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Oct 31, 2007
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サイカイアトリーのドクターによる理念的なアプローチ。Dr. Kiev は、精神医学の人である。日本では、誠心書房から、トランス文化精神医学の本が出て居た。恐らく、下地としては、生物学派プラス社会文化派だと思うが、「生物としての人間」の可能性が其の文化圏で支配的な価値観に基づく「社会常識」に縛られて仕舞って、十全に、個人がその能力を発揮出来ない事を問題にしている。「社会常識」とは、その文化圏が決定して仕舞った「人生の原理・原則」詰まり「人生は、これこれこの様に出来て居るのだから・・・。」と、子供の頃から、その文化によって為されて来た「教育」と言う「刷り込み」と考えて良いだろう。Dr. は70年代に「人生の戦略」をテーマにした本を書いて、ベストセラーにして居るが、テーマをトレーディングに絞ると「具体的な方法論」の部分がかなり弱く、その分、「理念的」に為って仕舞って居る。それでも、例えば「貴方が遣って居る事で、トレーディングに関係無く、遣りたくもない事があれば、全部、辞めて仕舞えば良いのです。」と言う、「反社会常識」的なメッセージが、「目から鱗だ」と思う人には、本書の「理念的なアプローチ」は大きな意味を持つ。尚、DVDを見ると、「本当に、このドクター、善人だなー。」と個人的に思って仕舞う。例えば「どんな心理テストを受けても『貴方は、トレーダーには向いてません』と言う結果など出て来ないのです。」と言って、参加者を勇気づけているし・・・。人間個人の能力を縛るものと戦う、と言う姿勢や、人の可能性に対して、全幅の信頼を寄せて居る感が有る。
Oct 28, 2007
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ジョン・キャパスの「メンタル・バンク」の本に続いてもう一冊、私が、推薦する潜在意識系列の良書が、この4行日記の本である。キャパスの本と同様、具体的に「やり方」が説明されているだけで無く、本書自体が書き込み式のワークブックである。また、日記を50日間書き続ける事による「習慣化」の効用のみならず、潜在意識が「受け付ける言葉」と「受け付けない言葉」についても、2002年の時点で解説して居た本書は、当時からかなり、「先進的」だったとも言える。結局、「潜在意識で幾ら儲けた」系列の本は、「運が良かった」だけなので、「方法論」が確立出来ず、その「運の良さ」についても再現性も無し。と言う事は、「運の良い状態の維持」については「神頼み」であり、「神様」の代わりに「潜在意識様」がいらっしゃるので、皆さん一緒に御祈り致しましょう、と言う「新興宗教」紛いの世界に行って仕舞うのである。其の「食い物」にされるのは、「蒙昧為る人々」であり、私の「サイコロジー」関係の一連のレヴューは、「知性撲滅運動」に対するレジスタンスでもある。尚、斉藤一人氏の「ついてるついてる」に関しては如何なのか、は河合隼雄『こころの処方箋』のレヴューの中で、私の考えを述べて置いた。
Oct 27, 2007
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DVDでよくわかる5分間ヒーリングヨーガエクササイズとして、ヨガを遣って居る。peak performance の書かれた頃はエアロビクスやウォーキング・サイクリングの様な有酸素運動全盛時代だったが、ヨガやピラティスの様な「ゆっくり系」でも特に問題は無いだろう。アメリカで、パワーヨガが中心なのは、矢張り食べた分だけ、何らかのエクササイズによるカロリー消費の必要が有る、と言う発想かも知れん。本書は、2つくらいのポーズを組み合わせてサーキット方式で、1回5分程度で終了出来る様に為って居る。「ストレス解消」「緊張緩和」と言った感じで目的別の組み合わせである。1回分終わったら、其の儘、横に為って「死体のポーズ」でメディテイションをして仕舞っても良い。「融通無碍」である。システムがシグナルを出すまでの「間の時間」には丁度良いのだ。私は、もう、3年位前から、メカニカル・システム・トレーディングとエクササイズであるヨガを、「同時に」組み合わせて実行して居る。
Oct 27, 2007
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プロのトレーダーが料理の本のレヴューを書くのは奇妙に見えるかも知れない。しかし、peak performance で、あくまで「ひとつのアスペクト」では有るが、「健康維持」について語られて居る。VANの専門は、サイコロジーだが、其の人間の「内面世界」が「外部的行動」と為って現れると言う事ならば、当然「食行動」の問題も「こころの問題」とリンクしているし、ストレス・コントロールと言う点に於いて、非常に重要である。また、SSFFF『魔術師たちの投資術』で述べられて居たFFN・・・経済自由数との絡みで言えば、「安上がりでヘルシーな食事を取る」と言う事は、「一石二鳥」である。実際に、5年以上前に為るが、VANは当時発行して居た、紙のレポート「マーケット・マスタリー特集号」で「日常生活の節約戦略」を20以上挙げて居た事もあった。もうひとつ、SSFFFの日本語版では、「自己破壊」と言う訳語が、極めて唐突に登場しているだけだが、本来は、この概念はself-sabotageである。例えば1.アルコールの飲み過ぎ2.カフェインの過剰摂取3.糖分の取り過ぎ4.喫煙等は、self-sabotage の極めて判り易い例である。因みにアメリカ市場には昼休みが無い事は、良く知られて居るがpeak performance vol.2 には、1日5食のメニュー例が載って居て、一回の食事の量は当然少ないのだが、何時何分に何をどれだけ食べるか、と言った事まで書かれて居る。尚、マクロ・ビオティックの方が peak perfomanceの書かれた当時よりも、新しい栄養学に基づいているのは当然だが、カロリーの60%を炭水化物から25%を脂肪から15%を蛋白質から摂取する事をVANは勧めて居る。脂肪は、魚の不飽和脂肪酸、植物性のリノール酸を含む。日本人ならば、肉の飽和脂肪酸を欧米人よりも避けた方が良いかも知れない。また、複数の種類の炭水化物を摂取する事も勧めて居る。例えば、1日に同じ種類のパンだけを食べるのでは無く、全粒小麦のロールパンと雑穀のブラン・マフィンを組み合わせる様に。と言う事で、身長178cm体重61kgウェスト81cmで、既に40代後半の私は、昨今は「心理よりも食」にフォーカスする事で、「現象的レヴェルで」、ストレス管理を遣って行こうと心掛けて居るのである。
Oct 27, 2007
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「運の良さで儲ける」とか「潜在意識で幾ら儲けた」関係のオカルト金儲け本の著者で、河合氏の本書を元ネタにしている者はまだ、「まとも」かも知れない。「棚から牡丹餅にも努力が必要」と言うのは、本書に収録されているが、1.先ず、「自分で」牡丹餅を作って置かねば為らない。2.次に、作った牡丹餅を「自分」で棚の上に乗せて置かねば 為らない。3.更に、「自分で」作った牡丹餅を「自分で」棚の上に 乗せて置いた事を忘れ去っていなければ為らない。この3段階を、河合氏は「努力」と考えて居る。「幸運の種は『自分で』蒔け。」と言う事で遠回りに「自助努力」を説いている様にも読めるが、「結果的に見れば、幸運も『ある種の必然』の結果」とも読める。だとしたら、「運」である訳が無い。「運」と言うのは、原則的に「偶然」だから。尤も、そこで安直に「シンクロニシティ」の概念を持ち出す者も居るだろうが、「宮官鳥の様に」言葉だけ持ち出して、「煙に巻いて居る」だけかも知れない。本当に「概念的」に理解して居る者ならば、自分の「実体験」した、シンクロニシティについて、百も二百も実例を挙げられるだろう。日常茶飯事だから「神秘体験」の様には考えないのだ。と言う事は、斉藤一人さんの様に「ついてるついてる」は何なのか、と言うと、INCANTATION詰まり、「おまじない」であり、河合氏の言う「呪文」であり、それを言って居ると「気持ちが楽になるので言って居る。正しいか如何か、教えられたから如何だとかでは無い。」と言う事になるのだろう。本書は一般書と言うよりも、エッセイ集なのでユング心理学入門の一番簡単なものを読みたい人には『魂にメスは要らない』を勧める。
Oct 26, 2007
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或いはwhat i am attached to「私が愛着を感じて居る物・事」と言えば聞こえは良いが「私が、人生に於いて括り付けられて居る物・事」と言う意味である。vanが挙げて居る事例に「家」に拘って居る男性の事例が有る。この人は、マイホーム・ローンを払う為に、1日12時間以上働き土日も家に仕事を持ち帰り、「家族と過ごす」時間も余り無い。ローンを早く返したいのでトレーディングをしているが失敗続き。トレーディングの為の、研究の時間が取れないだけで無く売買活動そのものが杜撰過ぎるからである。この人のbeing attached toの「対象」は「家」であり、トレーディングでは無い。この人にとって「家」は「家族と過ごす」為に必要不可欠なので、決して手放そうとはしない。しかし、本当に「実際に家族と過ごす為の『家』」かと言うと...。林輝太郎氏だったら「本末転倒」だと言うだろう。van はwhat i am attached toと対比する為にwhat i loveについて考えて見る事を勧めて居る。vanに寄れば「若し、この人がトレーディングが『大好き』ならば、『家』を売って、トレーディングの資金を作り、相場で成功して自分の好きな『家』をローンでは無く、現金で買って居たでしょう。」上記の様に1.being attached to2.loveの対象物・対象事項のリスト・アップをして行くと、1の「自分が人生に於いて括り付けられて居るもので遣りたくもの無いのに遣って居る事や、欲しくも無いのに欲しいと思い込んで錯覚して居るだけの物」のリストが、出来あがって仕舞うので1日もしない内に、自分のbeing attached toの対象物・対象事項を放棄する様に為って仕舞う。詰まり、「馬鹿馬鹿しくなって辞めて仕舞う」のだ。そんな事は。私も、トレーディングを秋から休み続けて自分のattachmentが判った。このブログである。特に10月に入ってから頻繁過ぎるほど更新してきた。今後は3日に1度か2日に1度にする予定だ。とは、書いたものの、2のwhat i loveに属する事柄もある。シネマ・レヴューと書評である。此れは、私自身がタープ派に為る以前から、今はもう終了して仕舞ったホームページに書き続けて来た。其れは、自分の「大好きな事」なのでこのブログでも、継続して行く。また、書評の中にはトレーディング関係の物も含むので、其方方面の記事も書きたい時には当然、書く。
Oct 25, 2007
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The Why Cafewhy cafe の登場人物たちが語るエピソードでもうひとつ、興味深かったものを挙げておく。cafe の女性客の語る以下の様なエピソード。・・・・・・・・・・・・・・・・私は、スキューバ・ダイヴィングが趣味で何時も、大きな河口の近くで潜って居るの。その日も、スキューバをしていたら、一匹の海亀が、私のすぐ近くを泳いでいたのね。最初は気が付かなかったけれど、その海亀は、私が苦労して、自分の行きたい方へと泳ぐのと比べると、もっと、ずっと楽に方向転換したりして、苦も無く泳いでいるのよ。どうしてだろうと思って、一寸観察して見て判ったんだけれど、海亀は、「潮の流れ」の方向に乗って泳いでいたの。「潮目」や海流を敏感に察知して、その「流れ」に逆らわず、その「流れ」の方向に泳いでいたのよ。・・・・・・・・・・・・・察しの良い人は、もう、「話の流れ」が見えたと思うが、「トレンド・フォロワー」の話である。日本人の「逆張り好き」と対比的なエピソードだが、日本人的な「流れに抵抗する」エピソードの典型例が斉藤一人氏の語る、次の様なもの。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「運が良くなる」時にはね、「前兆」ってのがあります。それは「抵抗」と言う形で出て来るんです。例えば、会社で仕事を頑張って、もうじき課長くらいに出世できそうな時って、こんな「前兆」が出てくる。他の同僚たちが「お前、そんな仕事一生懸命遣る必要無いからさあ。今日、飲みに行こうぜ。」とか言い始めて来る。これが「仕事やるな」って言う「抵抗」なんです。こう言う「抵抗」が現れたら、「よーし、これは出世の『前兆』なんだ」と思って、もっと、どんどん仕事する。そうすると、そういう「抵抗」も無くなって同僚たちも何も言わなくなって、出世できちゃうんです。・・・・・・・・・・・・・・・・「飛行機が離陸するとき向かい風があった方が離陸し易い」と言うのも、日本人が好む「比喩」である。確かに、滑走路を走る飛行機の推進方向と逆のベクトルの風があれば、翼の下に大きな揚力を与えてくれる。翼の断面図に、力学的なベクトル矢印を描いて、飛行機は何故飛ぶのかを「科学的に」説明出来なくとも、この「比喩」を好む日本人は多いと思う。航空力学に詳しくなくとも殆ど「信念」の様に「信じ込んでいる」人も少なくないだろう。先に挙げた海亀の話も、飛行機の話も、どちらも「真実」である。「真実」とは「科学的真実」と言う意味で。だが、人生はサイエンスでは無い。トレーディングもサイエンスでは無い。システム・トレーディングも、ポジション・サイジングも決してサイエンスでは無い。では、何か。ART である。The art of being a trader
Oct 24, 2007
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セルフ・サボタージュと言うのは、VANが提示している概念である。日本語版の SSFFF『魔術師たちの投資術』では、「自己破壊」と訳されて居るが、実際には、もう少し「複雑」と言うか、「味わい深い」概念である。以下は、VANの挙げて居る事例では無く私が理解している範囲内でのセルフ・サボタージュの例である。1.土日休日には、1日14時間以上寝て仕舞う。2.1回の食事で、2人前食べて仕舞う。3.一晩に、ビール瓶4本以上を開けて仕舞う。4.1日に、煙草を2箱以上吸って仕舞う。何れも「破壊的」であるのが判ると思う。特に「日常生活」にとって、「破壊的」だと言う事がトレーディングに関して大きな問題と為る。my life=myselfと考えて居る人にとっては「自己破壊」そのものと為る。この様な「人生・生活」に対して、破壊的な行動と言うのは「仕事に支障を来す」のは当然なのだが、こう言う「破壊的行動」を生活上、実行しながら、「俺なんか、まだ、それでも会社に雇って貰ってるもんねー。」と言う人は、ある種の「給料泥棒」かも知れない。そう言うタイプの人はサラリーマン他を遣りながらのトレーディング為らば、まだ、「自分の人生を破壊して仕舞う」可能性は少ないのだが、所謂、専業トレーダーに為った場合、日本で良く言われる所の「樹海行き」に為る可能性が高い。林輝太郎氏の本などにはそう言う「白骨死体」で見つかった、嘗ては1億円儲けたAさんの話などが載って居る。
Oct 24, 2007
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掲示板は一時書き込み禁止とした。石川氏との確執のあった時期に合せて、矢鱈、無意味な書き込みが増えた為。関係有るかどうかは、不明である。
Oct 24, 2007
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再び、「近代」VS「前近代」の構図に基づいてレヴューをする。永瀬の演ずる主人公は、あるポイント、ある「時点」で、ラストと同様の「生き方の選択」が可能だった。松たか子を、嫁ぎ先の商家から引き取り、彼女が健康を回復した時点で、綜像は侍の身分を捨て、松の演ずる、農民の娘きえと共に、蝦夷に渡り、商人に。勿論、主人公が、こんな選択をしたのでは、「剣の果し合い」も「鬼の爪のシーン」も「西洋式の軍事調練」も、その後、描かれる事は無く、「映画」として、成立しない。しかし、近代人ならば、「自分の人生を中心に功利主義に基づく『合理的な選択』をする」のは、当然であり、自分の「生き方の選択」を見て、他人が如何言う「気持ち」に為るか等と言う事は、一切、関知しない。だが、前近代人の綜像には、「生き方を選ぶ」、詰まり「選択」と言う概念が存在しない。挟間との決闘や、家老の緒方拳との確執の後、漸く、「侍の身分を捨てよう」と言う「気持ち!」に為って、「実際の行動」に移す。同時に、1860年代と言う、其の時代に相応しい「近代人」と言う「生き方」が実行できる様に為り、松の演ずるきえとも結ばれる。そうして見ると、最初は「前近代人」だった綜像が、ラストでは「近代人」として生きて行く様になるまでの、「変化のプロセス」を描いた「映画」だとも、解釈出来る。だとしたら、「『近代人』にとって『武士道』とは?」と言う形で、「日本人にとって『近代的自我』とは?」と言った「夏目漱石的問題」を「『転倒』させて見た」作品なのかも知れない。・・・「鬼の爪のシーン」での綜像は、殆ど8割方、「近代人」として行動したと考えて良いだろう。彼個人の「自由意思」に基づく行動だからだ。・・・確かにラスト・シーンは「ハッピー・エンド」だ。しかし、豪い遠回りだった。『清兵衛』が「家族の絆」を描いているので、アメリカ人には『鬼の爪』よりも「受けが良い」と良く言われるが、一部のアメリカ人には、19世紀後半に新天地の蝦夷に渡り、「近代人」として生きて行こうとした綜像の「選択」を、同じ時代に、ヨーロッパから、新天地アメリカへと渡って生きて行こうと「選択」をした、自分達の先祖の姿に「重ね合わせて」見て居る者もいる。但し、少数派かも知れない。今年4月に亡くなったカート・ヴォネガットが、ブッシュ・ゴアの双方を「歴史も知らず、異文化に対する理解も無いボンボンに過ぎない」とボロクソに言っていたのは、そう言う「文脈」の中で、とも受け取られる。
Oct 22, 2007
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意識の世界で始まった物語が、物凄く、唯物論的な終わり方をする。マトリックス世界自体は、ソフトウェアの世界だが、スミスと言う一つのプログラムの暴走によって、ソフトウェアのレヴェルでは、その制御が、にっちもさっちも、いかなくなった時に、結局、ハードウェアのスィッチを、OFFにして、ソフトウェアを強制終了する事によって、「マトリックス世界」を初期化して、もう一度、一から始めると、そういう選択を、デウス・エス・マキナ-詰まり、機械知性の神-は、とった訳だが、デウス・エス・マキナ自体が、ハードウェアを司っている立場に居るので、こう言う時位しか、出番が無いとも言える。それで、人間の方も、ハードウェア・レヴェルで対処するのだが、此処で、デウス・エス・マキナのハードのスィッチの役を果たしてくれるのが、ネオの肉体である。まあ、機械の神の「依り代」と考えて良い。結局、ソフトウェア世界で、ネオはスミス相手に、ドラゴンボール的な戦闘を、続けるのだが、スミスがネオに接続した時点で、デウスが、ハード面から、強制終了のスィッチを、「ポチッ」と押してしまうので、結局、其処で「終了」なのである。その一方で、ミフネ船長達がマシンの一団と、現実世界で、ガンダム的、或いは、ボトムズ的戦闘を、いい加減、ウンザリする位、延々と続けるのだが、此方の方は最初っから最後まで、ずうっと、ハード。-但し、このハードと言うのは、戦闘がハードであり、ミフネ達のキャラクターが、渋くてハードボイルドで有るのと、同時に、ハードウェア世界での出来事と言う意味で「ハード」と言う事でもある。そして、この物語は、一つの「完結」を迎える。-此れは「完結」であり、『エヴァンゲリオン』の様な「終局」ではない。-ネオは、結局死ぬのだが、ハードウェアである肉体の死が、「本当の死」かどうかは、判らない。あの世は有るかもしれないし、無いかも知れない。また、輪廻転生が、あるのかも知れないし、無いのかも知れない。唯、一つ言えるのは、肉体的な物理的な死が、一つの「終わり」だと言う事である。詰まり、ソフトウェアである魂は存在するかも知れないし、その存在は不滅かも知れない。しかし、其れは、兎も角として、肉体と言うハードウェアの死は現世での「今生の生」の「終わり」だと言う事だ。肉体と言うハードウェアのスィッチが切れて、其処で、一旦、「終了」である。その後、再び、スィッチが、ONになるかどうかは、判らない。しかし、そもそも、そのハードウェアのスィッチをONにするとしたら、それは一体、誰なのだ。誰の手が、そのハードのスィッチをONにすると言うのだ。片や、マトリックスは、再び「システムのアノマリー」を生み出し、「NEOの魂」と言うソフトウェアを懲りもせず、またもや、勝手に用意して仕舞うだろう。そして、「誰か-ONE」の肉体・ハードウェアへとマトリックス其れ自体が知らない内にインストール。「誰が」では無く、「現象として」、主体も存在する事無くインストールが実行されて仕舞う。その後は、繰り返される「輪廻の地獄」。
Oct 20, 2007
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魔術師たちの投資術原書を、2004年10月にIITM(DOT)COMより、購入。その後、2005年に日本語版を購入。本書で述べられている、エピソードで今でも、考え続けているものの、一つにVAN自身の次の様な、実体験が有る。(そのテーマは「責任を取る事」である。)VANは、その頃、自家用車として、ダッジに乗っていた。最初、セダンとして設計されたそれは、メーカーが急遽、路線変更して、スポーティセダンとして、売り出すため、ヴォクソールのでかいエンジンを載せるために、ボンネットにでっかいバルジが、張り出していた。VANは、その車が、大っ嫌いだった。いや、憎んでいた。(‘I HATED IT'と述べている。ピークパフォーマンス他のCD教材でも、繰り返しこのエピソードを述べ、その度に、‘I HATED'と言っている。)当時、買い換える金が無かったVANは、大嫌いなそのダッジに乗り続けていたが、その車との別れは意外に、早く来た。あるコーナーを曲がるとき、事故を起こし、車は大破し、運転していたVANは殆ど、無傷だった。VANは、鉄屑同然になったその(嘗てはダッジだった)車の残骸を見ながら、考えていた。「私はこれを望んでいた。この、嘗ては車だった鉄屑を憎んでいた。その嘗てはダッジだった車を憎み、それを、破壊する事を心の底から、望んでいた。」人は、結局、皆が、マーケットから自分の望むものを手に入れるのだ、と言うエド・スイコータの言葉もVANはよく引用する。トレーディングで儲けても、損をしても、「妻が、何やかやと煩くて煩くて...。」と、その度毎に文句ばかり言って居る人が最終的に、「破産」して、配偶者に去られた場合、「慰謝料を、全然払わずに」、煩わしくて仕様が無かった配偶者と、離婚出来たので考え方によっては、この人の「望み」は達成出来たとも言える。尚、翻訳は「酷い」の一語に尽きる。一例を挙げると、p.353の「1Rの敗者7人」は、「1Rの負けトレード7回」「5Rの敗者1人」は、「5Rの負けトレード1回」「10Rの勝者2人」は、「10Rの勝ちトレード2回」が正しいし、ken long のファンド名に至っては中学レヴェルの英単語の発音ひとつ、満足に出来ない様な訳者が、訳していると言う事実を如実に物語って居る。私が、何故、某アマゾンのレヴューで上記の様に、VANの車の名前を「意図的に」間違えて遣ったのか判る人には、判るだろう。判らない者は「一生判らないままで」居てくれれば、大変有り難い。
Oct 19, 2007
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下の記事で「既に和訳のある本」と述べていたのが此方の本である。本書の中でブランデン自身が「若しも、算数のドリルブックを買ってきても『読むだけ』では意味が有りません。実際にエクササイズをしてこそ、算数の計算能力が、身に付くのです。」と書いている通り、本書はワークブックである。実際にエクササイズを遣らなければ意味が無い。其れに「能力が身に付く」のと、同様「自身を育てる」、或いは「自己評価を高める」と言う事も訓練を積み重ねる事で得られる「自己評価能力」だと言う事も実際に遣って見れば、良く判る。必要なものはノートとボールペン。其れに此方は英語の辞書も特に必要は無い。但し、最初のうちは「苦しい」し、「辛い」だろう。「自己対決」の道は、「潜在意識でなんたらかんたら」の様に決して、「御手軽で安直」なものでは無いからだ。
Oct 16, 2007
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Six Pillars of Self-EsteemThe Six Pillars of Self-Esteem: The Difinitve Work on Self-Esteem by the Leading Pioneer in the Fielマーフィーを始めとする「潜在意識で成功する」の エピゴーネン・「亜流」と言うよりも、殆ど「訳判らず」の トンデモ本が、雨後の筍の如く出版されて久しい。 「格差社会」的な状況の中で、「新興宗教」紛いの様相を 呈する昨今である。 さて、何度か他の本のレヴューの中で触れて来た ナサニエル・ブランデンのセルフ・エスティームの 「総まとめ」的なポジションに位置するのが本書である。 ブランデン自身も「自分の此れまでの仕事の纏め」と 既に、和訳の在る本の中で述べて居る。 ポイントは、「意識的に生きると言う事」。 即ち、「無意識的に生きて来た生き方」と言うのは 其の人間にとって「一つの惰性」に過ぎない。 昔、『現代思想』誌別冊の『禅特集』号の中で 岸田秀氏が、何人かの仏教学者と対談して居たが、 「要するに『無意識』って事は、頭が悪いだけで 全部『意識』してしまえば良いんですよ。」との 発言があった。「意識」の力で成功しようと思っている人には 「潜在意識で成功」よりも、此方の「考え方」の方が フィットするだろう。 特に、「何でもかんでも『潜在意識・無意識』だったら 考えなくて楽だろうし、面倒臭くも無いだろうが、 唯、単に『馬鹿に為れ』って事じゃ無いのか...。」と 思う人も、少なからず居るかもしれないが、そう言うタイプの 「潜在意識様万々歳」の現状に違和感を抱いている人向けである。 考え方としては、初期のNLPに通じる部分がある。 sub-self 「副次的自己」と言う考え方である。 NLPで、複数部分が集まって、一人の人間の 「自己」が出来て居ると言う考え方と同様、 「副次的自己」・「下位自己」が自分の中に 複数存在して、それら全ての「部分」に気づき 受容すると言う「セルフ・コミュニケイション技法」を 提示している。 具体的なエクササイズは、巻末に纏めて載って居るし、 必要なものは、ノートとボールペンだけである。人に 拠っては、英語の辞書も。 毎日20分か30分早起きをしてエクササイズをして、 週末には、ウィークデイのエクササイズの 纏めを遣ると言う形式に為って居る。
Oct 16, 2007
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「謙る」と言う事が道徳的な価値であると言う考え方が、日本では支配的だったし、今でもそうかもしれない。「謙譲」の美徳と言う奴である。誰か「他人」を、自分よりも上に、「心理的に」配置する。そして、自分は「其の他人」よりも、「心理的に」下であると、自分で、一方的に勝手に思い込む。言わば「信念」である。自分で自分を「他人」よりも下に配置して、自分で自分の「自己評価」を勝手に貶めている。阿呆らしい限りである。
Oct 15, 2007
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「記述式英作文」が出題される国立二次試験英語対策を遣るとする。生徒は偏差値47.5か、50程度だとする。「和文英訳」で、日本語文が5行程度で、センテンスにして4文有るとする。また、生徒は高3生で、時期的には4月か、5月だとする。講師は、行き成り、「記述式英作文」を生徒に遣らせる事は無い。先ず、教材としては、4つの日本語のセンテンスを、英文にして置く。其の後、其々の英文を「整序英作」にする。詰まり、「並べ替え」の英作文にして小問で4題の「小テスト」にする。この位にして置けば、受験勉強を本格的に始めて間もない、偏差値50未満の現役生でも、それ程、無理なく対応出来る。「出題形式」からして、馴染み深いし、高校の定期テストと、さして変らない様な表現を用意して置いて遣るので、生徒の方も、難し過ぎて「ビックラこいちゃう」と言う事も無い。以上、長々と語って来たのは、実は「メタファ」である。私が先日、石川臨太郎氏のブログ上でその様な「易しい問題」を4つ程、「匿名」でコメントして石川氏に全問正解させて遣って、彼に「花を持たせて」から、私の方から、歩み寄って「和解の提案」を述べたら、石川氏は返事も無く、彼のブログ上のコメントを全部削除して仕舞ったと言うのが、事の次第である。
Oct 14, 2007
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「憎む」に値する以前に「軽蔑」に値する。
Oct 14, 2007
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「知識のひけらかし」と言うのは無知なる者の、知者への嫉妬。
Oct 14, 2007
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「適性」と言った方がより適切かも知れない。例えば、50歳過ぎて、突然「哲学」に目覚めた人が居たとする。この人は自分の「人生経験」にプラスして、30年前の「現代思想」を手に入れて、「天下を取った様な気分」に為って居るかも知れない。しかし、既に20歳の時に其の当時の「現代思想」については、充分に勉強し、其の後、30年間に亘って「哲学方面」の考察を続けて来た人が、別に居たとする。前者は、自分自身が「経験の産物」で有り、そう言う自分を「語る言葉」を手に入れたので、嬉しくて仕様が無い。一方、後者は先に「言葉」を手に入れ、其の後で、「人生経験」。どちらが「良いか悪いか」の問題では無い。益してや、「優劣」を競う事も無意味である。前者と後者とでは、唯、単に「生き方」が違ったと言う其れだけの事である。
Oct 13, 2007
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訳の判らん説教をされてしまった。如何にも1950年代生まれらしい訳の判らん説教をするのが大好きなオヤジと言うか、所謂「U35世代」にとって、典型的な「付き合いたくない上司」のタイプかも知れない。事の顛末はこうである。先日、石川氏のブログに内田樹氏の文章が引用されていた。私は、内田氏の文章についてコメント。そしたら、石川氏の返事が、何と「相場に関する説教」。私は、タープ派のメカニカル・システム・トレーダーなので、その内容自体が、点で「的外れ」。石川氏が得意の筈の「相場心理」に関する「抽象論」でも、「潜在意識」のなんたら、でもない。かと言って、「行動心理学的」なアプローチでもなく、NLPでもない。実に「中途半端」である。ついでに、内田氏の文章については極めて唐突に「短い文章の真意を汲み取る事が重要です。」と書かれていただけ。私は、トレーダーに為る以前は十数年に亘るキャリアを持つ大学受験英語のプロだが、石川氏が「国語教育」に携わって、「文章読解」の指導をしていたと言う話は特に聞いた事も無い。まったく、訳の判らん説教をしたがるオッサンである。彼が、「会社人間」として、辛酸を嘗めたのも、当然だと思う。上司としても「U35世代」からは、疎んじられる、若しくは、馬鹿にされるか相手にされない、典型的なタイプだろう。この人、さっさと「相場で成功出来ちゃって」本当に「ツイテル」と思う。本書については、石川氏の仲間内のブログで「一部引用箇所」が読める事が多い。私は「この程度なら」と購入し無い事を決定したが、若し、本屋で立ち読みが出来なかったら、そう言うブログを探して、目を通して見た方が良い。
Oct 10, 2007
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そんな事を気にしているのは、君だけだ。ken long に薦められて、3年以上前に読んだ。その頃は、彼が陸軍の退役将校だとは知らなかったし、老荘思想やヴェーダからの引用の多いポストを送る人物だったので、てっきり、中国系アメリカ人だと思って居た。さて、本書 why cafe だが、主人公はLAの広告代理店に勤める30歳くらいのサラリーマン。サービス残業が毎日の様に続き、午後11時過ぎに会社を出て、車に乗って帰路に着く。尚、アメリカでは、サービス残業と言う考え方は無く、一日の業務を定時までに、終える事の出来ない人間は仕事能力に於いて「無能」であり、仕事を「効率的」に進めて行く「能力が劣る」と見做され、其のビジネスでの「昇進」は、愚か、「リストラ予備軍」とされる。其の為、主人公のストレスも、溜まり捲くりである。其の日、何時ものハイウエイが工事中で、別の道を通って帰ろうとするが、道に迷ってしまう。夕食もろくに喰わずに残業をしていたので腹も減って来て堪らない。そんな彼の前に一軒のCAFEが現れる。其の名はwhy are you here cafe「君は、何故此処に居るのだ」と言う意味である。本書にも其の記述が有るが、丸で「トワイライト・ゾーン」の様な設定で始まる、この物語は、cafe のシェフである主人や、其の奥さんや、他の客と一晩、色々な話をして過ごし、cafe での二食目である、モーニングを食べるまで、自分の「生き方」について、主人公は考えて見る様に為る。多くのエピソードが登場人物達に拠って語られるが、個人的に最も「興味深かった」し、今でも「興味深いの」が以下の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・僕が夢の中で、ゴルフを遣っているんだが、物凄く「変」な所に、ボールが落ちる。木の枝のまたの所に挟まっていて、地上から7,8フィートの所だとか、何故か知らないが、ゴルフ場の中に「あづまや」が有って、その窓枠の桟の所に乗っかっていたりする。アイアンでも何でもクラブで打とうとしても、打てたもんじゃ無い。僕は、途方に暮れてボールを見ているんだけれど、或る事を思い付く。「ボールを動かして見よう。」最初は、物凄く気に為った。ルールを破っている訳だから。でも、実際に、尤も夢の中なんだけれど、夢の中で実際にボールを動かして見ても、誰も何も言わない。それどころか、気にも留めない。要するに「其れを気にしているのは、『自分だけ』」だったんだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自意識過剰は、日本人の専売特許かと言うと、そうでもないらしい。また、「他人の目が気に為る」と言うのが日本人的だとするならば、近代市民社会は「契約社会」なのだから、「ルールは守らねば為らない」と言う「信念」は、欧米人的とも言える。システムのルール自体は幾ら変えても「誰も文句は言わない」。それどころか「ルールを作っているのは自分自身なのだから、結局の所、気にしているのは『自分だけ』」である。タープ派は、ガチガチの「システム野朗の集団」かと言うと、こう言う「ルール偏重主義」の解毒剤にも為る様な「生き方」の本についても、皆、結構読んでいるし、私は、2004年当時のIITMから本書を購入した。尚、ken long が何者かについては、Dr.バン・タープの『魔術師たちの投資術』を参照の事。
Oct 9, 2007
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東大生や一橋大生は、田舎の成人式出席の為に、態々、帰省するか。察しの良い人は、もうお気付きの通り、また「大衆論」である。帰省自体はするだろう。懐かしければ成人式にも出席はするだろうが、先ず、田舎の市長を始めとする連中の戯言の如きスピーチなんぞは聴かない。聴きたくもない。そもそも、自分よりも遙かに頭の悪い人間の説教なんぞ、19か20歳に為る「大人の人間」が聞く訳が無いでは無いか。そんなもの聞いたところで別に、一円も儲かる訳では無し。田舎の地方大学出身者か、MARCHか、日東駒専か、精々、早慶上智レヴェルの出身者である、市長や来賓の「戯言同然」の馬鹿話を、2時間も3時間も聴いているとしたら、単なる時間の浪費で有る。別に「荒れる成人式」に絡めて、こんな記事を書いている訳でもないし、そもそも、十月のこの時期では、完全に季節外れなのだが、何故、唐突にと言うと、「馬鹿が多過ぎる」のだ。・・・・・・・・・・・・・・・一旦、朝食にするので、切り。
Oct 9, 2007
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其の後200年が過ぎて、例の「倫理規範体系」はどうなったのか。「其の後」と言うのは、17世紀前半を舞台にした、仲代達也主演の『切腹』であり、其の時代の「武士道」が、200年以上過ぎた、1860年代初めにはどうなったのか、と言う意味である。本作の舞台は、山田洋次が監督した前作の時代劇『たそがれ精兵衛』と同様、幕末の東北である。さて、『切腹』では、仲代に「人を斬った事の無い剣術等、所詮は、畳の上の水練」と哂われた、太平の世の剣術だが、本作の主人公の永瀬は、「手入れをする時以外には、刀を抜いた事も無い」との事である。トクガワ・サムライ・ガバンメントが齎した、250年間の平和は近世日本に「鳩時計を生み出しただけだった」。時代は、既に1861年、アメリカ市民戦争が始まっていて、初期タイプのガトリング・ガンが実戦運用されている。主人公の永瀬を始めとする数十石の禄高の下級武士達は「藩命」により、西洋式の「軍事操練」の訓練を受けている。「砲術」に始まり、西洋式の「行進」、更に「ナンバ歩き」や「ナンバ走り」を矯正して、西洋式の走法を身に付けるのに豪い苦労をしている有様。更に、永瀬達にとって、重要な問題は「社会共同体」内部での、自分の立場であり、士農工商の身分制度の手前、主人公永瀬は互いに想いを寄せる、松たか子と、「自由恋愛」も「自由結婚」も出来ない。前作『精兵衛』が、経済的事情で、真田広之が宮沢りえと、最後の最後まで、結ばれなかったのと、比べると、永瀬の方は、まだ、幾分は、経済的な余裕も有るし、身分を言うならば、武士の娘ではなく、農民の娘の松たか子にとって、貧乏暮らし自体は、別段、如何と言う事も無い。では、何が、問題なのか。「共同体論」的問題である。コミュニティの中での自分達のポジションが、他の共同体構成員に認められるか如何か、と言う様な、近代ならば、殆ど問題に為る事の無い「身分を超えた恋愛」が、「一寸した泣かせる話」に為って居ると言う其れだけの事。要するに「世間様」の目って奴を、気にし過ぎているだけなのだが、そう言う「前近代性」に、まだノスタルジーを感じている日本人が多いらしい。『精兵衛』が、『国家の品格』の路線だとすると、此方は『バカの壁』の路線か。決闘のシーンは、長くなるので今回は割愛するが、「鬼の爪」は戦国時代に実戦で用いられる様な代物では、丸で無かった。此れは、言うなれば「特殊な暗器」に拠る、非常に洗練された暗殺法であり、刃渡り数センチ程度のナイフと同じく、「近接戦」でなければ、用を為さない。此れで、家老の緒方拳を一撃で倒すのだが、若しも、実戦でこの位の小刀を使うのならば、鎧甲冑の隙間を衝いている暇など無いので、普通は、頚動脈を切る。敵が馬上に居る等、間合いが遠すぎる場合は別だが、近接格闘戦ならば、敵が鎧を着ていても、首の周りは隙だらけなので、頚動脈を狙うのは必定である。しかし、この映画では場所が場所である。城内の廊下で緒方拳の頚動脈を切ったら、辺り一面血の海になるし、永瀬本人は確実に返り血を浴びるだろう。其処で、「鬼の爪」の出番である。幸い太平の世が続いた自分の藩内の城中なので、緒方拳は甲冑などは付けては居ないし、油断し捲くりであり、永瀬との距離にして、数十センチの所まで近づいて来てくれる。永瀬は、羽織袴だけの緒方拳の心臓を、ピンポイントで衝くのだが、「鬼の爪」の構造上の特殊性と、永瀬の「衝き」の訓練の賜物で、緒方拳の胸には出血らしい出血が、殆ど無いまま、即死に至らしめる。此処で描かれて居るのは「暴力の洗練」である。「社会的な場」を超えた所で実行される、純然たる「力」が、如何なる精錬加工も為されて居ない「純粋な『原』暴力」であるのに対して、或る「文化的なコード・システム」に支配された「社会的構造体内部」では、其の「記号体系」に基づいてソフィスティケイトされた「記号的暴力」を実行しなければ為らない。関が原以前の戦国時代から比べれば、近世日本の「社会自体の成熟」とも考えられるし、観客の中には、「此れでは、藤枝梅安と同じ。」と受け取る者も居るだろう。しかし、この映画の時代は『仕掛人梅安』よりも、もっと後なのだから、19世紀後半の「戦闘」と言うものが、この位洗練されているのも、当然かも知れない。何れにしろ、映画前半で「時代状況」を田中邦衛に語る永瀬の台詞の中に「源平以来、700年に亘り、刀と槍、弓矢しか使わない戦闘を、ずっと続けて来た」と言う言葉が、有るとおり、カノン砲や、ライフル銃、そして、最初期の重機関銃であるガトリングガンも実用化されている1860年代の戦争が、片方に有り、もう片方に、西洋諸国が実際に戦ってる「生の戦争」とは異なる、鎖国社会日本の極めて特殊な状況下での「文化的洗練を受けた『戦闘』」が有ると言う「二重写し」の「幕末期の日本」を描いた映画だが、もう一つ、「剣での果し合い」も、絡んで来るので「三重に錯綜した時代の『戦争の絵姿』」が描かれているとも言える。恋愛や人間関係は、「前近代的」で単純極まりないし、山田洋次と言う人は「悪人を描く事が殆ど出来ない」らしいので、兎に角「時代状況と『戦闘』」の部分が、「錯綜的」と言えるほど複雑な描き方・・何しろ、700年分を圧縮して描こうとしているので当たり前だが・・其れが、滅茶苦茶な「複雑さ」を提示しているのに対して、人間関係中心のドラマトゥルギー部分は、すっげーシンプルなのである。
Oct 8, 2007
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くたばるが良い。どいつもこいつも。「くたばれ、小僧!」に対して、「くたばれ、おっさん。」と冷やかに、そして穏やかに返して来た。この私も、20代の頃から。幸いな事に、26年も前に本書を読ん仕舞って居るんでね。通底される破壊のテーマ。広島に落ちた原爆の「父」の一人が残した、摂氏42度の氷の結晶。無垢なる魂の男、彼ハニカー博士はそのアイスナインを家に持ち帰って、キッチンで散々、実験御遊びを繰り返し、一休みしようと、リヴィングの籐椅子に腰掛けたまま、あの世行き。尤も、「あの世」とやらが在るかどうか、在ったとしてもハニカー博士が「あの世」に「この世」と同じ位、興味を持つかどうか。其れは兎も角、この世に残った博士の3人の子供達は、アイスナインには興味を持った。語り手の「私」は、ハニカー博士の同僚へのインタヴューの中で、話には聞いて居た。アイスナインについては。しかし、其れが「実在」すると言う事実は、「私」の「カラース」の「ピーターワン」が導く「私」の「運命と同時に、其の偶然」を、「私」に信じさせざるを得なくさせる。詰まり、簡単に言うとこう言う事だ。「『私』はボコノン教徒に為った」と。ボコノンの書の中で、カリプソは歌う。「トランペットは鳴るだろう。トランペットは鳴るだろう。」喇叭が鳴って世界は滅びる。そう。聖書に有る通りだが、喇叭は鳴らずに、世界は「壮大なるズシーン」で勝手に滅びて仕舞う。おまけにボコノンの書は「大嘘」で「出鱈目」の塊である。ついでに、ボコノン自身もペテン師のイカサマ野郎の爺である。更に、このレヴュアーも「大嘘吐き」で、先に挙げたカリプソは、アレッホ・カルペンティエールの『バロック協奏曲』の1節であり、本書『猫のゆりかご』とは何の関係も無い。「フォーマ」である。大嘘である。如何様である。ペテンである。インチキである。人間は判った心算に為って無くちゃ為らん。仕様が無いのだよ。生きて行く為にはね。
Oct 4, 2007
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「生き方」。ken longが、物凄い「侍映画」マニアで、彼から薦められて見た。仲代達也が、まだ三十歳になるかならぬかの頃の作品だが、孫のある爺さんの役を演じている。重厚と言う言葉だけでは語れないほどの「迫力」。プレッシャーに次ぐ、プレッシャー。死を賭した者のみが、尋常ならざるほどの「覚悟」を以って遂げようとする、其の「本懐」。仲代が、井伊家家老の三國連太郎に浴びせる「哄笑」。確かに、仲代演じる主人公の半四郎は、此処へ「死にに」来た。だが、其れ以前に「哂いに」来たのだ。体面だけに汲々とする「上っ面の武士道」を。仲代の半四郎が、井伊家よりの「預かり物」と称して、放り出す「物体」。丸で、ポーの「盗まれた手紙」の如く、仲代が、井伊家の門に現れた時から、この物語の行く末は、「決定」していた。ポーのデュパンの様に仲代の半四郎は、この映画の冒頭から、ストーリーの支配者・コントローラーだった。仲代演じる主人公は言う。「今日は他人事でも、明日は我が身とか。」この台詞は、「正社員・派遣社員・アルバイト・フリーター・ニート」と言う「現代の身分制度」に汲々としている、所謂「U35世代」にも重く響くかも知れん。尚、ken long が何者かは、Dr.バン・タープの『魔術師たちの投資術』を参照の事。
Oct 3, 2007
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