JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.05.15
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カテゴリ: JINさんの農園
2階展示もあるので、階段で上がる。その途中にも所狭しと、貴重な資料が展示されていた。



「ペリー記念館 掲示板」
さまざまな「よこすか海軍カレー」が並んでいた。



階段の壁に掲載された久里浜を写した写真を追う。



「久里濱の風光」
久里浜海岸と住吉神社。



久里浜沖の アシカ島灯台



ペリー上陸記念碑とペリー一行の上陸の光景。








ペリー提督から献上された汽車模型の図。



「米利堅人饗応之図(複製)」。
米利堅人饗応之図中の 幕府へ献上した蒸気機関車模型の図
本物の蒸気機関車の1 / 4サイズで、動く蒸気機関車としては日本で初めて走った蒸気機関車と
して知られている。



ミシシッピ号。



「THE NAVAL AND MAIL STEAMERS OF THE UNITED STATES(複製)
1955年ペリーを乗せて来航したミシシッピ号」。



黒船がやってきた!
日本は.江戸幕府の支配のもとに、長い太平の世を過ごしていました。
外国から見ると、それは「鎖国」でした。しかし、18世紀末から日本近海には、諸外国の
船がたびたびやって来るようになりました。かれらは、通商と国交の開始を求めました。
当時、世界は、大きく変わろうとしていました。欧米諸国は、アジアに工業原料を求め、
そして、自国で生産された商品を売り込もうとしていました。」



「ペリー立像の図」



アメリカの貿易と日本
東洋へ進出するアメリカ
独立して百年にもならない若いアメリカは、ヨーロッパに比べて、アジアの進出に出遅れて
いました。1818年、太平洋岸のカリフォルニアまで領土を伸ばしたアメリカは、蒸気船を
利用すれば、20日間で中国大陸へ到達することが可能になりました。太平洋を越えて、中国の
茶と生糸を輸入し、ボストンなどで生産された綿製品を輸出する仕組みができたのです。
日本は、アメリカと中国を結ぶ中間に位置していました。
ペリーに代表されるアメリカの開国要求の目的は、ここにありました。」



瓦版と庶民の目
ペリーに直接会えない庶民は、想像をたくましくしてアメリカ人を描きました。
まったく間違いの描写もありますか、よく見ると、正しい地理の知識も含まれています。」



黒船来航を伝える当時の瓦版.

乗船した。そこでアメリカへの渡航を請願するものの、拒否されて願いはかなわず、下田奉行所に
自首して投獄されたのであった。



ペリー来訪の絵。



横浜にて応接の図
幕府からペリー一行への贈答品が記されている。横浜での交渉場面を描く。中央でひざまずく

源為朝を連想させ、武士にひざまずくペリーの姿は、日本の武威に従う異国という対外認識を
示している。
世界六大州ノ内北あめりか州ハ日本の東に当りて海上五千里ヨと云開闢より千八百五十四年
独立建国して七十七年に相成日本嘉永六年六月合衆国の王「ふりしてんとくの命を請けて
官差大臣提督まつちうせへるりと云書簡を持相州浦賀表へ渡来す又御願筋の義ニ付同七年正月
十七日浦賀表へ来る同廿二日対顔ニおよふ左之
一机       一料紙硯
一花入      一火鉢
 広蓋      一置物
一吸物椀六百人前 一羽二重二十疋
一紋縮緬五疋   一板メ縮緬五疋
一大根 八百本  一にんじん五百本
一ねき 七十把  一菜四百把
一蜜柑 七箱   一鶉五十羽
一玉子 千    一上菓子六箱
一鶏  三百羽  一米二百俵但し五斗入
使節へ
一羽二重五疋   一板メ三疋
一紋縮緬二疋
船将九人へ
一羽二重三疋ツ  一板メ二疋ツツ
通弁官へ
一板メ三疋ツツ●下方民之悦
一右之品々二月二十二日於浦賀表
天下大平之御代而是被下●



「あめりかことば和解の写」。





「戸田氏栄(とだ うじよし)胸像」、その前の床の「すごろく」を見る。



胸像。
戸田氏栄(とだ うじよし、寛政11年(1799年) - 安政5年8月21日(1858年9月27日))は、
江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は従五位下・伊豆守。知行は500石。
浦賀奉行としてマシュー・ペリー来航時の折衝役となった。
大垣戸田家の分家、深坂戸田家6代当主である。



使節応接役・浦賀奉行
戸田伊豆守氏栄(とだ・いずみのかみ・うじよし 1799~1858)



今にも言葉を発しそうな顔!!



ペリー記念館、開館30年も影薄く 横須賀市、集客へ「充実考える」 | 話題 | カナロコ by 神奈川新聞

ペリーの久里浜上陸 」絵図。



ペリーの久里浜上陸
1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、江戸幕府は、大統領フィルモアの親書を受け取るため、
久里浜にペリーを迎える応接所を建てました。」



ペリーが会見場に臨む様子 画:尾形月山 」。



1853年7月14日ペリー上陸直前に描いた絵巻物 」。



「アメリカ人久里浜上陸の図」。



ペリーの外交術
ペリーの日本に対する態度は、以前に渡来したアメリカの艦隊の場合とは、全く違っていました。
特派大使として、交渉の権限を持った外交官僚以外と会うことを拒否したのです。
確固たる態度と自信。それが、日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです。
ペリーは、無理押しせずに、大統領フィルモアの親書に対する返事を直ちに要求しませんでした。
しかし、再度来航の時に備え、江戸湾の測量を怠りませんでした。」



横浜応接所に決定
翌年2月(永7年1月)、ペリーは、再び江戸湾に現れました。予定されていた浦賀の応接所を横浜に
変更させました。そして、ここで日米和親条約か結ばれました。」



1854年横浜沖に停泊する艦隊を描いた絵巻物



1854年当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物 」。



艦隊移動の様子
ペリー初時の浦賀奉行所と幕府の対応
嘉永6年( 1853年)
6月3日( 7月8日 )  ペリー艦隊4隻浦賀沖来航 、与カ中島三郎助・通訳の堀達之助がサスケハナ号に
         乗り込み交渉
6月4日(7月9日) 与カ中昌三郎助に代わって、浦賀奉行を演じた与カ番山栄左衛門が交渉
6月6日( 7月11日 )ミシシッピー号 江戸湾侵入し短艇を使い湾内調査・測量を行う 、番山栄左衛門が
        抗議し引き返す。同日、江戸城大広間にて大評定が開かれ国書受領が決定される。
6月7日(7月12日) 香山栄左衛門、久里浜てのアメリカ大統領の国書を受け取りを伝える
6月9日( 7月14日 ) ペリー久里浜に上陸 国書授受の儀式、アメリカ大統領の国書受理
6月10日( 7月15日 ) ペリー艦隊、江戸湾内を北上、ミシシッピ号が羽田沖まて侵入
6月11日( 7月16日 ) ペリー艦隊、小柴沖停泊
6月12日( 7月17日 ) ペリー艦隊 帰帆



                                                                                                            ・・・もどる・・・




                   ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.05.15 00:00:28
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