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■最終日(1936年(昭和11年)2月29日)〓勝手な感想〓 この日の朝、昭和天皇は西園寺公望に、 「後継内閣のことについて相談したいから、なるべく早く元老に上京するように。」 西園寺は 「すぐ出なければならんけれども、 向こうに行って御用に差し支えることがあるといけないから、二三日御猶予願いたい。」 慣例となっている元老の西園寺公望による後継内閣の首相指名への依頼に対して、 西園寺の反応は鈍い。 その後、西園寺は近衛文麿を首相指名するが近衛はこれを断り広田弘毅が首相になる。 原敬は平民宰相と言われたが元士族。 薩長関係者でもない本当の平民が外務省に入り外務大臣となり、首相となる時が来た。 幕末に於いて武士は日本国民の6%と記憶する。 広田弘毅の首相は、天皇や皇族たちにどのように見られていたのか、 自分達の存在を否定される可能性を感じていたのか。 勉強不足、「落日燃ゆ/城山三郎」さえ読んでいない^^; 戒厳司令官は装甲自動車・飛行機で宣伝文を散布。 第一師団は午前8時半、近衛師団は午前9時、午前10時頃より帰順投降あり。 16時30分、戒厳司令部は「反乱部隊を鎮圧せり」を発表。 2.26事件は収束する。 安藤輝三大尉は自殺失敗、野中四郎大尉はピストル自殺、 負傷し入院中の河野寿大尉は割腹自殺、他の決起将校たちは法廷闘争へ。 昭和天皇は皇道派の政権樹立のプレッシャーを凌いで、鎮圧に成功した。●29日の詳細 「○:本庄日記」「△:西園寺公と政局」「▽:重臣たちの昭和史」「◇:秩父宮」 の纏め。△朝、侍従職から電話、広幡侍従次長(侯爵・皇后宮大夫兼侍従次長)より原田へ 「陛下のお言葉だが、後継内閣のことについて相談したいから、 なるべく早く元老に上京するように・・・・。 特に、この際、侍従とか勅使とかを差し遣わせることは控えて、 電話を以って侍従職から貴下にまで言ふから・・・」 原田は侍従職からの電話を公爵邸に行き伝える、 公爵は「すぐ出なければならんけれども、向こうに行って御用に差し支えることが あるといけないから、二三日御猶予願いたい。」、原田は御所に電話でその旨を伝える。 (公爵はかねて腸をこわしており、神経痛があった) 原田は東京様子を聞く、軍事参議官の中、陸海軍の間にも非常に意見の相違があり、 陛下の「速やかに暴徒を鎮圧せよ」とのお言葉に対して、 侍従武官長(本庄繁・男爵・陸軍大将)あたりも 「陛下が『暴徒』と言われたことについて、 かえって軍隊が陛下に対して非常な悪感情をもつといけない」といふ懸念から、 「暴徒といふ言葉を差し控えて戴きたい」と申し上げたらしいが、 「朕の命令に出でざるに、勝手に朕の軍隊を動かしたと言う事は、 其の名目どうであろうとも、朕の軍隊でない。」という事を仰せられて、 武官長もよほど困ったらしい。 陛下はまたしばしば川島陸軍大臣(川島義之・陸軍大将)を呼ばれて、 「一時間以内に暴徒を鎮圧せよ」と言われ、十五分ばかり経つと、 「もう撃ち始めたか」と仰せられて、始終武官長を見におやりになるという具合で、 反乱軍に対し終止一貫して厳然たる態度をとられた。 なほ、総理官邸にいる反乱軍の将校たちが 「勅使を戴ければ、勅使の前で自決してみせる。そうして兵隊は原隊に返す。 勅使を戴きたい」に対し陸軍大臣がそれを陛下に取り次ぐと 非常に陛下の御不興を買うということがしばしばあったらしい。 陛下の側近には内大臣・侍従長(鈴木貫太郎・海軍大将・2月26日負傷)おらず、 真に陛下お一人の御裁断によってすべて事が運ぶのであって、 其の間、軍事参議官は意見がまちまちで、 まあ大体やはり勅命を奉じてできるだけ早く収めたいといふ者が多かったが、 真崎、荒木(荒木貞夫・陸軍大将・軍事参技官)の如きは人情論を以って、 討つ事をなんとか抑えて、 説得して解決させたいという気持ちで非常にぐずぐずしておった。 で、その間、奉勅命令が近衛師団に下るところであつたが、 其の奉勅命令を近衛師団に渡さずとめておいたといふことが また非常に陛下の御不興を買つて、香椎戒厳司令官は非常にお叱言を戴いた。 結局、阿部大将あたりが偕行社におる真崎大将を説いて、 いよいよ近衛師団を反乱軍鎮定の軍事行動に移らせることになつた。 其の間、陛下が「兵を殺すな」とおっしゃったといふことで、 川島陸軍大臣は、できるだけ兵を殺さないようにいろんな手段を講じさせたようだが、 この「兵を殺すな」といふことは、本当に其の通りおつしゃったのか、 それとも「討つのはいいが、なるべく無辜の兵隊に損傷の少ないように・・・」 とおっしゃったのか、そのあたりははっきりしない。 とにかくあらゆる手段を尽くして兵隊を所謂帰順させるようにして、 一弾も交えずにすべてを収めえたといふことについては、 そこに陛下の御意思が働いているのだといふことをしきりに言うが、 この当りは頗る疑わしいところがある。○28日夜から29日朝に、戒厳司令官は装甲自動車・飛行機で宣伝文を散布する。○午前6時の戒厳司令官の発表によると「・・・遂に勅命に抗するに至れり」○午前9時の戒厳司令官の発表によると「・・・遂に叛徒となり終わった」○第一師団は午前8時半、近衛師団は午前9時、午前10時頃より帰順投降あり。○14時頃、安藤大尉は帰順を命じた後、自殺したが失敗○14時過ぎに杉山参謀次長、午後2時半には香椎浩平司戒厳司令官が参内拝謁、 事変一段落を奏上。○16時10分以後、東京市環状線の交通制限を解除。◇16時30分、戒厳司令部は「反乱部隊を鎮圧せり」を発表○17時、伏見宮(軍令部総長)参内、海軍の行動を奏上。○17時半、川島陸相参内拝謁○陸軍大臣官邸の反乱将校に対し関係者が自殺するよう述べる、野中大尉は自殺○天皇は28日の町田代理蔵相の奏上による経済界(外国為替停止)への影響を恐れるが、 心配する事はなかった
2006.06.29
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■3日目(1936年(昭和11年)2月28日)〓勝手な感想〓 鎮圧に向けて事態は具体的に進みだす。 「行動将校は自刃し下士以下は原隊復帰、勅使を賜り死出の栄光を賜りたい」 を皇道派は望むが天皇は、 「自殺するならば勝手に・・・・」 決起将校の自刃、反乱軍としての死は本人達も納得できない、 せめて「勅使」をとなるが、天皇は反乱軍に「勅使」など出す気はない。 (真崎の行動は別途に調べたいと思う。) 昭和天皇の鎮圧への姿勢が変わらない事で、皇道派の抵抗は弱まり、 反乱軍の鎮圧が実行される事になったが28日は無理、29日となる。●28日の詳細 「○:本庄日記」「△:西園寺公と政局」「▽:重臣たちの昭和史」「◇:秩父宮」 の纏め。△木戸より原田に電話「東京の様子は、昨日、真崎甚三郎(陸軍大将・軍事参議官)が 行って、総理官邸に立て籠っている反乱軍の連中を説得につとめたけれども、 二人ばかりどうしてもきかない。 で、真崎は『もしいよいよきかないならば、明28日朝8時には、 自分が先頭になってお前達を撃ち殺しに来る』と言って帰ってきた、 と軍事参技官の会議で報告している。 それで、27日の晩、陛下が阿部(阿部信行・陸軍大将・軍事参議官)、 真崎両大将に謁を賜って、『反乱軍をなぜ早く討伐せんか』と 非常に厳しくご命令があったようだ。 なほ、内大臣がやられた後のことであり、或いは近衛(近衛文麿・公爵・貴族院議長) を内大臣にすることも多少考えておかねばならんから、含んでおいてくれ。 この際、とても重臣会議はやれまいと世間では噂しているようだが、 これは公爵が御上京になったらぜひやりたい。御上京になるかどうか。 また、陛下からは、最初、後藤内務大臣が閣僚の辞表を纏めて捧呈した時に、 まず第一に。『速やかに暴徒を鎮定せよ。それまでは断じて辞めるな』 といふお言葉があった。」◇午前3時、石原莞爾は「午前6時に攻撃を始める」と断言したが、 奉勅命令を示達ことができない、戒厳司令部は議論の最中。▽午前5時:奉勅命令が下達「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以て 速に現姿勢を徹し各所属部隊の隷下に復せしむべし」 杉山次長は奉勅命令の允裁を仰ぐ 戒厳司令官の香椎浩平中将は皇軍相撃回避を理由に命令実行を拒む->杉山次長が説得○午前7時、伏見宮(軍令部総長)は武官長(本庄)に対し27日の皇族の会合の模様と 閑院宮(参謀総長)を小田原から帰京の必要を述べる、本庄は杉山参謀次長に伝える、 閑院宮はこの日遅く帰京○午前10時、梨本宮参内・拝謁○行動部隊の将校の態度一変する、原隊復帰を拒否(昨晩どこからか電話があった模様)○午前10時、杉山は武力行使断行を奏上しようとしたが、 戒厳司令部より武力行使を見合す通知あり。○午前11時、戒厳司令部は一般市民の立ち退き区域・時刻の処理を指示。○正午頃、戒厳司令部は、奉勅命令を行動部隊に伝える、原隊復帰を促す。◇13時、本庄に陸相川島と軍事調査部長山下奉文が提案 「決起将校たちは大臣官邸で自決をして、下士官は原隊に戻すということです。 ついては将校たちに、勅使を賜り、死出の光栄を与えてほしい、 第一師団も部下の兵を討つのはとうてい耐えられないといっている」、 本庄は天皇に上奏す、天皇の答え 「自殺するなら勝手にさせるがいい、かくのごとき者に勅使などもってのほかである。 また師団長が積極的に出ることができないといっているのは、 自分の責任というものをまったくわかっていないということである」、 天皇は自分自身で部隊を指揮して鎮圧へ出かけると言う。○13時ごろ、武官府にて、川島陸相・山下少将が本庄に、 行動将校は自刃して下士以下は原隊に復帰させるから勅使を賜り死出の栄光を賜りたい、 これを本庄は天皇に伝奏する。 天皇は不満「自殺するならば勝手に・・・・」、かつてない怒り方。○14時半、山口大尉より本庄に「勅使云々・・」の電話、不可能と答える。○15時、杉山参謀次長は帝都警備兵力の増加、 及び、参謀総長の戒厳司令官に対する区処権を奏上、裁可を得る。◇16時、杉山・香椎は天皇に状況説明、29日朝断行する事を言う○16時半、杉山参謀次長と香椎浩平司戒厳司令官は時間が遅い為延期を奏上。 本庄は陸軍に対する中傷について天皇に訴え泣く、天皇は早く収拾せよ。 本庄は軍事参議官代表(荒木大将)に会い天皇の意見を伝える、 荒木は奏勅命令が出た以上実力行使の他無し。 この日午後、 宮中に秩父宮・高松宮・伏見宮・梨本宮・朝香宮・東久邇宮・その他の宮参内・会合◇17時、戒厳司令部は 「29日午後5時までに攻撃準備の完了を終えるよう」にと鎮圧部隊に命じる▽23時:香椎浩平司令官は討伐命令を下す 「反乱部隊は遂に大命に服せず、依って断乎武力を以て当面の治安を回復せんとす」 (攻撃開始は29日午前9時)
2006.06.26
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F組はブラジルとオーストラリアの1次リーグ突破で終わった。 まずはワールドカップを楽しませていただいた方々に感謝(まだ終わっていませんが)、 日本チームの選手・監督とサポーターの皆さん、お疲れ様でした。 ブラジル・オーストラリア、1次リーグ突破おめでとう、優勝を目指して下さい。 クロアチアの皆さん(しくしく) 以下、素人の勝手な駄文。 日本は一勝も出来なかったが、強烈に残念という気が起らない。 1次リーグ突破は出来ないのではないかという感覚を持っていた為と思う。 こんな応援のしかたでは、戦っている選手に失礼だ反省しないといけない。 次の南アフリカでは、「日本は優勝する」を疑わず応援したい。 今回の日本の試合について気になった点は、FWの決定力不足。 日本のシュートによる得点はブラジル戦の玉田圭司の一点しかない。 FWが弱いというより、ディフェンスに対して日本選手は負担が他国より大きいのではないか。 個々の能力と体格が劣っているのを運動量によってカバーしてるとすると、これは大変。 選手交代は他国より重要な要素となる。 試合中の監督の選手交代は、監督のメッセージと思う。 ジーコ監督はワールドカップの選手交代に於いて、 オーストラリア戦ではDFの茂庭照幸、ブラジル戦ではFWの高原直泰を途中投入しているが、 その後、茂庭はFWの大黒将志と高原も大黒と交代となっている。 交代は1試合で3人しかできない、 3試合で2回も交代した者を更に交代しているのは運が悪いのか。 オーストラリア戦では予期しないDFの坪井慶介の負傷、ブラジル戦では高原の負傷。 しかたがない面もあると思うが、 F組の他の監督は交代した者を更に交代はしていない、勝ちから見放されているのか。 日本の最終戦となったブラジル戦では、最低2点差で勝たないと1次リーグ突破できない。 前半終了時点で1-1、クロアチアvs.オーストラリアが1-1、 後半は点を取るしかないが、後半8分にブラジルは1点を加え1-2で状況は悪化、 MFの小笠原満男とDFの中田浩二を交代する(諦めたの^^;) 後半14分ブラジルはさらに1点追加1-3、この辺りではさすがに諦めていたのか、 後半15分にFWを巻誠一郎->高原、21分に高原(ケガ)->大黒、 大黒が試合に参加できる時間は毎回少ないが高原のケガで早まった、 後半36分にロナウドを中澤佑二がブロックしていると思えたが、ゴール右に決める。 ボレーシュートを空振りしたとは思えないシュート。 ロナウドには有意義な日本戦となった。 ジーコ監督はブラジル戦のコメントで、 「W杯で勝ち点1を獲得するに留まった理由は? 監督にあるのか、選手にあるのか?」 の質問に対して、 「監督が勝つわけでも負けるわけでもないし、選手が勝つわけでも負けるわけでもない。 いつもチームが勝ち、チームが負ける。」 「第1戦の最後の8分間が致命的だった。」「みんな精一杯やったと思う。」 との紳士的なコメントをしている。 だが、それに続くコメントが本音だろう。 「日本の選手で海外のリーグでやっているのは少人数。 それも、試合にコンスタントに出ているわけではない。」 「選手はもっとプロになる必要がある。肉体的にも強くならないといけない」 など、戦力不足であった事を指摘している。 敗北した現在に於いて、ジーコ監督の日本人選手に対する評価や感想を冷静に判断できない。 新人監督としてのジーコには能力のある選手がより必要だったと思えるし、 日本も経験豊富な監督を必要としていたし、今後も必要と思う。
2006.06.24
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■2日目(1936年(昭和11年)2月27日)●27日の主な流れ 内閣の総辞職の決定に対して、昭和天皇は反対し総辞職は取りやめとなる。 午前2時には戒厳令が発動され、午前10時には近衛師団が配置され反乱軍を牽制。 武力による反乱軍鎮圧の勅命が出るが、実行時期は戒厳司令官に委任された。 弘前に勤務中の秩父宮が上京 近衛は目白の自宅で表札を変えて隠れていたが宮中の木戸を訪ねる。 逃げ回っていた西園寺は坐漁荘に戻る、上京はしない。 第一艦隊旗艦長門以下約40隻は東京湾御台場沖に到着、 砲門を東京市内に向け、陸戦隊上陸。 午後遅く、反乱軍将校は真崎大将に面会を求め、真崎は応じる、 阿部・西大将も加わり説得、明朝は原隊に復帰すると答える。〓勝手な感想〓 反乱軍を鎮圧できる体制は整った。 昭和天皇は一貫して反乱軍の鎮圧を主張、近衛師団を率いて討伐に行くに対して、 侍従武官長の本庄など陸軍首脳は反対。(参謀本部は賛成と思うが閑院宮の意志が不明確) 元公家の西園寺公望・近衛文麿が動き始めるが、西園寺が東京に来るのはまだ先の事。 政府首脳を殺害し自分達の望む内閣の成立を武力を背景に推し進める反乱軍。 早急な反乱軍の鎮圧が必要と思われるが、陸軍の対応は鈍い。 昭和天皇の一貫した姿勢が鎮圧へと進めていく。 鈴木貫太郎侍従長(重傷)、高橋是清蔵相(死亡)、渡辺錠太郎教育総監(死亡)、 斎藤実内大臣(死亡) 傾向性として頼りになる者や言うべき事を言う者が殺害され重傷を負わされた。 反乱軍達はまったく皇道派・陸軍の利益のみを考えている。 日本を改善するの意識があったと思うが、人を見る目がなかったと言うべきか。 それとも、 農家の惨状を背景とした反乱軍将校にとって皇道派首脳しか選択がなかったのか。 反乱軍は原隊復帰を真崎などの説得により承諾、だが翌日の原隊復帰は実現しなかった。●27日の詳細 「○:本庄日記」「△:西園寺公と政局」「▽:重臣たちの昭和史」「◇:秩父宮」 での纏め。◇午前0時22分、秩父宮と同行者3名は弘前駅を東京へ出発○午前1時過ぎ、内閣は総辞職を決定、天皇は反対し後継内閣成立まで総辞職はとりやめ。 そのときの川島陸相の辞表の文面が他の大臣と同じ事を天皇は指摘。◇午前1時20分過ぎ、杉山は参内し戒厳令施行の允裁を求める、 天皇は枢密院会議を召集、戒厳令の施行が決定(午前2時40分)、 午前3時に施行される、戒厳司令官は東京警備司令官の香椎浩平、 戒厳司令部は九段の軍人会館、範囲は東京市中、戒厳司令官は天皇に直結、 行政・司法の権限を持つ。 戒厳司令部の作戦・情報の責任者は石原莞爾(参謀本部作戦課長)、 石原を戒厳司令部に入れたのは参謀総長閑院宮・次長の杉山○午前2時も天皇から下問があった○午前2時50分に戒厳令の公布、戒厳司令官は香椎浩平司中将(警備司令官)に決まる。 戒厳令は勅令(枢密院を経ている)。◇午前7時石原莞爾の書いた奉勅命令を杉山が天皇に允栽をもらう、 奉勅命令「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以って速やかに 現姿勢を徹し各所属部隊の隷下に復帰せしむべし」 杉山は、当分は皇軍の相撃を避けたいので、 命令公布の時期は参謀総長にまかせる事を天皇に要望、天皇は諒解する○午前10時半ごろより、近衛師団を配置し占領部隊の行動拡大を防止。▽午前11時に原田と西園寺公一は西園寺八郎が車(ビュイック)で迎えに来て、 興津へ向かう (西園寺八郎:毛利元昭の弟、西園寺家へ養子、 新子(公望と新橋芸者玉八(小林菊子)との子)と結婚)▽午後 :岡田首相脱出に成功▽14時に反乱軍は「事態の収拾を真崎将軍にお願い申し上げます」と 軍事参議官連に申し出る◇14時、決起将校の野中四郎らが真崎甚三郎・阿部信行・西義一らと話し合い、 この後の行動を真崎に一任するという。 真崎は所属部隊に戻る事を勧める、決起将校は受け入れない。▽15時に近衛宮中へ木戸を訪ねる(目白の自宅で表札を変えて隠れていた)▽15時30分に西園寺、坐漁荘に戻る▽16時に第一艦隊旗艦長門以下約40隻、 東京湾御台場沖に到着砲門を東京市内に向ける、陸戦隊上陸。◇16時59分、秩父宮は上野駅に到着、近衛師団歩兵第一連隊の兵士が待機、 高松宮と会った後、天皇に会い夕食を共にする(午後6時~8時半) その後、大宮御所で貞明皇太后と40分の会話、 この後連日のように天皇と会った後は大宮御所へ行く事になる。◇27日午後11時、秩父宮は表町御殿にはいる、 杉山元(陸軍次官)・古荘幹朗・香椎浩平(戒厳司令官)が訪ねる。○本庄は天皇に拝謁、本庄の 「其の精神に至りては、君国を思ふに出でたるものにして、 必ずしも咎むべきにあらずと申述ぶる」 に対し、天皇は 「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、 其精神に於ても何に恕(ゆる)すべきものありや」 又或時は 「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」 と漏らさる。之に対し本庄は 「老臣殺傷は、固(もと)より最悪の事にして、 事仮令(たとひ)誤解の動機に出づるとするも、 彼等将校としては、斯くすることが、国家の為めなりとの考に発する次第なり」 と重ねて本庄は述べる、天皇は 「夫は只だ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云ひ得るのみ」 尚又、此日陛下には、 陸軍当路の行動部隊に対する鎮圧の手段実施の進捗せざるに焦慮あらせられ、 武官長(本庄)に対し、 「朕自ら近衛師団を率い、此れが鎮定に当らん」 と仰せられ、真に恐懼に耐へざるものあり。 この日天皇は数十分毎に武官長に鎮圧の催促をする。 この日午後遅く、行動部隊将校は真崎大将に面会を求め、真崎は応じる、 阿部・西大将も加わり説得、明朝は原隊に復帰すると答える。
2006.06.22
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F組は2戦が終わった、現時点でブラジルが勝ち点6で1次リーグを突破、 勝利による1次リーグ突破はオーストラリアは可能だが、 クロアチアと日本は第3戦に勝つだけでは無理で他戦の結果により左右される、 日本はクロアチアvsオーストラリア戦でオーストラリアが勝てば、 日本の勝敗に関係なく日本選手のワールドカップは終わっていまう。 ブラジル戦は 「日本が勝ち、1次リーグ突破の権利も得る」 を信じてテレビの前で参加する、これぐらいしか出来ない。 どうにも納得できないのが、ゴールに向って蹴る事に積極的でないFW、 クロアチア戦での後半6分に、柳沢が敵ゴール前でパスを貰った時に顕著に表れた。 キーパーは柳沢から見てゴールの右に寄っていて、柳沢の前にはゴールが広がっていた、 柳沢はゴールに蹴らずにパスをくれた加地にボールを返そうとする。 それも、キーパーの股抜きでのパスで、見事に股抜きに成功している、 キーパーの後ろにはゴールはなく、ボールはフィールドの外に出てしまった。 ゴールに蹴ったつもりが失敗した?(平面的に60度以上角度が狂っている) 目の前にあるゴールに何故に蹴らなかったのか、勘違いとしか思えない。 何故そのような勘違いが起ったのか、ゴールに蹴る事に対するプレッシャーが強烈で、 正常な判断が出来なかったと思う。 日の丸を背負って戦うのは大変と思うが、日本の代表として実力を出して欲しい。
2006.06.19
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■1日目(1936年(昭和11年)2月26日)●26日の主な流れ 事件に対して昭和天皇は早急な反乱軍の鎮圧を望むが、陸軍は命令に従わない。 陸軍大臣官邸では反乱軍と陸軍大臣との交渉が始まり、「決意趣意書」「要望書」が 川島陸相に渡され、川島陸相は参内し事件の概要を伝え、「決起趣意書」を読み、 強力内閣を作る必要性を強調。 天皇は 「陸軍大臣はそんなことまでいわなくていい、 それより反乱軍をすみやかに鎮圧するほうが先決ではないか」 と命じる。 軍事参議官会議(川島陸相が司会)で「陸軍大臣告示」が作成された。 反乱軍の行動に対して、天皇が認めたかのよう伝えてしまい、かつ 「戦時警備部隊の一部として新たに出勤する部隊と共に師官内の警備を任ぜられた」 のように、実態としても認められたかのような待遇を受ける。 海軍は、「海軍第一・第二艦隊は各東京湾及大阪湾警備の為回航を命じられる」〓勝手な感想〓 陸軍の皇道派が起こした事件で帝都(の一部)が軍事占領され、 天皇に接する政府首脳・元老が標的とされた。 これは対外的にはかなりみっともないし、こんな国と親しく付き合いたいとは思わない 起ったものは仕方がない、早急な解決を必要としたと思えるが、解決までに4日かかった。 海軍からは3人が標的となり、陸軍からは一人が標的となった。 陸軍にも関わらず標的となった渡辺錠太郎教育総監は真崎甚三郎の示唆の結果と思える、 高橋是清蔵相の殺害など皇道派と陸軍にとってマイナスとなる人物を殺した事となる。 元老の西園寺公望・牧野伸顕は今回も標的にはなるが助かっている。 一日目は昭和天皇の「反乱軍をすみやかに鎮圧」に対して、陸軍は抵抗する。 川島陸相は真崎(たぶん)を首相とした組閣を天皇に進言したが、天皇は一蹴。 皇道派による内閣の可能性は消えて、陸軍首脳は決起将校を反乱軍としない方向で 事態の収拾を図る。 天皇は「反乱軍をすみやかに鎮圧」を曲げない、 海軍は陸軍が海軍大将を3人殺害したの認識(実際は殺害1・重傷1)。 午後には岡田啓介首相(海軍大将)の生存が宮中に報告された。●26日の詳細 「○:本庄日記」「△:西園寺公と政局」「▽:重臣たちの昭和史」「◇:秩父宮」 から「2.26事件」を考えてみたい。▽4時30分に真崎甚三郎は「青年将校が兵を率いて重臣を暗殺云々」を 亀川哲也(政友会・久原房之助に近い浪人)から聞く▽5時0分:襲撃始まる○5時頃、山口大尉(本庄の娘婿・歩兵第一連隊に週番勤務中)の使い 伊藤少尉が本庄繁(睡眠中)の下に来訪、本庄は会見する。 走り書きの通知「連隊の将兵約5百、静止し切れず、愈々直接行動に移る、 猶ほ、引き続き増加の傾向あり」 本庄は伊藤に阻止するよう山口に伝える事を指示、伊藤は既に出動済みを告げる。 本庄は事件を岩佐憲兵司令官と宿直侍従武官中島少将に電話で伝へ、 自動車を呼び宮中に出勤する。◇5時半過ぎ、侍従長鈴木貫太郎夫人たかより宮中に電話 「軍人が大勢で襲ってきた。侍従長は拳銃で撃たれた」△5時40分頃原田熊雄(西園寺公望秘書)へ木戸幸一(侯爵・内大臣秘書官長)より電話 「内大臣(斉藤実・子爵・海軍大将・前首相)が襲撃され、 岡田啓介(海軍大将・首相)、高橋是清(蔵相・元首相・元政友会総裁)も襲撃された。 内大臣の私邸には寄り付くことができない。 自分は取り敢えず宮内省に行くからよろしく頼む」 原田は「宮内省に行ってから、興津(西園寺公望)にすぐ電話をかけてくれ」と頼む。◇侍従の甘露寺受長は天皇を起し、情報を伝える。(5時半~6時の間と思われる) 天皇は「とうとうやったか----」、 「まったくわたしの不徳のいたすところだ---」◇6時頃、八田善之進(侍医頭)は政務室をぐるぐる回る天皇に 「陛下、しっかりなさいませ」と叫ぶ、天皇は動きを止めた(涙を流していた)、 八田は「陛下、過を転じて福と為せ、ということがあります」という、 天皇はその言葉を何回も繰り返す。◇湯浅倉平(宮内大臣)は天皇に、 天皇が鎮圧命令を出し早期収拾をする・暫定内閣を作らない事を言う (広幡忠隆(侍従次長)・木戸幸一(内大臣秘書官長)との相談結果)、天皇も同意。○本庄は午前6時頃参内、常侍官室には湯浅宮相・広幡大夫等が在った。 本庄が得た情報、斉藤内府・岡田首相・高橋蔵相・渡辺大将は殺害された、 鈴木侍従長重傷、牧野前内府避難所在不明。(岡田首相の殺害は誤報) 本庄は参内後すぐ政務室にて拝謁、 天皇は本庄に「早く事件を終息せしめ、禍を転じて福と為せ」、 「武官長(本庄)のみは予てこの様なことに至りはせぬかと申せしが如し」 「趣意書」が手に入る、 占領地区は陸軍大臣官邸・陸軍省・参謀本部・警備司令部・警視庁等。 陸軍省・参謀本部の首脳部は憲兵司令部に集合し対策を練る。▽6時40分:木戸より西園寺に電話◇午前7時、川島陸相は決起将校の前に出る (5時から決起将校は川島に会うことを申し入れていた)、 決起将校は「決起趣意書」を読み上げる、要望事項7項目を川島に差し出す、 山口一太郎(本庄侍従武官長の娘婿)は川島に要望に沿う事を要求。 真崎甚三郎の乗った自動車が現れる、 磯部浅一が「閣下、統帥権干犯の賊類を討つ為に決起しました」に真崎は何度もうなずいて 「とうとうやったか、お前達の心はよぉーくわかっとる、よぉーくわかっとる」と答える。 真崎は「こうなったら仕方がないじゃないか」と川島に言い、川島はうなずく◇午前7時すぎ、高松宮から秩父宮の弘前別邸に電話 9時少し前、秩父宮は倉茂連隊長に「東京へ行きたい旨を」言う 第三大隊書記の熊谷留吉は定例休暇の用紙一式を秩父宮に渡す 秩父宮は第三大隊付将校に軽挙妄動を慎む事を言う▽7時15分:西園寺避難、中川小十郎(西園寺の秘書・貴族院議員)が駆けつけ、 西園寺に橋本警察部長の避難勧告を伝える、 坐漁荘警備詰所にも非常警戒の連絡がはいる▽7時40分:西園寺は自家用自動車+警備自動車3台で、警察部長官舎に一先ず入る。 ->26日夕方知事官舎->27日午後坐漁荘に戻る○午前8時前後より正午にかけて、 伏見宮・各軍事参議官・各大臣・各枢密院顧問官等が参内。▽8時45分:真崎は陸相官邸(反乱軍に占拠されていた)へ、反乱軍にむかい 「とうとうやったか、お前達の心はヨオッわかっとる、ヨオッーわかっとる」と 反乱軍の磯部浅一(元陸軍中尉、士官学校事件で免官)に伝え、官邸内にはいる。 官邸内は川島陸相が反乱軍将校に取り囲まれていた。 真崎は叛乱軍の意にそう発言をする。 ->真崎は伏見宮邸で加藤寛治海軍大将と伏見宮に拝謁◇9時、川島陸相は参内、事件の概要を伝え、「決起趣意書」を読み、 強力内閣を作る必要性を強調。 天皇は 「陸軍大臣はそんなことまでいわなくていい、 それより反乱軍をすみやかに鎮圧するほうが先決ではないか」▽午後 :岡田首相の生存が宮中に伝わる、政府と軍には秘密にされた○午後宮中にて閣議(後藤内相が総理大臣代理)。 枢密院会議が開催される。○14時(?)、陸軍軍事参議官は宮中にて会合、 川島陸相(司会?)・杉山参謀次長等も時々参加、説得文を作成 「諸子が決起の趣旨は、天聴に達せられたり。 諸子の真意は、国体顕現の至情に出づるものと認む、 又、批政改善の件は当路及軍長老に於いて之が遂行に努めんとしつつあり。 此以上は一に、大御心に拠る。」 この文章は将校の説得用として作成、 公表するつもりはなかったが一般軍隊に下達してしまい。 伝達の際「諸子の行動」も認められたかのように伝えた。▽15時0分:陸軍大臣大臣告示が決起部隊に伝えられる(主に荒木・真崎大将の意見による) 伝達は山下奉文少将 1.決起の趣旨天聴に達せられあり 2.諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む○15時、第一師官戦時警備令下令、決起部隊に対しては、 戦時警備部隊の一部として新たに出勤する部隊と共に師官内の警備を任ぜられ、 大臣は決起部隊のの趣旨に沿って実行するとの申し合わせをする。 後に此れは鎮定の為の方便ということになる。▽15時30分:小原法相が参内、岡田首相・高橋蔵相以外の全閣僚がそろう >後藤内相が総理大臣臨時代理を拝命、後藤が取りまとめた辞表は天皇の預かりとなる。 >戒厳令の一部適用○海軍第一・第二艦隊は各東京湾及大阪湾警備の為回航を命じられる、 横須賀警備戦隊は東京警備を命じられ午後遅く芝浦に到着する。▽20時15分:陸軍は事件についての公式発表を行う (高橋蔵相は負傷と報じられる(故意))◇21時ごろ、陸相官邸の大広間、軍事参事官(荒木等)と決起将校、 立会い山下奉文・満井佐吉・鈴木貞一・山口一太郎 決起将校を説得。朝方まで続きうやむやで終わる。○この日遅く内務大臣は帝都・各地の治安が維持されている事を発表。○この日天皇は本庄を20分~30分毎に事態の成り行きを下問、鎮圧を催促▽夜 :反乱軍は西園寺公の即時逮捕を要求
2006.06.16
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1935年8月12日に相沢三郎中佐が永田鉄山中将・軍務局長を斬殺した。 理由の一つとして真崎甚三郎教育総監罷免がある。 相沢は翌年7月刑死、2.26事件は裁判中の出来事になる。 相沢は「第一審」で死刑判決、「上告」は棄却され死刑が確定する。 奇妙なのは、永田殺害を決断した理由に、村中大尉・磯部主計・西田税・大蔵栄一 の影響による事が「第一審」の判決文には記述されたいるが、 真崎甚三郎からの影響は記述されていない事、敬愛していたの記述はある。 「新装版 昭和史発掘-5/松本清張」では7月18日に相沢は真崎甚三郎宅を訪ね 真崎から罷免の実状を聞かされた事を推測している。 この辺りは、真崎が2.26事件の決行者達にどのような事を伝えていたか等を 調べてみると実態が見えてくるのかも知れない。 「相沢事件」「2.26事件」と続くが、基本的に皇道派(主に真崎甚三郎)に利する 為の行為となっている。(結果的には真崎甚三郎にとって得にはならなかった) また、中国・満州への進出について皇道派が反対だったとは思わないが、 善悪は別にして主に進めて行くのは統制派、 皇道派の首領である荒木・真崎大将は流れには乗るが、 日本政府・陸軍に於ける権力の掌握以外に大したビジョンがないのかも知れない。●「第一審(第一師団軍法会議)」の概要(「二・二六事件 全検証/北博昭」より)○主文 被告人(相沢三郎)を死刑に処す。○理由 1934年3月に永田鉄山(陸軍少将)が陸軍省軍務局長に就任後、 永田が昭和維新の運動を阻止するものと看做していた。 1934年11月の「十一月事件」で同志である村中大尉・磯部主計が反乱の陰謀嫌疑により、 軍法会議で1935年4月に停職処分にされた事を「怪文書」等の記事により、 永田等の姦計と憤慨し、 1935年7月16日に崇拝敬慕する真崎甚三郎教育総監更迭の新聞記事を見て、 更迭は永田の策動と判断、19日に永田に面会して辞職勧告を求めた。 その日の夜に西田税の家に宿泊して西田や大蔵栄一等より教育総監更迭の経緯を聞き、 21日には村中孝次が送付した「教育総監更迭事情要点」と作成者・発想者不明の 「大逆不逞」なる怪文書を読み、 教育総監真崎大将の更迭は永田局長等の策動で、統帥権干犯と憤激した。 8月1日に台湾歩兵第一連隊付きに転補された。 8月2日に村中・磯部が作成した「粛軍に関する意見書」を入手し、 永田局長が元老・重臣・財閥・新官僚とにより昭和維新の気運を弾圧阻止して、 皇軍を毒するものと考えた。 台湾に赴任する前に永田局長を倒す事を決意した。 8月11日に東京で西田・大蔵と会談したが、永田局長の更迭事情の変化がない事を知り 永田局長殺害の最後の決意を固めた。 8月12日に相沢は永田を陸軍省軍務局長室で軍刀にて殺害した。 <以下略>●「上告審(陸軍高等軍法会議)」の概要(「二・二六事件 全検証/北博昭」より)○主文 本件上告は之を棄却す。○理由 <省略>●「西園寺公と政局 第四巻」からの抜粋の概要○唐澤局長の話(8月13日:永田軍務局長が軍務局長室で暗殺された事について) 「真崎前教育総監を辞めさせたことは、要するに元老重臣一派の陰謀であって、 永田がその傀儡になった。」 といようなデマが飛んでいる。 最もひどい怪文書の中には、 「天皇機関説を実行し、国体を破壊し、国軍を攪乱し、 昭和維新を阻止せんとする元老重臣の大陰謀」 というような見出しで書いて、 結局永田がその中心的人物ということになっている。 要するに機関説排除の急先鋒であった真崎大将を教育総監から軍事参議官に替えたことは、 天皇機関説排撃運動の力を殺ぐ目的であった、というのである。 <以下略>
2006.06.14
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○士官学校事件(1934年11月20日) 辻政信(大尉・中隊長:統制派)が佐藤勝郎候補生を使い、 「皇道派によるクーデータ」をでっち上げたと言われるが。 この事件で停職となった村中孝次(歩26大尉)・磯部浅一(野砲1・1主計)は 「怪文書事件」に関係し村中・磯部は免官(1935.08.02)、 「2.26事件」に参加している。 村中・磯部は停職となったが、停職後6ヶ月は復職できない、 一年経つと自動的に予備役に入る。 7月11日に村中・磯部は「粛軍に関する意見書」を各方面に頒布し退役処分となった。 辻も重謹慎30日の処分を受け、 辻がスパイとして使ったとされる5名の士官候補生は退校処分となった。 皇道派(村中・磯部・真崎)と統制派(辻・永田)との権力闘争に見える。 「皇道派によるクーデータ」には現実的な処罰が明確に行われた、 統制派も関係すると思われる「三月事件」「十月事件」はそうではなかった。 永田は西田税・北一輝を問題視しているが、 大川周明に関してはどう考えていたのだろうか。●「西園寺公と政局 第四巻」からの抜粋の概要○当時の政府の状況 11月20日は予算が決まりつつあるところで、残りは陸海軍の予算と内務省の一部。 当時の首相は岡田啓介(海軍大将)、大蔵大臣は藤井真信、陸軍大臣は林銑十郎、 22日・24日で予算は閣議では決定されたが、蔵相は軍事費を抑えたいが岡田首相は閣議で 「5960万円出してくれ」と陸海軍寄りの予算を大蔵大臣に言う、蔵相は抵抗する。 陸海それぞれに2700万円プラスして、それぞれ4000万円の増額とする、 農林・内務省に560万円増額で560+2700×2=5960万円増額の意味。 蔵相は首相に「貴方は閣議の席上だけうまく行けばいいんでしょう」と述べる。 藤井大蔵大臣は輸血・カンフル注射をして頑張るが限界、 27日から高橋是清が大蔵大臣となり、国会対応を行う。 (高橋は2.26事件で大蔵大臣のまま殺害される、その後は町田忠治商工相が兼任) (陸軍大臣は翌年9月5日より川島義之)○警視総監の話(11月28日午後) 関係者は陸軍士官学校の生徒と常習犯の者たち 尉官と佐官の対立、一方は非合法派で他方は合法派 大演習後、歩兵学校・千葉の連帯にいる者が陸軍大臣に面会を求め、大臣不在の為に軍務局員に大言壮語して帰った 士官学校の生徒が不穏な計画を持っていると、ある将校が陸軍省の中央に密告した為、陸軍省は士官学校校長(末松茂治中将)に調査を命じた 調査では事実と判明 尉官級を煽っているのは、小畑敏四郎(少将・陸軍大学校幹事)と鈴木貞一(近衛内閣・東條内閣の企画院総裁)など 佐官級を煽っているのは、建川美次(中将・第十師団長)と根本博(歩兵大佐・陸軍省新聞班長) 陸軍の予算を取る方法に用いた、と言う人もいる 尉官階級の非合法派の連中が、元老・内大臣・総理・高橋さんなど、あらゆる巨頭を暗殺する計画、実現・本気かは不明 陸軍当局は「陸軍で結末をつけるから、ぜひ手を出さないでくれ」と自分(警視総監)に頼んでいる。○永田軍務局長の話(28日?)(永田は翌年8月12日に皇道派の相沢中佐に斬殺される) 今度の不穏事件については陸軍も徹底的にやるつもりだから・・・ 外部からの応援も頼んで、西田税とか北一輝とかをどうしても捕まえなければならん 明るみに出して立派に措置する○原田熊雄の感想 憲兵隊長は西田税・北一輝を庇っている 真崎大将は警視総監に「現役軍人の政治干渉はよくない、もしクーデターでもやるようなことがあった場合、自分は何個師団でも率いて、この白髪頭を先等に立てて叩き潰してやる」、警視総監は真崎を信頼していたが、原田は危険を感じた。○木戸幸一の話(12月9日の晩) 士官学校の生徒が教官から「若い将校に騙されてはいかんぞ」と注意された、 生徒たちは将校の所に行き 「君たちはただ我々を煽てるばかりで、何ら実行する決心がないんじゃないか」 と詰め寄った、将校は驚いてでたらめな計画を色々話した。 生徒たちは士官学校に帰り教官にでたらめな計画をそのまま話したので、 教官は驚き陸軍省に密告した。 陸軍省は非常に慌てて新聞記事の差し止めをやった。○警視総監の話(12月29日朝) 陸軍士官学校の方は、同校生徒5名と片岡中尉・村中大尉・磯部主計の3名を検束した、 軍法会議にかけるつもりらしい。○岡田首相の話(1935年7月31日) 昨日、陸軍大臣が閑院宮を箱根に訪ね、引き続き葉山で拝謁を願ったのは、 所謂怪文書(粛軍に関する意見書 1934年5月1日附)を出した、 村中孝次大尉・磯部浅一を罷免する上奏に出た為、結局御裁可を仰いで帰ってきた。
2006.06.11
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数年、小説を読んでいない、読むのは歴史関連の本が多い、 「太陽の世界/半村良」をパラパラ読み返した後、「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでみた。 物語の進み方は、 「謎を残して場面が変わり一つの謎を解決して新たなる謎が現れて、また場面が変わる」 の繰り返しが基本的なパターン。 二人の主人公はあまり魅力的ではないが、 中盤に「リー・ティービング」が現れると面白くなる。 私はキリストは特殊な例だと思うが人間と思っている、一般の人間と同じ悩みを持ち、 家族や仲間が存在したと思う。 ゆえに「ダ・ヴィンチ・コード」に於けるキリストの記述があまり刺激的でない。 たぶん、「キリスト」ではなく「天皇」に関する物語で舞台が1930年代ごろ だったら刺激があったと思う。 誰か「天皇機関説」を主題に「天皇」が「現人神」かどうかの謎をさぐる、を 書いてくれないかと思う。 最後まで読んだので面白かったとは思うが、それほど熱中出来なかった。 キリスト教や付随する文化に関する勉強不足が問題だったのか? もう一度勉強してから読み直すのがよいのかもしれない。
2006.06.09
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1947年に於いて皇室財産は37億7500万円、財産税が33億4000万円かけられ、 日本国憲法では皇室財産は国に属する事となった。 残りは1500万円の現金と一部の貴金属・宝石・美術品、宮中三殿(賢所など) 三直宮家を除く11宮家51人の降下が決まり。 1947年10月18日に赤坂離宮で皇族のお別れ晩餐会が開かれた。 以上は「昭和天皇とその時代/川原敏明」よりの纏め。 降下した宮様には一時金があったようだが、 久邇宮朝融王や賀陽宮恒憲王は一旗組・団体・学校の総裁・顧問を次々引き受けた。 と続く。 日本国民の多くが生きる事に大変だった時代。【皇室財産 マ司令部発表】 1945年11月1日、毎日新聞(大阪)『15億9千余万円、御所有株は29会社』 米軍総司令部渉外局30日発表 日本皇室の財産は現金、有価証券・土地・林材・建物のみで15億円以上に上る旨 30日連合最高司令部により明らかにされた、 この正確な総額は、15億9061万5500円である、 この報告は連合軍最高司令部の指令により日本政府によってなされたもので、 最高司令部経済科学部はこの報告を将来の日本経済を支配すべき 計画の作成に用ひるはずである、 なほ上述の数字は美術品・宝石および金銀塊の額を含んでいない、 これらについての報告は追ってなされれはづである、 またこの数字は皇族14方の財産も含んでいない、□皇室財産の内訳は次のごとくである 現金および有価証券(3億3615万9890円) 土地(331万4242エーカー、推定時価3億6229万3953円) 林材(5億9286万5000円)□現金および有価証券の内訳 国債(1億3822万1513円) 地方債(2634万7217円) 諸株(8798万3583円) 社債(5854万6024円) 現金(2478万8387円) 諸株および社債の額は購入価格に基づくものである しかし皇室が多額の投資をされている諸会社の多くは空襲によって施設の多くを焼失、 現在では生産皆無またはそれに近い状態である、 皇室は諸財閥の会社を含む29会社の株を所有されるが、 単一の保有株としてその最大のものは銀行株で、□銀行関係の持株内訳は左の通りである 日本銀行(20万8000株、2080万円) 横浜正金銀行(20万9318株、2155万231円) 日本興業銀行(4万5450株、142万312円) 台湾銀行(3万264株、189万1000円) 東洋拓殖会社(5万株、187万5000円) 帝国銀行(2万9110株、128万140円)□その他の諸会社株の主なるもの次のごとし 王子製紙会社(6万608株、358万2150円) 関東電業会社(3万4749株、173万7950円) 南満州鉄道会社(8万43175株、329万562円) 台湾製糖会社(3万9600株、198万円)□皇室所有の土地の内訳次のごとし 森林(318万3287エーカー、6457万5291円) 宮城および御所(2256エーカー、2億1367万2811円) 農地(9万7637エーカー、189万9402円) 建物敷地(559エーカー、7987万548円) その他(3万502エーカー、227万5901円) 以上所有地の評価額を見ると、 宮城1エーカー平均価格は9万5000円とされているのに対し 森林および農地は約20円、建物敷地は約14万3000円とされている注)以下は投稿者の計算の為、間違いの可能性あり 皇室所有地計:13412737374平方メートル=13413平方キロメートル(現在の日本の3.5%) 現在の日本国の面積=377835平方キロメートル エーカー:1エーカーは約40.469アール、約4047平方メートル、 アール:1アールは100平方メートル、約三〇・二五坪
2006.06.08
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『天皇機関説と天皇現神説』 天皇が現神(現人神)か人間かは現在に於いては人間である事で問題は出ないと思う。 キリストは人間という認識は日本では当然の事と思うがカトリック信者はどうなのか 仏教・キリスト教などの宗教の教祖は人間であるとの認識を私はもっているが、 そうでない人も多いかもしれない。 戦前に於いて、建前か本音かは其々の人により異なると思うが「天皇は現人神」。 「天皇機関説」の問題は天皇は憲法により制限されるかの議論と思える。 憲法にも制限されない天皇の権力を誰が利用するか。●『一身上の弁明/美濃部達吉』の概要 (「第67回帝国議会貴族院議事速記録第11号」1935年2月25日 より)○国家統治の大権が天皇に属するということは、天下万民一人として疑うはずはない。 美濃部の著書では重要な基本原則し日本開闢から変動のなく、 将来永遠に動かせないものと明言している。○天皇の統治の大権は法律上の概念としては権利ではなく機能である。◇法律学に於いて権利は利益を要素とする概念で、自己の利益・目的の為の法律上の力、 統治権は天皇の利益の為ではなく天下国家の為であり、 統治の権利主体は国体としての国家である。◇天皇は国の元首(国の最高機関)として国家の一切の権利を総攬し、 国家の一切の活動の立法・行政・司法は天皇に最高の源を発すると観念する。◇機関説は国家を目的を有する恒久的団体(法人)とし、 法人の権利を行う者を法律学上の観念として法人の機関とし、 天皇が国家の機関たる地位に存す。○天皇の統治の大権は万能無制限の権力でなく憲法の条規によって行われる機能である。◇天皇が憲法の条規に基づかないで議会に命令することは無い、 議会が原則として天皇の命令に服するのではない。◇議会は国民代表の機関であって、天皇の機関ではなく、 天皇から権限を与えられたものではない。●『天皇機関説と天皇現神説』/「昭和天皇独白録」○岡田啓介内閣当時、天皇機関説が世間の問題となった○国家を人体に例えると、天皇は脳髄であり、国体との関係は機関説で差支ない。○上記を本庄繁武官長を通じ真崎甚三郎・教育総監に伝えた、真崎は判つたと云つた。○本庄か宇佐美興屋が昭和天皇は現神(現人神)だと言ったことに対し、 昭和天皇は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない迷惑だと云つた事がある。●「本庄日記」からの概要○1935年年4月25日 昭和天皇は、 「もし思想信念をもって科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。 進化論のごときも覆えさざるを得ざるごときこととなるべし。 さりとて思想信念はもとより必要なり、 結局思想と科学は併行して進めしむべきものと思う」 と述べた。 昭和天皇は進化論を信じており、科学の抑圧は世界の進歩を停滞させると述べる。 (私の意訳)○1935年年5月22日 昭和天皇は出光海軍武官に対し 「軍部が自分の意に隋はずして、天皇主権説を云ふは矛盾ならずや」 と問う、出光海軍武官の答え 「その時々の御事務に付、大御心に添はざることありとて之を、 天皇主権の事実に添はずとせられ、 延ひて重大なる国体に関する解説を云々せられんとするは本末を誤るものなりと拝察す。 陛下は、暫く臣下の論議を高処より静視遊ばされ、 此等の説に超越して大観あらせらるるを必要なりと存ずる」 上記の内容は、昭和天皇が出光海軍武官に対して 「昭和天皇の命令を聞かない軍が『天皇主権説』を云うのは矛盾ではないか」 と言ったのに対し、出光海軍武官は 昭和天皇の意見を封じるような発言をしている、これが実態だったのだろうか。○1935年7月10日 侍従長からの情報として昭和天皇が機関説について首相・法相に述べた内容は 1.機関説云々は皇室の尊厳を汚すというも、かかることを論議することそれ自体が、 皇室の尊厳を冒とくするものなり云々。 2.日本の国体は機関説云々の論議くらいにて動かさるものにあらず云々。 しかして機関説の可否について言及あらせられず。●政府の国体明徴に関する声明書(概要) 岡田内閣による「国体明徴」の政府声明は二度行われた。(1935年8月3日、10月15日)○大日本帝国統治の大権は天皇に存する。○天皇が大権を行使するための機関とするのは無礼であり国体の本義を誤まるものである。○天皇機関説は否定する。
2006.06.02
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