2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全8件 (8件中 1-8件目)
1
我が家のすぐそばで、shootingがあった。それはほんと、徒歩2分のモールで、毎日必ず通る道だった。そのモールには映画館やフィットネスクラブや、レストランやGAPまで入っている。朝は掃除のオバサンが必ず箒で綺麗にしていて、花は決して枯れることなくいつも見事。歩いている人も、わりと皆きちっとした身なりの人ばかりだった。だから、朝警察とすごい人だがりができていたとき、一体何事かと驚いてしまった。パトカーは十数台。FBIというジャンバーを着た人までいた。道路は閉鎖され、空にはテレビ局のヘリコプター。陽を連れる手を強く握りながら、野次馬のオジサンに何があったの?と聞く。けれど、誰に聞いても皆はっきりとしたことはわからない。でもshootingがあったことだけは確か。だんだん増えてくる人の数。警察官は皆ピリピリしているし、物々しい雰囲気が立ち込める。後でわかったのだが、どこかで強盗をしてきた二人組が、モールの駐車場に逃げてきて、警官が彼らを撃ったらしい。そして、幸いにも命に別状はないらしい。とにかくLAのなかでもきわめて安全だと思っていた家の周りで、こういう事件が起こったことがショック。銃が「存在する」社会だったのだ。ここは。安全安全と胡坐をかいていてはいけないなぁ・・とドキッとした一日でした。
2005年06月30日
コメント(0)
Disneyの’Beauty and the Beast'(美女と野獣)を観た。陽が最近Disney Princessに夢中で、お姫様の華麗な動きや色とりどりのドレス姿にうっとりとなってしまった。多分preschoolで仲良しのお姉ちゃまがたに教わってきたのだろう。オムツも「Princessの柄じゃないと履かない!」…などとませた事を言う。それで観念した夫がDVDをレンタルしてきたというわけ。ストーリーはなんとなく知っているし、、と子供に付き合うだけのつもりで隣に座ってみたら…けっこう面白い。ミュージカル調でふんだんに音楽が取り込まれていて、映像もとても美しい。これでは子供たちもうっとりするに違いない。子供たちの心を惹きつけて止まない理由がなんとなく理解できた。お姫様に憧れるいたいけな気持ちを懐かしく思った。娘のお姫様ごっこにももう少し協力しようかしら。
2005年06月27日
コメント(2)
小学生の頃、テレビで茶褐色の濁流の映像を見た。父に「それは中国の『黄河』という川だ」と教えられたとき、背中がぞくぞくっと震えたのを覚えている。褐色の大地に海よりも深く流れる河。対岸など全く見えない。後で、それはNHKの「黄河」というドキュメンタリーだったことがわかった。12歳の私の心にはその映像が鮮明に焼きつき、以後それは消えることなく今も心に残っている。あれ以来、中国は私にとっては特別な国で、興味は尽きることなく沸いてきた。結果、大学での専攻は中国史だったし、中国語も少しかじった。どうしてそんなに惹かれるのか、人に聞かれても私はうまく説明ができなかった。13億の人口。社会主義市場経済という特異な経済体制。複雑数奇で壮大な歴史。。。いかなる切り口もあるけれど、一言では語りつくせない魅力がそこにはあった。一度も足を踏み入れたことがない、憧れの土地はずっと瞼の裏にしっかり存在していた。大学時代、何度も退学したいと思ったけれど、それを引き止めてくれたのは、中国史の恩師との出会いだった。以来私は中国語に噛り付いた。救ってくれたのは「中国」だった。結婚して、中国と離れてしまって久しいが、本棚には中国語の辞書が必ず収まった。私にとってそれは「お守り」。一緒に太平洋を越え、今もなお手に届くところにある。最近、ふとしたことで、中国人の新しい友達ができた。6ヶ月の赤ちゃんのママさん。彼女は流暢な英語を話すけれど、時折中国語がでる。久しぶりに聞く中国語は、変わらず音楽のように美しく耳に響いた。私はなんだか嬉しくなり、またちょっと中国に救われた気がした。それは勝手な思い込みだけれど、でも確固としてここにある。私の心の中に大きな中国がある。惹きつけられて止まない中国は、私にとって永遠のテーマのようなものになっている。どんな形であれ、また本腰をいれて勉強しなおしたい。
2005年06月25日
コメント(0)
この1週間、母と祖父がL.A.に遊びに来ていた。祖父はなんと80歳!磨きのかかった『シルバー』である。ひ孫見たさに太平洋を越えてやってきたのだから、その元気の良さに敬服してしまう。先週空港に大きなスーツケースを抱え現れた二人は、今日たくさんの思い出と写真を胸に搭乗ゲートに消えていった。また「さようなら」。空港から家に戻る道すがら、娘はずっと悲しそうにうなだれていた。そりゃそうだ。あれだけ愛され、蝶よ花よと可愛がられていた訳だから。空港で買ってもらった本を大切そうに抱え、陽はそのままベビーカーの中で眠ってしまった。寂しさは、眠ることで少し癒されるだろうか。家に戻ると、真っ先に目に付いたのが、祖父の飲み残したコーヒーカップだった。もう朝のコーヒーを4杯分用意することもないのだな。そう思うと、私の胸にもぐっと寂しさがこみ上げてきた。小さな喪失感。いろんなところへ出かけ、美味しいものを食べ、贅沢な一週間は終わってしまった。また3人の生活が始まり、やがて7月になる。
2005年06月22日
コメント(0)
病院で向かえた3日目の朝。前の夜、陽がパニックになって、病院の小さな鉄格子のベットの中で大暴れした。私もほぼ眠っていなかったので、立っているのさえ辛かった。けれど、必死に暴れる娘を抱きかかえ、静まり返った病室をただただ歩き回った。「お家に帰りたい。パパに会いたい」腕の中で娘はそう行って泣いた。切ないし、苦しかった。心拍のモニターは泣くたびに早くリズムを刻み、苛々を増長させるよう。赤い数字とリズムが、心から憎たらしく思えた。長い、長い夜だった。結局私はまるまる3日眠れず。身体に力は入らず、生唾が喉の奥から込み上げて来る感じがした。とにかく家のベッドに横たわりたい。深く眠りたい。そればかり考えてしまった。「咳もおさまったし、熱も落ち着いたので、おそらく今日退院できますよ」朝一番の検診で、若い研修医の先生がそうおっしゃったときは、本当に涙がでそうだった。そして、迎えに来た夫と、紙袋に荷物を詰めて無事病院をでた。娘もほっとしたような笑顔をみせ、車に乗ったとたん、安堵の表情を浮かべ眠りについた。3日間とはいえ、どんなにか苦しかったことだろう。肺炎は、完治には2週間位かかるとのこと。しばらくは抗生物質を投与しなければならず、あまり過激な運動も控えなければいけない。この1週間は外出禁止。これは親子ともども本当に厳しかったけれど、娘の完治の為、止む終えない。今回、3日間の病院での体験は、いろんなことを私たちに教えてくれた。海外での生活がいかにハイリスクであるかということ。言葉(英語)が必要な訳。言葉だけでなく、習慣・文化の違いが確固としてあること。そして、もちろん子供のこと。よく様子をみておかないと、あっという間に体調が悪化してしまう。親が気づいてあげなければならなかったのだ、本当は。ここ、アメリカで生きていくには、打たれ強くなければならない。しぶとく、きちんと主張をしなくてはならない。「外国人だから~」とか「文法が~」とか言い訳は、実践の何の役にもたたない。今回、夫が保険のことを保険会社・病院の会計にずっと交渉してくれた。待たされる・たらい回し…アメリカ社会では当たり前のように行われていることだけれど、さすがに夫もキレて、しつこく何度もトライしていた。おまけに、点滴ひとつ気になってしまう理系人間なので、いちいちナースやドクターに効用・時間・副作用などなどを聞いていた。私よりはるかにアメリカに適応している気がした。傍らで、私にはそんなガッツもなく、ただただ説明を聞くばかり。外国で暮らしていく、、というのは、想像以上に困難だった。決して綺麗事ばかりではない。特に子供を抱えてだと、リスクもそれなりにあるし、覚悟もいることだ。まだしばらくある滞在の中で、これからも困難に何度もぶち当たるだろうけど、ふてぶてしくも柔軟に対応できるようにしなければならない。流れにながされたまま、なんとなく…生きていけない、シビアな世界だった。
2005年06月12日
コメント(2)
病院の個室で朝を迎える。白い無機質な感じの小部屋だけれど、トイレやなんとシャワーまでついていて、小綺麗な印象だった。ERから病室に移るまで、娘はぐったり目もうつろだったのに、薬のせいか、明け方突然目を覚まして、おしゃべりを始めた。目覚めた途端、窓の外の夜景の光を見つめ、「♪twinkle,twinkle,little star~」と歌い始めたので、仰天。お陰で付き添いの私は身体を休める間もなく、娘の傍らで共に歌を歌い続ける羽目になった。こうして病院で朝を迎えるのは出産以来。病院の朝は、空気の流れががらっと変わる、その瞬間に立ち会えるような感覚がある。夜勤のナースは帰っていき、新顔のスタッフがにこやかな笑顔で仕事を始める。人が変わると、そこの空気もすうっと色を変える。アメリカの病院でびっくりしたこと。食事がオーダー制だということ。ちょっとしたレストランのようなメニューが置いてあって、自分で内線をかけてオーダーする。中身もサラダからシリアルから、サンドイッチ(パンの種類や中身まで選べる)、メインディッシュ、デザート、、、などなど。病院食とは思えない。そして、きちんと正装したウェイトレスさんがトレイに載せて運んでくれた。味もしっかり美味しかった。どうも病院で食べると味気なく感じるし、徹夜明けは体自身が麻痺している感じだったけど、、ほかにもオレンジジュースや、クラッカー、なんとコーラまでナースがくれたりした。夫は喉が渇いて、コーラをもらって驚いていた。日本ではそんな身体に悪いもの、考えられない。。アメリカ人のコーラ好きはここまで浸透しているのか。朝の検診の結果、陽の肺炎は思った以上に広がっており、もう一泊病院に入院することが決まった。昨晩2時過ぎに一旦家に戻った夫は、娘と私の着替え、おもちゃ、そしてstarbucksのコーヒーをおみやげに病室に現れた。口に馴染んでいるはずのコーヒーは、普段より苦く身体に染みる。もう一泊。可哀相だけれど、こうなったら病気をきちんと治すしかない。昨日の元気のなさから一転、娘は病棟ではりきって走り回った。右手には点滴をぶらさげながら。小児科病棟にはplayroomがあって、おもちゃが山のように置いてあった。娘は狂喜乱舞で、その部屋に入り浸り、これが肺炎患者かと思うほど喜んで遊んでいた。昼。ママ友達の一人が、ドーナツ・果物を山のようにもってお見舞いに来てくれた。彼女は2人目の赤ちゃんを妊娠中で大変な時期。その気持ちに、本当に胸がいっぱいになった。彼女は、実は前の日ERにも来てくれていた。在米3年でもうベテランさんで、何でも一通り知っているので、本当に助けられた。きちんと行き届いた人で、頂いたバックの中に果物ナイフまで入っていて、その心遣いに感動した。こういうことができるのは、すごいことだ。「こういうとき、人の優しさの意味がわかるね」夫とそう話しながら、グレープフルーツを剥く。しゅわっとした柑橘の香りが白い病室に広がる。娘は2つ目の点滴が終わり、遊びつかれたのかベットでうとうとはじめた。もう一日。そう思うと、気が遠くなりそうで、心から家のベットが恋しかった。肺の黒い影がにくたらしい。徐々に小さくなってくれ、、と点滴を祈るような気持ちで見つめた。
2005年06月11日
コメント(0)
娘がERに運ばれた日。子供の容態は突然急変する・・・とはよく聞くけれど、娘の場合もまさにその通りで、ものの二時間で熱が40度まであがり、痙攣は10分間続いた。夫に電話して急いで帰ってきてもらい、車で30分のERに連れて行った。いつもより小さくこわばった体を抱きしめていると、私まで心細くて、車内の空気はずぅーんと重かった。初めてのアメリカのER(緊急救命室)。『緊急』とは名ばかりで、本当に一刻を争うわけではないと待たされる。私たちも結局待合室に1時間いて、やっとナースに診てもらえた。日本とアメリカの医療システムは全く違うもので、まず医療費がとても高額。保険が8割カバーしてくれるとはいえ、目の飛び出る金額だ。陽の場合、入院一日で$5000(約50万円)と言われた。アメリカでは健康でないとやっていけない、、というのは事実。医療の内容も、日本とは全く違う。ERのナースは、娘の点滴の針を3回も入れ間違えるわ、何時間も待たされるわ。X線検査の仕方も日本とは違う感じだった。困ってしまったのは、やはり言葉。恥ずかしいことに、医療用語はほとんど無知で、夫と辞書を引きながら症状を説明した。私もあまりのパニックに脳が英語モードに変わらないし、うまく説明ができない。夫も、対応の悪さに苛々しながらも、英語で頑張って戦っていた。アメリカ社会は分業制で、時間がくるとナースもドクターも交代する。だから次々と登場人物も変わる。ERにいた6時間で、10人近い人に同じ内容の症状を説明した。親切なスタッフもいれば、そっけない人もいて、微妙なニュアンスが理解できないと、こういうとき辛いんだなぁと痛感した。まさにドラマでみたERの世界だった。廊下に出たとき、policeが数人女の人を囲っていて、よく見るとその女性は手錠をしていた。多分薬物中毒か何かだろう。たまに悲鳴も聞こえたり、救急車は何台もやってきた。私の知らなかったLAの顔。「怖いアメリカ」をちょっとだけ垣間見るようだった。小さな小児科用の部屋で6時間待って、残念なことに娘は入院を宣告された。上の階の病棟に移ったのは、日付が変わった月曜深夜。いつも忙しなく動いていた娘が、私の腕の中でチューブをつけてぐったりしていた。「私は母親には向いていない、、」と常々思っていたけれど、こうやってしわ寄せが娘に行っていたのは、心から申し訳ない。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか、そればかり悔やまれた。夜中の病室。窓から見た外の夜景は、皮肉なことにとても美しかった。ここから見たオレンジの光を、私は忘れられないだろう。
2005年06月09日
コメント(4)
実は娘が突然入院した。日曜午後、いつもより少しおとなしかった娘の熱を測ると、40度。夫が市販薬を買いに出かけている間、痙攣を起こし泡を吹いたので急遽ERに連れて行った。検査の結果は、肺炎。2週間ずっと咳をしていて、「今回の風邪は随分長いなぁ」なんてのんびりしていたら、事態はずっと深刻だった。小さな体は病気と戦っていたのだった。なかなか入院させてくれないことで有名なアメリカの病院。それなのに、陽は結局2晩入院し、昨日やっと家に戻ってくることができた。私も付き添いで3日間病院に缶詰。親子ともども、戦いの3日間はようやく終わった。アメリカと日本の医療システムがあまりに違うので、今回ばかりは本当に参ってしまった。なにはともあれ、娘の容態が落ち着いたことだけが救い。
2005年06月08日
コメント(3)
全8件 (8件中 1-8件目)
1