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夜 烏 夜烏が「カー」と鳴くと また どこかで 「不幸があるよ!」 と父も母も 脅えた眼差しを 濡れたような墨色の空に 向けた 「夜烏は どこで鳴いた?」 と 父が聞くと 「アノアタリ」 と 母がいう すると 翌日| 不思議と アノアタリで 不幸があった だから夜烏は 死神だ 闇夜から こっそりと 忍び寄って アソコヲ ココヲ 指差して 人霊を 鷲掴む ならば夜烏よ お願いだ 僕が口にする 悪霊の言霊を 黄泉の国へ 鷲掴め 夜烏が 「カー カー」 と 鳴くと 父も母も 安堵して 床に就いた 一度きりの 旅立ちの泣き声は ただ 一度だけ・・・・・ ああ 今日も 一声だけ 闇を裂いた 闇の鳥 不吉鳥 殺人鳥 お前はどこから 僕を 見ている
June 30, 2006

ハードロックが聴けなくなった!!レオナルドダヴィンチは好きな画家の独りです。ダヴィンチコードのテンプレートを見てすぐ飛びつきました。ブログ開設時、この本を読んでいる最中でしたので、とても気に入ってます。ダヴィンチってほんとに不思議な画家ですよねー。もちろんルネッサンス時代の他の画家も、暗示的な絵を沢山描いているのですが、聖書に大いなる疑問を投げかけた画家って、そう大して居ないのではないでしょうか。何気なく見ていた「最後の晩餐」も、マグダラのマリアが潜んでいるなんて考えても見ませんでした。ところで、私は中学校時代は、セザンヌに魅せられて、筆使いをよくまねたものです。野獣派のタッチは十代の私の心を捉えていました。もう、ほとんどキャンバスに向かうことはありませんが、荒々しくも繊細な筆使いは、十分私を魅了しました。今でも、セザンヌの絵はよく鑑賞する方です。セザンヌの絵を見ていると、私は、ハードロックを聴いている感覚になります。体にざうんずんと響いてくる感覚です。自分が亡くなる感覚に似ています。14時間もの時間をかけて手術した心臓は、もう、ハードロックをくけ付けることが出来ません。淋しいです。いまは、静かなヴァイオリン曲などを聴く毎日です。 ゴアテックス製雨具汗は逃がしますが、雨は通しません。
June 29, 2006
虜 したたかに 虚空を掴む 女郎蜘蛛 女郎蜘蛛 罠の真中で 呪詛しおり 黄と黒の 服艶めける 女郎蜘蛛 捕獲餌に かぶりつきたる 女郎蜘蛛 蜘蛛の巣の 玻璃の雫や 艶めきて
June 29, 2006

これは、同人会誌に投稿した私の初回の作品です。400字詰原稿用紙にして156枚、ブログへの搭載は、文字制限もあるので細切れになりますが、読んでいただきコメントをいただければ幸いです。) 旅 立 ち 一 母の目の中で 陽が傾いて、校庭に長い影が敷き詰められた。放課後もそこは、近所の子供たちの遊び場となり、甲高い声が運動場いっぱいに跳ね回っていた。縄跳びをする者、かけっこをする者、ありとあらゆる遊びを編み出して子供たちが遊ぶ。子供たちは、運動場のあちこちにたむろして遊んでいる。そんな中で、信夫たちのグループは、缶蹴りをしていた。蹴飛ばされた空き缶が弾け、その音が、辺りの空気に突き刺さった。遠くで、 「兄ちゃん、母ちゃんが早くご飯炊けって言ってるよお。うちも、ひもじいさあ。早く帰らんと後で父ちゃんに言いつけるからねえ」と真弓の声がした。 信夫は、チッと唾を吐いて、振り向いた顔を仲間のところに向けなおす。そして、吐き捨てるように、 「おまえたちだけで遊んでろお、じゃあ、またなっ」と言って、駆け出した。 豆乳おからくっきー 琉球もろみ酢
June 29, 2006

私 の 履 歴 書 生年月 昭和12年9月 出生地 台湾基隆市 本籍地 沖縄県石垣市 住 所 沖縄県那覇市 学 歴 昭和19年4月 国民学校入学(台湾基隆市) (戦争のため小学2年に重複編入) 1951年3月 小学校卒業(南部琉球石垣市) 1951年4月 中学校入学(石垣市) 1954年3月 中学校卒業(那覇市) 1954年4月 高校入学(那覇市) (大學入学資格検定試験合格、高校中退) 1964年4月 大學入学 1968年3月 大學修了 職 歴 1955年3月 海運会社入社 1964年3月 同退社 1968年2月 琉球政府職員 (1972年5月15日、日本復帰により国家公務員) 平成10年3月 国家公務員定年退職 趣 味 1 ピアノ 中学1年から高校1年まで教則本で音楽の先生の指導を受けた。その後平成17年までピアノに触れたことがない。3ヶ月くらい前に定年前に買った電子ピアノで練習再開。クラシック、ジャズ、ポピュラーに挑戦中。 2 小説・童話・昔話・詩・俳句 読むことは勿論、創作も手がけている。これで飯を食う気はないので、同人会誌に投稿しているのみ。その同人会も、自然解消した。しかし、創作は続けている。 俳句は、定年後3年前に始めた。句会に参加して俳句の何たるかを学んでいたが1年で退会した。好きな俳人は金子兜太。 3 音 楽 ジャンルを問わない。感性に合えばロック、ラップ、R&B、Hip & Popなど,なんでも。クラシック、ジャズ、ポピュラー、沖縄(含八重山)民謡、日本民謡、歌、謡、唄などはよく聴く。 歌劇は好き。今、「ニーベルンクの指輪」など、ワーグナーの作品を主にDVD鑑賞している。特に好きな歌手は居ないが、ソプラノではダントツにカラス、プライス。 ブルースはジョン・リー・フッカー、メンフィス・スリムらはよく聴いている。B・Bキングの声は、余り好きではない。 小唄、端唄は市丸、都都逸は柳家三亀松、柳家紫朝らの艶っぽい声が好き。 八重山民謡では、宮良康正の張りと艶のある声が好き。 ジャズでよく聴くのは、テナーのジョージ・アダムス、ピアノのドン・ピューレンのコンビ。ただし、アダムスの歌は好きではない。 歌曲は、シューベルトを主に聴いている。フィッシャー・ディースカウの古典的な声は好き。 管弦楽では、何と言ってもウイーン・フィル、弦楽四重奏では、アルバンベルグやブダベストを中心に。 指揮者は、トスカニーニの「行け行け」調が勇ましくて面白い。ピアノは、好きな奏者がたくさん居て特定できない。 4 ハーモニカ 呼吸矯正用に吹き始めている。 5 写 真 写真歴だけは長い。最近ブログ用にデジタル一眼レフを購入した。銀塩は、F-1,マミヤ645Pro、コンタックスRX、ベッサーRを使用しているが、展示会等の入選暦は全くないし、応募もしたことはない。 6 書 道(習字です) 定年後始めた。書けば書くほど、自分の線に嫌気がさす。墨量も潤渇も連綿の妙も全く分からない。ただ、有名展に応募したい欲望だけは旺盛。 7 性 格 せっかち。見栄っ張り。何でもやりたがり屋。 8 身体的特徴 身長 156センチ 体重 56キロ 不安定性狭心症、障害1級、重度身障者 アセロラドリンク梅肉エキスヤーコン茶
June 28, 2006

忍耐力=堪え性最近は,堪え性のない者が多くなってきたような気がする。 分相応という言葉が死語になりつつある。いや、もうなっているのかも知れない。その原因が社会に有るのか個人に有るのか分からないが、おおかたは社会の所為にしたがる。でも、社会を構成するのは人間なのだから、本当の原因は人間そのものにあるのではないかと思われる。 「人がそうするから自分もそうする」という発想が出てきたのはいつ頃の頃かろだろうか。猫も杓子も大学に行くようになったのはいつの頃からだろうか。携帯電話がこんなにブームになったのはいつの頃からなのだろうか。皆、小綺麗にして、つぎはぎの着物を着なくなったのはいつ頃からなのだろうか 。考えてみれば、私たちのこれまでの生活の中から消えていった物が沢山あるように思う。 ここに、子供達を進学させるために破綻に陥っっていく課程を想定してほしい。昔は、親は、義務教育を終えるまでは立派に責任をっもってくれ、進学は兄弟姉妹のバランスを考えて上の者は次の子が年子であるとき(この方が多かった。多産だったし)は、進学を待たされるか、次の子が進学を待つかあきらめて働くかして家計をたてていたように思う。今、世の中は便利になり、銀行が教育ローンなる物を提供し、消費者金融も手軽に利用できる時代、親は、子に忍耐を強いることなく思うがままに進学の計をたてる。途中、親たちの経済的事故(会社倒産、リストラなど)で経済破綻がやってくる。それを見る子の目もまた、悪魔的で「だらしない親」と決めつけたりする。子に対する教育が親のつとめであるにもかかわらず、子の教育を学校に押しつける非常識な親たちの子供である。 今日の結論。もっと堪え性を養おう。そのことを子供にしっかりと教えよう。 くつろぎのひとときを紅茶とスイーツで・・・・・。紅茶スイーツ
June 28, 2006

分相応ということ 一年か二年ほど前に、2万円で一ヶ月を生活すると題してテレビ放映がされていた。若い人にこの範囲で一ヶ月を過ごしなさいというのだ。番組を見ていて、私は、こんな当たり前のことが、今はテレビで放映されるくらい問題になるのだなと思った。 金がなければ無いなりに生活していくのが私たちの時代のやり方だった。当然のことである。私は田舎に住んでいたので、都会での生活の仕方はかなり成長して経験した。田舎の父母達は、食費のない時は、無いなりに薄い芋がゆを造って腹を満たした、おかずは食用草や、でんでん虫、浜でとる貝、海草、とってきた魚など工夫して暮らして居た。食料集めは一部子供達の仕事でもあった。父は農業、母は農業手伝いに内職、その内職の金が唯一の現金収入である。父母らはそれらをこつこつと貯めて盆や正月を祝った。 今は、無いときの工夫が全くと言っていいほどできない世の中だ。社会の造りもそうなっている。オイルショックの時のちりがみの買い占め、水洗便所だったのだろうか。私は、復帰直後までは、くみ取り式の便所であった。 家計表を見る機会の多い私は、家賃と食費と電話料金と教育費が多いことに驚かされる。都会では一般的に家賃は高いが、家族の構成から見て居住空間によけいなところが多すぎるし、食費に至っては主婦は家事をしているのか疑いたくなるほど高額に計上されていたり、携帯電話を家族全員で所有していたり、いくつもの塾に通わせていたりしているのである。収入が多ければまだしも、借金生活者である。金銭感覚も危機感全くない生活破綻者達である。時々、私は皮肉(悪口)を言ったりする。「毎食ステーキをたべているんですね?」「お電話で、さぞ楽しい会話が弾むんでしょうねー」「電話口に着くのに10分は優にかかりますね」「家庭での教育の時間はどうなっているのですか」。 これらに対する答えは、革新的で、あまりにも立派すぎる。「社会の機構がそうなってますから・・・」だった。 お酒の好きな方、たばこを吸う方、試してみて下さい。
June 28, 2006

島の宵 ぽとりと落ちて 無月かな 母の死の 葬送の鉦 野辺冴える 母の死を 落ち葉にたとへ 父老いる 山肌を 転げるごとく 野分かな 仰向けに 天をかぶりて 舫舟(もやいぶね) よれよれの 記憶の中の 菖蒲の湯 玉露急須宝瓶
June 27, 2006

小説「旅立ち」・・・・料亭で(2)祖父は二度結婚をした。その二度の結婚のあいだ中にも、多くの女が周辺にいたと言う。最初の妻は私の父カニムイの母マイツである。マイツは二人の子供を生んで家から追い出されたと父は話した。その祖母の顔を私は知らない。父が少年期のころマイツは帰らぬ人となったからだ。父にはこのマイツのみが唯一の母親であり、後妻をけして母とは認めず、16歳で家を出たっきり、加齢した。この祖母と暮らすようになったのは、私の母が無くなった中学一年から中学三年の夏までである。私の軽率な言動から、祖父母たちは、腹違いの父の妹と一緒に暮らすようになったのだ。父の腹違いの妹の家は、母屋の三番座から部屋続きに建てられていた。 祖母の名はマンダルといった。私がずうっと「ばあちゃん」と呼び続けてきた人である。マンダルとの間には、私の知る限りでは3人の子が生まれ育った。ところで、祖父イトウヌの子は、この5人だけではない。他の女に産ませた二人の男の子と一人の女の子がいる。父カニムイの腹違いの弟妹である。二人はO村の女との間にもうけた子、一人はH島の女に産ませた男の子である。O村のおじは、私もよく逢っていた。H島のおじには二・三度会ったきりで記憶は朧である。その他の女との間には、子供は出来なかったが、イトウヌのお抱えの女は沢山いたとのことである。もしかしたら、私の記憶の中にある祖父の茶飲み友達(おばあさんたちが多かった)が、その女たちであったのかもしれない。二番座の前の一間廊下で、祖母マンダルの淹れたお茶をそそとして啜り、一方祖父は、五寸程高くなっている座敷で、胡坐をかいて座り、刻みたばこを器用に丸め、長い煙管の先端に埋め込み、それを口をすぼめて吸っていた。 父カニムイは思い出すように話す。「じいちゃんの女遊びは、ほとんど病的で、とおちゃんの母マイツもそのために追いだされたようだ。残念でならない。とおちゃんが仏壇を持つようになったら、ばあちゃんの位牌も必ず家の仏壇に入れる。じいちゃんの女遊びのために、せっかくひいじいさんから相続した土地も、こんなに減って200坪になってしまった。とうちゃんの代では財産を取り戻すことも出来なかった。おまえは頑張って、財産を増やしかな生活が出来るようになって欲しい」。ちなみに、昔流に私を呼ぶとすれば「イトウヌ」だそうだ。代ちゃんが最後の曲で踊ったとき、その間中私は、手のひらが痛くなるほど強く手拍子をして、代ちゃ踊りを凝視した。こんなに美しい代ちゃんをこれまで一度だって見たことがないとまた、思った。そ思いながら、自分の顔や体がだんだん火照っていくのがわかった。踊りは最後のカチャーシーで上がった。車座になって話し込んでいた座がまた崩れ、別の塊がそこここに出来た。割り込んで女たちが騒いだ。その動作と同じくらい話も猥雑になった。一人の女が、おおきなな声で「そこっ!そこっ!!はーっさ、どうして船会社の人はこんなに助平なのかね・・・・・・」と叫ぶと、みなの視線が一点に集中した。これをきっかけに、乱痴気騒ぎとなった。 用を足しに便所に発ったとき、別の部屋での座興を済ませた代ちゃんとすれ違った。代ちゃんは、擦れ違いざまズボンのポケットに何かをねじ込んだ.確かめるとそれは、数枚の札であった。そういえば代ちゃんは、母親から貰った小金をためて、その中から小遣いをこっそりと私に渡してくれていた。はじめのうちは何か悪いことをしているようで、そのたびに少し沈鬱になったが、回が重なるにつれ、お互いに秘密をもっ快感を味わいはじめていた。代ちゃんから小遣いが貰えるのも、今日が最後だと、心に決めた。 控え室の襖を少し開け、目で(ありがとう)と合図した。襖を閉めかけたとき、奥の鏡で化粧直しおしていた代ちゃんが、「えびす亭でまっていて・・・・・」と、振り向きもせずに、小さな声で言った。歓迎会は、早めに終わり部屋の襖がいっせいに空けられた。が、まだ、酒宴の座は続いていた。二次会に誘われたが断った。部屋の中から総務課長が、「おい、未成年、発展するなよー」と、人差し指と中指の間に親指を突っ込んで、腕を振り回している。酒宴の座はなおも乱れ、女たちがせいいっぱい色めいて男に絡み付いていた。自分をなくした男たちが女を弄ぶ。昼間の人格がもろくも崩れて行く。しかし、それでいいのだ。人間の人格なんて一つの仮面なんだと、自分に言い聞かせる。仮面でもいいから昼間だけでも、いち人格者でいたいと思う。少なくとも自分はいかなる意味でも、りっぱな人格者であると自認するものよりは、まだ、ましだと思った。「えびす亭」では、代ちゃんの仕事も終わっていた。舞台化粧のまま普段着(和服)に着替えた代ちゃんが、菊の間で待っていた。つい、一月ほど前までは、中学を卒業してすぐ、踊り子となった代ちゃんと高校へ通うこととなった私は、隔たりのある世界で生きてきた。でも、中学時代から続いている二人の秘密はまだ続いている。今日は、うんと背伸びして堂々と大人の話をしようと考えた。この一ヶ月、私は毎日というほど、艀の船員たちと話し込み、酒を酌み交わし、代ちゃんとのヒソヒソ話の検証に励んだのだ。その度に、大人たちの困惑した顔が返ってきたが、私の執拗さに根負けし酔いの勢いに任せて卑猥な話の虜となっていった。 部屋に料理と酒を運んできたのは「君ちゃん」という名の女だった。卵形の顔にすべてが容よくおさまっていて別嬪だった。艶のある長い髪を束ね後ろに丸めている。丸い大きな目が特に印象的だった。私は、この女の姿に、淡い郷愁を感じ始めていた。代ちゃんが、「君ちゃん、たのむわね・・・・・」と言って部屋を出た。その意味を私は即座に理解した。君ちゃんとの話はあたりさわりのないことだった。話の中によく本船の船長の話がでた。すこし不愉快に思ったが、そのとき私は、君ちゃんに対する不思議な感情の整理をしあぐねていた。(卵型の顔、大きな眼、少し厚めの唇、長く艶やかな髪・・・・・)。私は眼を閉じていた。「どうしたの・・・・・」と君ちゃんが寄りかかってくる。化粧の濃密な匂いが纏わりついた。「いや、なんでもない」と答えて、話題を変えた。その晩、君ちゃんと旅館に行った。旅館の玄関で、私はきっと羞恥で顔が紅潮していたのかもしれない。旅館の小さな窓口から、しわくちゃの顔が突き出て、「あい、君ちゃん、今日は、船長さんでないの~・・・・・・・二階の5番」と訝しがっていた。5番は二階の奥にあった。どの部屋にも人がいて、衣擦れや睦言が廊下に充満していた。お互いの声など気にならない様子だ。声は人格の埒外だとでもいうように・・・・・・。部屋は整然とはしていたが澱んだ空気が充満していた。君ちゃんが(寝ましょうか)と誘ったが、私には、何かが心の片隅に強く居座っていた。「君ちゃん、こんなかたちで君と会うのは嫌だ」と呟く。君ちゃんは、あっけに取られて私の顔を覗き込んでいた。わたしは、その時、君ちゃんをとても欲しかった。愛欲を貪りつくしたかったのだ。しかし、そんな私の気持ちを躊躇させるものがあった。心の片隅に強く居座り続けるもの。それは、私の母であった。父カニムイがかつて身請けしたという母であった。君ちゃんは、私の母の過去の姿なのである。 翌朝、目覚めて離れに行くと、代ちゃんがニヤニヤしながら私の股間の辺りを見ていた。私もニヤニヤしながら、代ちゃんの豊かな乳房の辺りを見返していた。(おわり) 蚊取り線香ホルダー
June 27, 2006

小説「旅立ち」序章・・・・・料亭で 昭和30年三月、私は海運会社に入社した。17歳であった。・ 戦後10年の経過は沖縄の経済も米軍基地経済をベースに(基地反対運動は過激になるばかりだが)、少しずつ好転し、特に海運業界は、それが唯一の輸送手段であったこともあって経営は急激な上昇機運を示していたころである。私の入社後、間もなくして」沖縄丸や宮古丸が新造されたことでも海運業界の景気ががいかに確固としていたものであったかが伺える。 ところで、私は父のつてで入社したものだから、高校中退という不利益はうけず、むしろ、皆が暖かく迎え、見守ってくれていたように思う。あるいは、私のほうが可なり我侭をしていたようにも思える。 南の国は、新緑の季節といっても、ごく一部の樹木が黄緑色の若芽をつけるだけである。冬に落葉があるわけでもないから、季節の移り目も分からない。同じように島の人たちの気持ちにも不透明な部分があるし、態度も優柔不断である。 こんな季節感を味わいながら、一ヶ月が過ぎた。社の歓迎会があったのは、このころである。「みその」という料亭で、そこはこの町では一流処であった。ところで、料亭についてのわたしのイメージはあまり快いものではなかった。何か悲運の堆積した場所のように思われた。家庭のために犠牲になる女たち,他にいきる術を知らない女たちの落処のような気がしていたのである。悲壮な気持ちであった。 「みその」の門をくぐると外の殺風景な家並みとは異なり、一メートルくらいの幅で玄関まで通路があり、その両側には観葉植物が生い茂り、涼しげに水打ちされている。玄関は明るくそこから広い廊下のずっと奥の華やいだ生け花が見えた。玄関先には女たちが五・六名、艶めいた出で立ちで私たちを迎え入れた。部屋に案内された。床の間の調度といい、私たちの居並ぶ卓子といい洗練されたこざっぱりとしたものだった。私の悲壮感は、その時、消えていた。 歓迎会の座が昂じたころ、踊りが始まった。 踊り子は、菊代という中学時代の同期生であった。菊代。私は彼女のこと「だい(代)ちゃん」と呼んでいる。彼女は中学時代、私の家の離れをかりていて、母親はユタであった。決して豊かではない家庭であった。母親は、ユタ祈願で家を空けることが多かった。私たちはその時を狙って、二人きりで彼女の部屋に閉じこもり、話に夢中になった。代ちゃんの世界は、私のそれとは違っていた。そのころの私が、一番興味を持っている話をよく知っていた。私たちはそこで、猥雑な、大人の世界の話をいつまでもいつヒソヒソと話し続けた。初めて卑猥な写真を見せられた時には、胸の高鳴りが耳の奥まで伝わり、呼吸の弾みが耳の辺りでどよめき、身体が熱く火照って行くのがわかった。代ちゃんは私の顔をじっと見てニヤニヤしていた。その日からこの写真のことが一日も頭から離れることはなかった。 どうしたわけか、私の周りには、少し不良っぽい女の子が多かった。その中の一人に、やはり同期生の美智子がいた。「みーこ」が彼女の愛称だ。みーこは小学校のころからの友達で、可愛い女の子であった。私は、みーことよく「お医者さんごっこ」をして遊んだ。これは、私が幼少のころ、台湾で流行っていた遊びであった。この遊びが「悪い遊び」かも知れないと感ずいたときから、彼女とは疎遠になっていった。 中学に入って、私は、おせじにも美少女とは言えないが、世間の広い代ちゃんに、興味をもちはじめていたのだ。離れに住むよううになった時には、代ちゃんは芝居小屋で踊ったり、料亭の座敷に出て踊ったりしていたように思う。学校に通う様子もなく、私の登校時には部屋の板窓を押し開けて「いってらしゃーい」と愛嬌よく叫んでいた。母親が学校を拒否しているのか、本人がいやがっているのかよく分からないが、当時はまだ、義務教育未就学児童もいた時代(実際にイチマン売りされている子は就学していなかった)だったのだ殻、夜の遅い代ちゃんが昼間学習するのは大変なことだろうと、ひとり合点をしていた。 代ちゃんは数曲目を踊っていた。普段とは別な代ちゃんがそこにいた。舞台化粧の所為なのか、代ちゃんは美しく、その美しさは、踊りの身のこなしのしなやかさに倍加されていた。踊の仕草は下方の少しばかりの空間で窮屈になされた。その時、私も下方の上司や先輩船員たちのかたまりの中にいて、代ちゃんとの距離も近かった。私は、片目をつぶって代ちゃんに合図をした。その様子を上司や先輩たちが見逃すはずもなかった。 「おまえもやはり、イトウヌじいさんのまごだったか・・・・」と、嘆いているようにも、戒めているようにも聞こえる言葉を支店長が落とした。私は、支店長が言おうとしている言葉の真実を決して否定はしない。 祖父イトウヌは女遊びが好きだったと聞いていたからだ。 (つづく) 空気清浄器(マイナスイオン発生)
June 26, 2006

少子高齢化社会医療が発達して命を延ばしている老人が多くなったのに引き替え、、出生率が年々下がり、とうとう1.24まで引き下がった。考えてみれば、憂慮すべきことであるのに、若い人は、いっこうに結婚願望は高揚しない。結婚しようにも仕事もなく、金もない。又、マスコミの発達により、結婚への理想がどんどん崩れていく事件が、目白押しに報道される。独身で、気楽に生活したいという若者も多い。我々の時代は、結婚しなければ独り前に扱ってもらえない風潮があった。いい風潮とは思われないが、未婚者は、ちょっと変な目で見られた事も事実である。男女のモラルが決して高かったとはいえないが、結婚による自由なセックスの享受は大変な魅力であったのだ。今はそうではない。結婚をしなくとも、セックスに不自由は感じないし、世間は無関心であり、独身貴族をうらやむ傾向すらある。欧米のフリーセックスの考え方が、若者達の考えや生き方を変容させているようにも思われる。どっちにせよ、家庭に魅力が無いのである。マスコミの発達によって私たちの生活範囲は非常に大きなものとなった。今の我々の世界はは「向こう三軒両隣」ではない。世界そのものでる。世界から、近くは他府県から、私たちの回りに悲観的な情報がもたらされる事もおおくなった。映画産業を例にとっても、我々の若い時代は、「如何に生くべきか」が問われ続けた。復興期であった所為もあろうが、真摯な映画多かったし、重苦しい小説もまたよく読まれた時代であった。今は、映画でも小説でも、バトルものやオカルト、お笑いものや事件ものが氾濫しているように見えるのである。要は、現今、社会の基盤となる哲学もないし、したがって、態勢が曖昧だし、私たちもどのように生きていいのか解らなくなっている。少子高齢化対策に。単に乳幼児手当を設けるなど、金銭的解決しか提示しえない政策も悲しいものである。スエーデンやフランスを見習うべきだろう。いろいろな問題を残して、小泉は去る。自民党支配が長くなった。他の新しい政権が確立されるのも無意味では無くなったように思う。今のいろいろな社会現象や政治現象を救えるかどうかは知らないが、一党支配はあまり良くないよ。電解還元水整水器商品番号218 希望小売価格238,000円のところ特別価格 197,000円 税込206,850円 送料無料
June 26, 2006

小泉政権の終焉?最近は、幼児殺害事件、村上事件、放火事件とまた、矢継ぎ早にマスコミで報道され、テレビも賑わってますが、世の中はまだまだ落ち着かないようですね。 あねは事件もいまは陰をひそめましたが、この事件はついこないだのことで、これがもはや話題に上らないのは、日本の構造悪は何処まで続くのでしょうか、とても心配です。小泉さんは、日本を混乱に陥れて去ろうとしてます。次の人はその尻ぬぐいに たいへんですよね。小泉さん、どんな人間哲学を持っているのか吐露してもらいたいですね。ところでテレビが普及した頃、識者は、日本人の「一億」総白痴化」を憂いましたね。これは「日本人が判断力を失うことを予言した」のです。小泉の知ってか知らずか、このような国民の知力を利用したようです。二者択一戦法がそれです。選択肢は二者ではありません。沢山あります。しかし、わかりやすい手段ですから、国民はついついだまされたのです。私もだまされました。「彼の理論は解りやすい」と思ったからです。テレビの報道も、小泉さんの悪事には、なんか尻すぼみになって、気になるところです。ですからテレビ番組もつまらないものになってます。アメリカのテレビ局には何か骨子があって、番組構成もしっかりしてますが、日本の近頃のテレビはバラエテイー番組が多くて決して皆を満足させては居ないのでは無いでしょうか。テレビの編成方針をしっかりと立てたテレビ局があって欲しいものですね。 キャノンデジタル一眼レフカメラ(800万画素機)種別:デジタル一眼レフボディ[800万画素/光学ズーム] NOTE: EF-S18-55mm F3.5-5.6 II USM、EF55-200mm F4.5-5.6 II USM 付き
June 25, 2006

HBA1C,0.1下がる 今日は受診日。血液監査の結果HBA1Cが9.7あり、糖尿の薬を増やされた。運動をすると胸が痛くなるし、ニトロペンでどうにか治めているものの、舌下も度が過ぎると悪いのではないかと思い、少しのことくらいは我慢する。
June 24, 2006

小説「旅立ち」序章・・・妹の写真 ここに2枚の同じ被写体の妹の写真がある。いずれも古く、セピア色に退色している。一枚は父の背嚢(リュック)から発見されたもの、一枚は黒い台紙の昔からの写真帳に貼られているものである。この写真帳に貼られている妹の写真は、揉みくしゃになったものを丁寧に伸ばして貼ってある。さらに、よく見ると眼や耳や鼻や口、それに手のひら、そのほかのところは無造作に針のような(あるいは錐か)もので、突き刺されている。 これからの記述は、私が眼にしたものや、私が初老をむかえたころ父から聞かされたものや、多感だった少年期の私に母が語っていたものである。 私は,大東亜共栄圏のひとつである台湾で出生した。出生したとき父は軍務に就いており、母は父の留守を護って理髪の仕事をしていた。どう記憶をたどっても3歳以前には戻れない。それ以前の私は父と母に所有された記憶のなかで生きていた。父は「兵隊さんのおじさん」であったという。父は前述のとおり、私が生まれる以前から軍務に就き、戦地へ出向いたりしていて、家には居ることはなかったが、帰還することもあったらしい。たまに帰還する父は、私から母を奪った。隣の寝室でひとり父母が微かな声で会話するのを聞き、闇の恐怖に怯えながらいつしか寝入っていた。きっとその頃、父母は「生と死」の意味を最も深いところで確認し合って、与えられた僅かばかりの時を美しく激しく睦び合い、そして父は、義務化された死地へ赴き、母はまた,生への営みをもくもくと続けたのであろう。しばらくして、妹が生まれた.幼いながら妹の可愛らしさに感激し、はしゃぎ回っていたことを覚えている。その頃から母は、「お兄ちゃんなんだから・・・・」「男の子なんだから・・・・」「立派な兵隊さんになって、母ちゃんの命、護らんといけないんだから・・・・」と私にあらゆる我慢を強い、強い男となることをい願い、国防の兵士となることへの義務を語った。そして母は、妹のものとなった。 三歳下の妹に添い寝する母は、乳の匂いで香しく、いつも綺麗に、後ろに髪を丸めてきちっと束ね、片腕で妹に乳を含ませていた。こうしながら、楽しい昔話や御伽噺を聞かせてくれ、私は、これを聞きながら夢の世界へと誘われていた。 戦争も終わり、私も、はや中学生となった。僅かばかりの割当農地でほそぼそと日々の暮らしを立てていた。こんな時代の、記憶に残る原風景のひとつに、父母が野良仕事から帰ってくるころ、陽もすっかりと暮れてしまい、月が庭の木々の葉のひとつひとつをくっきりと区切るほど、明るい艶やかな夜がある。そこには、穏やかな顔の父母がいつもいるのだ。この風景は、いまもって私の通奏低音となっている。母はこんな季節に二人目の妹を出産して逝ってしまった.逝ったとき母はまだ三十台の後半であった。戦争による無益な死を引き受けることからようやく解放された時であった。母は骸骨のように鄙びきった身体を死の床に横たえていた。戦争による死が「無益な死の享受」とするならば、今の母の死は、有益と規定していいのか中学に上がったばかりの私は迷った。母の死を父がどのように受け止めていたのかは、今でも深くは分からない。父は母の死後、再婚をせずに九四歳の天寿を全うした。 父は母の死後、良く写真帳を引っ張りだして眺めていた。そして、母が逝ってから間もなくして、二枚の写真を指差して、「これを覚えているか」と父は聞いた。それはすぐ下の妹の2,3歳ころの査真であった。二枚とも同じ写真で一枚は父が出征中肌身離さず持っていたもので、もう一枚は母が大切に保管していたものであちらこちらに針で突き刺した後がくっきりと残っていた。父は語った。「これは、おまえがまだ三歳だったころ、父ちゃんの出征中にY子が生まれ、母ちゃんをとられた腹いせに、おまえがやったんだそうだ。かなしいねえ、ひとを羨むことは。とおちゃんがおうちに居れば、うんとおまえにかまってあげて、こんなことも無かったはずなのに・・・・・・」と。記憶の無いことであったが畏怖した。そのころ恨みや嫉みをもっていたのかどうか私には分からない。しかし、明らかな証拠がここにある。ダイエットクッキーとドリンク
June 23, 2006

梅雨が明けました。本当に鬱陶しかった梅雨がとうとう明けました。風情のある雨も、梅雨と台風のときの雨には閉口します。お酒を呑んでも旨くないし、にぎゃかな曲を流しても、何かしらじめじめして聞こえて来ます。。世間も、じめじめした出来事が多いのに、気分までじめじめしたんじゃあ溜まったものではありません。明るいニュースがほしいですね。サッカー勝って決勝進出してほしいもんです。今日は、早くからいっぱいやりながら観戦しようと思います。でも、ブラジル強いからどうなるのでしょうか。なにっ!!あのお偉い総裁さんの投資に一千万あまりの付加価値が付いたんですって?金が金を生むってこんな事なんですか。実に腹立たしいですね。マロングラッセと紅茶(ダージリン・ファーストフラッシュ)
June 22, 2006

さしあたり、書道かな?自分のやりたいことを書き出してみたら、一日18時間くらい必要な計算になった睡眠時間8時間、ブログの時間2時間を加えると、一日に28時間必要となる。そんなに沢山のことできるわけがない。絞り込んでいかなければと思うが何をどう絞り込むか。頭の痛いところ。全部やるとなると、父の年くらい長生きしないといけないが、私には出来そうにない。まあ、ひとつでも身になるものがあればいいか。一番やりたいのは書道。一度でいいから、有名展に入選して見たい。いや、ああよくば入賞を。そんなに沢山のことを急いでやる必要がどこにあるのか。出来ることをゆっくり、ゆったりやろう。世界の美味しいチーズを探そう!!
June 22, 2006

「社会改革はおまえが 偉くなってからしろ!!!」私は高校を一年間だけ出て仕事に就いた。経済復興の最中、軍事優先の政治が行われていた時代である。まだ、アメリカ執政権下で「アカ狩り」のあった時代であった。そんなとき、いろいろな私企業に先駆けて労組を結成し書記長となった。当初は、交渉には不慣れなところがあって、経営者とのやりとりは熾烈なもので、言葉やヤジも荒々しく経営者を囲込んでの交渉で、双方顔面蒼白になりながら、声を震わせ、怒鳴り掛け合いをしたものであった。その頃、社会改革の士を気取っていた私は、そういった方面の本を読み、話を聞いた。会社の経営者が、父の幼馴染みであったことから、交渉時の私の興奮ぶりや一角の論士気取りの私の様子が父に逐一知らされていた。前置きが長くなったが、話は労働運動の事ではない。私のあまりの過激ぶりに業を煮やした父が、ある日私に、「そんなに、社会改革がしたければ、国の政治を左右できるほど偉くなって、世の民を救いなさい。」とたった一言。父は私が偉くなる事をひたすら願いつつ94歳でこの世を去った。私が、平凡なサラリーマンを定年で退職した2年後の事であった。ところで、父のこの言葉には、近頃偉く(?)なれば、どこかの首相のように世相を混乱させて去る準備をしている輩もいるし、どこかの総裁のように、しこたま儲けてしゃーしゃーしている輩もいる。悪いこともいいことも、偉く(?)なれば自由に出来るんだと、父の遺言の正当さを噛みしめている。 楽々浴、楽々シャワー
June 21, 2006

老人は注意しなくちゃあ!!年取ると、人生がプレーンになってくるみたいだ。世間との関わりが少しずつ削がれていくからかも知れないね。わざわざ荒波の中に入っていくことも無い。ただし、世間の悪巧みに引きずり込まれることは有るかも知れないね。注意しなくちゃあ。世間との関わりが薄くなっただけ、世の中がどんなに動いているのか解らない。しかも弱肉強食の様相を呈しきたいま、被害者は、子供か老人。いやな世の中になってきたね。
June 20, 2006

金融機関さん、あなた方少し儲け過ぎじゃあ、ありませんか? 2.7÷0.07=38.57これ定期預金の利息と住宅貸し付けの利息の割合なんですよ。つまり、住宅ローンを借りるときは年利2.7%で、定期預金(一月の)をするときの利子が年利0.07%なんですって。 すなわち、一千万円借りると、一年間で27万円の利息を払わねばならないのに、一千万円を一年間一ヶ月定期で預けても、たったの七千円しか利息が付かないんです。差は、38.57倍。退職金を二千万円くらい預けても、年に一万四千円しか、利子はつかない。何となく、怖い現象じゃあ無いかなあ。銀行に預けるより、投資した方がよいと思うのも無理はないねー。日本の金融政策はまるでざる法の集成だねー。これまで、マネーゲームで儲けた日本の一部投資家達はこんな日本のざる法を早くから見破っていたんだね。今、話題になっている会社やお偉いさんも、シャーシャーとして自分の悪さを正当化して述べるなど、日本は、犯罪社会体質になってきたように感じるよ。 この夏を快適に・・・・除湿器。
June 19, 2006

豚 の 報 い沖縄では、豚は泣き声以外は食べます。腸も綺麗に洗って「中味汁」に、肺、心臓、肝臓・・・・などなど。あっ、食べないのは三つか。泣き声と「○ん」と毛。とかく、豚の頭をとくとご覧あれ。最近、「豚の報い」なる映画があったね。 ようやく出回り出した幻だった「春雨」です。味はまろやかでとても飲みやすい泡盛です。
June 19, 2006

形式は文化の基本 5 (その五) 文化を創る本当の意図は? 今まで述べたように、作法、要領、やり方などは、文化の根幹を成している。文化は概ね「型」ということが出来る。だから文化には、形式美だとか様式美などがその根底にある。 ところで、形式とか様式とかは、ひとつの約束ごとである。約束だから、まず、その内容を知らなければならない。その内容を知らない者、体感しない者は、その文化の中に「在ること」が許されない世界である。日本文化に限らず、文化というものは、型とか様式が重んじられる。どこの国の文化でもそれを抜きにしては考えることはできないのである。ヨーロッパにおけるゴシック様式を例にとっても、あの頑ななまでにきらびやかな様式美の追求は、色々な約束ごとの化身なのである。 だから、「文化は約束事=型であり、何らかの美的基準に裏打ちされたものである」と言うことができる。ところで、約束事即ち型即ち形式が文化であるならば、実質とはいったい何なのであろうか。それは、反文化なのである。否文化と言ってよいのかも知れない。食事をすることは、単に生命維持のための行為であるから、その機能さえ果たせば、マナーなどどうでもよいのである。お茶の作法などもってのほか、、喉の渇きは、飲み方を無視して水で潤せばよい。音楽に至っては、それがなくったって生きていける。それだのに、人間はどうしてこのような面倒くさい約束ごとを創りあげたのか。単刀直入に言わせて貰えば、それは、支配のためである。文化とは、もともと支配の一形態として構築されてきたというのが、その根源にはあるように思える。だから、文化はとても保守的なのである。文化を打ち崩すことは、新しい支配形態を確立することを意味する。 このような文化も、人間の欲望(快適に過ごしたい、他人から自分の存在を否定される扱いをされたくないなど)即ち実質に裏打ちされなければ、形骸化し、遺産の道を辿り、やがては、単なる見世物に堕落するか研究の対象となるしかないのである。 文化が支配の道具にされるにせよ、私たちが、事あるごとに、はっとし、涙し、狂喜し、ふっと我に返ったときには文化の大海原にたゆたっている、そんな精神世界の基底を震撼させるような文化を、我々は築き、残したいものである。 さて、それでは、自分の欲望(実質)が、どれほど文化的に反映されているか、試してみてください。たとえば、他人から干渉されたくない(実質)→民主主義の制度というように。
June 18, 2006

お 香お香というと、私は仏壇から薫ってくるスモーキーな線香の匂いを想像していた。デパートで京都展があり、家内と二人で買い物に行ったとき、どこからともなく、スパイシーな香りがするので、つられてその場所に行くとお香が焚かれていていた。もともと、お香は仏壇で焚く物と考えていた私は、販売員の説明に「京都では、このようにして、香りを楽しんでいるのか」と感心した。私は、仕事に行くとき以外は、一年のほとんどを着物で暮らしているので「匂い袋」はよく使うが、こんな不思議な香りを体験したことが無かったので、たちまち虜になってしまい、香道具一式を買って、炊き方の手ほどきを受けてきて、白檀、沈香、 伽羅と香木を焚いて香りを楽しんだ。香りは得も言われぬもので、平安の絵巻が漂う気分がした。六国(「りっこく」と読むそうだ)をそれぞれ焚いてみたときは、その微妙な違いを聞き分ける(ちなみに、「香を聞く」と言うそうだ)事が出来なかった。当たり前だ。香道というのがあるのもこのとき知った。 お茶の時も、炉で香木を焚くが、香道は始めて聞く言葉であったので、いろいろ本を買ってきて読みふけったている。 沈香を聞いてください。 豆乳クッキーです。
June 17, 2006
糖尿病と私30代の頃から、血糖が高く、入退院を繰り返していたのに、懲りずに甘い物が好きだし、酒もやります。毎週の検診で医者からは運動をして、ダイエットを試み、52キログラム台に減らしなさいと言われているが、それがなかなか出来まえん。現在、HBA1Cは8.5台。高いのです。糖尿病はやっかいな物で、痛みを全く感じないから、養生はもっぱら自己の意思に任される。酔って、甘えが働きます。今どうにか54.8キログラムに持ってきたが、薬と運動の相互作用がうまくいかず、前述の通りの8.5という平均血糖値になっています。ちなみに正常な物のHBA1Cは5台だそうです。医者から、「糖尿病はたちの悪い病気で、失明することもあるんですよ」と言われるが、正直言って、実感がわきません。次の、1ヶ月後の検査に向けて甘い物、酒を断ってみようと考えています。次の数値がどうなるか楽しみです。でも、老人の甘えがそれを乗り切れるかが私にとっては大きな問題です。
June 16, 2006

形式は文化の基本 4(その四) 日本人が音楽コンクールでなかなか優勝できないのは?最近、ヴァイオリン部門での優勝者が出たものの、外国での様々な音楽コンクールで日本人は、抜群の演奏テクニックを持っているのにも拘わらず、なかなか優勝できない。ラフマニノフやプロコフィエフの難曲を弾きこなせ,パガニーニをいとも造作なく演奏することが出来るのにである。もともと日本の文化ではない西洋音楽で勝負するのだからと言ってしまえばそれまでである。物理や化学のように西洋で発達しても日本人がノーベル賞を受賞するのとは何かが違うのかも知れない。西洋音楽に対する感性がないのだろうか。感性が無いとすると、それはなぜか。ここに面白い話がある、フランスの文部大臣が日本に来て「能」を見せられた時、「こんなに退屈なものを見せられるより、100年間牢に入っていたほうがいい」と言ったそうだ。農耕民族が農作物の豊作を神に祈願する祝詞から始まった日本の謡と舞は、外国人(特に狩猟民族)には、到底理解に苦しむところが多いのかもしれない。西洋音楽も、おそらく、こんなこととは関係はないのだろうか。音楽(当然西洋音楽)コンクールに、日本から出場した者の演奏から、いまいち、音即ち音楽が響いてこないと専門家たちは言っているらしい。随分、ひどいことを言うもんだ。しかし、ショパン、ベートーベン、リストを歌わせる外国人はたくさんいる。ラフォーレのショパン、ゼルキン、リヒテル、ベルマンらのベートーベン、シフラ、アシュケナージのリスト、作曲家の生まれた国からすれば、みな外国人である。世界の中でも、ショパン弾きの一人といえば中村紘子である。これほど華麗にショパンを奏でる彼女でさえ、コンクールでは二位か三位だったのである。ショパン弾きのテクニック(要領、技術→形式)は、当時の優勝者を遥かに凌いでいたのかも知れないのに。しかし、当の本人が言うには、ショパンの世界を感性的に察知出来なければ、ショパンの音楽は決して響いてこないのだそうである。これを実質といって良いかどうかは判断しかねるが、ショパンの全体像(当然その社会背景をも含めて)にどれほど自己を投企(アントワーフ entwurf)出来るかということに尽きるのか。先ほどの文部大臣のことで言えば、日本文化を自己のものとして、いかに溶解できるのかということになろうか。ああ、分からなくなった。技術(形式)とは何だー、感性(実質?)とは何だー。 靴カバー雨から靴を守りましょうあなたの大切な靴を雨から守ります。
June 16, 2006

形式は文化の基本 3(その二)お茶会では自分も鑑賞の対象である。何時だったか忘れたが、まだ、お茶を習っていないころだった。友達に誘われるままにお茶会に参加することとなった。お茶の先生のお宅で一席20名ばかりが参加して何回かに分けて茶会が行われるとの事だった。当時、お茶の作法など全く分からなかった私にとって、茶室のあの畏まった雰囲気はそぐわないものであった。ます、正座が苦痛であった。皆、よく座り続けられるものだと思ったものだ。亭主の挨拶があり、厳かに道具がそろえられる。茶をたてる一通りの準備が整い、亭主が茶碗の清め茶を点てる準備をする。その間に甘い和菓子が運ばれてきたが、戴き方を知らないので、横目で右隣の友人の所作をまねた。胸が高鳴った。なんだか悪いことをするような感覚であった。前もって「気軽に普通どうりでいいから」と友人に言われていたが、見栄を張って「そうは行くものか」と力んでいたのだ。遠くの主客を見ると、流麗な所作でお菓子を頂いているではないか。隣の友人も心得があるのでお菓子の受け方から戴き方まで作法に則っているように思えた。大げさだが、血が逆流するのではないかと思えるほどだった。と同時に、ろくに作法も知らないでそこに位置を占めた自分の厚かましさとか馬鹿さ加減を恨んだものだ。お茶の世界にいるものは極々常識的であることも、その世界にいないものは、恐怖であり、苦痛であり、窮屈であるように思えた。ところで、水分補給と言う意味では水を器から飲めば良いだけのことである。少しレベルを高めて、お茶を飲むことは、本来ならば、少し美味なもので喉を潤し、体内の水分補給のための本能的な行為であるから、手に暑さを感じない器で飲めばよいことである。それをどうして難しい約束など創って飲む必要があるのか。このことは、すべて相手との関係を気持ちよく持ちたいというところからきているように思う。水が飲みたいからといって、川でもない限り、相手から差し出された水を、相手に持たせたまま口だけでびちゃびちゃと飲む訳にはいかないだろう。ちゃんと相手からおし頂いて、椀の淵にそっと口をあて飲み干す、そんな相手への感謝のようなものがあっても良い。こんな気持ちの集大成として約束ごとがあるのである。さて、約束とは、ひとつの仮構である。このような仮構が洗練され固定化していくと、ひとつの文化を創りだす。お茶は、水屋の仕事から道具立て、点茶、戴き方、問答、片付けに至るまで色々な約束ごとがあり、それが利休時代から今日まで続き能などのように日本文化の侘び・さびの世界を作った。仮構はまた芸術の基礎でもある。仮構(そのようにする必要は無いが仮に構えるとか無いことをありとするとか虚構)は、本来無秩序のものを秩序立てる働きもする。画家が対象物や自分の思いを、具象化したり抽象化したりする行為である。お茶の文化が約束ごとで成り立ち、その約束ごとが仮構であるとするならば、お茶もひとつの芸術ということが出来よう。それが芸術であるとは、「茶室という空間での道具たちの位置の確かさ、美しさ、一輪の花が与える和み、何にもまして点前やお茶を味わう時の所作の美しさを、そこにいる自分をも含めて表現する」世界である。自分は傍観者=鑑賞者にはなれないのである。閉塞された世界の中に実在するからである。自分は傍観者たり得ない。したがって、批評をしても、なおかつその中で踊らされ続ける。このことは、形式としての茶の美意識を受け入れることが出来ないものは、その間口で弾き出されるか自ら見切りをつけて、お茶(文化・制度)から限りなき逃亡を続けるかを選択せねばならないのである。これって、国の機構によく似てない? 文化や政治が受け入れられないとして国外逃亡したりするのに。
June 15, 2006

形式は文化の基本 2(その二) 本当に猿の脳味噌は、最高の珍味であり 美味なのか?中国では、生の猿の脳味噌は最高の珍味であり、美味だそうである。また、どこの国だったかは忘れたが、甲虫の幼虫は貴重な蛋白源でこれもまた土地の人にとっては美味なもののようであるとテレビで放映していた。それら珍味であること、美味であることが、あたかも食文化であるような舌足らずの放映がなされていた。結論を先に言えば、それらを食する風習が文化なのである。猿の脳味噌も甲虫の幼虫も、我々は美味であるとは言わない。ちょうど沖縄の中味汁(豚の腸の澄まし汁)が、私たち沖縄人にとっては、一般的に言って美味であるが、鹿児島以北の人たちにとっては、決して美味ではないように・・・・。これらは、料理一般についても言えることで、一般的に個々の会席料理の比較においてこれが美味しい料理だとはいえないのであり、フランス料理も同じく美味しいとは規定し得ないのである。あくまでも、味覚は、個人差があり、精神状態や肉体的状態によっても異なるからである。つまり、私が美味でも、いや味の達人が美味と言ったとしても、それが一般的に美味であると言うことには決してならない。そして、それらを美味で無いという人たちが居たとしても、その者が味覚において劣るとか、味音痴であるとかと言って俗物あつかいをしてはならないのである。そういった人たちを味覚の世界から排斥してはならない。ただ、会席料理の味、フランス料理の味、中華料理の味などなどは一般的に「こういう味だ」という定式めいた(味の形とでも言おうか)ことは、言っていいのかも知れない。したがって、これは形式であり文化であると考える。味覚の世界においては、人それぞれが美味しいと感じること、つまり実質が優先し、会席料理、中華料理、インド料理などなどは料理の型であり文化であるが、それらを美味しいと感じるかどうかは全く文化とは関係のないことなのである。ここで、私が言いたいのは、型としての料理があることは、文化と言えるのであり、また、会席料理を食する習慣、フランス料理を食する習慣が文化なのである。料理の味を知ることは、なんら文化とは関係ないということである。そこで一言。最近テレビでタレントばっかりが楽しんでやたら騒がしい番組が多いが、視聴率のこともあるかもしれないが、放送の公共性を考え、ユーモアーとセンスのある放送をしてほしいなあ!!!
June 13, 2006

形式は文化の基本!! (その一) 本当にブルーマウンテインは、美味しいのか。朝食のコーヒーなど、どこで飲もうがが同じようなものかもしれない。ブルーマウンテインというコーヒーがある。何でも、とても味がまろやかでこくがあるという。誰がそういったのかは知らないが、どうも美味しいコーヒーらしい。コーヒー店に行くと確かにあった。値段も高かった。飲んでみて、一応納得した。だからと言っていちゃもんを付けるのを諦めたわけではない。どうやら、ブルーマウンテインが賞賛されているのは日本だけらしい。世界の趨勢は、コロンビアだとか聞いている。ブルーマウンテインは、何でも英国王室の御用達になったことがあったとかなかったとかで、「いいコーヒー」「高価」と言うことになっているそうだ。。そんな話を聞いたことがある。さて、専門店で専門家が淹れるコーヒーは美味しいのかも知れない。かもしてないと言ったのは、そう思わされているのかも知れないと思うからである。なにか秘伝見たようなものがあって、独特な自分の基準で淹れて、味に鋭いといわれる人のお墨付きを貰うと、それがもう世間で賞賛の対象となる。そして、誰もがそれを賞賛することとなる。本当に賞賛に値するかどうかは二の次になってくる。美味しいか美味しくないかは、個人差であり民族差であるように思われる節があるのに、もう、そんなことはどうでもよくなってくる。ところで、お墨付きを貰ったり、御用達になることによりその味が守られたり、品質が守られることは、味の文化、物の文化を確立していくためには必要なことであるに違いないのである。文化は、社会の構造に裏打ちされるものだと思うからである。次回以降搭載予告(その二) 本当に猿の脳味噌は、最高の珍味であり、美味なのか。(その三) お茶会では、自分も鑑賞の対象となるのでは。(その四) 日本人が音楽コンクールでなかなか優勝できない理由は。(その五) 文化をつくる本当の意図はなにか。
June 12, 2006

沖縄では、魔よけのために家の屋根や門にシーサーを造り付ける。その表情は、陶作家によって異なるが、おどろおどろしい物から愛嬌のある物までいろいろある。久しぶりに道向かいの裏にある壷屋焼物(つぼややちむん)通りを歩いてみた。通りは、風が強く人通りも無かった。やちむん通りにあるシーサーを撮ってきた。
June 10, 2006

小泉さんの言っている郵政民営化、年金の一元化などやはりどこかおかしい。会社が、よくやるよねー。子会社作って、そこに親会社の負債を付回して、親会社は、「はい健全経営でござる」ってやり方。郵政民営化って、全くこれと似てない?民営化して、国の負債をいくばくか押し付けて、「はい、国家健全経営でござる」って。構造改革って、もともとは、ろくでもないことに予算を使わないようにしようということではなかったのかねー。もともと公務員(議員も含めて)は、予算の消化度合いによって評価される種族だから、公務員を減らしたって、「予算を使って何かをしてあげる」と言う公務員感覚を根絶やしにしなければどうにもならない気がするんだが・・・・・。年金一元化も、親会社、子会社の関係みたいに見えるんだが・・・・。共済年金の赤字を厚生年金に付回し、厚生年金が赤字になったら国民年金に付回す。最終的に馬鹿を見るのは国民年金加入者と思うんだが・・・・。小泉さーん、もう少し真剣になって国をすくってくれーーーーっ!!!
June 8, 2006

代名詞の多用 「おーい、あれとってくれ!」とソファーから家内に声をかけると、老眼鏡片手に居間続きの台所から家内が出てきた。どうして老眼鏡と分かったんだろう。 最近、思っていることが直ぐ言葉に出ない。つい「あれ」「それ」と代名詞になってしまう。こうしながらボケていくのかな。 この前も「あれっ!」と言ったら「あれって、何なの?」って聞かれて、思っていることが、即座に口に出なかったので「あれといったら、あれだ!」としばらく口喧嘩をしていたことがあったっけな。
June 5, 2006

ウンチのリサイクル文化!!食事前の人は読まないで下さーい。下(しも)のはなしで~~~~す。昔、私たちにこんな事がありませんでしたか。中学校(田舎)で農業実習のとき学校の便所から、十分に醗酵した糞尿を肥桶に汲み出してきて野菜や芋に肥柄杓でかけて、野菜や芋を成長いさせ、それを食べて糞をしてその糞が十分醗酵したら、また、それを肥にする。いわゆる食のリサイクルってやつだーー。何でも学者(医者・研究者)の話だと、人間の糞は人間が口にしたものが、腸内菌によって分解され、その死骸と分解されずに残ったものと水分がほとんどで、もともと汚いものではないそうでーす。それがどうして汚いものとなったか。それは、便の中に含まれる回虫(もともと人間と共生関係にある)が元で、ある病気を引き起こしたのが原因らしい。それから人間は体内の回虫駆除へと必死になり、さらに、衛生思想の普及により、惹いては、非衛生的なる物(重にばい菌)を排斥するようになり、抗菌グッズが繁盛したのだそうですよー。ペニシリンショック知ってますよねー。花粉症のようなアレルギー症状知ってますよねー。これ撲滅された回虫の仕よ返しだそうですー。回虫が駆除された頃、ペニシリンショックが起きましたねー。何か関係があるのでしょうか。それから、是は外国(アメリカ)での話ですが、サナダムシでダイエットをしているニュースを見ました。何でもサナダムシの幼虫を体内に取り入れて成長させ、痩せた頃下剤を飲んでサナダムシを駆除する。とっても健康的に痩せられるそうだ~~~~~~。人間は、共生をすることを忘れた頃から、パンドラの箱を開けてしまって、いま七つの災害の受難を受けているとか・・・・・。ウンチのリサイクル文化ってそんなに重宝なものなのかねー。
June 4, 2006

大学入学資格検定試験のことなど もう50年以上も前のことになる。家庭の事情から高校を中退することとなった私は、大学生活を是非、味わってみたいという希望があった。どうして「大検」があることを知ったのかはもう忘れてしまったが、当時の琉球政府文教局に問い合わせをして、執政権の分離された琉球でも実施されていることを知り、早速受験をし、資格をとった。だからと言って、すぐ大學に行けたわけではない。母の不治の病によって多くの借金を抱えた父がその弁済に追われていることは当時の私は十分に理解していたし、退学のことも予測されたことであったのだ。それから8年後に、借金も完全に返済し、妹も就職できたので、私は、家計の手助けから放免されたのである。 早速、国費(日本政府の援助で琉球の留学生に支給される学費)の医学部を受けたが、失敗し、もう1年受験勉強をすることも許される状況に無かったので、琉球大学文理学部に席を置くこととなった。日本復帰後、琉球大学にも医学部が設置され、多くのの医者を世に送っている。 昔、「大検」は、なんらかの家庭的事情で高校に通えなかった者が受験者の多数を占めていたと聞いた。今、社会も経済的に豊かになり(平成不況とは言っても)、殆どの者達が高校に通えるようになった。しかし、もし不幸にも高校に通える機会を逸した者は、是非、この制度を活用して見てはと考える。昔は、中学卒で就職する者も多かったが、現在では少なくとも高校卒で就職しているようである(いや、大卒が普通かな)。しかも殆どの者達が高卒資格(高校を卒業して)を持っているのではないかと推測されるのだ。、こんな時代に、はたして「大検」が機能しているのかどうか気になるところである。故あって高校に通えなかった者が、大學教育からシャットアウトされてはならない。この意味で設置された制度である。大學を出ても今は就職難だが、だからといって「大學を出ても無駄だ」とは思わないで欲しい。大学生活は楽しく有意義だと思うからである。 余談になるが、長引く平成不況は、バブル崩壊によって、会社運営の合理化が必然的に要請され、合理化による人員整理と生産管理により会社の存立を余儀なくさせられる羽目になった。が、それによって生じた余剰労働力の活用が全く解決されていないのも景気停迷を生じている原因のひとつになっているように思う。高卒・大卒者の就職率及び合理化による解雇等によって生じた中高年層の就業率を、向上させる政策を打ち立てることも経済立直しの重要な課題ではないだろうか。
June 3, 2006
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