の景色だけだ。首都高の音がしていた。家の中には父と母の気配がある。寝室の向こうに、建物の隙間越しの東京タワーがある。そして、灯りが消える。それだけのことだ。でも、人生にはこういう何でもない場面が、妙に深く残る。もっと特別な日も、もっと大事だったはずの出来事も、たくさんあったのだろう。それなのに、半世紀近く経った今でも思い出せるのは、あの夜の東京タワーだったりする。私たちの世代にとっての東京タワー私と同じくらいの世代には、東京タワーに少し特別な思いを持っている人が、案外多いのではないかと思う。今の東京には高い建物がいくらでもある。けれど、昭和の子どもにとって、東京タワーはやはり別格だった。高い。目立つ。東京に行けば見える。テレビにもよく映る。あの赤と白の塔は、東京の風景の中にいつもいた。333メートルという数字まで、なぜか覚えていた。建物の間から見えただけで、少しうれしかった。遠くに姿を見つけると、つい目で追った。今はもっと高い塔がある。設備も新しい。眺めもすごい。それでも東京タワーに心が動くのは、性能や新しさとは別のところに、自分の時間が染み込んでいるからなのだろう。用賀から、自転車で向かった日小学一年生の頃、私は三田を離れ、世田谷区用賀へ移った。寝室の布団から東京タワーを見る暮らしは、そこで終わった。それでも、東京タワーそのものが消えたわけではない。中学生になった頃、友達と自転車で東京タワーへ行ったことがある。今ならスマートフォンで距離も道順もすぐ分かる。あの頃はそんなものはない。ただ、東京タワーのある方へ向かって走った。建物の向こうに見えていた塔が、少しずつ大きくなっていく。あれは、なかなか気分のいい目印だった。布団の上から見ていた塔へ、今度は自分の足で向かっていく。当時は、そんなふうに意味づけたりはしていない。ただ友達と自転車をこいで、汗をかいて、東京タワーへ行っただけだ。展望台にも上った。私は昔から高いところが得意ではないので、きれいな景色より、少し怖かった記憶の方が強い。帰りに階段を使ったことも覚えている。なぜそうしたのかは、もう思い出せない。大事なことは忘れるのに、妙な細部だけ残っている。記憶とは、そういうものらしい。今度は、自分の子どもを連れてさらに年月が過ぎて、私は父親になった。十数年前には、まだ小さかった娘を連れて東京タワーへ行った。その日はたぶん、ごく普通の家族のお出かけだった。写真を撮って、塔を見上げて、家族で一日を過ごして帰った。その時には、特別な意味など考えていなかったと思う。けれど今になって振り返ると、不思議な気持ちになる。幼い頃、布団の上から東京タワーを見ていた子どもが、大人になって、自分の子どもの手を引いて、同じ塔のそばに立っていた。人生には、その場では分からないことがある。あとになってから、静かにつながってくる景色がある。東京タワーは、私にとってそういう場所なのだと思う。スカイツリーは、すごいやがて東京に、もっと高い塔ができた。東京スカイツリーだ。建設中、私は仕事で都内を回っていた。千代田区や中央区あたりを走っていると、少しずつ高くなっていく姿が見えた。また東京に新しい象徴ができるのだな、と思った。完成してから、実際に上まで行った。率直に言って、すごかった。高い。新しい。速い。設備も整っている。眺めも圧倒的だ。でも、好きなのはどちらかと聞かれたら、私はやはり東京タワーの方だ。これは優劣の話ではない。新しい方が優れている部分はいくらでもある。そんなことは分かっている。それでも東京タワーを見ると、心が少し動く。たぶん、同世代の人には分かってもらえる気がする。昔乗っていた車。子どもの頃に住んでいた街。もう売っていないお菓子。昔のテレビ番組の音楽。もっと便利なものも、もっと立派なものもある。けれど、それでは置き換えられないものがある。東京タワーは、私にとってそういう存在なのだと思う。今でも、建物の隙間を探してしまう52歳になった。三田のあの部屋を離れてからの時間の方が、もうずっと長い。仕事もした。結婚もした。父親にもなった。親も年を取り、娘も大きくなった。いろいろあった。うまくいかなかったことも、もちろんたくさんある。それでも東京へ出て、建物の隙間から東京タワーが見えると、私は今でも少しだけ目で追ってしまう。たぶん、昔の癖なのだろう。その一瞬だけ、今の東京の向こう側に、別の東京が重なる。首都高の音がしていた夜。父と母がいた寝室。布団の上の小さな私。建物と建物の間に見える東京タワー。もうすぐ八時になる。灯りが消える。そして、私は眠る。あの頃の私は、自分が52歳になる日など想像もしていなかった。それでいいのだと思う。東京タワーは、ずっと同じ場所に立っていただけだ。変わっていったのは私の方だった。だから今、あの塔を見ると、懐かしいだけでは終わらない。少し胸が詰まる。それでも、見つけるとうれしい。東京のランドマーク。たしかにそうなのだろう。でも私にとっては、もう少し個人的なものだ。東京タワーの灯りが消えると、私は眠った。その夜を、52歳になった今も、まだ覚えている。子どもの頃に見ていた景色は、あとになってから自分の中で意味を持つことがある。東京タワーは、私にとってそういう景色のひとつでした。✨✨✨ここまで読んでくださって、ありがとうございます。✨✨✨こういう「人生の途中であとから意味を持つ景色」は、まだいくつもある気がしています。✨✨✨また少しずつ、思い出しながら書いていきます。✨✨✨
2026.09.25
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『連休、ゆっくりできた?』と聞かれるのが、少しだけ苦手になった|52歳「連休、ゆっくりできた?」そう聞かれたら、たぶん私は少しだけ答えに困る。休みだったかと聞かれれば、休みだった。では、休めたのか。そう聞かれると、少し話が変わってくる。シルバーウィークは、いつもの生活だった世間はシルバーウィークだった。テレビをつければ観光地が映り、道路の渋滞情報が流れていた。けれど我が家は、ほとんどいつも通りだった。父と母のことがある。食事を気にして、薬を気にして、体調を見て、その日の予定を考える。連休だからといって、介護まで休みになるわけではない。しかも今年は台風と雨。ようやく晴れた火曜日は、妻が仕事だった。気がつけば、「休みらしいこと」をほとんどしないまま、連休の最終日になっていた。まあ、こんなもんだろう。最近はそう思うことにも、ずいぶん慣れた。それでも、少しだけ時間を作った昨日の水曜日。どうにか数時間だけ時間を作ることにした。父と母には、二人で家にいてもらう。もちろん、完全に何も考えず出かけられるわけではない。外からカメラで様子を確認できるようにして、何かあればすぐ戻れる距離。時間も長くは取らない。そんな条件をいくつもつけて、妻と娘と私の三人でランチに出かけた。久しぶりだった。大げさなものではない。旅行に行ったわけでもなければ、遠くへ出かけたわけでもない。ただ三人で、昼飯を食べに行っただけだ。それでも店の席に座って、妻と娘が目の前にいるのを見た時、「ああ、三人だけだな」と思った。そのことが、思っていたより少し嬉しかった。昔は、こんな準備はいらなかった考えてみれば、昔は家族で飯を食べに行くのにこんな準備はいらなかった。「どこ行く?」それだけだった。店を決めて、車に乗って、帰りたくなったら帰る。何時までに戻らなければ、とか。家の中は大丈夫だろうか、とか。そんなことは考えなかった。今は違う。出かける前に父と母の様子を見る。食事は大丈夫か。トイレは大丈夫か。何かあったら、すぐ帰れる場所か。スマホを時々見て、カメラを確認する。たった数時間のランチなのに、いくつもの条件がつく。自由というのは、いつの間にかこうやって小さくなっていくのかもしれない。でも昨日、少し違うことも思った。小さくなったからといって、なくなったわけではない。たった数時間でも二時間か三時間だったと思う。それでも、妻と娘と私の三人で飯を食べた。くだらない話もした。普通に食べた。普通に帰ってきた。ただそれだけだった。でも今年のシルバーウィークを思い返した時、たぶん私が一番覚えているのはこの数時間なのだと思う。連休を満喫したとは言えない。ゆっくり休んだとも言えない。それでも、「何もなかった」ではなかった。それで十分なのかもしれない。そして現実は、きれいには終わらないそんなことを思いながら、夜になった。歯を磨き、いつものようにフロスを使っていた。すると突然、ポロッ。歯の詰め物が取れた。「あ。」せっかく少しだけいい一日だったのに。最後はこれである。ただ幸いなことに、金曜日はちょうど歯医者の定期健診だった。こういうところだけ、人生は妙に帳尻を合わせてくる。シルバーウィークが終わった。今日からまた、いつもの生活が始まる。「連休、ゆっくりできた?」そう聞かれたら、やっぱり少し答えに困る。でも、妻と娘と三人で、久しぶりに飯を食った。今年はそれでいい。休めたかどうかは分からない。それでも、自分たちの時間を少しだけ取り戻せた。たった数時間でも。それはちゃんと、私の休日だった。休みだった日と、休めた日は、たぶん同じではない。それでも、残った時間までなくす必要はない。
2026.09.24
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50代、日曜の夜にまだ人生を諦めきれない|53歳目前、人生後半を間に合わせたい日曜の夜は、昔から少し苦手だ。会社員だった頃のような、月曜の朝へまっすぐ続く憂うつとは少し違う。今はフリーで動いているし、曜日どおりに物事が進むわけでもない。それでも日曜の夜になると、身体のどこかで一週間の継ぎ目を感じる。空気が少しだけ重くなり、考えなくてもいいことまで頭を出してくる。53歳目前ともなると、月曜のことだけでは済まない。仕事のこと、家のこと、親の介護、自分の身体、この先の時間。そういうものがまとめて寄ってくる。若い頃なら「まあ何とかなるだろう」で済ませていたことが、今はそう簡単にはいかない。人生後半とか学び直しとか、世の中はいろいろ言う最近は、人生後半だの、学び直しだの、セカンドキャリアだの、景気のいい言葉をよく見かける。たしかに間違ってはいない。50代は、仕事も生き方ももう一度考え直す時期なのだろう。実際、私だってその渦中にいる。ただ、言葉だけが先に歩くと、何だかこちらだけ置いていかれることがある。人生後半と言われても、きれいに折り返した感覚ばかりではない。学び直しと言われても、朝から晩まで自由に時間が使えるわけでもない。こちらには、介護もあれば、日々の暮らしもある。身体は若い頃みたいに無茶を許してくれないし、金のことだってある。それでも、そういう現実を抱えたまま、なお何かをやろうとしてしまうのが50代なのかもしれない。完全に諦めるには、まだ早い。かといって、何でもできると胸を張る歳でもない。その中途半端さが、日曜の夜には妙に身にしみる。それでも、まだ欲が残っているだったら静かに暮らせばいいのに、私という人間はどうもそうならない。まだ書きたい。もっと届いてほしい。EX-FAX-CEという名前を、今より遠くへ持っていきたい。介護を書く日もあれば、50代の身体を書く日もある。元FAX修理CEだった頃のことを書く日もあれば、しょうもない失敗を書く日もある。それが散らかって見えようと、結局どれも私の人生の一部である。先日、「私のnoteは人生劇場なのだ」と書いた。あの記事に思ったより今を表せた。私は今まで自分のことを書いていたつもりで、まだ肝心の自分を後ろへ置いていたのではないかと。介護の話の後ろにいる私。50代の衰えの後ろにいる私。昔の仕事の後ろにいる私。それをもう少し前へ出してもいいのではないか。いや、もう少しではない。出せるところまで出してみたい。そんな気持ちが、今の私にはある。間に合わせたいのは、世間体ではないここで誤解されたくないのは、別に格好よく成功したいわけではないということだ。インフルエンサーになりたいとか、有名になりたいとか、それなら53歳目前でここまでしつこく足掻かない。私には、まだ間に合わせたいものがある。それが何なのかを今ここで全部書く気はない。ただ一つ言えるのは、noteで上に行くことや、名前が広がることは目的ではなく、そこへ向かう途中として必要となることかもしれない。だから私はまだ止まれない。人生100年時代などと軽々しく言われても、こちらとしてはそんなにのんきでもない。時間はいくらでもあるわけではないし、身体も待ってくれない。だからこそ、今やる。今書く。今の自分を出す。うまくいくかどうかは分からない。それでも途中を出していく。完成してから見せるのでは遅い気がしている。画像日曜の夜に思うのは、まだ終われないということ日曜の夜だ。明日になればまた現実が始まる。介護もある。仕事もある。思うようにいかないこともあるだろう。記事の数字が伸びずに首をひねる日だってあるかもしれない。それでも私は、まだ自分の人生を畳みたくない。若い頃のような勢いはない。その代わり、背負ってきたものがある。元FAX修理CEとして過ごした17年も、ロスジェネとして生きてきた時間も、家族も、介護も、失敗も、笑いも、その全部を持ったまま進むしかない。53歳目前。ずいぶん時間は使った。足りないものも、やり残したことも、まだ山ほどある。だから私は、日曜の夜に少し苦くなりながらも、なお思う。まだ、人生を間に合わせるつもりでいる。
2026.09.23
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頼られる側になってから、頼り方がわからなくなった|52歳昔から、何かあれば自分が行く側だった。FAX修理のCEをやっていた頃は、故障の連絡が入れば客先へ向かった。動かない、送れない、受信できない。「何とかしてください」と言われれば、何とかするのが仕事だった。あれを17年やった。そして52歳の今。仕事は変わったのに、どういうわけか私はまだ、何かあれば動く側にいる。父のこと、母のこと、妻のこと、娘のこと。何か起きれば、とりあえず考える。必要なら動く。別に、それが嫌なわけではない。たぶん私は、そういう役を長くやりすぎたのだと思う。夜になって家の中が静かになると、ときどき思う。私は、人に頼るのがずいぶん下手になった。誰かに頼られることには慣れている。困っていると言われれば動ける。でも自分が困ったとき、「ちょっと助けてくれ」という言葉は、なぜか簡単には出てこない。まず自分で何とかしようとする。もう少しならいける。これくらいなら大丈夫。そうやっているうちに、本当に大丈夫なのか自分でもよく分からなくなる。若い頃より強くなったつもりはない。むしろ身体は確実に弱くなった。それでも何とかしてしまう癖だけは、ずいぶん丈夫に残っている。52歳。強くなったのではないのかもしれない。頼られる側にいる時間が、長くなっただけなのだ。今夜は、そんなことを思った。たぶん私は、昔から「呼ばれたら行く側」だった。その原点に近い時代を、いま一本の作品にしています。元FAX修理CE、17年。まだ携帯電話が今ほど当たり前ではなく、街の空気も、仕事の速さも、人との距離も、今とは少し違っていた頃。一件の連絡から始まる一日。工具鞄を持って、街へ出る。その先で何が待っているのかは、まだここでは書きません。
2026.09.22
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母が忘れていくものを、私はまだ忘れられずにいる|50代九月の夜は、少しだけ時間の流れが違う。夏が終わったと言い切るには、まだ名残がある。けれど夕方は確実に早くなり、気がつけば一日が静かに閉じている。カレンダーを見ると、明日は敬老の日だった。「敬老の日」昔は、もっと遠いところにある言葉だった。祖父母のための日。年を取った人のための日。自分とは少し離れた場所にある祝日。それが今では、すぐそばにいる。母がいる、父がいる。そして、その二人を見ている50代の自分がいる。いつの間に、こんなところまで来たのだろう。親は、ずっと親のままだと思っていた母は同じことを何度も聞く。私は答える。しばらくすると、また聞く。また答える。昨日も聞いた、今日も聞いた。たぶん、明日も聞く。頭では分かっている。認知症なのだから仕方がない。分かっている。でも、人間というのは、分かっていることに必ずしも慣れるわけではないらしい。母の中から少しずつ何かが消えていく。それをそばで見ている。昨日までそこにあったものが、今日はもう少し遠くなっている。記憶というものは、音もなく薄くなっていく。父の身体も小さくなった。昔はもっと大きかった気がする。本当に身体が大きかったのか。子どもの自分から見て大きかっただけなのか。もうよく分からない。ただ、あれほど頑固だった父が静かにしている姿を見ると、ときどき時間というものが残酷に思える。人間は変わる。身体も、記憶も、声も、歩き方も。当たり前のことなのに、自分の親だけはどこか例外だと思っていた。親はずっと親の大きさでいる。そんな馬鹿なことを、心のどこかで信じていたのかもしれない。「大切にしましょう」では済まない日々敬老の日という言葉には、優しい響きがある。長生きを祝いましょう。感謝を伝えましょう。大切にしましょう。もちろん、その通りだと思う。でも介護の日々は、そんなに綺麗な言葉だけではできていない。何度も同じことを聞かれれば疲れる。余裕がなければ、優しくできない日もある。こちらにも生活がある。予定、疲労、感情がある。親なんだからその一言で全部飲み込めるほど、人間はできていない。少なくとも私はできていない。私は聖人ではない。腹が立つ、ため息も出る。一人になりたいと思うこともある。そして家に帰ってから、「あんな言い方をしなくてもよかったな」と少し後悔する。そんなことを繰り返している。だから私は、「親を大切にしましょう」と簡単には書けない。もう十分大切にしている人ほど、その言葉に苦しくなることを知っているからだ。ただ。明日もそこにいるとは限らない。そのことだけは、以前より少し分かるようになった。母が忘れて、私は覚えている最近、不思議なことを考える。母はいろいろなことを忘れていく。その隣で私は、何十年も昔の自分の失敗を、ずっと覚えている。母は昨日の会話を忘れる。私は二十代や三十代の頃の後悔を、いつまでも忘れない。あのとき違う選択をしていたら。もっと頑張っていたら。もう少し勇気があったら。私は何十年も前の自分に向かって、ときどき赤いペンを入れている。そこは間違い、あれは失敗。もっとできたはず。でも最近、その手が少し止まるようになった。就職氷河期だった。仕事を選ぶというより、まず仕事が必要だった。好きなことや夢。自分らしさ。そんなものをゆっくり考える余裕がない時期もあった。「選ばなかった」のと「選べなかった」のは、似ているようで少し違う。だからといって、全部時代のせいにする気もない。逃げたこともある。怖くて動けなかったこともある。もう少し頑張れたことも、きっとある。時代のせいだけにはしたくない。でも、全部自分の努力不足だったことにもしたくない。その二つの間には、たぶん言葉にならない場所がある。最近、私はそこに昔の自分を置いてやりたいと思う。人生は、直らない17年間、調子の悪い機械を前に原因を探す仕事をしてきた。どこがおかしい。何が原因だ。どうすれば元に戻る。どうやら私は、その癖を人生にまで持ち込んでいたらしい。人生が思い通りにならないと、「どこで間違えた?」と考える。修理箇所を探すように。でも人生は、機械ではなかった。母の記憶は元には戻らない。父の身体も昔には戻らない。過ぎた時間も戻らない。氷河期だった若い頃も戻らない。そして私自身も、もう二十代には戻らない。直せない。それは、とても寂しいことだ。でも最近は、直らないから価値がないわけではない、とも思う。母との今日の会話は、明日には母の中から消えているかもしれない。それでも、今日その会話をしたことまで消えるわけではない。父の身体は小さくなった。それでも、そこに父がいる。私の若かった時間は戻らない。それでも、あの頃の自分が確かに歩いた道は残っている。直せないもののそばで生きる。50代というのは、案外そういう年齢なのかもしれない。秋になると、少しだけ昔が近くなる昔から秋は不思議だ。何かが始まる季節というより、何かが遠ざかっていく感じがする。日が短くなる。夏の気配が薄くなる。一年の終わりが、まだ遠くに見えながら少しずつ近づいてくる。50代になった今、その感覚が昔より強くなった。時間は無限ではない。両親にも、私にも。頭では昔から知っていた。でも「知っている」のと「分かる」のは、どうやら別のことだった。若い頃は、一年なんていくらでもあった。失敗しても取り戻せると思っていた。親はいつまでもいると思っていた。自分だけは歳を取らないような気さえしていた。そして今。母が忘れていく。父が静かになっていく。鏡の中の自分も、昔とは違う。誰か一人だけが老いているのではない。同じ時間の中で、みんな少しずつ遠くへ進んでいる。それが、たまらなく寂しい夜がある。正しい線路なんて、本当にあったのだろうか私は以前から、「脱線してこそ、人生はちょっと面白くなる」と思ってきた。でも、この言葉も最近少し変わってきた。脱線というからには、本線がある。正しい線路がある。学校を出て、就職して。順調に働い、家庭をつくって。それなりの場所まで行って。老後を迎える。どこかでそんな道を「普通」と決めて、そこから外れるたびに、自分を減点してきた。でも、その線路は誰が敷いたのだろう。今となっては分からない。もしかすると私は、存在しない本線から外れたことを、ずっと気にしていたのかもしれない。だからといって、急に自由になったわけではない。同年代の誰かを見れば焦る。成功した人を見れば羨ましい。SNSを見ながら、私はいったい何をしてきたんだろうと思う夜だってある。50代になれば人生が分かるなんて、誰が言ったのだろう。全然分からない。むしろ若い頃より、分からないことが増えた。でも。分からないままでも歩けることだけは、少し分かってきた。明日は敬老の日明日になれば、「いつまでも元気で」という言葉を、あちこちで見るのだろう。いい言葉だと思う。でも私はたぶん、父と母に同じ言葉を心の中で言えない。「いつまでも」という言葉が、今の私には少し眩しすぎる。いつまでも、なんてないことを知ってしまったからだ。だから、今日いてくれてありがとう、くらいでいい。それも、本人を目の前にしたら照れくさくて言えないかもしれない。母はまた同じことを聞くだろう。私はまた答える。少し疲れた声になるかもしれない。父の部屋には、静かな時間が流れている。何か特別なことが起こるわけでもない。そんな一日だ。でも、たぶん人生というのは、そういう何でもない日の方から先に無くなっていく。あとになって、あの日は何でもない日だった、と思い出す。そして、その何でもない日を、もう一度だけ欲しくなる。そんな日が来るのだろう。九月の夜。母は少しずつ忘れていく。父は少しずつ静かになっていく。私は少しずつ歳を取る。昔の自分も、もう遠い。それでも今日は、まだここにある。だから昔の自分にも、父にも、母にも、急いで丸や×をつけるのはやめようと思う。人生には、最後まで答えの出ないものがある。最後まで名前のつかない時間がある。それをそのまま抱えて生きることを、昔の私は「負け」だと思っていたかもしれない。今は少し違う。窓の外はもう暗い。夏だったはずの季節が、いつの間にか秋へ向かっている。誰にも何も聞かずに。時間はいつも、そうやって進んでいく。だから今夜くらいは、進んでいくものを無理に引き止めずに、まだここにあるものを、静かに見ていたいと思う。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。介護の途中で考えたこと、50代になって初めて見えてきたこと、ロスジェネとして通ってきた時間を、これからも書いていきます。もし何か一つでも、ご自身の時間や大切な人を思い出すものがあったなら、✨✨スキやフォロー✨✨をいただけるとうれしいです。『介護という旅の途中で』『一瞬永遠』『ロスジェネ脱線学』などでも、同じ人生の続きを書いています。今夜は、ここまで。
2026.09.21
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CE EP.02|16時から、あと10件。|FAX修理CEに「今日は終わり」がなかった頃【50代】16時。そろそろ事務所へ戻るか。それとも、帰る前にもう一件だけ定期保守へ寄るか。そんなことを考えていた。ポケベルが鳴った。一件増えた。また鳴った。もう一件。そのうち、公衆電話から会社へ連絡した時には、手配がまとまっていた。十件くらいあったと思う。全部、私の担当エリアだった。最初に浮かんだのは、立派な言葉ではない。無理だろ。それだけだった。この「CE EP」は、FAXが仕事の真ん中にあった頃の現場を残す、超不定期連載だ。毎週書くつもりはない。毎月ということでもない。思い出した時に、思い出せるものを書く。第一回では、銀行の客先で手のひらほどあるギアをなくした。第二回は、もっと普通の日の話をしたい。普通といっても、16時から修理が十件近く入るような日だが。あの頃は、そういう普通があった。あれはCEになって2年経つかどうかのころ。2年といっても、今思えばまだ現場経験も蓄積する知識も新人といっていいくらいだ。会社は9時始業だった。ただ、私は一時間以上前から会社へ行っていた。8時前。もっと早い日もあったと思う。別に朝型人間だったわけではない。準備がある。その日の手配を確認する。部品を見る。前日から残っているものもある。そして何より、机を見る。机の上に、新しい手配書が何枚も置かれている朝があった。三枚。五枚。多い時には十枚くらい。納品。五分で終わるような修理。一時間以上かかりそうな修理。紙に書かれた件数だけでは、今日が何時に終わるのか分からない。十枚置いてあるから十倍大変、という単純な話でもなかった。五分で終わるはずの修理が一時間になることもある。一時間覚悟した故障が、電源を入れ直しただけで直ることだってある。行った先で隣の機械のほうが図宇内な故障になっていることだってある。だから朝、机の上に手配書が何枚も積まれていると、絶望以外の感情があまりなかった。しかも、それで今日の仕事が確定したわけではない。9時になれば、また増える。定期保守の予定もあった。毎月、回らなければならない客先がある。ただし、よほど日時にうるさいところでなければ、一か月の中で自分で組んでいた。今日はこの辺へ行く。修理が少なければ、その近くの保守を一件入れる。そうやって帳尻を合わせる。一か月分の予定を完璧に作っても意味がなかった。突発修理が入れば崩れるからだ。むしろ、予定通りにいかない予定を、どう回すか。そこまで含めてCEの仕事だった。順番を決めるにも、いろいろある。近いか遠いか。急いでいる客か。少し待ってくれる客か。昼休みでないと機械を止められない会社か。FAXが止まると業務そのものが止まってしまう場所か。一度怒らせると面倒な客か。この症状なら短時間で終わりそうか。それまでの履歴はどうか。部品は基本的なものしかもっていない、必要な部品があれば取りに帰る。機種は何か。設置場所はどうだったか。若い頃は、故障内容を見るだけで精いっぱいだった。年数を重ねると、機械の故障以外の情報が増えていった。客の顔まで含めて予定を組むようになる。そして、あの日の16時。私はまだ外にいた。そろそろ事務所へ戻ろうかと思っていた。あるいは、「もう一件くらい保守へ寄っておくか」くらいだった。そこからポケベルが鳴った。当時もたされていたポケベルは文字表示もない。鳴れば会社。それだけだ。すぐに電話できる時もあれば、何件かまとまってから確認することもある。あの日は結果として、まとまった。十件近い。全部自分の担当。さすがに無理だと思った。でも、「十件あるので無理です」で終わる仕事ではない。ここから切り分ける。今日絶対に行かなければならないところ。軽そうなところ。電話だけで何とかできそうなところ。だましだまし使えるなら、明日まで待ってもらえそうなところ。そして、明日に回すしかないところ。故障を切り分けるのと同じだった。客にも電話する。「申し訳ありません、部品の手配が明日になります」そんな説明をすることもある。もちろん本当に部品が必要な場合もある。一方で、今日どうしても全部回れない時には、理由の作り方も必要だった。嘘をついていた、と言えばそうなのかもしれない。ただ、今日行けないから明日、では納得しない客もいる。機械がだましだまし使えるのなら、一晩だけ持ってもらう。そのための交渉も仕事だった。ここで効いてくるのが、普段の付き合いだった。担当者と世間話をする。少しくらい契約外でも、できる範囲ならやってあげる。電話線が抜けているだけでも行く。脂だらけになった外装を拭くようなこともある。今日はこちらが少し無理を聞く。別の日には向こうに少し待ってもらう。ギブ・アンド・テイク。CEは機械だけ保守していたわけではなかった。客との関係まで保守していた。それが、夕方の自分を助けることもあった。電話で直せるものもある。もちろん手前のコールセンターである程度はやってくれている。とはいえ、その顧客を一番しているのは担当者だ。設置場所、環境、お客の特性など履歴や数字で見えない部分も大きい。「一度、電源を切ってください」「このカバーを開けてもらえますか」「紙、残っていませんか」症状を聞けば、これなら詰まっている紙を取るだけで復旧しそうだ、という見当がつく。ただし、これも客との関係次第だ。こちらの言う通りに触ってくれる人もいれば、「そんなことはそっちが来てやれ」という人もいる。故障内容が軽いから、客も軽く考えてくれるとは限らない。逆もある。かなり重い故障なのに、「明日でいいよ」と言ってくれる担当者もいた。十七年やって分かった。機械の重症度と、人間の怒りは比例しない。あの日の十件は、幸い重い故障ばかりではなかった。数件は翌日に回した。残りはほとんどこなしたと思う。最後の現場を出たのは、20時くらいだった。もう暗かった。ビジネス街では、仕事を終えた人が駅へ向かっていた。昼間とは人の流れが逆になっている。みんな帰る。私は自転車だった。後ろには工具かばんを括り付けている。当時の会社の自転車は、業務用のやたら重いやつだった。事務職や製造ならば残業すればいい。だが、CEの仕事はいつまでもお客が待ってくれるわけではない。常に時間との闘いだ。納品や代替機があれば、その上にさらに載せる。雨ならゴミ袋をかぶせる。坂道もある。一時期は、競輪選手みたいな太ももになっていた。自慢するようなことでもない。FAXを直していたら、脚だけそうなった。昼飯も、その日による。最初の頃は、暗黙の了解で昼に一度事務所へ戻って食べる感じだった。担当エリアが広くなってからは、それも難しくなった。店で食べる日もある。コンビニの日もある。立ち食いもある。抜く日もある。誰かに、「昼飯を食うな」と言われたわけではない。ただ、食べている時間に一件終わらせれば、夕方が少し楽になる。そう思ってしまう。だから自分で食べなくなる。昼休みとか休憩時間みたいなものはあってないようなもの。この辺りは営業などと変わらないが、時間を自分で捻出する。ある意味自由にできるが、すべては自分次第。そこに突発のことを加味する。修理が0ということだってある。その場合は定期保守を、一日にある程度は回らないと日報も埋まらないし、一か月のスケジュールもこなせない。あの頃の仕事には、そういうところがあった。18時を過ぎると、当時は夜間勤務の領域になった。うちの会社は、まだ夜勤をやっていなかった。だから新しいポケベルが鳴る心配は、基本的にはなくなる。18時までに積み上がったものを、あとは片づけていく。20時ごろに最後の現場を出た。事務所へ戻る。残っていたのは、一番上の人くらいだった。一応、上司だから残っていたのだろう。その日は、日報もそこそこにして帰ったと思う。残業代?よく分からない。数百円くらい付いていたような気がする。今なら、「それ、おかしくないか」と思う。当時の私は、明日の手配のほうが気になっていた。そして翌朝。また8時前に会社へ行った。あの日は、もっと早かったかもしれない。机の上を見る。手配書を見る。今日の保守を考える。部品を準備する。また一日が始まる。特別な一日だったわけではない。だからこそ、今になって書いておきたいと思う。FAX修理CEという仕事は、ドライバーを持って機械を直す仕事だった。それは間違っていない。でも、それだけでもなかった。崩れた予定を組み直す。客をなだめる。順番を変える。電話で直す。明日まで待ってもらう。雨の中を走る。飯を後回しにする。そして、また次へ行く。考えてみれば、あの頃、私たちは一日の故障まで直していた。完全に直る日は、たぶんなかったけれど。今の私は五十代になった。昔ほど自転車を飛ばす脚はない。ポケベルも鳴らない。机の上に手配書が十枚置かれることもない。それでも、何か起きると頭の中で勝手に切り分けを始める。まず何が起きた。今日やるべきことは何だ。明日でもいいものは何だ。誰に連絡する。どこまで自分でできる。十七年繰り返した癖は、そう簡単には抜けないらしい。機械を直していた時間は終わった。でも、あの仕事で作られた部分は、まだ自分の中で動いている。だから、もう少し残してみようと思う。誰にも記録されなかった、あの頃の現場を。引継事項午後4時。「今日はそろそろ終わりかな」そう思ったところから、あと十件。それでも、呼ばれれば行った。これが、FAX修理CEだった頃の私の日常だった。✨✨スキやフォローをいただけると、誰にも記録されなかった仕事を、もう少し掘り起こす励みになります✨✨CE EP|呼ばれれば、行った。元FAX修理CEとして17年間現場を走った記憶を、超不定期で残しています。EP.01では、銀行の客先で手のひら大のギアをなくした日のことを書きました。今回のEP.02は、その一件一件の背後にあった「一日の回し方」の話です。次がいつになるかは分かりません。思い出したら、また工具かばんを開けます。『介護という旅の途中で』『ロスジェネ脱線学』『一瞬永遠』『笑いの臨界点』も更新しています。最後にひとつ。あなたにも「今日はもう終わる」と思ったところから始まった仕事はありますか。コメントに置いていってください。その一つ一つが、消えていった仕事の記録になると思っています。
2026.09.20
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最後だったことは、あとになってからしかわからない|52歳私は17年、FAX修理の仕事をしていた。修理には、ちゃんと終わりがあった。故障の原因を探す。必要なら部品を替える。動作を確認する。工具をカバンに戻す。直った。一件、終わり。難しい修理でも、最後はわかる。ところが人生は、どうもそうではないらしい。17年続けた仕事にも、当然「最後の一件」があった。最後にFAXのカバーを開けた日も、最後に工具をしまった日も、最後に客先を出た瞬間も、どこかに確かにあった。でも私は、そのとき、「これが最後だ」とは思っていなかった。ただ仕事を終えて、次のことを考えていたはずだ。人生の最後というのは、案外そういう顔をしている。最後は、普通の日の中に混じっている考えてみれば、仕事だけではない。昔なら当たり前に会っていた人。何度も通った場所。家族が同じ時間に同じ部屋にいた夜。くだらない話をして笑った時間。それぞれに最後がある。でも、その日は記念日にはならない。写真も撮らない。別れの言葉もない。「じゃあ、また」くらいの感じで終わる。そして何年かしてから、そういえば、あれから一度もやっていないな。と気づく。最後というものは、もっと大げさなものだと思っていた。きちんと別れがあって、少しくらい立ち止まって、それから次へ進むものだと思っていた。実際には、日常の中へ紛れ込んだまま消えていくものの方が多い。できなくなる前に、やらなくなっている52歳になって、少しわかってきた。人生には、できなくなったから終わったことだけではなく、いつの間にか、やらなくなっていたことがずいぶんある。毎日のように会った人と会わなくなる。よく歩いた道を歩かなくなる。いつもやっていたことを、いつの間にかやらなくなる。誰かが、「今日で最後です」と決めたわけではない。少しずつ間が空いて、そのまま戻らなかっただけだ。若いころの私は、そんなことをほとんど気にしていなかった。終わったものを見るより、次に始まるものを見ていた。たぶん、それでよかったのだと思う。二十代のころから、いちいち最後を気にしていたら疲れてしまう。でも52歳になると、これから始まるものと、もう戻ってこないものが、同じ人生の中にあることが見えてくる。少し不思議な感じがする。毎日を大切に、なんて無理だと思うだからといって、「一日一日を大切に生きよう」なんてことを私は言うつもりはない。そんなに立派には生きられない。腹が立つ日はある。疲れて何もしたくない夜もある。家族に面倒だと思うこともあるし、明日でいいやと放っておくこともある。いつもの日は、やっぱりいつもの日だ。毎朝、「今日という日は二度と来ない」なんて考えていたら、それこそ息が詰まる。ただ最近、ほんの少しだけ見方が変わった。今日の中にも、何年か先の自分が振り返ったとき、「あれが最後だったのか」と思う何かが混じっているのかもしれない。それが何なのかは、今はわからない。電話を切る前の一言かもしれない。玄関で誰かを見送った数秒かもしれない。いつもの食卓かもしれない。もう何十年も歩いている道かもしれない。わからない。たぶん、わからないままでいいのだ。人生には、完了の確認がない修理の仕事なら、直ったかどうかを確認できた。動作を見て、道具をしまって、一件を終わらせることができた。人生には、それがない。「これは最後でした」という印もつかない。だから私たちは、普通に次の日が来るつもりで生きている。それでいいのだと思う。それでも52歳になった今、何でもない今日を、何でもないままでいいから、少しだけよく見ておこうと思う。大切にしなければ、と身構えるほどではない。ただ、見ておく。いつもの顔。いつもの声。いつもの道。いつもの部屋。未来の私がいつか、「あれが最後だった」と気づいたとき、そこに何があったのかくらいは、少し覚えていたい。修理には完了がある。人生には、その合図がないのだから。読んでいただき、ありがとうございました。今日もたぶん、何でもない一日です。だから私は、少しだけよく見ておこうと思います。みなさんにも、あとになって「あれが最後だったのか」と気づいた、何でもない日の記憶はありますか。思い出したことがあれば、ひと言でもコメントを残してもらえたらうれしいです。✨✨スキやフォロー✨✨をいただけると、直せない日々を言葉で保守していく励みになります🪄✨✨✨
2026.09.19
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秋が来るたびに、少しだけ静かになる|52歳、夏が終わった朝にテキスト未選択のときにタブキーでメニューボタンへ移動できます秋の入り口は、静かに来る気づいたら、風が変わっていた。今年も夏が終わる。52歳になって、この「今年も」に少しだけ重さを感じるようになった。劇的な瞬間があったわけではない。朝、窓を開けた時の空気がどこか違う。蝉の声が遠くなっている。夕方の光が少し斜めになった。夏があれだけ暑く、あれだけ長く居座っていたのに、去り際だけは妙に静かだ。夏が好きだった。今も好きだ。だが毎年この時期になると、夏の終わりより先に、自分のことを少し考えてしまう。季節が変わっただけだ。カレンダーが一枚めくれただけだ。それなのに秋の入り口というのは、こちらの内側まで少し変えてくる。52歳の秋は、夏とは少し違う重さで来る。今年の夏も、気づけば終わっていた今年の夏を振り返ると、まず思い出すのは父のことだ。体調が揺れた。投薬の調整があった。訪問医療と大学病院のあいだで、小さな判断を何度も重ねた。母の認知症も、夏の暑さで少し不安定になった。デイサービスの送り出しに手を焼いた朝も何度かあった。妻も疲れていた。娘も自分のことで精いっぱいだった。そういう夏だった。海へは行かなかった。どこかへ旅行したわけでもない。家キャンと小高い丘と、近所のウォーキング。今年の夏の外出は、だいたいそんなところだ。豪華ではない。でも、あれはあれで今年の夏だった。ちゃんと暑かったし、ちゃんと疲れた。それで十分だと思っている。ただ、そういう夏が終わった時に、毎年少しだけ残るものがある。「今年も終わったな」ではない。「今年も終わってしまったな」後ろについた、この「しまった」に、少しだけ重さがある。52歳になると、季節の数え方が変わる20代の頃、秋が来てもこんなことは考えなかった。また来年もある。来年の夏はもっと何かしよう。たぶん、それくらいだった。30代でも、まだ似たようなものだったと思う。40代の半ばあたりからだろうか。「来年もある」という当たり前の感覚に、ほんの少しだけ疑問符がつき始めた。そして52歳の今。秋になると、季節の受け取り方が変わってきた。あと何回、この夏の終わりの風を感じるのだろう。あと何回、この秋の入り口の空気を吸えるのだろう。数えたところで増えない。そんなことはわかっている。わかっているのに、考えてしまう。これは悲観ではない。怖いわけでもない。ただ、時間が有限だということが、50代になると理屈ではなく感覚として入ってくる。FAX修理の現場にいた頃、古い機械というのは少しずつ変わっていくものだった。人間も、どこか似ているのかもしれない。52歳になった今は、自分の中にある小さな変化にも、以前より気づくようになった。秋は、そんなことまで考えてしまう季節だ。それでも秋には、秋の良さがある暗い話をしたいわけではない。秋が来ると、少し食欲が戻る。夏の暑さで落ちていた気力も、少しだけ戻ってくる。朝のウォーキングは、夏より気持ちいい。空気が澄んでいて、遠くまで見える日も増える。うちの家キャンも、秋の方がいい。夏のランタンも好きだが、秋の夜の空気の中で飲むコーヒーは格別だ。涼しくなった縁側で、少しだけ遠くを眺める。介護の用事がひとしきり終わって、父も母も落ち着いた夜の、ほんの少しの時間。その静けさは、夏には出せない質感がある。秋は、生活を少し丁寧に見直したくなる季節でもある。夏は正直、余裕がない。暑さと介護の段取りと仕事と身体の管理で、どこかしら雑になっている。秋になると、ようやく少しだけ立ち止まって、周りを見渡せる気がする。何をもう少し丁寧にやれるか。何を今年中にやっておきたいか。そんなことを考えるのに、秋はちょうどいい。今日の分を使えばいい数えてしまう、と書いた。だが、数えたところで増えないのは本当だ。だから最終的にはいつも、同じところへ戻ってくる。今日の分を使えばいい。今年の秋を、今年の秋として受け取ればいい。父の様子を見て、母を気にして、仕事をこなして、合間に地図を眺めて、夜に少しだけ外の空気を吸う。そういう秋が、今年の私の秋だ。豪華ではない。特別でもない。でも、これが今年の秋として、自分の中に残っていく。来年の秋がどうなるかは、今の私にはわからない。父の状態も、母の状態も、一年後どうなっているかは誰にもわからない。家族の状況も、自分の身体も、今のままとは限らない。だからこそ、今年の秋だけは確かにある。秋が来るたびに、少しだけ静かになる。それは悲しいからではない。今年の分が、ちゃんとここにあると気づくからだと思う。今夜も少し、外を眺めてみようと思う。夏とは違う風が来る。空の色も少し違う。それだけで、今日は今日の分の秋がある。明日の秋は、明日また確かめればいい。✨✨ここまで読んでくださって、ありがとうございます。みなさんの秋は、どんな感じで始まりましたか✨✨50代になって、季節の受け取り方が変わったと感じる方がいれば、コメントで聞かせてもらえたらうれしいです。
2026.09.18
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怒りの前で、期待が紙詰まりを起こしている|50代|介護画像怒る前に、人は何かを待っている夜の台所で、湯気の消えた味噌汁を見ていると、ふと思うことがある。人は、いきなり怒っているわけではない。怒る前に、たいてい何かを待っている。こうしてくれるはず。わかってくれるはず。ここまでやれば、少しは伝わるはず。その「はず」が外れた時、人は急に感情の温度を上げる。怒りというより、期待していたものが返ってこなかった時の、あの胸の中の引っかかりである。「すぐに感情的になる人」と「いつも穏やかな人」の違いは、単に性格が丸いとか、我慢強いとか、そういう話だけではない気がする。期待は、いつの間にか契約書になる怒りやすい人は、期待を自分の中でかなり固めている。これだけやったのだから、こう返ってくるだろう。ここまで言えば、わかるだろう。普通なら、このくらい察するだろう。その期待が、いつの間にか自分の中で契約書みたいになっている。けれど相手は、その契約書に署名も押印もしていない。こちらの頭の中では成立しているが、相手の机にはまだ届いていない。そこに現実が違う返事を持ってくるから、「話が違うじゃないか」と腹が立つ。ただ、少し冷静になってみると、話を決めていたのは自分の中だけだった、ということがある。これは耳が痛い。自分にも覚えがある。仕事でも、家庭でも、介護でも、期待は知らないうちに積み上がる。ここまでやったのだから、少しは見てくれるだろう。これだけ我慢したのだから、誰か気づいてくれるだろう。この年齢まで働いてきたのだから、もう少し報われてもいいだろう。そう思わずに生きるのは、なかなか難しい。ロスジェネ氷河期の胸には、古い「はず」が残っている特にロスジェネ氷河期の世代は、最初の入口からずいぶん期待値を削られてきた。まじめに働けば安定する、会社に入れば少しずつ暮らしが上向く、年齢を重ねればそれなりの場所に立てる。そういう昭和の残り香みたいな約束が、平成の途中でだいぶ薄まっていった。それでも身体のどこかには、まだ残っている。ちゃんとやれば、見てくれる人がいるはず。踏ん張れば、いつか順番が回ってくるはず。黙って耐えていれば、誰かがわかってくれるはず。そういう古い期待の残りかすが、胸の奥で湿った紙みたいに残っている。だから怒りは、単なる短気ではない。期待が紙詰まりを起こした音でもある。紙詰まりは、原因を混ぜると直らないFAX機を直していた頃、紙詰まりの現場で、いきなり機械を責めても仕方がなかった。カバーを開けて、紙の止まっている場所を見る。給紙の段階でつまずいたのか、搬送の途中で斜めに入ったのか、排紙口の手前で力尽きたのか。紙そのものが湿気を吸っていた日もあれば、ローラーの表面が少し滑っていただけの日もあった。症状としては、どれも「紙が詰まった」で済んでしまう。けれど現場では、そこを一緒くたにすると直せない。悪いのは機械なのか、紙なのか、環境なのか、それとも使い方なのか。ひとつずつ見ていかないと、まだ生きている部分まで壊れたことにしてしまう。感情も、たぶん似ている。怒りが出た時に、いきなり「自分はダメだ」とか「相手が悪い」と決めつけると、そこから先の切り分けができなくなる。まず見るのは、どこで期待が止まったのかだ。自分が勝手に期待していたのか。相手に伝えていなかったのか。伝えたつもりでも、相手の受け取る条件が整っていなかったのか。そもそも、その場の環境が悪かったのか。こちらの出し方に、少し無理があったのか。穏やかな人は、期待を確定させない穏やかな人というのは、感情がない人ではないと思う。腹が立つこともあるし、がっかりすることもある。ただ、期待を確定事項として持っていない。「こうなればいい」とは思う。けれど、それが外れることも、最初から少しだけ計算に入れている。だから現実が違う返事をしてきても、自分の人格ごと否定されたようには受け取らない。ああ、この条件では通らなかったか。相手のタイミングが悪かったか。こちらの出し方が早すぎたか。今回は、そこまで届かなかったか。そのくらいの距離で見る。これは冷たいのではない。自分を壊さないための生活技術だ。期待を全部捨てる必要はない。そんなことをしたら、人間の暮らしはずいぶん味気なくなる。家族に少しはわかってほしい。仕事で認められたい。書いたものが誰かに届いてほしい。介護のしんどさを、ひと言でいいから受け止めてほしい。そういう気持ちまで捨てたら、台所の灯りまで消えてしまう。期待は捨てず、握りしめすぎないただ、その期待を相手に突きつける時、契約書にしてしまうと苦しくなる。自分の中では「当然」になっていても、相手にとっては初めて見る紙かもしれない。こちらは何度も考えて、何度も飲み込んで、ようやく出したつもりでも、相手はそこまでの工程を知らない。そこにズレが生まれる。若い頃は、そのズレにすぐ腹を立てる体力があった。徹夜明けでも怒れたし、納得できないことに噛みつく力も残っていた。腹を立てたあとも、寝れば何とか戻った。50代になると、怒ったあとの回復に時間がかかる。血圧も気になる。腰も痛い。親のこと、家のこと、仕事のこと、自分の老後のことまで、全部を抱えながら怒り続けるのは、かなり燃費が悪い。画像怒るな、ではなく、出力を遅らせる怒るな、という話ではない。怒らなければならない場面はある。黙っていたら押し流されることもあるし、こちらが壊れる前に言わなければならないこともある。穏やかでいることと、何でも飲み込むことは違う。ただ、怒る前に少しだけ見たい。これは本当に怒る案件なのか。それとも、自分の中の「はず」が破れただけなのか。そこを見られると、感情は少しだけ遅れてやってくる。遅れてくれれば、こちらにも手を入れる時間ができる。怒りを消すのではなく、いきなり出力させない。そこに、人間の保守がある。穏やかな人は、期待の置き場所を知っている人なのだと思う。胸の真ん中に置きすぎない。相手の返事に全部預けない。現実が違う出力を返してきても、自分の人生そのものが否定されたわけではないと知っている。こちらの期待が外れただけの日もある。相手の都合が悪かっただけの日もある。環境が湿気を吸っていただけの日もある。そう思えるだけで、怒りの熱は少し下がる。今日も、どこかで期待を点検する今日も何かに期待して、何かに外されて、それでも晩飯を食べて、洗面所で歯を磨く。そうやって人は、何とか暮らしている。期待は持っていい。ただ、握りしめすぎない。握りしめた期待は、いつか怒りになる。作業台の端に置いた期待は、明日の見立てになる。介護と仕事のあいだで、直せない日々を言葉で保守する。そのためにも、怒りの前にある「はず」を、時々点検しておきたい。壊れたと決める前に、どこで詰まったのかを見る。まだ動いている部分を、こちらの怒りで壊してしまわないために。穏やかでいるとは、何も感じないことではない。期待の紙詰まりを、少し早めに見つけられることだ。
2026.09.17
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note7年、連続投稿800日。私が書き続けられた理由は、文章術ではなかった|50代noteを書き始めて、丸7年を超えた。7年書いても、毎日の始まりはたいして変わらないその7年間ずっと熱心に書いていたわけではない。今のように力を入れるようになったのは、ここ2年ちょっとのことだ。それでも連続投稿は800日に達した。800日。節目の時に毎回言っているが自分で数字にしてみると、よく書いたものだと思う。これだけ毎日書いていると、ときどき「よくそんなに書くことがありますね」と言われる。どうやってネタを探しているのか、どうやって毎日記事を作っているのか。そんなことを聞かれることもある。せっかくなので、一度ちゃんと書いてみようと思った。ただ、最初に答えを言ってしまうと、今の私は毎日の記事のアイデアを必死に考えているわけではない。むしろ、考えてひねり出すことを以前ほどしなくなった。そこへたどり着くまでに、7年かかった。最初は地震のことを書いていた私がnoteを始めた頃、今のような記事を書くとはまったく思っていなかった。当時は地震への関心が強く、強震モニタを日常的によく見ていた。地震の揺れをリアルタイムに近い形で見られるあの画面が好きで、強震モニタのことや地震への備えを発信してみたいと思ったのが、noteを始めた最初のきっかけだった。今から考えれば、ずいぶん違うところから始まっている。書き方も分からない。自分が何者なのかも分からない。ただ、興味のあることを書いて公開する。当然というべきか、ほとんど読まれなかった。書いて、しばらく離れて、また思い出したように書く。そんな時期も長かった。そのうち、昔のことを書くようになった。若い頃のこと。仕事のこと。自分が歩いてきた時代のこと。この頃もフォロワーはほとんどいなかったが、少人数ながら反応をくださる方がいた。なぜか同世代の人が多かった。そこから少しずつ、自分がロスジェネ、就職氷河期を通ってきた世代なのだという視点が文章に入るようになった。別に最初から「50代向けに発信しよう」と戦略を立てていたわけではない。自分のことを書いていたら、同じ時代を通ってきた人が「分かる」と言ってくれた。たぶん、始まりはそのくらいだった。読者を意識し始めて、あえて逆へ行った3年ほど前から投稿する回数が増え、その後、連続投稿も始まった。ここでようやく私は、ただ文章を書く人ではなく、「読んでくれる人がいる場所で書いている」ということをかなり意識するようになった。どういうタイトルなら読まれるのか。どんな構成なら最後まで読みやすいのか。サムネイルはどう作れば目に留まるのか。そういうことも考えた。今はnoteを見れば、受け入れられやすい形はある程度分かる。タイトルの付け方にも傾向があるし、文章の組み立て方にも定番がある。見出し画像だって、同じような雰囲気のものをよく見かける。たぶん、それを素直にやる方が効率はいい。ところが私は、どうもそれが苦手だった。昔から、人と同じことをするのがあまり好きではない。性格が少しひねくれているのかもしれない。だから文章も、サムネイルも、自分なりの方向へ持っていくことにした。その頃から、今では私の分身のようになった「赤マントの男」も作り始めた。最初から今の姿だったわけではない。何度も試して、違うなと思えば変え、少しずつ今の赤マントになった。50代のおっさんが赤いマントを背負っている。冷静に考えれば、なかなか妙な光景である。でも今では、あの赤マントが立っているだけで「EX-FAX-CEだ」と分かってもらえることがある。そういうものは、誰かの正解を借りていても、たぶん生まれなかった。介護が始まり、書き方も変わった連続投稿が半年を過ぎた頃から、記事は今の形にかなり近づいてきた。その頃には介護も生活の中で大きな割合を占めていた。毎日決まった時間に机へ座って、今日は何を書こうかとゆっくり考える。そんな暮らしではない。父のことがある。認知症の母のこともある。仕事もある。予定通りにいかない日の方が多い。それでも毎日書くなら、ある程度は戻ってこられる場所を作っておいた方がいいと思った。そこで曜日ごとに、だいたいのテーマを決めた。月曜日は「一瞬永遠」。火曜日は「ロスジェネ脱線学」。水曜日は「笑いの臨界点」。木曜から日曜はロスジェネ氷河期的な視点を中心に書く。当時の私にとって、この曜日分けは記事を量産するための仕組みというより、介護で頭がいっぱいになった日でも「今日はここへ戻ればいい」と思える場所だった。重い介護の記事が続いたあと、水曜日にはくだらないことで笑ってみる。昔のことを思い出す日があれば、何でもない一瞬を拾う日もある。同じ人間が書いているのだから、テーマが違ってもどこかでつながる。その頃からマガジンも増えていき、自分のことを「note執筆家」と呼ぶようになった。大げさな肩書きなのかもしれない。でも、毎日これだけ書いているのだから、それくらい名乗ってもいいだろうと思った。気がつけば、題材の後ろにいつも自分がいた介護の記事も増えた。認知症の母のことを書く。父の病院のことを書く。自分が介護で腹を立てた日も書く。最初は「介護について書いている」と思っていた。でも、長く続けているうちに少し違うことに気づいた。私が書いていたのは、介護そのものだけではなかった。介護しているときの私だった。FAX修理の昔話を書くときも同じだった。17年間のCE時代を紹介したいだけではない。機械を直していた頃の自分を思い出しながら、今の自分が何を感じているのかを書いている。ロスジェネもそうだ。就職氷河期という時代を解説したいわけではない。その時代を通ってきた自分が、50代になった今でも何を引きずり、何に笑い、何を諦めきれないのかを書いている。身体の衰えも、スーパーの値上げも、昔の車も、たい焼き一つで少し機嫌がよくなることも、結局は全部そこへ戻ってくる。私自身だ。少し前に、自分のnoteを「人生劇場」と書いた。あれは新しい企画を思いついたわけではない。7年書いてきたものを後ろから眺めたら、そう見えた。介護、仕事、ロスジェネ、身体、家族、昔の記憶、しょうもない失敗。それぞれ別の棚に置いていたものが、実は全部一人の人間の中で起きていた。ただそれだけだった。アイデアは、考えるのをやめてから増えたでは、毎日の記事のアイデアをどう出しているのか。今の私の答えは、かなり単純だ。日常を見る。それだけである。母がまた同じことを聞いた。父が朝から機嫌が悪い。病院の待ち時間が長かった。血圧計の数字を見て少し嫌な気分になった。スーパーで値段を見て商品を戻した。昔使っていたFAXのことを急に思い出した。日曜の夜に、なぜか人生の残り時間を考えた。一つひとつは、記事にするほどの出来事ではないのかもしれない。昔の私なら、そう思ったはずだ。でも今は、その「記事にするほどでもないこと」の方が面白いと思っている。そこに、その日の自分がいるからだ。無理にネタを考えて、「最近こういう記事が流行っているから書いてみよう」とやると、少なくとも私の場合はどこか借り物になる。タイトルも同じだ。検索されることだけを考えるなら、もっと効率のいい付け方はあるだろう。もちろん、読んでもらうための工夫はする。ただ、最後のところで「これは自分のタイトルか」と考える。そこが違えば、やめる。毎日書くようになって、文章が上手くなったかどうかは自分では分からない。ただ、「これは自分の文章ではない」という違和感には、以前より気づくようになった。800日で身についたものがあるとすれば、案外そちらなのかもしれない。50年以上生きてきた。それだけでもう、かなりの量がある私はもう50代だ。同世代の人と話していると、本当にいろいろな人生があると思う。就職氷河期の真ん中を通った人もいる。会社で何十年も踏ん張った人もいれば、途中で仕事を変えた人もいる。子育てをしてきた人、親の介護が始まった人、自分の身体に今までとは違うものを感じ始めた人もいる。予定通りだった人ばかりではないだろう。少なくとも私は、若い頃に考えていた52歳とはずいぶん違うところにいる。それでも、ここまで生きてきた。失敗したことも、恥ずかしいことも、どうにもならなかったこともかなりある。以前なら、そんなものをわざわざ人に見せる必要はないと思っていた。今は少し違う。そこにこそ、同じ時代を通ってきた誰かが反応してくれることがある。「ああ、自分だけじゃなかったのか」私自身、誰かの文章を読んでそう思ったことが何度もある。だから今度は、私が差し出す側になればいい。立派な答えは持っていない。介護だって現在進行形だし、仕事も人生後半もまだ途中だ。自分の身体ですら、最近は思うようにならない。そんな人間が、今日も何とかやっている。それを見てもらう。私が今、noteでやりたいことは、たぶんそこまで来た。明日の記事は、まだ決めていないここまで「私のnoteの書き方」を書いてきたのに、最後にこんなことを言うのも変だが、明日何を書くかはまだ決めていない。何か起きるかもしれない。何も起きないかもしれない。でも、何も起きなかった日には、何も起きなかった52歳の一日が残る。今の私は、それも書ける気がしている。7年前、強震モニタのことを書こうと思って始めたnoteが、こんなところまで来るとは思わなかった。赤マントの男もいなかった。介護も今のようには始まっていなかった。自分を「note執筆家」と呼ぶ日が来るとも思わなかった。今はさらにすすみ「人生劇場」としている。そして800日以上、毎日自分の何かを差し出すことになるとも思っていなかった。人生は、こちらが決めたテーマどおりには進まない。だから書くものがなくならないのかもしれない。50年以上も生きていれば、人生のあちこちに書き残していない場面がまだ山ほどある。これからも、そこを拾っていく。上手にまとめられない日は、上手にまとめなくてもいい。笑える日は笑うし、しんどい日はしんどいまま書く。同じ時代を生きている誰かが、ときどき客席のどこかで「俺もそうだよ」と思ってくれたら、それで十分うれしい。そして明日もたぶん、私はまたnoteを開く。何を書くかは、そのときの私に聞くことにする。また明日も私の人生劇場を見に来てくれたら、これ以上に嬉しいことはない。
2026.09.16
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ロスジェネ脱線学 #48 漢字だけ手前で止まる午後午後、封筒に住所を書いていた。久しぶりに、手書きである。郵便番号を書く。番地を書く。そこまでは何とかなる。問題は、建物名の漢字だった。見たことはある。読める。スマホでなら一発で出る。なのに、手が止まる。この字、右側はどうなっていたか。点はいるのか。横棒は一本だったか二本だったか。私はペンを持ったまま、封筒の上で少し固まった。五十代になると、読める字と書ける字の距離が広がる。頭の中にはある。でも、手まで降りてこない。昔は、書くことがもっと多かった。伝票、メモ、作業報告、客先名。FAX修理の現場でも、字はそれなりに働いていた。今はスマホが変換してくれる。便利である。便利なのだが、手の中の漢字だけが少し退職していく。結局、スマホで調べた。負けたわけではない。確認である。そう自分に言い聞かせながら、画面を見て封筒に書き写す。書けた字は、少しぎこちない。でも、読める。それで十分かもしれない。人生も、覚えているつもりのものが、いざ手を動かすと出てこないことがある。知っていることと、できることの間には、案外すき間がある。そのすき間を、今はスマホで埋めている。少し情けない。でも、空白のまま出すよりはいい。封筒の宛名を書き終えて、ペンを置いた。たった一文字で、午後が少し疲れた。それでも、字はどうにか届く形になった。私もまあ、多少ぎこちなくても、まだ届けばいい。
2026.09.15
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一瞬永遠 第52幕 置いたはずの眼鏡眼鏡がないさっきまでここにあったはずなのに机の上鞄の中新聞の横ひとつずつ目で追っていく見えないから探しているのに探すためには少し見えなければならない妙な話だと思う昔ならこんなことはなかった気がするいや忘れているだけかもしれない五十代になると「昔は」という言葉も少し怪しくなる置いた場所を忘れる人の名前がすぐに出てこない何をしに立ち上がったのか途中でわからなくなることもあるそれでも暮らしは続く忘れながら探しながら思い出せないまま先へ進むふと見ると眼鏡は本の上にあったすぐ近くだった手を伸ばしかけ直すぼやけていた部屋が少しだけ戻ってくる何も変わっていないただ見えるようになっただけけれど見えなかった数分のあとではいつもの景色が少し違って見えたなくしたと思ったものがまだそこにあるそんなことだけで安心する日もある私は眼鏡の位置を直しさっきまで探していたことをもう忘れかけながらまた今日の続きを始めた
2026.09.14
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最近のうちは、こんな感じだ。|50代、家族それぞれの現在地最近のうちは、誰か一人が大変という感じではない。父の問題がある。娘は二学期が始まり、妻もまだ体調が安定したわけではない。私も今年から血圧の薬を飲むようになった。それでも朝は来る。ご飯を出して、薬を確認して、デイサービスの日なら母を送り出す。妻と娘はそれぞれの場所へ行き、父はいつもの部屋にいる。そんな毎日を、なんとか回している。母を「ジム」へ送り出す朝認知症の母は、相変わらずデイサービスへ行くのを嫌がる。そこで最近は「デイサービス」という言葉をあまり使わなくなった。「今日はジムの日だよ」そう言っている。これも使い始めて半年位にはなっていて、さすがに覚え始めてはいる。別に騙しているつもりはない。実際に身体を動かすこともあるし、「デイサービスへ行く」より「ジムへ行く」の方が、母の心理的な抵抗が少ないように見える。伝える時間にも少し工夫をしている。あまり早く言うと、そこから延々と「行きたくない」が始まるので、基本的には出発の一時間ほど前。それから朝食、着替え、トイレと、なるべく考える隙間を作らないように流れを作っていく。母が持っていきたがるものも、先に玄関へ用意しておく。本来なら、ほとんど何も持っていく必要はない。それでも本人は財布も携帯電話も持っていきたい。そこを全部取り上げれば、それだけでひと悶着になる。財布には千円札を一枚。携帯電話、ティッシュ、ハンカチ、マスク。それらを先に揃えておくと、自分で準備したような安心感もあるのか、比較的すんなり進むことが多い。朝の会話も、なるべく否定から入らない。「そうだね」「そうかもしれないね」と一度受けてから、別の話へ持っていく。毎回うまくいくわけではないが、正論で説得しようとしていた頃よりはずいぶん楽になった。認知症の母にこちらの都合を理解してもらおうとするより、こちらが少し道を作っておく。最近は、その方が早いと思っている。風呂場で起きていた、ちょっと困ったこと少し前まで、別の問題もあった。風呂場に、ときどき便が落ちていることがあった。大量ではない。おそらく本人も気づいていない程度のものだと思う。それでも衛生面を考えれば、そのままというわけにはいかない。母は一番風呂でないと気が済まない。昔から潔癖なところもある。ところが今は、自分自身のことには少しずつ気づけなくなっている。風呂場で何かあれば掃除をし、場合によっては湯船も張り直す。時間もかかるし、水道代だって余計にかかる。ならば風呂へ入る前にトイレへ行ってもらえばいい。理屈では簡単なのだが、認知症の介護は、その理屈どおりにはいかない。以前、何気なく「お風呂の前にトイレ行っておいて」と言ったことがある。すると母は怒った。「お風呂ですると思ってるのか!」そんなつもりで言ったわけではないのだが、こうなったら説明してもほとんど意味がない。そこで最近は、父の尿バッグを利用している。母が風呂へ入る直前くらいに、私が父の尿バッグの処理をしにトイレへ行く。そして母には「これ、すぐ終わるからちょっと待ってて」と声をかける。そうすると、不思議なことに母の方からトイレへ入ってくれることが多い。こちらから「行け」と言われるのは嫌でも、自分から行くのなら問題ないらしい。最近はこの作戦で、なんとか持ちこたえている。介護の工夫なんて、案外こんなものだ。立派な方法論があるわけではない。昨日失敗したから、今日は言い方を変えてみる。それで駄目なら、明日はタイミングをずらしてみる。毎日、小さな現場対応を繰り返している。そして毎日同じ方法が通用するわけではない、都度こちらも変化は必要だ。父の問題は、身体より気持ちの方へほぼ寝たきりに近い父は、最近、尿道カテーテルの詰まりが少し減っている。以前は突然詰まってしまい、緊急で訪問医療に来てもらうこともあった。今も週に一度は定期的に交換しているので、いつ何が起きるか分からない状況そのものは変わらない。クランベリージュースがいいという話を聞いてから飲ませている。実際にどこまで効果があるのかは私には分からない。たまたまかもしれないが、少なくとも最近は詰まりが減っているので、そのまま続けている。身体の方が少し落ち着いたぶん、最近はむしろ父の機嫌に手を焼くことが増えた。父はもともと短気だ。そこへ認知症の母が一日中近くにいる。同じことを聞く。話が通じない。父が何か言っても、母はまた同じことをする。認知症なのだから仕方がないと頭では分かっていても、父の場合は理解より先に怒りが出る。一度そのスイッチが入ると厄介で、数日間ずっと不機嫌なこともある。家族だけならまだしも、訪問介護の人にまでその空気を向けることがある。私は、それを見ているのがつらい。だから父が荒れ始めると、私の気遣いが一段上がる。機嫌が悪くても話しかける。反応が薄くても別の話題を振る。飲み物はどうか、暑くないか、何か食べたいものはないかと、普段より細かく見る。自分でも、ときどき何をしているのだろうと思う。親方の機嫌をうかがって走り回っている新弟子みたいなものだ。正直、ものすごく疲れる。それでも数日かければ戻ってくることが多いので、今はまだそれでいいと思っている。父の不機嫌を治しているというより、その不機嫌が家中へ広がらないように防波堤になっている感じなのかもしれない。そして肝心の身体の方は、やはり弱っては来ている。体重も落ちてきている、とはいえ元が多いので今だ80キロある。気持ちが悪い日が多く、食べれる量が減ってきている、そんな感じもある。先日やった胃カメラの方は問題はなかった。当日も本人は体調が思わしくなく、しかも雨も強かった日だったので私一人で聞きに行った。本人は自分が聞かなければ気が済まない性格。それでも行けなかったのは調子が悪かったという事でもある。余命1年の所をすでに3年。娘には、なるべく家の外を見ていてほしい娘は二学期が始まった。発達障害があり、支援学校へ通っている。17歳になった。文化祭の準備があり、生徒会では副会長としてやることもある。将来の就業へ向けた企業見学も始まっていて、本人なりにかなり忙しい。17歳といえば、ただでさえいろいろ考える年頃だ。できることなら家の中の介護まで背負わせたくない。ただ、現実にはどうしても頼らなければならないときがある。私も妻も動けず、家に誰もいなければ、少し手を貸してもらうしかない。今年の夏も、結局どこかへ連れて行くことはできなかった。介護があり、家のことがあり、仕事もある。気づけば夏休みが終わっていた。申し訳ないと思う。それでも娘は二学期になって、今のところ休まず学校へ行っている。朝、制服姿で出ていくのを見ると、それだけで少しほっとする。家の中には家の事情がある。それでも娘には、なるべくその外側にある自分の人生を見ていてほしいと思っている。妻には、頭が上がらない妻が手術をしてから、もうすぐ一年になる。一年経つから元通り、というわけにはいかない。今でも体調の悪い日は多いし、通院も続いている。それでも仕事へ行き、家事をして、娘のことも見て、そのうえ介護にも付き合っている。私にはなかなかできないことを、普通の顔をしてやっている。だから頭が上がらない。無理をすれば身体に出ることも分かっているので、なるべく私が動けることは先にやるようにしている。洗えるものがあれば洗う。片づけられるなら片づける。気づいたことは、言われる前にやる。ただ、私は昔から感謝を口にするのが得意ではない。行動で分かるだろうと思ってしまう。これはたぶん、あまりよくない。「ありがとう」と言えば数秒で済むものを、わざわざ黙って動いて伝えようとする。自分でも面倒な男だと思う。たぶん本当は、もっとちゃんと言葉にした方がいい。この文章を書きながら、そんなことを思っている。そして私も、少しずつ古くなっている自分の疲れについては、あまり考えないようにしている。疲れていても身体は動く。調子が悪いのも、ここ数年はほとんど通常運転だ。その状態でどうやって一日を回すかを考える方が、私には合っている。ただ、年齢だけはごまかしてくれない。今年は自分の身体のメンテナンスをかなりやった。歯から始まり、胃カメラ、大腸カメラ、血液検査。ついには高血圧の治療も始めた。元FAX修理のCEとしては、予防保守みたいなものだと思っている。壊れてからでは遅い。もっとも、人間には交換部品が簡単に出てくるわけではないので、機械よりずっと面倒なのだが。時間がないのは確かだ。だからといって「時間がないから仕方ない」で全部終わらせたくはない。自分だけの時間なんて、そう多くは取れない。それを嘆いても、今のところ一日は24時間のままだ。ならば、その中で楽しめるものを作ればいい。家キャンをしたり、地図を眺めたり、ほんの少し空いた時間に自分の好きなものを見る。それだけでも、意外と気分は変わる。もちろん、もっとやりたいことはある。かなりある。行きたい場所もあるし、やってみたいことも残っている。でも今は、それを全部できないことを嘆くより、「そのうちやるもの」として残しておくことにしている。楽しみは、先に残っていてもいい。いつか今より時間ができたとき、「さて、何からやろうか」と迷えるくらい残っている方が、私には都合がいい。最近のうちは、こんな感じだこうして書いてみると、なかなか盛りだくさんである。母をどうやって気分よく送り出すか考え、父の尿バッグを処理し、不機嫌になれば話し相手になる。娘の学校のことを気にし、妻の体調を見ながら、自分の血圧も測る。特別な一日ではない。最近は、だいたいこんな感じで回っている。以前なら、もっときちんとやらなければいけないと思っていた気がする。今は少し違う。母には母なりの満足があればいい。父の機嫌は全部引き受けなくてもいい。娘には自分の世界へ出ていってもらいたい。妻には無理をしてほしくない。そして私も、全部を完璧にやる必要はない。何か一つ抜けても、次の日に取り戻せばいい。毎日100点を取ろうとすれば、とっくに続かなくなっていたと思う。それでも不思議なもので、朝になるとまた身体は動く。母に声をかけ、父を見に行き、娘を送り出し、妻の様子を見る。その合間に仕事をして、noteを書いて、ときどき地図を眺めている。大きな夢を追いかけている感じではない。ただ、やりたいことはまだ残してある。今すぐできないものまで捨てる必要はないと思っている。いつか時間ができたらやればいい。その「いつか」が本当に来るかどうかは分からないけれど、楽しみにしている分には誰にも迷惑はかからない。最近のうちは、こんな感じだ。決して余裕があるわけではない。それでも今日も、なんとか回っている。回っているということは幸運なのだ!ラッキー!今日も生きてるぜ!!そんな感じで今日も回していく。同じ50代でも、抱えているものは人それぞれだと思います。親のこと、子どものこと、仕事、自分の身体。ひとつだけではなく、いくつも同時にやってくる時期でもあります。みなさんは今、何を抱えながら毎日を回していますか。全部を書く必要はありません。「うちも似たようなものだよ」くらいでも、コメントを残してもらえたらうれしいです。✨✨スキやフォロー✨✨をいただけると、直せない日々を言葉で保守していく励みになります🪄✨✨✨
2026.09.13
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CE EP.01|「ない。」銀行の机の下で、私はギアを探していた少し、昔の仕事の話を残しておこうと思う。毎週書くつもりはない。月に何本とも決めない。思い出した時にだけ書く、超不定期連載だ。名前は、CE EP|呼ばれれば、行った。FAXが仕事の真ん中にあった頃。工具かばんを自転車に括り付け、ポケベルが鳴れば、雨でも雪でも現場へ向かった。立派な仕事史には残らない。会社の記録にも、もうほとんど残っていないかもしれない。でも、確かにそこにいた。そんな17年間の断片を、思い出せるうちに残してみる。第一回は、格好いい話ではない。むしろ、その逆だ。「ない。」組み戻しかけたFAXの前で、手が止まった。ネジじゃない。手のひらより少し小さい位の大きさのギアが、ない。組み戻しかけたFAXの前で、私は手を止めた。手のひらより少し小さい大きさギアが、ない。ネジ一本ならまだ分かる。ワッシャー一枚でも青くなる。でも、手のひらくらいあるギアだ。なくなりようがない。なのに、なかった。場所は銀行だった。中型の業務用FAXが、普通のデスクの上に置かれていた。周りには荷物も書類もある。修理屋のために広々と場所が確保されているわけではない。そういう現場では、使える空間の狭さまで含めて修理だった。その日はローラー交換だった。ただ、単純な交換では済まない機種で、給紙ローラーまわりをそこそこ分解しないとたどり着けない。外した部品は、いつものように作業しているすぐそばに置いていた。置いていたはずだった。それが、組み戻しの途中で消えた。机の上を見る。ない。機械の脇を見る。ない。床を見る。ない。私は、何か確認しているふりをしながら、机の下も見た。露骨に探すわけにはいかない。「部品をなくしました」と客に伝わるような動きだけはしたくなかった。だから、修理している顔のまま探した。探している風には見えない程度に探した。それでも、ない。頭の中だけが先に熱くなっていった。あんな大きいものが消えるなんて、あるか。でも、ないものはない。まだキャリアの浅い頃だった。会社に電話して、正直に「ギアをなくしました」と言った。返ってきたのは、いかにもあの頃らしい言葉だった。「探すしかないんじゃない」「代替機入れたら」それだけである。冷たいと言えば冷たい。でも、あの頃の現場はそんなものだった。すぐ上の先輩は三つ上でまだ近かったが、その上になるとひと回り近く年齢の離れた、昭和の職人みたいな人たちばかりだった。基本は個人プレー。若手を手取り足取り助ける文化はない。困ったら、自分で何とかする。彼らもそうやって覚えてきたのだろう。代替機と言っても、話はそんなに簡単ではない。普段の代替機は小型の業務用FAXしかないことが多い。今回の客先は中型機だ。小型で代用できないこともないが、その場合は代替機を自転車で運び、故障機を引き上げる手間まで増える。現場の人間からすると、「代替機入れれば」の一言は、軽くない。ただ、この時だけは違った。事務所に、奇跡みたいに同じ機種が一台あった。私は客に、「さらに部品交換が必要なので、一度取りに戻ります」と伝えた。保守契約で部品代込みだったのが救いだった。時間のほうが大事だったので、ある程度までは組み戻したものの、客に許可を取って一部分解状態のままその場を離れた。自転車で片道二十分。往復四十分。走りながら考えていたことは、今でもきれいに思い出せる。次の呼び出し、来るな。早く戻らないと。なんであんなギアなくすんだ。当時はまだポケベルだった。文字表示もない、鳴れば会社からだと分かるだけのやつだ。あの音は職業病みたいに身体に染みついていた。テレビでポケベルに似た音が流れただけで、一瞬仕事かと思ってしまうくらいだった。もちろん、この往復中だってお構いなしに鳴る可能性はある。事務所に戻る。同じ機種をばらす。ギアを外す。工具かばんに入れる。また銀行へ向かう。そのあたりはもう、必死すぎて細かく覚えていない。ただ、急いでいた記憶だけは濃い。銀行に戻ると、担当者は表向きは普通でも、空気としては分かる。まだ直らないのか。客によって差はある。穏やかな人もいれば、待たされたことそのものが気に入らない人もいる。機械の故障より、人の機嫌のほうが難しい。これは十七年やっても、ずっとそうだった。代替機から取ってきたギアを組み込む。動作確認。FAXは動いた。たぶん私は、その瞬間ほっとしたのだと思う。でも、いつまでも安心してはいられない。次の仕事がある。一日にこなす件数には、誰が決めたわけでもない暗黙の了解があった。月の中で回らなければならない定期保守もある。その上から、突発修理や納品が平気で重なる。一台直れば終わりではない。一台直ったら、次へ行く。それが、あの頃のCEの仕事だった。今になって思う。あの時の自分は、修理技術だけで仕事をしていたわけではなかった。何か起きても、とにかくその場で切り抜ける癖で動いていた。誰かが助けてくれるのを待つより、使えるものを探す。なければ代わりを見つける。完全じゃなくても、今日を回す。今の自分にも、その癖は残っている。ただ、機械はまだいい。原因をたどれば、どこかには行き着く。ギアが足りなければ、別の一台から持ってくるという乱暴なやり方でも、ひとまず動かせる。人は、そうはいかない。もっとも、この話はまだそこまで広げなくていいのかもしれない。第一回だから、まずはこのことだけ書いておけば十分だ。あのギアが、銀行のどこかへ消えた。私はそれを客に悟られないように探し、会社に電話し、自転車で往復四十分走り、別の機械から部品を外して持って戻り、何食わぬ顔で修理を終えた。そして、最初になくしたギアは、最後まで見つからなかった。あの銀行の机の下だったのか。書類の隙間に入り込んでいたのか。誰かが後で拾って、「何だこれ」と思ったのか。もう分からない。でも、あの時、青ざめながら机の下を見ていた若い自分のことだけは、妙にはっきり覚えている。機械の部品はなくなる。仕事そのものも、時代と一緒に消えていく。それでも、なくしたギアを探していたあの数十分だけは、なかなか消えない。✨✨✨この「CE EP」では、元FAX修理CEとして17年間現場を回った記憶を、不定期で残していきます。次もまた、呼ばれれば行っていた頃の話を書くつもりです✨✨✨
2026.09.12
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認知症高齢者のリアル 飲み込んで、なお立ち続ける家族介護の現場から【50代】朝は、ある日突然こわれる。いや、こわれるというより、静かに歪み始めると言ったほうが近いかもしれない。昨夜まで何とか均衡を保っていた家の空気が、朝になった途端、別の顔を見せる。介護のある暮らしとは、そういうものだ。【目覚めた瞬間から、こちらはもう戦闘態勢だ。】誰の機嫌がどうか。今日は何を言い出すか。どこで詰まり、どこで荒れ、どこで流れを止めずに済むか。それを読むところから、一日は始まる。【きれいごとだけでは、現場は回らない。】認知症高齢者の介護については、世の中にたくさんの文章がある。支えましょう。優しく寄り添いましょう。否定せず受け止めましょう。どれも正しい。間違ってはいない。だが、その正しさだけでは、現場は回らない。現場には、もっと泥くさく、もっと消耗し、もっと飲み込むしかない現実がある。【今日は、そのことを書いておきたい。】認知症高齢者のリアル。きれいごとでは到底包みきれない、家族介護の本当の重さについて。送り出すだけで、朝は削られる【まず、朝のデイサービスへの送り出し。】これだけでもう、一仕事どころではない。【かなり慣れてきたとはいえ、母は行ったこと自体を忘れる。】ふいに思い出すこともある。だがその思い出し方も厄介で、嫌な印象だけが残り、「行ったことのない嫌な場所」として脳の中で再構成されていたりする。認知症の記憶とは、実に勝手だ。こちらの努力や説明の筋道など、あっさり飛び越えていく。【だから私は、当日の朝に言う。】しかも、一時間ほど前に。今日、スポーツジムの日だからね、と。これが、いまのところ一番被害が少ない。【前もって言っても、忘れる。】どれだけ丁寧に説明しても、水に字を書くようなものだ。言葉は残らない。理屈も積み重ならない。ならば、考える時間を与えないほうがまだましだ。朝食。着替え。支度。その流れの中に乗せてしまう。介護とは、時に誠実な説明より、流れを切らさぬ段取りのほうが効く。【「デイサービス」という言葉そのものが、母には駄目なのだ。】あの言葉を聞いた瞬間に、心が閉じる。だから使わない。【実際、今通っている場所はリハビリに特化した施設だ。】機器も充実している。空気も、いわゆる昔ながらのデイサービスとは少し違う。さらに、母のような病的な潔癖症にとって大きかったのは、施設が新しく、とてもきれいだということだった。まだできて半年ほど。その「新しさ」と「清潔感」が、ようやく母の根深い偏見を少しだけこじ開けてくれた。【だから、うちではスポーツジムと呼ぶ。】その一語の言い換えが、朝の戦況を左右する。【認知症介護とは、こういう世界だ。】大きな理論ではなく、細い糸のような言葉選びの上に成り立っている。食卓は、安らぎの場ではない【送り出して終わりではない。】帰ってきたら、今度は昼食がある。これもまた、なかなかの難所だ。【母は食の好みがひどく偏っている。】嫌いなものも多い。しかも妥協しない。人の作ったものは基本、食べたくない。ところが外食は大好きだ。だがそれも、店が古い、汚い、雑然としている、それだけで駄目になる。牛乳類は一切受けつけない。白いものも嫌い。ただの好き嫌いではない。本人の中に、誰にも見えない厳格な規則がある。そしてそれは、本人の中でしか通用しない。【少しでも食卓が汚れると、すぐに拭く。】そこだけ見れば潔癖だ。だが、拭くのに使うのが自分の飲んでいる飲み水だったりする。だから、こちらからすれば潔癖というより、強いこだわりと奇妙な無頓着が同居しているように見える。【毎回言う。】それは食卓用のアルコールで拭いてくれ、と。だが、もちろん覚えてはいない。言ったそばから消えていく。だからまた言う。また同じやり取りをする。【ここでいちいち腹を立てていたら身がもたない。】だが、腹が立たないわけではない。介護の現場でいちばん疲れるのは、この「わかっているけれど疲れる」という感情のねじれかもしれない。買い物は散歩ではなく、欲望である【午後になれば、母は近所のスーパーへ行く。】本人は足腰のためだと言う。散歩だとも言う。だが本質は、買い物だ。買いたいのだ。何かを手に入れたいのだ。その衝動がまず先にある。【母には昔から、買い物依存症と言ってもいい傾向があった。】同じものを何度も買う。使いもしないものを抱え込む。洋服、アクセサリー、絵の道具、トールペイントの材料。数え上げればきりがない。山のようにある。だが、それで満ち足りることはない。また買う。また増える。【優しく諭しても駄目だ。】自分で働いていた。自分で稼いだ金だ。だからいいだろう。そう返ってくる。【たしかにそうだ。だが、それで済む話でもない。】買って使わないものは、いずれ物ではなく、家の中に沈殿する重さへ変わる。それでも所有欲は消えない。執着は弱まらない。いや、年を取るほど濃くなることすらある。【母には、元々そういう特性があったのだろうと思う。】私は娘が発達障害を持っていることで、特性というものを身近に見てきた。だから母にも、元々そういう特性があったのだろうと思っている。そこへ認知症が重なり、輪郭がさらに濃くなった。昔からあったものが、病気によって抑えが利かなくなっている。そう考えると腑に落ちる部分もある。だが、腑に落ちたからといって、現実が楽になるわけではない。帰宅後の点検は、生き残るための作業である【母が買い物から戻ると、次にやるのは持ち帰ったものの確認だ。】だいたい決まっている。光り物の刺身。日本酒。タオル。【光り物は母の大好物だ。】そして決まって言う。「誰か食べる? みんな嫌いなのに、なぜか私は好きだから」実際、うちでは私以外みんな嫌いだ。だからといって毎日買われても困る。しかも高齢の身体にとって、それが本当に毎日必要なものかと言えば、当然そうではない。【日本酒はもっと厄介だ。】最近発覚した病気の関係で、本来ならもう控えたほうがいい。病院で説明も受けた。その瞬間は理解したような顔もする。だが一分後には忘れている。いや、一分ももたない時がある。ここが今、最も苦慮しているところの一つだ。【ここに、認知症介護のしんどさが凝縮している。】やめたほうがいい。飲んではいけない。その理屈はたぶん一瞬は入る。だが記憶として残らない。では酒を隠すか。隠せば買ってくる。では金を持たせないか。それも現実的ではない。家に閉じ込めるわけにもいかない。結局、こちらが見張り続けるしかない。この終わりの見えない徒労感。認知症介護の本当のしんどさは、たぶんこういうところにある。【タオルも同じだ。】百均のタオルを毎日のように買ってきても困る。だが、本人にとっては必要なのだ。そしてこちらがチェックを怠れば、過去にあったように生ものが袋の底で腐っていた、という事態になる。つまり、帰宅後の点検は単なる確認ではない。家を腐敗から守る作業であり、家族の精神衛生を守るための作業でもある。夜の風呂に落ちているもの【そして夜。風呂である。】もちろん、一番風呂でなければならない。ここも絶対に譲らない。認知症になっても、こういうこだわりは薄れない。むしろ強くなることすらある。【だが問題は、その後だ。】毎回ではない。だが時折、少しとはいえ、うんちが落ちていることがある。【頭では仕方がないとわかっている。】高齢であり、認知症でもある。仕方がない。だが、現実として次に入るのは娘であることが多い。だからこちらは、そこで終わるわけにはいかない。湯を抜く。張り替える。掃除をする。予定外の仕事が、また夜の終わりに追加される。【こちらが折れるしかない。】正直、一番風呂でなければ、まだ違う。だが、それも無理だ。本人の強いこだわりと、こちらの現実がぶつかる時、たいてい折れるのはこちら側である。父と母、そのあいだに立つ者【母だけでは終わらない。】認知症になって以降、母は怒りっぽくなった。感情の起伏も激しい。父は父で、元々短気だ。そこへ病気のストレスが重なる。身体は思うように動かない。先は見えない。だから些細なことで母とぶつかる。【そのあいだに立って調整する。】これが、いまの私の最重要課題になっている。【介護とは、感情の交通整理でもある。】排泄や食事や通院だけではない。誰かが爆発しないように、家の空気を崩壊させないように、ひたすら間へ入り続ける。この役目は、地味だが最も神経を削る。【こちらの怒りは、常に飲み込まれる側へ回る。】どちらの言い分も聞く。理不尽も聞く。正論を言いたくても飲み込む。相手が認知症である以上、勝っても意味がない。父が短気である以上、まともにぶつかれば余計に燃える。だからこちらは、怒りを抱えたまま冷静を装う。この「装う」が本当にしんどい。認知症介護のリアルとは何か【ここまで書いたことは、まだ一部に過ぎない。】本当に一部でしかない。【毎日、こういうことが起きる。】介護者をけなすこともある。人格を否定されることもある。悪者にされることもある。善意は踏みにじられ、苦労は伝わらず、努力は翌日には消えている。それでも、やる。やらなければ日常が回らないからだ。【認知症介護のリアルとは、症状の説明ではない。】徘徊、物忘れ、被害妄想、怒りっぽさ。そういう言葉で括れる部分だけではない。介護する側が、どれだけ感情を飲み込み、どれだけ日々を持ちこたえ、どれだけ自分の心を削りながら回しているか。そこまで含めて、ようやく本当の姿になる。【きれいごとだけでは持たない。】優しさだけでも持たない。根性だけでも持たない。必要なのは、かなりの工夫と、かなりの諦めと、かなりの忍耐だ。そして何より、自分が壊れないための小さな逃げ場だ。最後に、いま介護の只中にいる方へ【もし今、同じような介護の只中にいる方がいたら、私は伝えたい。】しんどいのは当然です。腹が立つのも当然です。投げたくなるのも自然です。優しくできない日があるのも、人間として普通です。それでも今日を何とか回しているなら、それだけで十分すごい。【認知症介護は、こちらの善意だけでは回らない。】だからこそ、苦しいのです。そして、それでもなお立ち続けている介護者は、本当にすごいのです。【認知症高齢者のリアルとは何か。】それは、介護される側の症状の一覧ではない。介護する側が毎日どれだけ飲み込み、どれだけ立ち続け、どれだけ自分をすり減らしながら、それでも家を回しているか。その現実の総体こそが、本当のリアルなのだと、私は思っています。
2026.09.11
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介護の朝は突然に…|父の機嫌まで背負うのが介護なのか、と思う日がある【50代】家の空気を壊さずに一日を終えた。50代になると、それが十分な成果になっていく。体調より先に、機嫌を読む父の体調を気にするだけでも、以前よりずいぶん神経を使うようになった。今日は食べられているか。尿はちゃんと出ているか。顔色はどうか。いつもより元気がなければ、それだけで少し緊張する。最近は、そこへもう一つ加わった。父の機嫌である。体調が悪くならないかを気にしながら、不機嫌にもならないように立ち回る。言葉の選び方ひとつで空気が変わることもあるから、顔つきや返事の仕方まで何となく見るようになった。今日は大丈夫そうだなと思う日もあれば、朝の一言で「ああ、今日は危ないな」とわかる日もある。もはや介護というより、付き人に近いのではないかと思うことがある。父が何を考えているかを先に読んで、嫌がりそうなことは言い方を変える。何か頼む時も、そのまま言えば機嫌を損ねそうなら少し遠回りして話を持っていく。一挙手一投足というほど大げさではないつもりだが、実際にはかなり見ている。それを毎日続けていれば、神経もそれなりに擦り減る。ストレスだって、そりゃ増える。じゃあ、誰がやるのかという問いへ戻るでも今の家の中を見渡すと、「じゃあ誰がやるのか」というところへ戻ってくる。母は認知症だ。娘も自分のことで精いっぱいの時期にいる。妻も体調の悪い日が続いている。私だって高血圧の薬を飲んでいるし、夜もまともに眠れないことがある。それでも、この家の中でいちばん動けるのは今のところ私だ。なら、やるしかない。疲れているかどうかを確認してから介護をするわけではない。朝になれば朝の用事が始まるし、何か起きれば身体は勝手にそちらへ向かう。最近は、多少の疲れなら「まあ、気のせいだろう」くらいに扱っている。本当に気のせいではないのだろうが、そのくらいでちょうどいい。採血の場所を決めるだけで、数日かかった先日、父の血液検査をどこでやるかという話になった。選択肢は二つあった。以前から通っている大学病院へ行くか、今来てもらっている訪問医療で採血してもらうか。今の父を主に診ているのは訪問医療の先生なので、私も担当医も、そちらでやる方が自然だと考えていた。必要な検査項目も共有しやすいし、何より父を大学病院まで連れて行く負担がない。ただ、父の気持ちは大学病院にあった。「大学病院でやりたい」とは、はっきり言わないのである。話を聞いていくと、どうも大学病院とのつながりを残しておきたい気持ちがあるらしい。それに、大学病院には父が以前から気に入っている採血の人がいる。父いわく「採血の名人のおばちゃん」だ。その人なら安心できる。逆に、訪問医療で採血する人については「あの人はあまりうまくない」という印象を持っている。これはあくまで父の感覚だ。だが介護では、その「本人の感覚」がなかなか侮れない。こちらから見れば合理的でも、本人が納得していなければ話は進まない。しかも父は、自分の希望を全部言葉にしてくれるタイプではない。そこをこちらが察しないと、いつの間にか不機嫌モードに入っている。今回も、最初から「訪問医療でやるよ」と決めてしまえば簡単だった。ただ、それをやれば父の中には不満だけが残る。では大学病院へ行くのかといえば、こちらとしては身体への負担も気になる。条件の悪い現場をどう回すかそこで数日かけた。父の話を聞きながら、大学病院へ行きたい理由を少しずつ拾う。その気持ちは否定せず、「そうだよね」と一度受ける。そのうえで、今は訪問医療の先生が中心になって診ていること、必要な検査もその先生が考えていること、家で採血できれば身体への負担も少ないことを少しずつ話した。一度に全部言えば、おそらく逆効果だった。看護師さんにも協力してもらった。こちらだけが説得する形にせず、周りからも自然に話してもらう。父の気持ちを大学病院から無理やり引き剥がすのではなく、「今回はこっちでもいいか」と本人が思えるところまで待つ。数日かかったが、最終的には訪問医療で採血することで納得してくれた。いや、本心の底では多分納得ではないと思う。それでも仕方がないといった所か。終わった時、かなり疲れた。採血する場所を決めただけである。たったそれだけのことで、ここまで神経を使う。介護をしていない頃の私なら、きっと想像もしなかったと思う。17年間の癖が、介護の現場でも出るだがその時、妙な感覚があった。うまくいった時、ちょっとだけ達成感があるのだ。難しい条件がいくつもあって、そのままでは進まない。相手の性格を見て、言葉を変え、順番を変え、周りにも協力してもらう。最後に何とか収まると、「よし、今回はこれでいけた」と思う自分がいる。17年間、FAX修理の現場にいた癖なのかもしれない。機械の故障でも、教科書通りに直るものばかりではなかった。症状を見て、音を聞き、過去の故障を思い出して、ここかな、いや違うなと探っていく。介護と機械修理を一緒にするつもりはない。人間は機械よりずっと複雑だし、直すなんてこともできない。それでも「条件の悪い現場ほど、どうやって回すか考える」というところだけは、昔からあまり変わっていないらしい。困難の数え方が、変わってきた少し前まで、私は介護の大変さばかりを数えていたように思う。もちろん今でも大変だ。父の機嫌が悪くなれば、家の空気まで重たくなる。母の認知症にも手を焼く。娘のことも妻の体調も気になる。その中心で自分が神経を使っていると、なんでこんなことまでと思う日もある。だが、困ったことが起きるたびに、こちらも少しずつ変わってきた。正面から言って駄目なら、言い方を変える。今日うまくいかなければ、明日は違うやり方を試す。一人で駄目なら、看護師さんや訪問介護の人にも力を借りる。以前ならただ腹を立てていた場面で、「さて、これはどうしたら回るだろう」と考えている自分がいる。これが成長なのか、介護に慣れすぎただけなのかは分からない。50代の達成感は、地味な場所にある困難を楽しんでいる、なんて書いたら少し変かもしれない。実際、できることなら困難などない方がいい。父には穏やかでいてほしいし、母の認知症だって進まない方がいい。妻には元気でいてほしいし、娘には自分のことだけを考えて過ごしてほしい。私だって、朝から誰かの顔色を読まずにぼんやりしていたい。それでも今は、そういう毎日ではない。ならその中で少しでもうまく回った日くらい、「今日はよくやった」と思ってもいいのだろう。大きな勝利ではない。誰かに褒められることでもない。父が納得して採血の場所を決めただけ。それでも、その一つを無事に終えたことに、妙なやり切った感が残った。50代になると、若い頃とは違うところで達成感を感じるようになるものなのかもしれない。仕事で大きな成果を出したとか、何かを手に入れたとか、そういう話ではない。家の空気を壊さずに一日を終えた。病院の予定をひとつまとめた。母を怒らせずにデイサービスへ送り出せた。妻が少し休めた。そんなものが、最近の私には十分な成果になっている。今日も、父の顔から一日が始まる今朝も父の顔を見る。今日は機嫌がいいのか。それとも、何か引っかかっているのか。たぶん私はまた、そこから一日を組み立てていく。正直、神経はかなり使う。でも、とりあえず今日も身体は動く。なら今日のところはそれでいく。明日のことは、明日の父の顔を見てから考えればいい。
2026.09.10
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家族の予定は覚えている。自分の予定だけ、もうない|50代土曜日は娘の文化祭だった。ところが、妻は朝からかなり頭痛がひどく、ダウンしていた。それでも妻は文化祭を見に行き、私は家に残って両親の介護。一日そちらを担当した。いろいろあった。一つ済んだと思えば、また別のことが起きる。その都度なんとかして、気づけば夜である。何をしていたかと聞かれれば、いくらでも出てくる。もう一度やれと言われたら、ちょっと勘弁してほしい。家族の予定は、だいたい頭に入っている。誰がどこへ行くのか。病院はいつか。薬、食事、家の用事。そこへ自分の仕事も入る。忘れないように確認して、変更があればまた考える。ところで、私は来週、何を楽しみにしているのだろう。用事なら出てくる。やらなければいけないことも、すぐに浮かぶ。だが、楽しみとなると、急に止まった。あれ。何かあったか。noteは書きたい。作りたいものもある。毎日こうして書いているのは、私がやりたくてやっていることだ。楽しみが一つもないわけではない。ただ、「来週の何曜日が楽しみだ」と言えるような予定が、すぐには出てこなかった。どこかへ行くでも、何かを食べるでもいい。大げさな話ではないのに。自分のことを考える時も、まず家族の予定を確かめる。あの日は病院がある。この日は家にいた方がいい。仕事もある。そうやって考えているうちに、まあ、そのうちでいいか、となる。誰かにやめろと言われたわけではない。行きたかった予定を、今日一つ諦めたという話でもない。そもそも、自分の分は日付を決めるところまでいっていなかった。「その日はちょっと予定がある」用事なら言える言葉なのに、自分の楽しみのために、最後にいつ言っただろう。52歳。家族に確認することは増えた。自分に何かを聞くことは、ずいぶん減った気がする。どうせ今は無理だろうと、聞く前に済ませていたのかもしれない。今日も一日、やることはやった。明日のことも、だいたいわかっている。私は来週、何を楽しみにしているんだろう。きっと、いつも通りの日常だが、ささやかな家キャンで楽しんでいるのだろうか✨✨ここまで読んでくださって、ありがとうございます🪄みなさんは来週、何か楽しみにしている予定がありますか。小さなことでも、よかったらコメントで聞かせてください🎉✨✨スキやフォロー✨✨をいただけると、こうして日々を書き続ける励みになります。
2026.09.09
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ロスジェネ脱線学 #47 テレビの音量だけ少し大きい昼下がり昼下がり、テレビをつけたら音が大きかった。ニュースのアナウンサーが、こちらに少し強めに話しかけてくる。誰も怒っていないのに、部屋だけが軽く緊張する。リモコンを見る。音量は、以前なら少し大きめだと思っていた数字だった。でも昨日の私は、たぶんこの音量で聞いていた。五十代になると、身体の基準が日によって少しずれる。目は朝と夕方で違う。腰は天気に左右される。耳も、どうやら気分がある。若い頃は、音なんて気にしなかった。テレビもラジカセも、車の中の音楽も、少し大きいくらいが普通だった。昭和の家では、居間のテレビが家族全員に向けてしゃべっていた。平成になると、イヤホンで自分だけの音を持ち歩くようになった。令和では、スマホの小さな音まで一人で聞く。なのに、今の私はリモコンを持って、音量を二つ下げるだけで少し考えている。聞こえにくいのか。大きすぎるのか。それとも、ただ疲れているのか。どれも少しずつ当たっている気がする。昔、FAX修理の現場では、異音にも敏感だった。モーター音、紙送りの音、ローラーの擦れる音。変な音がすると、どこかに原因があった。今は、自分の耳のほうが原因かもしれない。音量を下げる。部屋が少し落ち着く。アナウンサーの声も、ようやく普通の距離になる。たったそれだけで、昼下がりが少し戻ってくる。年を取るというのは、大きく衰えることより、こういう調整が増えることなのだろう。明るさを変える。音を下げる。文字を大きくする。少しゆっくり立つ。それは敗北ではない。たぶん、暮らしとの折り合いだ。テレビの音は、ちょうどよくなった。ただ、内容はあまり頭に入ってこない。そこは音量のせいではない気がする。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.09.08
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一瞬永遠 第51幕 靴ひもを結ぶ玄関で靴ひもを結ぶいつものことなのに今日は少しだけ時間がかかった身体をかがめると昔より膝が近い息を止めるほどではないけれど何でもなかった動作に小さな重さが加わっている右を結び左を結ぶそれだけのことをゆっくりする若い頃はこんな時間を覚えていなかった靴を履けばすぐ外へ出た行く場所ばかりを見て出ていく自分のことなど考えもしなかった今は玄関で一度止まる忘れ物はないか無理をしていないか今日もちゃんと戻ってこられるかそんなことがほんの少し頭をよぎるそれでもひもを結べば足元が少しだけ決まる外は昨日と変わらない同じ道同じ空同じような朝けれどそこへ向かう自分は昨日とまったく同じではない疲れている日もある気が進まない日もあるそれでも靴を履く立ち上がる扉に手をかけるたぶん生きることはこういう小さな動作を何度も繰り返すことなのだと思う決意というほど強くなくていい希望というほど明るくなくてもいい靴ひもがほどけていなければ今日はそれで十分だ扉を開けると外の空気が少し冷たかった私は足元を一度だけ見てそのまま歩き出した✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。✨✨スキやフォローで応援していただけると励みになります✨✨
2026.09.07
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終わるから、好きだったのだ。たぶん、最初からそうだった。九月になった。そうは言っても、外へ出ればまだ暑い。昼間の日差しだけ見れば、夏が終わるなどと言ったら笑われそうなくらいだ。とはいえ、ここの所はだいぶ暑さわ和らいでいる。朝、窓を開けた時に少し違う。真夏の朝とは、どこか空気が違う。夕方の光も少し低くなり、蝉の声も盛夏の頃のような勢いではなくなってくる。気温ではなく、何か別のところで夏が後ずさりを始めている。私は、この頃が昔から好きだ。いや、少し違うかもしれない。私は夏が好きだと思ってきたけれど、もしかすると一番好きなのは、夏が終わり始めたと気づく瞬間なのかもしれない。好きなのに寂しい。終わってほしくないのに、終わりかけた頃が一番きれいに見える。なかなか面倒な好みである。子どもの夏は、終わりが見えた瞬間から惜しくなった昨年、子どもの頃の夏休みについて書いた。あの頃の一か月あまりは、今から思えば異常なくらい長かった。七月の終わりには、まだまだ先があると思っている。八月に入っても余裕がある。宿題についても「まあ、まだいいだろう」と根拠のない自信に満ちている。ところが、お盆を過ぎたあたりから空気が変わる。カレンダーを見る。残りの日数が、急に数えられるようになる。そして八月の終わりが見えてくると、あれほど持て余していた一日が突然惜しくなる。もっと遊べばよかった。もっと何かすればよかった。そう思いながら、なぜか宿題だけはまだ残っている。このあたりは我ながら見事である。今なら「最初から少しずつやればいいだろう」と52歳らしいことを言える。もっとも、今の自分だって締め切りが近づかないと動かないことはあるので、人間の根っこは大して変わっていない。ただ、夏が終わると分かった途端に、その夏が急に愛おしくなる感覚だけは、よく覚えている。今の夏には「何もしない日」がほとんどない52歳の夏は、当然ながら昔とは違う。夏休みというものはない。今年も父のことがあり、認知症の母がいて、仕事があり、家のことがある。自分自身も血圧の薬を飲むようになり、身体のメンテナンスまで予定表へ入り始めた。海へ行ったわけでもない。山へ長期旅行したわけでもない。夏らしい大きなイベントがあったかと聞かれると、少し考えてしまう。それでも毎日はそれなりに濃かった。母を送り出し、父の様子を見て、妻や娘の予定を気にする。空いた時間にnoteを書き、ときどき地図を眺め、家キャンをしてみたりする。気づけば八月が終わっていた。子どもの頃は四十日近くあった夏休みが永遠に思えたのに、52歳の八月など、少し目を離した隙にいなくなる。「え、もう終わり?」と毎年言っている気がする。これでは夏の方も、「知らんがな」と言いたくなるだろう。それでも夕暮れだけは、昔とあまり変わらないそんな今の夏にも、昔と同じものがある。夕暮れだ。一日の暑さがようやく少し緩み、空の色が白っぽい青から橙色へ変わっていく。風が出る。昼間はあれだけうるさかった蝉の声も少し遠くなる。家々の影が伸びる。その時間になると、なぜか少し寂しくなる。別に何か悲しいことが起きたわけではない。むしろ夕方になれば「今日も一日終わるな」と、ほっとしているはずなのに、胸のどこかに小さな穴が開くような感じがする。昔もそうだった。遊び終えて家へ帰る頃。まだ明日も休みなのに、日が沈むだけで少し損をしたような気持ちになった。夏の終わりは、それが何日も続く。だから好きなのだと思う。ただ暑いだけの真夏なら、ここまで好きではないかもしれない。終わりが見えたから、急に一日一日が惜しくなる。人間は昔から、なくなると分かってから大事にする。夏くらいならまだいい。52歳になると、それが夏だけの話ではないことにも気づいてしまう。あと何回、この感じを味わえるのだろう若い頃には考えもしなかった。来年も夏は来る。その次も来る。当たり前だった。今だって、普通なら来年も夏は来るだろう。でも52歳になると、「あと何回」という数え方が頭の隅に出てくることがある。あと何回、真夏の空を見るのだろう。あと何回、この夏の終わりの風を感じるのだろう。そう考え始めると急に話が重くなるので、あまり数えないことにしている。そんなものは数えたところで増えない。だったら、今年の分を味わえばいい。朝の少し変わった空気も、夕方の長くなった影も、夏の終わりにスーパーへ並び始める季節外れ感満載の商品も、そのうち全部今年の記憶になる。別に旅行をしなくてもいい。花火大会へ行けなくてもいい。豪華な思い出がなくても、その年の夏はちゃんと自分の中に残っていく。昨年の私は、子どもの頃の夏休みを「永遠」だと思っていた理由を書いた。今年の私は、少し違うことを思っている。永遠だったから好きだったのではないのかもしれない。終わるから、好きだったのだ。日曜の朝、まだ少しだけ夏が残っている今朝も外はまだ夏の顔をしている。このあと昼になれば、おそらく普通に暑い。「夏の終わり」などと言っている場合ではない気温になるかもしれない。それでも、もう私は気づいてしまった。今年の夏は、少しずつ帰り支度を始めている。引き止めることはできない。だからせめて、急いで追い出す必要もない。残っている夏を、そのまま見ていればいい。夕方になったら少し外を眺めてみようと思う。たぶん空がきれいだからではない。そこに、今年の夏がまだいるか確かめたいのだ。52歳になっても、この季節だけは少しセンチメンタルになる。まあ、それくらいは許してほしい。夏はもうすぐ終わる。でも、まだ今日の分は残っている。日曜の朝なら、それで十分だ。✨✨✨ここまで読んでくださって、ありがとうございます✨✨✨みなさんは、夏そのものが好きですか。それとも私のように、夏が少し遠ざかり始める頃の方が好きでしょうか。昔の夏の匂いや、忘れられない夕暮れがあれば、コメントで聞かせてもらえたらうれしいです。
2026.09.06
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37年ぶりに母校の前を通った。あの頃の私は、まだそこにいた|50代ただの道ではなかったたぶん、卒業以来だった先日、車を走らせていて、昔通っていた中学校の前を偶然通った。用賀を離れたのが、結婚した20年前。そして今は実家もなく、親の病院でたまに行くくらいだ。学区域も、ぎりぎりの所だったから日常で通る場所でもなかった。何年ぶりだろうと考えてみれば、学校の真正面まで来たのは卒業以来かもしれない。37年。数字にすると、なかなかの破壊力である。環八そのものは何度となく走っている。この辺りにも親の病院の付き添いで来ることはある。それでも、あえて母校の前まで来ることはなかった。校舎が見えた瞬間、何とも言えない気持ちになった。懐かしい、だけでは少し足りない。胸の奥にしまってあった何かを、不意に引っぱり出されたような感じだった。少し耐震補強されたところはあるものの、思っていた以上に昔のままだった。私はそのまま通り過ぎればいいものを、気づけば速度を落とし、学校の周りを一周していた。中学生の頃、部活で走らされた道だ。もっとも、その部活も二年生くらいまでしかまともにやっていない。37年ぶりに車で一周しておいて、ずいぶん立派な元運動部員のような顔をするのもどうかとは思う。それでも、道は覚えていた。人間の記憶というのは妙なものだ。昨日どこへ鍵を置いたかは忘れるのに、37年前に走った坂道の感じは残っていたりする。道の角を曲がるたびに、昔の自分が出てくる車をゆっくり走らせていると、ひとつずつ記憶が戻ってきた。夏のプールの匂い。委員会で教室とは違う場所へ行った時の、ちょっとした特別感。部活帰りの汗。帰り道に買ったアイス。意味もなく遠回りして帰った住宅街。今となっては、どれも大事件ではない。だが中学生にとって、一日は今よりずっと長かった。放課後から夕飯までの数時間だけで、かなりのことができた気がする。当時の私は目立つタイプではなかった。今もまあ、たいして変わらない。教室の真ん中にいるような人間ではなく、どちらかといえば端の方で自分なりに毎日を過ごしていた。それでも37年経ってから思い返すと、その目立たなかった毎日の中に、ずいぶんたくさんのものが残っている。当時は何とも思わなかった道まで、今見ると少し特別に見える。風景が特別なのではない。そこを歩いていた昔の自分を知っているからなのだろう。好きだった子は、今どうしているだろう当然、そういうことも思い出す。中学時代に好きだった子。今どうしているのだろう。結婚したのか。子どもがいるのか。もう孫がいたっておかしくない年齢になりつつある。そう考えたところで、急に現実へ戻される。昔の恋というものは、記憶の中ではずっと中学生のままだ。こちらだけが勝手に50代になっている。2年間も同じ委員会だったので、まったく話したことがなかったわけではない。普通にしゃべってはいた。だから今さら「あのとき一言話しておけば」などと言うと、少し話を盛っていることになる。話してはいた。ただ、それ以上のことをするほど器用ではなかった。そもそも当時はLINEもなければ既読もない。気になる相手に連絡しようと思えば、家の電話である。しかも相手の家のお父さんが出る可能性まである。今考えると、中学生男子にはハードルが高すぎる。よくあの時代に恋愛なんて成立していたものだと思う。そんなことを考えながら学校の前を走っていると、少し笑えてきた。37年経っても、昔好きだった子を思い出すくらいには、私もまだ人間らしいらしい。もう、あの頃へつながる道はほとんどない中学時代の友人とは、今はほとんど連絡を取っていない。高校以降の仲間とは今でも会う。久しぶりでもすぐ昔の調子に戻れる。だが中学以前は、どこか別の世界になっている。親友だったあいつは、今どうしているだろう。元気ならいい。街ですれ違ったとしても、お互い気づくのだろうか。37年というのは、それくらい長い。人とのつながりは切れてしまったけれど、妙なことに道だけは残っている。学校もある。坂道もある。校庭も見える。そこへ昔の友人や好きだった子の姿を重ねてしまう。時間というものは、全部を消してしまうわけではないらしい。かなり乱暴に持っていくくせに、どうでもよさそうなものだけ置いていく。親に送り出されていた私が、今は親を病院へ連れていくこの街を離れて、もう18年になる。昔暮らしていた実家も、今はもうない。「実家へ帰る」という言葉を使える場所もなくなった。それでも、この辺りには親の病院の付き添いで来る。中学生だった頃の私は、当然そんな未来を知らない。朝になれば親がいて、学校へ行き、帰れば家があった。それが永遠に続くような気がしていた。今は逆だ。親を病院へ連れていく側になった。父の体調を気にし、認知症の母を見ながら一日を組み立てている。自分だって血圧の薬を飲む年齢になった。中学校の前を通っただけなのに、37年分の時間をいきなり見せられたような感じがした。あの頃の親は、今の私より若かったのかもしれない。そう考えると、また少し妙な気分になる。子どもの頃、大人は最初から大人なのだと思っていた。実際にはみんな、わからないまま年を取っていたのだろう。私も今、そうしている。戻りたいわけではない懐かしい場所へ行くと、あの頃に戻りたいという話になりがちだ。私は、どうだろう。中学生へ戻りたいかと聞かれたら、たぶん戻らなくていい。もう一度体育の授業をやれと言われても困る。あの頃の人間関係を最初からやり直すのも、かなり面倒だ。好きだった子にもう一度ちゃんと告白するチャンスをやると言われたら、そこだけ少し考えるかもしれないが。それでも、やっぱり戻らなくていい。今の私は、あの頃の私が知らなかったものをたくさん知っている。いいことばかりではない。就職氷河期も通った。仕事で散々な目にも遭った。結婚して、父親になった。親の介護も始まった。身体も少しずつ古くなった。ずいぶん遠くまで来た。だが、あの中学校の前を走ったことでわかった。遠くまで来ただけで、昔の自分がなくなったわけではなかった。記憶の中には、まだ昔の私が住んでいる人は建物を見て懐かしくなるのではないのかもしれない。そこにいた自分を思い出すから、胸が動く。校舎そのものに思い入れがあるというより、あの窓のどこかにいた自分、あの道を歩いた自分、あの子を少し気にしていた自分が、一斉に出てきた。37年も眠っていたくせに、意外と元気だった。あの頃の私は、自分が何者になるのか知らなかった。FAX修理のCEを17年やることも知らない。赤いマントを背負った分身を作ってnoteを書くことも知らない。親を介護しながら、50代になってこんな文章を書くことも、もちろん知らない。もし当時の私に会えたとしても、たぶん大したことは言わないと思う。「まあ、いろいろあるぞ」そのくらいでいい。未来を全部教えたら、中学生の私は学校へ行きたくなくなるかもしれない。それより「意外と何とかなる」くらいの方がいい。少なくとも52歳の私は、まだ生きている。たまに昔の道を車で一周するくらいには元気だ。ただの道ではなかった学校を一周して、私はまたいつもの道へ戻った。信号が変わり、車は普通に流れていく。後ろには母校が小さくなっていった。それだけのことだった。誰かと再会したわけでもない。奇跡的な出来事が起きたわけでもない。好きだった子が校門から出てくるはずもない。それでも、その日は少し得をしたような気分だった。忘れていた昔の自分を、ひとつ拾えたからだ。実家はなくなった。昔の友人ともつながっていない。街だって少しずつ変わっている。それでも、自分の中にはまだあの頃の道が残っていた。37年。ずいぶん時間が経った。けれど車窓から校舎を見た瞬間だけは、その37年が妙に薄くなった。あの頃の私と今の私が、同じ道の上に一瞬だけいた。そんな気がした。次にここを通るのは、いつになるだろう。また何十年後、というわけにはいかない年齢になった。だから今度近くへ来たら、少しくらい遠回りしてもいいかもしれない。昔の私は、たぶんまだあの辺をうろうろしている。✨✨✨ここまで読んでくださって、ありがとうございます✨✨✨50代になると、昔の場所を見ただけで突然開く記憶があります。通学路、昔の会社、住んでいた街、よく寄った店。もう戻れないからこそ、妙に鮮明になる場所もあります。みなさんにも、何十年経っても一瞬で昔へ戻ってしまう場所はありますか。よかったらコメントで聞かせてください。✨✨スキやフォロー✨✨をいただけると、直せない日々を言葉で保守する励みになります🪄
2026.09.05
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時間は、思っていたより残っていない|52歳、まだ人生を間に合わせようとしている若いころ、時間について考えたことなんて、ほとんどなかった。明日がある。来年がある。そのうちやればいい。いつか行けばいい。また会えばいい。そんなことを、当たり前のように思っていた。時間なんて、使っても使っても後ろから補充されるものくらいに思っていたのかもしれない。もちろん、そんなわけはない。分かってはいた。ただ、本当には分かっていなかった。52歳になった今、ようやく少し分かってきた。時間は、本当に減っている。しかも思っていたより速い。50代になると、十年という数字が変わる30歳のころの十年と、52歳の今からの十年は、同じ十年なのに、まるで違って見える。30歳なら、十年後は40歳。まだその先がずっと続いているような気がした。今から十年後、62歳。さらに十年たてば72歳。数字にすると、急に現実になる。もちろん62歳になったら何もできないわけではない。72歳だって元気な人はいくらでもいる。それでも、自分があと何回夏を見るのか、あと何回桜を見るのか、あと何回正月を家族と迎えるのか。そんなことを、たまに考えるようになった。昔は考えもしなかった。親を見ていると、自分の時間まで見えてくる親の介護をしていると、時間というものを嫌でも見る。昔は親が先を歩いていた。子どもの私は、その背中を追っていた。いつからだったのだろう。歩く速さが逆になった。今では私が待つ側になった。手を貸す側になった。そういう毎日の中にいると、親が年を取ったというだけではなく、自分も同じだけ年を取ったのだと気づかされる。子どもだってそうだ。いつまでも小さいわけではない。家族の姿は、自分の時計でもある。昨日と今日はほとんど変わらない。なのに数年振り返ると、ずいぶん遠くまで来ている。時間というものは、たぶんそうやって減っていく。だからといって、毎日を大切に生きられるわけでもないここで、「だから一日一日を大切にしましょう」と書ければ綺麗なのだろう。だが私は、そんなふうには生きられていない。朝になればやることがある。仕事もある。介護もある。家庭のこともある。面倒なことも、腹が立つこともある。何もしないで一日が終わることだってある。スマホを眺めていたら一時間たっていた、なんてことも普通にある。限りある時間を、毎日きっちり有効活用する。そんな人生は私には無理だ。そもそも人間はそこまで立派にできていないと思う。無駄な時間だっている。ぼーっとする時間もいる。くだらないことをして笑う時間だっている。私が最近気になるのは、時間を無駄にしたかどうかではない。本当はやりたかったのに、「そのうち」と言って終わらせてしまうことのほうだ。「いつか」が少し怖くなってきたいつか書こう。いつか会おう。いつか行こう。いつかやってみよう。若いころなら、その「いつか」は本当にどこかにあるような気がしていた。だが今は少し違う。いつかなんて、放っておいたら来ない。こちらから日にちを決めなければ、ずっと「いつか」のままだ。そして気がついたときには、できなくなっていることもある。会えなくなっている人もいる。行けなくなっている場所もある。あのときやっておけばよかった。そんなものが人生には少しずつ増えていく。だから最近、妙に焦ることがある。まだ何かできるんじゃないか。もう少しやれるんじゃないか。このままでいいのか。52歳にもなって、いまだにそんなことを考えている。若いころなら、50代というのはもっと完成した大人だと思っていた。全然違った。迷う。焦る。失敗する。昔のことを思い出す。ときどき、今さら人生を変えたくなる。たぶん人間は、何歳になってもそんなものなのだろう。私たちロスジェネは、ずっと「あとで」だった振り返れば、私たちの世代は、ずいぶん「あとで」を使ってきたような気がする。景気が良くなったら。仕事が安定したら。生活に余裕ができたら。子育てが落ち着いたら。親のことが落ち着いたら。もう少し金が貯まったら。そうやって、自分のことを後ろへ回してきた。もちろん、誰かに強制されたわけではないものもある。生活していれば仕方のないこともある。だが気がつけば50代だ。まだ、「もう少し落ち着いたら」と言っている自分がいる。少し笑ってしまう。いつ落ち着くんだ。たぶん、完全に落ち着く日なんて来ない。だから私は、まだ間に合わせようとしている何か大きなことを成し遂げたい、という話でもない。有名になりたいとか、人生を劇的に変えたいとか、それだけでもない。ただ、自分がやってみたいと思ったことくらいは、できる範囲でやっておきたい。書きたいなら書く。作りたいなら作る。会いたい人がいるなら、会えるうちに会う。行きたいところがあるなら、全部ではなくても一つくらい行く。失敗したら、まあ失敗したでいい。52歳の失敗なら、もう一つくらい増えても大勢に影響はない。むしろ怖いのは、何もしないまま、「あのときやればよかった」だけが増えていくことだ。時間は有限である。昔の私は、その言葉を頭で書いていた。今は少し違う。親の背中を見て、子どもの成長を見て、鏡に映った自分を見て、身体の変化を感じて、ようやく実感として分かってきた。だから今すぐ動く。明日もたぶん脱線する。くだらないこともする。無駄な時間も使う。それでいい。ただ一つ。本当にやりたいことまで、「いつか」の箱に放り込むのは、そろそろやめようと思う。人生があと何年あるのかは分からない。でも、今日が一日減ったことだけは分かる。だったら私は、残った時間を数えて怖がるより、まだできることを一つずつやっていきたい。50代ともなれば突然病気になってしまうこともある。突然死ぬことだって不思議なことではない。52歳。もう若くはない。でも、終わったわけでもない。身体がまだ若いころの感覚が多少は残っていて、動ける50代。この年代のうちに後悔の無いように生きていこう。私はまだ、人生を間に合わせようとしている。
2026.09.04
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寝ているのに、疲れて目が覚める|50代、身体だけが通常運転ではない朝起きた瞬間から疲れている。そんなことは、これまでも何度もあった。よく寝たはずなのに身体が重い。まだ布団の中なのに、「ああ、今日も目覚めた瞬間から疲労感」と思う朝。50代にもなれば、それほど珍しいことでもないと思っていた。だが、ここ数日は少し違う。寝ている途中で目が覚める。トイレでもない。物音でもない。暑くて目が覚めた感じとも少し違う。突然、何とも言えない疲労感が身体を覆っている。身体が重い。だるい。寝ているのに疲れている。その疲れで目が覚める。なんだこれ。時計を見る。まだ夜中だ。もう一度寝る。しばらくすると、また目が覚める。そして朝になれば、当然のように疲れている。寝る前より疲れているんじゃないか。そんな気さえする。別に何か特別なことをしたわけではない原因を考えてみる。仕事が急激に忙しくなったわけではない。両親の介護も、いつも通り。子育ても、いつも通り。妻のフォローも、まあいつも通りだ。ここは書き方によっては怒られそうだが、いつも通りである。仕事も、特に変わっていない。つまり、通常運転。何か大きな出来事があって、それで身体が参っているというなら分かる。だが、昨日までやっていたことを、今日もやっているだけだ。それなのに、身体だけが「いや、ちょっと待て」と言っている。そんな感じがする。夏バテなのかまず思いついたのは、夏バテ。今年も暑かった。いや、暑いなんてもんじゃない。外へ出ればそれだけで体力を持っていかれるし、家の中はエアコン、外は猛暑、また中へ入ればエアコン。この繰り返しだけでも、身体にはそれなりに負担がかかっているのだろう。しかも夏というのは妙なもので、その最中より、少し終わりが見えてきたころに疲れが出てくることがある。夏を乗り切ったと思ったら、身体のほうが後から請求書を出してきた。そんな感じなのかもしれない。もちろん本当のところは分からない。もう一つ、心当たりがないわけでもない。酒だ。ここ最近、少しばかり量が増えている。少しばかり。この「少しばかり」が怪しい。酒を飲んでいる本人が使う「少しだけ」ほど信用できない言葉もない。寝付きはいい。だが寝たからといって、身体がちゃんと休んでいるとは限らない。それくらいは私でも分かる。だったら少し減らせよ、という話なのだが、まあそこは自分との話し合いである。疲れは、突然できたものではないのかもしれない考えてみれば、介護も、子育ても、妻のことも、仕事も、一日だけなら大したことではない。一つ一つを見れば、昨日今日始まった話でもない。ずっとやっている。だから自分でも、「いつものこと」になっている。いつものことだから身体も慣れている、と思っていたが、実際は逆だったのかもしれない。毎日少しずつ積み重なって、本人が気づかないところで、どこかに溜まっている。私は昔から、疲れたから休むというより、動けなくなる少し前まで普通に動いてしまうところがある。今日もできた。だから明日もできる。昨日も大丈夫だった。だから今日も大丈夫。そうやっているうちに、ある夜、寝ている私を身体が起こした。おい。ちょっと疲れてるぞ。そう言われたような気もする。とりあえず今日は、身体の言うことを少し聞く原因は分からない。夏バテかもしれない。酒かもしれない。単なる疲れかもしれない。年齢もあるだろう。いくつか重なっているのかもしれない。だから今日は、疲れを何とか一発で消してやろう、とは考えないことにした。そんな都合のいいものがあれば、50代はみんな買っている。少しちゃんと食べる。水分を取る。風呂に入る。酒も少し控える。早めに横になる。それくらいでいい。そして、それでも続くようなら、「疲れているだけ」で片づけないようにはしようと思う。50代になると、身体から来る連絡を、迷惑メールみたいに削除してはいけないのだろう。若いころなら無視しても、翌朝には消えていたものが、最近はしっかり再送されてくる。しかも、何度も。昨夜の私みたいに。寝ているのに疲れて目が覚める。なんとも妙な話だ。だが、身体には身体なりの都合があるのだろう。今日も介護はある。仕事もある。家庭も動いている。たぶん明日も変わらない。だからこそ、自分の身体まで「いつも通りだから大丈夫」にはしないでおこうと思う。今夜は少しだけ、自分の番にする。
2026.09.03
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今年も、あえて9/2に「一人防災の日」|2026年版 明日たまたま助かる確率を上げるために|50代昨日、9月1日は「防災の日」だった。テレビでもネットでも、防災についていろいろ流れていた。そして一日たった今日。たぶん多くの人の日常は、もう普通に戻っている。だから私は今年も、あえて9月2日にやる。「一人防災の日」。昨年も同じことを書いた。防災の日が終わった翌日だからこそ、自分の家をもう一度見る。あれから一年。水はあるか。簡易トイレはあるか。モバイルバッテリーは充電されているか。薬は足りるか。そして今年は、もう一つ思う。「持っている」だけでは駄目なのだ。本当にその場で使えるのか。2026年の私は、そこまで確認してみることにした。一年前に買った防災用品、どこにありますかこれ、意外と怖い。買った。備えた。だから大丈夫。そう思っているものほど、一年後には家のどこかへ消えている。モバイルバッテリーを探したら充電がない。懐中電灯をつけたら電池がない。非常食を見たら期限が近い。簡易トイレは買ったはずなのに、何個残っているか分からない。防災の完成は「買った日」ではなく、そこから毎年やり直す作業のほうにあるのだと思う。今年の一人防災の日は、何を買うかより、「去年の備えがまだ生きているか」を見る日にしたい。画像2026年も、水とトイレはやっぱり外せない横浜市では現在も、飲料水について1人1日3リットル、備蓄は最低3日分、できれば7日分を勧めている。そしてトイレ。2026年4月に更新された横浜市の案内でも、1人1日5セット。最低3日分で15セット。できれば7日分。とされている。例えば5人なら、水は7日で105リットル。トイレは175回分。数字にすると、ものすごい。実際に置こうとすると、「こんなに必要なのか」となる。だが災害のとき、人間は食べるだけでは済まない。飲み、薬を飲み、トイレに行き、身体を拭く。何日も続けば、精神的にもきつくなってくる。昨年の記事でも書いたが、私は東日本大震災を経験した近所のおじいさんから、本当に困ったのはトイレだった、という話を聞いたことがある。これは今でも頭に残っている。水と食料だけ見て、防災をやった気になってはいけないと思う。我が家は「避難所へ行く」が簡単ではないこれも去年と変わらない。我が家には介護が必要な親がいる。大きな災害が起きたからといって、さあ避難所へ行こう、とは簡単にいかない。身体の状態、薬、排泄、移動、階段、その日の体調。動かせない条件がいくつも重なっている。だから自宅が安全なら、家で持ちこたえる可能性を最初から考えている。横浜市も、自宅に倒壊などの危険がなく安全に生活できる場合には「在宅避難」という選択を示しており、家庭の事情に応じた備蓄を求めている。要介護者がいる家庭についても、介護食や紙おむつ、補助具などの準備が挙げられている。我が家なら、常用薬。 お薬手帳。 紙おむつ。 吸水用品。 使い捨て手袋。 介護用品。 そして夜に手元を照らせる照明。普通の防災セットは、あくまで「一般家庭用」だ。最後は自分の家用に作り直さなければならない。地震が起きた、その瞬間去年は、火を確認する、ブレーカーを落とす、家族を確認する、そんな順番で書いた。今年はもっと単純に考える。最初は、自分が死なないこと。頭を守る。倒れてくるものから離れる。揺れが収まってから家族を見る。出口を見る。火を見る。靴を履く。自分が動けなくなれば、誰かを助けることもできない。介護する人間が倒れれば、介護される人も困る。これは防災に限らず、普段の介護でも同じなのかもしれない。そして2026年、もう一つ気になっているのが火山灰だ地震だけではない。首都圏で生活している以上、富士山の噴火による降灰も無視できない。ここについては、この一年で私の考え方も少し変わった。以前は、富士山が噴いたら大変だ、電車も車も止まり外から助けが来ない、だから家で耐えるしかない、そんな感覚で書いていた。現在、国の広域降灰対策では、大規模な降灰が起きた場合、状況によってはむやみに移動せず「できる限り降灰域内に留まって自宅等で生活を継続する」ことを基本としている。噴火したらすぐ逃げればいい、とも限らないということだ。道路も鉄道もどうなるか分からない。灰の中を大量の人が一斉に移動すること自体が、危険になる可能性もある。だからここでも、家で数日持ちこたえられるかが効いてくる。水。食料。トイレ。電源。薬。結局また、地味な備えに戻ってくる。今年の15分点検難しいことはしない。今日やるなら、私はこれでいいと思っている。1 家にある水を数える。2 簡易トイレの残数を見る。3 モバイルバッテリーを充電する。4 懐中電灯を実際につける。5 常用薬とお薬手帳を確認する。6 非常食の期限を見る。7 家族が避難するとしたら、どう動くか一度だけ考える。これだけ。防災用品をネットで検索して満足するより、懐中電灯のスイッチを一回押したほうがいい。水を買おうと思うより、いま家に何本あるのか数えたほうがいい。15分あればできる。52歳になった私が思うこと昨年この記事を書いた私は51歳だった。一年たって52歳になった。防災に対する考え方は、それほど劇的には変わっていない。災害なんて来ないほうがいい。一生、非常食を非常時に食べることなく終わったほうがいい。簡易トイレも、モバイルバッテリーも、防災用品も、全部無駄になればいい。「買ったのに使わなかったな」と笑って終われれば、それが一番だ。でも未来のことだけは分からない。明日の朝かもしれない。一年後かもしれない。何十年後かもしれない。だから今年もやる。9月1日に思い出して、9月2日に動く。そしてできれば、9月3日以降も忘れない。普通に暮らすために、少しだけ先回りしておく。今日、水を一本増やす。充電を一本しておく。トイレパックを一箱確認する。そんな小さなことでいい。今日やったことが、いつかの自分や家族を、たまたま助けるかもしれない。その確率をほんの少し上げておく。今年も私は、それでいいと思っている。
2026.09.02
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血液型で人を決めつけるのは好きではないし、科学的根拠がないことも理解している。しかし、身の回りを見渡してみると、「あれ、意外と当たってるんじゃないか?」と思うことが多々ある。これは一体なぜなのだろうか。自分自身のケース:完璧なO型まず、筆者自身がO型なのだが、これがもう驚くほど「O型らしいO型」なのだ。適当、自由奔放、ざっくばらんで細かいことは気にしない。基本的に楽天的で、物事に執着しない。こういう性格だからこそ、「血液型診断なんて根拠ないし、どうでもいい」と考えつつも、結局「でも当たってるんだよな…」と妙に納得してしまう。周囲の人間もことごとく当てはまる友人たちを見てみても、血液型の性格診断と驚くほど一致するケースが多い。たとえば、AB型の友人が二人いるのだが、彼らはまさに「AB型」の典型だ。AB型の友人A:非常に頭の回転が速く、ズバズバと物事を言う。合理的で、無駄を嫌う。だが、時々何を考えているのか分からないところがあり、掴みどころがない。AB型の友人B:こちらも非常に知的で論理的。興味があることには徹底的にのめり込むが、そうでないことには驚くほど冷淡。独特の世界観を持ち、周囲と一線を画している。さらにA型の友人を見ても、「いかにもA型」という感じの人ばかりだ。A型の友人:とにかく几帳面。計画を立ててコツコツと物事を進める。細かいところまで気を配る性格で、ルールをしっかり守るタイプ。几帳面すぎて逆に神経をすり減らしてしまうこともある。これがB型になると、これまた典型的な「B型らしいB型」の人が多い。B型の知人:とにかくマイペース。自分の好きなことには一直線だが、それ以外には関心がない。自由を愛し、束縛されるのを嫌う。なぜこんなにも当てはまるのか?血液型性格診断は科学的根拠がないと言われるが、それでも多くの人が「当たっている」と感じるのにはいくつか理由がある。1. バーナム効果占いや性格診断などによく見られる心理現象で、誰にでも当てはまりそうな曖昧な内容を、自分にぴったりだと感じてしまう効果のこと。たとえば「O型はおおらかで社交的」と言われれば、多少なりともそういう面を持っている人は「やっぱり当たってる!」と思ってしまう。2. 自己暗示・先入観「A型は几帳面」と聞いて育ったA型の人は、無意識に几帳面であろうとする可能性がある。同様に、「B型は自由奔放」と言われ続けたB型の人は、自分の自由さを肯定するようになる。このように、血液型による性格傾向は、実は文化的・社会的な影響によって作られている部分が大きいのかもしれない。3. 選択的認知人は、自分の考えを補強する情報に目を向け、そうでない情報は無視しがちだ。たとえば、「O型は大雑把」と思っていると、大雑把なO型の人ばかりが目につき、几帳面なO型の人は記憶に残りにくい。その結果、「やっぱりO型は大雑把だ!」と確信を深めてしまう。それでも「血液型ってあるかも」と思ってしまう科学的根拠がないと頭では分かっていても、実際に当てはまるケースが多いと、「やっぱり血液型って影響してるのでは?」と思ってしまうのが人間の心理だろう。もちろん、性格は血液型だけで決まるものではなく、育った環境や経験、人間関係など多くの要素が関わっている。しかし、血液型の話題は、日本では一種の「共通言語」のようなものになっており、会話のきっかけやアイスブレイクとしても使いやすい。「信じないけど、でも当たるんだよな…」というこの微妙な感覚こそ、血液型性格診断が長く語り継がれる理由なのかもしれない。
2026.09.01
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