JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.12.24
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カテゴリ: 国内旅行
再び「ミュージアム知覧」を訪ねた。
知覧を含めた南薩摩の文化をより多くの人々に紹介するため、平成5年に開館した歴史資料館。
ここもロビー展示品のみ撮影可能であった。



「国指定史跡 知覧城跡
東方上空からの撮影。「城内」と呼ばれる主郭部分の4つの曲輪を、外周部の曲輪が
取り囲んでいます。
空堀で隔てられた曲輪には高低差が少なく、それぞれが強い独立性を備えています。」

👈今城・本丸間の空堀
築城時の堀底は発掘調査によっては、現在の地表からさらに約7m深いところにありました。
その堀底から10 ~20cm大の河原石が多数見つかっています。
堀を見下ろせる今城の曲輪から、攻め寄せた敵は上から攻撃されることになります。
春風亭昇太氏(H29.2撮影)」



「知覧城跡航空写真」をネットから。


    【http://geo.d51498.com/qbpbd900/chiranjo.html】より

「今城・本丸間の空堀」をネットから。





「知覧城の空堀」を示すジオラマ。



「水車」が展示されていた。



「知覧の水車からくり
南九州市知覧町では、水車からくりの伝承5例(浮辺氏神のほかは郡地区)あります。また、人力で
動かすアヤツリ人形も4か所で伝承されていました。
このうち市街地のはずれにある豊玉姫神社のものは、毎年7月9日・10日の六月灯で披露
されています。
この水車からくりは、垂直回転する水車の動力を、ベルトを通して舞台下の機構に伝えています。
機構には間欠歯車・ツルギ(キャタピラ型の木製移動人形台)などがあります。基本的には、
垂直方向の動力をそのまま利用しています。
しかし、紐を利用することにより人形自体にさまざまな動きをつけています。
人形は、浄瑠璃人形に似た30センチメートル前後のもので、20体前後が舞台上に据えられ、
個性豊かにさまざまな動きを見せます。演題は、昔話や神話・伝説が題材となっています。
「劇場型水車からくり」といえます。
浮辺の1例を除き、水車からくりの4例と人力あやつり4例の人形は、いずれも豊玉姫神社と
同程度のものであったと思われます。
浮辺のものは、後述の加世田型のものを小型にしたものといわれています。」



ここにも「知覧の水車からくり」が展示されていたが動いてはいなかった。



「​ 那須与一の屋島の戦いの場面 ​」👈リンク。



桃太郎。



「ちょっと昔のお茶の間再現」。



近づいて。



昭和30~40年?の懐かしい品々。



昭和10年代に使用した貨幣。



「野﨑恭弘氏の作品について
テーマは、「あの日あの頃」。
幼いころに見た古き良き日本の風景や、戦前・戦中・戦後に体験したことを、
次の世代に伝えたい。そんな思いで当時を回想しながら描かれた絵画です。
これらの作品には、昭和10年代から30年代ごろの生活の様子がわかりやすく描かれています。」



様々な「あの日あの頃」の風景が描かれていた。



「あの頃 街の家族の夕食」。



「女の子はお母さんと食事、おやつの手伝」。



「農村の子供たちは忙しかった」。



「南九州市 遺跡マップ」。



「薩摩半島」の先端の中央部に位置する「南九州市」。
南側で太平洋に面している。



知覧ねぷた祭りの山車の武者絵。



知覧ねぷた祭は、青森県平川市(旧平賀町)との交流がきっかけではじまった祭りで、
高さ5メートル、縦横4メートルという扇型のねぷた5基には勇壮な武者絵が描かれ、
鹿児島の夜を幻想的に彩るのだと。



「民族文化財 有形民族文化財 宝光院の薩摩塔」。



藁葺き屋根の二ツ家。



左下には懐かしき「Canola 151」。
1967年3月に発売された15桁1メモリー電卓。
上段にタイプライター。当時の価格は37万円と。



ラジオ、カメラ、ミシン。



蓄音機。



半鐘とレジスター。



そして「ミュージアム知覧」を後にして、再び「平和の鐘」へ。



「​ 平和の鐘 ​」👈リンク。



隣りにあった「慟哭、誓いの碑」
「この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、民族を超え、
世界人類永遠の平和をここに誓う」。



「知覧節」碑。



「知覧節の由来」
下部が隠れてしまっているので転記は省略します。



「戦史詳細図」。



そして「知覧文化会館」前の駐車場の車に戻り、「知覧城跡」に向かって進む。



そしてナビに従い北東方面に進むと、「史跡 知覧城」の案内碑が左側に現れた。



反対側にも「⬅知覧城跡」碑が。



そして「知覧城跡」下の駐車場に車を駐める。



「知覧城跡」碑。



「知覧城の遺構(本丸の土塁)」。



「知覧城
鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久8年(1197)薩摩国図田(ずでん)帳
(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益
(たいらのただます)が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久(ただひさ)が
臨んでいました。
その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世
(ただよ)は南朝方に、地頭島津久直(ひさなお)は北朝に属して各地域を転戦しましたが、
ともに没落してしまい、文和2年(1353)に足利尊氏が島津氏5代島津貞久(さだひさ)の
弟佐多(さた)氏の初代の忠光(ただみつ)の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えた
ことにより、これ以降、知覧は佐多氏の領地となりました。
室町時代初め、知覧は、そのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊
(いまきいれひさとし)が押領して、島津氏8代目久豊(ひさとよ)に反抗していましたが、
応永27年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄(しょうえい)自記によると、島津久豊は
知覧城(当時は上木場城(かみこばじょう)とよばれました)に入ると、あらためて知覧は
「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久(ちかひさ)に与えました。
これが知覧城に関する最も古い記録となっています。
その後、天正19年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、
隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は
火災にあって全て焼失してしまいました。
元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は
廃城となったものと思われます。
知覧城はシラス台地のへりにできた侵食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を
築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡
であると評価されています。」



「知覧城跡」の中心曲輪<本丸・蔵之城・今城・弓場城>
城の構造は、本丸・ 蔵之城 ・今城・ 弓場城 などを中心とした曲輪群とそれを取り巻く
東ノ栫(かこい)・式部殿城など周辺の曲輪群から形成されています。
城と城の間には深い空堀がめぐり、それぞれが独立しているのが特徴です。
城内にはL字状に曲がった枡形虎口(出入口)や土塁、やぐら台、横矢(よこや)など
防御施設が築かれています。



「知覧城写真模式図」。
本丸をはじめとする中心郭(本丸・倉ノ城・今城・弓場城)をいくつもの城郭が取り囲んでいる。
自然地形を巧みに応用した南九州を代表する山城の形態。中世山城の姿を現在に伝える極めて
重要な遺跡である。



「知覧城跡の位置とその周辺図」。



「国指定史跡 知覧城跡」碑
「大刀洗陸軍航空廠知覧分廠跡」碑。



「航空廠では、飛行機の点検や修理を行っていました。太平洋戦争末期、アメリカ軍の空襲を
さけるために、知覧城内の斜面に掘られた防空壕の中で、知覧飛行機のオーバーホールや
故障機の修理、補給部品の製作など難易度の高い整備を行っていました。」



ここが「本丸」への登城入口であったが、時間もなくこの日はここまでとした。
「​ 知覧城への登城ルート ​」👈リンク アクセス願います。



「知覧城」の「御城印」です。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.12.24 08:19:49
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