JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

新磯地区の寺社史蹟… New! オジン0523さん

【自販機の困りの不… New! Gママさん

イチョウの大木、サ… New! 隠居人はせじぃさん

2024年はムベが不作 noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2024.10.22
XML
カテゴリ: JINさんの農園
次に訪ねたのが「 圓通山 福厳寺(ふくごんじ) 」。
小田原市中町2丁目13−48。



」碑。
葷酒山門に入るを許さず 」の意。



「くさい刺激臭のある野菜と酒は修行の妨げになるので寺院に持ち込んではならない」と。
「葷」は刺激が強い食物の意で、 五葷は、ネギ、ラッキョウ、ニラ、ニンニク、玉ねぎ
表すそうだ。



活鰻活魚之碑 」。



供養碑建立趣意
昭和六十一年十月二日に初めて西湘活鰻活魚供養祭を挙行し以来六年となり 会員も増え供養碑
建立が計画されました。世話人の尽力と各位の御協力に依り 供養会の拠り所として立派に建立
出来ました。
中国伝来の放生会の歴史は古く、供養会においても法要を水塔婆供養をして宝勝如来常住不滅
三宝の力を承け十二因縁甚深の妙法本願力により流水長者、百千の魚類の為に如来十号を称し
即ち天に生ずる事を得る様、果報を願い是の功徳めぐらし以て業界の発展と会員各位の繁栄を
祈念する次第です。

世話人 ・・・・
    ・・・・
平成四年二月吉日
 円通山福厳寺三十六世 天利俊明 書「」





子育地蔵尊



近づいて。
赤ちゃんを抱いた地蔵様の表情がふくよかで癒されるのであった。



子育地蔵尊 」と。



正面に赤と黒のツートンカラーの屋根の「 本堂 」。



五七の桐 」紋と「 丸に久我竜胆車(こがりんどうぐるま) 」紋が引き戸に。
「丸に久我竜胆車」は 福井県永平寺の寺紋 であると。



内陣
福厳寺 は、 大用晨甫(大永2年1522年寂)が永正元年(1504)に福門寺と号して創建、
皆川市正通嚴(福嚴寺殿)を開基として寺名を福厳寺と改めた といいます。
天正18年(1590)の徳川家康関東入国の際、松平玄蕃頭家清の内室で 徳川家康の妹高瀬君
(天桂院殿月窻貞心大禅定尼)が当地近くの陣場蹟で逝去されたことから、当地で葬られ
松平家から佛供料を、小田原城主より代拝されていたと。



ズームして。



「本堂」の左前にあった「 南無観世音菩薩 」。



近づいて。



さらに。



南無観世音菩薩 」と。



福厳寺内にあった「 龍珠山東壁院(とうへきいん) 」の扁額の掛かる御堂。
「龍珠山東壁院」は、かつて中島村(中町)にあった曹洞宗の寺院。
僧・仙岩守鶴(天正12年・1584没)が永禄5年(1562)に創建した。
江戸時代には中町の福厳寺の末寺だった。境内に稲荷神社があっと。



内陣。
本尊は正観音



お掃除小僧 」。



近づいて。



掲示板
一日が始まると 活動の 一日が終れば
寝る喜びが 生き物の 生きるしあわせ



三界萬霊刀塔 」。



墓地内を歩く。





天桂院の墓 」を撮り忘れたのでネットから。
ここに久松俊勝と再婚した 徳川家康生母伝通院の娘 で、竹谷松平六代目家清に嫁いだ
天桂院の墓が残っていた。家康関東入国に伴い、家清は武蔵国児玉郡八幡山に一万石を与えられ、
天正十八年(1590)十月、その国替えの途中、 小田原今井の陣屋で天桂院は亡くなった。
遺言により福厳寺に埋葬された と伝わる とのこと。
天桂院殿は、東照宮の御妹 にて 高瀬君と稱し 、松平玄播頭家清が室とならせらる。(寛永譜曰、
松平與次郎家清、後に玄播頭と稱す、天正九年、大權現御妹を娶せ、御諱の字を賜る)寺傳に
天正十八年十月十七日、今井の御陣屋(郡内今井村に御舊蹟あり)にて逝去し給ふ(按ずるに、
天桂院殿此御陣所にて逝せられし事疑ふべし、蓋御國替の折なれば、御旅中御不例に因て、
御陣所の未毀たれざりしを以て、幸に爰に入奉り、御養生などありしにや)、時に曹洞宗寺院に
葬るべきの御遺言に任せ、當寺に御葬埋ありしと云、御法名天桂院殿月窻貞心大禅定尼と
稱し奉る、是より年毎に、佛供料を其家より(今子孫旗下の士、松平主水清良なり)贈り、
且海道通行の序には自拝あり、又毎年の忌日に小田原城主より代拝の儀あり、(按ずるに家譜に
據に、玄蕃頭家清室 神君御妹、天正十八年十月十七日死、廿二、號天桂院殿月窓貞心大姉、
葬所武州八幡山、一寺起立仕、號月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同國西郡へ改葬、
右寺も同所に移す、其後慶安二年、天桂院全榮寺を一箇寺に仕、龍臺山天桂院と改と見ゆ、 
されば始武州兒玉郡八幡山に、天桂院を建て御葬地とし、後三州へ改葬せられしなれば、
當寺御葬地なりと云事覺束なし、されど今に主水の家、及び領主より香火の奠あれば、
別に故あることなるべし)」とある。「別に故」とはどんな理由なのだろうか。
小田原城天守閣跡から福厳寺を結びさらにその延長上560m先に小田原北条氏と豊臣秀吉との
小田原合戦で徳川家康が布陣した跡に「神祖大君営祉ノ碑」があるのだ と。



そして境内にあった客殿?



「光明蔵」と。




                                 ・・・もどる・・・


                   ・・・つづく・・・







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.10.28 05:11:29 コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: