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John Keane 教授との会話の中で出た、断片的な話を、忘備録として残しておこう。・「Security society」という議論が大切だと思う、と Keane 教授。リスク社会というのとどう異なるのか、説明されたはずだったが、よく思い出せない。だが、暴力論から国際関係における「人間の安全保障」論に至るまで、現代の「security」論が新しい段階にきていることについては、薄々気づかされる。(5月26日・御茶ノ水)・市民社会概念から市場経済を締め出すのはおかしい、との話になる。日本ではハーバーマスの影響からか、国家や市場といった「システム」に対する市民社会という議論が人気なのかもしれないが、Keane 教授に言わせれば、「経済活動のない生活世界などあり得ない」上に、「市場と市民社会とを安易に切り離してしまえば、弱肉強食の市場原理をそのまま放置することにもなる」と。(5月27日・ICU、5月28日・浅草)・私が、10数年ぶりに再び英国期カール・マンハイムの研究に着手してみたい、と話すと、以外にも Keane 教授から「それは面白い」という反応が。しかし、三崎町で海鮮丼を食べつつ彼が語るには、ラルフ・ダーレンドルフの話として、マンハイムは1933年に亡命を余儀なくされる直前まで、ナチスを支持していたフシがある、とのこと。マンハイムは当時フランクフルト大学にいたはずだが、1930年代初頭の彼をめぐる知的・心理的環境はどのようなものだったのだろうか?そういえば、Keane 教授が高く評価しているノルベルト・エリアスは確か、マンハイムの助手をしていたことがあったっけ(5月29日・水道橋)・日大法学部近くのカフェで、日本の選挙制度についていろいろ質問される。日本にも当然、選挙管理委員会が存在し、また選挙運動もなされている。だが、日本では戸別訪問が禁止されているということが、Keane 教授にとっては驚きだった。そりゃそうだろう、と思う。戸別訪問ができてこそ、国民は相互に自由に自分の政治的信条を語り合うことができるはずなのに。市民社会論が論じられる割には、この点は日本ではどれほど論点とされているのだろうか?(5月29日・水道橋)・アメリカの哲学者リチャード・ローティについて。Keane 教授は、数回彼に会っているそうだが、ムスっとしてあまり語らない人らしい。そのくせ、講演を頼むとなるとべらぼうな講演料が要るとのこと。(5月30日・御茶ノ水)・Keane 教授が最初に日本の市民社会論について(日本の研究者から)知らされたのは、平田清明氏の著作だったという。そこから Keane 教授は、日本では1960年代に市民社会論のルネサンスがあったとの理解をしていたそうな。しかし、60年安保を契機とした、久野収・鶴見俊輔・高畠通敏といった論者による「市民」論については、十分な認識がなかったようだ。しかもこれらの論者たちは、「市民」については語ったが、「市民社会」という言葉を必ずしも使ったわけではない。こうしたことを、歩きながら Keane 教授に話すと、「このことはもっと早く知っておくべきだった。知っていれば、過去に自分の書いたもの(おそらく1998年に出版された Civil Society: Old Images, New Visions のことだろう)は違ったものになっていた」とのたまった。(5月30日・御茶ノ水)・成田エクスプレスを待つ東京駅のプラットフォームでの話。Keane 教授いわく、「市民社会論者の間では、グラムシが非常に読み直されているようだが、その辺が自分には分らない。なぜグラムシなのか。ノルベルト・ボッビオなどは、グラムシに対する反逆者だ」と。いかん、グラムシと、トリアッティらイタリア共産党の1950年代の構造改革論と、ボッビオのデモクラシー論との関係を、きちんと解っていない自分があった。(5月30日・東京駅)(6月12日記す)
2005.05.31
以前から気にはなっていたのだが、肝心な話し合いの時に自分の耳が遠くなり、他の人には聞こえているのに自分だけは聞こえていない、ということが時々ある。今回の Keane 教授招聘の間も、自分の英語ヒアリング力の弱さに還元できない「耳の遠さ」には、随分苦しめられた。今日、朝一番で主治医のもとへ。自分が自覚する以上に疲労していると言われたが、話のついでに「耳の遠さ」について尋ねてみる。どうやら原因は、腎臓にあるらしい。おそらく、耳鼻科に行っても言われないであろうことを指摘された。やはり人間の体というのは、機械とは違って、要素にバラバラに分解して部分部分で治そうとしても無理なほどに、精妙にできているのだろう。それにしても、この「耳の遠さ」。日常生活には支障はないものの、いざという時に困る。治すのには時間がかかることを覚悟しなければならないか。
2005.05.31
確か、これと似たようなタイトルの本があったが…、ま、いいか。John Keane 教授の日本最後の日、雨の御茶ノ水で彼と回転寿司と洒落込んで(?)いる間、ひょんなことから、戦後の日本とドイツの歴史観に関する話になった。Keane 教授によれば、ドイツでは過去20年あまりの間、改めてナチス・ドイツ問題をどう考えるかということが、戦争を知らない若い世代の間で大きな論争を呼んできた。一方、必ずしも日本の若い世代はそうではないと私が語ると、教授は「それは驚いた」とさも残念そうであった。1990年代(特にその後半)以降、日本では、第2次世界大戦を語る言説が非常にややこしくなってしまった。「フツウの国は軍隊を持っている。だから憲法9条は日本がフツウの国になることを邪魔している」という言説、「日本国憲法は1940年代の産物。現在は国際情勢が変わってしまった。だからもっと現実に適合した憲法に改めるべき」という言説、「自分の国に誇りをもてないのはよくない。なぜいつまでも外国に気兼ねしなければならないのか」という言説…。1980年代までであれば、そうした言説に対しては「右翼!」「ファッショ!」「軍国主義!」とだけ批判していればよかったのかもしれないが、しかし、戦後左翼の日教組の教育のあり方そのものが激しく批判されている現代にあっては、どのように言説を整理し、どのような態度表明をするのかを考えるだけで、ひどく骨の折れる作業となる。まして、そうした問題を外国人と語り合うとなると、よほど自分に確かな歴史観がなければならない。ただ、一つ言えることは、「自分の国に誇りを持つ」ことを可能にするために歴史を書く、というのは危険であること。歴史を書くということは、自分に都合の悪い出来事であろうと、それが事実であるならばきちんと書く、という態度を要請すること。そしてそれと表裏一体だが、大事なのは、過去の悪事をきちんと認識して、なおかつ自分の国に誇りが持てるような、そうした国づくり・社会づくりをすること。さらには、自国への誇りや愛国心が、狭隘な排他主義につながらないようにすること、だろう。そのためにこそ、きちんとした根拠に基づいたオープンな議論ができる環境が整えられなければならないし、おかしいことを「おかしい」と言い切るのにテロの恐怖やバッシングを覚悟しなければならないような社会は不健全だと思う。「過去を振り向かず、前を見よう」というのは一見もっともらしいが、「過去との対話」なくして、現状認識も将来展望もないのだ。まして、言論の自由を盾にとって、過去を捏造するような言論が許されていいわけはないだろう。過去をすべて「美談」にするような言説は、歴史の名に値するまい。(6月3日記す)
2005.05.30
「フランス、EU憲法にnon」というニュースが走った5月30日朝。東京は折からの雨。4泊5日の滞在日程を終えようとしている John Keane 教授は、御茶ノ水のホテルをチェックアウトした後もロビーに客人を迎えるなど、最後まで時間を有効に使われていた。東京駅を13:03発の成田エクスプレスに乗るまで、約1時間半。御茶ノ水で Keane 教授の「最後の仕事」に付き合う。息子さんがドラムを演奏しているというのだが、日本製のドラムスティックを買って帰りたいのだとか。雨の中を、御茶ノ水駅界隈の楽器店を歩き回り、店員さんのみならずそこにいた別のお客さんにまでいろいろ尋ねて、軽めの日本製のスティックをとりあえず購入した教授。教授自身は特に楽器を弾くことはないそうだが、世界的に著名な学者としてはなかなかお茶目なところがある。ホテルのチェックアウトぎりぎりまで寝ていて朝食を食べておらず、空港に行くまでに何か食べたい――という Keane 教授と入ったのは、何のへんてつもない回転寿司。前日も水道橋のお店で海鮮丼を食べたわれわれだったが、教授には日本の刺身や寿司はお気に入りだったらしい。一緒に食事をしたり酒を飲んだりした思い出が人をつなぐというのは、古今東西、また職業を問わず、変わらないものなのかもしれない。それにしても、おいなりさんを英語で説明できない私だった。成田エクスプレスの車中では、下車ぎりぎりまで日本語に関する質問攻めにあう。民主主義の「民」とは?「主」とは?「主義」は本当に「イズム」を意味するのか?「国民」と「人民」はどう違う?等々…。自分自身が、きちんと意味も分からず日本語使っているということを、またしても思い知る(苦笑)。
2005.05.30
実に数日ぶりの三島である。5月26日から今日まで4泊5日で、John Keane 教授招聘のため東京に滞在していた。日本でのすべての日程を終えた Keane 教授を、14時過ぎに成田空港で見送り、その足で成田EX~こだま号と乗り継いで帰ってきた。三島駅で食した桜海老かきあげそばのおいしかったこと。ともあれ、今回の Keane 教授とのフレンドシップは、ひとまず大成功だったと思いたい。記憶が薄れないうちに、記録すべきことは残しておきたいと思う。とりあえず今日はしないが…。
2005.05.30
Keane 教授と日本の政治学者・院生らとの対話の中で、当然のことながらしばしば話題となったのは、EUの諸問題であった。折りしも、フランスでのEU憲法条約の是非を問う国民投票の前後であったため、教授の口からは折に触れて、どのような結果になるか、またその意味は何かについてのコメントが出た。思えば、私たちはしばしば、国際統合や地域統合のモデルとしてEUを考えるが、Keane 教授に言わせれば、地域統合のモデルとして理想視されるほどEUはうまく行っているわけではなく、まだまだ序の口の段階だと。確かに、問題は山積されている。そのうちの一つは、やはり戦後のヨーロッパ統合そのものが少数のエリートによって推進されてきたことであり、各国の民衆の声が反映したものではあり得なかった点だろう。むろん、1979年に始めて実施された欧州議会選挙は、国境を越えた次元で選挙がなされた初めての事例かもしれない。だが、欧州議会でEU(かつてのEC)の意思決定がなされるわけではない。あくまで、各国ごとの代表者(すなわちエリート)の委員会によって意思決定されるのであり、欧州議会は一種のオブザーバーに過ぎないとなれば、ユーロクラットと呼ばれる高官たちが民衆の意思とは別のところで高度な意思決定をしてしまっていることは事実だろう。しかも、以前から移民問題はヨーロッパ内に新しい民族問題を生じさせてきたが、昨年にEUが25カ国に拡大したことにより、新規に加盟した諸国からフランスやドイツなどに流入する移民が増加している。そうなれば、各国内においてはただでさえ失業率が高いところに来て、移民によってもともとの「国民」の職が奪われるという事態(あるいはそれへの警戒心)が深刻化する。そこから、まずは「自国民」の利益を守ることを主張して移民排斥を訴える右翼陣営が勢力を伸ばす、というパターンはヨーロッパのポピュリズム問題として以前から論じられている。もちろん、いくら右翼勢力が台頭したからといって、またEU憲法の批准を拒否する加盟国が出たとして、それによってEUそのものが解体の危機に瀕するとは考えられない。EU憲法が流れたとしてもニース条約は存在するのであり、またEU憲法にノーという加盟国国民も、ヨーロッパ統合それ自体に今さら反対しているわけではなかろう。にもかかわらず、目の前に深刻な失業問題が横たわっていれば、「EU憲法より先に失業を何とかしろ」という声が上がるのは、それ自体はもっともなことかもしれない。フランスにおける「ノー」は、EUへのノーではなくシラク大統領へのノーだ、という Keane 教授の解説には、なるほどそうかと思わざるを得なかった。こうしたポピュリズムは、従来のナショナリズムとは区別して考えられなければならないのだろう。エリートがヨーロッパ大の意思決定をすることで、加盟国の市民の生活が左右される、というEUにおいて、国民国家の相対化という問題と同様に、超国家組織の民主化という問題もまた、政治理論研究者が無視できないテーマなのだろう。少なくとも、「専門家であるエリートに任せておけば大丈夫」式の考え方がいかに非民主的であるかという点は、学術者の間を超えて、日本でもっともっと一般的に流布してよいはずではないか。(6月3日記す)
2005.05.29
それにしても、John Keane 教授を日本に迎えている間、多くの政治学者との懇談の席に同席したが、自分の無知蒙昧ぶりを改めて自覚する機会ともなった。知的好奇心に満ちている Keane 教授にとっては、あらゆるものが話のネタになる。それこそ、EU憲法問題やヨーロッパの移民問題から、先日のイギリスの総選挙、アメリカとイラク戦争、イスラム、中国での反日デモ、小泉首相の靖国参拝問題、日本の近世史・近現代史、メディアの報道姿勢、サッカーに至るまで。その知的好奇心につけこんで、私も幕末の「函館共和国」の構想が重要だなどと趣味的な考えを注入してしまったが。しかしながら、それらの諸問題ひとつひとつについて、何一つ確かな理解をしていない自分に改めて気づかされた。自分がよく分ってもいないことを、自分の口で説明できるはずがない。たとえ日本語ででも。いや、もっと言えば、自分たちの使っている日本語の言葉がどこから来たのか、そのオリジンを Keane 教授に尋ねられると、もうどうしようもなかった。語源に対する敏感な感覚など、小学校時代以来漢和辞典を手にしたことのない私には、ほぼなかったに等しい。言葉を生業にしているにしては、かなりお粗末なまま来てしまっている自分を直視した思いだ。まぁ、知らないことがたくさんあるという自覚(無知の知)があればこそ、もっと学ぼう、勉強しよう、という気になれるのだ。そう、楽観主義的にとらえる以外にないが。(6月2日記す)
2005.05.29
政治思想学会2日目の朝。John Keane 教授の特別講演は、11:30開始予定。司会者との前日の打ち合わせでは、学会会場である日本大学法学部本館に11:00までに Keane 教授をお連れするということだったし、前夜には教授とは、翌朝11時15分前(つまり10:45)にホテルのロビーで待ち合わせる約束をしたはずだった。ところが当日朝。早めにロビーに下りて、余裕をカマして新聞を読んで彼を待っていた私。10:50、彼は来ない。「ま、イギリスの人は少々時間にルーズだから(しかし彼はもともとオーストラリア人だよな)」と思いつつ、頭の中では「遅くとも11:00にはタクシーで出ないとまずい」と計算する。11:00、彼は現れない。エレベーターも、彼の泊まっている10階に上がっていく気配がない。やむなく、彼の部屋に電話を入れると、本人が出て「間もなく下りるよ」との話。「腹でもこわしたかな?」などと勝手に思いつつ、ホテルのフロントにタクシーの手配を頼む。しかし、タクシーが来ても彼は現れない。どうなっとんねん?と思い、11:10にもう一度彼の部屋の電話を鳴らすと、今度は出ない。やれやれ、彼がロビーに下りてきたのは11:15前後だった。Keane 教授は私の顔を見るなり、ニコリともせず開口一番、「講演会は12:30からだよな?」。ゲゲゲー、これじゃ彼はなかなか下りてこないはずだ。プログラムを見せて11:30からであることを告げると、「事前にメールでもらっていたスケジュールには12:30とあったからそのつもりでいた」と教授。ロビーでの私との待ち合わせ時刻も、11時15分「過ぎ」だと思い込んでいたらしい。そこからすぐにタクシーを吹っ飛ばして、学会会場へすべりこんだのが、11:25頃だったろうか? ヒヤヒヤものであった。もっとも、ほぼ時間通りに講演会が開始され、バタバタしたそぶりも見せずにきっちり講演をこなして見せた Keane 教授は、流石プロなのだと思った。だてに世界各地で講演してはいないのだろうし、また語っている内容も本人が考え抜いていることなので、国会答弁のように原稿を棒読みするような講演はしない。質疑応答も含めて、ほぼ予定通り12:30には会を終えることができた。帳尻は見事に合ったわけだ。教授には、「お前が(ホテルの)部屋に電話をくれなかったら、間に合わないところだった。お前は私を rescue した」と言われた。ちなみに講演後、白山通り近くで Keane 教授が私と食べた昼ごはんは、海鮮丼+味噌汁だった。彼はしその葉を初めて食べたらしいが、「これはうまい。ミントの味とも違う。一体これは何だ?」としきりに私に聞いていた。余談だが、ロンドンであまりおいしい日本食レストランを知らないとのたまう彼に、私が勧めたのは、ピカデリーサーカス近くのてんてん亭だった。(5月30日記す)
2005.05.29
私は外国人に日本のことを紹介する場合、「いかにも」という日本文化なるものを安易に語るのがキライな人間である。旅行ガイドブックや英会話の本に出てくるような日本紹介のページの内容は、どうしても、欧米人のもともと持っている日本(人)に対するステレオタイプに沿ったものではないのか、という思いが拭えないからだ。海外に出て、日本を象徴するものが今だに「フジヤマ・ゲイシャ・シンカンセン」だったりすると、そういうイメージを持たれてしまう責任の半分は実は日本人の側にあるのではと思ってしまう。とは言いつつも、来日中の Keane 教授がリラックスできる時間だった28日の昼間、都内をあちこち案内する中で連れて行ったのは、ウワサの靖国神社に、北の丸公園に、浅草だった。私自身、靖国神社を訪れるのは初めてだったし、もちろん今回も参拝に行ったわけではない。むしろそこで Keane 教授と語り合ったのは、神道と仏教の違い、また日本人の持つ宗教観・生死観についてだった。私たち日本人でさえ、仏教の歴史やその教えの内容をまともに理解しているとは限らない。その語り合いの中で出たのは、日本人は死者が仏になるという考えを漠然と持っていること、生前にどんな悪事を働いても亡くなってしまえばそれらを忘れてしまう傾向性があること、先祖を無条件にありがたいと思う面があること、等々であった。大乗仏教と小乗仏教の違いを説明する中で私が Keane 教授に指摘したのは――、仏教本来の教えは「万人」がその内側に「仏」の生命を持っていると説いていること、だから死者を「仏」と呼ぶのは本来は間違いであること、そして日本の場合には、「ウチのお墓は何宗のお寺にある」という感覚はあってもその宗派の教えを信じているわけでもなければ知っているわけでも(知る気それ自体さえ)ないこと、そして、坊さんが権威・権力を持つと堕落するという歴史が仏教にもあること、等々であった。それらが、どれだけ Keane 教授に理解されたかはわからない。そもそも私の英語にはかなり問題があるのだ。なまじっかの知識と英語力で、「日本の文化を紹介する」と称して妙な先入観を相手に植えつけてしまうことの罪深さも、私は知っている。だから、どうしても無口になりがちな私ではあった…。なお、「日本人としての誇りを持つこと」と、「過去の戦争をことさら美化する」こととは、明確に区別したいと改めて思った。来日直後から Keane 教授との話にしばしば出たのは、「ナショナル・アイデンティティ」と「ナショナリズム」とは区別して考えるべきだということ。「ナショナル・アイデンティティ」は、共有された記憶や文化(食事の作法やジョークのセンスも含む)やエコシステム(故郷の山や川や湖に愛着を持つこと)に基づくのに対して、「ナショナリズム」は、自分たちの文化や民族がナンバーワンなんだ、という危険な排他的・独善的側面を持つ。Keane 教授いわく、「コイズミは、ナショナル・アイデンティティとナショナリズムの境目を行ったり来たりしているように見える。彼は、その2つの違いをどれだけ自覚しているだろうか? そして問題は、どういうきっかけでどういう拍子で、ナショナル・アイデンティティがナショナリズムに転化するのかだ」。このことは、戦後60年だからということを超えて、私たちが常に考え続けなければならない問題のはずだ。それはそれとして、娘さんに日本のキモノを買って行きたいと、浅草寺の仲見世で物色する Keane 氏の姿は微笑ましかった。(5月30日記す)
2005.05.28
東京ガーデンパレスの朝食時、Keane 教授と一緒になる。すでに食事を終えた教授は、私が日本から郵送しておいた日本の市民社会論の英文原稿に目を通している最中だった。その原稿は、2001年の1月、来日中の Terrell Carver や Chantal Mouffe といった学者らが都内の大学で研究会を開いた時の、今は亡くなった日本の政治理論家の報告ペーパーである。さて、Keane 教授の話。「カール・シュミットに依拠して議論を展開している Chantal Mouffe は、市民社会論が好きではない。Chantal は、『政治的なるもの』とはアゴニスティックなものである、という議論に終始している。だが、政治的なるものには、必然的に、交渉や妥協といった要素がつきまとうのであり、アゴーンだけで成り立っているわけではない」と。似たような話は、去年の夏にロンドンでお目にかかった時にも聞いていたが、しかし、日本ではラディカル・デモクラシー論の代表的論客として知られている Mouffe が、市民社会論に好意的ではないということは、改めて自覚されるべきだろう。ラディカル・デモクラシー論と市民社会論とが、必ずしも軌を一にするとは限らないからだ。そう言えば、Keane 教授がロンドンで主催している、必ずしもフォーマルな形ではない研究会 Democracy Club では、Mouffe やアメリカの Benjamin R. Barber らがペーパーを読んだと聞く。どんな議論をしたのか、興味の湧くところではある。大学の内外からそうした研究会に参加する人がいるという話を聞くと、ふと、ナチスドイツに追われて英国に亡命した Karl Mannheim が、T. S. Eliot らと不定期に開いて意見交換をしていたという、キリスト教系研究会 Moot もまた、そのようなものだったのだろうか…と勝手な想像を働かせる。(6月1日記す)
2005.05.27
国際基督教大学でのセミナーを終えて、John Keane 教授とともに武蔵境駅から中央線で御茶ノ水に戻る道すがら、教授の近年の議論である "cosmocracy" の話に。Keane 教授のいわく――「例えば火星や金星から地球を見ていると想像してみろ。地球という星は、主権国家もあればIMFもあれば、国境を越えるテロもあるという、複雑すぎる状況にある。この状況に、何か名前をつけなければならない。だから私は、『コスモス』と『クラトス』から『コスモクラシー』と造語したのだ」。彼の言う「コスモクラシー」とは、現に存在する複雑な地球政治の実態を、記述的に概念化するための言葉のようである。この「コスモクラシー」を、あたかも地球大の秩序ができあがっていることを示す言葉であるように理解するのは、間違いなのだろう。もしそう理解すると、「コスモクラシー」は、例えば「グローバル・デモクラシー」と大差ないもののように誤解されかねない。しかし Keane 教授はこの晩、「グローバル・デモクラシーなどというものを論じている連中は、ものを考えていないのだ」と手厳しかった。グローバル・デモクラシー論者の代表例が、かつて Keane 教授と共に研究活動をしていた David Held 教授であることを考えると、この2人、今では疎遠なのだろうか(どちらも故 C. B. Macpherson の影響下にあるものと思っていたのだが)?(6月1日記す)
2005.05.27
文字通り「デッチアゲ」である。前日の午後に John Keane 教授を日本に迎え、この日は国際基督教大学COEセミナーでの教授の講演会となった。私はそのコメンテーターの一人を仰せつかっていたのだが、いかんせん、直前まで多忙+体調不良だったのと、Keane 教授の講演内容が直前まであまり明らかでなかったのとで、まともな準備ができたとは言いがたい。追い詰められて、苦し紛れにコメント原稿をでっち上げたのが確か直前の23日(月)夕方あたりだったし、確信犯的でっち上げに要した時間は1時間前後ではなかったか。しかしそれでも、civil society が日本語で「市民社会」と訳されてしまった場合に、「civil/uncivil」(文明的/非文明的)という区別が失われてしまう(日本人のうち一体誰が、「市民」という日本語を聞いて「文明」と結びつけるだろうか?)、という点を指摘したのは、Keane 教授にとってはそれなりに意味を持つものだったようだ。国際基督教大学でのスケジュールが一切終わって宿に引き上げる道すがら、教授から「お前のコメントはポイントを言い当てていた」と言ってもらえた時は、たとえ社交辞令であったとしてもホッとした。ただし、ホッブズ的人間観(「人は人に対して狼である」)を批判する論点を引き出そうとした、私の第2のポイントは失敗した。私のでっちupイングリッシュでは、「ホッブズ的人間観に替わるべき人間観は何か?」という意味の発言となってしまい、これではあたかも、根本的・普遍的な人間観を不動の前提とするような思考回路から質問しているように取られても仕方がなかった。事実、教授にはそのように取られて、それ相応の応答が返ってきた(つまり、「そうした普遍的人間観を前提とすることはドグマティックになりがちで危険だ」という応答)。私の本当の論点は、「なぜ政治理論家たちは、一般的に、ホッブズ的人間観を安易に前提にしがちであるのか」という点にあったはずなのだが…、あとのまつりである。「ま、いっか」とさらりと流した私ではあるが。(5月30日記す)
2005.05.27
生後1ヶ月ちょっとの「ドラゴン山田の研究室」も、アクセス1000となりました。1000番目に訪れてくださったゲストさんに感謝です。
2005.05.26
サンタビーダ要塞の一室で、一睡もしないまま決戦の朝を迎えたシュテッケン・ラドクリフの心境は、このようなものだったろうか――という静かな朝である。新緑から万緑へ、という季節に、Keane 教授を日本に迎えることとなる。これから4泊5日で東京である。ある新聞で見つけた箴言:「『幸福な人』とは 『強い人』である。 その人は 苦難に立ち向かうほど ますます強くなれる!」夕べ、主治医に見てもらったのがよかったのかどうか、比較的快眠で、目覚めも悪くなかった。自然体で東京出張を乗り切りたい。
2005.05.26
ちゅらさんではない。明日来日する John Keane 教授に月曜日まで随行するのだが、前日である今日はあまりに体調が悪く、夕方医者に行った。このような、重要な何かがある時に体調が最悪になるというパターンが、いつぞやのシチュエーションに「似ている!」というわけである。特に、2002年8月、Ph.D.最終試験を受けに渡英する時のシチュエーションにそっくりだ。直前まで出張だらけで疲弊し、ヘトヘトの状態で成田空港に行き、飛行機の中では試験の準備どころか、死んだように眠っていた。到着して3日後の8月9日が試験日だったのだが、疲労と時差ボケから、自分の論文を読み直す気力はとうとう最後までなかった。しかも、当日の朝は、立てないほどの疲労で、全身ジンマシン。さらには朝からドシャ降りの雨。「これでもか」という程の悪いコンディションの中、事実上のブッツケ本番で口頭試問の会場に行ったものだった。よく受かったね、である。今回はそこまでひどくはないものの、しかしまるでこの日を狙ったように体調の悪化が進んだ。これに負けずに、あらゆるものを味方に変えて、大ドンデン返し(懐かしい)をして見せなければならない。だから「似ている!」と笑い飛ばすに限る。あはは。
2005.05.25
「ドラゴン山田の研究室」も、5月24日で生後1ヶ月となりました。あまり成長していませんが…(苦笑)。
2005.05.24
私は、世界的に非常に読まれたらしいネグり&ハート著『〈帝国〉』がろくに理解できなかった人間である。しかしながら、9・11以降、アメリカの「帝国」性がさまざまに論じられていることは事実であり、「帝国」という言葉の意味の現在を、知らなくていいとは思っていない。そんなことを考えさせられたのは、来日間近の John Keane 教授がメールで送ってきた、日本のある大学での講演予定のメモが、まさしくアメリカと帝国に関する内容だったからだ。この講演会でコメンテーターの一人を務めなければならない私なので、事前から彼の書いたものを読んではいろいろ考えてきたつもりだった。しかし、送られてきた内容は、私のこれまで用意してきたものの範疇を超えてしまっている。「あはは、これではもう、今さらいくらジタバタしてもしゃあない」と、開き直るよりなかった。ただし、狭い意味での時事問題ではなく、世界的な市民社会が論じられる中での暴力や帝国を考える際に、Keane 教授が1980年代から考察してきた、18世紀以降の civil society の意味変容の議論は、今度の講演会でも前提になるはずだ。そう思い直すと、自分の準備したものも、あながち的外れではないかもしれない。ということにして、数年ぶりに、自分の日本語を英語に直すという作業をした。文字通りの「やっつけ仕事」である。
2005.05.24
私はどうもここ数年、子供じみたことがあまり好きでなく、成熟することに非常に重きを置くようになっている。が、時々童心にかえることで、奇妙な心の開放感を感じることも、実際ある。考えてみれば、「子供である」ことには、良い面と悪い面がある。良い面は、瑞々しい感受性、いきいきとした好奇心、怖いもの知らずの活力、などだろうか(昔は歌の歌詞にも「疲れを知らない子供のように…」とかあったものだった)。一方、悪い面は、自己中心性、依存心、思慮の浅さ、視野狭窄、要するに唾棄すべき「駄々っ子」性だろう。多分、成熟ということは決して、子供であることの良い面をなくすことではないのだろう。実際、「大人である」ことにも、良い面と悪い面が考えられる。良い面は、全体観に立てる、自分なりの判断力を持っている、深く思慮できる、自分の経験に裏打ちされた定見を持ちつつも自己絶対化しない、変化に対して余裕を持って柔軟に対応できる、等々、まさに私が「成熟」と考えたい「ふところ深さ」、「賢明さ」(いわゆる頭のよさではない)としての大人である。「境涯」と言ってもいいか。逆に悪い面は、ズルい、キタナい、感受性がない、惰性、自分の経験と価値観に固執する、改革を拒む、等々、いくらでも考えられるし、これらを間違っても「成熟」とは呼ぶまい(呼ぶとすれば「魂の老化」?)。大人になりたくないという傾向性を「ピーターパン症候群」と呼んだのはもう20年も前のことだが、確かに、大人になるということが、狡猾で頑迷になることしか意味しないのなら、若い世代にとっては模範でも何でもあるまい。成熟した大人が童心を持っていれば、きっとそこには、詩心が生まれ、小さな花を見ても感動することができるのだろう。年齢を経るごとに老化すると一般的には考えられているが、しかしゲーテかトルストイか誰か(誰やねん?)が言ったように、むしろ年齢を経て成熟すればするほど、柔軟になり、視野が広くなり、その意味で魂が若くなるのではと私は思う。今の自分に、詩心のかけらもあるとは思えないが、しかし18歳や19歳の時の自分と今の自分を比較して、当時の方がはるかに視野も狭く頑迷だったと言えるから。おや、夜空を見上げると、ほぼ満月のおぼろ月夜。うさぎが餅つきでもやっとるか?
2005.05.23
22日~23日、1泊2日で下田を訪れた。長年、伊豆の地に住んでいながら、幕末の舞台となった下田を訪れるのは初めて。今日は朝から天気がよく、下田港を20分で廻る観光船(黒船!)に乗ったり、ロープウェイで登った寝姿山から下田の街と海を眺望したり、と久々の息抜きになった。それにしても、下田の海の色が本当に南国のようだというのを、初めて知った。熱海とも、また伊東とも違った、ブルーとグリーンのグラデーションが美しい下田の海。反対に夜になると、宿の窓からは、何も見えない黒々とした太平洋だった。この海を、近代日本の先人たちはどのような目で見、遠い異国の地に思いをはせていたのだろうか…などと、柄にもないことを一瞬だけ考える。そー言えば、プリズ魔によって消滅させられたのも、下田の灯台だったっけ?
2005.05.23
箱根・芦ノ湖畔の箱根園で、焼き物が体験できるショップに入る。未着色の白い状態で素焼きしてあるモノ(貯金箱、マグカップ、ペン立て、等々)に、自分で好きな色を塗り、さらにそれを30~40分焼くと出来上がり、というわけである。高校時代までプラモデル製作が趣味だった私は、この日は「昔取った杵柄」で、ほぼ20年ぶりに筆をとった。選んだのは、1970年代のスーパーカーブームをくぐった人間であれば知らぬものはいない、ランボルギーニ・カウンタック。自分にとっては、かつて大枚はたいて田宮のカウンタックのラジコンを買い、プロポまで用意しておきながら、とうとう完成しないまま終わってしまった、というトラウマがある。この日は、かつてあこがれたメタリックブルーのカウンタックを再現しようと、最初は面白半分だったが、ついつい熱中してしまった(笑)。さて、出来上がった貯金箱。塗った時の色ムラは、実際に焼きあがってみるとそれほど目立たなくなっている。20年ぶりに塗装というものをやったにしては、まぁ許せる出来だと思う。この貯金箱、500円玉専用のものにしようと決める。一杯になった時、いくら貯まっているだろうか? これで、「500円玉が手に入ればカウンタックに入れる」という行動パターンが定着すれば、無駄使いも減るだろう(?)。
2005.05.22
箱根――濃霧で寒し。三島――高田屋の桜海老かき揚げ御膳がうまい。下田――遠い。
2005.05.22
好天の5月21日、出勤すると、海外から分厚い印刷物が航空便で届いている。空けてみると出てきたのは、確かに以前注文したはずがすっかり失念していた、シェフィールド大学100年の歴史を綴った本 Steel City Scholars: The Centenary History of the University of Sheffield だった。創立100周年。鉄工の街に大学ができたのは20世紀初頭だが、大学がどのような歩みを見せたのか、写真をふんだんに使ったその記録の一書である。10年前の今頃は、シェフィールドでのPh.D.の1年目が終わりかけていた頃だった。6月末までにPh.D.論文の1章を書き、その出来不出来によって、2年目から正式にPh.D.2年生になれるか、それともM.Philに回されるか、が決まるという追い込みの時期だったはず。だが、当時の私は、必ずしもPh.D.のテーマに直接関係のないフェミニズム政治理論への関心を高めていた。そして、日本の某雑誌に投稿すべく、フェニミズムに関する論文を日本語で執筆していた。その間、何をきっかけにしてなのかは覚えていないが、心身ともに深刻な落ち込みを経験もしていた。振り返れば、これでもかという程に常に心身の調子が悪かったのが、私の留学時代だった…。そのシェフィールドでお世話になった日本人ご一家の、当時は小学生だった長女・Yちゃんも、明日(5月22日)にはアメリカの大学を卒業するという。時の流れというのは不思議な感慨を人にもたらすが、人が成長して、持てる力を存分に発揮すべく世界に飛翔していくことは、慶事である。聞けば、東京・新宿在住の、やはり私が留学中に知り合った知人は、その大学の卒業式に招かれて昨日から渡米中という。カリフォルニアの今は、ぬけるような青空だろうか?思えば、私がPh.D.を取得する前後(2001~2002年)シェフィールド大学は教育面・研究面で英国ナンバー1という評価を得、Queen's Prizeが与えられた。大学100周年を迎えたシェフィールドでは、市街地のウィンター・ガーデンという比較的新しい公園で、6月下旬から世界の少年少女絵画展が開かれるという。残念ながら、今年はシェフィールドを訪れる予定が今のところないが、あの没落した工業都市の青空が非常に懐かしい。「あの留学生活を駆け抜けることができた自分だ。今の課題を乗り越えられないわけがない」と、自分に言い聞かせる。
2005.05.21
留学中の頃からだろうか、落ち込みがちな自分を自分で励ますため、いろんな書物から箴言を抜書きしたカードを作り始めた。そのカードもかなりの枚数になり、折に触れてそれをめくっては、惰性の自分を叱咤したり、軌道修正したり、決意を新たにしたり…ということが、かれこれ10数年続いている。その中に、次のようなくだりを見つけた――「力がついてから 戦うのではない。闘争の中で 自分を強くするのだ!」。けだし、至言である。学生時代から、「できるからやる、というのではない。やるからできるんだ」と言い聞かされてきたが、それと通じ合うものがあると思う。
2005.05.20
さぁ、今日も午前8時の太陽が赫々と昇った(たとえ曇りでも雨でも、太陽が昇っていることに変わりはない)。驀進あるのみ!新渡戸稲造の、有名な箴言――「十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる」。
2005.05.20
パスカルによれば、「力なき正義は無効」「正義なき力は圧制」。またパスカルいわく、「空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む」。これらを踏まえつつ、ある詩人がこう詠った。「一滴の水も葉上に眠れば はかない露と消える しかし 大海に合せば 世界をつつむ」より大きな目的観、偉大な目的観に立てば、自分自身が生かされ、活かされる。それはちょうど、公転と自転の絶妙な連動のようなものだろう。他者と切れた自分などない。自分のカラの中に逼塞している「自分らしさ」などない。人というのは、自分自身にこだわり、小さな自我を守ろうとすればするほど、皮肉なまでに自分を見失っていく。そうではなく、他者との関係性の中で自分を存分に開いて行く、そういう私でありたい。
2005.05.19
今日もまた、思ったほどの仕事の進展もないまま暮れた。明日はまた烈日となるだろう。ふと振り返ってみると、もともとの自分であれば、こうした状況に置かれると、まず心が焦り、それが肉体的にも疲労感となって蓄積され、思い通りに進まない現実に対して怒り、自己嫌悪のどん底に落ちていたはず。それが、気がつけば、そうでない自分になっている。もちろん「危機感」はある。しかしそれが、「落ち込み」にはつながらなくなったのだ。これは自分にとって大きい。落ち込むこと自体によって、どれだけ力が殺がれるものか、イヤというほど知っているから。焦って力むばかりだった、かつての私。ちょうど、半クラッチのままアクセルだけ吹かしに吹かし、前に進めずオーバーヒートする、というような状態が慢性的に続いていたのが、昔の私だった。それを「昔」と言えるようになったことが、自分でも不思議でならない。現実が日々ピンチの連続であることには変わりない。しかし、そのピンチにどういう心で向き合うのか、「迫るピンチにくじけない」(流星人間ゾーン)心であるかどうか、その、自分の一念の置き所が変わった。だから、「最後には勝つ!」という確信が、裏づけのない気合いとは異なったものに変わったのだろう。心って、不思議ですね~。思えば、長年の根深い不眠症がなくなったのも、そう遠い昔のことではない。眠りの浅い日も当然あるものの、基本的に夜はグウグウ寝ている。心が変われば肉体も変わる。今夜も、枕を高くして寝て、明日の烈日を元気に迎えることにしよう。
2005.05.19
睡魔との闘いである。期間限定の仕事を抱えている場合、いくら時間があっても足りない。時間があったらあったで、疲労が出て意識を失う。頭脳が明晰な時間は長くは続かない。カラータイマーがいつも赤になっているようなものだ。そういう悪条件の中でも、逃げずに戦って、勝利の結果を出す以外に選択肢はない。
2005.05.18
学生と、Iris M. Young の Inclusion and Democracy を読んでいる。去年から使っている教材なので、私としてはいいかげん内容を把握していてもよさそうなものなのだが、いかんせんニワトリ並みの記憶力なので(ニワトリに失礼?)、まるでゼロから読み直している感覚である。しかし、改めて考えさせられるのは、何かを語ることによって、何かが語られなくなるということだ。市民社会をめぐる Young の記述に出てくるのは、従来の政治的ディスコースでは代表/表象され得ない周縁化された人々が、アソシエーションを作ることによって、市民社会を活性化する、という可能性だ。確かに、男女差別や障害者への配慮といった問題が、「政治的な問題ではない」と認識されているうちは、それらが政治的な議論の土俵に乗ることはない(つまり、語られることがない)。しかしそれが、立派に政治的なことなのだという認識に変われば(あるいは、無視され抑圧されてきた側が、言論のヘゲモニーを取ることができれば)、それがパブリックな世界で認知され、議論の土俵に乗ることになる(つまり、語られるようになる)。もちろん、抑圧を被ってきた側だけの努力で、それを実現させるには、立ちはだかる困難があまりに大きいこともまた事実だが。それにしても、1990年代のあの、熱を帯びた「市民社会論」「ラディカル・デモクラシー論」への関心は、今はどこへ行ってしまったのだろうか…?
2005.05.18
「人それぞれ、価値観が違う」ということが、日本でしきりに言われるようになったのは、1980年代だったろうか? 古いしきたりとか慣習とかが個人に押し付けられるのはゴメンだ、自分には自分の個性があるんだ、画一化や決め付けは迷惑だ…というのは、もっともな話。それ自体は否定のしようがない。ただ、そうした「人それぞれ」が一つのイデオロギーとなって、「善悪の基準も人それぞれだ」となってしまうことには、さまざまな異論があると思う。もともと日本社会には、本当のことをズバッと言う人を嫌う文化があるのではと思っている。その上に、かの「人それぞれ」イデオロギーが加わると、「善悪」とか「正義」とかを云々すること自体が無意味になるらしい。ある人にとっては「悪」であっても、別の人にとっては「善」かも知れないではないか、というわけである。そうなると、社会に共通に受け容れられる価値観なるものは存在しないし、またそれを作ろうとすることは押し付けになる、という話になろう。あるいは、「正義」を振りかざすことがしばしば「偽善的」であったり悪しき「自己絶対化」につながってきた歴史を人類は持っているから、今や「正義」なる言葉も空虚な響きしか持たないのかもしれない。そう言えば、かつて子供向けのヒーロー番組では「正義の味方」というのがお決まりのお約束だったが、それを「単純な勧善懲悪モノ」として否定し、善玉と悪玉を決め付けることが難しいドラマ作りをするようになったのも、1980年代あたりからだったろうか。そんなことを考える中、デンバー大学副学長のナンダ氏の次のような言葉に出会った――「『慈悲』と『悪への怒り』は矛盾しないと思います。慈悲とは、自分の周りで起こっている出来事に対し、見て見ぬふりをすることではありません。なぜなら、慈悲があれば、社会の病理を直視し、それを正そうと思わざるをえないからです」。いつしか日本は(他の国ではどうか知らないが)、善も悪もひっくるめて認めてしまうのが「寛容」だと誤解される社会になってしまったと思うが、おかしいことはやはり「おかしい」と言い切れなければならないのだろう、と改めて思った。「善も悪も人それぞれだ」というイデオロギーでは、極端に言えば「自分にとっては、人を殺すことは善だ」という言い分をも認めてしまうことになるから。数年前、「なぜ人を殺してはいけないのか?」との倣岸な問いに対して、大人がこぞってすくんでしまったことがあったが、「いけないことはいけない」と言い切ることができなくなった格好の例だろう。たとえ時代が変わって、「人を殺してもイイじゃん」という考えが多数派を占めるようになったとしても、だから「殺人もOK」と言っていいことにはなるまい。「怒り」と言うと、非常に否定的な(場合によっては独善的な)イメージがつきまとう。しかし、「怒る」人間が、わがままで強情っぱりで暴力的な人間だというのは、浅薄な偏見だろう。眉間にしわを寄せて、声を荒げるようなことはなくとも、静かに淡々と、不正に対する怒りをもち続けることは、人間には可能なのだから。やはり、怒りは善にも悪にも通じるものなのだろう。もちろん、おかしいことを「おかしい」と言い切るには、それ相応の勇気も要るし、誤解を受ける覚悟もしなければなるまい。にもかかわらず、言うべき時にはズバリ言い切れる自分でありたいと思う。そのためには、「人それぞれ」「多様な価値観」という、それ自体は否定しようのないことを言い訳にして、そこで思考を停止してしまうような、そういう自分を乗り越えねば。
2005.05.17
夕方、久々に、学生時代からお世話になっている方のお宅にお邪魔した。私の東京時代も、イギリス留学時代も、八戸時代も、何かあれば報告し、また激励をいただいた、有り難い恩人である。幸いなことに、私にはそうした恩人が、自分がかつて過ごした地域のどこにも少なからずいらっしゃるし、彼ら・彼女らのおかげで今の自分があることを改めて実感している。まだまだ未成熟な私だが、そうした方々への恩を報じられる自分になりたい、と思った。「MOTTAINAI」の次は、「ARIGATAI」が時代の言葉になるかもしれない(??)。
2005.05.16
静岡の友が集うイベントが都内であり、午前中、新宿の国際友好会館を訪れた。その終了後、お昼にラーメンでも食べようかと思い立つ。たまに上京すると、四谷郵便局の近くの中華レストランでふかヒレラーメンを食べるのが楽しみなのだが、しかし今日は時間帯が悪かったのか、メチャ混みで入れなかった。仕方なくと言うか何と言うか、バッタリ出くわした知人のH氏・S氏と共に、慶応病院からほど近い地下のお寿司屋さんでちらし寿司と洒落込んだ。6月こそは、ふかヒレでスタミナを…。
2005.05.15
2003(平成15)年2月に発表した論文「後期資本主義・国家・市民社会――ジョン・キーンの市民社会論」を読み直す。この論文は本来、3~4回に分けて発表する予定の大きな論文の一部分として起草されたのだが、某雑誌への投稿〆切当日になって「連載は認めない」と言われ(そんなこと、もっと早く言えよ)、泣く泣く、尻切れトンボを覚悟の上で独立論文にした、という経緯がある。しかもその後、1年以上も体調を崩して知的活動がままならない日々が続き、回復したらしたで今度は単著の執筆にかかりきりになったので、この論文の続編は未だにできてない。というか、この論文そのものも本当は記録から抹殺したいくらいだった。ところが、Keane 教授来日を前にして、自分の駄文を今さらのように読み直し、どんなに不本意な論文であれ、その当時なりに自分が考えたことを文章化しておくことが後々役に立つ、ということを少し感じている。そもそも、シェフィールドのPh.D.口頭試問のために渡英した2002(平成14)年8月、合格を勝ち取った後に Terrell Carver 教授を訪ねてブリストル大学を訪れた際、宿泊所で暇にまかせて読んでいたのが、Keane 教授の1988年の論文 "Despotism and Democracy" だった。この頃は、1980年代の彼の市民社会をめぐる論考を整理しようという問題関心を持っていた。それをネタにでっち上げたのが、「後期資本主義…」論文だった。2003年8月、大英図書館で待ち合わせて初めて Keane 教授とお目にかかった時には、話題は私のPh.D.論文における彼の市民社会論解釈に関してであり、教授いわく「いかに私の書いたものが、多様な読み方をされるものか、興味深かった」(そう言われて私は複雑な思いだったが)。そして、当時 Global Civil Society? を上梓して次の著作を執筆中だった彼が、しきりと私に語って聞かせたのが、暴力の問題であった。「ロンドンのように、多くのストレンジャーと毎日すれ違う場所で、互いに殺しあったりしないでいるというのは、驚くべきことだ」とのたまう教授の言葉の意味を、その時の私は漠然としか受け止められなかった。2度目の会見をした2004(平成16)年8月、私は Keane 教授の自宅にお邪魔することになっていたが、約束の時間に地図を片手に Keane 亭を発見すると、置手紙がしてあり、「会議のため、悪いが大学まで来てくれ」との事。そこから、またも地図を片手にウェストミンスター大学のデモクラシー研究所(CSD)に行くと、教授の会議が延々と続いている。彼を待つ間、暇つぶしに目を通したのが、ウェブ上で見つけて印刷しておいた彼の論文 "Fear and Democracy" だった。ところがこの論文、あまりに興味深く、暇つぶしのつもりがどうしてどうして、引き込まれるように読み入ってしまった。ちなみに、予定から大幅に遅れて Keane 教授と語り合った時、彼が「暴力とか恐怖という問題を、政治学者はまともに議論していない。みな、ホッブズの説明で終わりにしてしまっている」「自分にはベオグラードに友人がいるが、そこでは暴力や恐怖は実にリアルな問題なのだ」etc.と言っていたのが、妙に私の記憶に残っている。そして今、2004年発刊の Keane 教授の Violence and Democracy を読み進める中で、despotism(専制)と fear(恐怖)と violence(暴力)をめぐって市民社会を論じる、彼の著作に共通する議論の仕方にうすうす気づきつつある。 事実、彼が多くの論文や著作を生産できるのは同じ議論の繰り返しが多いからだが(これは正直ホッとすることである――苦笑)、もちろん彼の来日までの残り僅かの日数でその思考回路を十全に理解するのは無理にせよ、少なくとも、彼の議論の土俵に乗って質問を発することはできるのではないかと、ようやく思えてきた。いやはや、なかなか辛い半月だったが…。
2005.05.15
John Keane 教授の来日まで、あと2週間足らず。遅々として準備は進まないが、とにかくコツコツやり続けるよりない。「ひるむ前に行動だ」と自分に言い聞かせる。Keane 教授の新著 Violence and Democracy の最初の2章を読みきり(第3章は、大学の授業の教材として学生と読んでいる)、現在は同教授の1996年の著書 Reflections on Violence に目を通している。Keane 教授の考える「暴力のトライアングル」とは、(1)核の存在、(2)内戦、(3)黙示録的なテロ、であり、この3つが現代の(グローバルな)市民社会を考える際の背景に存在することを自覚しなければならない、ということらしい。(2)の内戦は、通常は英語で "civil war" だが、仮借ない暴力が行使される現代の内戦はもはや "civil" な戦争とは言えず、Keane 教授は "uncivil war" と呼んでいる。また(3)については、テロそのものはつい最近始まったことではないにせよ、現代の黙示録的なテロの特徴は、何か別の目的を達成するために手段としてテロを行なうのではなく、むしろ暴力そのものが自己目的化し、何の抑制も働かない残虐な行為が繰り返され、「敵」のことを対話可能な存在とは初めから見なさない――というところにあるという。相手は「敵」ではあっても「他者」とは認知されない――ということは、暴力を加える側が相手のことを、痛みや恐怖や悲しみを持ち人生の過去と未来を背負っている「生きた人間」だと見なしていない、つまり相手がバーチャルな存在でしかなくなっている、ということを意味するのかもしれない。ボスニア、コソボ、ソマリア、ルワンダ、コンゴなどで繰り返された残虐な内戦の実態を、十分に知っているとは言えない私だが、しかし、生きた人間の息遣いを感じられないという一般的傾向性は、文化や民族の違いを越えて、1990年代以降の現代世界に蔓延していることなのかもしれない。生きた人間の息遣いが感じられない、人間関係が希薄化する、等々の問題は、20世紀初頭の先進国での都市化・大衆社会化の中で、すでに登場していた問題であった。現代にあっては、そこにさらにグローバルなITの発達というファクターが加わって、ますます「バーチャル」という言葉が云々されるようになっている。20世紀前半の大衆社会の問題と、当時をはるかにしのぐテクノロジーを持つ現代の社会問題との間の、相違点と連続性を認識することも困難だ。さらにその上に、従来から開発途上国とされてきた諸国にあっては、先進国が1世紀ほど前に経験した都市化・大衆社会化と、現代的なITの発達とが、同時に今起こっているのかもしれない、とも考えられようか。そうなると、現代世界をどのように把握したらよいのか、ますます話は複雑になる。しかも、最先端のITなるものとは無関係に、飢餓線上に苦しむおびただしい人々が厳然と存在している。「それは途上国の問題であって、私たちの国にはそうした問題はない」と安閑としていられればよいのだが、しかし日本には日本なりに、差別され抑圧された人々が多数存在する。にもかかわらず、そうした人々の存在を私たちは、リアルなものとして実感することが相変わらず困難である(つまり、バーチャルなものとしてしか感じられない)。他者の痛みや苦しみに対する想像力を失っているからこそ、10年前の地下鉄サリン事件のような「他者皆殺し」的発想のテロが起こり得たのではないか。それは、テロリスト本人の問題であると同時に、そうした暴力を生むような時代そのものの問題ではないか。いったい私たちは今、どのような世界に生きているのだろうか? Keane 教授の言う uncivil society なのだろうか?「生のリアリティ」を喪失した現状を、いかにすれば突破できるのだろうか?思えば、他者の存在をリアルなものとは思えない、という問題は、1990年代に「聖なる狂信」「抽象化の精神」「アイデンティティ・クライシス」等々というキーワードで語られてきたはずだった。他者の息遣いを感じなくなれば、必然的に自分のアイデンティティそのものを支えることができなくなる。「他者」なくして「われ」はないのだから(わざわざコミュニタリアンの思想を持ち出すまでもない)。そうした思考の「原点」を今一度再確認し、自分の思考の血肉にした上で、来日する Keane 教授に意味のある質問をぶつけられる自分でありたい。時間と能力の足りなさは、集中力と智慧でカバーしなければ。
2005.05.14
私には個人のホームページがあるのだが、2001年に見よう見まねで作ってから、大して内容も充実させられず、ここ2ヶ月ほどは更新することすら忘れていた。ところが、親しい知人が私のHPの掲示板に投稿してくれたことから、急に気が向いて、夕べは深夜までHPいじりをしていた。もっとも、所詮マイナーチェンジに過ぎないが、それでもリンク集のページを若干改善した。上手なHPの作り方をじっくり学びたい気もするが、片手間にやっていることなので思うようには…。
2005.05.13
天気が悪いわけではないが、どこかヒンヤリしている、しかし風にそよいでいる新緑はまぶしい…という日は、どうしてもイギリスのあの変わりやすい天候を思い出す。どこか、空気の中にそうした「匂い」を感じるのだ。あれは20年前――私が大学に入学したのも20年前なら、初めての海外渡航でイギリスに行ったのも20年前だった。感受性が強いというよりは臆病であり、ポリシーがあるというよりは偏狭で頑迷だった、あの頃の私。それに比べれば、今の方がはるかに柔軟かつ剛直だとは思うが、どこかしら、あの頃なりの瑞々しさが記憶の片隅に残っているのも事実。生まれて初めての海外の滞在は、ブライトンでのホームステイで、今では珍しくもないお決まりのパターンだが、「1日で四季が味わえる」ほどに天候が変化するイギリスというものを、体感した1ヶ月ではあった。そして、18年間生きてきた自分が、無知蒙昧であることを自覚した日々でもあった。空気の冷たさの中に感じる、かすかな清々しさと懐かしさ。それは、雨の中をバスで通学したブライトンの街並みや、喘息に近い風邪をひきながら修士論文を書き終えたエディンバラの晩秋の記憶を、今さらながらに想起させてくれる。その記憶が、今の自分の思想にどんな影響を与えているのか。それは自分でも分からない。だが、大学1年の夏にイギリスに滞在したということが、その後の進路を選択する際の「原体験」の一つになったことだけは、どうも確かなようである。…そんなことを、ふと考える午後。ヤバイ、仕事しなくちゃ!
2005.05.13
今日5月12日の午後、来日中のゴルバチョフ・元ソ連大統領が、東京・市ヶ谷の日本大学講堂で講演を行なった。職場の会議さえなければ、上京して聴きたかったのに、残念至極。おそらくゴルバチョフの存在がなければ、冷戦は終わらなかったかもしれない。その意味で、彼は文字通り「20世紀を変えた男」であろう。にもかかわらず、彼が政治の表舞台から退いた後の、日本のメディアからの無視のされようはどうだろう? ソ連がその歴史の幕を閉じたのは、1991年12月26日だったが、その翌日の某A新聞の社説には、「ゴルバチョフは所詮、保守的なエリート主義的政治家であり、むしろエリツィンの方が民衆の支持を得た」云々という趣旨の記述があった。それを見たのは、ベルリンで買った衛星通信版でだった(それは今でも保存してある)が、そのあまりにも浅薄なとらえ方に、あっきれ返ってひっくり返ったのを昨日のことのように思い出す。ゴルバチョフ後のエリツィン率いるロシア共和国の方が、立派な民主国家になったとでも言うのだろうか(そりゃ、一党支配でなくなったのはとてつもなく大きいことだが…)?現代史をとらえるのは、いつの時代にも困難である。ゴルバチョフに過不足ない評価が与えられるのには、まだ数十年の時の流れを要するのかもしれない。
2005.05.12
なさねばならない課題を前にして、それがあまりにも自分の力量を越えたものであることに、愕然となることがしばしばある。今かかえている複数の課題も、多かれ少なかれそうした類のもの。考えてみれば、少年時代から常に、自分の実力以上のものを課せられることの連続だったような気が…。しかし、そうした課題に四苦八苦しながらも逃げずに取り組むことで、眠っていた自分の力が鍛え出されてくることも事実。「内発性」を限りなく発揮させるには、目の前の困難に右往左往する以前に、「原点」にもどって足元を固めることが必要なのかもしれない。最近はひたすら、「自分は最後には乗り越えられる。ただ、今が今はその力が眠っているだけだ。それを出せば必ず勝てる!」と自分に言い聞かせる日々である。10の困難があれば20の力を出す、そうした自分でありたい。
2005.05.12
「18日になってから、1週間前の11日のことを思い出して書こうったって、そりゃ無理ですぜダンナ。」
2005.05.11
何か不祥事が起こるたび、「誠に遺憾だ」と言われる。いいかげん、聞き飽きた感のある、この「遺憾」という言葉。使い方によって、「ごめんなさい」という意味にも、「けしからん」という意味にもなる、融通無碍な言葉に見える。もちろん、辞書を引けばきちんとした意味が載っているには違いないが、あまりにご都合主義的に多用される手垢のついた言葉ゆえ、最近ではほとんど意味をなさなくなってはいないか。「遺憾」という言葉を用いずして、不祥事に対するコメントを発して欲しいと思ってしまう。
2005.05.10
知人と夜遅くまで語り合う。その中で、現実社会ではなかなか「対話」が成立しにくい、ということが話題になった。「対話」というと、自分の意見を言い、その理由も述べ、相手も同様に意見とその根拠を述べ、お互いに賛成するにせよ反対するにせよ、まずは「なるほど、相手はそういう理由でこう考えているのか」と理解する――というプロセスを思い浮かべるのだが、確かに日本の社会では、そうしたプロセス通りの対話は実は成り立っていない場合が多いのではないか。お互いの相違点を、ハッキリさせたがらないのはどうしてだろう? 違いが見えてしまうと、気まずくなるからか? なぜ、違うことが分ってしまうと気まずくなるのだろう? 対話は対話として、お互いの違いをハッキリさせて言うべきことを言い、なおかつ友好な人間関係を保つということが、どうしてこの国の人は苦手なのだろう? 日本人だけの傾向性ではないのかもしれないが、しかしそれにしても、この国の社会では、お互いの相違点が見えた途端に人間関係そのものが切れてしまうことが、あまりに多いような気がする。異質なものの存在を認めたくない社会なのだろうか?と同時に、「いろんな考えがあるから…」「人それぞれだから…」と、多様な考えを受け容れるのが今の日本社会であるようにも見える。ではこの国は、異質な存在に寛容なのだろうか? 実は、「人それぞれ」というもっともらしい口実で、真正面からの対話を避けているだけではなかろうか? それが「物分りのよさ」なのだろうか? 私は学生時代から、そのようにすぐ「人それぞれ」を持ち出して、言葉のキャッチボールを回避してしまうようなあり方に、強い違和感を感じてきていた。そうした「物分りのよさ」を「寛容さ」と呼ぶのは、間違いだろうと思ってきた。なぜならそのような「寛容さ」は、実は、異なった意見を言う人を封じ込める「不寛容さ」でしかない場合があるから。そんなことを考える自分が変わり者なのだろうか、と思ったこともあったが、同じような違和感を感じている人が少なくないことも、徐々に分ってきている。その場の人間関係を壊すのがイヤなばかりに、自分の考えをいちいちオブラートに包んで言わなければならない社会は、風通しが悪く、疲れるものだ。まさかそれを、「これが日本の文化だ!」と正当化はできまい。もちろん、自分の考えを言うからといって、どんな言い方をしてもいいとは思わない。配慮は大切なことだ。得てして、相手や周囲への配慮を欠いた言い方をする人がいるばかりに、ハッキリ言うことそれ自体を「わがまま」だの「自己チュー」だのと非難する口実を与えてしまうことにもなる。自分の言葉が、思った通りに受けとめられないかもしれないということを十分に考慮し、むしろまずは聞き上手になり、かつ、言うべき時にはズバッと言い切り、しかも相手を味方にする――という自分になりたいと思う。思えば、「理にかなった(リーズナブルな)人間」とは、そうした人間のことだろう(参照:Iris M. Young, Inclusion and Democracy, Oxford U.P., 2000)。
2005.05.10
人事ではない。職場の自室の机やロッカー、パソコンなどの配置を換えた。なかなか使いやすいワークステーションにならない。とりあえず、老朽化した建物の中で少しでも快適に仕事ができるよう、智慧をわかせなければ。それにしても、ものを動かして初めて、どこかに行ってしまっていた重要な書類などが「発掘」される。遅いっちゅーに(苦笑)。
2005.05.10
今日5月9日は、1945年の第2次世界大戦の、ヨーロッパ戦線終結から60周年であるという。モスクワでは、50数カ国の首脳(ドイツのシュレーダー首相を含む)が参列して、対独戦勝式典が行われた様子だ。日本にとっても戦後60年の今年。ふと、10年前の戦後50年を振り返る。あの頃、大江健三郎のノーベル賞受賞の余韻もあったのだろうが、日本の戦後史を振り返る出版物が多く出された。しかし、当然というべきか、1996年の「戦後51年」とか、1997年の「戦後52年」が、騒がれることはなかった。当時八戸時代、学生に対して、「50年とかいう区切りのいい時でないと、日本人は戦後史を正面から振り返ることはないのかもしれない」と語っていたが、今年の「戦後60年」は10年前ほどの騒ぎにもならないかもしれない。もっとも10年前の場合には、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件といった、黙示録的な出来事が続き、いやでも「戦後日本社会とは何だったのか」を問わざるを得ない雰囲気があったのかもしれないが。ファシズムを倒して終了した第2次大戦。その後は、世界を真っ二つに分けた冷戦が40年余り続いた。1989年の、「ベルリンの壁」崩壊に象徴される冷戦終結。核戦争の危機が去ったという解放感。冷戦に変わる新しい国際秩序を作るという希望。しかし、それと同時に、「文明の衝突」という言説に現実味を与えてしまった、湾岸戦争、旧ユーゴ内戦、ソ連解体。挙句の果てには、国連が「文明間の対話」と定めた、21世紀開幕の2001年に起きてしまった「9・11」、さらには大義なきイラク戦争…。ふと気がつくと、冷戦終結後の10年余りの世界を読み解く手がかりを、自分が決して手にしているわけではない。世界史が変わった、あの1989~1991年を、学生として見ることができたはずの自分としては、愕然とならざるを得ない。まして、20世紀とは何だったのかをリアルに見る視点が、必ずしも自分の中に確立していないことを、思い知らずにはいられない。モスクワでの式典の映像を見つつ、ロシアにとって、またヨーロッパにとって、社会主義や共産主義とは何だったのかを、改めて考え直してみたいと思った。
2005.05.09
5月5日に行われたイギリスの選挙は、辛うじて労働党が勝つという結果だったらしい。新聞が報じるように、「労働党には期待したいが、大義なきイラク戦争を戦ったブレアは信任できない」というイギリス国民の意思の表れなのだろうか。私は別にイギリス政治を研究しているわけではないが、しばしばイギリスが「民主主義の本場」と言われることには非常に違和感がある。「議会政治の本場」だと言うなら、まだわかる(百歩譲って、だが)。しかし、民主政治イコール議会政治ではない。ヨーロッパでは議会など、近代デモクラシー以前の中世からあるではないか。日本だって、天皇が主権者だった大日本帝国憲法の下でも議会はあった。「議会があるから民主主義」だの「選挙で人を選ぶのが民主主義」だのという偏見が、解消されるのはいつの日か? それらは、「デモクラシーの生みの親はアメリカだ」と考えるのと同じくらい、歴史を踏まえない偏見である。あぁ、今はいったい何世紀だ…?(嘆息)。閑話休題。しばしば、「二大政党制こそ理想の民主政治」だとメディアで言われる。アメリカやイギリスのように、二大政党制となれば、政権交代が可能となる、だから日本もそうなるべきだ――などと言われる。私にとっては、そういう考えはマユツバである。そもそも、世界のデモクラシー諸国の中で、文字通りの二大政党制をやっているところは少数派ではないか。3つ以上の政党が存在して、しかも立派に政権交代が実現している民主国家だって、いくらでもあるではないか。なのに、どうして「二大政党制こそ理想」なのか? しかも、今回のイギリスの選挙結果を見るがよい。与党の労働党は議席を減らしたものの、野党第一党の保守党は伸び悩み、むしろ第三党の自由民主党が前進したではないか。「二大政党制こそ、望ましい安定した民主体制だ」などと、どうして手放しで言えようか?メディア等で、いったん「二大政党制へむけて」式の話の方向性が出てしまうと、それが本当にそうなのかどうかロクに吟味されないまま、その筋に沿った議論ばかり取り上げられがちだが、その傾向性は不健全だと思う。デモクラシーは「世論の政治」だと言われるが、誰がどういう根拠に基づいて作ったのかわからない「世論」なるものに引きずられてしまうのは、危険なことだ。その危険性は、インターネット等の普及でメディアが多様化した現代でも、変わらないことだろう。
2005.05.08
朝から新幹線で、愛知・豊橋へ。後輩の親しい友人を訪ね、ともどもに自身の蘇生と成長の軌道を歩む決意をしてくれる。人を励ますことは、そのまま自分を励ますことになる。起きてから出かけるまで体調不良だった私も、帰りの新幹線の中では大歓喜。これでまた、次の1週間がんばれそうだ。
2005.05.08
明日は所用で朝から愛知に行くというのに、体調がすぐれない1日。新聞を読んでいたら、次のようなくだりが目にとまった。「日々、背水の陣――それは、どんな分野でも言えることである。新年度がスタートして1カ月余り。現実の厳しさに戸惑い、清新な息吹を、ともすれば失いかけてしまう時期でもある。ある意味で、今こそが将来の自身の勝利を決める分岐点と言っても過言ではない。好むと好まざるとにかかわらず自らが立つ“今いる場所”で、全力を尽くさねばならない。才能におぼれていたり、反対に力不足を嘆いていても仕方ない。」学生時代、友人と、「勝つこと」より「負けない」ことの方が重要で、しかも難しい、と語り合っていたことを思い出す。自分が調子のよい時には、いくらでも景気のいいことが言える。しかし、炎の壁、現実の壁(それらはしばしば、外側からでなく自分の内側から来る)に直面した時に、なおかつ負けない自分でいられるかどうか。振り返ってみれば、しんどさから「逃げない」ということをひたすら繰り返してきたのが、ここ15年ぐらいの自分ではなかったかと思う。魯迅の言葉に「魂が眠っていて、立派な言葉が出てくるはずはない」と。いきいきとした「強き生命力」と「たくましき智慧」が噴水のように湧いてくるような、そうした自分の内面でありたいと改めて思った。やはり「負けるわけにはいかん」(シュテッケン・ラドクリフ)。
2005.05.07
ゴールデン・ウィークの後半は、久々に映画三昧だった。アメリカ版『Shall We Dance?』は、単純に楽しむことができた。私もかつて八戸市で仕事をしていた時代、2年間ほど社交ダンス教室に通い、タンゴ、ワルツ、ジルバ、チャチャ、ルンバは習ったはずだった。スクールの先生に「背筋がピンとしていて姿勢がいい」とおだてられ、主にタンゴのステップを訓練してもらった。しかし、その後5年もダンスから遠ざかっている。きっともう、身体が覚えていないに違いない(涙)。荒れすさんだ学校が、1教師の音楽への思いによって変わっていく、フランス映画『コーラス』はよかった。「音楽というものが、生徒の美しい心を必ず蘇生させるはずだ」という、若くない主人公の強き一念。また、その波動を正面から受けていく生徒たち。逆に、子どもを信じるということのない、保身に満ちた大人の言動が、いかに少年たちの魂を虐殺していくか、ということも考えさせられる。この映画に登場する権威主義的・暴力的な校長に、よく似た人が身近にいるが(苦笑)、どこにでもこうした手合いはいるものなのだろう。また、尊厳死をテーマにすえたスペイン映画『海を飛ぶ夢』は、「生きることは義務ではなく権利だ」ということからそのまま「死ぬ権利がある」ということにつながるのかどうか、という難問をつきつけてくれる。ただ生物学的に生きるのでなく、人間はやはりより「善く」生きたいと願うものだし、「生きながらの死」には耐えられない存在なのだろうということは、再確認させられた。学生時代、「生きている」ということと、単に「死なずにいる」だけであることの区別に執拗にこだわっていたことを、ふと思い出した。ちなみに、今からちょうど20年前、私が大学に入学した時にテレビ本放映だった『機動戦士Zガンダム』も、今になって映画化され封切り間近という。これは、ダンバインやエルガイムも映画化されることを期待してよいということなのだろうか? あるいは、イデオンの映画のリメイク(それも3部作で)とか??
2005.05.06
連休の後半を宇都宮で過ごし、純白の愛車アコードワゴン(エルガイムMk-3と呼ぶ?)で東北道~首都高~東名と大疾走。それにしても、夜の高速道路のカーブは、いつになっても怖い。事故は、運転技術の問題と同様に、心理的な要素も大きいのだろうと思う。合言葉はやはり「無事故」。誰しも、自分が事故を起こすとは思っていない。それが、慢心と油断なのだろう。それにしても、東北道をぶっちぎると、妙に車が汚れるのはなぜ?
2005.05.05
「人生は 強くあれ! 胸を張れ! きょうも 新しい一歩前進を!」 ―5月4日―
2005.05.04
今年もまた、快晴の5月3日を迎えた。来年のこの日までに、何を成し遂げるべきか、また次の1年の挑戦の開始である。この日、恩師に、静岡の走り新茶をお届けする。ざっと考えてみても、2つの翻訳と2つの共著の完成、Ph.D.論文の出版、Keane 教授招聘事業の成功、職場の困難を極める改革、etc.、集中力を必要とする課題が続く。身体を壊すことなく、「すべてに勝つ」という一念をどこまで強く持ち続けられるか、それが勝負のカギである。ただの気合の問題ではない。淡々とした忍耐力を発揮できる自分でありたい。
2005.05.03
今月末にはロンドンから教授を招聘するというのに、英語力が無残なほど落ちてしまっている、困ったなぁ、ブツブツ、などと言っていた時、宇都宮の喜久屋書店でおもしろい本を手に入れた。カール・トゥヒグー著『知的会話のための英語』(ベレ出版、2004年)である。「こういう本が欲しかった」と言いたくなるような、今の自分のニーズに合ったムチャムチャおもしろい内容だ。語学というものは、使わなければどうしても力が落ちるもの。また、いわゆる英会話関係の教材をいくら使ってみても、私の業界で必要とされる英語力が伸ばせないことはわかっている。「いかなる」語学力が必要なのか、それに応じて、訓練の仕方も違ってくる。私の場合、一つには、欧米人の教養の奥底にある思想・哲学・科学論に関する基本的な用語法を身につけたいのと、もう一つには、単なる会話でなく、論理展開を的確に表現できるようになりたいというニーズがあるが、本書はかなり役立つのではないかと期待している(ただし、中には奇妙な訳語が載っている部分もあるが)。ちなみに、「教養」というのは、単なる物知りとか、趣味の問題ではないと思う。自分の世界観、社会観、歴史観、生命観にかかわるものだし、しかも単に知的な側面のことだけでなく、どう生きるかという人間としてのトータルな力量の問題だ。「知は力」とはよく言われることだが、しかし「知」だけでは実際には力になり得ない。文化を表す英語 culture が、「耕す」という意味を含んでいるように、自分の内面をどれだけ耕し、自分の世界をどれだけ深め豊かにしたか、ということが「教養」なのだろう。
2005.05.02
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