道元禅師は座禅をするときの注意点について次のように述べています。
精神を訓練して度胸をつけよう。健康になろう。特別な問題を取り上げて思索しよう。智恵をつけよう。無念無想の状態になろう。無念無想の状態になろう。精神統一をはかろう。瞑想して特殊な心境になろう。
こういう目的や思惑を持って座禅をしてはならない。
悟りを求めて座禅をすると打算になるといわれています。
つまり永遠に悟りには到達することができない。
この点、森田も同じです。症状をとろうとして行動・実践していると、症状はまったくなくならない。注意や意識がますます症状に向いてくる。つまり症状を強化してしまう。かえって症状が泥沼化してくるといわれています。
ですから、行動は、症状のことは横において、行動そのものに一心不乱になることが大切だといいます。つまり「ものそのものになる」瞬間をたくさん作ることです。
でも現実問題として座禅をしていると、次から次へと雑念が浮かぶようにできています。 雑念は自然現象ですからどうしようもないものです。
これについてはどう考えたらよいのでしょうか。
道元禅師は、当然無念無想という事はあり得ない。次々に雑念が浮かぶのは仕方がない。雑念を思わないようにする。雑念を考えないようにするという事ではない。
雑念は、そのままの状態にしておく。思い浮かんだことにとらわれないようにする。雑念は浮かぶがままにしておく。この態度が大切であるといわれています。
これがポイントでといわれています。
普通は気になることに注意や意識を集中してしまいます。
つまりこだわってしまいます。
その結果自然な感情の変化流転は妨げられてしまいます。
それが不安や不快感だったらどうでしょうか。
取り除いたりはからったりしてスッキリとしようとします。
流すことを忘れて、一つのことにこだわってしまいます。
注意と感覚が相互に作用してどんどん増悪してしまいます。
そして神経症に陥ってしまうのです。
道元禅師は、一つの雑念にこだわらず、次々に湧き起ってくる雑念にそのまま乗っかっていく態度の養成を求めているのだと思います。
瞬間的に次々に湧き起こる雑念に対し、次々にこだわれば、現実には何にもこだわっていない状態となります。
これは私たちが日常いつも経験している事です。
たとえば飛行機にのる。新幹線にのる。高速エレベーターにのる。
これを意識化すれば恐ろしくて居ても立っても居られない状態になります。
そうならないのは高速移動の状態を自然に疑いもなく受け入れている。
ものそのものになりきって一体化しているから混乱に陥らないのです。
森田でいえば、「かくあるべし」的思考から離れて、自然を受け入れて自然に服従した生き方になっているのです。
こだわりのない生き方は葛藤や苦悩が無くなるのでとても自然な生き方となります。この生き方を勧めているのだと思います。
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