JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.06.23
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カテゴリ: 国内旅行
「神奈川県立近代美術館 葉山館」の屋外展示作品を楽しんだの後は、
県道207号線・森戸海岸線を横断し振り返る。



そして、道路沿いにあった案内板。
趣きのある美術館と日本庭園
山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)記念館
国登録有形文化財
この先右折 」と。



案内に従い、狭い坂道を上って行った。



山口 蓬春(1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて
活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。



この道は「 蓬春こみち



細い坂道・「 蓬春こみち 」を上って行った。



大きな石垣、そこに槙の新緑の生け垣が。



そして「 山口蓬春記念館 」前に到着。
鉄骨製の入口にガラス製ドアが。鉄骨製はややこの場所には不似合い。



「​ 山口蓬春記念館 ​」👈️リンク 館案内板。
料金:一般 600円。



生きものを愛でた蓬春 」が開期:2024年4月6日(土) ~ 6月2日(日)【前期】で開催中であった。
花や鳥、魚や小動物など「生きもの」を描くことは、古くから東洋では花鳥画として知られ、
その多くの作例は時代を越えて人々を魅了し続けています。山口蓬春(1893-1971)は、その
ような伝統的な画題を学びながらも新しい日本画の創造に邁進しました。昭和9年(1934)に
野鳥の保護や調査を目的とした「日本野鳥の会」が創設されますが、蓬春はその発起人に名を
連ねており、彼の野鳥や自然に対する造詣の深さがうかがえます。「花鳥畫の、作品の優劣は、
その作家の自然への愛の深さと、観察のカの如何とのみが決定すると謂っていい。」(山口蓬春
「花島去を描く心」「邦畫リ4月号、昭和10年〔1935〕)と述べていた蓬春。愛犬をわが子同然に
かわいがる彼の作品には、生命への愛情をも実感できるほか、数多くのスケッチからは制作に
対する真摯な姿勢が伝わってきます。
本展ては、蓬春の日本画作品及びスケッチ・模写、ならびに彼が蒐集したコレクションを展示し、
蓬春と「生きもの」という観点からその画業を探ります とネットから。


健仁寺垣(けんにんじがき)風の竹垣



この日は、時間の関係上、入館はパス。



道路から「 山口蓬春記念館 」の建物を見る。



以下の「​ 山口蓬春記念館



1階の和室



庭園が見下ろせる大きな窓が開放感いっぱいの 画室



山口蓬春「 新宮殿杉戸楓杉板習作 」昭和43年(1968) をネットから。



山口蓬春記念館 」の生け垣の前を西に進む。



右手には別の建物の木製の脇門があった。
数寄屋門風の簡易引き戸の門。



そして左手にあったのが「 旧金子堅太郎葉山別邸 恩賜松荘 」。
この建物は一般公開されていないようであった。



旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、明治から昭和にかけて活躍した政治家金子堅太郎の別邸として、葉山御用邸に近い三ヶ岡の山を背負い正面に海を望む斜面地に所在します。
金子堅太郎(1853~1942)は、福岡藩の修猷館で学んだ後、明治4年(1871)、私費留学生
として岩倉使節団に藩主とともに随行し渡米、ハーバード大学で法律学を修めました。
帰国後は明治憲法の草案起草に参画し、後には伊藤博文の下で農商務相や司法相、枢密顧問官
などを歴任した人物です。
金子堅太郎は明治20年代から現在の葉山一色公園付近に別荘を構えましたが、大正8年の御用邸付
属邸建設に伴い、大正11年頃、現在の地に転出しています。関東大震災後には、葉山別邸はほぼ
常住の住宅として使用されたことが記録に残っています。
現在地への移転に伴い、建物の一部が移築されたと伝えられ、照憲皇太后が訪問された「松の間」
がそれに当たるとされますが、明治期創建の移築は部材の一部など限定的であったようです。
戦後、所有者が変わり、昭和30年頃に改修が行われていると考えられますが、皇太后訪問時に
使用された「松の間」の記憶を継承するべく、大正期の金子堅太郎別邸時代の意匠を強く意識
していたことがうかがわれます。平成19年にも改修が行われていますが、現在に至るまで由緒ある
別荘建築として大切に住み継がれています。「松の間」には、変木の床柱や琵琶棚をもつ床の間と
床脇を設け、部屋境の欄間は銅板に梅花のすかし模様と竹をあしらった質の高い意匠が施されて
います。
旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、明治20年代に海岸沿いに設けていた別荘が、御用邸付属邸
建設に際し、大正11年頃に移転するという歴史を継承しており、御用邸とともに歩んできた葉山の
歴史を反映する重要な建物です。



以下の2枚の写真はネットから。
旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘の座敷8畳「松の間」



こちらは「 旧金子堅太郎葉山別邸 米寿荘 」。



そして引き返して、再び「 一色海岸 」へ。
旧ベルンハルド・モーア邸
この美しい建物は、ドイツ人の建築家アルヌルフ・ペッツォルドが戦前に設計した。
今ではペッツォルドの名前を知る人も少ないと思うが、彼の設計で現存するのは筆者は
ここしか知らない。
ハーフティンバー様式で木材の部分は濃い青で綺麗に維持されているが、近くで見ると少し
塗料の剥がれた木材が年季を感じさせる。戦前の所有者は日本シーメンス社長、
ベルンハルド・モーアであった。シーメンスは当時からドイツ有数の大企業だ。
ここは歴史的建造物等の指定を受けていないがその価値は十分にある。
現オーナーの意向であろうか とネットから。

ドイツ人建築家、アルヌルフ・ペッツォルドが設計した、葉山の別荘 | 日瑞関係のページ(補足版)

三ケ下海岸 」方向を見る。



葉山御用邸、長者ヶ崎方向を見る。



そして再び県道207号線に戻り、右手の山の裾野に建っていた建物は
旧鹿島守之助別邸( 旧住友家麻布邸) 」。



1903(明治35)年、麻布に旧住友邸として建てられた。住友家15代吉左エ門友純邸宅。
1935(昭和10)年葉山に移築。
この建物も、一般公開されていないようであった。



「三ケ下海岸」と「一色海岸」の間にあった岩場を振り返る。



長者ヶ崎をズームして。
潮の満ちた長者ヶ崎の割れ目からは三浦半島の先端方向も見えたのであった。



「三ケ下海岸」バス停前のプール付き?の建物の入口。



再び、「三ケ下海岸」と「一色海岸」の間にあった岩場を。



岩場をズームして。



大きなプール?のある建物。
入口には「WATABE & CO.」と書かれていたが。



岩場には海鳥?が2羽。



右手の「 はやま三ヶ岡山緑地 」の斜面は緑に覆われていた。



その先、左手にあったのが「 鹿島 葉山研修センター(旧小田良治別邸) 」。



鹿島 葉山研修センター 」。



鹿島建設の葉山研修センターは、明治から昭和にかけて活躍した、実業家・小田良治の元別荘建物。
銅葺き屋根の緑青が良い味を醸していますが、意外とシンプルな外観。
しかし広い敷地にゆったりと建てられたその様は、実に存在感があった。
照明や建具、ステンドグラスなど今では考えられないほど手の込んだものを使っていると。
窓ガラスはドイツ製、床の大理石はイタリア製と建築材料は すべて外国から取り寄せたそうです。



森戸海岸線からの写真をネットから。。
銅葺き屋根の緑青が良い味を醸していますが、意外とシンプルな外観。



「一色海岸」、「葉山御用邸」方向を振り返って。




                                   ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2024.06.23 17:11:40
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