私がこの世に生を受けた日とともに橋蔵さまを忘れない 12
月 7
日。そんなこんなで思い出した記事がありました。
橋蔵さまがテレビで銭形平次を撮っていた時の事柄からのお話をちょっといたしましょう。
ある映画雑誌で当時追悼の記事として載っていたもので、私が心にずっと残っている記事が二つあります。当時読んだ方も多くいたかと思いますが、数十年経ち、こんにち落ち着いたところで橋蔵さまをあらためて思い返すのに紹介したいと思います。
先ずは、長谷川一夫さんの銭形平次で数本助監督をやり大映の監督をしていて、 1978
年頃から橋蔵さまの銭形平次の監督をされた Y.K
さんの文章からです。
そしてこれが実現していれば、橋蔵さまも、長谷川一夫さんも嬉しかったでしょうと・・今思っても残念でたまらないこともありした。 (
内容は要約、省略して私なりに編集させていただいていることご了承ください )
(
出逢いと別れ
)
橋蔵さまの平次の監督をすることになり、橋蔵さんと初対面の時
、「
面白い作品を作ってください。よろしくお願いします
」
と言われ、 K
さんなりの平次と取り組んだようです。
橋蔵さんは、先輩である長谷川一夫さんの平次のイメージを相当強く意識しておられました。しかし、 K
さんが監督をしだして 最終回までの 6
年間は、円熟しきった橋蔵平次であったと思う
、と言っています。
甘さ
に加え爽やかさが橋蔵さんの魅力、そこに五十代という年輪と芝居の風格が橋蔵平次を完成させた
のではないでしょうか。
橋蔵さんは、日常生活でも規則正しく几帳面で、スタッフに対しての思いやりも良かったし、細々としたところによく気がつく方でした。時代劇をこよなく愛し、会話も芸事一辺倒でした。
1 982
年頃にこんなことがあったということです。京都東映に長谷川一夫さんが来られた時に K
さんはお会いしたそうです。その時、長谷川さんが 「平次をやってんのやて、一度出てみたいなあ」とおっしゃって、やる気十分で長谷川さんはストーリーまで考えていた
とのことです。
長谷川さんがこう話したということです。
それは「ある事件で十手を返上した目明しが真犯人を追求してゆく姿の中で、平次との友情が生まれ、犯人逮捕の際に富ちゃん (
橋蔵さんのこと )
が、「兄 (
あに )
さん !
」といって十手をワテに渡すの」
この話を聞いた橋蔵さんも「あにさん !
」と言うところが流石長谷川さんらしいですね、とい言っていました。 K
さんが老目明し十手返上と言ったところ「老」はいややで、と長谷川さんは言いかえしたようです。
その後やっと脚本が出来たとき、長谷川さんの体調が悪くなり (1983
年初め病に倒られました )
、新旧平次の共演は実現することが出来なく、当時橋蔵さんもすごく残念がっていました。
(
実現していたら凄いことだったのに、本当に残念至極です・・・長谷川さんが 1984
年 4
月に逝かれて、橋蔵さまを待っていて・・二人の平次が天国を守っているかも・・それこそ、橋蔵さまが長谷川さんを「あにさん」と呼んで仲良くやっているでしょう )
大川橋蔵の銭形平次が始まったのが 1966 年、それから 18 年、 888 回を最後に終止符を打ちました。その 長期にわたる持続は、なんといっても、橋蔵さまの役者としての努力と精進、そしてお茶の間で暖かく声援を送ってくださった視聴者があったからだと 思います。
病床にいても、恒例の舞台のこと、決まっていた次の仕事のことを考え「早く良くなりたい」「仕事がしたい」と言い続け倒れ帰らぬ人となられた橋蔵さまの心の思いを考えると、無念この上もなかったことでしょう。
最終回のサブタイトルは「さらば、我らの平次よ永遠に」でした・・・余りにも題名通りになってしまい悲しいことです。
最終回ラストシーン「銭形平次の名は、みんなの心の中で生き続けるのね。今でもこれからもいつまでも」 (
平次、お静、八五郎が旅に出るところの場面で美空ひばりさんが言セリフですね )
そして、橋蔵さまのお礼の言葉が流れました。・・番組が終わる寂しさを感じました。
それから少したって橋蔵さまが、まさか・・私達に、橋蔵さまご自身のお別れの言葉となってしまいました。
平次は大川橋蔵さまそのもの・・橋蔵平次の中に橋蔵さまの人柄がぎっしりと詰まっています。毎週水曜日 20
時に橋蔵平次に会うと「ほっこり」して、救われる思いがしたものです。



物書きの S.U
さんの文章からです。 (
内容は要約、省略して私なりに編集させていただいていることご了承ください )
(
大川橋蔵の急死に・・
)
「銭形平次」一筋に打ち込んできた大川橋蔵の、ホッとした心の隙間に、憎い病魔が忍び込んだとしか思えない、と言っておられます。
橋蔵さまはこんなことを言っていらっしゃったそうです。
「テレビじゃ平次だけしかお目にかけられない。ですからね、年に三回の東京、大阪、名古屋での公演では、目いっぱい、大川橋蔵は、こういうことも出来るんですよってことを、お見せする公演が楽しみでねえ」
と。
S.U
さんはこう言っています。
女形や日舞、55歳といやぁ役者はこれからが正念場。もともとが歌舞伎出身、それも名人六世尾上菊五郎の養子にむかえられたほどの丹羽富成さんだ。二枚目の典型的なスターには違いないが・・・二枚目を全生涯を傾けて守った、という人もいるが、その見方は甘い。
例えば、平次にしたって、のほほんと気楽に演じてきたわけではない。
橋蔵さまは心中をこう語っていました。
「何回も、この辺で辞めようと思ったことがありますが、ファンに励まされここまで来られたんです。せっかく、長谷川一夫先生から譲っていただいた役ですから、大切に自分なりの工夫をこらし、いろいろと橋蔵風に仕立てたつもりです」
東映が時代劇打ち切りの線を出す頃には、「バラケツ勝負」「幕末残酷物語」にも挑戦しています。東映側からは、「若さま侍捕物帖」や「新吾十番勝負」のような作品ものの要求が多かった。
銭形平次は、男っぷりがよく、気っぷがよく、頭の回転がよく、人情に厚いとくれば、江戸っ子の人気者になるのは当たり前。
東京で生まれ育った橋蔵にはピッタリで、小気味よい橋蔵平次が誕生した。特にラストの犯人を追い詰めての啖呵の切れ味は、胸がスカッとする歯切れのよさだった
。
(画像はテレビ放送一年目1966年の橋蔵平次親分です)


最後にこう言っています。
「沓掛時次郎」など作品が追悼放送になったが、その中で、「人間の命は一つ、大事にしなくちゃいけねえ」というセリフが何回も出てきて、ドキッとさせられた。大川橋蔵がもうこの世にいないなんて信じられない。 多くの人の胸に永遠に残るスターである
。
テレビ長編ドラマ「沓掛時次郎」のラスト、雪の中消えてゆく橋蔵さまのあの姿がずっーと私の心に焼きついています。
私も、このブログ ”
美しき大川橋蔵 ”
私の想い出と掲示板「大好き大川橋蔵ファン広場」で永遠に残る時代劇スター大川橋蔵の作品を書き続けられるうちは紹介していくようにいたします。
次回掲載は、若さま侍捕物帖シリーズ「鮮血の人魚」、橋蔵さま主演では初のカラー作品となります
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