2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全10件 (10件中 1-10件目)
1
韓国映画を観るのは初めて、テレビの「冬のソナタ」「チャングムの誓い」も観ない、 何故か「親切なグムジャさん」を観てしまった。 イ・ヨンエ主演の韓国映画、良い点が多くあるが、 映画として良いか悪いかではなく、イ・ヨンエにひきつけられる。 イ・ヨンエが存在して成り立つ映画とも言える、 当然、そのようにイ・ヨンエを表現できた監督もすばらしいといえるが、 途中からだれる、 復讐すべき男性を捕まえてからが長すぎて、未だ終わらないのかと思ってしまう。 イ・ヨンエの演技は爆発しているのに爆発していない、 これは感情の高まりの最高地点で、イ・ヨンエが言葉を発していない事にも 関係しているかもしれないが、感情が極限に高まっているにも関わらず、 人格が崩壊せず泣き喚きもしない、その演技はリアリティーと緊張感を持たしている。 イ・ヨンエが拘束した男性を床に倒し髪の毛を切るシーン、 髪の毛を切ることで表現したい事もあるのだろうが、 イ・ヨンエが振り返りカメラ目線、圧倒されてしまう。 その男に対する増悪ではなく、どうしようもない彼女の中にある空洞が存在する。 最後のダレさえなければと思う作品、イ・ヨンエは素晴らしかった。
2006.05.28
コメント(0)
『満州事変の纏め』 満州事変は関東軍主導による柳条湖事件から始まり、上海事変・満州国の建国と進む、 日本は満州国を承認するが、国際連盟では満州国は承認されず、 日本は国連案に反発し脱退を通告した。 大陸では満州事変、国内では5.15事件やテロ・クーデター計画が発生し、 軍縮が吹っ飛んでしまう。 元老・特権階級の力が軍により抑えられ、官吏中心の国家運営が行われ、 新旧の交代が明確になった。 満州事変の拡大に天皇とその周辺は反対で政府も賛成ではなく参謀本部も消極的、 当初は関東軍、その後は陸海軍に引っ張られ、国際連盟まで脱退してしまった。 特に参謀総長・軍令部長が皇族になってから拡大に制限が無くなった様に思える。 満州事変により日本の人口・食料・資源などの問題が解決していれば この後現れる「大東亜共栄圏」の南方の資源は必要なく、南進はなかった事になる。 ソ連の脅威に対抗する為に満州国を必要としたのか、 結果論だが中国本土や東南アジアなどへの拡大でソ連の脅威以外の脅威が増えて、 満州でソ連を押さえる意味が相対的に低下している。 軍縮に対する反発と陸海軍の予算確保と自分達の力の拡大を望む一面もあったと思う。 「満州事変」は今回で終了、「満州や満州に住む人たちの生活」「アヘン関連」 「満州事変は必要だったのか」「支那事変は?」も調べたいが別の機会にしたい。 「治安維持法と国民」「軍部に擦り寄るマスメディア」「普通選挙と政党政治」 などに関しては2.26事件がらみで調べればと思う。 最後は「田中降吉問調書/東京裁判資料」を調べて終わり。 ただ、尋問調書の内容が正しいとは限らない。●「田中降吉問調書/東京裁判資料」からの概要 下記は「柳条湖事件」関連の記述、また下記以外にも「満州事変」に関する記述はある。○田中隆吉に関する非公式尋問覚書◇田中は奉天事件(柳条湖事件)の鉄道線路爆破爆破は日本軍に責任があり、 この情報は上海で岡村寧次将軍から得たを供述。◇奉天事件の勃発時の陸軍大臣南大将が語ったところによると、 南は毅然と対処したが、幣原喜重郎外相は軟弱だった。◇関東軍は奉天事件とその拡大に重大な関わりを持っていたと考えている。○田中隆吉に対する尋問[第1回]◇建川美次将軍は1931年9月18日の午後奉天に到着(奉天で戦闘が突発する数時間前)、 建川は田中に語ったところでは、南陸相は事件を抑え込むよう指示したが、 建川は事件を起こさせることをもくろんでいた。 建川は南大将が関東軍司令官に渡すように命じていたメッセージを携えて、 茶屋に行ってしまい、司令官に渡さなかった。◇張作霖元帥謀殺の時に満州国を建国しようと企てている将校グループが存在した。 満州を南京政府から分離する企ては明治時代以来の日本の国策、 孫文は日本が支那を援助してくれるのであれば満州を独立国家にする事に異議はないと、 桂太郎公に明言した。◇1931年9月18日の満州奉天で起った最初の戦闘は関東軍参謀内部の将校グループで計画され、 今田新太郎が鉄道爆破を行った。(田中が兵務局長として調査結果)◇鮎川義介は米国スタップに1936年の石原との会談で石原は日本及び日本の財閥から 独立した工業ユートピアを満州に建築できるよう満州事変を計画し段取りをつけた と述べた。 後に鮎川は満州重工業(開発株式)会社を設立し総裁になった。○田中隆吉に対する尋問[第8回] 橋本欣五郎と満州事変との関係が述べられている。○田中隆吉に対する尋問[第9回] 真崎甚三郎と満州事変との関係が述べられている。○田中隆吉に対する尋問[第11回] 大川周明と満州事変との関係が述べられている。○田中隆吉に対する尋問[第23回]◇満州事変の計画者は板垣・石原、日本国内では橋本・大川・建川 南陸相は建川を満州に派遣し事変を阻止しようとしたが、 満州に派遣された建川は事変阻止の意志はなく、関東軍司令官に会わなかった。○田中隆吉に対する尋問[第26回]◇満州事変直前(1931年の春)兵営内に24センチ砲を二門すえつけた。 部外者には井戸を掘っていると偽り、9月10日に完了した。 事変勃発時に一門が支那軍の兵営をもう一門が飛行場を攻撃した。 大砲を送るは永田鉄山が提案した、大砲の射程距離は3km。
2006.05.27
コメント(0)
第一次上海事変の現地での白川義則大将による停戦(1932.03.03)は天皇の奉勅命令 ではなく、天皇が直接に白川大将に命じて白川はそれに従った。 奉勅命令は天皇から閑院宮参謀総長へ、参謀総長から現地司令官の白川へ命令された、 其の命令とは別に参謀総長を飛ばして天皇が直接白川に停戦を命じ、 閑院宮は白川の停戦を非難する事になる。 上記は「昭和天皇独白録」に於ける「上海事変」に対する昭和天皇の主張、 以下の内容が続く 白川義則大将は1932年5月26日に死亡、白川の死亡時に昭和天皇は未亡人に歌を送った。 この歌の話を松岡洋右が知っていて外相時代に南京の本多熊太郎に対して、 軍を抑えろの意味の御言葉を頂きたいと天皇に願い出たが、 木戸内大臣が本多の様なお喋りにはよくないと云うので与えるのは止めた。注)白川義則大将は1932年4月29日の朝鮮人によるテロで重傷を負った為5月26日に死亡、 上海公使の重光葵は同テロによる負傷で右脚を失っている。●重光葵は「昭和の動乱(上)」にて上海事変の停戦交渉を記述している、以下その概要 白川大将は停戦命令を発し停戦が行われたので、 1932年3月3日の国際連盟総会は無事に済んだ。 3月上旬から5月初めまで続けられた停戦協定の交渉の全権は統帥権の問題として、 植田師団長が主権全権となり、重光葵は次席となるが、 各国と支那側は重光葵と交渉を進めた。 停戦協定の成立は野村海軍司令長官の理解ある支持と、犬養首相・芳沢外相が派遣した 松岡洋右政友会代議士の援助に負う事が多かった。 停戦協定が成立の域に達した4月29日の天長節に閲兵式が白川大将の下に行われた。 朝鮮の左翼独立党金九一派の尹奉吉は爆弾を投じ河端民団長・白川大将は遂に死亡、 野村司令官・村井総領事・植田師団長・民団書記長は重症、野村は片目を喪う。 領事館勤務の少女も一眼を喪った、重光葵も重症を負った。 重光葵は病院より停戦協定の交渉を続け、5月5日に停戦協定は成立した。 署名後、手術台が運び込まれ重光葵の一脚は切断された。注)1945年9月2日のミズーリー号での降伏調印式に重光葵外相は梅津参謀総長と共に 日本側全権として調印した。 重光葵は極東国際軍事裁判ではA級戦犯として禁固7年の判決を受け、 1950年11月21日に恩赦で仮釈放、第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務めた。注)1941年の日米交渉は松岡洋右(外相)・野村吉三郎(海軍大将・駐米大使)により ルーズベルト大統領・ハル国務長官と行われた。〓勝手な解釈〓 「昭和天皇独白録」の記述では、 天皇は国際連盟協調で上海事変の早期収束を望んだが、 閑院宮参謀総長は拡大を望み、国際連盟との決別を視野に入れていた事を推察する。 (あくまで昭和天皇の主張を基にしての推察) 1931.09.18:満州事変 1931.12.23:閑院宮は参謀総長に 1932.01.28:上海事変 1932.03.01:満洲国の建国 閑院宮を参謀総長にしたのは、満州事変の早期収束を目指した為と思えるが、 「独白録」では閑院宮の陸軍はさらなる拡大を目指していた事になる。 昭和天皇が白川司令官に対し閑院宮経由と直接では異なる内容の命令を出していた事 等から、昭和天皇の主張に納得できない。 昭和天皇は第一次上海事変の拡大を防いだ白川義則大将の未亡人に歌を送ったが、 支那事変時に於いての松岡洋右外相の要望である南京の本多熊太郎に 「軍を抑えろの意味の御言葉を頂きたい」 に関しては、 「木戸内大臣がお喋りにはよくないと云うので与えるのは止めた」 となっている。 昭和天皇の主張は「第一次上海事変」「支那事変」拡大に反対だったであり、 松岡洋右外相も同様に拡大反対だった事が判る。 昭和天皇が拡大反対であった証拠(「歌」)が「第一次上海事変」には存在するが、 「支那事変」では同様の証拠が木戸内大臣の反対で存在しない事を述べている。 「第一次上海事変」の拡大阻止は、白川大将によるものが大きいと思えるが、 昭和天皇の直接指示のみで行われたかは疑問で、 拡大反対派の力(現地では重光葵)も大きかったと思う。 「昭和天皇独白録」には「張作霖爆死の件」「上海事変」の項はあるが、 「満州事変」はなく残念、公式には「関東軍へ勅語」にて追認した形を取っている。 「独白録」の「226事件」の記述では「満州事変」関連の以下の記述がある。 「参謀本部の石原莞爾からも町尻武官を通じ討伐命令を出して戴きたいと云って来た、 一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人であり乍ら この時の態度は正当なものであった。」
2006.05.23
コメント(0)
●FFXII 「FFXII」を終了(完全終了ではない)、悪くはないが感動がイマイチで爆発しない。 物語の最後の場面では、演出に不必要な要素を感じて感動が減少する。○悪いと思う点 パンネロのCV、結局慣らされてしまうが、わざわざ下手なCVを選ぶ意図が解らない。 魅力的な登場人物が少ない、素晴らしいキャラクターとなる可能性を潰している。 (特に「アーシェ」に関しては、良くなる可能性があったと思えて残念) 焦点が絞り込めていない、一つの世界の国家間の興亡史の一断面ではあるが、 其々の国家が明確に表現されておらず感情移入しずらい。 物語の密度が薄い、各人・各国のエピソードが少ない、世界観が明確になっていないのか? 結局、国々の興亡に対して数名の人間が剣と魔法でどの程度の影響を与えられるかというと、 権力と軍事力を持たせないと大した事はできず、テロ・スパイ・泥棒行為になってしまう。 物語にリアリティーを持たせようとするとジレンマに陥る事になったのではと推察する。○良いと思う点 世界が広い、これだけですごいと思ってしまう。 映像はすばらしい。(「X」や「X-2」との比較をきっちりしていない為に適当な評価) ゲームの質感がすばらしい。 映像以外の人間の表情もそれなりにあり、評価できる。 「STARWARS」「デューン/砂の惑星」等に影響されていると思えるが、しかたがない。 (彼方此方から良いところを取っている様な気がするが、それで成り立っている) 合格点だと思う、FFには期待してしまう、更なる高みを望みたい。●FFXIII 「FFXIII」はPS3で発売される、E3のTrailerでは期待できる内容になっていた。 SQUARE-ENIXのサイトではファイルは「swf」ファイル、今後多用されるのだろうか。 Trailerでは、戦闘者は一人、視点に3Dを加味したスピード感はすばらしい。 映像以外の表情は目と唇の附近だけの動きで済ましているように思えて気になる。 「FFXII」と比べてハードも変わり進歩が大きい筈だが、表情に関しては画期的な向上ではない。 (手法が変わったが効果が出ていないような感じで良くなっていくようには思える) 「FFX-2」での映像ではユウナとティーダが殺害されるシーンがあるが、 ユウナの表情はとんでもなく素晴らしい、「XII」「XIII」でも越えれないのかと思う。 「セフィロス」の様な存在感のあるキャラクターを生み出し、 物語的にはリアリティーとファンタジーのギリギリのせめぎ合いを見せてほしい。 何しろ、騙されたくて仕方がないのだから、説得力のある「騙し」をお願いしたい。
2006.05.22
コメント(0)
『満州制圧と停戦協定』 満州国は1932年3月1日に建国宣言を行い、1934年3月1日には溥儀は皇帝となる。 国際連盟は満州国を承認しなかった。 1933年3月27日、大日本帝国は国際連盟脱退を通告した。 10月にはナチス・ドイツも脱退、1934年9月18日にはソ連が国際連盟に加入した。 以下は「満州の南西部」と「停戦協定」について、 「太平洋線への道-3/朝日新聞」をベースとした。 熱河省は満州の南西に位置し万里の長城を挟んで関内である河北省がある。 山海関は長城の東端に当たり、海側で中国を関内と関東に分ける地点。 熱河省は軍閥である湯玉麟の支配下、熱河省の財源はアヘンで満州方面に出されていた。 中国を満州・華北・華中・華南・西域に分けると、 日本が満州で止まるのか華北・華中・華南にも手をのばすのかは大きな違い。 1932年4月に第八師団(弘前)が満州に渡り遼西(遼河の西)に配置された。 朝陽寺事件が起こり、7月末には関内にいる張学良軍の内の約4万が熱河省に入る。●山海関事件(1932.10.01、12.08、1933.01.01) 第一回と二回は現地で解決した。 第三回は日本側が鉄道路線に手榴弾を投げ中国軍の仕業として、 中国側に四項目を要求、結局中国側は受諾。 山海関の南門の引渡しに際して、 日本側は中国側からの手榴弾により3名の死傷者が発生したと述べ、 中国側は引渡しが未解決のうちに日本軍が攻撃を開始したと述べる。 日本軍(陸海軍)は1月3日に山海関を占領した。 中国側は国際連盟に提訴、北清事変に関する議定書署名国に宣言を発表、 このアピールは列強の具体的な行動を呼び起こさなかった。●熱河作戦(1933.02.23) 日本軍(第六師団・第八師団・混成第十四旅団・混成第三十三旅団)は 熱河省は満州国内の問題とし、長城を越えて中華民国の領域である河北省には 侵攻しない事を昭和天皇(大元帥陛下)の御懸念として内訓する。 日本軍は熱河省から長城を超えるが、昭和天皇の意向で関内から撤退する。 5月7日から第六師団方面、11日から第八師団方面の関内作戦が始まり、 停戦の交渉が本格化する。●国際連盟脱退の通告(1933.03.27) 「リットン報告書を元にした勧告案」を何故日本が拒否し国際連盟を脱退したかは謎、 首相斎藤実・元老の西園寺公望は国際連盟を脱退しない方法での決着を望んでいた。 「昭和天皇独白録」では、 昭和天皇はリットン報告を鵜呑みにするつもりだった、牧野は賛成し西園寺は反対、 反対理由は閣議がはねつけると決定した以上は反対するのは面白くない、 昭和天皇は西園寺の反対で自分の意志を通す事を思いとどまった。 陸軍は満州国の存続(国際連盟脱退)を望んでいる、閣議決定が天皇により覆されると 元老・宮中グループへの暗殺という圧力が増大する。 5.15事件前後から2.26事件の時期、元老・特権階級の殺害計画が多発している。 牧野は圧力に負けず昭和天皇の主張を支持、西園寺は冗談ではないの気持ちの表れか、 天皇の主張が通っていれば、牧野・西園寺は殺害されていたかもしれないが、 満州国は解消され自治領となり、日本は国際連盟を脱退していない事になる。●塘沽(タンクー)停戦協定(調印:1933.05.31)の概要 中国軍は延慶・昌平・高麗営・順義・通州・香河などの以西・以南より撤退 日本軍は撤退線の状態を飛行機その他で確認する 日本軍は長城線に帰還する 長城線とその南の帰還線の間の治安維持は中国側警察機関が行う 停戦協定後、中国に於ける日本の傀儡・親日政権は華北・華中にも発生する。 1932年12月12日のソ中国交回復、1936年12月12日の西安事件、 中国は内部の共産勢力の掃蕩を第一義としていたが、排日を優先する事になる。 米・英による蒋介石への援助が行われるのも大きいと思われるので今後調べて行きたい。
2006.05.21
コメント(0)
『リットン報告』 リットン報告書が1932年11月21日に国際連盟理事会に提出され、 12月6日からの特別総会では結論なし、12月9日には「19ヶ国委員会」に移される。 委員会は12月15日に決議・理由書を日中代表に内示したが日本は、 「満州国の解消・日本の満州に於ける特殊な立場を認める」に不同意で会議は中断。 「19ヶ国委員会」は1933年1月26日に再開したが、日中協定実現の望みが薄いと判断 2月14日には国際連盟規約15条4項に基づく報告・勧告への草案の起草に向う。○「国際連盟規約15条4項」│紛争解決に至らざるときは、連盟理事会は全会一致又は過半数の表決に基づき│当該紛争の事実を述べ、公正且適当と認むる勧告を載せたる報告書を作成し│之を公表すべし。└───○「19ヶ国委員会」の「国際連盟規約15条4項」に基づく報告と勧告の概要│満州は中国の主権のもとにある。│日本の行動は、自衛とはみなされない。│満州国独立は、自発的、純真な独立運動とは認められない。│連盟規約、不戦条約、九ヶ国条約の規定および連盟における諸決議が尊重され、│「リットン報告の十原則」が適用されるべきである。│満州における中国の主権を認め、日本軍の鉄道沿線内撤収、│総会の任命する委員立会いのもとにおける日中間の交渉を勧告する。│日本以外の連盟国は「満州国」を承認せず、│九ヶ国条約の署名国は必要と認めるときは同条約の発動を提唱する。└───○「リットン報告の十原則」│1.日支及日本双方の利益と両立すること│両国は連盟国なり各自は連盟より同一の考慮を払はるることを要求するの権利を有す│両国か利益を獲得せさる解決は平和の為に稗益する所なかるへし│2.「ソヴィエト」連邦の利益に対する考慮│隣接国中の二国間に於て第三国の利益を尊重することなくして平和を講することは│公正若くは賢明ならさるへく将又亦平和に資する所以にも非さるへし│3.現存多辺的条約との合致│如何なる解決と雖国際連盟規約、「パリ」条約及│「ワシントン」九国条約の規定に合致するをことを要す│4.満州に於ける日本の利益の承認│満州に於ける日本の権益及利益は無視するをことを得さる事実なり之を承認せす且│満州との日本の史的関連をも考慮に入れさる如何なる解決も満足なるものに非さるへし│5.支那及日本間に於ける新条約関係の設定│満州に於ける両国各自の権利、利益及責任を新条約中に再ひ声明することは│合意に依る解決の一部たるへきものにしてにして将来の軋轢を避け│相互の信頼及協力を回復する為に望ましきことなり│6.将来に於ける紛争の解決に対する有効なる措置│叙上より来る当然の帰結として将来発生することあるへき比較的重要ならさる紛争の│迅速なる解決を容易ならしむる為措置を為すの要あり│7.満州の自治│満州に於ける政府は支那の主権及行政的保全との一致の下に東三省の│地方的状況及特質に応する様工夫せられたる広汎なる範囲の自治を確保するが如き│方法によりて改めらるることを要す│新文治制度は善良なる政治の本質的要求を満足する様│構成せられ且運用せられさるへからす│8.内部的秩序及外部的侵略に対する安全保障│満州の内部的秩序は有効なる地方的憲兵隊に依り確保せらるることを要し│外部的侵略に対する安全保障は憲兵隊以外の一切の武装隊の撤退と│利害関係国間に於ける不侵略条約の締結とに依り与へらるることを要す│9.支那及日本間に於ける経済的接近の促進│本目的の為両国間の新通商条約望まし斯かる条約は両国間の通商関係を│衡平なる基礎の上に置き且之を両国間の改善せられたる政治関係と│合致せしむることを目的と為すことを要す│10.支那の改造に関する国際協力│支那に於ける現時の政治的不安定は日本との友存関係に対する障礙にして且│(極東に於ける平和の維持は国際的関心事項たるを以て)世界の他の部分の│憂惧なると共に右に列挙したる条件は支那に於て強固なる一中央政府なくしては│実行すること能わさる所なるを以て満足なる解決に対する窮極の要件は│故孫逸仙博士か提議せる如く支那の内部的改造に対する一時的の国際協力なりとす└─── 1933年2月24日の国連総会に於いて「リットン報告書を元にした勧告案」が採択された 賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)、欠席12 国際連盟脱退は枢密院の議を経て天皇が裁可し、1933年3月27日に連盟に通告された。 (以上は「昭和の宰相-2」をベースに作成)
2006.05.19
コメント(0)
『5.15事件とその後』 1931年3月20日から1933年3月27日までの二年間の間に、 三月事件・満州事変・十月事件・第一次上海事変・血盟団事件・5.15事件が絡み合い 満州国の承認・国際連盟脱退と進んでいく。 5.15事件が発生した1932年5月15日頃の陸軍は、 満州事変に関しては「関東軍へ勅語」で追認され、満州国は建国宣言し、 「満蒙問題処理方針要綱」が閣議決定されて陸軍の要望が国策となり、 上海事変は停戦協定が結ばれて一息ついた、問題は日本が満州国を承認していない事。 一方海軍は、 満州事変では陸軍の協力要請を断り、上海事変では陸軍の助力に頼り良い所がない。 5.15事件は海軍の主導で陸軍士官候補生と民間の右翼が参加し行われた。 犬養首相は憂国的な思想により首相だった理由で殺害された、 西園寺・牧野は殺害するリストに名前が挙がるが、2.26事件でも殺害されない。 特権階級は存在しているが元老・藩閥による日本の運営が、官吏による運営に移る。 2.26事件後に発足する内閣の首相たる広田弘毅は外務官僚出身で元士族でさえない、 武士は6%ほどだったから、94%の半分にも首相になれる可能性が出てきた。 戦後、長州藩士を先祖に持つ岸・佐藤が首相になるのは単なる偶然なのか。 もっと調べてみたいのが、森恪と軍部・伏見宮と陸軍の関係。●「5.15事件被告減刑運動の概説 内務省警保局 1933.8.21」の抜粋と概要 (「資料 日本現代史-9」/大月書店 より) 事件から一年後の1933年7月下旬から陸海軍被告の公判が開廷され詳細が新聞紙などで 一般に知らされると一般民衆は、 「被告らの行為は社会の実情に対して錯誤・独断があるが、 私心なく愛国的至情がでたもの」 として、一般民衆に嘆願運動が全国的に発生した。●政党政治の崩壊(「重臣達の昭和史(上)」をベースとした) 西園寺公望は5月19日に「未曾有の警護」の中を原田・近衛を従え上京し、 駿河台の自邸へ入る。 鈴木侍従長(2.26事件では重傷・終戦時の首相)が天皇の後継内閣の注文を伝えた。 (「昭和の宰相-2」では宮廷グループが作った条件) 1.首相は人格の立派な者であるべし。 2.首相の人格によって現在の政治の悪弊を正し陸海軍の軍紀を粛清する必要がある。 3.協力内閣か単独内閣かということは問題ではない。 4.ファッショに近き者は絶対に不可也。 5.憲法を護ることが出来なければ、明治天皇に相済まない。 6.外交は国際平和を基準として、国際関係の円滑に努めること。 7.事務官と政務官の区別を明らかにし、綱紀を粛正すべし。 犬養毅首相は政友会総裁だった、新政友会総裁の鈴木喜三郎が首相と思えるが、 森恪(政友会・内閣書記官長)は平沼騏一郎(枢密院副議長)を押し、 陸軍は政党内閣に反対、永田鉄山(参謀本部第二部長)は原田に伝える、 「もし政党による単独内閣の組織せられむとするが如き場合には、 陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局、組閣難に陥るべし。」 青年将校等の殺害標的は特権階級の西園寺・牧野、政党政治家、財閥、天皇側近、 下手な選択を行うと自分達が殺される状況が存在する。 西園寺公望は政党政治に日本を託さず、斎藤実海軍大将を首相とした、 斎藤内閣は挙国一致内閣として発足した。 政友会からは高橋是清(大蔵大臣)、鳩山一郎(文部大臣)、三土忠造(鉄道大臣) 民政党からは山本達雄(内務大臣・元日銀総裁)、永井柳太郎(拓務大臣) 以外は官吏出身者がほとんど、次期内閣の岡田内閣では2.26事件が起る。 斎藤内閣が軍部(主に陸軍)の主導する国家運営の防波堤になったかは、勉強不足。 しかし斎藤実が2.26事件で殺害されている事は防波堤に成っていたの感を持つ。 犬養毅(政友会)後の首相は 斎藤実(海軍大将)・岡田啓介(海軍大将)・広田弘毅(外務官僚)・ 林銑十郎(陸軍大将)・近衛文麿(公爵)・平沼騏一郎(司法官僚)・ 阿部信行(陸軍大将)・米内光政(海軍大将)・近衛文麿(公爵)・ 東條英機(陸軍大将)・小磯國昭(陸軍大将)・鈴木貫太郎(海軍大将)・ 東久邇宮稔彦王(皇族・陸軍大将) 官吏出身者が外務1・司法1・陸軍4・海軍4 華族出身者が1(近衛文麿の第一次~第三次内閣) 皇族出身者が1(東久邇宮稔彦王・陸軍大将) 官吏の運営する日本が出現する。●「新装版 昭和史発掘-3/松本清張」による襲撃とその後(抜粋及び概要)○襲撃 海軍将校の主導の下、陸軍士官候補生が参加して行われた、 首相官邸襲撃・内大臣邸襲撃・政友会本部襲撃・警視庁襲撃・日本銀行襲撃では、 首相官邸では犬養首相に重傷を負わせ(その後死亡)、警備の巡査を1名死亡させた、 内大臣邸襲撃では邸内に入らず手榴弾を投げ込み、警備の巡査に発砲し重傷を負わせた。 警視庁襲撃は警視庁書記と読売新聞記者が撃たれた。 政友会本部・日本銀行襲撃では手榴弾を爆発させて終わった。 襲撃終了後、海軍将校・陸軍士官候補生は東京憲兵隊本部に自首した。 民間の襲撃者の行動は、 奥田秀夫(血盟団残党)は三菱銀行に手榴弾を投げ逃走。 愛郷塾頭橘孝三郎の弟子の後藤国彦が指揮をとり東京市内の変電所数箇所を襲撃、 帝都暗黒化はできず襲撃後逃走、橘孝三郎は満州へ逃れた。 愛郷塾の川崎長光は西田税に発砲し重傷を負わせた。○陸軍大臣官邸 事件夜に陸軍大臣官邸に菅波三郎・大蔵・村中・栗原・朝山中尉が押しかけ、 「この機会を利用して戒厳令を施行し、軍の監視下に協力内閣をつくる。 これはインナーキャビネット的な性格で、やがては森格に引き渡す」 と主張した。 荒木陸相は、真崎甚三郎参謀次長に対応させ、真崎は自重を説得するうまくいかない、 真崎は永田鉄山(少将・参謀本部第二部長)等に説得を任せ、 菅波たちは第一師団に引き渡された。 この時小畑敏四郎(少将・参謀本部第三部長)は菅波たちに、 「今夜の事件は残念至極だ。もっといい方法で革新の実をあげるよう森格らと 着々準備をすすめていたんだ。すべては水泡に帰した」 と述べた。○判決◇海軍軍法会議:「叛乱罪」として禁固15年が1人、禁固13年が1人、禁固10年4人、 「反乱予備罪」として執行猶予が4人◇陸軍軍法会議:「叛乱罪」で11名が禁固4年(求刑8年)◇民間裁判:橘孝三郎以下17名は爆発物取締罰則違反・殺人・殺人未遂 橘孝三郎は無期懲役、後藤国彦は懲役15年、川崎長光は懲役12年、 大川周明・頭山秀三・本間憲一郎は爆発物取締罰則違反・殺人・殺人未遂・恐喝 で起訴され上告、大審院で大川は禁錮15年・頭山は禁錮3年・本間は禁錮4年。○新聞の社説 大阪朝日・読売・大阪毎日は5.15事件のテロ行為に対して否定的な見解を述べる。○金◇北一輝の生活費は年に2万円三井から出ていた。◇北一輝の怪文書によると、牧野宮相や宮内庁の高官が北海道の御料林払い下げに 多大な収賄をした。 大川周明が金銭的に不自由していないのは牧野の金が流れているの噂がたった。 大川は牧野襲撃に対して襲撃中止を間接的に指示したとされている。○その後のテロ未遂◇大川周明の神武会会員による斎藤首相暗殺謀議は 兇器購入準備金100円で京都伏見遊郭で遊興したりで発覚し検挙、 首謀の今牧嘉雄は懲役1年6ヶ月・執行猶予2年。◇「天行会事件」は児玉誉士夫などにより5.15事件と同様の計画がされた、 事前に発覚し、児玉誉士夫・頭山秀三が捕らえられた。◇「神兵隊事件」は天野辰夫・前田虎雄による政府転覆計画で、 「秩父宮」を首班とした昭和維新の断行を計画したが検挙された。 計画は警視庁と首相官邸に爆弾を投下し、地上部隊が首相・牧野内府などを襲撃、 参加人数は「大日本生産党」・「愛国勤労党」などから300人に達していた。
2006.05.16
コメント(0)
『テロとクーデター』○1931年から1932年は 大陸に於いては、 満州事変・第一次上海事変・満州国建国・満州国の承認と進んでいる。 1931年から1936年の日本では殺害事件と殺害計画が、 3月事件・10月事件・桜田門事件・血盟団事件・5.15事件があり、 小林多喜二事件・神兵隊事件・士官学校事件・相沢事件・2.26事件 と続く。○1921年から1930年までにも、 原敬首相暗殺・関東大震災時の甘粕事件・亀戸事件・王希天虐殺事件、 虎の門事件・浜口雄幸首相狙撃事件 上記のように1921年~1936年に於いて、 昭和天皇が狙われたのは虎の門事件と桜田門事件、 殺害・重傷を負わされた首相は原敬・浜口雄幸・犬養毅、 2.26事件の岡田啓介首相は殺害されなかったが、運がよかっただけ。 傾向として政党政治家と財閥関係者が殺害され、 天皇の側近者は海軍関係者が殺害されるが西園寺公望・牧野伸顕は殺害には至らない。 陸軍教育総監の渡辺錠太郎が2.26事件で殺害されているのは、 前教育総監の真崎甚三郎の意志が存在した(或いは誘導した)と思える。■5.15事件に至る事件(「ドキュメント昭和史-2」よりの概要)●「天剣党事件より十月事件まで/警視庁」よりの概要○天剣党事件概要 1927年9月元陸軍騎兵少尉西田税は天剣党を組織する目的で村中孝次少尉など約40名に 「天剣党および天剣党規約」を配布した。 内容は大アジア主義を前提とした現行諸制度の改造を決行すべきを連ねていた。○三月事件概要 北一輝・清水行之助・大川周明等が計画する宇垣大将を中心としたクーデターに、 宇垣一成大将は共鳴し計画を進めた。 浜口首相が狙撃され重態となり周囲の情勢から次期首相が宇垣になる確信ができた為 宇垣大将は陸相の地位を利用して軍隊を動員してクーデターを行おうとしていたが、 計画は中止された。 (次期首相は宇垣ではなく若槻になった)○四月兵火事件の概要 1930年4月のロンドン会議で浜口内閣の閣僚が宮中府中の重臣等と結託し、 加藤寛治軍令部長の上奏阻止により統帥権を干犯した。 大岸頼好中尉が檄文(兵火)を作成し同憂の青年将校間に配布、 青年将校はますます動揺結束した○十月事件の概要 動機はロンドン会議の統帥権干犯、浜口内閣以来の財政経済政策の失敗、 政府首脳・宮中府中重臣の軍部否定の言動、軍部に対する昇給停止・減俸・軍縮など、 腐敗堕落せる政党政治の打破、 満蒙問題・万宝山事件・中村大尉惨殺事件・満州事変の衝撃。 1931年9月21日の満州事変派兵の臨時閣議では幣原外相が南陸相に 満州事変は陸軍の謀略と攻撃し、支那正規軍の鉄道爆破その他に対する捏造情報を 具体的に論述し、元老重臣は満州事変に関する出動問題に不都合と称したと述べた等。 1931年10月上旬頃より青年将校は昭和維新断行に傾く、 大川周明は概要を知り警視総監(大川の高等学校時代の同期)等に不穏計画を密告し、 政治的に利用悪用しようとする気配があった。 関東軍青年将校と連絡を取り重大化しつつあった。 10月14日には急進的青年将校の保護結束、将校の転地等で事件を未然に防いだ。 「急進的青年将校の配布した檄文」 袞竜の袖にかくれ顕栄に驕り皇威をけがし奉る君側小臣の臣たる牧野内府、 一木宮相等重臣大官、立憲政治に名をかりて内治外交をもてあそび私人私党のため 国家国民を政争の具に供し来たれる政治家ならびに政党、およびこれらと結託して 国利民福を犠牲として不浄の資金を投与してこれを懐柔しあるいは操縦し 国家を私断し来たれる財閥、興論の名においてこれを迎合し欧州流行の浮薄なる思想を 直訳詳細し日本自ら卑侮し来たれる思想家、大新聞等、亡国不臣を掃蕩清算して 国内改造を断行し、更に進んでその憤激を外敵掃蕩に集中し、 昭和維新を成就せざるべからず。」●和田日出吉「三井・三菱献金帳」(『日本評論』1936年11月号)の概要 1932年3月から1936年までの期間の二大財閥(三井・三菱)の各種の寄付行為は 直接・間接の寄付総額は三井が約6000万円、三菱が1500万円に達すると推定。 その多くが軍事関係への寄付で、右翼運動家へも資金が流れた。 反財閥下の右翼思想の中に、 「ぼろい搾取をしているのだから吐き出すのは当然、吐き出させる権利がある」 が充満し社会のイニシアチブを握っている、寄付行為は強要されやすく、 財閥もまた反財閥の風当たりの防衛手段にする。■血盟団事件●「血盟団事件論告概要/木内曽益」(「ドキュメント昭和史-2」よりの概要)○いわゆる血盟団事件とその社会的影響◇井上準之助殺害 1932年2月9日午後8時頃、小沼正は民政党の重鎮で元大蔵大臣の井上準之助を 東京市の尋常小学校通用門内にて拳銃で射殺した。◇団琢磨殺害 1932年3月5日午前11時25分頃、菱沼五郎は三井合名会社理事長団琢磨を 東京市日本橋区駿河町三井銀行大玄関前にて拳銃で射殺した。 被告人の小沼正と菱沼五郎は同志、三月事件・十月事件に関係。○検挙の経路ならびにその顛末 小沼正と菱沼五郎は殺人現場で直ちに逮捕され取調べの結果、 井上昭(井上日召)を中心とした一派による政党・財閥・特権階級の代表者の 暗殺計画が判明し、一味を検挙した。○本件事犯の原因動機ならびにその目的 三月事件・十月事件に端を発し、 支配階級・特権階級が結託し私利私欲に没頭して国策・外交を誤り、 農民の疲弊を顧みない、 政党・財閥・特権階級に対して非合法の直接行動により一挙革新の放火を揚げて、 政党・財閥・特権階級と一般国民の覚醒を促し国家の革新を期する。○本件事犯の計画内容、ならびにいわゆる5.15事件との関係 十月事件の後を受け、井上昭が盟主となり海軍同志を加えて 1932年2月21日の紀元節にての政党・財閥・特権階級の暗殺と国家革新の烽火を計画 上海事変の為に海軍同志の多くが出征し計画が変更され、 井上昭側と海軍側は分離行動をとることになった。 第一陣は井上昭側による一人一殺の下に政党・財閥・特権階級の巨頭の暗殺。 第二陣は海軍側が陸軍側同志と提携して集団的直接行動による暗殺を計画。 第一陣の井上昭側による暗殺目標は、 政界:犬養毅・床次竹二郎・鈴木喜三郎・若槻礼次郎・井上準之助・幣原喜重郎 特権階級:西園寺公望・牧野伸顕・伊藤巳代治・徳川家達 財界:団琢磨・池田成彬・木村久寿弥太 武器は故海軍少佐藤井斉(当時は海軍大尉)が大連にて入手したブローニング拳銃八挺 海軍少尉伊藤亀城が入手した同型拳銃一挺、海軍大尉鈴木四郎などから預かった二挺 を使用する事とした。 井上準之助・団琢磨の殺害後に同志が検挙・井上昭は出頭、 海軍側同志は第二陣として5.15事件を決行した。○井上昭の本件事犯に及ぼしたる思想的影響 井上昭は国家革新には非常手段による現状打破を第一義とし、 破壊担当者が自己の手での建設まで考える事を否定。 井上昭は暴力的革新の担当者をもって任じ、各自捨石となり決行された。○被告人の観たる現下の国情ならびにその心情 政党・財閥・特権階級が結託し私利私欲を図り国利民福を顧みず腐敗堕落の極と主張。 例証として、 続出する疑獄事件、1931年末のドルの思惑買い、ロンドン海軍条約に関する統帥権干犯 を挙げている。 帝国議会は政権欲に燃ゆる堕落政治家と利権欲に渇する背徳議員の乱闘場と化し、 かつ陰謀是れ事とし私利の為には国家の利害を無視し、 政敵を倒すためには国家の名誉信用をも蹂躙して顧みず、 真に国政を議するの誠意と資格とを欠く者多く、 彼らの手に国政を委ねるのは国家の滅亡を導く。○本件事犯と国法 被告人等の行為が憂国の至情より出た事は認めるが、手段は不当不法で、 国法に従い厳重処断すべきと信じる。●井上日召の記述(「文藝春秋」1954年7月臨時増刊号よりの概要) 井上日召が十人の暗殺実施者を決め、 西園寺公望・牧野伸顕・団琢磨・井上準之助ら20人の殺害を計画した。 前大蔵大臣井上準之助(1932.02.09)、三井合名会社理事長団琢磨(1932.03.05)の 殺害は成功し、池田成彬の殺害は失敗した。 「一人一殺」として、井上日召と其々の暗殺実施者(第一と第二の目標があった) 以外は暗殺する目標を知らなかった。 計画は警視庁の知る所となり井上日召は自首、血盟団の主要メンバーは逮捕された。 井上日召は1934年に無期懲役の判決を受け入所、1940年に出所した。
2006.05.13
コメント(0)
5.15事件は満州国建国宣言(1932.03.01)と日本の満州国承認(1932.09.15)に 挟まれた、1932年5月15日に行われた。 犬養毅首相は殺害され、以降の総理大臣は官吏と華族と皇族から選ばれる事になる。 国民が選挙権・被選挙権を持つ衆議院議員による政党政治は行政に対して力が弱まる。 簡単に「5.15事件」の概要を纏めて、次回にもう少し突っ込んだ内容を調べたい。●5.15事件(1932年5月15日)○「昭和史/岩波書店」による5.15事件の概要││5月15日の午後5時半に海軍将校が自動車で首相官邸にのりつけて│犬養毅首相(政友会)を射殺。│別働隊は牧野伸顕内大臣邸・警視庁・政友会本部・日本銀行に手榴弾を投げ、│憲兵隊に自首した。│(三菱銀行に対しも襲撃している)││同夜に農民決死隊は東京附近の変電所を襲ったが何の効果もなかった。│5.15事件の参加者は海軍青年将校・陸軍士官学校生徒・農民決死隊│(農民決死隊は農本主義者橘孝三郎の指導する茨城県の愛郷塾生よりなる)││大川周明らは資金6万円と武器とを供給した。││陸軍首脳部は戒厳令の布告と新聞報道の禁止を要求するが政府は容れなかった。└─────────○計画(5月13日決定)「新装版 昭和史発掘-3/松本清張」よりの概要││首相官邸襲撃:海軍将校・陸軍士官候補生による犬養毅首相(政友会)の暗殺│内大臣邸襲撃:海軍将校・陸軍士官候補生による牧野伸顕内大臣の暗殺│政友会本部襲撃:海軍将校・陸軍士官候補生による│三菱銀行襲撃:奥田秀夫(血盟団残党)による│警視庁襲撃:上記の海軍将校・陸軍士官候補生による│変電所襲撃:橘孝三郎・農民決死隊により変電所6ヶ所を襲撃し帝都を暗黒にする│西田税暗殺:川崎長光・血盟団残党による└─────────○襲撃事件に関する件 陸軍次官 (1932.5.15)「資料 日本現代史9」より││次官より各軍師団参謀長宛(暗号)│海軍士官5名陸軍士官候補生11名、本15日午後五時半首相、内府官邸、警視庁、│政友会本部に対し直接行動に出で首相は負傷せり(以上掲載禁止)│市内一般の状況目下の処さしたる動揺なし、│此際部下の掌握に関し特に配慮を乞依命└─────────注)5.15事件を行った海軍と陸軍の関係者は 海軍は5人の尉官と1人の予備役 陸軍は11人の士官候補生と1人の士官学校退校者。○犬養首相の暗殺 「西園寺公と政局-2」p287より││首相官邸で犬養首相が殺害された時、青年仕官は総理を拳銃で脅かしながら、│張学良から金をもらった一件を難詰しようとした時に、犬養首相は│「その話なら、話せば判るからこっちに来い」│と言って日本間に椅子・テーブルを置いた応接室に連れて行こうとした。│その時に、裏から廻った一隊が現れて発砲を促し凶行を遂げさせた。└─────────●簡単年表1921.11.04:【原敬首相暗殺】国鉄職員により東京駅で殺害される1923.09.01:関東大震災、【甘粕事件】【亀戸事件】【王希天虐殺事件】1923.12.27:【虎の門事件】難波大助は摂政裕仁親王を銃で撃った(裕仁親王は無傷)1928.06.04:【張作霖爆殺事件】関東軍参謀の河本大作大佐を首班とする殺害1931.03.20:【3月事件】陸相宇垣一成を首相に擁立するクーデター未遂事件1931.09.18:【柳条湖事件】、中国は国際連盟に現状復帰を求めた1931.10.21:【10月事件】荒木貞夫陸軍大将を首相に擁立するクーデター未遂事件1932.01.08:【桜田門事件】昭和天皇爆殺未遂事件、犯人は李奉昌1932.01.18:上海公使館付陸軍武官田中降吉少佐による日本人僧侶の殺害->第一次上海事変1932.02.09:【血盟団事件】前大蔵大臣井上準之助の暗殺1932.03.01:満州国建国宣言(執政は溥儀)1932.03.05:【血盟団事件】三井合名会社理事長団琢磨の暗殺1932.05.15:【5・15事件】犬養毅首相暗殺、海軍将校と陸軍士官学校生徒などによる1932.09.15:日本は満州国を承認する1933.02.20:【小林多喜二】特高課員に逮捕され築地署で拷問により虐殺、警察は心臓麻痺と主張1933.07.11:【神兵隊事件】大日本生産党、愛国勤労党のメンバーによる要人暗殺計画1934.11.20:【士官学校事件】皇道派青年将校によるクーデター未遂事件1935.08.12:【相沢事件】相沢三郎中佐が永田鉄山(軍務局長)を陸軍省軍務局長室で斬殺1936.02.26:【2・26事件】政府要人が殺害された。
2006.05.07
コメント(0)
『満州国の建国』(1932.03.01) 錦州占領(1932.01.03)により張学良の主な勢力は満州から追い出された、 関東軍は満州国建国へと向う。 当初満州国建国は関東軍と陸軍の一部によるものだったが、海軍・外務省に拡大し 1932年3月12日には「満蒙問題処理方針要綱」が閣議決定された。 少し時間を戻し、満州国建国への概要を調べてみる。 以下は「太平洋戦争への道-2/朝日新聞社」をベースに作成した。 満州事変勃発後の満州では、 吉林・ハルビン・奉天・◆南(◆はサンズイに兆)などに政権が誕生するが、 其々の政権は「親日で反張学良」とは言い切れない。 関東軍は奉天・長春の占領後、南満州鉄道の沿線を離れ、吉林を占領(1931.09.21) ハルビンに対しては参謀本部は関東軍に出兵を取止め(1931.09.24)させた。 その後日本政府は第一次声明(1931.09.24)に於いて不拡大を表明し、 日本政府は満州に於いて何等領土的欲望を有しないと声明する。 国際連盟理事会決議(1931.09.30)では、日本政府の声明を認め、 支那政府による日本国民の安全・財産保護の責任を追うの声明を了承する。○1931年10月4日:関東軍は内外に声明を公表した。(抜粋とその概要)││いまや政権樹立の運動各所に発生し、庶民ひとしく皇軍の威力を謳歌するも、│旧頭首を推戴せんとすの風微塵もなし。│けだし積年軍閥私怨の横暴に憤慨せる結果に外ならず。│軍は政治外交に超然として専ら治安維持に任じ、│兵を養い静観を持しつつあり。│もとより軍により治安を維持せられある奉天城内に政権を樹立し、│或いはひそかにここに策謀するがごときは断じて容認せず。│しかれども満蒙在住三千万民衆のため、共存共栄の楽土を速やかに実現せんことは│衷心熱望するところにして、道義の上より見る時は速やかにこれが統一を促進するは、│けだし我が皇国が善隣の好誼を発すべき緊急の救済策なりと信ず。└──────── 関東軍は張学良の満州に於ける仮政府の錦州を爆撃(1931.10.08)し拡大を目指す。 陸軍中央部では1931年10月8日に「時局処理方策」を陸軍三長官会議で決定した。 (陸軍三長官:陸軍大臣・参謀総長・陸軍教育総監)○「時局処理方案」の満蒙に関する新政権樹立の根本方針││満蒙問題は支那本部より分離して満州に樹立せらるべき新政権と交渉し、│根本的解決を期す。│之が為、関東軍隷下部隊は概ね現在の姿勢を保持すると共に、治安の維持に任ず。│新政権樹立に至るまでの間、地方支那官民との折衝に依り、│なし得る限り既得権益の実現に努む。││新政権樹立に対しては、依然我官民不干与の方針を継続し、│且満蒙が支那本部より分離独立を期待するが如き我が意図は之を秘匿す。││支那本部所在の政権との間に於いて行う満蒙に関する交渉は、│支那本部と満蒙との一般関係事項に止め、満蒙自体の問題に関しては絶対に之を避く。└──────── 10月9日に南陸相は若槻首相に「時局処理方案」を陸軍の総意として提出。 関東軍では1931年10月24日に「満蒙問題解決の根本方策」が作られた。○「満蒙問題解決の根本方策」の方針││支那本土と絶縁し、表面支那人により統一せられ、│その実権を我が方の手裡に掌握せる東北四省ならびに内蒙古を領域とする│独立満蒙新国家を建設することを目的とし、│この間政権の迅速なる推移を促進するとともに、実質的には諸般にわたり、│我が方の経営を進め、確固不抜の基礎を確立する。└────────1931.11.09:「第一次天津事件」、土肥原賢二大佐は10日に溥儀を連れて天津を脱出 (土肥原賢二大佐は9月20日に奉天市長に就任している)1931.12.13:若槻内閣->犬養内閣1932.01.03:錦州政権(奉天から追い出された張学良政権の満州に於ける仮政府) のある錦州を日本が占領し、満州各地の政権は張学良と絶縁した。 1932年1月6日に陸・海・外の三省の関係課長は板垣大佐(関東軍参謀)に 「支那問題処理方針」を手交した。○「支那問題処理方針」(要綱の一項目目のみ)││満蒙はこれをさしあたり支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配地域とし、│逐次一国家たるの形態を具有するごとく誘導す。│右目的の為、満蒙各省政権の迅速なる確立安定をはかり、│ことに従来より一段積極的にこれを援助す。│成立せる各省の政権して逐次、連省統合せしめ、│かつ機をみて新統一政権の樹立を宣言せしむ。└────────1932.02.17:満州の各政権により東北行政委員会が設立された。1932.03.01:満州国の誕生(執政:溥儀)1932.03.12:「満蒙問題処理方針要綱」は「閣議決定/犬養内閣」された。1932.05.15:5.15事件により犬養首相は殺害され、斎藤内閣へ1932.09.15:満州国の承認(日満議定書による)●関連資料○満州国執政溥儀の関東軍司令官宛書簡 1932(昭和7)年3月10日 書簡を以て啓上候此次満州事変以来貴国に於かれては満蒙全鏡の治安を維持する為に 力を竭され為に貴国の軍隊及人民に均しく重大なる損害を来したることに対し 本執政は深く感謝の意を懐くと共に今後弊国の安全発展は必す 貴国の援助指導に頼るへきを確認し茲に左の各項を開陳し貴国の允可を求め候1.弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し其の所要経費は 総て満州国に於て之を負担す2.弊国は貴国軍隊か国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の 管理並新路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すへきことを承認す3.弊国は貴国軍隊か必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す4.貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任し其の他中央及地方各官署に 貴国人を任用すへく其の選任は貴軍司令官の推薦に依り 其の解職は同司令官の同意を用件とす 前項の既定に依り任命せらるる日本人参議の員数及参議の総員数を変更するに当り 貴国の建議あるに於ては両国協議の上之を増減すへきものとす5.右各項の趣旨及既定は将来両国間に正式に締結すへき条約の基礎たるへきものとす 以上 大日本帝国関東軍司令官 本庄繁 殿 大同元年3月10日 溥儀 花押『日本外交年表竝主要文書(下)』より┗━━━━━○満蒙問題処理方針要綱(1932.03.12:閣議決定/犬養内閣)1.満蒙に付ては帝国の支援の下に該地を 政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係に於て帝国存立の重要要素たるの 性能を顕現するものたらしめむことを期す2.満蒙は支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配地域となれる現状に鑑み 逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す3.現下に於ける満蒙の治安維持は主として帝国之に任す、 将来に於ける満蒙の治安維持及満鉄以外の鉄道保護は主として 新国家の警察及警察的軍隊をして之に当らしむ、 右目的のため之等新国家側治安維持機関の建設刷新を図らしめ 特に邦人を之か指導的骨幹たらしむ4.満蒙の地を以て帝国の対露対支国防の第一線とし外部よりの攪乱は之を許さす、 右目的の為め駐満帝国陸軍の兵力を之に適応する如く増加し 又必要なる海軍施設をなすへし、新国家正規陸軍は之か存在を許さす5.満蒙に於ける我権益の回復拡充は新国家を相手として之を行ふ6.以上各般の施措実行に当りては努めて国際法及国際条約抵触を避け 就中満蒙政権問題に関する施措は九カ国条約等の関係上出来得る限り 新国家の自主的発意に基くか如き形式に依るを可とす7.満蒙に関する帝国の政策遂行の為速に統制機関の設置を要す、但し差当り現状を維持す『日本外交文書』より┗━━━━━○日満議定書(1932.09.15:調印発表・公布)の概要 日本国は満州国が住民の意思に基づき自由に成立・独立した国家である事を確認した。 満州国は中華民国の有する国際約定は尊重する。 日本国と満州国は対外に領土権を尊重する。1.満州国は領内に於いて日本国・日本国臣民が有する一切の権利利益を確認尊重すべし。2.日本国と満州国は其々の脅威に対して共同で防衛する、日本国軍は満州国内に駐屯する。┗━━━━━
2006.05.05
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1