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私は、時々時代遅れの言葉を使うらしくて笑われるのでづが、「老いらくの恋」という言葉、現代の日本でもつかってますか?昨日はレスリー(グレッグの姉)と久々に映画館で映画をみてきました。最近は大きなスクリーンのテレビで、お金を払えば、ソファーに横たわりながら自宅でも色んな映画をみられるので、映画館から足が遠のいていたのですが、女性向で絶対にグレッグは見ないであろう映画だったので、レスリーと映画をみて食事をしてきました。さて、どの映画だと思いますか?親友のラナは一月以上ヨーロッパ旅行中でスピードウォークも怠ってますが、彼女はこの映画館に毎週のようにくるみたいですし、ブッククラブに所属してますから、帰国したらきっと見にくるでしょう。映画館にいったら、パーキングをみつけるのが大変なほどの人で驚きました。シニアは水曜の午前中に始まる映画は$6.50だったのです。我々の選んだのはBook Club. つまり読書クラブという意味で、結構周りにも沢山あります。友達があつまって、月に一度とか二度とかメンバーの家で新しい本を紹介して読み、読書後スナックをしながら感想会などをやるのですが、この映画の主人公は4人、レスリーや私位の歳の人達。つまり皆70歳以上。ダイアン(ダイアン・キートン)は最近未亡人になった人で子育て、主婦業に一生をささげたような人で、自分の幸せを追求したことがない。ビビアン(ジェーン・フォンダ)は男性をアクセサリーのように扱って、企業の成功者でデートはするけど独身をとおしてきた、シャロン(キャンディス・バーゲン)は現役の裁判官で何十年も前に離婚したままで男なんか信用できないタイプ、キャロル(メリー・スティーンバーゲン)は長い結婚生活で怠慢期。その四人が、”50Shades of Grey" という本を読んでから、「この歳で恋なんて・・」みたいな感じだったのが、狂い咲きをしたように男性との関係に興味を持ち出して、それぞれに凄い事になる..。まあ、ハリウッドのハッピーエンド物語でしたが、それぞれの考えや、行動に自分達にも当てはまる部分が沢山でてくるので、笑ったり泣いたり。。。とにかく会場は80%くらい埋まっていて二人共楽しんできました。ありえるような、ありえないような「老い楽の恋」物語で、気楽に楽しめる映画です。
2018.05.31
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実は上に述べた母の姉にあたる叔母のアンが、すでにカリフォルニアの銀行で働いていて、そのつてでホームステイが出来る話がもちあがったのですが、それは母の猛反対で見送ることになりました。「軽い家事の手伝い、アイロンかけと交換に部屋と食事お小遣いを与え学校にいってよろしい」というもので、「私の娘が女中の真似などやってほしくない」という理由だったのです。私自身は「自宅だって同じ事やるし、面白そうなのに」と思ってましたが諦めました。(昭和時代です)大きな夢をみていたのは私だけでなく、従姉妹も男尊女卑で女性の出世は無理だった日本から出たがっていて、「いつか、二人共絶対にアメリカに住もう」と膨らむ夢を徹夜で話し合い「もう3時よ、早く寝なさい!」と何度も叔母に叱られたものです。皆さんはアメリカに住みたいって、ハワイだってアメリカなのにと思うでしょうが、ハワイは永い事植民地であって合衆国の一つの州になったのは1959年なので、当時の日本人にはハワイと本土は別の国のような感じだったのです。その従姉妹と一月かけて北海道を旅行中に観光バスで外国人数人とめぐりあったのだがきっかけで、その中の一人と2年間、文通を続けた結果が国際結婚となって、まずハワイに落ち着きました。1964年の事でした。そして私が数年前にキャンセルしたホームステイ先には半年遅れで従姉妹が行くことになったから彼女の夢も叶ったのです。従姉妹のホームステイ先は、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを見下ろす丘の上に二つも大きなビルを持つ人の家で、360度の眺めのペントハウスの部屋をもらい、軽い家事を手伝いながら学校に通うことになりました。後に私もそのビルのペントハウスを見ましたが、映画でみる豪邸の一部をみるようでまだアメリカに来たてでしたから夢みたいに素晴らしいと思いました。ひょっとしたら私がそこに住んでいたわけです。叔母のアンがそのビルの一階にあった銀行で働いていた時、そのビルの持ち主と懇意になって私にホームステイの話がもちあがったわけです。アンも日本脱出を試みて達成した一人というか、長女だったアンは戦争の爲、裕福な生活からホームレスで未亡人になった自分の母親を助けたい気持ちでいっぱいだったのでしょう。ティーン時代ドイツに留学中に第二次世界大戦になり帰国したアンは焼夷弾で青山の実家が全焼後、家族ばらばらで、あちこちを転々としていた時代に母親(私の祖母)に家を買うには、貧乏国の日本では絶対に無理、さてどうしようと夢の計画をたてたわけです。最低賃金の仕事だってままならなかった時代です。男性でさえ就職難でしたから女性ならなお更の事。そこで英語が出来たアンはアメリカ軍がアーニーパイル劇場として使っていた、現在の宝塚で劇場アッシャーとして働き空軍士官と結婚してカリフォルニアに来たのです。1ドルが360円時代でしたからアンの5,6年の貯金の送金で我々は世田谷にあった小さな掘立小屋のような一軒を買って住みはじめました。子供だった私にとって、ちょくちょくアメリカから洋服や素敵なバッグが送られてきたり、間借りや借家でなく、自分達の家ができた喜びは最高でした。ハリウッド映画やテレビ番組が沢山日本に入って来て物に飢えていた当時の従姉妹や私のような若者達はアメリカ・イコール生活安定の近道、夢を叶える土地と考えるようになっていたのです。(まだ黒白テレビの時代)「これだ!私は、これについてスピーチをしよう!」と決め、大学のクラスで発表「今この年齢で大学生になれたのもプラス思考で前向きに、ネバーギブアップ精神で生きて来たからではないかと思います。ですから、やろうと思えば誰にでも夢を叶えることはできる筈」と結びA+の成績を獲得。私は49歳になってました。 この短大でオールAを取ったことで、カリフォルニア大学にも難なく転校でき、やがて高校と大学の教師になる道を開いてくれたわけです。
2018.05.30
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若いコーラス仲間が、二人目のお子さんをまもなく出産するので、皆で集まって祝ってきました。日本では来てくれた人にお返しをするのだといって、帰りにはお土産までいただいて驚きました。アメリカではThank youカードを出すだけです。皆で、飴でできた乳首をくわえて記念撮影今日は、グレッグに沢山の本をくれる友達に会いにロスに行き、いつものように昼食をしたのですが、イクラ美味しいと言っても、こんな出し方されたら、食欲なくなりますよね。いくら、皿洗いの手間がはぶけるといっても。
2018.05.30
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私の気付きのスタート点は遅かった: 私自身が驚くべき発見をしたのは、50歳前後でした。下の息子が21才になり、大学をそろそろ卒業するころだったので、長年の夢であった「大学を出て教師になりたい」チャンスが来たとみた私は、まず二年制のコミュニティー・カレッジの学生になりました。必修科目として、スピーチのクラスがあり何を話そうかと考えてもちっとも良いアイディアが浮かばず悩んでいて、「ええぃ!こういう時は長年掃除してなかった押入れの整理でもしよう」と古いダンボールを開けたのです。すると、かび臭い小さな6冊の手帳が出て来て、中から一枚の紙切れが落ちました。10代に書いていた日記だったのです。その紙切れは「夢のリスト」でした。ティーン時代の夢であったことや戦後の日本の食糧難、物資難時代だったことも反映していて、中には*食べたい時に好きなだけお寿司が食べられるようになりたい、*ハリウッド映画の影響でバブルバスにつかりたい、*これまたアメリカ・テレビ番組の影響でシェパードを飼いたいとか言うほほえましいものもありましたが、夢リストはどんどん続いて*ハワイに行きたい、*英語が堪能になりたい*アメリカに住みたい、*世界中を旅したい、*グランド・ピアノがほしい、*大学を卒業して先生になりたい、*オペラ歌手になりたい、などなど、びっしり書いてありました。それらは1ドルが360円時代でしたから、一部の人を除いて当時の日本人には、とてつもない夢でした。 ところがリストを読むほどに、不思議や不思議、その殆どを叶えていたことに気付いたのです。まずはハワイに住みました。また長年ピアノを教えてたのでグランドピアノもあるし、英語は堪能になってるし外国にも何度も旅をしています。そして、その時は大学生になっていたわけですから、着々と先生になる準備をしていたわけです。抱いた夢は結構叶ってるのだなあ、でも計画通りにいくのではなく、どれが先になるか後になるか、どういう風に巡ってくるのかはわからないから、夢は見続けるものだんだなあと思いました。成長と共に立場や環境も夢も変わってきますが、この手帳が出て来た時点で、日本を二個のスーツケースと$500だけ持って出て来た同い年の従姉妹も家を何軒ももつようにいなっていたし、叔母などスーツケース一つに、普段着で買い物かごだけで渡米して(これは家族、知り合いの間でも語り草になってました)家も車も買い、日本にいた自分の母親に家まで買ってます。「やろう!」と心に決めたことは結構知らない内に叶っているんだ、でもどうしてそうなるのかその辺が知りたいと思いはじめました。そしてもう一つ気付いたのは、「やろう!」という思いが強ければ強いほどゴールに着くのが速いということで、例えばハワイにあこがれてウクレレを独学で学んで歌ってましたが、ノートにはヤシの木のしたでウクレレを弾いてる絵まで描いてあるのを発見。そくらい熱心に夢をみていたからでしょうか、この夢は想像してから数年のうちに叶っています。おしまいの方で、理論的に説明しますが暫くは経験物語を楽しんでみてください。
2018.05.29
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世の中、周りにはセレブが自家用ジェット機やヨットなどを持ってるのをみます。大企業の社長、発明家、政治家、冒険家、芸能関係、アーチスト、科学者、哲学者・・・などなどそれぞれ活躍しています。そして、セレブでなくても飛行機のパイロットや漫画家、カーレーサー、ツアーガイドになって自分の夢を叶え人生を謳歌してる人も大勢います。一方、いつまでも思ったような人生に追いつかないで苦労に苦労を重ねている人も、ホームレスも大勢います。でもこの人達は皆、白紙でこの世に生まれて来たのですよ。そして、それぞれの今の場所にたどり着いた理由もあるわけです。 勿論、生まれてみたらプリンセスであったり、大富豪の子であったりする場合もあるし、片親や、薬中、貧乏のどん底の両親に生まれてくる人もいます。私の場合は戦争中に生れ流浪の民のようにあちこち移動しましたが、人はそれぞれ、そだつ過程で「夢」がうまれてくるものだと思います。夢というと、なんか手がとどかない遠くの話みたいきこえるなら、ゴール、欲、希望、目的と言い換えてみればわかります。これなら、すぐ手が届くところにある感じでもあり、過半数は達成してる筈です。もろもろの成功につながる言葉に(万里の道も一歩から)というのがありますが、大きなゴールは小さなゴールを続けることです。 では夢を叶える人と、叶えない人の違いはなんだろうと考えてみました。筆頭の人々をみると彼等の共通点は「出来る、やってみるという前向きな態度」「努力する」「諦めない」「フォーカス出来る」等に気づきます。更に他人を押しのけてでも、不道徳なことをしても先に出ようとする人もいるだろうし「運」もある筈ですが、これとてネガティブの人より、プラス思考の人の方が運を引寄せやすいようです。ただ、私は因果の法則は巡りめぐるというのを信じていますから、道徳を守ります。本題にもどって、叶う・叶わないの違いはどうして起こるのだろうかと深く考えてみました。そして歳と共にだんだんわかってきました。 この書は私をはじめ、家族、友達、知人達の「夢を叶えた」経験談を入れながら、私自身の70余年を振り返って書いてみたものです。 夢やゴールや望みを叶える事は誰でもできる:先ずこれを信じてください。こういうと「いや、それは出来る人も出来ない人もいますよ」という人が必ず出てきますが、実は誰でもが小規模で毎日やっていることなのです。例えば、見たい、食べたい、飲みたい、行きたい、読みたい、という「たい」や「ほしい」のつくものは、全て夢や望み、または目的のグループにはいり、それらの多くは果たされている筈です。そして、そのゴールに着くために、なにかを「しなければならない」という行動、それは義務や任務の部類に属します。例えば、大学を卒業したい:勉強をしなければならない外国に行きたい:パスポートを手にいれなければならないショーを見たい:入場券を買わなければならないしたがって、ショーを見ることから、良い成績をとること、海外進出から、お金持ちになる事、結婚すること、ロケットで月に行くこと、健康になること、もろもろの夢を叶えるためには、この「たい」と「しなければならない」の両方が必要になります。「すしが食べたい」は、希望、ゴール、夢のたぐい。ただ、頭にお寿司を思い浮かべても目の前に「はい、きましたよ、食べてください」と寿司が現れるわけではなく、お寿司屋に行くなり、パックしたのを買いに行かなければならないのです。その爲にはお金も必要になります。つまり、夢を叶えるには義務も忘れてはならない。行動が伴います。こう言うと必ず、「何だ馬鹿らしい、そんな事は決まりきったことだ!誰でも知ってるさ」という人が出てきます。そういう態度は、もうその時点で多くの夢の可能性を消してしまうのです。「外国に行く?ケッ!一生できっこないよ」「外国語学んだってメシ食えねえよ」「その顔で俳優になるだ?」こういう考えの人は、時と共に「試してみなきゃ分からない」「ダメモトでやってみる」とプラス思考で試してみる人に大きな差を付けられるはずです。何故なら、まず頭に夢を抱いて楽しむことからはじまるからです。 前書きが長くなりましたが、この書は赤ん坊が初めて自分でほしいものを手にいれて喜ぶように、初めての仕事が手に入った興奮のように、初めての給料で何かを買えた満足感のように、毎日出来る小さいことをやって体全体で感じ、じょじょに未来の夢の規模を広げて意義ある、楽しい人生を築こう、と大志を抱く人のお手伝いをするのが目的です。
2018.05.27
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もう10年くらい前になるでしょうか?ひょんなことから、文京学院大学の新入生に「やる気を起こす」スピーチをしてほしいと学長からたのまれて、「時間はどのくらいでしょうか」と聞くと「2時間ですが、1時間半をスピーチにあて、30分を質疑応答にしてください」との事でした。 するとアイディアが次々に浮かんできたので、まとめて下書きをしました。スピーチも好評だったので、いつか本にしようと思ってる内に76歳になってしまったのです。あと何年生きるか分からないので、どなたかのお役に立つかもしれないから、公開しようときめました。 別に何の専門家でもありませんが、私は殆どの夢を叶えたので、どうやって叶えたかその過程をいれながら皆様にシェアーすることにしました。 毎日書くわけにはいかないので、他のブログの合間に、「プラス思考の導き」とかいて、番号をつけ明日から載せてみますので興味のおありのかたはどうぞ。写真日記: 何だか、あちらで昼食会、学芸会、朝食によばれたり、明日はベビー・シャワー、毎日があっというまに過ぎ去ります。ご近所に改築したキッチン見に来て~と、朝食に招かれ楽しんできました。こんなキッチンがほしいなあと思いましたが、車が買えちゃうほどの値段がかかるので、どうやろうか思案中です。我が家のは40年前のでボロボロですから。グレッグが、「ハチドリが、へんな所に巣をつくった」というので見たら、枯れたハッパの茎に巣をつくってました。「ハチドリ学校落第生」この枯れ葉だとちょっとさわっただけで落ちる可能性があるのです。雛がとびたつまで、ガードナー(庭師)には近づかないように言わないと…
2018.05.27
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英語圏の国では、Throwback Thursday, Flash-back Friday とか、こじつけ的な言葉を作って、木、金は思い出の日としてブログなどでそれぞれの思い出を載せますから私は娘の思い出を載せる事にしました。 娘のジュンは、1969年5月にホノルルで生まれ一月内に父親の実家のある南カリフォルニアのラグナ・ビーチという海辺の町に移ってきました。話し出すのも、読みだすのも早く、18か月で、200の単語のスペルが出来ちゃったのです。本が大好きで子供の詩を読んでやると30ページでも丸暗記してしまい、クリブに寝かすとその詩を繰り返しながら寝てしまうような子でした。 ですから2才でもちゃんと会話ができたのですが、絵を描き始めたのもそのころなんです。テレビのアニメが気に入って、「アミネ家になりゅ」と、もうそのころから決めてましたから、私は一緒にアニメを見たり、電話帳のはしに、ロケットが月に飛ぶ絵を描いてやり、それをパラパラすると動いて見えるのを楽しんでましたが、小学生の時に図書館でアニメの作り方の本を借り、近所の歯医者のアランが8ミリカメラを貸してくれたので、自分でアニメを作り始めたのです。 中学になると、ただ単に「私はアニメ家になる」ではなく「私は世界中の子供がみるアニメの監督になる」といってました。高校時代は地元のテレビ局が学校の始まる一時間前にテレビ番組の作り方などを教えてくれるクラスを作ってくれたので、娘は皆より一時間早く登校してそのクラスをとってましたが、その内に彼女の作品はおもしろいからと、テレビ局が隔週ごとに彼女のコメディー番組を放映するように計らってくれたので、卒業するまで自分の番組をつくってました。先生やクラスメートを俳優にして8ミリビデオカメラで作ってました。 大学では、映画監督科で勉強してましたが、クラスメートは有名人の子が多く卒業しても普通の監督の仕事など手にはいりそうもないと思ったそうで、アニメ専門に替えたのです。アニメなら親の七光りより実力がものを言いますから。 アニメの教授は「君には何も教えることはない。この設備を自由に使って作品をつくりなさい」といって、研究室の鍵をもらい、自由に出入りをして二分の手描きのアニメを二年かけて作りました。一秒に何十枚もの絵を描くので二分でも二年かかるのです。他の学科もあるわけですからね。それを、教授が彼女に内緒でアジア映画祭に投稿したら二位に入ってしまったので、ニューヨークの映画祭に私も一緒に参加しました。娘は19歳でした。 ですから卒業とともに、すぐワーナー・ブラザースに就職し、次には今なくなったハナ・バーペラというアニメの会社でテレビアニメ映画の監督になりいくつか作品を作りました。その内にディズニーからスカウトが来てアメリカで最年少(29歳)の女性の劇場アニメ監督になったのです。その時の作品がこのティガー・ムービーです。 以後、あちこちの会社で監督やらストーリーボードをやって、日本(ティガーの一部は東京の荻久保スタジオ)カナダ、インド、スコットランド、アイルランドと世界中をかけまわって監督をしてます。現在はグラフィック・小説を描きながら、ある会社で極秘の仕事をしています。極秘ですから私も知りません。余談:ある日、娘が「私、遊びながらこんなに高級もらってなんだか悪い気がする」といったのですが、私の子育てはまさにそれを目指しました。つまり、子供が好きなこと興味をもってることを、みつけたら、それを育ててやるのです。アニメでも、料理家でも、音楽家でも、先生でも、大工でもなんでもいいのです。それが一番幸せな大人を作ると思いますよ。つまり、天からいただいた才能をのばす手伝いをするのです。これなら楽しみながら上達するのですよ。
2018.05.19
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孫次男坊の高校最後のステージを見に行き、翌朝は娘が一日早い「母の日」の朝食につれてってくれ。今日はこれからコーラス仲間の家で練習と親睦会を兼ねたポットラック。こちらは、今日が母の日です。Happy Mother's Day!娘もブラッドの子供三人を育て一人は大学一年をおわらせ、次男坊は高校を卒業寸前、末っ子は高校一年を終わらせるところです。早いですね。私も、ベットの横に母、祖母、先祖の写真がおいてあるので毎朝、晩、感謝をしています。戦後の貧乏な日本で母は一人で三人育て上げてくれました。大変なことだったと思います。私の子育ては比較的らくでした。全世界のお母様方、ありがとうございます!
2018.05.14
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昨日、ご飯のあと台所で食器を洗っていたら、 (どうして、僕にオハシをくれなかったのだ) と、グレッグが文句を言ったので (え?フォークで食べてたじゃない)と、答えると、 (ずるいよ、ヒロコはないしょで、オハシをたべて、こんなに沢山あるのに)と、言うので なんだと思ったら、枝豆のことでした。 それにしても、枝豆のことをお箸って!間違えるにもほどがある。 爆笑😃 グレッグは、時々日本語の単語
2018.05.11
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えっと、今日はアメリカは7日で、娘の誕生日ですが、それは横においといて。。。。。世の中は、お金がないから出来ない。。。周りをかざったり、人を招待したり楽しむ余裕はありません。友達もできなくて、毎日がつまらなくて、等という人であふれてます。そうじゃないのです。何年か前に文教学院大学で「プラス思考の導き」という講義をしたことがありますが、何事もまず「たい」から始まるのです。鯛じゃありません、「食べたい」「飲みたい」「見たい」「行きたい」のたいです。ほしい、とかWantもおなじ。つまり、希望、ゴール、欲、夢、みたいなものです。次に、「ああ、こうすれがいいのだ」という気付き。その気付きはあなたの中に、周りに沢山あるのですよ。しぜんの中に、友達との会話の中に、広告のなかに、香の中に、味の中に。。。。などなど。。。。眼耳鼻舌身意=第六感をフルに利用することです)つまり、気付きね。次はそれをタイミングよく行動に移す。。。それが実現につながります。もちろん目的や努力いかんで実現に漕ぎつく時間はちがいます。私は、自分の家を買い「たい」という夢は31歳の時に叶えました。とにかく一番安い団地のタウンハウスといって、二軒が繋がってる家で、福祉を受けてる人でも国が援助してくれるような場所だったのですが、新築で自分達の家のはじまりです。経済的に余裕がくても、家の内外を楽しくきれいに飾り「たい」ので、あ!っと気付いたのがアメリカのガレージセールね。最初のピアノなど、$125で買ったのです。それから、だんだん、前夫の「自分の家を自分達の手でたてたい」を手伝って20年かけて建てました。離婚した時に置いてきちゃいましたけど。。。いずれは子供達のものになるかもしれません。台所には、沢山のバスケットなどに果物をいれてかざったり、日本からもってきた、竹細工なども壁にかざったり。。。自分で絵を描いてかざったり。水槽にメダカみたいな魚を飼ってみたり。自分でマクラメを編んで植木鉢をいれて入口の天井からつりおろしたり、殆どただのようなものばかり。その内に先生になり「たい」夢も子育てが終わってからカリフォルニア大学をでて、53歳で叶えましたよ。数年でしたが子供達や前夫のでた高校と名ばかりは大学という大学で教えました。ま、話が飛躍してしまったけど、筆頭にもどると、お金がないからできない、友達ができないからつまらないじゃなくて、まず夢をみることです。ただ漫然とお金がほしいのではなく、何をしたい、何がほしいとはっきりしたゴールを頭に描くのですよ。その夢が強ければ強いほど叶うチャンスが大きくなります。人を招待したくても余裕がない。。。じゃなくて、「招待したい」とまず考え、色々想像するのです。経済力がなければ、持ち寄りパーティーでいいじゃないですか。紙のお皿だっていいのです。野原の花を摘んで、空き瓶に花をかざってもいいのです。ようするに「やる気」があればできるのです。私は安く楽しむ方法の名人です。なんちゃって!でも経験をシェアーしましょう。テーブルセットを良く褒められますけど、昔は自分でナプキンも縫ってました。それを格好よく折ったりしてお皿にのせるだけでも楽しくなります。秋なら、落ち葉を拾ってきてテーブルにちらしますし、今頃ならガラスの器に水をいれて庭に咲いてる紅白の椿のはなびらをうかべたりね。ナスタチュームやタンポポの花などを、サラダにのっけてみたり、スイカをバスケットの形にくりぬいて、フルーツサラダをつくったり。。。。これら、カリフォルニアでは殆どお金はかかりません。オレンジなども安いのでくりぬいて、デザートのジェローなどの入れ物にしますよ。日本人はお弁当をみれば、どんなに器用でアイディアマンが多いかわかります。今はプロの絵描きと住んでますから家の中は美術館みたいになってますが、ベランダの花など、いただきものか、コンポスから出て来た木とか、一枝いただいたのを増やすからほぼ無料です。中庭に池がほしいなあ。。。。と思ってからバケツからはじめて、大きなプラスチックに入れたりしてる内にネットという便利なもので、池用の厚地のプラスチックが手に入ることを知りました。収納用プラスチックのは水圧で曲がってしまったり、割れるのもはやいので安物買の銭失いなんです。この池だって$100前後でできました。本来は土をほって埋めるのでしょうが、コンクリートの中庭なので草木でごまかしてます。次は、水槽に直射日光がつよくて、苔がすぐ生えるのでそれを遮るオーニングがほしいなあと思いましたが、一番やすいので$500もするし、光をとおさないものばかり。それで、「あ!」と閃いたのが、シャワーカーテンの棒ね、あれは6フィートでもアジャストできるしやすい、その上にドアや窓のスクリーンを二重にして張ったのです。そのメッシュは前のプロジェクトで残っていたので、結局は$30以下でできちゃったのです。これだと、季節によって場所を替えるのも簡単です。これで出来上がり。蘭も直射日光がこなくなって喜んでます。次に、ぼうぼうと、ただ生えていたジュニパー、グレッグが「これ、トリムしてみたら?じゃなかったらすてちゃおおうか」というので、どうせすてるなら。。。。と盆栽にしちゃいました。切る前、生れて初めてですけど、日本で盆栽をみて育ってますからね、枝にそって余計なものをバサバサきっていったら。。。こんなになりました。これも無料です。グレッグの弟が「こんなものいらない」と言ったのを、グレッグがもってきたのが数年前。なんだか、そのまま水まいていたのですよ。ぼうぼうで、土もみえなかった木をトリムしていたら、瀬戸物のおじいさんが座っていたので、元々は盆栽だったものかもしれません。こんな風にして、デッキも裏庭も前庭、横庭、ほぼお金もかけず、だんだん楽しくなってきてます。
2018.05.08
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尺八という名前は、その名の通り、1.8尺の長さの竹笛。私が小学校の頃、この尺というメジャーリング・システムからメートル方に替わったのですけどね、祖母などは死ぬまで尺の定規で着物を縫ってました。アメリカに来てメートル方から今度はフィート、インチに頭を切り替えなければならず、暫くはなれませんでしたが、今では自然にどのくらいの長さか分かります。ところで、そのフィートが分かりかけて来た時に、あ!日本の尺と同じ位だなあと感じたのです。つまり、昔の一尺というのはこちらの1フィートくらいなんです。話が可なり飛躍してしまったけど、尺八の独特な音色は、ちょっと曇った月夜などに聴くと心にじーんとしみますが、時代劇などで虚無僧がふいてますよね。このシンプルで、わび・さびを感じさせる笛がだんだん日本から消えていきましたが、現代では日本の名人の中にカリフォルニア出身のブルース・ヒューバナー氏がいるのですよ。彼との出会いは「福島復活チャリティー・コンサート」をやってくれないかという話が持ち上がったときに、私が二か所のコンサートをオーガナイズし、彼等をグレッグのお姉さんの家に泊めてあげたり、ラグナビーチの「おがくずフェスティバル」に紹介して、舞台を二日よやくした関係で友達になったのです。以後近所に来ると知らせて来るのであったりしますが、彼のユニークなコンサートの宣伝をここに貼り付けておきます。心にしみる音色ですよ。近所にお住まいの方是非おでかけください。福島みたいです。
2018.05.04
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え?マルチ介護ってなんですか?と質問がでそうです。たしか今は日本でも「ネバー・ギブアップ!」と英語で通じちゃう世の中なんですよね。言葉は刻々と変化してる。それなのに、日本ではマルチという言葉は時代でポジティブになったりネガティブになったり受け取り方が変わるんですってね。Multiマルチというのは、単に複数の、多重の・・みたいな接頭語なんです。実は日本語のオレンジ・ネットワークという無料の雑誌に数年連載を書くチャンスを与えられたました。英語で義両親の介護記録を書いたものを日本語に訳した原稿があって、20年前にアメリカで著作権をとっているのですが、全く違う題名だったのです。日本語版をお読みになった編集長が「今老人問題は世界的に増えてますから、これは可なり受けそうです」とおっしゃり、「本にしたい位ですが、ひとまず月刊誌に出して様子をみてみましょう」とのこと。それで、タイトルを替えてくださったのが、「ハッピーな多重介護」というものだったのです。私は「ハッピーナタジュウカイゴ、ハッピーナタジュウカイゴ、ハッピーナタジュウカイゴ」と声に出して繰り返してみたら舌がもつれてきてどうもスムーズでない、そこで「マルチ介護になさったらいかがでしょう」と案をだしましたら、「素敵なアイディアですが、マルチは今日本ではネガティブに受け取ってるような所があるので」とおっしゃったので驚いたしだいです。そうなんですか?でも最終的には「ハッピーなマルチ介護」に決めました。その序章が6月号に出ます。それをお読みになれば、どういった感じの内容か何となくわかると思います。化学で割り切れないパラノーマルの経験も、悪質な医者やヘルパーとの闘い、お葬式など色々経験していますから若い方にも面白いかもしれません。また、この雑誌は米国内なら年間$40の会員費で、毎月無料配達もいたします。お問い合わせは編集部まで日本語でどうぞ。電話(714)730-3551Eメール:Book@OCJAA.org
2018.05.02
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【人生一寸先は闇】といいますが、つい去年日本で一緒に食事をした親しい方が他界されたと知り、明日は我が身とばかり、だらだらとすすめていた遺書のを詳細を一日にして終わらせ金庫に保管し子供達に連絡しました。 別の話ですが、去年車の旅で未亡人になった昔の友達にあったとき、ご主人に全部たよっていた彼女は、自宅のWiFiのIDもパスワードも知らなくてパソコンにもつながらなくて大変なおもいをしたそうです。ご主人が全部銀行関係、支払い関係をオンラインでやっていたからです。それで残されたものが困ることが少ないようにしておこうと思ったのです。とくにグレッグはハイテクに弱く、どこに何があるか知ろうともしませんから。 私もオンラインのバンクを使い、ガス、水道、電気、TV代等オンラインでの支払いは結構あるのです。そしてそれらはアカウント番号、IDとかパスワードが無いとわからないものだらけ。そのパスワードは決してコンピューターに入れないでリストをプリントアウトして必ず手で書き入れる事が大事です。あなたのコンピューターにハッカーが入ったら盗まれる可能性があるからです。又私のラップトップや携帯はパスワードが必要ですから、それも全て書いておきました。かかりつけの医者の名前や電話番号もあると便利です。そして私の場合結構あるのが保険類。ローン、クレジット・カード類のインフォメーション等々、じっくり考えるともっと出て来るでしょうから、思いついたときにすぐ書き入れます。「時間のあるときやる」でなく「今すぐやる」に切り替えないと、時なんてあっという間に流れていきますよ。 あ!これを書いてる間にも又、二つ書き入れなければならない事が増えました。
2018.05.01
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