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6月のみそかは、偏頭痛に悩まされた一日。近々閉店してしまうかもしれないという、行きつけの喫茶店でランチを食べる。7月も当面はやっているらしいが、ここがなくなると昼食のレパートリーが一気に減る。また他方、職場の自室にこもって仕事していると、3月に退職して渡英したはずのかつての同僚が姿を現す。出会いと別れは、世の常ではある。その「出会いと別れ」の新たな局面を求めて、そんなエネルギーがどこに残っていたのかというほど、大車輪の回転をした夕刻だった。Ph.D.出版に向けて執念の行動。製本しておいた論文を改めて読み直し、少々の手直しは必要だとしても、大筋としておかしな論文ではないことを再確認する。そこから、再びプロポーザルを打ち直し、オックスフォードのB社にメールで送信。また、ロンドンのV社、ハンプシャーのA社には速達の航空便とする。さらには、蹴飛ばされたPM社の英国オフィスと、やはりロンドンのL&W社にも、プロポーザルを用意する。いずれも、「出版助成金の手続き上、8月には正式契約を結ばなければならないので、早めの検討をお願いしたい」という内容の、怪しい英文(涙)による手紙を同封した。深夜、B社からは早々の返信メールがあり、現在の社の方針からして出版は無理だとの返答だったが、私の論文の学術的価値が低いというわけではない旨、書かれていた。とにかく、限られた時間の中で、打つべき手はすべて打ち、その上で出る結果に対しては真摯に受け容れようではないか、と腹が決まる。まさに、「困難の氷壁をとかすのは、熱意という太陽だ」。初の女性宇宙飛行士であった、旧ソ連のテレシコワ氏の言葉――「人間ひとたび何かを心の底からやりとげようと思い、この志に全力でとりくむならば、必ず目的を達するものだと思います」。暗黒世界を切り裂く一条の光の矢のように、力強い箴言だ。烈々たる生命力で、偏頭痛を吹き飛ばしたいものである。
2005.06.30
納付期限ギリギリになって、ようやく銀行で自動車税を支払う。5年前に八戸の地で買ったアコードワゴンは、今でも八戸ナンバーのままなので、毎年6月には青森県に納税している。静岡県広しと言えども、風を裂いてブッちぎっている八戸ナンバーはそうそうお目にかかれるものではあるまい(などと思っていたが、先日、通勤途中に私の前を走っていた車は、青森ナンバーだった。むむむ)。今でも時々、「山田さんって、青森県出身ですよね」と間違えられる。「いえ、違いますよ」「えっ、だって八戸ナンバーじゃないですか」。車のナンバーが八戸だからと言って、即、青森県出身だと考える、その思考回路が私には理解しがたい。「八戸には、仕事で4年間いただけですよ。まあ、確かに東北人ではありますけど」…、いつもお決まりのパターンの対話となる。もっとも、2000年3月に、八戸を去ってここ三島に引っ越す時には、逆に静岡県出身者と間違えられたものだ。「今度、母校に赴任することになりまして」「あっ、それはよかったですね。じゃ、ご両親も喜んでいるでしょう」「へ?…あ、まぁ確かに喜んではいますが」「今度はご実家から通勤なさるんですか?」「ハァ? いやいやいや、違いますよ。実家は三島じゃありません」「えっ、だって、今度は母校で仕事するんでしょ」。母校は自分の出身地にあるに決まっている、という思考回路が私には理解しがたい。「私は、大学に入学するんで三島に行ったんです。学生時代はそこで6年間過ごしましたから、確かに第2の故郷みたいなもんですけど」…、これまた、お決まりのパターンの対話であった。私の出身地は、福島県いわき市である。ちなみに、引越しはこれまで大小含めて20回前後やっている。
2005.06.29
今夜、職場の改革に関する会議で、ここ数年考えてきたことをまとめて報告する機会を与えられた。あれもこれも、と語りたいことはいろいろありつつ、なかなかすべては言えなかったが、それでも基本的な考え方については、少なくない人々に理解していただけたという感触を得る。もっとも、今夜の会議で言いっ放しになり、忘れられていく、という危険性もないではないが。私の改革案は、ドラスティックであるとの印象を与えたらしい。しかし、私自身は必ずしもそうは思っていない。むしろ、「当たり前のことを、当たり前にやれよ。それができる体制作りをしろよ」というシンプルな発想に基づいている。「時代のニーズに応えて」云々と言えば聞こえはいいが、どんな激しい時代の流れの中でも、変わらない「基本」はあるのであり、その「基本」的なことを当たり前にやって見せることがすべての出発点ではないか。「基本」を無視する者に限ってやたらと「応用」に手を出したがる、というパターンを数年見つづけてきた私にとって、今夜の発言は、「何を基準にものを考えるのか」に関する私自身の叫びであった。ちなみに「ラディカルである」とは、「急進的」というより、むしろ「根源的」だということ。私の叫びは、この意味で「ラディカル」だったのだろう。自分が本当に考え抜き、本当に納得していることを語る――そのこと自体が、大声を出さなくとも「叫び」となって他者の心に響く。そして、聞くものの「一念」を微妙に変えていく…。たとえそれが、目に見えない小さな変化に過ぎなくとも、声を、言葉を、惜しんではならないのだろう。普段はどちらかと言えば無口な私だが、いざ口を開いた時には「電光石火の一撃を呼ぶ」ようでありたい。そう、まさに「一撃必殺」!
2005.06.28
梅雨というのに、すでに酷暑である。去年の6月もまた、暑かった。この異常気象は、地球温暖化がもはや引き返し不可能なところまで来ている兆候なのだろうか?酷暑と言えば思い出すのが、水不足が騒がれた、11年前の1994年。その時、私は英国シェフィールドにいた。その年の日本の酷暑は、経験しなかったわけだ。しかしその前年である1993年、日本は冷夏であり、深刻な米不足から急遽タイ米を輸入したにもかかわらず、日本人からは「まずい」と不評だった。それと、1994年とのコントラストが、シェフィールドにいる自分の心になぜか強く印象づけられた。ちなみに1994年は、野茂投手が大リーグで活躍を始め、やたら「NOMO、NOMO」と言われていた頃でもあった。いまならさしずめ「ICHIRO」というところか。2002年夏、初めて訪れたアイルランドは寒いくらいだった。その年、ヨーロッパ大陸は大洪水で、プラハもザルツブルクも大きな被害を受けた。2003年夏、ヨーロッパは酷暑であり、8年ぶり3度目の訪問となったプラハで私は脱水症状に陥った。同年、フランスでは熱中症で多くの死者を出した。転じて日本はというと、帰国して成田に着いた瞬間「寒い」と感じた。2004年夏、日本は6月から酷暑だった。ヨーロッパはそこそこの暑さだったが、エディンバラでは凶悪な寒さにぶつかり、風雨の中でミリタリー・タトゥーを観るはめになった。さて、今年のヨーロッパの夏は??
2005.06.28
州の利権が複雑に絡み合い、戦闘が禁止されている鉱山に、ゲリラによって同僚を殺された連邦軍兵士が禁を破って侵入し、ゲリラと火花を散らす――おっとっと、これは文字通り「戦士の休息」(前後編)だった。疲労が極みに達した今日は、月曜日にもかかわらずほぼ休息日となった。しかし、あれこれ考えなければならないことは限りなく、頭だけは(明晰さはとんと失せているものの)動いていた。やたらとのどは渇き、緑黄色の野菜ジュースをがぶ飲みする。たまっていた洗濯物を一気に洗ったら、干す場所が足りない。休息日とは言え、やることは尽きないものだ。いかん、今日の新聞にもまだ目を通していない。世の中では何が起こっているか…?戦いはこれからだ。所詮は、すべての課題において「勝負」を決するよりない。
2005.06.27
東京で、しばらくぶりに Michael Kenny 翻訳の研究会を行なう。おそらく、これが最後の研究会となるだろう。仕事というのは、完璧を期そうとすればそれだけ、限りなく時間を費やさねばならなくなる。世俗の世界に生きる私たちに与えられた時間は、無限ではない。どこかで「決着」をつけねばなるまい。この翻訳に着手したのが去年の夏だったが、ともあれ「決着」の峰がようやく見えてきた。チームを組んで、分担して一つの仕事を成し遂げる、ということには、さまざまな困難がつきまとう。しかも、理想的な環境が整えられたもとで仕事をするなどということは、願うべくもない。しかし、困難を避けていては何も生み出すことはできない。それらを忍耐強く一つ一つ乗り越え、現実に一つの形に結実させていってこそ、価値は創造される。一つの仕事を共有できる「人」と「時」を得られることは、まさに僥倖と言う他はなく、感謝は尽きない。この翻訳が完成した後、いかなる評価を受けるか。それはもう、「天冥に賭ける」よりない。
2005.06.26
「世界の壁は厚い」と感じることが、朝一番であった。Ph.D.論文の出版を目指し、英米の出版社を探すこと2年。この2月に、比較的好意的な反応を返してくれた、アメリカの大手 Palgrave Macmillan から、最終的に断りのメールが今朝入った。それも、かなりネガティヴな評価とともにであった。どうやら、こういうことらしい――戦後日本の研究としては、英米の日本研究の業績を参照しておらず、ベーシックな内容過ぎる。政治理論研究としては、トピックを限定しすぎていて、しかもあまりに記述的だ。結果として、日本を研究する学者にとって意味のある本でもなければ、教科書として使える本でもない…。確かに私の論文は戦後日本のことを扱ってはいるが、別に戦後日本政治史の論文ではなく、松下圭一氏の大衆社会理論が、大衆社会論としても、また現代政治理論の文脈でも、欧米でも検討されるべき内容を持っている、という政治理論研究の論文のつもりなのだ。出版社にプロポーザルを送った時にも、そのことは明記したはずだった。しかし、出版社側が査読を依頼した評者は、きっと日本研究の専門家だったに違いない。日本の理論の文脈を理解させるには、背景となる歴史をざっと書かなければならず(そして「ざっと」なるがゆえに「ベーシックだ」と言われ)、欧米では知られていない松下氏のテクストを丹念に検討すれば、今度は「記述的過ぎる」と言われる。どうやら私の論述では、松下大衆社会論がなぜ政治理論として普遍的価値を持つのかを、説得的に論じていることにはならないらしい。曲がりなりにも、この論文でPh.D.を取ったのだから、低レベルの研究を行なったつもりはない。最後の口頭試問でも、試験官の一人は英国で日本研究をしている学者であり、厳しい質問も浴びたものの、トータルな評価としては、「これまで欧米では知られていない内容だ」とすこぶる好意的だった。欧米の大学は、日本のどこかの大学とは違って(笑)、レベルの低い論文に対して「お慈悲で」学位を出すようなまねはしない。もちろん、それが出版となった場合に、「売れるかどうか」はまた別問題であり、出版社が内容の高低よりも採算を考えるのは当然のことだろう。これまで断られた出版社からも、「学術的には高度だが、売れないからダメ」という理由であった。しかし、今回 Palgrave Macmillan からもらったのは、内容そのものに関してかなり低い評価だった。こうなると、たとえ幸運にも他の出版社が引き受けてくれたとしても、出版された自分の本についてはまたぞろ低い評価が下されるのか…と案じてしまう。どんな評価を得ようとも、出してしまえば勝ちだ、という見方も一面の真実ではあるが、引き受け手が見つかっていない現状では、そう強気にもなれない。出版助成金のからみもあり、7~8月までには本来は出版計画が具体化していなければならないのだが、またゼロから出版社に原稿を送って査読してもらって…と考えると、明らかに時間が足りない。文字通り「世界の壁は厚い」ということか。ともあれ、「戦い」はこれから始まる。「善からんは不思議、悪からんは一定」である。ふと、エディンバラ留学時代に、萎えがちな自分の魂を鼓舞した詩(作・山本伸一)を思い出す。「見よや 彼方に虹かかり いざいざ征かなむ 決めたる道を 地を征く王者と 走りぬ獅子は 朝日 夕日に 友よ立て」
2005.06.25
昨日、「言うんじゃなかった」という内容の日記を書き付けた。ところが今日、昨日の会合に同席していた人とバッタリ会った際、「昨日はよく言ってくれた。自分も大賛成だ。ありがとう」と(おそらく掛け値なしに)言われ、自分の言葉にも意味があるとの思いになることができた。彼にとっては、他の人が枝葉末節のことにとらわれた話しかしなかったのに、私は本質論を言ったのだそうな。本質論を言うことには、時としてためらいがある。それが「本質」なるがゆえに「誰でも分かりきっている」ことであり、「今さら言葉にするのも恥ずかしい」と冷笑のまとになるかもしれないからだ。また、得てして「本質論」は、具体性のないただの愚痴や文句と受け止められがちだ。事実、「文句があるなら対案を出せ。出せないなら発言するな」式の反応をもらう場合がないでもない(昨日もそれに近かった――苦笑)。私に言わせれば、対案を出すためにも、それを考える土俵たる「本質論」の上に話を乗せなければ、対案なるものは容易に「場当たり的な思いつき」に堕するだろう。「本質論」は、「無意味な抽象論」と同じではない。そうではなく、「具体的に」考える際の前提条件なのだ。言葉に対する無力感は、そのまま人間不信に通じるし、文字通り「言葉嫌いは人間嫌い」である。しかしまた、勇気を持って言葉にすることで、思ってもいなかった方向に自分が開けることもある。「書いていたもの」がどんな出来のものであれ無駄にならないように、「言ったこと」もまた、届くべき人の心には届いているのだろう。そう思えるのも、きっと、それ相応の反応を示してくれる方がいるおかげではないか。やはり自分のアイデンティティは、他者と関わる中にしかない。
2005.06.24
「一人の人間の自由な発展」が「万人の自由な発展」の前提となるような社会――かつてマルクスが、来るべき(共産主義)社会として描いた理想である。無残な一党独裁としての共産主義国家を見てしまった私たちは、しばしば忘れがちであるが、マルクスがもともと考えたのは、階級に分裂した不平等な社会、個人の発展と社会全体の発展とが調和していない社会を乗り越えて、バラバラに断片化したエゴイスティックな個々人の間に人間らしいアソシエーションを実現する、ということではなかったか。この、「一人の人間の自由な発展」が「万人の自由な発展」の前提となるような、こうした社会は、現存の自由民主主義体制でも、実現したわけではない。言わば、「果たされていない約束」として残っている。一握りの少数者が多数を犠牲にする社会でもなければ、逆に多数者が少数者を圧迫する社会でもなく、個人と全体が相互に生かし合う社会。これを「ユートピア」と呼ぶなら、ユートピアを追求するのは危険だとの批判がなされるのが現代だろう。すべての人間を解放するというような「大きな物語」はおぞましい逆ユートピアをもたらす、という経験を人類はしてしまったからだ。だが、現存の社会では「一人の人間の自由な発展」と「万人の自由な発展」とが必ずしも両立していない、というシビアな認識は必要だと思う。単なる「世の中への文句」という次元でなく、現代社会を批判的に見る目を失ってはなるまい。「大きな物語」をもはや誰も信じないからと言って、一定の「あるべき理想」がなければ、現実の改善もへったくれもないのだから(「改善する必要などない」というニヒリスティックな立場もあるかもしれないが)。「他人の不幸の上に、自分の幸福を築くことをしない」という黄金律は、シンプルと言えばシンプルだが、実際にはかなり困難であり、だからこそ追求する価値のある理想だと言えるのではないか。
2005.06.24
職場関係のある会合で、出席者全員にマイクが向けられる。「全員に平等に、一人一言ずつ言うチャンスを与える」という意味なのだろう。普段から、言いたいことは山ほどある。同じ言うなら、過不足なく理路整然と言いたい。ところが、実際に話すとなると、何をどう言えばいいのかうまくまとまらない。いざ、マイクが回ってくると、結局は勢いで語ってしまう。そして、語った後で「あぁ、言うんじゃなかった」という嫌悪感が残る…。こういう、目的が明確でない場で「何か一言」と求められることが、私は一番イヤだ。しかし、どんなにイヤでも、他に言う場がないとすれば、そういう機会も捨て去ってしまうわけにはいかない。たとえ、理路整然と語ることができたとしても、こちらの意図どおりに周囲に伝わるとは限らない。私にとって「ここが重要だよ、ここがポイントですよ」という箇所ほど、聞く側は素通りして聞いてしまう、ということも珍しくない。まぁ、話す側の力量の問題でもあるのだろう。しかしそれにしても、同じ問題意識で、同じ土俵に立って、同じような筋道で物事を考えてくれる人に出会うことは、そう多くはない。まして、同じ意識を持ってくれているとしても、それをきちんと言葉として発してくれる人に出会うことは、稀と言うよりない。結果的に、「いろんな意見」が出るものの、それらがすべて「言いっぱなし」で終わる…。まさに、得がたきは「人」と「時」である。
2005.06.23
久々に懐かしい曲を聴く。1976年発表の、哀愁に満ちた歌「たたかいのバラード」だ。「どんな鋭い武器でさえ いつか敗れる時もある あぁ ただ一つ ただ一つ 俺の小さなこの胸に いつも燃えてるいのちの火 それは誰にも消させない 今さら何に頼るのか いのち一筋 俺は行く」この曲を聴いて、なぜ、喘息と戦いながらエディンバラで修士論文を書き終えた1991年11月を思い出すのか、それは自分でも分からない。あの当時、この曲をエディンバラで聴いていたという事実はないはずだ。晩秋のスコットランドの曇天の下、一つの戦いに決着をつけた時の自分の心象風景に、この歌詞の内容が重なるのだろうか。「今さら何を探すのか 生きる意味ならここにある」
2005.06.23
今日、面白い話を聞く。仕事や生活の上で、「大変だ」という状況が続く場合がある。しかし、「大変」とは「大きく変わる」と書く。だから、「ピンチはチャンス」という通り、大変な時というのは、自分が大きく変われる時、自分の殻を破る時、大きく成長できる時だ――というのだ。なるほど、確かにそうかと思う。今年も半分が終わろうとしているが、この半年で、2年分ぐらいの仕事をしたような気がする。今日も、雑誌記事のゲラと共著の初校が同時に届き、どちらにも近日中にアカを入れなければならない。その一方では、滞っていた The Politics of Identity の訳稿について、出版社の方から事実上の「督促」がなされた(げげー)。これも、いつまでも決着がつかないと、次の仕事に移れない。そろそろ潮時なのだろう。次から次へと、まぁとにかく、価値を創造するというのは大変なことの連続だが、まさに「大変」だからこそ、自分が錬磨され、成長できるのだろう。もっとも、「ドラゴンに頼めば大丈夫、やってくれるだろう」と安易に依頼されることについては、明確に断ることにしている。「信頼してもらえる」ということと、「当てにされ、いいように使われる」こととは、きちんと区別しなければならない。この下半期から来年にかけては、賢明に仕事の取捨選択をしなければ。わざわざ「大変さ」を恒常化させて、健康を害するのは、愚かな反価値であるから。
2005.06.22
昼間の空いた時間、久々に手紙書きをする(パソコンでだが)。その宛名の中に、20年前(1985年)の初めての海外渡航時に英国ブライトンで知り合った友、また、14年前(1991年)のエディンバラ語学留学の折にご一緒していた知人の名があった。思えば、学生時代の私は何と筆まめだったのだろう。「たとえ相手から返事が来なくとも、こちらからは人間関係を切らない」などと考えていたのは、大学生の頃だったし、海外旅行中や留学中は、実にたくさんの手紙をあちこちに書き送ったものだった。今でも、当時私が送った絵葉書を取ってあると知人に言っていただけると、「嬉し懐かし」である。ところが、社会人になってからのこの筆不精さはどうだろう? 逆に、学生時代にあれだけ手紙を書くことができた自分であったことの方が、不思議に思えたりする。初めての海外で、日本と英国のコインがあまりに違うことに驚き、高校時代の友人に手紙で書き送った、大学1年の夏。1987年、初めて東西ベルリンを訪れた時のショックを、舌足らずながら友達に伝えようと、ペンを走らせた夜行列車。「壁」崩壊後のあまりの変わりように、出国前日の深夜までたくさんのハガキを書き続けた、1990年2月のベルリンの宿。異世界で孤独の中に沈んでいた頃、祖国からの手紙を何よりの喜びとしながら、留学中の生活について手紙に綴っていた、1991年のエディンバラ時代。シェフィールド留学の1年目を終え、痛めつけられた心身を癒しつつ中欧の時の流れの中で筆を執った、2度目のプラハ訪問(1995年9月)…。不思議と、手紙を書いている情景まで記憶に蘇ってくる。しかし、1996年に職を得てより、電子メールの普及もあって、ペンだこを作りながら物書きをするということが本当に減った。
2005.06.22
夜明け前にふと目を覚ます。外は雨。窓を開けると、ヒンヤリとした空気が心地よい。不眠症で眠れないまま朝を迎えるのはしんどいものだが、今日はそうではなく、久々に体の奥にたまっていた疲労が少し抜けたような、そんな感じがする。往年の名曲「夢先案内人」を思い出す。夜が白々と明け始める早朝。なぜかふと記憶をよぎるのは、20年前にホームステイしていたブライトンの、静まり返ったキッチン。また、1991年の、悪戦苦闘つづきだったエディンバラ留学での、冬の凍てつく曇り空。あるいは、2度目の留学に飛び出したシェフィールドでの、2ヶ月間の Earnshaw Hall での寮生活でも、眠れない夜を過ごして夜明け前の散歩をしたことがあっただろうか。時は流れる…。さて、もうひと寝入りするか。
2005.06.22
夜明け前にふと目を覚ます。外は雨。窓を開けると、ヒンヤリとした空気が心地よい。不眠症で眠れないまま朝を迎えるのはしんどいものだが、今日はそうではなく、久々に体の奥にたまっていた疲労が少し抜けたような、そんな感じがする。往年の名曲「夢先案内人」を思い出す。夜が白々と明け始める早朝。なぜかふと記憶をよぎるのは、20年前にホームステイしていたブライトンの、静まり返ったキッチン。また、1991年の、悪戦苦闘つづきだったエディンバラ留学での、冬の凍てつく曇り空。あるいは、2度目の留学に飛び出したシェフィールドでの、2ヶ月間の Earnshaw Hall での寮生活でも、眠れない夜を過ごして夜明け前の散歩をしたことがあっただろうか。時は流れる…。さて、もうひと寝入りするか。
2005.06.21
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『重戦機エルガイム』のオンエアは、21年前の1984年である。前作であった『聖戦士ダンバイン』が大きな期待をよそに意外な結末で幕を下ろしたこと、また『エルガイム』放送開始以前からファンが多いという事態に世間のミーハーさを感じてしまったこと、等々を理由に、放映当時はほとんど見なかった(また、たまに見てもストーリーが分らなかった)。私立大学受験で東京に泊まりこんでいた時、その次の週が最終回であることを知った――ということは、なぜか記憶に残っている。その『エルガイム』にハマったのは、社会人として初めて赴任した八戸の地でだった。TVシリーズがビデオ化されているのを知り、レンタルで借りて一気に全54話を観たのが、確か1997年の頃だ。それ以降、2~3回借りて観てしまうほどのファンになったのは、自分の高校時代から比べれば自分でも予想外のことだった。もっとも、『エルガイム』に対しては、高3~大2頃にかけて、アンビバレントな感情は抱き続けた。本編を満足に見なかったくせに、特集を組んだ雑誌などは買っていたし、そのいくつかは今だに捨てずに持っている。今はなきレコードレンタル屋で、BGM集を借りて聴いていたのは、大学2年の頃だ。BGM集のCDをすべて揃えたのは、ビデオで全話を観てからのことだが、セレクトした自作のBGM集カセットは、折に触れて車の中で聴いている。昨日、今日もまたそうだ。『エルガイム』は、独裁権力を主人公が倒していくストーリーだが、実にさまざまな観点から解釈することが可能な重層的な話になっている。と同時に、懲りすぎたゆえのマニアックな分りにくさといったものは、ほとんどない。すべてが目に見えない独裁者によって管理され、それに疑問すら持たない一般民衆。そうした世の中に疑問を持ち(と同時に、根絶やしにされた自分の民族の再興をかけ)、慣れきってしまっている大人に対しても影響を及ぼしていく青年カモン・マイロード。見方によっては、結末は全く異なるにせよ、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を想起させる。『エルガイム』本放映は1984年だったが、原作者である富野氏や脚本家たちが『1984年』を意識していたかどうか、私は知らない。80年代前半の富野作品の中に、核をめぐる当時の「新冷戦」という背景を見出すことも、さほど困難ではない。もちろん、80年代という時代背景から切り離して、本編を見ることは十分に可能だ。しかし、なぜ80年代という時代にこうした作品群が登場したのか、という点については、現代社会論・現代文化論の観点から、興味をそそられる。さて、明日の出勤の時にもまた、車のBGMはエルガイムである。DVD-BOXの入手はいつの日のことか…。
2005.06.21
とうとうダウンし、職場に行かずほとんど寝続けた月曜日。よほど疲労がたまっていたらしい。ただただ驀進すりゃいいってもんじゃない。三歩進んで一歩退く「前三後一」も必要だ。力んだ「ハードパワー」ではなく、内発的な「ソフトパワー」でこそ、仕事でも生活でも価値を創造できるのだろう。
2005.06.20
1泊2日の東京滞在の週末だったが、数週間の疲労がたまっていた上に、いつも飲んでいる薬を三島から持参するのを忘れてしまい、それが原因かどうかはわからないものの、夜はよく眠れなかったし、今日は午後ずっと目まいがしていた。あぁ、私もヤク中か? そんな中、5月には食べられなかったふかひれラーメンを、新宿でお昼に食べる。コラーゲンたっぷりだそうな。これでまた1週間、乗り切れるか?
2005.06.19
ある東京都議を囲む集まりに、誘われて顔を出す。その都議の地元に住んでいる友人から、以前「不妊治療には保険が適用されず、とても治療を受けられない」と子どもをあきらめざるを得ないような悩みを聞いていたので、思い切ってその都議にそのことを言ってみる。すると、その問題を以前から検討しており、少しずつではあるが改善に向けた動きをしている、との答えを得ることができた。得てして私たちは、「政治家は誰でもみな同じ」「権力者は所詮エゴと金で動いている」等々と思いがちだ。しかし、一人の庶民の声を真剣に受け止めてくれる政治家もいる。事件や問題が起こった場合、真っ先に現場に駆けつけ、実態把握に努める政治家もいる。逆にそれこそ、事件や問題が起こっている最中に、ゴルフや宴会にうつつを抜かす政治家もいる。セクハラなど自分で問題を起こす政治家もいる。「政治家は誰でもみな同じ」と決めつける前に、目の前にいる政治家がどんな行動をしているのか、どんな結果を出したのか、言っていることとやっていることが同じなのか違うのか、等々を識別する眼が、私たちの側に必要だろうと思う。「私たち庶民は、権力者に支配されるかわいそうな被害者」だなどと、のんきな「悲劇のヒロイン」づらをしてはいられない。
2005.06.19
市民文化フォーラムが主催する研究シンポジウムで、登壇者の一人として20分強話す。直前まで殺人的に忙しく、またしても準備不足ででっち上げの内容ではあったが、自分がずっと考えてきたことが、他の人々にとって意味のあることなのかどうか、その感触をわずかながらでも得る機会となった。私は、戦後の日本は、特にオイルショック以降の日本は、「個」と「私」をごっちゃにしてきたのではないか、と思っている。今の学生と話をしても、ほとんどは、「個人の自由」イコール「私的自由」と考え、「個人主義」イコール「私生活中心主義」と思っている。自分の頭で考え、自発的に行動する、という意味での自律的個人というものは必ずしも成熟したとは言えず、単に私的領域に閉じこもる人が増えたというのが、いささか単純ではあるが戦後60年の大きな流れだったのではないかと懸念している。だから、1995年の阪神・淡路大震災の時のボランティアの活躍以降、「市民」や「市民社会」が語られ、NGOやNPOといった社会運動やアソシエーションへの注目が集まったことには、一方では共感しつつも、他方では安易に「市民」を語ることの危険性も感じている。「私化 privatization」という巨大な問題が乗り越えられたわけではないではないか、と思うのである。こうした私の問題意識に対しては、「それは心構え論ではないのか」という反応があった。おそらく、私生活にしか関心が向かない「大衆」に対して、そんなことではいかん、もっと政治や社会に関心を持て、自発的な「市民」たれ…と呼びかけるような、そうしたおせっかいな立場として私の発言をとらえたのかもしれない。私自身は、そのような、人々の「心構え」を説くようなモラリズムが無力であることを知っている。「結局は一人一人の自覚の問題である」式のありきたりの結論には吐き気をもよおす人間であり、「人々の心構えさえ変わればいい」などとおめでたいことを考えているつもりもない。ただし、例えば市民運動にせよ自発的参加にせよ、それらを担う「人間」それ自体を考察しなければならない、という強い思いを抱いている。運動やボランティアが流行になればやるが、そうでなければやらない、というのでは、運動の持続性はないだろうし、運動論・組織論・制度論ももちろん大事だが、そうした運動や組織や制度をどんな人間が担うのか、ということの方に私は関心がある。だから私は、私的領域に閉じこもってしまうと言われる人々はなぜそうなるのか、市民的な自発性とはどのようにして生まれるのか、端的に言えば「いついかなる条件で、人々は『自発的市民』になるのか」という問題にどうしても目が向く。そうした観点から、「私化」や「生活保守主義」をもたらした日本の「戦後民主主義」とは何だったのかに関心がある(だから、純粋に歴史学的・現代史的観点から戦後日本史を研究しよう、という意識はあまりない)し、だからと言って説教じみた「心構え論」を説こうというつもりは毛頭ない。私は、戦後の個人主義を批判する立場の人も、逆にそれを擁護する立場の人も、どちらも「個=私」という前提を持っているのではないか、という気がしている。その上で、(A)「戦後民主主義」に批判的な人々は、「戦後日本は、わがままな人間だらけになった」と憤慨・慨嘆し、「だからもっと愛国心を」「もっと公に尽くす心を」「だから道徳教育を」「だから教育基本法の改正を」etc.という方向に話を持っていく。この立場に立つ人は得てして、「公=国」と考えており、「公共心=国家に尽くす心」と理解し、ボランティアまでもそのために利用しようとする。現代版「滅私奉公」とも言えようか。他方、(B)「個人が自由で何が悪い!?」とする人々は、「価値観は人それぞれではないか」「特定の価値観を押し付けるな」という、それ自体は正しい意見を述べつつも、そこから「何でもあり」となり、善も悪も「その人次第」だというアナーキーな価値相対主義に陥り、人々に共有できる価値というものを「押し付けだ」「画一化だ」として一切拒否する。そして、公共の(パブリックな)ものに背を向け、私的な(プライベートな)領域に閉じこもる…。いささか戯画化すれば、こうなるのではという気がする。いずれにせよ、AもBも実は、「個=私」という等式を共有しており、それを「わがままだ」と断ずるか、「それで何が悪い」と開き直るか、の違いだけのように見えるのである。もっとも、その研究シンポジウムでは面白い話も聴いた。「イマドキ」の若者の少なくない人々は、Bのような生き方をしているにもかかわらず、そうした人に対して「今の日本社会の何が悪いか?」と尋ねると、Aのような内容の答えが返ってくるというのである。う~ん、すさまじいパラドックスである。日常生活もままならないひきこもり気味の少年が、ある日突然ウヨクのバリバリの活動家になり、天下国家を論じてしまう、というのと同じメカニズムなのだろうか?「事実は小説よりも奇なり」とは言うが、このパラドックスをどう理解したらいいのだろう?(6月19日記す)
2005.06.18
今月4日、JR国分寺駅で、ひどい駆け込み乗車に怒った駅員が、「大怪我をしても本人の責任」というアナウンスをしたとか。別の乗客がそのアナウンスに抗議し、駅側も「言葉に配慮がなかった」と認めたらしい。その場にいなかった者がいろいろ言うと、無責任になってしまうのだが、しかしこのニュースにはもろもろ考えさせられた。最近、日本は「言葉の使い方」にものすごく敏感な社会になっているのではと思うことがある。言葉への鋭敏な感覚は、もちろん歓迎すべきである。しかし、これほど日本語の「乱れ」や「読み書き力の低下」が指摘される中で、言葉に敏感になっているというのは、歓迎すべき鋭敏さというよりもむしろ、わずかな不快な表現にも我慢ならず、むかついて反応する、といった類の敏感さなのではないか。それは、一歩間違うと「言葉狩り」につながるのでは…?確かに、言っている内容がいかに真実であれ、どんな言い方をしてもいいとは思わない。だが逆に、「どんな言い方をされたか」にばかり反応して、その内容の是非が2の次・3の次にされてしまう世の中も、空恐ろしい。どんな言い方をされようと、内容が真実であれば、それには耳を傾けるべきではないか。悪意を持った誹謗中傷はあってはならないものの、必ずしもそうではない「厳しい言い方」までも攻撃の対象となってしまうと、真実を真実として言い切る勇気を持った人がますます少なくなるのでは…と懸念する。「へたに本当のことを言ってバッシングされるくらいなら、黙っていよう」となりかねないからだ。それにしても、言葉への配慮というものは、どこまですればよいものなのだろう?「言いすぎだ」と「言いすぎでない」の境目は、どこにあるのだろう? 自分がむかついて不快に思うことが、すべて「言いすぎ」「不適切な表現」であるとバッサリ切られてしまう、そういう雰囲気が支配的な社会になっているとしたら、よほど現代人は傷つきやすくなっているのだろうか。誰だって、悪意を持って傷つけられるのはまっぴらご免だ。しかし、結果的に傷つくことがいくらでも起こるのが、人間社会の現実の毎日。にもかかわらず、一切の「不快なもの」を許さないとなってしまうとしたら、故・藤田省三が1980年代に指摘した「『安楽』への全体主義」そのままではないか。誤解のないように付け加えると、傷つくことをただ運命と思ってあきらめろとか、傷つく方が悪いとか、そんなことを言っているのではない。発言する側が、自分の言葉遣いの中に、無自覚のうちに差別用語などが含まれていないか、セクシュアル・ハラスメントなどにつながっていないか、という点はもっともっと考慮されるべきだろう。しかし、そうした配慮の必要性と、「言葉狩り」とは別のことだ。人間は傷つきやすい存在だから、お互いに配慮して行こうというのなら、「人に優しい社会」になるのかもしれない。しかし、今の日本がそういう方向に行っているとは思えない。むしろ、「傷つきやすさ」が「過剰な反応・攻撃性」へと行きやすいような時代に見えてしまう…。
2005.06.18
学生時代の親友Hが、奥さんを伴って三島に現れる。数年ぶりの再会である。夫婦で明日は修善寺温泉だそうな。ひとしきり酒を飲んで、日付変更線をまわってから帰宅する。思えば、大学に入ってHと同じクラスになったのが、20年前の1985年。その後、一緒に早見優のコンサートに行ったり、鶴見の彼の部屋で飲み明かしたり。また、1987年と1991年の2回、ヤツと共にヨーロッパ大陸の土を踏んだ。ウィーン南駅でバッタリ出くわした時には、「地球は狭い」と思ったものだ。ザルツブルク、ミュンヘン、アウグスブルク、ノイシュバンシュタイン城、パリ、ベルリン、プラハ、ベニス、ローマ…。奴さんがローマでせしめた長い傘(通称「バスター・ランチャー」)はまだ健在だろうか?それぞれ、大学を卒業した後、就職と進学とで進路は違ったものの、何かと言えば連絡を取り合っていた「遥かな友」。その奴さんと、共に学生時代をすごした三島で再会するというのは、卒業してから初めてではないか。ヨーロッパを巡って、それぞれ喜んだり悩んだり傷ついたりの青春だったが、「またどっか行こうか」と言えてしまうあたり、俺たちって若いな、と思った一夜であった。
2005.06.17
梅雨の中休みといった感じの、雨は落ちていないが曇天の三島で、朝一番で学生とゼミを行なう。そこで、現代と言う時代を認識することの困難さが話題となる。しばしば「9・11」後の世界、ということが言われる。しかし私たちは、1989~91年の「世界史的な大転換」の後の世界、すなわち1990年代から現代に至るまでの現代史・同時代史を、やはりつねに振り返りつつ現在の足元を確認する必要があるのではないか。むろん、あまりに近すぎる時代のことは認識困難だし、歴史として再構成するにはまだ早すぎる。だからといって、90年代以降にどのような議論がなされ、それが現在までどのように受け継がれているのか(あるいは忘れられたのか)、変更を余儀なくされたとしたらそれはなぜなのか、等々について、どこかで立ち止まって考える必要はあると思う。ざっと振り返るだけでも、「覇権安定」論、「大国の興亡」論、「歴史の終焉」論、「文明の衝突」論、等々がかつて論壇をにぎわした。それらが、相互にどのような関係性にあるのか。それらは、装いも新たな「帝国」論が論じられる「9・11」以降の今に、いかなる意味を持つのか。そうしたことが、実はほとんど考察されていないような気がする。さまざまな議論が論壇でただ「消費」されている、と言ったら言い過ぎであろうか。次から次へと生じては消えて行く議論の中で、いったいどれが、50年後にも読み継がれる「古典」として残るのだろうか。あぁいかん、勉強しなくっちゃ!
2005.06.17
今夜こそ、11時には寝るぞ!
2005.06.16
「言葉というものは、心の思いを響かせて声を顕すもの」であるという。となると、心がカラッポであれば、言葉はそもそも出てこないということになる。昨日、今日と、話さなければならない場(それが面と向かっての話であれ電話であれ)で、言葉が出てこないということを繰り返す。何を話せばいいのか分らなくなり、無理やり言葉を発すると、それが自分でも思いもしなかったヘンな言葉となって口から出る。当然、話は変な方向に行く。それを糊塗しようと、言葉を使えば使うほど、ますますドツボにはまり悪循環となる。最後には、気まずい雰囲気のまま話が終わる…。相手を激励するとか、共感するとか、それ以前の話だ(涙)。こういうことが、昔から時々おこる。その際、私のこれまでの傾向性としては、相手に「何しに来たんだろう?」「何で電話してきたんだろう?」と思われたんじゃないかと、自己嫌悪のドン底に落ちる。「俺ってダメなヤツ」との、内面の「悪魔のささやき」に足を引っ張られ、自分イジメに走る――というパターンだった。だが、今日は未然に、その「悪魔のささやき」を力でねじ伏せた。「えぇ~い、自分を否定するな!」と、強盛に心を前向きにする(約30分の戦い)。ふと、留学中の10年前の寒い季節、落ち込みがちな心を引きずってスコットランドを訪れた時の、知人の言葉を思い出す――「対話とは、生命の綱引きなんだ。だから、生命力の強い方が勝つ」。その知人は私に、もっと自分に自信を持つよう激励してくれたのかもしれないが、当時の私は、「お前は自分の心の中の『魔』に負けてるんだ!」とピシャリと言われたとしか受けとめられず、さらに落ち込んでシェフィールドに帰ってきたものだった。それ以来、その知人とはまみえる機会がないが、今になってその言葉の意味がわかる気がする。濁りと戦ってこそ、生命は「自己浄化」される。ゆえに「心を師」としてはならない。「心の師」とならなければならない――。結局は、力押しでも何でも、自分の弱い心に打ち勝つことが「勝負」だ。
2005.06.15
ものごとには、「原因」と「結果」がある。勝利する「原因」を作れば、「結果」は勝利と出る。敗北した場合には、敗北の「原因」があったはずであり、反省しなければ前進はない。また、勝利の「因」を作っているはずなのに、なかなか勝利の「果」が出ない場合には、忍耐強く時を待ち、時を作る勇気が必要となる。あらゆるものが自分に不利に働くように見える場合、どこから手をつけていいか分らないような場合、とにかく何かに具体的に着手してみる。やみくもにやっているようで、少しも進展がないように見えるかもしれない。しかし、とにかく何か行動に移す。それが「因」となって、翌日には一気に霧が晴れたように、智慧が出まくることがある。わずか数日前までは、出口なしに見えたような事態が、まったく違ったものに見え、活路が開けることがある。今年に入ってから、そういうことの連続だった気がする。「冷静な瞬発力」を若者に説くカモン・マイロードが、ギリギリに追い詰められた時に発したセリフを思い出す――「何か、何か手立てがあるはずだ」。
2005.06.14
未曾有の「財政危機」が続き、食費を削って、缶コーヒーを買うのも躊躇するケチケチ生活が続いていた。今月の給与が入っても、家賃や自動車税やもろもろの支払いをしたら、生活費が残らないという計算だったので、どないしょーかと思っていた。ところが、思わぬ時期の思わぬ臨時収入。正直「あぁ、生き延びた…」との思いである。が、当面は「緊縮財政」を続けよう。
2005.06.14
今日も1日の戦いを終えて、22時過ぎに帰宅。パソコンを立ち上げていると、サイレンが鳴り、直後に消防車の音が…。先日観た映画『炎のメモリアル』の、消防隊員の出動シーンが脳裏をよぎった。消防署に勤める知人のS君も、現場に向かっただろうか――。いかん、夕食がまだだったことを、今思い出す。こんな時間に、体にワルソー。
2005.06.13
梅雨入りした割には、晴天の三島である。今週の土曜日(18日)、都内で開かれる市民文化フォーラム主催の研究シンポジウムで、コメンテーター兼報告者を務めなければならないのだが、準備が間に合わないのではないかと、どピンチである。このお話を引き受けたのは1ヶ月ほど前だが、Keane 教授招聘の後、あれほど疲れて何もできなくなるとは予想もしていなかった。あさってまでにレジュメを送らなければいけないのだが、どーなることやら。まぁもっとも、「やばーい!」と追い詰められた時に、持てる力を爆発させて一気に原稿を練り上げることができるのも、一方では真実だ。やはり「ピンチはチャンス」に転じることができるのだろう、自分次第で…。
2005.06.13
今日6月12日(日)、1日で148のアクセスをいただいた。これは、1日のアクセス数としては過去最高ではないか(もっとも、自分自身のアクセスが数回入っているが…)。
2005.06.12
離日して約2週間の John Keane 教授からメールが届いた。大したおもてなしもできなかった4泊5日だったが、いたく感謝してくださっている文面で、恐縮する。私自身にとっても、海外から教授を招聘する事業の中心にいるというのは、初めての経験であり、学ぶことが多かった。今回、陰に陽にさまざまな形でご協力をいただいた方々に、改めて御礼申し上げたい。
2005.06.12
大学の学術助成金で発注した、英語版の Karl Mannheim 著作集(全11巻)と、精選書簡集とが、先週あいついで届く。1994年以降、マンハイム研究はペンディングにしておいたが、「いつかはもう一度戻ってみたい」と折に触れて思うようになっていた。10年あまりを経て、そろそろその時がきていると自分で感じ、思い切って著作集を買ってしまった。考えてみれば、私がドイツ期~英国期のマンハイムの思考に連続性を見出したのは、エディンバラで1991年に喘息になりながら仕上げた修士論文でだった。ところが、1992年以降、自分の研究を否定されたり、あるいはそもそもマンハイムが一般的に研究対象になっていない事実に直面したりで、自分のやってきたことに一気に自信を失ってしまった。そして、1994年のシェフィールド留学を機に、マンハイム研究については一度カッコでくくってしまったのだ(もっとも、シェフィールドの大学院に最初にアプライした時には、英国期マンハイム研究をテーマとして掲げていたが)。自分の修士論文など、今では恥ずかしくてとても読み直す気にはなれない。しかし、24歳の自分の頭で必死に考えていたことの中に、今は忘れてしまっている「何か」を再発見するかもしれない。また、修士論文そのものは活字にはならなかったが、その中で得た着想に新たな思索を加えて1993年に公表した論文は、約10年の時を経て、昨年(2004年)出版された澤井敦氏著『カール・マンハイム』(東信堂)の巻末・参考文献にリストアップされていた。出張先の仙台の書店で初めてそれを見つけた時には、あっけにとられたものだ。自分としては、価値のない論文ではないのかと思っていた、院生時代の論文が、他の研究者に読まれていて、しかも参考文献に挙げられていたのだから。マンハイムが、デモクラシー論や政治思想の分野で語られることはほとんどなく、また実際、そうした分野で彼を語ることの困難さもあることは事実。だが、大衆社会論を提起したのが彼であることもまた、紛れもない事実だ。政治理論の領域で大衆論となると、論じられるのはもっぱらハンナ・アレントやカール・シュミットあたりだが、私にはそれは納得行くものではない。大衆社会論が、デモクラシー理論の中でいかなる意味を持ったのか(また、持っているのか)を考察することに、意味があるとするならば、当然、マンハイムの再検討にも意味があるはずだ。――10年あまりのブランクの後、やっとそう自信を持って考えられる自分になっている。
2005.06.12
車の中に、1本の古いカセットテープがある。「You Hayami English Special」とラベルの貼ってあるこのテープ。SONYのHS-ESという古いテープを使っていることから、これを最初に作ったのはおそらく高3の頃だろう。20年以上も前ということだ(余談だが、あの頃はカセットテープとかオーディオについてよく知っていた。SONYのAHF、BHF、CHF、JHF、DUADとか、TDKのクロームテープSA、SA-Xなどは、定番のテープだった。今はすべて姿を消しているが…。当時、将来カセットテープというメディアが消えてなくなるかもしれないなどと、想像もしなかった)。早見優をよく聴いていたのは、高2から大1の頃(1983~1985年)である。当時のラジオ番組『百万人の英語』の講師だった早見優は、いわば私の英語のセンセであり、彼女の英語の歌には私が歌えるものも何曲かある(もっとも、それらはカラオケではとんとお目にかからないが)。今でも思い出すのは、LP『RECESS』を買ったのが、大学受験ラジオ講座を始めた(続かなかったが)高3の春だったこと、『MUSIC』の発売日が、当時の共通一次試験を目前にした1985年1月6日だったこと、大学に入学してから出た『WOW!』を聴いたのが、初めてイギリスという国に行く準備をしていた1985年夏だったこと…である。『WOW!』より後の早見優の曲は、ロック路線に行ったため、正直自分の趣味には合わなくなった。その意味では、『WOW!』は、ファンであった自分が買った最後のアルバムとも言え、大学1年時のいろいろな思い出がよぎる。件のカセットテープは、早見優の英語の歌を集めた自作ベスト盤なわけだが、それにも入れてある「PARTY GIRL」という歌には、不思議な魅力がある。この曲を聴くと、(曲の最後に波の音をかぶらせているからかもしれないが)初めての海外でひと夏を過ごしたブライトンの眩い海辺を思い出す。思えば、早見優には「海」のイメージがあった。初めて買ったLP『LANAI』は、まさに彼女が育ったハワイがモチーフだし、「海辺のクリスマス」「REMEMBER?」といった個々の曲にも海のイメージは濃い。なぜあの頃、小泉今日子でも中森明菜でもなく、早見優に惹かれた自分だったのだろうか…?あれから20年。当時と比べて今の自分は相当変わったような気もするし、基本的には変わっていないような気もするが、同じ曲を20年も聴き続けて、聴く度にその時々の自分の想い(憧れ、ときめき、失望、怒り、惨めさ、ルサンチマン、再起への決意、等々)というものを重ねてきたのだろう。そして、いいかげん聴き飽きているはずなのに時々聴いてしまうのは、自分の音楽の嗜好が1980年代止まりであることを意味しているのかもしれない。
2005.06.11
夕方まで職場で仕事をし、またそれ以外の種々の活動を終え、時刻は22時過ぎ。同僚から誘われていたカラオケに遅れて参上する。わずか1時間だけの合流だったが、歌など歌うのはしばらくぶり。「授業以外でマイクを持たなくなって久しい」と言ったら、同僚にバカウケだった。同世代の同僚もいたおかげで、アニソンのオンパレード。『アイアンキング』の名エンディング曲「ひとり旅」から始まって、「ロボット刑事」、「銀河旋風ブライガー」、最後は(アニソンではないが)太田裕美の「さらばシベリア鉄道」と、ほぼ70s~80sの世界だった。今日は時間がなかったが、そのうち「復活のイデオン」、「宇宙刑事ギャバン」、「銀河疾風サスライガー」等々が飛び出すこと、ウケアイである。それにしても、学生時代には、カラオケに行っても知っている歌が極めて少なく、困ったものだったが、今では「おぉ、これもある、あれもある」の世界である。アニソンを聴いて育った世代が、社会の中堅になってきたからか。「お呼びとあらば、即、参上!」
2005.06.11
大学祭実行委員会の研修というものに、教員として参加する。わが大学・学部の大学祭は、富士山の桜ということで「富桜祭」という。この名がついたのは確か、私が実行委員をやっていた18年前(1987年)のことだったはずである。今の現役の実行委員からすれば、私は遠い先輩になるわけだ。この大学に教員として帰ってきて6年。自分が現役時代だった頃より改善された点、また相変わらず同じ悪循環を繰り返している点、等々、自分なりに見てきたつもりだったが、今年の実行委員はどうやら、「過去の先輩たちの失敗をいかに繰り返さないか」について、明確に意識し、変えようと試みる実験的精神を持っているらしい。それには好感を覚えた。毎年のお決まりのパターンは、実行委員だけ一生懸命(それも自己満足的に)頑張って、一般の学生は大学祭の時期は「休み」と思ってキャンパスにおらず、実行委員の活動自体もあまりに大変な「労働」となってしまい(現に彼ら・彼女らは「仕事」と呼ぶ)、懲りた学生が委員を辞めてしまう…というものだと思う。今日、私が余計なことと思いながら言ったのは、「人が残る組織作りをして欲しい」ということだった。大学祭は「お祭り」だから、硬い内容のものはいらない――という発想もあるという。しかし、「大学の」お祭りなのだから、「知的な楽しさ」があって欲しいと思うし、また現に、そうした「知的喜び」を求めている学生が存在することも事実らしい。ただ、そういう学生の声はどうしても、多数派の「安きに流れる」雰囲気に呑まれて顕在化しないまま行ってしまう。そこを何とかしたい、という意識を持つ実行委員と話すことができて、私も協力できることはしてあげたいという気になった。
2005.06.11
川越市の大学に勤めるK氏に、所用で電話する。しばらくお目にかかっていない方だったが、20分ほど話してしまう。7月末に関西で開かれる研究合宿で、昨年出版した拙著の書評をしてもらう、その打ち合わせのためだ。その会話の中で、氏と問題意識を共有できた点がある。それは、昨今ほとんど議論されなくなってしまった大衆社会論と、現代のNGOとかNPOに見られる市民社会論と、差異やアイデンティティに関する政治理論とが、相互にどのような関係になっているのかを、一度きちんと洗いなおさなければならない――ということだ。「大衆社会論など、もはや過去のものだ」と言われるのではないか、という思いが長年抜けなかった私にとって、それを現代において再検討する必要があると言ってくださるK氏は、有難い存在である。現代は、政治や運動を担う「主体」というものを、安易に想定できない時代になっている。だから、無関心な「大衆」から自覚した「市民」へ、といった安直な発想には気をつけなければならない。何らかの「主体」を想定することは、それがエスニシティであれジェンダーであれ、結局は本質主義に陥りかねない危険性を持つ。そのようなモダニティの問題をとらえなおす場合、大衆社会論がどのような意味を持っていたのかを考えなくてはならない…。確かに、特定のアイデンティティを実体化してしまうことの危険性はつとに指摘されているし、しかもそれらが「ポストモダン」と称される言説によって担われると、その中で「大衆」ということが語られることはまずあるまい。しかし、市民社会論が興隆した90年代をくぐりぬけた現代、「20世紀のデモクラシー論」を改めてトータルに見直す作業は、残されている課題だろう。その際、大衆(社会)論はどう考えても、出発点にならざるを得まい。やはり、「20世紀のデモクラシー論史」を書くことが、私の次の仕事になるのかもしれない。いばらの道だが…。
2005.06.10
かつて、年功序列は日本の古い封建社会の遺物であると考えられた。ところが1980年代には、むしろ年功序列・終身雇用といった「日本的経営」こそが日本の経済的成功のカギだともてはやされた。「儒教文化圏」などともっともらしく論じられたものだった。そう考えれば、1980年代は不思議な時代だった気もする。学生時代に遊び呆けていても、一旦就職すれば、家族をも省みず、休日も返上で、「企業戦士」として働く、というパターンはなくなっていなかった(むしろ、バブル期にはそれが普通だった?)。と同時に、そうした現実社会に疑問を感じる若者の心を歌った歌も多く人気だった(個人的趣味でいえば、当時の岡村孝子とか沢田聖子か)。でも総じて、終身雇用や年功序列は「個人の創意工夫ややる気」を阻害する、といった論調は主流の議論にはならなかったのではないか。労働組合が目に見えて凋落したのも、この時代だったろう。企業に忠誠を尽くすというあり方が、相変わらず強かったのが80年代ではなかったか。転じて、バブル崩壊後の日本では、一転して、「日本的経営ではダメだ」という話になり、成果主義が導入され、年功序列や終身雇用は事実上維持できなくなる。転職することも珍しくなくなり、「フリーター」や「ニート」という言葉も定着した(さすがに今では「トラバーユ」なる言葉は使われないか)。だが、個人の実力が認められる「いい世の中」になったのかと言えば、今度は成果主義ゆえのプレッシャーによって、「過労死」するまで働く人が少なくないという。むしろ、働く人間の個人の尊厳など、少しも省みられていないのではないかと思う。私はしばしば学生と、「日本は自由主義なき資本主義ではないか」と語る。個人の自由とか平等とかいう、近代自由主義が掲げたはずの基本的人権は、たとえ憲法に明記されていようと未だに「果たされていない約束」であり、そもそも根底にそうした思想が定着していない中で、「儲ける」「競争に勝つ」という面だけが熾烈になっているのではないか。もちろんその背景に、ポスト冷戦期のアメリカ型グローバリゼーションがあることは事実だろうが、しかし日本の「過労死」を生む土壌というのは、日本独特の問題を露呈しているのではないかと思わざるを得ない。戦後民主主義を否定的に論じる人は、「戦後の個人主義はわがままな人間を生み出した」式の批判をする。しかし、戦後60年経って、日本の個人なるものはどれだけ力を得たのだろうか? 私生活中心主義かもしれないが、それがそのまま個人のエンパワーメントにつながっていると誰が信じるか? 「個人」の自由や自己決定とは別の次元で、「私化」だけが進んだのではないか… etc. と取りとめのないことを考えた夜であった。そのうち、John Keane 教授の発想に習って、「過労死とデモクラシー」でも論じる必要があるかと思いつつ――。
2005.06.10
「親しき友の去りゆく中に、何を思うかJ9」…ではないが、行きつけの喫茶店のママさんのお父上が急逝されたらしい。ちょうど昼間、注文した日替わりランチを待っているところに、お店にそれを伝える電話が入った。いつもなら、そのママさんと冗談を飛ばしながらお昼をいただくところだが、今日は食事がのどを通らなかった。ちょうどマスターが、他の職場に就職したばかりだと言うから、お店は明日から1週間ほど閉まるのではないか。思えば、久々にメールを交換したシェフィールドの Suzzanne も、3月9日にお父上を亡くした(去年夏、シェフィールドでお目にかかったのが、最初で最後となった)。今年は、知人のご家族の逝去が少なくない。ねんごろに追善回向させていただかねば。回向とは文字通り「回し、向ける」ことだが、追善回向の本義は、残された遺族が悲しみを乗り越えて強く生き、幸福になって行くことで、その幸福のエネルギーを故人に「回し、向ける」ことだという。私も、育ての親とも言うべき祖母を1992年8月に亡くした時には、自称「流す涙のない男」にもかかわらず男泣きに泣いた。しかし、真の追善は、自分が前へ前へと強く生き抜く中にしかない。
2005.06.09
9日深夜、「日大・国際は東海大に敗れたが、明日は八戸大が創価大と対戦するのか、ふーん」などと思いつつ、久々に、英国シェフィールドに住むわが友 Suzzanne に激励のメールをする。6月18日から、シェフィールド市街地にある公園 Winter Garden で、世界の少年少女絵画展という展示を行なうのだが、その準備の中心にいる彼女が、なかなかうまくことが運ばなくて悩んでいることを以前から知っていたためだ。ほぼ、メールを送った直後、折り返し Sue から返事が届く。どうも、彼女も久々にこちらにメールを送ろうとしていた矢先だったらしい。うーん、不思議なタイミング。志を共有する者の一念は、国境を越えるということか。彼女らとは、ちょうど10年前の1995年8月、やはりシェフィールドで、国連難民高等弁務官を支援するチャリティー・ウォーキングを催したのが懐かしい(イギリス人は歩くのがお好きなようで)。
2005.06.09
私は、野球というものにさほど関心がない。小~中学生の頃、少年雑誌に連載されていた漫画『ひょうたん』と、アニメ化された『野球狂の詩』は比較的好きだったものの、実際に野球をするのも見るのも、自分の関心外だった。たとえ、この地球上から野球というスポーツが消滅したとしても、ほとんど痛痒を感じない自分じゃないかと思っている(無論、万が一、権力者が野球というスポーツを弾圧にかかったとしたら、それとは戦わなければならないだろうが)。しかしながら、昨日開幕した第54回全日本大学野球選手権大会には、現在奉職中の日本大学国際関係学部のチームと、2000年3月まで4年間奉職した八戸大学のチームが、ともに出場している。日大は他に工学部も出ているというから、えらいこっちゃ、である。今日8日(水)は、午後から日大・国際が北九州市立大学と対戦するらしい。大量の学生が応援に行くとしたら、4時限目の私の講義はガラガラの可能性もある。なお、日大・国際は今回念願の初出場だが、北東北代表の八戸大学はシードであり、昨日日大工学部を降した四国学院大学と9日(木)に対戦するらしい。私が勤務していた頃から野球部に力を入れてきていたが、ここ数年、一気に花開いた観がある。八大からは、わざわざ神宮球場への入場券も送っていただいた。さて私は、日大と八大のいずれを応援すべきか??
2005.06.08
市民セクター政策機構の機関誌『社会運動』303号が手元に届く。2月14日にこの団体が主催した現代アソシエーション研究会で、私が話した内容が、掲載されている。先月は、テープ起こしに基づいたこの原稿の初校にも追われていたが、こうして実際に掲載されてみると、その長さを改めて実感するとともに、もともと講演でもあるため、同じことの繰り返しが少なくないことも目に付く。自分の書いたものには、いつでも愛憎あい半ばという感情を持たざるを得ない。それにしても、いったい自分は何のためにこんな研究をしているのだろうか、自分のやっていることに意味があるのだろうか、と問い続けたこの10数年だった。自分の書いたものを読んでくださる有難い方々には感謝しなければならないが、しかし自分の意図どおりに理解してもらえているとは限らない。人が言葉をつむぎだすという行為は、一体何のためになされるのだろうか。自分の考えた思想なり理論なりを、この世に刻みつけるということに、どのような意味があるのだろうか。「Z(ゼータ)」風に言えば、「今は見えなくとも、道しるべは浮かぶ」ということだろうか。
2005.06.07
ザブングルの第1話ではない。身近な友のことである。1万人に1人という内臓の病気で入院中の友。経済的にも苦しい中、リンパ腫の治療を受けている友。それぞれ、命がけの戦いをしている。そう、生きることそれ自体が「戦い」なのだ。「それに比べれば、自分の疲労などどうということはない」という思いがある一方、現実にはしんどい日々が続いていることも事実。ホール・ケイン著『永遠の都』の主人公ロッシィの言葉に、「緊急事態は日常茶飯」とあったが、疲れて倒れることも自分には許されないのだろうか…。
2005.06.07
外国語にはその概念が存在せず、そのまま「karoshi」と音訳されているという、過労死。今夜、NHKの『クローズアップ現代』で疲労研究の最先端について放映されたが、なかなか身につまされる内容だった。番組によれば、脳が疲労すると、その疲労を感知する言わば「見張り番」が前頭葉あたりに存在し、それが脳幹にシグナルを送って、疲労感を和らげる癒し系物質・セロトニンを出し、脳の疲労を緩和する――というのが、ノーマルな人間の状態。ところが、疲労したまま脳を使い続けると、その「見張り番」そのものが疲弊してしまい、セロトニンが出なくなり、危険なところまで私たちが無自覚に脳を使ってしまう、ということらしい。確かに、脳が体全体のバランスを司っていることを考えれば、これが原因で心筋梗塞などが起こっても不思議ではない。しかも、この番組で言われていたのは、過労死寸前の当の本人が、自分では疲れを自覚していないことが少なくないということだ。正直、これには参った。「ヤバイ、自分もそうかも知れん」と思わざるを得なかった。もっとも私の場合、疲弊しまくってくると倦怠感や睡眠障害という形で表れてきているのに、そこを力押しで前進しようとしまっているから、過労死するとしたら、救いようのない「確信犯的過労死」(そんな言葉あんのか?)ではないかと自問する。おぉ、コワい。ひどい自律神経失調症でどん底を味わったのが11年前。その再発に苦しんだのが1年半前だ。いかんいかん、同じ轍を踏んではならん、と自戒する。よくあるセリフで恐縮だが、命あってのものだねだからして…。ふと、命を賭して戦う覚悟をしている戦士に対しての、エレ・ハンムの切迫した言葉を思い出す――「命をかけてはいけません。(中略)死ぬのは無責任です」。
2005.06.06
久々に、横浜みなとみらいの映画館で映画を観る。『交渉人 真下正義』と『ミリオンダラー・ベイビー』という組み合わせ。『ミリオンダラー・ベイビー』には、またしても、尊厳死の問題、また「生きること」自体の尊厳の問題が突きつけられた気がする。しかし、生きることそのものがその人の尊厳を貶めるとは、どういうパラドックスなのだろうか? どんな人間にも、果たすべき使命があるのではないのか…?「使命」は、文字通り「命を使う」と書く。義務とは異なる。偽善とも違う。自分の命をどう使うのか、何に使うのか。命が軽く扱われすぎた20世紀を、そのまま引きずっている(否、悪化さえしている?)かのような21世紀の5年目。自分の「使命」を自覚する私でありたいもの。
2005.06.05
学生と英語の文献を読む時も、また自分が翻訳に携わる場合でも、文章構造が分かるかどうかがカギとなる。つまり、主語(S)と動詞(V)が見出せれば、「誰がどうしたのか」「何がどうだというのか」が分かる。これが分かれば、8割は読めたようなものだろうと豪語する。しかし実際には、「何言ってんの、これ?」という英文に出くわすことも少なくない。内容が把握できていればおのずと分かるものかもしれないが、何となく分かった気になるのと、きちんと理解するのとでは、随分異なる。まして、きちんとした日本語に直せるかどうかとなると、これまた別の問題だ。文章構造がそもそもつかめなければアウトだが、つかめたらつかめたで、別の問題が次々と現われる。仕事というのは、自分の未熟さを自覚して落ち込みがちな心との戦いなのだろう。
2005.06.04
John Keane 教授が日本を離れて5日、私も随行の疲労が火曜日あたりからドドドと出ていたが、何とか今週の仕事を乗り切ろうとしている。と同時に、招聘事業以前に携わっていた翻訳の仕事を再開すべく、机の上の整理やパソコン内のファイルの確認から手をつけている。言わば、「非常事態」から生活の「正常化(ノーマライゼーション)」へという過程だ。それにしても、Keane 教授受け入れ準備モードが1ヶ月近く続いていたので、それ以前の状態に戻すのは並大抵ではない。何しろ、記憶そのものが怪しくなっているのだから。訳稿を見直しても、どこをどう直したのか、調べなおす必要があったのはどこか、保留にしたとすればその理由は何か、等々が情けないほどに思い出せない。やれやれ。そう言えば、仕事の合間を縫ってPh.D.論文を書いていた頃も、同様の悪戦苦闘をしていたような…。もっとも――、夕方主治医のところに行って、処方箋を書いてもらって行きつけの薬局に行き、「お忙しそうですね」「そーなんです、なかなか休めなくて…」「いやいや、なるべく休んでくださいね」などと会話を交わしていつものヤクをもらい、薬局を出てスタスタ歩き始めると、しばらくして後ろから私を呼ぶ声が。振り返ってみると、その薬局の薬剤師の方がヨタヨタと走って追ってくる。その右手には、私の商売道具の入ったカバンが…。あぁ、置き忘れ! その薬剤師の方いわく「そうとう重症じゃないですか」。あかん、正常化には程遠い。
2005.06.03
5月31日が世界禁煙デーということにちなみ、私の職場では今日まで3日間にわたり、禁煙キャンペーンが繰り広げられた。実際には、職場内に禁煙を訴えるのぼりが立ち、一人一人が禁煙マークの入ったシールを胸に貼り付ける…という以上のものではなかったが、意識させるという点ではそれなりの効果があったのではと思う。私自身は、もともとタバコを吸わない人間なので、職場内が全面禁煙になったとしても、少しも困りはしない。愛煙家が「喫煙権」を主張するかどうかはわからないが。もっともよくないのは、禁煙キャンペーンなるものをやっている期間でなければこの問題を考えない、というパターンだろうと思う。何となくそれは、8月15日が来なければ敗戦の意味を考えず、戦後60年という節目でなければ戦後社会の反省をしない、というパターンに似ている気がするが。
2005.06.02
6月1日の朝、三島は晴れ。のんびり歩きつつ出勤する。いささか疲労気味。思えば、18年前の今頃は、すべてに行き詰ってノイローゼ気味だった。毎日毎日が悪戦苦闘で、少しも前に進んでいるという実感がなく、むしろ過ぎてしまったことにとらわれてウジウジ自己嫌悪に悩むことの多かった私。しかし、そんな毎日の積み重ねであっても、落ち込むたびに決意しなおし、失敗するたびにまた半歩でも前に足を踏み出し、あえて「火中の栗」を求める選択をしたり…ということを繰り返して、18年が経った。どの程度成長したのかは知らないが、しかし当時の私と現在の私を比較したら、今の自分の方がいいと思う(もちろん、過去を否定するという意味ではないが)。
2005.06.01
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