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野菜栽培 小井圡 実 ■安心・安全な作物を食卓に わが農園のある北軽井沢は標高1000メートルほどに位置し、夏秋野菜に適した場所です。 栽培しているのは、高原キャベツ、トウモロコシ、ジャガイモ、花インゲンです。中でもキャベツは柔らかいものがうちの特長で、生食のサラダにもぴったりです。また、トウモロコシは、メロンよりも糖度が“売り”です。 今の季節、まだ夜が明けぬ暗い時間から収穫が始まります。立派に育ったトウモロコシの収穫が終わると、今度は、今にもはじけそうに輝くキャベツの収穫です。消費者に最高の状態でおいしく召し上がっていただけるように、最適な時季を逃さず収穫することに心を配っています。 北軽井沢の地に父が入植したのは1951年(昭和26年)のことです。一帯は、過去の浅間山大噴火の影響で土地がやせており、父の代から土作りに取り組んできました。高原野菜のキャベツを育てることができるようになったのは、2代目になる私が農業高校を卒業した78年ごろからです。 父は、私が25歳の時、49歳の若さで病気のために急逝しました。そのため、父と共に農作業をしながら、野菜栽培技術を学んだのは、わずか6年間でした。私は父の信心を受け継いで、父の労苦の汗がしみこんだ開拓地を必ず発展させていこうと決意しました。 ■減農薬と収穫増の両立 84年、キャベツが豊作のために値崩れを起こしました。箱当たりの対価が通常の6割に下がったのです。ところが翌年は、箱当たりの単価は10倍にまで値上がりしました。これまでは生活設計をしようにもできません。 自然を相手にする仕事である以上、収穫や収入が自然に左右されるのは致し方ない部分があります。その中で、少しでも収穫、収入を安定させることができるよう、私は仲間と共にJA(農協)を通じた産地直送を行いました。産地直送によって一定の売り上げを常に確保できるのではないかと考えたのです。その時、消費者から求められたのが、51種類にも及ぶ農薬の排除でした。 当時、私の経営する農園の広さは5・6ヘクタール。今と違って、大規模栽培で減農薬を促進することが簡単ではなかった時代です。 近くの畜産農家から牛糞をもらって、落ち葉をすき込み、堆肥作りを推進。収穫したトウモロコシの茎や葉も堆肥にしました。減農薬によって収量は一度は落ち込みましたが、その後、徐々に回復。“やればできる”との自信が芽生えました。 ちょうど、JAあがつま北軽井沢産直部会の部会長を務めていた私は、この機を逃さず、一般の農薬使用基準より厳しい部会内の内規を導入しました。 減農薬による生産は、病虫害の拡大などによる収穫減のリスクをはらんでいますが、その中にあって減農薬でも増産は可能であることを示すことができました。消費者に喜んでいただける、より安心・安全な野菜を提供できるようになったのです。 ■消費者から好評を得る わが農園に転機が訪れたのは、18年前、私が41歳の時です。ひょんなことから、古くからの友人に「お前の野菜を送ってほしい」とお願いされたのです。「分かった。明日、宅配便で送るよ」と返事をすると、彼は「いや、そうじゃないんだ。毎日、欲しいんだ」と言うのです。 生産者が直売できるシステムを構築した企業が、前橋市に直売第1号店の出店を決定。からは、その店の店長に選ばれ、おいしい高原野菜つくっている農家を探しているところだったのです。この企業との契約で、うちの売り上げは大きく伸びました。今では同企業は、群馬をはじめ首都圏、東北に33店舗を展開。その直売所に小井圡農園の農産物が並び、企業の担当者からは、いつも「小井圡農園の農産物が並び、企業の担当者からは、いつも「小井圡農園さんの野菜が売り切れです」とのうれしい報告をいただいています。 世間一般では、生産者が自ら直売所に出荷品を運搬することが往々にしてありますが、小井圡農園の出荷する野菜は企業側から取りに来てくれます。 気候の温暖化に伴い、標高の高い私たちの農園でも気温の上昇は顕著です。その分、病中も増えています。そのため現在では、農薬を全く使わずに栽培することは難しい状況です。しかし、できる限り殺虫剤を使用しないで栽培する努力を続けています。 ■生産者の命そのもの 私が心に刻んでいる御聖訓に「白米は白米にあらず・すなはち命なり」(1597頁)との一節があります。 私たちの命を支えてくれるコメは、単なるコメ(食料)ではなく、「命そのもの」であるとの意味です。 当時、日蓮大聖人は身延の山中においでになり、食料にも事欠く状況にありました。こうした中で、門下が大聖人の生活を案じて、真心こめて白米一俵などを御供養したことに対する御礼の手紙のなかの一節です。 御書には、「民の骨をくだける白米」(同1390頁)との仰せもあります。 作った人の労苦と汗が染み込んでいる――――生産者を思いやる心が伝わってきます。 私たち農家にとっての喜びは、安心・安全な作物を生産できること、そして、それを召し上がった消費者に健康になっていただくことです。 農業に携わって、人間の力がいかんともしがたい大自然の厳しさをくり返し、痛感してきました。気の休まるときは、正直言って全くありません。しかし一方で、“何があっても信心を根本に乗り越えて見せる”という覚悟と確信を自分のなかに築いてくることができました。これが私の財産です。 かつては社会人であり、結婚後、農業を初めて経験した妻・法子や、農園のために力を貸してくれている身内への感謝は尽きません。男子部で薫陶を受ける長男の雄一も、農園の後継者として成長しています。 これからも、“建設は死闘、破壊は一瞬”であることを肝に銘じ、努力を重ねていきます。 [プロフィル]こいど・みのる 群馬・長野原町の高原にある7ヘクタールの農園で高原キャベツなどを栽培。59歳。1959年(昭和34年)入会。群馬王者総県副総県長。総群馬農漁光部長 【紙上セミナー「生活に生きる仏教」】聖教新聞2018.8.28
January 31, 2019
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広島大学教授 坂元国(くに)望(もち)さん 私は数学を研究していますが、仏法と数学の捉え方には、共通点があると思っています。考え得るあらゆる視点から光を当てて、物事の核心を輝かせる点です。 日蓮大聖人は生命の本質に迫り、万物を生みだす宇宙の根源の方として、南無妙法蓮華経という一法を明かされました。数学は、この宇宙のさまざまな物事を知恵の力で照らし、そこに脈打つ法則性を(数式)として表す技術だと思います。 大聖人は、妙法は「本有(ほんぬ)」、つまり、もともとこの宇宙にあるものと捉えられています。一方で数学でも、新たな分野や理論が生まれ続けていますが、それらも、もともとこの世に存在していた法則を、知恵の力で照らし、得られたものだと考えます。仏法の知恵には到底、追いついていませんが、妙法という究極の一法を、数学という立脚点・視点から見ているように私は感じるのです。 そもそも数学では、あらゆる物事の「関係性」を見ようとします。その関係性の定め方に応じ、「違うもの」を「同じもの」と考えたり、一つのものごとに異なる色の光を照射して重層的に捉えたりするといったところです。 こうした考え方を極限まで探求すると、物事の間に思いがけない結びつきが発見されることがあります。こうした関係性に基づいた数学の理論や応用は、インターネットでも使われる暗号を生みだすなど、自然科学諸分野の発展を理論的側面から支えてきました。数学には、物理や化学などのような実験証明はありません。数学の証明は思考実験といって、言葉(数式)と理論だけに立脚して審理を確立することです。しかし、それが数学の際立った魅力・威力だと思っています。 行ける場所なら自分の目で確かめに行けばいいのですが、現実には行けないところもあります。しかし、数学を使えば、時間的にも空間的にも離れた世界や、目には見えない微小な世界でも、そこで何かが起こっているのかを言葉(数式)と理論を使って「想像」することができます。それは、言葉(数式)と理論という普遍的なものに立脚しているので、単なる空想ではありません。 近年では、そうした数学が培ってきた数々の視点を、生命分野でも用いるようになっています。例えば“トラやシマウマなどの縞(しま)模様(もよう)は、なぜ生まれるのか”といったことが理解ができるようになりました。 私自信も細胞内のたんぱく質の動きを数理モデルの解析を用いて研究していますが、多くの数学者も現在、“生命の謎”に迫ろうと、さまざまな研究を続けています。その中で、仏法の思想に通じるようなこともわかり始めています。 その一つが脳です。 脳は、心理学や脳科学などの分野で研究が進んでおり、一部には“人間の心は脳にある”という意見もありますが、数学的な解析に基づき、“脳だけが人間の行動を決めているのではなく、行動の生物学的な司令塔である脳を「心」が育んでいる”と指摘する数学者も現れてきています。これは、色法(物質・肉体面の働き)と心法(心の働き)が別物のように見えて、実は分かちがたく関連していると教える仏法の思想に、深く通じるものでしょう。 科学者であったガリレオは、次のような印象的な言葉を残しています。 “この宇宙という偉大な書物のなかには、哲学が書かれている”“その書物は数学の言葉で書かれている”と。 これまで関係性・論理・数式やそうぞうといったしてんでおおくのがくもんをむすびつけ、「ほんう」のものに迫ってきた数学が今後、どこまで生命や宇宙の真理に近づけるのか。その道程は、まだまだ遠いかもせれませんが、研究が進めば、仏法の偉大さがますます証明されるかもしれない。そう思うと、ワクワクします。 (中国学術部長) 【現代と仏法「学術社はこう見る」第6回】聖教新聞2018.8.28
January 30, 2019
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人間はだれでも完璧ではない。必ずどこかになりたい部分がある。劣等感は特定の人が抱くものではなく。ふうつうの人間ならみな抱くものである。 かえって劣等感のない人の方が危険であって、躁病かあるいは躁病的な体質をもっている可能性がある。 劣等感は、人間にとって非常に大切な感情となっている。というのも、劣等感を克服しようとするエネルギーが原動力となって、次の新しい発展をすることができるからだ。 すべてが完璧に満たされるなら苦しみもがくこともない半面、新しく生まれ変わろうとする気持ちもわいてこない。 だから欠点だらけという人は、それだけ成功する可能性が高いのだ。欠点のあることを喜ぶべきである。 しかし、この劣等感という化けものにとりつかれてしまうと、なかなかそこから脱出できない。 こもときは、劣等感はだれにもあるのだと認識して、恥ずかしさや情けなさを自分の力で克服して浮く以外にない。要は、この努力ができるかどうかだ。 だいたい、いつまでたっても劣等感にさいなまれているような人は、自分だけが不幸だと思い、そのくせその不幸を自分で解消しようとしない怠け者だといえる。不満や愚痴だけでは一人前に述べるが、実行が伴わないのだ。 悩みというものは、他人から見ればそれほど大したことはないことが多い。 中学二年のとき、秋田県から東京に転向してきた人がいた。彼は、東北訛りが抜けず、ことに英語の時間には珍妙な発音をして、クラスのみんなから爆笑をかった。そのため、以後は先生にさされてもいっさい英語の朗読をしなくなってしまった。 が、彼は東北訛りが直ればこの劣等感は解消することを知っていた。だから、やがて東京の言葉になれるにしたがって、彼の劣等感も消えていった。 悩みの原因を追及していけば、なんだこんなことだったのかということはあまりにも多いのだ。 【人間的魅力の育て方】斎藤茂太著/知的生きかた文庫・三笠書房
January 29, 2019
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心の悩みが高じると、ノイローゼという症状に陥る。それは、失敗を気にしやすい人によく起こる。とくに神経質性格の人は失敗を気にしやすい。過去の失敗をいつまでも気にかけていてくよくよ悩むタイプだからだ。 ところが、こうした過去にこだわり続けていると、前進できないで、いつまでも失敗した地点をうろつくことになる。 そのためにいっそうあせりが増し、ふたたび失敗を重ね、失敗の悪循環となり、どんどん自分を痛めつける。 エビングハウスの記憶の実験によると、記憶を忘れそうになったらすぐに復習してふたたび記憶を喚起するという動作を何度も行っていると、強化される。 これと同じで、いやなことをいつまでも繰り返し思い出していると、そのいやな記憶はだんだん忘れがたいものになっていく。だから、失敗を何度も思い出していると、それが再び何度も失敗する原因となるのだ。 ただし、ここで注意をうながしておきたいのは、致命的な失敗は、実は心が充分に満たされたときに一番多いことだ。 すべてに健康を感じているとき、意外に重い病気がとりつくことがある。自分は健康だと過信して養生を忘れ、つい無理を重ねてしまうからだ。 同じように、成功はウツを招く。だから、ウツは「成功病」ともよばれている。 それまで部下をもたなかったビジネスマンが急に、“長”のつく役職になったり、あるいは長年の研究が完成したときなど、いわゆるハレの場でウツにおちいる人もまれではない。 人が急に成功や出世すると、とたんに大きな責任が加わり、これがプレッシャーとなる。そのために、自分はこんな地位にいていいのだろうか。本当にこの仕事をやりこなせるだろうかと不安になる。そして、無意識のうちに自分が得た地位を傷つけ、破壊するような行動に出る。 完成のあとの破滅、いわゆる“荷下ろしウツ”という状態になる。これも失敗を恐れるからこういう状態になるわけだ。 【人間的魅力の育て方】斎藤茂太/知的生きかた文庫・三笠書房
January 28, 2019
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チョゴリ姿の写真に対し辛淑玉さんは「この写真が在日に与えた感情を、どれだけの日本人が知っているでしょうか?」本当にその通りである。こういう写真を揶揄して掲載しているブログを見るが、日本人として恥ずかしい限りである。日本人という人間がきめたレッテルだけであって、世界人としての意識を持っていきたい。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ はっきりと「女性を尊敬せよ」と発言 辛淑玉(人材育成コンサルタント) 十五歳の時、友人に誘われて映画『人間革命』を観ました。当時、商業高校に通っていたこともあって、周囲には何らかの形で一家を支えなくてはならない子が多く、また創価学会に入会している友人も多くいました。 卓球部の二学年上の先輩に、学会の人がいました。母親と姉の三人で暮らしていた彼女は、高校を卒業して就職すると、わずかな給料を貯めて私を京都旅行に連れて行ってくれました。交通費から食費まで、全部彼女が払ってくれました。 家族旅行もしたことのない私に京都を見せてくれた、あの温かさを今でも忘れることができません。彼女は、そのことを一度も恩に着せたことがないのです。のちに、私は学会の座談会や会合に何度か顔を出しました。 今でも覚えているのは、東京・大田区で開かれた女子部の会合での話です。当時はまだ「男女共同参画社会」などという言葉のない時代でしたが、女子部の幹部が、「女の人は幸せにならなくてはいけない。幸せにならないと、豊かに美しく生きられない。幸せになるためには経済力がないといけない。だから、経済力のある男と一緒になろう」と言ったのです。すごくリアリティーがあって、私は大爆笑しました。 ††† 女性を尊敬する社会に 先だって、ある地方自治体の講演会に呼ばれたのですが、市民の皆さんが「なんとかして辛さんを呼びたい」と行政と交渉してくれたというのです。その中心メンバーの一人が学会員で、朝は「聖教新聞」を配り、その後仕事に出、そして夫の暴力と向き合いながら、信仰を支えに女性の自立のために声を上げていました。 男社会の中で孤軍奮闘している女性たちは本当に多い。ある企業研修の場に呼ばれて驚いたのは.男性優位の文化がはびこる部署で最後の女性社員となった方が、どうしても私を講師にと呼んでくれたのです。 そして帰り際、「実は私、創価学会員なんです」と言ったのです。話を聞いてみると、私を講師として呼ぶには相当の壁があったそうです。壁をぶち破りたいという彼女の思いがひしひしと伝わり、私は、その思いに応えられるだけの力をつけなくてはと強く思いました。 今、男女共同参画についてさまざまな情報が飛び交っていますが、私が知る限り、はっきりと「女性を尊敬せよ」と発言されたのが創価学会の池田名誉会長です。 「私は信ずる。女性を差別する男性は、人格的にも最低であり、前世紀の遺物である……女性の人格を尊敬し、彼女の活躍を心から喜べる男性が増えなければ、いつまでたっても、女性に理不尽な負担をかけ続けることになる」と。これは、二〇〇一年一月七日付の「聖教新聞」に出ていました。 男を最大に侮蔑するのは、「お前は女みたいだ」という言葉。だから男性は、女のようにならないように、女のようにならないようにと生きてくるので、女を尊敬するという感覚は欠落しています。 しかし、この記事は、胸を打ちました。社会でリーダーと呼ばれる人で、ここまで明言した人が他にいたでしょうか? ††† チョゴリ姿の写真 漢字を読むのが苦手な母が、「この人、いいこと言ってる」と言って、ルビ(ふりがな)が振られた新聞記事を持ってきました。手にしていたのは「聖教新聞」。「この人」とは、池田名誉会長でした。 日韓・日朝関係が厳しい時に、池田先生は、「隣人を、韓国を尊敬しよう」という趣旨の発言をされました。同時に、韓国の民族衣装であるチョゴリをご夫婦でうれしそうに着こなしていました。この写真が在日に与えた感情を、どれだけの日本人が知っているでしょうか? 北朝鮮による日本人拉致事件が明らかになってから在日へのバッシングは未曾有の数となり、まさにジェノサイドという状況の中、民族衣装であるチョゴリ姿で出てこられたのです。 今、アメリカで、イスラム教徒の衣装を着て、彼らと手を取り合おうと訴える指導者がいますか?アメリカ国内で震えているイスラム教徒の思いを、人間として声に、映像にしたアメリカの宗教関係者がどれほどいたでしょうか? チョゴリ姿は、国境や民族を超え、在日や韓国の人とも一緒に生きていこうというメッセージでした。その姿勢は、「9.11」テロの時も微動だにしませんでした。イスラムについてコメントされた記事を見て、胸が熱くなりました。 少し前になりますが、一般紙で池田名誉会長が「憲法九条を守れ」と発言されていたのを見ました。いろんな嫌がらせのコメントがあったのも知っています。でも、「九条を守る」ということは、日本の国際社会に対する公約でもあるわけです。その九条を変えるというのは、アジアに対する宣戦布告でしょう。 私が日蓮を好きなのは、言葉で闘っていくディベートの天才だからです。どんな時にも言葉で権力者に立ち向かい、身に寸鉄も帯びずに平和を創ろうとしました。 その意味で日蓮さんは、武力を放棄した憲法九条の体現者です。それが現代では、池田名誉会長の発信する「言葉」に体現されていると思うのです。そして、多くの友人たちはその教えを体現しようとしています。誇れる友人たちが学会のなかにいるのです。 シン・スゴ 1959年、東京都生まれ。広告代理店を経て、85'年、入材育成会社・香科舎を設血。男女雇用均等法をベースとした女性入材の育成に取り組む。96年、入材育成技術硫究所を開設。管理職研修、評価プログラム開発を行い、大学・専門学校などで講義・公開講座を担当し、テレビ・ラジオにも出演。また、人材育成、人権に関わる研修・講演を各地で行う。現在、UCSD客員硫究員、明治大学政治経済学部客員教授。著書に『となりのピカソ』『怒りの方法』『辛淑玉のアングル』『愛と憎しみの韓国』『女が会社で』など多数。
January 27, 2019
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■凄惨な歴史突きつける 「ようこそソビボルへ、ここがこれからの生活の場です」。明るい音楽とともになされるアナウンスに背筋が寒くなるのを感じる。家畜のように、いやそれ以下かもしれない。列車に詰め込まれ収容所についた多くのユダヤ人たちに向けてナチスはこのような放送をしていたという。 やっとシャワーを浴びられると女性たちが向かった先は……。描けば描くほどその凄惨さが浮かび上がる悪名高いナチスの強制収容所。ドイツ、ポーランドを中心にフランス、オランダなど占領地域に50カ所以上が建設されており(労働収容所を含む)、その中で特に絶滅収容所といわれたものにはアウシュビッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、そして映画の舞台となったソビボルなど6カ所があったといわれている。この映画はその絶滅収容所ソビボルで実際に起きた脱走の事実をロシアで映画化したものである。 第二次世界大戦で最も多くの犠牲者を出したロシアの映画界でこうした収容所が描かれることは極めてまれなことであるという。それには一人のロシア人を抜きにしては語れない。アレクサンドル・ペチェルスキー、ユダヤ系ソビエト軍人である。1943年9月、彼は他の収容所からソビボル送られてくる。そこから事態は急展開を見せる。 ペチェルスキーの卓越した存在感、指導力は収容者たちのためにも脱走が現実のものとなってくる。しかし、ナチス親衛隊との力の差は歴然としていた。しかも一人や二人の脱走ではない。何と全員を脱走させるという途方もない計画であった。ナチスと敵対するソビエト軍も迫り時間は残されていない。この脱走劇は彼がここにきて僅か22日後のことであった。 映画はかつての歴史の一コマを描いただけではない。根底にある悪質なものを排除するという空気(風潮)は今の世界で頭をもたげ、より顕著になっていないだろうか。ナチスの行為はその最たるものを証明したが、過去の歴史をさらに深く見つめ直さないといけないと思わせる作品である。 多くのユダヤ人の脱走の後、ナチスはソビボルをまったくなかったものにする為、収容棟を破壊し整地し、さらに植樹をして隠滅を図った。 (映画ライター 浅野桂二) 【映画】公明新聞2018.8.24
January 26, 2019
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専修大学法学部教授 岡田 憲治 ■民主的であること④ 個人が自己利益の最終判定者であろうと、それが平等に考慮されようと、そこでの判断が、賢明な知見を基礎にしていかなければ、民主政治は衆愚政治となります。 政治的判断に直面したとき、理性と知性のフィルターを経ない時、それは「みんなで突き進む地獄」に至ります。「自分の」幸福と「自分たち」の幸福の間にあるズレを立ち止まって考え、この二つが折り合う地点を探すことが、政治の暴走を防ぐのです。 20世紀の幕開けとは、政治参加の機会が多くの人々に開かれた、民主化の到来でした。産業社会の発展によって、人々が労働者として世界の生産を支える不可欠な存在となったからです。働く者こそ社会の主人公であるのに、これまで政治的決定から遠ざけられていることに、人々が抗議をした結果でした。 しかし、開かれた政治の回路は、集団がもたらす「むき出しの感情」に駆り立てられた圧力の通り道となり、それをあしき政治的野心が利用することで、巨大な災禍をもたらしました。世界を席巻した全体主義やファシズムです。 ドイツにはヒトラーが現われ、第1次大戦後の社会の閉塞感を振り払う壮大なうそが吹聴されました。「ドイツはギリシャ人の直系の子孫だから世界で一番優秀である」「ドイツが戦争に負けたのは、ドイツの血を汚すユダヤ人の陰謀のせいだ」という荒唐無稽なものでした。 人は心すさむことなく、人生に細やかな希望をもてるならば、ばかげたうそを簡単には信じません。しかし、屈辱のベルサイユ条約を押し付けられ、天文学的な数字の賠償金を背負わされ、積み上げてきた人生の成果を台無しにされた人々、とりわけ中産階級の「やりきれなさ」は、ヒトラーの描く妄想に乗ってしまう土壌となりました。 当時のドイツには、ワイマール憲法ができましたから、手続き的には「民衆的に」選挙が行われました。そこで人々は感情の救いを求めて、ヒトラー率いるナチスに多数の支持を与えました。 ナチスのいかがわしさは、伝わってきましたが、最後の選挙ではぎりぎり過半数を割っていたナチスに、中道の小政党が協力をして、ヒトラーを首相にしてしまいました。ヒトラーは緊急事態を理由に憲法を中止して、全ての権限を総統個人に委譲する法律を成立させ、ドイツの民主政治は崩壊しました。 どれだけ人々が「之が私の気持ちだ』と参加して選挙が行われても、すさんだ心に無知と偏見が重なり、それを利用する政治家がいると、民主的な議会政治は簡単に失われるという歴史がここにあります。 【議会政治のそもそも[25]】公明新聞2018.8.23
January 25, 2019
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民俗学者 川島 秀一 私が今、暮らしている福島県の新地調でも、全国の漁師が今でも気にしている「産忌(さんぴ)」というものがあった。 新地町大戸浜の小野春雄さん(昭和27年生まれ)も、3人の子どもが生まれるたびに、生まれた4日目には必ず、裸で目の前の海に入って、体を潔めてから船に乗ったという。 産忌の忌明けは21日目、漁家では以前は実家に戻ってから生む嫁が多く、産後の療養を兼ねて21日間は実家に居ることが多かった。嫁ぎ先の親せきの家でもよいが、隣合わせは禁物で、道路を挟んだ向かいの親せきの家ならば許容範囲であったという。 産を成した家で炊事を下同じものを食べるのを禁じられ、お茶飲みにいろいろな家を訪問すると、ひどく怒られたものだという。産忌に触れると、漁に当たらなくなるばかりでなく、船のエンジンがなかなか、掛からなかった場合も、その乗組員の誰かが「産忌を背負ってきた」のではと、疑われた。 ところが逆に、お産の前であるならば、漁に当たるとも云われている。「このごろ、いくらか他人よりも魚を捕るな」と、漁のある船に気づいたりすると、船主のお嫁さんが妊娠中であったりした。宮城県気仙沼市の小々汐でも、船下ろしのときにロープを切る役割を妊婦さんにお願いしたという例もある。 カツオ一本釣り線では、船主や船頭の家でお産があると、同じ時間に釣ったカツオが皆、ナマ(血)を吹くという言い伝えもあった。「産忌」が本来は「血忌み」から始まったようであるが、現代の漁師の思いは、それだけでは説明できない者がある。 奥さんが妊娠中であれば魚に当たると考えたように、人間の子を宿す力と海の生産力とを重ね合わせてとらえている。海落としてしまえば、その力が失われることを恐れた者と思われる。 ところで、魚などの海産物も、「子持ちカレイ」やサケなど、卵を抱えているものの方が、おいしく、かつ値段が高いとされている。生んでしまえば、身が痩せ衰えてしまうからである。福島県の新地町では、刺網などでとるカニのなかで、子を出したカニを「デゴ」と呼んで、安くしか買わない。 とめどなく生命を生み出す海や魚と、その生命を分けてもらうヒトの生理に、どこか共通性を見出だしながら、「産む」自体の畏怖の感覚を表現したのが「産忌」ではなかったかと考える。 【いのちの海と暮らす―14―】聖教新聞2018.8.23
January 24, 2019
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思えば私が第三代会長に就任したのは、一九六〇年(昭和三十五年)。 「立正安国論」が時の為政者に提出された文応元年(一二六〇年)より七百年であった。 大地震・水害・飢饉、異常気象、疫病……打ち続く災禍に翻弄される民の悲嘆を、大聖人は肌で感じられ、戦乱の危機を洞察していかれた。 「此の事を愁(うれ)いて胸臆(くおく)に憤悱(ふんぴ)す」(同一七頁)と記された御心中は、まさに苦悩の民衆への限りない同苦であり、悲惨な現実への憤りであられたに違いない。 どうすれば、この苦悩を少しでも打開できるのか、この娑婆世界で分断や対立を超え、より人間の幸福・安穏を実現できるのか—―—―眼前の難題に挑み、心ある友と誓いを共有し、対話を重ね、行動の連帯を広げる。 これが「立正安国」の出発点だ。 ◇ 人類の前途にいかなる試練があろうと、勇敢に立ち向かう「青年の連帯」がある限り、絶対に希望は失わないと、私たちの信念を訴えたのだ。 「レジリエンス」とは、互いに助け合い支え合い励まし合って、ともに苦難を乗り越えゆく、人間と人間の連帯の力、社会的な強靭性としてとらえられる。この連帯の力を民衆の中に張り巡らしていくのが、私たちの立正安国の対話にほかならない。 【随筆 永遠なれ創価の大城】「『誓願』の共戦譜」】聖教新聞2018.8.22
January 23, 2019
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19世紀初め、琉球(沖縄)を訪れたイギリス人が、航海記に“平和を愛する礼儀正しい人々の振る舞いに感動した”とつづった。それを伝え聞いたナポレオンは、“武器を持たない国があるのか”と驚嘆したという▼ 礼を重んじる沖縄で今、ブームになっているのが「空手」。競技人口は世界で5000万人ともいわれ、野球や柔道を上回る。2020年の東京五輪では正式種目にもなった。沖縄県庁には一昨年、「空手振興課」が設置され、昨年3月に「沖縄空手会館」がオープン。今月上旬、第1回沖縄空手国際大会が開催され、50か国・地域1200人の空手家が技を競った▼ もともと琉球には「手(ティー)」という武術があった。中国や東南アジアの国々と交流するうちに中国拳法と融合し、「空手」が誕生したとされる。空手には“力強いイメージ”があるが「空手に先手なし」という教えがある通り、心技両面で「先手非道」を説く。「和」と「礼」を重んじる沖縄の心が脈打つている▼ 琉球という小国がアジア諸国と対等に交易できたのは、島国という地理的条件もあろうが、「礼」などのソフトパワーを生かしたからだろう▼ 「沖縄には、平和への深き使命がある。歴史の源流がある」と池田先生。この沖縄の“平和の心”に学びたい。 【名字の言】聖教新聞2018.8.18
January 22, 2019
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武庫川女子大学教授 丸山 健夫 観光地で和装姿の外国人女性をよく見かけるようになった。初めて着るとき彼女たちは、その美しさに感動したあと、襟のあわせ方が逆なことに驚くだろう。 男女とも和服は出は、他人から見た場合で考えて、右側に見える生地が他人にとって手前になるように着る。男性のスーツやジャケットも同じである。これを「右前」という。ところが自生の洋服だけは反対の「左前」。女性は和服と洋服で、襟のあわせ方を逆にしなければならない。 和服の「右前」は、国が決めた。続日本紀の養老三年(七一九)二月三日に、漢文で「初令天下百姓右襟」とあり、これがルーツだ。 一方、男性の洋服が「右前」なのはボタンが関係する。十七世紀頃から男性用の服の前合せにボタンが多用され、軍服でよく普及した。右手での着脱や剣を抜くのに便利なためか、「右前」が十八世紀頃までに定着する。そして軍服やスーツなど、ボタンのある服は、ある意味男性のトレードマークとなる。 ところが十九世紀。英国では選挙権など、女性の権利獲得運動・フェミニズムの機運が高まる。「女性も男性と同じように」という流れはファッションにも及び、ボタンのある服を着用する女性が現れる。しかし当時は「男は男らしく、女は女らしく」の紳士淑女の時代である。女が男のような服を着ることは、世間が容易に許さない。そこで「女性用」というメッセージとして「左前」が利用され、一種の運動として広まったと私は考える。 近年、女性用の洋服で「右前」を見かけるようになった。女性の「右前」のスーツが当たり前となったとき、男女雇用機会均等法などの法律は、きっとその役目を終えているに違いない。 【すなどけい】公明新聞2018.8.17
January 21, 2019
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パーキンソン病へのiPS細胞による治験(臨床試験)が始まるとの朗報が流れた。運動に欠かせない脳内の神経細胞が減り、からだが徐々に動かなくなる難病。その患者の能にiPS細胞から作った神経細胞を注射、移植する京都大学の治験計画が国に承認され、年内にも1例目が実施される◆ iPS細胞を開発した山中伸弥・京大教授が最近著した『走り続ける力』(毎日新聞出版社)を読んだ。30年ほど前、医師になってすぐ、有効な治療法がなかったC型肝炎で父親を亡くす。今の科学で治せない患者を、どうしたら救えるかと、若き山中医師は研究に身を投じた◆ 米国での研究を経て帰国後、「研究をやめて臨床医に戻ろうか」と行き詰った時期もあったという。何度も失敗を繰り返したが、「絶対に無理と思われていることでも、理論的に正しければ必ず実現する」と諦めない◆ そして、“細胞の時計を巻き戻す”夢のような構想を実現し、受精卵のようにいろんな組織や臓器の細胞になるiPS細胞を誕生させた。さらに今も、多くの難病患者が待ち望む同細胞による治療を「一日も早く患者さんに届ける」と闘う◆ パーキンソン病への実用化もまだ課題は多い。晩年に同病を患った芸術家・岡本太郎氏が自著に残した言葉は「ぼくは口が裂けてもアキラメロなどは言わない」。 【北斗七星】公明新聞2018.8.17
January 20, 2019
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専修大学法学部教授 岡田 憲治 ■民主的であること⓷ ある政治的団体が民主的であるためには、決め事の過程で「自分の意思や判断が、この決め事にきちんとつながっている」という気持ちを、多くの人が持てることが大切です。これは「有効な参加感」とでも呼ぶべき、民主過程に多くの人の知恵と力を活用させるための条件です。 「決めたこと」と、自分の意思が「つながっている」と思えれば、決まったことを人のせいにすることもなく、たとえその決め事に完全な満足を得られなくても、「それも含めて自分が関わったことなのだ」という、主体的な責任意識を支えることになります。 こうした「つながり感」を持つためには、まず人々に「市民的自由」が確保されていなければなりません。これは、決定に関するどのような政治的な意思も行動も、「身体的安全が保障された中で表明できる自由」のことです。「市民的」というのは、君主を倒した「市民革命」で人々が手にしたという意味です。 自分が決定にきちんと「かかわった」と思えるためには、不当な力に委縮させられていないことが必要です。人は暴力の恐怖から完全に自由になれません。また、直接暴力で脅されなくても、「政治的な発言をしたら、この団体から追放する」などの憲法に反するようなルール、不当な圧力も、この有効な参加という条件を脅かします。 つながり感にとっていま一つ重要なのは、自分と決定の場が離れすぎないということです。地域で暮らす普通の市民にとって、国会での専門性の高い委員会審議(税制、年金制度、金融政策)は、物理的にも心理的に非常に遠いところでなされており、人々は自分の生活実感と国家の決定のつながりを意識しづらいでしょう。 もし、決め事と自分の関係を切実なものとしたいならば、ある程度の「分権化」を行う必要があります。これは、自分の直接かかわる身近なことに「一声申す」道筋と場が近くに存在することを意味します。 例えば、地域の公立小学校の安全環境や教育施設の充実という問題は、もちろん文部科学省や国会議員がなす決定もありますが、日々の生活に密着している、即対応が必要な課題に関しては、市町村といった基礎自治体に決定の権限がなければ、うまく機能しません。 つまり、分権と聞くと「権限の解体」と考えがちですが、分権の目的は、そうした「権力を集中させ過ぎない」という目的と同時に、「決める人、決め事、決める場が近い距離にある」ということなのです。 決め事に有効な参加ができたと思えるためには、「おびえることなく」「近い距離で」意思を表明できる必要があります。 【議会政治のそもそも[24]】公明新聞2018.8.16
January 19, 2019
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「四条金吾殿御返事(世雄御書)」では、仏法は勝負であることを示し、仏とは最も勝れた法を持(たも)ち、世のなかで最も勝れた「世雄」であると仰せです。 その上で、日蓮大聖人は、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書1169頁)と仰せです。これは法華経への信心を根本に、正直に誠実に生きれば、道理としてあらゆるものに勝利できることを教えられていると拝することができます。 具体的に「主に勝つ」とは、仏法の道理の力は、賞罰によって家来を支配する力をもった主君にも勝つことができるとの意味です。 「法華経を捨てよ」と主君が四条金吾に迫ったことは、道理に反する不当な仕打ちでした。しかし、大聖人は本抄で金吾に対して、こうした事態に直面しても、感情に流されず、粘り強く誠実な振る舞いに徹していくのが信仰者の生き方であることを教えられています。 別の御書では、佐渡流罪のとき、他の門下が所領を取られたりする中で金吾は主君から守られてきたと諭し、その恩を忘れ、道理から外れて主君を恨んでは、諸天善神も金吾を守らなくなると戒められています。 実際、金吾は大聖人の御指導のとおりに、信心根本に振る舞い、主君からの信頼を回復して、新たな所領を賜るという勝利の実証を示していったのです。 【世界宗教の仏法を学ぶ】聖教新聞2018.8.14
January 18, 2019
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香川・丸亀――青森・野辺地 郷土史家 江渡 正樹 青森県下北半島の付け根付近に位置して、陸奥湾を臨む野辺地町を安住の地と定めて、四十数年がたった。古来、野辺地湊と呼ばれる。北前船の交易で反映したからだ。町を巡ると「旅の人ですか」と質問されることがある。人間、文化、情報を広く受け入れてきた港町の歓迎言葉と受け止めている。 町に松尾芭蕉が句を詠んだ、桜景勝地として知られる愛宕公園がある。二十八年前のある日、その石段に使われた石に関心が止まり、ルーツを突き止めたくなった。素材と思われる花崗岩(かこうがん)の産出地を調べたところ、遠く瀬戸内に面する香川県にゆかりがあるとわかり、現地を訪ねた。 香川県の石材業者の方は、野辺地から持参して石段と同種の石を見るや「小豆島のもの以外にないでしょう」と断言された。大坂城築城時、石垣に使われた残石だろうとのことだった。この時の調査結果は『近世野辺地海運史の中の旅』(二〇〇九年)と題したA4判八十ページの冊子にまとめた。 その後、多くの書物に当たると、「江戸時代、幕領米輸送のため、河村瑞(ずい)賢(けん)が西廻り航路を開発した。大坂で幕末まで活躍した廻船問屋の橘屋が輸送を担った」という記述にであった。 野辺地湊を見守る石造りの常夜燈がある。「施主野村治三郎」「世話人橘屋吉五郎」と刻まれている。その芳名を目にした時、野辺地と瀬戸内の関係が一段と深まる思いがした。 そして、うれしいことに香川県丸亀の沖合に浮かぶ塩飽(しわく)諸島広島にある尾上(おのうえ)邸に二十数冊に及ぶ廻船問屋橘屋の帳簿が現存するという情報が届いた。早速フェリーに乗り込み、現地に向かった。現在、神戸市在住の橘屋八代目当主の尾上閑(しず)雄(お)さんが「松寿丸勘定帳」「上下諸遺帳」「金銀取替帳」「当座帳」など八冊を用意してくださっていた。野辺地と橘屋の関係を長年探ってきただけに、その証拠なる資料に初めて出合い、感動の思いだった。 このほど、こうした経緯と全面的な資料を『讃州塩飽橘屋廻船資料集――江戸後期青盛野辺地との交流――』(A四判七百八ページ)として出版した。帳簿には大坂~野辺地を多い時で年三往復した事、積荷の種類・数量、橘屋の商圏、決済方法など、あらゆる情報が記録されている。江戸・天保期の回船業の具体像を知ることができる。野辺地に運ばれた物資はいわゆる讃岐三(さぬきさん)白(ぱく)(砂糖、塩、絹)、一方、大坂を経て讃岐に運ばれた物資は肥料としてのイワシ・ニシンかす、米穀類が主だった。 青森商工会議所の岩井敬一郎会頭から「近世開運史に肉薄する資料だ。読者は歴史を再発見するに違いない」とご好評を賜った。江戸交易に関心を寄せる人をはじめ多くの人に瀬戸内と東北が交流した歴史に思いをはせてもらえたらこの上ない。 (えと・まさき) 【文化】公明新聞2018.8.10
January 17, 2019
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米ハーバード大学公衆衛生大学院教授 イチロー・カワチ 宗教は、健康に良いかどうか。これは、社会疫学のテーマの一つでもあります。宗教を持っている人は、そうでない人よりも健康であるというエビデンス(科学的根拠)は山ほどあります。 では具体的に、どの側面が重要なのかというのも議論されています。信仰心なのか、宗教活動への参加なのか、実際には、その両方に効果があると考えられます。 例えば信仰心がある人は、問題が起こっても楽観的に捉え、解決することができます。 一方で、宗教活動については、集まって話す機会があることで健康が促進されます。日本で宗教というと、都合のいい時に一人で祈るというイメージがありますが、欧米の宗教の特徴は集団行動である、皆で参加することが基本です。これが健康に良い要素です。 創価学会の皆さんは、普段から小単位の会合を開き、互いに励まし合っていると伺いました。週に1回でも集まれば、社会参加することによる利益を十分に受けることができるといえます。 ここで希望を持つという点について触れるなら、人は誰かの役に立てたと自覚した時、大きく希望を持てるといえます。自分だけでなく他者の健康や希望の増大に貢献することで、人の幸福度は増していくことが、研究からも分かっているのです。 そうした効果は目に見えないものですが、社会疫学の分野では、しっかりとしたエビデンスがあります。ですから創価学会の皆さんには、「You are on the Right Track(正しい軌道にいますよ)」と伝えたい。自身を持って活動に取り組んでもらいたいです。 自分だけでなく他者の健康を与える役割を創価学会は果たしています。 【グローバルウォッチ「共生の未来へ」】聖教新聞2018.8.10
January 16, 2019
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専修大学法学部教授 岡田 憲治 ■民主的であること② 前回(第22回)で触れた「決め事」を行う手続きが、次の基準に反するような場合、自由と平等の前提ルールは台無しになってしまいます。それは「投票権の平等」という基準です。 ここでの平等とは、財産や経済的な生活水準に注目した「社会的・経済的」平等の話ではなく、誰もが「同じ1票」を投ずる権利があるという平等です。ですから、平等という言葉を切り分けるために、ここで取り扱う平等は、「政治的(機会の)平等」、あるいは「法的(権利の)平等」と呼ばれます。 日本の議会政治においてこれが現れるのが、いわゆる「1票の格差」問題です。これまで何度も訴訟が行われてきました。国会議員が当選するために要する得票数が、地域によってあまりにも格差を持ってしまうことが、有権者の権利を侵害するものだとされているのです。議会政治の基本部分において、民主的であるための条件はクリアされていないのです。 人口の多い大都市を含む都道府県と、人口の少ない県や地域では、当選するために必要な票数に大きな差が生まれます。かつては、衆院でもひどい時には約5倍(1972年選挙)、参議院でも約6・6倍(92年選挙)もの差が生まれてしまいました。 国会は、こうした事態を重く見て、たびたび定数是正や選挙区の線引きのし直しによって、調整してきました。参議院の人口少数県同士を合区にしたり、都市部の県の当選者定数を増やしたいといったやり方です。 残念なことに、現在でも格差は継続中です。例えば、2014年の衆議院選挙の格差2:12倍を最高裁判決は「違憲状態」としましたし、16年の参議院選挙の格差は、最高裁判決は「合憲」としましたが、なおも3・8倍という現状です。格差が2倍なら都市部の有権者の1票の価値は、郊外の県の半分しかないということになります。 こうした人口比例での定数設定については、「人口でひたすら決めるなら、大都市圏を含む地域の利益だけが考慮されてしまう」という理由で、この1票の価値問題を容認する議論もあります。しかし、それならばアメリカの上院のように最初から「各州の抱える利益関心を平等に考慮する院」という共有認識が必要ですし、その院独特の役割について明確な規定が憲法になければなりません。 残念ながら、アメリカ上院になぞられる、わが国の参議院については、その独自性について明確な記述が憲法にないために、その役割があいまいとなっています。その意味では、この定数是正問題は、参議院改革という大きな問題設定でなされる必要があるのかもしれません。 【議会政治のそもそも[23]】公明新聞2018.8.9
January 15, 2019
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民俗学者 川島 秀一 明治29年(1896年) の三陸大津波を描いた「風俗画宝」には、次のような「雑聞」の記事を載せている。 一つは、海岸に漂っている遺体に、「海栗(ウニ)」が吸い付き、真っ黒になっていたという話である。続けて、他の引き上げた遺体にも魚に食われていたということを述べている。 もう一つの話は、身内を津波で亡くした漁師が、2~3年は漁師をやめたいと思っていることを報じられている。その理由は、海底の藻屑になった近親者の遺体を食べている魚を、さらに自分たちが捕って食するにしのびない、ということであった。 一方で、昭和8年(1933年)の三陸大津波の後に編集された『宮城県昭和震嘯誌』には、「水産生物の異変」の項目に、「三陸地方に『いわしで倒され、生き返る。』の俚諺あり」という言い伝えを載せている。岩手県大船渡市の三陸町でも、さらに直截的な表現で「イワシで殺され、イカで生かされた」という伝承があったという。 昭和大津波とその後のイカの大漁を幼い頃に体験している、岩手県宮古市田老の赤沼ヨシさん(大正6年生まれ)は、同様のことを「海は人を殺しもするが、生かしもしする」と語ってくれた。イワシの大漁の後は、その魚の命と引き換えるように津波で多くの者が死に、その後は、イカの大漁で海が命を返してくれたということであろう。 私が知っている、ある漁師さんは魚を食べた後の骨などの残飯は、必ず海に捨てに行っている。残飯は魚の餌になるからだと語る。その行為を写真に撮らせてくださいとお願いしたところ、断られた。魚の残飯は、今ではゴミとして扱われ、海に投じることは禁止されているからである。都市的な排除の発想が、漁師の生命観と対立している。 レイチェル・カーソンは『潮風の下で』のなかで、次のように述べている。 「海が失うものはなにもない。あるものは死に、あるものは生き、生命の貴重な構成要素を無限の鎖のように次から次へとゆだねていくのである」(上遠恵子訳) 津波や海難事故によって、海で命を失い、しかもその遺体があがらなかった場合、遺族はそれでも、何かに生まれ変わって、自分たちに幸を運んでくれることを願った。 安政東海地震津波で火がいがあった高知では、遺体があがらなかった者を「魚と成った」と記している。 【いのちの海と暮らす―12―】聖教新聞2018.8.9
January 14, 2019
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舞踊演出家 村 尚也 『今昔物語集』第二十二には、藤原氏の説話が年代順に記されているが、鎌足の次男・不比等については優れた才能と出世のみで、逸話らしきものは語られていない。私がなぜそれを気にするかというと、古典芸能では藤原不比等が有名なエピソードに関わっていることが少なくないからである。 まず珠取伝説—―—―唐の高宗から賜った三つの宝のうち、面(めん)向(こう)不背(ふはい)の玉を竜宮に奪われてしまう。珠玉の中にある観音が、どの角度からも見る人に顔を向けているという宝だ。それを取り戻すため、不比等は身をやつして讃岐の志度(しど)浦(のうら)の海女と三年間契(ちぎ)る。ある日、不比等は妻となった海女に事実を告げ、二人の間にできた子(後の房前(ふさざき))が成人した後、官に就ける事を約して、海底の竜宮へ玉奪還を依頼する。死を覚悟して、乳の下をかき切って玉を隠し戻って来た海女は絶命する。この物語は、能の『海士(あま)(流派により海人など)や地(じ)唄(うた)舞(まい)『珠取』(海女)』などで人気がある。 第二は紀州道成寺の縁起。海中から潜(かつ)ぎ上げた千手観音を小さな祠(ほこら)に祀(まつ)る海女の宮子(みやこ)。この女性の髪が長く美しいことから藤原不比等は宮子を自分の養女とし、ついに文武天皇の妃にする。そして宮子がひそかに念じていた千手観音のために道成寺が創建される。 第三は浄瑠璃や歌舞伎でお馴染みの『妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)』。ここでは烏帽子(えぼし)折(おり)に身をやつし、杉酒屋のお三輪や橘(たちばな)姫(ひめ)との恋もようの最中、ついには蘇我入鹿(そがのいるか)討伐へと物語を牽引していく。蘇我入鹿は乙巳(いっし)の変(大化の改新)で滅ぼされた張本人だが、父の名は蘇我蝦夷(えみし)、祖父は馬子と名はいずれも後の為政者たちによって貶(おとし)められ命名された匂(にお)いがする。それに比べ「ふひと」は史の意味だからまさに歴史を作った人の自負が見え隠れする。あるいは「不人」と取れば、超人にも非道とも読むのは私だけだろうか。 【言葉の遠近法】公明新聞2018.8.8
January 13, 2019
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きょう8月8日は「ひょうたんの日」。数字の8が瓢箪の形に似ていることから定められたらしい。今は水分補給にペットボトル飲料は欠かせないが、古くは瓢箪に水を入れ持ち歩いた◆ 瓢箪には逸話がある。織田信長の稲葉山城攻略。8月、不可能とされた城の背後の急峻な山を下り、最初に城内に突入した木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が主君・信長から馬印を許された祭、選んだのが竿頭に掲げた瓢箪だった。味方に勝機を知らせたものだ。近世には、地震の原因とされた鯰を瓢箪で押さえる絵が描かれた◆ 片や食物としての瓢箪は案外知られていない。実は1万年の歴史を持つ最古の栽培植物なのだ。滋賀県の粟津湖底遺跡でも、約9600年前の瓢箪を発見。日本に野生種が自生していないことなどから、人手を介して栽培された証拠となった◆ 水筒や装飾品のほか、インドなどでは楽器に加工。インカ帝国以前のペルーには代用骸骨として手術に使っていた歴史があり、中国では漢方薬に。用途は20分野に上る(湯浅浩史著『ヒョウタン文化誌』岩波新書)◆ そういえば、吉田兼好は『徒然草』(河出文庫)で、驕りを打ち払う賢人の例として、瓢箪を捨て、手で水をすくい飲んだ中国伝説上の人物を挙げていた。瓢箪一つにも奥がある。続く炎暑。身を修めつつ、前進を重ねたい。 【北斗七星】公明新聞2018.8.8
January 12, 2019
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これから求められるリーダーの要件とは何か。それは、一言すれば、「誠実」に尽きます。決して威張らず、ともに尽くしていくことです。正直さ、優しさ、責任感、信念、庶民性—―—―そうした「人間性」を、皆は求めている。ゆえに、自分を飾る必要はない。自分らしく、信心を根本に、人間として成長していくことが大事なんです。 ◇ 仏法は、人を救うためにある。人を救うのは観念論ではなく、具体的な「知恵」であり、「行動」です。私どもの立場でいえば、以信代慧であり、信心によって仏の智慧が得られる。したがって、何ごとも「まず祈る」ことです。また、結果が出るまで「祈り続ける」ことです。 釈尊も、日蓮大聖人も「行動の人」であられた。私どもも、そうでありたい。 【新・人間革命「誓願」113】聖教新聞2018.8.8
January 11, 2019
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私は悪口集団の家庭に育った。父は口を開けば人の悪口を言っていた。親戚の偉い人から、新聞に出る偉い人に対してまで、のべつくまなく悪口を言っていた。それが私の性格をずいぶん歪めたと思う。楽しいことを話すことが、こんなに素晴らしいことかと知ったのはもう三十歳をすぎてからである。 本当は、親というのは子供の前で楽しい話をしてあげるものである。それが子供の心理的成長にとって、どれほど助けになるかわからない。そしてそれは、それ以後の子供の人生の財産である。 子供の人生で、お金を与えるよりも、楽しい話をしてあげることのほうがどれくらい大切なことであるかわからない。子供の頃に楽しい話をしてあげる親は、悪口ばかり言って遺産を残す親よりも、子供に人生の財産を残したことになる。だからこそ、お金持ちの子供が幸せな人生を送るとは限らないのである。 子供と一緒に悪口を言う親がいる。あるいは子供が親の悪口に同意して「そうだそうだ」とうなずかないと不機嫌になる親もいる。 悪口を言って、それでどうなるというものではない。でも悪口を言わないではいられない。 “Everyone out there is a potential Grand Inquisitor, even mothers” この文章はジンバルドーの文章である。恥ずかしがりやの人にとっては、誰でもが潜在的に宗教裁判長である、とジンバルドーは言う。母親でさえ、裁判官であるという。 これでは生きていてたまらない。生きていて楽しくない。自分は、皆から、母親からでさえも裁かれる身なのである。誰も自分を守ってくれない。この感覚は小さな子供にとってはたまらない。この世に生きることが怖くなって当たり前である。おびえるのが当たり前である。 恥ずかしがりやの人は悪口を恐れる。皆から悪口を言われるのではないかと不安になる。それは、自分がいつも人の悪口を言っているからである。 つまり、恥ずかしがりやの人は母親でさえも心の底で悪く思っているということでもある。 人の悪口を言うときに、非難というより悪口と表現したほうがよいことがある。 あいつはお金ばかり欲しがっていると悪口を言う人は、その人自身が、お金ばかり欲しがっているのである。悪口を言うのは相手が自分と同じことをしているからである。 だから、悪口ばかり言う人には反省がない。自分の非は認めなくない。だから自分の非と同じ非を持っている人の悪口を言うのである。 しかし、このような人は努力が無駄になる。先に書いたように、悪口言っている人からは幸運が逃げていくからである。人の悪口ばかり言う人は狭い世界で生きることになる。 【感情を出したほうが好かれる】加藤諦三著/三笠書房
January 10, 2019
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不満をもって生きている人は、幸福とか幸運は毎日の積み重ねであることを理解しようとしない。悪口を言う人は、自分で自分の世界を狭くしているのである。質(たち)の悪い人ばかりを自分の周囲に集めてしまう。それが不運の始まりである。 悪口を言っている仲間の外でも、その仲間内で通用する顔で出ていく。仲間のなかでの顔で仲間の外へ出ていく。それは人々にとって愉快なものではない。人は友人知人に明るさを求めているからである。 人は暗い人と一緒にいると「何かこの人、気になる人だなあ、何かこの人と一緒にいると気分がふさぐなあ」と思う。その人と接した後、理由は分からないけど気持ちがよくない。別れたあと後味が悪い。もう一度会いたいとは思わない。 こうして人は去り、情報も去り、幸運も去る。悪口を言っている間に幸運も去っていくのである。悪口を言っている、その一時(いっとき)は気持ちがいいかもしれない。しかしその代償は大きい。 悪口を言っている人は悪口を言っている間に「なぜあの人が幸せになれるのか、なぜあの能力のない人が成功できるのか」を真剣に考えた方がいい。自分が悪口を言っているその人がなぜ伸びるのか? それを考えて見るのである。 「あいつはずるい、あいつはあつかましい」と悪口を言っている間に「なぜそのあつかましい人が伸びるのか」を考える方が生産的である。おそらくそこに、自分が嫌っている人間の長所が見えてくるのではないだろうか。あるいは、自分が気づいてない自分の弱点を見つけているのではないか。 【感情を出したほうが好かれる】加藤諦三著/三笠書房
January 9, 2019
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人の成功をねたましく思う人間は、血の出るような努力をしても幸せになれない。死ぬほど努力をしても努力をしても幸せになれるはずがない。自己犠牲に自己犠牲を重ねて人に尽くしても、幸せはこない。 努力している人でも駄目な人は駄目である。自分を偽って努力している人は暗い顔をしている。執念深い顔をしている。そういう人はどんなに努力しても表面は立派に見えても、幸せにはなれない。なぜなら、そういう人は人の幸せを心の底では喜べないのである。 人の幸せを喜べるようになって、自分にも幸せが訪れる。つらいことだが、この逆も真実なのである。自分が幸せになって人の幸せも喜べるようになれる。つまり、自分で何とかして幸せになるきっかけをつくらなければならない。 努力しても幸せになれない人は、自分の努力が足りないと思ってはいけない。「もっと努力すれば幸せになれる」と思ってはいけない。そういう人は努力する方向が間違っているのである。 人の悪口をいう人になにかを相談してはならない。彼らはあなたの幸せを祈って相談には乗らない。必ずあなたの夢を否定するようなことしか言わない。たとえあなたの心が高揚しても、そういう人間に相談すると気持ちはすぼんでしまう。 悩んだときには相談する相手を間違えてはいけない。悪口を言っている人は他人の不幸が楽しいのである。 人は明るい性格になることでしか幸せにはなれない。明るい性格というと誤解する人がいるかもしれないが、素直な性格という意味である。その人らしい明るさという意味である。なにも、むやみに笑ったり大きな声を出したりしているという意味ではない。その人らしい明るさという意味である。 明るい性格になるためには、悪口集団、愚痴集団から抜けることが大切である。自分の気持ちが復讐的になっているときには、明るい集団よりも悪口集団の方が居心地がよい。心のなかが不満でどろどろしているときに何か気分がいい。痛快である。 しかし、これは麻薬と同じ快適さである。悪口集団に属してしまうのは、目先の心理的安楽を求めるからである。心のなかがどろどろしているときには、自分と一緒になって悪口を言ってくれる人が慰めになる。しかしこのツケは大きい。 【感情を出したほうが好かれる】加藤諦三著/三笠書房
January 8, 2019
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わたしは、「徳」に制御された燃える闘魂こそが、ビジネスを成功に導くと述べた。 これは、一企業の経営にとどまらず、停滞感、閉塞感漂う日本経済の再生に関しても同様である。現在の日本をとりまく状況を打破し、再び成長軌道に戻ろうとするなら、やはり、一人ひとりの経営者が人間の徳にもとづく高邁な精神をベースに、凄まじいまでの闘魂を開発しなければならない。 わたしは日本という国家の舵取りにあたっても、今後、徳ということをベースにした活動が望ましいと考えている。この徳という、やさしく思いやりに満ちた価値観は、日本が世界中に誇るべき「ソフトパワー」である。 その対極に国家が有する有形の資源、たとえば、人口や領土、天然資源、経済規模、そして、軍事力などの「ハードパワー」がある。なかでも、経済力と軍事力は代表的な「ハードパワー」とされる。徳が、「燃える闘魂」を制御するように、国家においても、徳「ソフトパワー」がそれらハードパワーを制御する必要がある。 わたしは、ハードパワーである軍事力を行使しない、あるいはできない日本にとって、このソフトパワーを活かした国家施策を通じ、世界から尊敬と信頼を勝ち取ることこそが、最良の安全保障策であると考えている。 二〇〇四年四月六日に中国共産党中央党校で講演する機会を得た。そのときに中国革命の父、孫文が一九二四年に、日本の神戸市に訪れたときに行った講演の一節を引用した。 「日本の明治維新を迎えて欧米の近代文化を取り入れ、繁栄を遂げようとしている。その西洋の物質文明は科学の文明であり、武力の文明となってアジアを圧迫している。これは中国で古来からいわれている『覇道』の文明である。しかし、東洋にはそれより優れた『王道』の文化がある。王道の文化の本質は道徳、仁義である。あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっている。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(=盾と城)となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている」 残念ながら、日本はこの孫文の忠言に耳を貸さず、一瀉千里に覇道を突き進み、富国強兵の道をとりつづけていった。そして、中国をはじめアジア各地を侵略し、多大な迷惑をかけたのみならず、多数の自国民を犠牲にし、国土の大半も焦土と化すという悲惨な状況に至り、ついには一九四五年の無条件降伏を迎えた。 わたしは、日本が「覇道」に走り、戦争に突き進んでいった失敗を踏まえて、中国が同じ轍を踏まないように次のように続けた。 「急速に経済発展をつづける中国は、やがて世界有数の経済大国になるばかりか、強大な軍事力ももつことになろう。そのとき、この孫文の言葉を改めて思い返し、中国は覇権主義に走らず、悠久の歴史の中で東洋が培ってきた、徳をもって、王道に則った国家運営経済活動を行い、アジアのみならず世界の範となってほしい」 わたしが中国共産党中央党校で講演した当時、中国は急速な経済発展を遂げつつあり、そのまま行けば世界第二の経済大国になるのは必至であった。何より近隣諸国を脅かす、軍事大国となることは必定であった。そこでわたしは、孫文の言葉を借りて、孫文が日本に説いたように、中国共産党の方々に言ったのである。 すると、その夜に会談した中央党校の校長でもあった曾慶紅国家副主席(当時)が、事前にわたしの講演原稿を読み、次のように発言された。 「原稿を胡錦濤主席(当時)はじめ、中央幹部に回付した。中国は覇道の道は決してとらないこのことを、日本の国民に伝えてほしい」 いかにそれが難しいものであれ、このように徳をもって相互の信頼関係を築いていくしか、日中間に未来はない。 いまこそ対症療法ではなく、根本処方として、日本古来の「徳」という価値観をベースとした外交を行うことが求められている。また日本がこれから国際社会で名誉ある地位を築くためにも、すばらしい人間性と徳を身につけ、世界の他の民族から尊敬される日本人をつくっていくということに、国をあげて務めていくべきだとわたしは信じている。 【燃える闘魂】稲盛和夫著/毎日新聞社
January 7, 2019
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完全主義者の人は、無駄を嫌いながら最後には人生そのものが無駄としか思えないような生き方をしてしまう。アメリカの心理学者のデヴィット・シーベリーは、南アフリカでダイアモンドを掘っている人についてこう話している。 小さな爪ほどの小石を見つけるために、何トンもの土が取り除かれる。彼らはダイアモンドを探しているのであって泥を探しているのではない。彼らは泥を掘りながら、いつかダイアモンドを彫るのだと喜んで泥を掘っている。彼らは泥という泥を喜んで掘っている。 シーベリーは、人々は日常生活でこの原理を忘れているという。ダイアモンドより泥のほうが多いと嘆く悲観論者を批判している。この話のように、日常生活にも肯定的な事実を求めて掘り起こすことが大切である。 ところが、完全主義の人は泥を掘るのは無駄だと思っている。泥を掘るたびに「またしても泥ばっかりか……」とがっかりする。そして、はやくダイアモンドを掘りあてたいと焦る。焦ることで疲れる。これも先に述べた燃え尽きタイプである。 これに対して「こころ」を大切にするタイプの人は、泥を掘りながらも実は泥を掘っているのではない。夢を掘っているのである。 泥は無駄にもなるし、夢にもなる。それは掘る人の生きる姿勢である。泥のなかに夢を見る人は泥を掘りながらも心がときめく。そして掘るときにゆとりがある。反対に、泥を掘りながら失望する人にはこの心のゆとりがない。 私は、無駄を無駄と感じない人は、生きるエネルギーがあふれている人だと思う。たくましいのである。完全主義の人は生きるエネルギーが発散できずによどんでしまっているのである。水が流れないでよどんでしまい、腐ってしまうように、生きるエネルギーが外にほとばしり出さない。完全主義の人は生きるたくましさがない。活力のない人である。 【感情を出したほうが好かれる】加藤諦三著/三笠書房
January 6, 2019
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そもそも資本主義の歴史を振り返っても、そのはじまりは、ビジネスを通して、「世のため人のため」に貢献することにあった。 資本主義はキリスト教社会、なかでも倫理的な教えの厳しいプロテスタント社会から生まれてきたものである。初期の資本主義の担い手は敬虔なプロテスタントであり、マックス・ウェーバーによれば、彼らはキリストが教える隣人愛を貫くために厳しい倫理規範を守り、労働を尊びながら、産業活動で得た利益は、社会の発展のために活かすということを、モットーにしていた。 したがって、事業活動においては、誰から見ても正しい方法で利益を追求しなくてはならず、また、その最終目的はあくまで社会のために役立てることであった。 つまり、世のため人のためという高邁な精神が、初期の資本主義の倫理規範となっていた。米国の初期の資本主義の担い手の経営者たちもこのような「世のため人のため」という精神で、ビジネスチャンスを拡大していった。 強欲な資本主義の限界 しかし、現代の米国を中心とした資本主義は、人間の欲望を原動力として、できるだけ多くの利益を得たい、それも楽して得たいと望むものに変貌してしまった。そして、そのもてる意志と知性を駆使して、その際限のない発展に地道をあけてきたのである。 その最たるものが、金が金を生む金融界における技術革新である。米国を中心とする金融機関は、高度な数学や統計学、また最先端のIT技術を駆使して、レバレッジを活かした金融派生商品を次々に開発し、それを全世界に販売し、巨額の利益を上げてきた。 それはまさに、できるだけ楽をして巨額の利益を得たい、また自分だけが限りなく儲けたいという、利己的な欲望がエンジンとなってきた。 しかし、そのような際限のない欲望に彩られた金融派生商品に、サブプライムローンというきわめてリスクの高い債権が証券として組み込まれ、それが全世界に流通するに及んで破綻をきたし、二〇〇八年九月、いわゆるリーマンショックが発生し、世界経済に大きなダメージを与えた。 米国を中心に多くの国々の巨大金融機関が破綻に瀕し、それを救済するため、各国政府はやっきになって巨額の資金を注入するなど支援をつづけ、ようやく、世界経済は小康を保つことができた。 しかし、それもつかの間、その後、二〇〇九年十月には、ギリシャの政権交代によって、その財政赤字が公表数字よりも大幅に膨らむことが明らかになり、その後、いわゆる欧州債務危機の嵐が全世界に吹き荒れることになった。 この過剰債務も元をただせば、財政的余裕がないにもかかわらず、未来の自国民にツケをまわし、また他国民に依存し、国債を大量に発行しつづけたというエゴに起因するものと、わたしは考えている。 このような世界経済は現在、資本主義にもとづき、運営されている。一九九一年のソ連邦、および共産主義陣営が解体した後、人類は資本主義をほとんど唯一の経済システムとして、その資本主義が指し示す「市場原理主義」「経済的自由主義」、そして「成果主義」を、正しい社会原理だとして取り入れてきた。 市場原理主義、また経済的自由主義は、放任的な経済の自由競争のなかで、強者と弱者を明確にし、「格差社会」をつくり出した。また、成果主義は、能力のある者とそうでない者との報酬に圧倒的な差を生み、格差社会を拡大し、社会矛盾を決定的なものにした。 ◇ 企業の利益とは、すべての社員の献身的な努力と協力によってつくられたものである。それを経営陣の力だけで成し遂げたかのように考え、高額の報酬を得ることなど、あってはならないことである。 【燃える闘魂】稲盛和夫著/毎日新聞社
January 5, 2019
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わたしは、このようにオイルショックをはじめ、さまざまな不況を克服してきた教訓として、先に述べたように、不況は成長のチャンスであるととらえるべきだと考えている。実際に、京セラは不況に遭遇するたびに一まわりも二まわりも大きく成長していった。 不況を境に体質を強化し、次の飛躍に備えることで発展していく。その様は、春に咲く美しい桜の花にたとえられる。桜は、冬の間、寒ければ寒いほど、すばらしい花を咲かせると言われている。厳しい冬を経過した桜が、暖かくなったときにすばらしい花を咲かせるのと同じように、企業も不況をバネにして大きく発展していくのである。 つまり、不況はつらく、苦しいものであるが、それを次の飛躍へのステップとしていかなくてはならない。それには、不況が厳しければ厳しいほど、闘魂をたぎらせ、明るくポジティブな態度で、全員一丸となって創意工夫を重ね、努力を傾けて難局を乗り切っていくことこそが大切である。 【燃える闘魂】稲盛和夫著/毎日新聞社
January 4, 2019
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専修大学法学部教授 岡田 憲治 ■民主的であること① ある政治体制が「民主的である」ことを示す指標には、どのようなものがあるのでしょうか? それを考える際には、幾つかの前提条件を確認しなければなりません。 なぜならば、一般的に理解されている「民意が反映される政治である」という説明は、まずもって民意を表現する一人一人の人間の自由や平等が保証されていなければ意味がなく、かつ民意をつむぎ出すためのルールと設定が必要だからです。 まず、民意をつくる個人には、「何が自分にとっての利益(関心)であるかを自分で勝手に判断して良い」という資格が必要です。「君はそんなことを臨んでいないはずだ」などと、他者に言われる筋合いはないのです。個人にこの自由がないと、民主主義は始動しません。 次に、一人一人が「私にとってこれが良い(good)と思うこと」は、全体の決め事に採用されるかどうかは別として、になとりあえず「平等な考慮の対象とされる資格がある」という前提が必要です。自分が政治的に「良い」と考えていることを、ある者は優先的に考慮され、別の者は公然と軽視されるという不平等があってはならないということです。この時、良しとするものが正しいかどうかは関係がありません。 3番目に必要な前提は、ある政体に属している時には「その集団でなされる決め事におのおのの拘束を受ける」ということです。民主的であることを求めるなら、その話の前提には「みんなで決定したことには完全に賛同しなくても従う」という、ルールを守る意思がなければなりません。「決め事が気に入らないから従わない」のなら、その政体から離脱しなければならないということです。 いま一つの条件は、「決め事をする時には二つの場面を想定する必要がある」ということです。それはあることを「みんなで決める問題とするか否か?」を決める、という場面と、それを受けて「実際に決め事をする」場面の二つです。これは区別されなければなりません。 決め事をすると聞くと、ただ決めると考えがちですが、実は「どれを議題にするのか?」を考えないと、決める以前に「そんな問題はなかったこと」にされてしまうからです。 国会の議院運営委員会では「どの法案を審議するか」について「決め事」がなされますが、これは議会制民主政治にとって非常に重要なプロセスです。 【議会政治のそもそも[22]】公明新聞2018.8.2
January 3, 2019
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苦しみそのものが彼(=人間)の問題であったのではない。むしろ「何のために苦しむのか」という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが彼の問題であった。 (ニーチェ「道徳の系譜」) ニーチェの言葉は、私たちが生きる現代を映し出す名言だと思います。いま、何か苦悩を抱えていても、いつかは救済され、必ず自分にも福音がもたらされるというのがキリスト教の約束してくれたものでした。 これをもっと世俗的に言えば、高度成長期の時代に、たとえ中卒で学歴がなくても、金の卵として東京に出てきて一念発起して頑張れば、社長にもなれるという庶民の希望にも似ています。そう願って、実際それを実現したストーリーはあったのです。そして、そのころは苦悩する意味も自分で理解できたと思います。 ところがいまは、蛙の子は蛙で、資産格差、所得格差が広がり、それが世襲化されていく不平等な格差社会の中では、逆転の可能性はほとんどない苦悩を与えられています。しかもそれを改善する見込みすらありそうにないのです。 そうした状況下にずっといると、「自分は何のために生きているのか」という漠然とした不安が広がり、人間は次第に虚無的になっていきます。そして、なぜ自分はつらいのか、その原因がはっきりとしなくなってくる。それが現代に生きる私たちの最大の悩みではないでしょうか。 苦悩の意味がつかめない―—―—。その結果として、私たちは生きている意味にも確かなことを求めることができなくなっている気がします。 【悪の力】姜尚中著/集英社新書
January 2, 2019
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大事なことは、ここから、どうしていくかです。落胆して、自暴自棄になったり、諦めてしまうのか。それとも、“負けるものか”“今こそ信心の力を証明するのだ”と、敢然と立ち上がるのです。その一念で幸・不幸は大きく分かれます。 長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであるといっても、決して過言ではない。 では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の勝利を飾れるのか。 仏法には「変毒為薬」つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。 この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という「薬」を得るには、苦悩という「毒」を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は、幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。 私たちは、仏の生命を具え、末法の衆生を救済するために出現した、地涌の菩薩です。 その私たちが、行き詰るわけがないではありませんか。 (「羽ばたき」の章から) 【珠玉の励まし】創価新報2018.8.1
January 1, 2019
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