JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.10.01
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カテゴリ: JINさんの農園
線路に沿った「お城通り」を「青橋」に向かって進むと、左手にあったのが 小田原城への
北側の入口門



ここにも「 小田原城天守閣特別展 お城に動物園があった 」のポスター。



入口にあった 「小田原城址」碑



天守閣の方向 に進んで行った。



掲示板「 小田原城案内図 」。







現在地 は右下。



空から見た「 御用米曲輪 」(北東から)をネットから。



左手にあった 「土塁」 が開削されていて、 発掘現場用車両の入口 になっていたが、
我々は 進入禁止 になっていた。



御用米曲輪(ごようまいくるわ)の断面と土塁の嵩上げの歴史 が解るのであった。



近づいて。



御用米曲輪北西土塁



御用米曲輪北西土塁
御用米曲輪の外周部には、 江戸時代に土を盛って造られた土塁が廻っており 、この場所は
北西土塁 と呼ばれています。
この場所は本来は土塁で塞がれていましたが、野球場として利用されていた時に開削された
この場所を利用して、土塁の構築状況を確認
その結果、 高さ5m以上 に土を積み上げていたことが分かりました。ここから本丸側20mの
場所で実施した発掘調査では、自然地形の尾根が確認されていることから、地形を巧みに利用し、
その上に土を盛り上げて土塁が造られていることが分かりました。
出土遺物などから、この土塁は江戸時代の寛永10年(1633)・延宝8年(1680)などに修復されたと
考えられます。
また、下層からは、戦国時代のかわらけが多く出土しており、土塁の下には戦国時代の遺跡が
広がることが分かりました。」



地層断面図に近づいて。
土塁が年代ごとに高くなっていった のが理解できたのであった。



発掘調査で確認された北西土塁の断面の写真。



「文久図に描かれた江戸時代の御用米曲輪と北西土塁
御用米曲輪には、江戸時代の蔵や戦国時代の
庭園を伴う礎石建物群等が展開していた ことがわかってきました と。



現在地と御用米曲輪の地図



現在の発掘現場 を見る。



さらに天守閣方向に坂を上って行った。



右手にあったのが「 御用米曲輪の蔵跡 」案内板。



御用米曲輪の蔵跡
御用米曲輪は、 本丸の北側に位置する曲輪 です。 この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、
曲輪への出入りはニの丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から鉄門坂(くろがねもんさか)を
下って入るしかありません 。このような閉ざされた曲輪には、江戸時代の初めより 幕府天領など
から納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輸」などの名称
呼ばれる小田原城にとって大変重要な場所でした。
城絵図などの資料から、 蔵の規模は3間xI5間(約5.9mx約29.5m )で、文政4年(1821)頃には、
北東土塁上に3棟、平場に3棟の計6棟の蔵が存在し、蔵には米のほかに、大豆、小豆、あらめ
()、塩、武具などが備蓄されていた
平成22 ~ 27年(2010 ~ 2015)に行われた発掘調査でも、 6棟の蔵跡が確認 されましたが、
この中で6号蔵跡は、一番新しく19世紀以降に構築された可能性が高いなど、蔵の構築時期に
差があることが分かりました。また、遺構からは、布基礎状に外周を掘り込み、人頭大の礫と
土や砂利を積み重ねた重厚な造りの基礎であったことが確認されました。これらの蔵跡の遺構は
重なっていないことから、 場所を変えずに建て替えが行われてきた ものと考えられます。蔵跡の
周辺からは、 徳川将軍家の家紋である三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多数出土 しており、天守閣に展示
されています。」



左上:文久図に描かれた江戸時代末期の御用米曲輪
右上:調査で確認された6ヶ所の蔵跡
左下:御用米曲輪から出土した三ツ葉葵紋の瓦
右下:発掘された4・5号蔵跡の基礎



瓦積塀で囲まれた空間
この場所は、御用米曲輪北西土塁のにあたり、互と土で積み上げられた瓦積塀が2列
見つかりました。
瓦積塀の奥には石垣が築かれ、手前からは柱穴列が見つかったことから、囲まれた空間が存在
したと考えられます。囲まれた空間は約10m四方であり、柱穴列は櫓などとみられます。
柱の間隔が一部広く空く場所があり、この部分が出入り口である可能性があります。
空間の底面には砂利が敷かれていました。石垣は北へと延びていますが、どのような構造が
続くのかは不明です。
瓦積塀は、基礎に根府川石を敷き、主に平瓦を転用して積み上げています。塀は、上部は後世の
削平を受けており、もともとの高さや上部構造は不明ですが、残る瓦積塀の高さから150cm以上
の規模を持っことが確認されました。瓦の年代から塀は元禄16年(1703 )以降に築かれたものと
みられます。
この空問は、絵図や文献に明確な記録はなく、どのような使われ方であったのかは分かって
いませんが、構造的には宗教施設や煙硝蔵等の可能性が考えられます。
相次ぐ災害や明治時代の廃城により、江戸時代の建物の残っていない小田原城においては、
江戸時代から遺る唯ーの構築物ということになります。」



発掘調査で確認された空間。



発掘現場の位置と写真。



再び「​ 発掘現場 ​」👈️リンクをズームして。



全面がシートで養生されていた。



移動して。



更に坂を上って、小田原城天守閣をズームして。



そして引き返して、再び「御用米曲輪」の発掘現場を見る。
正面は調査が終わり、埋め戻されたのであろうか?



そして入口にあった 「小田原城址」碑手前まで戻り 細い小径を右折して進むと 右手に
石鳥居が現れた。




扁額「 蓮池辨財天社 」。



石鳥居を潜って右に進むと正面に、 琵琶を持った弁財天の姿 が現れた。



弁財天は、須佐之男命の娘である三女神の一人を、役行者(修験道の開祖)がインドの女神
サラスヴァティーの霊と感じて、 仏教と神道の混合の神 として崇めた。
弁財天は、災いを除き、福徳や財宝を与える神として信仰されている。
弁財天は日本の神様ではないのだ。七福神の中で、日本の神様はゑびす神だけで、あとは
インドや中国がルーツの神様。国際色が豊か。
ヴィーナと呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持っている。創造神ブラフマーの妻であり、実在した
サラスヴァティー河の化身とされ、流れる川のせせらぎから「流れるもの」を連想する音楽や
言葉などの才能をもたらす神。そして、日本では川の流れる音にちなんで
妙音天(みょうおんてん) 」、またよどみなく流れる水のように 弁舌 べんぜつ がさわやかであるとの
連想から「弁才天」と意訳された と。



近づいて。
台座には「 蓮池弁財天 」と。日本酒が奉納されいた。



優しいお顔 にじわじわと近づいて。



やや小さなお顔。



鬱蒼とした木々の中に「 辨天社再興之碑 」が建っていた。
「辨天社再興之碑  小田原市長鈴木十郎書」と。

小田原城のサクラ見物ー2、小田原城北入口から学橋、正面入口の馬出門へ | おじん0523のヒロ散歩 - 楽天ブログ

ここにも小さな拝所があった。




                                   ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2024.10.28 04:55:52
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