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新宿に柏木町と言う地名があるそうです。昔京都の宮使いをしていた若い男女がお互いに愛しあったが身分の相違で結婚が許されず、島流し同然の処置で江戸に追われてしまう。子供の誕生を知り、我が子の成長を願って桜の木を植え大切に育てた。後罪がゆるされた時は病の床にふし涙をのんで他界された話。子供は立派に成人した。右衛門の住んでいた所が右衛門の名字をとって柏木町となったとのことです。おお、美しく咲いてくれた」 三月の暖かい日差しが庭の桜の花にさんさんと降りそそぐ。この家の主は、表の座敷から、花を開きはじめた桜の若木を感慨深げに見つめている。 「わこも、桜の木のように、美しく大きく成長したことだろう。一日も早く、わこの顔が見たいものじゃ」 家の主は、静かに目を閉じ、まだ見ぬ子供の姿を、まぶたに描こうとしていた。 数年前、どこからともなく、人品いやしからぬ人物が、ここ武蔵国にやってきて、小さないおりを建てて住んでいた。いつとはなく村人の間に「この人は柏木右衛門督といって、奈良の都で宮仕えをしていたが、悲しい恋のため遠くの東の国に流されて来たのだ」という、うわさが広まっていった。 右衛門督は、大勢いる宮仕えのうちで、ひときわ目立った、美しい青年だった。ある日のこと、みかどが高位、高官の人たちを御所に集めて、蹴鞠を催された。右衛門督もこの蹴鞠の会に列席した。その時、三ノ宮という美しい姫を見染めた。やがて二人は、お互の恋心を歌に託して、やりとりした。二人が愛し合っていることが御所内の評判になってしまった。二人の恋は、みちならぬ恋だったのである。それからは、二人には監視までつけられて、言葉をかわすこともできなくなってしまった。右衛門督のなげき、かなしみは日増しに募るばかり。その苦しさをまぎらわすために、右衛門督は、毎日、酒びたりになっていた。ついに、このことがみかどの耳に入った。 「風紀をみだし、不謹慎極まる態度は、宮仕えとして不適任」という厳しい処罰を受け、右衛門督は、都から武蔵国へ追放された。 都からはるばる武蔵国にくだって来てからかれこれ一年たった。都の友人から、三ノ宮が男の子を産んだと知らせてきた。右衛門督は、この知らせを聞いて喜んだ。そして、子供が桜の木のように、立派な男に育つよう念じて、都から一本の桜の苗木を取り寄せ、庭先に植えた。それからというものは、木枯らしが吹き出すころになると、風除けを作ってやったり、まるでわが子のように、この桜の木」をいたわり育てた。 そのかいがあって、桜の木はすくすくと伸びた。やがて花が咲き滝じめた。毎年、春を迎えるたびごとに花の数も増えていった。右衛門督は践の木を見ては「わこもこのように大きくなっているだろう」と、遠くはなれた郡の、わが子をしのんで詩や歌をよみ、わずかに心を慰めていた。 「ほんとに、右街門督様はお気の毒だ」 村人たちで流ざんの右街門督の身上に、同情しない者はなかった。 それから数年はまたたく間に過ぎた。ある秋が深まった日、都から右街門督をわざわざ訪ねて来た人々がいた。彼の刑が免除され、迎えに来た人たちだった。だが、時すでに遅く、右衛門督は病床に伏していたのである。旅ができるような軽い病ではなかった。右衛門督は、とうてい都には帰れない、とあきらめてか、流ざんからの解放にも、あまり喜んだ表情も見せず、ただ、わが子の消息ばかりを知りたがっていた。そして、障子を開けさせ、木頼らしのふく庭に立っている桜の木をじっと見つめながら「来春は、この木も、たくさんの花をつけるだろぅ。わこも、この木に臭けないように大きくなってもらいたいものだ」といって、静かに息をひきとったという。右衛門督が亡くなった後、村人たちは、この桜の木を誰いうともなく″右術門桜″と呼ぶようになった。この話は、人からへと伝わって、奈良の都にも届いた。そして、若かりしころ右衛門督と親しかった人々の涙をさそったという。 右衛門督の子供は、成長するに従って、頭のきれる利発な青年になっていった。都の人々は「右衛門督の思いがこもった桜の花が乗り移ったのだ。そばへ近づくと、桜の花の香りがする」と、ささやき合ったほどで、後に″薫の大将″と”呼ばれるようになったという。 右衛門督が住んでいたところは、いまの新宿区北新宿三丁目にある円照寺付近とされており、このあたりの旧町名「柏木」も、この物語の主人公の姓からとったものだといわれている。この寺の境内にある山桜は、どのくらい代替わりしたかははもちろんわからないが、いまでも″右衛門桜〃 の名で呼ばれている。
2004.10.31

大名行列を止めた橋番 江戸時代を一言で表せば士農工商その他と階級制度が確立しており大名ともなれば庶民は顔も上げられないくらい雲の上の人だと厳しくいわれていた。そのような時代に橋をまもる金六の私利私欲でなく決められた法律を守らせるよう大名にもの申す態度に江戸庶民は金六の橋番としての厳しい態度、発言に一目を置いたはなし。政治家になるにはどうあるべきかを示した寓話でしょう。日本橋の橋台番人に、身の丈六尺(一八○センチ)、力持ちの金六という男がいた。 「早く通れ! 何をぐずぐずしておるか」と、毎日、橋のたもとに立っていて、通行人に大声でわめき散らしていた。金六は往来の人ごみを自分の力でさばくのが楽しくて仕方がないという風情だった。重い荷物を背負った商人などがぐずぐずしていようものなら、金六が駈け寄って、後ろから棒でこずき回すことも珍しくなかった。いつの間にか金六は、〃鬼の金六”の異名で呼ばれ、こわがられるようになった。 江戸幕府の橋の取締りはなかなかきびしかった。 ′橋のたもとや橋の上に商人や乞食おいてはならない。車に荷物を積んだまま通してはならない。子供を遊ばせてはならない。通行人を橋の上で立ち止らせてはならない。ちりがたまると、橋が腐り易いから、いつでもきれいに保て。雨が降ったら日に二、三回は洗え…などと町奉行所から厳しいお達しが出ていた。そのうえ、町奉行所の定橋掛掛という役人が見回りに来て、少しでも怠けているところを見つけようものなら、さっそくその町の名主をはじめ橋台番人は、こっぴどくしかられた。 こんなにも大切にしていたのに、文化三年(一八〇六年)三月四日の大火で、日本橋は焼け落ちた。すぐ板橋は出来たものの、橋の取締りは以前にも増していつそうやかましくなった。たださえ往来の激しい日本橋だから、このため、ますます渋滞した。金六は毎日、割れ鐘のような罵声をはり上げていた。 ある日のこと、いままで静かに通っていた往来が、急にざわつき出した。金六が振り返って見ると、供回りを従えたお籠が、橋を渡って来るのが目についた。 「止まれ! その籠止まれ!」と叫びながら金六は、橋の真中に仁王立ちになった。驚いたのは行列の連中である。血相をかえて供頭ろしい武士が駈け寄って来た。 「貴様は何者だ。無礼千万、ただいま有馬中務大輔様のお通りだぞ。そこをどけ!」 怒鳴りつけられても金六は、顔色一つ変えず、平然として動こうともしない。それでも、相手が大名だとわかると、言葉をていねいに、この橋は仮橋ゆえ馬、籠、車はお通し申さぬことに定められております。然るこ、お籠、引馬にてご通行とは、いかがお考えの上でございますか」といいながら、金六は橋のたもとを指差した。供頭の武士は「御用のほか、車、馬、籠の通行止め」と書いた高札をしばらく見ていたが、言葉につまってしまった。 「お役目ゆえこの方より町役人に訴え申し上げる間、しばらくそのままにてお待ち願いたい」「いやすでに殿は橋の中ほどまで差しかかっております故ぜひお通し願いたい」「それはなりませぬ」 しばらく二人ま「通せ」「通さぬと押し問答をしていたが、だんだん武士の旗色が悪くなってきた。「しからば、貴殿だけお残りいただいて、ご同勢はお通しいたそう」ー 金六は、こう妥協案を出し、供頭に自身番まで同行することを求めた。妥協が成立し、大名行列は静かに、仮橋を渡って行った。厳しい規則に締めつけられるのは、専ら庶民だけで、大名という特権階級ともなると、こんな場合、特別の扱いを受けの事件を遠巻きにしてじっと成行きを見守っていた町人たちは、双方の面子を立派に立てて、しかも筋を通した裁きに、すっかり感心してしまった。一方、金六は供頭の武士を伴って町役人に事の次第を報告した。後日、責任が自分だけにかからぬよう、その次第を書いた一札を供頭の武士からとって、帰ってもらったという。 この事件は、江戸中の評判になった。″橋番が大名行列を止めた″というのでで、江戸庶民はこの話に喝采を送ったという。それまで「鬼の金六」「トラの威をかる狐」などと陰口をたたかれた、きらわれ者の金六の名は、このことがあってから、一躍人気者にのし上がり、わざわざ遠くから、金六の顔をみに来る、物好きな江戸庶民が跡を絶たなかったという。江戸はやっぱり平和だったのだ。るのが、ごく当り前だった。だから、こ
2004.10.30

ゆで卵からヒナがかえるコウノトリのお話。お坊さんがかわいがっていた鳥が巣に卵を産んだ。それを知ってか小僧がゆで卵として食べようとたくらんだ、お坊さんが帰ってきてそれを知り小僧をたしなめた。小僧はそのゆでた卵をもとにかえした。鳥が毎日青い草を運んでくる。その草をお坊さんが食べたところ体の調子がよくなった。コウノトリのご恩かえしと評判になった話。動物愛護の大切さを教えた寓話でしょう。 およそ二百年前、赤板溜池(港区)に長谷寺という寺があった。寺はうっそうと繁った樹木に取り囲まれていた。住職は、朝のお勤めを終え、境内の掃除をすませたあと、そばの林を散歩するのが習わしとなっていた。 ある朝、いつものように散歩していると、どこからともなく、真白い鳥が飛んで来て、松の木の技にとまった。住職がよく見ると、コウノトリが巣を作っていた。木をゆすってみたが、逃げようともせず、せっせと口ばしで巣をつついている。「巣を作ったばかりだな.これから卵を産むのだろう」 住職は独りごとをいいながら、寺に帰ったが、なんとなくこの鳥がかわいくなってきた。そこで翌朝、住職は竿の先にえさをつけてこっそり巣の中に入れてやった。このようにして、毎朝散歩に出ては、えさを入れてやっているうちに、いつしか鳥の方でも、えさを待ちこがれるようになった。間もなくコウノトリは卵を産んだ。住職はひなのかえるのを楽しみにしていた。 何日かたって、住職は壇家の法要に招かれて出かけた。留守番をおおせつかった小僧二人は、雑談に花を咲かせていたが、ふと一人が「おい、コウノトリの卵をゆでて食べようではないか」と、言いだした。 「住職がかわいがっているのだから、わかると怒るぞ」 ー もう一人の小僧が反対した。二人はしばらく迷っていたが「誰が卵をとったかわかるまい」というので、木によじ登って、卵を二つ盗み出した。持ち帰った卵を鉄びんに入れて火鉢にかけた。 「大きい卵だからさぞうまかろう。早くゆだらないかな」 二人は火鉢のそばで話に夢中になっていたので、住職が帰って来たことにも気がつかなかった。 法衣を脱いだ住職が、お茶を飲もうと、鉄びんを持ち上げると、中でことことという音がする。不思議に思ってふたをとって中をのぞいてみたら、卵がころころと転っていた。住職はさっそく小僧を呼びつけた。 「卵を鉄びんに入れたのは誰だ。これはコウノトリの卵だろう。出家の身で殺生するとは何事か。卵をすぐ巣に返しなさい。にえているようだが、鳥のことだからわかるまい」と、厳しくしかりつけた。二人の小僧は、恐れいって卵を巣に返した。
2004.10.29

武士も驚く惣兵衛の大力 「そちは、たいした力持ちと聞いているが、あの石を持ち上げることができるかな」 ぽかぽか暖かい春先のある日、牛込の武家屋敷の内庭で、この家の主が出入りの百姓、惣兵衛をからかうように庭石の一つを指差してこういった。惣兵衛は江戸郊外、新座郡小呉(練馬区大泉学園町)の百姓だった0 惣兵街は、季節の野菜類をこの武家屋敷に運んで来ていた。ある時、この家の主は「野菜を持って来る出入りの百姓、惣兵衛は力持ちだ」と、家の者たちが話 しているのを耳にした。しかし、肩幅こそ広いが、上背もあまりない惣兵衛に、そんなカがあるものかどうか、疑っていた。が、一度機会をみて、惣兵衛の力を試してみたいと思っていた。 惣兵衛は、この家の主に、力持ちといわれ内心よほどうれしかったに違いない。日焼けした顔に白い歯を出してにやりと笑ったが、力試しについては、なかなか惣兵衛が返事をしないので、武家は「この石を持ち上げたら、その方に石とほうびをとらせよう」といった。 「お武家さま、それは本当でごぜいますか」 ー 惣兵衛は念を押した。「武士に二言はないものだ」 家の主は、威厳にみちた表情でそういった。 「それでは、試してみましょう」 惣兵街は五十貫 (約百八十キログラム)もあろうと思われる、丸っこい庭石のところへ歩み寄った。百姓仕事で鍛えに鍛えた、骨太のがんじょうな腕を、ぐっと伸ばすと庭石を力強く抱きかかえ、身を少し後ろにそらし、腰に力を入れる。ぐうっと一呼吸で石を胸のあたりまで持ち上げた。ここでちょっと石を持ち替えるや、「う-ん」と、腹の底から衝いて出る気合と共に、二本の太い腕が、この庭石をぐんぐん高く差し上げてしまった。 「あっばれ、あっぱれじゃ」 主の表情は喜びと驚きの色に輝いた。その日、惣兵街は、なにがしかの銭と、石を約束どおりもらった。石を馬に背負わせ、得意顔で帰り途を急いだ。牛込から練馬のはずれだから、三里余り(十二、三キロメートル) はあろう。それに、この馬は惣兵衛が長年手塩にかけて育ててきた年寄りの馬だった。馬をせきたててやっと家の近くまで来た時、馬はばったり倒れて死んでしまった。さっきまての惣兵衛の浮き浮きした喜びの気持が、潮の引くように心から消えて暗い悲しみが心を覆ってしまった。 「とんでもないことになった。かわいそうなことをした」 惣兵衛の愛馬に対する惜別の情は、表現しょうもないほどで、ただ涙をぬぐうだけだった。惣兵衛は、馬の背中から庭石と荷鞍をとった。馬の亡骸は、畑の隅に手厚く葬られた。 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 惣兵街は口の中で数回繰り返した。そして墓標のかわりにこの石を置いた。 その後惣兵衝は、この石に「馬頭観世音」と彫らせた。いまでも大泉学園町と西大泉町境の農家のわきに残っている。 石の裏には「天保十一年庚子年(一八四〇年)九月、加藤惣平衛建立」と刻んである。したがって、この物語は江戸末期のことだろう。惣兵衛の子孫は、いまでも大泉学園町に住んでいるが、この話はもう知っている人はあまりいない。
2004.10.28

人の幸福を願うのは神仏の考え方 ところが人間には人の幸福をねたむ悪い性癖がある。この話の元はお松婆に名をかりて、このようなことは止めさせたいの願望から作られた話であろう。よく、よそ者といって他地区からの転入生をいじめの対象にするのは現在でもあることです。 ももの花が春の田園風景の中でひときわ美しく咲きはじめたころのことだ。江戸のずっと西北、土支田村、小樽村(いずれも練馬区東大泉、南大泉、西大泉、土支田町付近、一人の醜い老婆がやってきた。どこから来たのか、また、どこのなんという婆さんだか、誰も知らない。つぎからつぎへと、家々の戸口に立って、米麦やみそなどをもらい歩いていた。風体からして、乞食ではなさそうだった。というのは、戸口に立った時、このおう」婆さんは、鈴をちりんちりん鳴らして、何やら口の中でもごもごとお経のようなものを称えていた。村人たちは「巡礼さんだ。麦でも進ぜよう」と、あり合わせの食糧をわけてやっていた。 ところが、この婆さん巡礼は、いつの問にか、小樽村と土支田村の境を流れている白子川のはとりに、掘立小屋を建て、そこに住みついて、相変らず家々を巡っていた。 そのうち婆さんの名は、お松というだけはわかったが、村の人々と打ち解けて世間話に打ち輿ずることもなかった。また村人の方もお松婆さんを、できるだけ避けるようにしていた。ごま塩まじりの頭髪、苦虫をかみつぶしたような、苦悩を浮かべた風ぼうには、村人ならずとも、親しみがわかなかったろう。深い額のしわには、婆さんの半生の秘密が隠されているのかも知れない。らんらんと光る眼は、何か復讐に燃えているような恐ろしさがうかがえた。だが、村には何事も起こらず、平和な日日が続いた。 秋が深まり、武蔵野の難木林が黄色く染まるころになると、村々から豊年を祝う、祭の太鼓の音が響いてきた.このころになると、村の娘たちの花嫁姿が目立ってくる。 ある秋の日の午後、土支田村から小樽村へ行く花嫁を送る行列が、お松婆さんの小屋の前にさしかかった。花嫁がうつ向きかげんの姿で、この小屋の前を通り過ぎようとした時のことである。、 何を思ったか、野獣のように狂ったお松婆さんが、小屋の中から飛び出してきた。と思ったつぎの瞬間、お松婆さんは、飛鳥のように花塚に襲いかかった。花嫁を突き倒すが早いか、美しい花塚衣装をずたずたに引き裂いてしまった。行列にくわわっていた人々は、不意を衝いた婆さんの襲撃に、どぎもを抜かれてしまい、なす術を知らなかった。「どうしたというのだ。婆さんは気でも狂ったのか」「罪もない花嫁に、なんていうことをするんだ」 ー人々は、口々に怒り悲しんだだけだった。それに、婆さんが般若の面のような、ものすごい形相をして、行列の人々をぐっとにらんでいて、手の下しようもなかった。かろうじて恐怖と悲しみに泣きじゃくる花嫁を助けだすのが精いっぱいだった。 花嫁の行列は、実家へ逆戻りした。そして相談したあげく、花嫁にはかわいそぅだが、「縁起が悪いから、破談にしたほうがよい」という意見が多く、結婚は取りやめ、「あの話はなかったことにする」という、花婿花嫁両方の話が成立した。 こんなことが繰り返され、縁談がこわれる例が増えた。このため、土支田村と小樽村を結ぶ道では、この通りが最も近かったが、婆さんの妨害と破談を恐れて、その後は、花嫁の行列は遠回りするようになったという。このお松婆さんの執念は強く、死後も亡霊となって花嫁の行列を妨害したというのである。村の人々は、亡霊のたたりを恐れて、婆さんの小屋の跡に祠を建てて供養した。この話は、江戸中期ごろからあったらしいが、確証はつかめない。今でも南大泉と東大泉の境、西武池袋線に沿ったところ、白子川のほとりで、、小高いところに、小さな石の祠がある。土地の人々は「お松さま」と呼んでいる。しかし、信仰の対象になったことはないようだ、というのが古老たちの話である。 民俗学者の話では、江戸時代には、他村へ若い娘が嫁入りする時、その村の若者組合の若衆たちが納得しない場合、これを強行しようとすると、よく妨害されたことがあったという。このお松婆さんの詰も、こうした妨害がこのような形の話に姿を変えたのではないかというのである。
2004.10.27

コウモリ夫婦の愛情先日ある地域の創立50周年を祝う中学校に行った、そこの在籍生徒数は全校で150名私が在籍したころは1500名いたのがなんと十分の一.これは若い人達が子どもを作らないことが原因でしよう。年金問題の根底に少子化があります。結婚はお互いの支えあいでなりたつもの、人間はこうもりに学ばねばなりませんね。 朝起きてみると、夜明けまて降り続いた雨がからりとはれあがり、強い夏の太陽が照りつけていた。久兵街衛は、その明るい日を背にして、襄にある土蔵を見上げていた。 「困ったことになった」と、ひとりごとをいいながら、朝のしたくをしている女房に声をかけた。 「おい! ちょっと出て来てみろ!」 「なんだね、朝っぱらから大声を出してこうるさそうに返事をしながら、台所から女房が出て来た。 「あれをみろ」久兵衛は、土蔵の片隅を指さした。くぎで打ちつけてあった壁板が数枚はがれて、壁とのすきまに雨水が流れ込み壁が落ちていた。前から修理をしなければ……と思ってはいたが、そんな余裕もなかったので、そのままにしておいたのだが、こうひどくなっては、ほうっておくわけにもいかない。とにかく、大工に話してみょうと、近くに往んでいる次郎兵衛という大工を呼んでき久兵衛のふところ具合をよく知っている次郎兵衛は「なあに、この程度じやあ、たいしたことはない。くぎのニ、三本もぶっつけておきゃあ、雨はまだ凌げる」といって、はがれた板をぽんぽんと打ちつけて帰って行った。 この話は、百三、四十年前の六月のある朝のことである。 話はかわって、さらに十五年ほどさかのぼる。久兵衛夫婦は、一旗あげようと思って、小田原から江戸にやってきた。そして、部屋借りをしながら小間物の行商をはじめた。二人は雨が降ろうが、風が吹こうが、休まずに力をあわせてよく働いた。小金もたまった。その金で浅草阿部川町の古い家を買い、ふとん屋の店を開いた。ところが、これから商売を大きくしようとした矢先、急に世の中が不景気になり、商売は思わしくなくなった。老中水野忠邦が緊縮政策(天保の改革)を打ち出したためである. ここでまた、話の舞台を、前に戻す。久兵術が土蔵の壁板を大工の次郎兵街に修理してもらってから三年がたった。家のあちこちが壊れだした。土蔵の壁板も、くぎを打っただけの応急修理では、もたなくなったのである。そして、ふとん綿を入れてある土蔵に雨が流れ込んで、ふとん綿に損害を出した。これでは商売にならない。久兵衛は、あちこちと心当たりを歩回って金をくめんし、家を修理かたがた一部を改造することになった。 この工事を請け負ったのが、大工の次郎兵衛だった。いよいよ着工の日、次郎兵衛は、二人の若い職人を連れてやってきた。 二日日の朝のことである。土蔵の腐った壁板をはいでいた次郎兵衛が 「ちょっと来てみてくれ、薄気味の悪いものがいるのだ」と、大声でいった。 久兵衛が壁板のすき間をのぞいてみると、黒いものがうごめいている。 「なんだろう」 ー そこで次郎兵衛が板をはぎとってみて驚いた。うごめいていた正体は、くぎで羽根を打ち抜かれた大きなコウモリだったのである。つまり大きなコウモリは三年前、次郎兵衛が壁板にくぎを打った時以来、板の裏側に打ちつけられたまま生きていたのである。 「よくも生きていたものだ」と、二人は感心するやら驚くやら。この経ぎに、久兵衛の女房や若い大工の弟子も集まってきた。するとそこへ、一匹のコウモリが餌をくわえて飛んできた。そして、いましがた次郎兵衛がはいだ壁板の支え木にとまった。みんながじっとコウモリを凝視していた。ややしばらくして、久兵衛がコウモリのそばに近づいて行ったが、コウモリは逃げようとしない。コウモリのまわりをよく見ると、壁に深い輪の跡があって、その部分の壁土だけがはげ落ちていた。 「くぎで打ちつけられたコウモリは逃げ出そうと、ばたばた羽根を動かしたが、くぎが抜けない。片方の羽根を固定されたまま、三年間も同じところをぐるぐる回っているうちに、あの跡が出来たのだ。そして、支え木にとまっている方のコウモリが、その間、せっせと餌を運んでいたのだ」 大工の次郎兵街は、こう推理し、みんなもこの説に納得してうなずきあっていた。そして、くぎに打たれた方が亭主、餌を運んで来た方が女房だろうということになった。 このコウモリ夫婦の愛情物語は、江戸庶民に大いに受け、″亭主コウモリ″が掘ったという土蔵の壁の輪を、はるばる″実地検分″に来る熱心な人まであったほどだったという。
2004.10.26

雷を退治した不動尊 海にでて漁をする方々にとって嵐ほど困るものはない、今と違いレーダーはない、西も東も分からなくなる。陸地らしき方角に光るものがあった。それは真蔵院の松の上にいた竜の目の光であったと、信心すれば助かる。神、仏を大切にする気風を伝えていきたいことから作られた寓話ではないでしようか。応仁の乱はようやくおさまったが、地方の豪族が勢力争いをはじめた戦国時代の初期のころのことである。ここ南葛飾郡葛西村 (江戸川区葛西)は、戦乱をよそに、平和な海辺の一寒村だった。住んでいる人々も純真で素朴だった。ある春の夕暮れ、墨染の衣をまとった一人の雲水が、何やら背負ってとぽとぽと村の道を歩いていた。やがて彼はある粗末な家の前に立った。 「旅の僧だが、一晩泊めていただけないだろうかー ・ ・ 」 「むさくるしい家ですが:こ家人は喜んで雲水の頼みを引き受けた。 翌朝、雲水は「一夜の宿のお礼に……」といって、背負っていた一体の不動明王の木像を残して行った。 不動明王の木像は、村にこれをおさめる御堂もなく、厚いはこりをかぶっていた。 数年後、村に疫病が流行した。Tゝれは不動明王のたたりだろう」と、村の物知りの老人が言いはじぬた。村人たちはさっそく、真蔵院という寺を建立して、木像を安置した。あれほど猛威をふるった疫病もたちのうちにおさまってしまつたっ この時、寺の境内に村人たちがマツを五本植えたっ このマツは、たちまち大きくなり、海上敷里の遠方からもよく見え、船頭たちのよい目標になった。船頭たちは、このマ心の恩恵に感謝し、この不動尊を「波切不動」と呼んで信仰した。その後、ある年の初秋のことである。江戸から行徳(千葉県行徳町) の塩Sに通う舟が、葛西沖にかかったころ、空か急に真暗になったかと思うと、大しけになった。舟は波に流され、ついに陸地を見失ってしまった。船頭たちが必死になって漕いでいるうちに、遥か彼方に白く光るものを認めた。それを頼りに進むと、不動明王の安置されている真誠院近くの海岸にたどリ着いた。船頭たちは助かったことを喜びあった。ところで、舟を導いてくれた白い光は、いったいなんだったのだろうか。白い光を目ざして進んで行くと、そこには波切不動のマツがあった。血気盛んな一人の若い船乗りがマツの木に登ってみると、大きな竜がとぐろを巻いていた。白い光は竜の両眼から発していた光とわかったので、マツに注連縄を張り、村人たちが集まって祈ると、この竜、雲に乗っていずこともなく姿を消してしまった。竜の去った跡に一振りの剣が残ってた。村人たちは「これは宝剣だ。不動尊に納めよう」といって、真誠院の宝物として、剣を祭った。 さらに時が流れ、永禄年間 (一五五八丿一五七〇年) のある夏の日、この付ぃは大雷雨に見舞われた。陸では立木に落雷して、木の幹を裂き、海では大波を巻き起こして舟を破壊した。村人たちは、家のすみにうずくまって震えていた。すると「どすん、どすん」という下っ腹に響くような不思議な物音がしたかと思うと、こんどは「どたん、ぱたん、どすん」と、まるで雷神が暴れ回っているような、すさまじい音がした。それに続いて「うお1うおー」という苦しそうなうめき声が聞こえた。 「なんのうめき声だろう?」 村人たちは、この不気味な声におののいた。そ’れから、ものの小半時もたったか、たたぬうちに、雷雲はうそのようにはれ、何もなかったように元の静かな海辺の村に戻っていた。 「さっきのものすごいうめき声は、いったい何だったんだろう?」 村人の関心は、うめき声に集まっていた。 「さっきのうめき声は、確かに真蔵院の方角から聞こえた」 と、一人がいう村人たちはわれさきにと、真蔵院を目ざしていっせいに走って行った。真蔵院で村人たちが、最初に目撃したものは、庭に流れていた多量の血と血に染まってころがっていた宝剣だった。村人たちは、腰を抜かすほど驚いて、後ずさりしたほどだった。 「これは、さっき暴れた雷神を不動尊が退治したものだ。それに間違いない」一番うしろからゆっくり歩いて来た老人が、この惨状を見て、こういった。 「そうだったのか」と、村人たちはやっと納得がいったというような表情で、老人の言葉を信じたのである。 これ以来、村人たちはこの不動尊を「雷不動」ど呼んで深く信仰するようになった。その後、このあたりでは落雷がないという。 真蔵院の前に「雷」という都営バスの停留所があり、不動尊もある。真蔵院建立の由来については「新篇武蔵風土記」にもあるが、ここでは土地の人々に語り伝えられている話から採取した。真誠院は、いまでも漁業や運搬などの船舶関係に従事している人たちの信仰を集めている。
2004.10.25

お菓子を食べた蛙のガマを懲らしめてやろうとした山崎主税は池の水をぬいて、たしかめようとしたがガマが謝るのを聞き、赦してあげる。帰るはその御礼に主税の家が火事になった時、そのガマが出てきて放水し家の焼失をまのがれたという話。これも相手の立場にたって考えてあげる主税の心の豊かさが良い結果をみたという寓話でしよう。真夏のある夕方、旗本の山崎主税助か来客と池に面した禄側で茶飲み話にふけっていた。すると不思議なことに、菓子器に盛られた菓子がひとりでにふわふわと舞い上がり、池の方へ飛んで行った。二人は驚いて菓子の行方を目で追跡すると、池の向こう側に、とてつもない大きなガマが大きな口を開いて菓子を吸い寄せていた。怒った主税助か床の間にある大刀を鷲づかみにすると池の方へ駈け寄った。その時には、ガマは危険を察知して、池底深くもぐリ込んだあとだった。 「あのガマは、ひょっとすると、この池の主かも知れない」 と、二人は認めたものの、どうにもくやしくてたまらない。そのうち、日はとっぷり暮れた。ガマをこらしめるにしても、暗くては手が出せない。そこで二人は、翌朝、池の水を抜いてガマを探すことにした。 その夜、主税助の夢枕にガマが現われ、話しかけてきた。「さきほどは誠に失礼しました。腹がすいていたので、珍しいお菓子をみてつい手が出てしまいま、した。池の水を抜くのはご勘弁下さい。そのかわり、万が一、火事になったら水を吹いて火を防ぎましょう」「そんなことでは許せない。何か世の中のためになることはできないか」と、主税助はガマに反省を求めた。ガマはしばらく考え込んでいたが、「火傷をして薬を塗た上に’上’という字を書いた紙片を貼って下さい。火傷が直ぐ治ります」と、教えてくれた。 主税助はまじめくさって語るガマの表情を見つめていたが、まんざらウソでもあるまいと思ったのか、池の水を抜かない約束をした。すると、ガマは喜んで池の水の中にもぐってしまった。 次の朝、主税助か不思議な夢について頭をひねつているところへ、きのうの友達が池の水を抜く手伝いにやってきた。 主税助はさっそく、昨夜の夢の話をした。そして二人はガマがいった話について話し合ったが「いずれ日がたてば、ガマのいうことがうそかまことかわかるだ、ろう。それまで待っていよう」ということになって、友達は帰って行った。あくる年の文政四年 (一八二ー年) 四月三日、古川橋(港区)付近から出た火が、みるみるうちに燃え広がって麻布の主税助の家もあぶなくなってきた。主税助は、女、子供たちを避難させた後、下男たちを相手に、水に浸したむしろを家の周囲に打ちつけたり、池の水を壁や柱にかけて火を防いでいた。火はついに隣家に燃え移り、隣家は火炎に包まれてしまった。主税助の家に燃え移るのは必至と思われた。主税助は、もうこれまでと、防火をあきらめ避難しょうとした。 と、その時、池の中から大きなガマが現われ、大きな口から水を吹き出し、主税助の家に注水しはじめた。水がなくなると、池にもぐリ注水すること数十回、一時間余りも火と闘っているうちに、周囲の家はみんな焼け落ち、火はようやく下火にった。そして主税助の家だけが焼け残った。そこで一年前を思い出した主税助か、ガマにお礼をいおうと探したが、もうどこにも姿は見えなかったという この話は、やがて江戸中にひろまった。そして火傷をした人や火災除けにするという人が、お札を分けて下さいと、主税助を訪れ、門前に市をなすありさまだったという。「上」の字を書いた紙片は、いつとはなしに「上の字様」と呼ばれるようになった。それからというものは、火傷の特効薬としてガマの油を売り歩く街頭商人のうちには、この話を折り込んで口上を述べる者もいて、江戸庶民からよくうけたという。 いま港区立運動場横の坂をくだったところ南麻布三丁目にある池がそれだと言い伝えられている。主税助の屋敷内にあったころの池は、うっそうと繁った樹木に取り囲まれていたといわれるが、いまは外国大使館や大邸宅が建ち並んでいる。この池のほとりにガマを祭った弁天堂があったと伝えられているが、現在ではなくなっている。
2004.10.24

今も昔も変わらないものに嫁と姑との関係でしょう。自分が虐めれたから今度は自分がその番だ。そのようには考えないでしようが、若い人と年寄りとは考え方は異なります。そこをお互いに相手の立場に立って発言や指示をしてみてはどうでしょうか。 足立(足立区)一帯の豪族、宮城宰相には子供がなかった。彼にとっては子供のないことが大きな悩みだった。「子供が生まれないものか」ー いつもこのことが、彼の脳裏から消えたことはなかった。そこで、「子供をぜひ授けて下さい」と、彼は紀州の熊野権現に願をかけた。数年後、女の子が生まれた。年ごろになった一人娘は、美しく気立てのやさしい女性に育った。手塩にかけて育てたかいがあったわけである。そして誰いうともなく、この一人娘を足立姫と呼ぶようになった。美しい娘となった足立姫の婿には、いったい誰が選ばれるのか、この近郷近在の若い人たちの関心はこのことに集まったのである。足立姫が十七歳を迎えたとき、豊島左衛門尉との婚約が整った。左衛門尉は、入間川(現在の荒川)をへだてた向う側、つまり現在の北、板橋区あたりを領有していた豪族の長男で、武勇に秀でた美丈夫だった。 「足立姫が豊島の総領息子のところへ嫁入りするそうだ。どうりで、立派な嫁入道具が毎日のように足立の御館が運ばれると思っていたが・・・「似合いの夫婦になるだろう」などと、村人たちはささやきあっていた。 やがて輿入れの日が来た。 ある晴れわたった日、足立姫を乗せた輿は入間川の流れを舟で渡り、左衛門尉の館へ入った。こうして、村人たちの祝福を受けながら嫁入りはとどこおりなく終ったが、足立姫に悲しい運命が待ち受けていようとは、神ならぬ身の誰一人として想像もしなかった。 数か月がまたたく間にたった。 左衛門尉の母親が、このころから嫁をいじめはじめた。 「なんです。花嫁のくせに大またで座敷を歩いたりして・・・」足立姫の一挙一動に姑は、なんくせをつけた。それでも姫は従順だった。そしてよく仕えた。左衛門尉は、足立姫をかわいそうに思ったが、慰めの言葉でもかけようものなら、「嫁を増長させる」といって、母親がますます猛り立つので、黙ってしまうほかなかった。親に従順でなければ″親不孝者″と指弾される世の中であった。左衛門尉は、はらはらしながらも、どうすることもできない。姑の嫁いじめは徹底的だった。足立姫の忍耐にも限度があった。それは、「お前には、いやしいみそかお(秘密の男)がいるというではないか」と、姑がありもしない作り話をぶっつけてきた時である。 足立姫は思った。妻としてこのような侮辱に耐えることはできない。だが、実家に帰ろうかと思った時、「一度お嫁入りしたら、実家はないものと思え」と、嫁ぐ日にこんこんとさとされたことを思い出した。 帰る家がないのも同然の足立姫は、ついに死を覚悟した。その夜そっと家を出た。暗い道をひとりで歩いて、入間川べりにでた。誰も知らないと思ったのに、豊島家の女中五人が跡をつけていた。日ごろから足立姫に同情的だった五人の女中は、一緒に死ぬといってきかない。泣けるだけ泣いた後、六人は流れに身を投げた。 翌朝、入間川の土手に六人の遺体が流れ着いた。村人たちは「あれほど人のうらやむ嫁入りをした足立姫が、どうしたことだろう。お気の毒に……」といって袖を濡したという。 身投げの原因を知った足立姫の父親は、娘の薄幸を悲しんで、以前に願をかけたことのある熊野権現にはるばる出かけてお参りし、娘たちの冥福を祈った。すると、ある夜、一黒い衣をまとった坊さんが夢枕に立って、入間川に浮いた大木で阿弥陀様を彫ってまつれ、と告げた。宮城宰相が帰ってみると、入間川に一本の大木が浮んでいた。そこで、坊さんにいわれた通り、六体の阿弥陀様を彫って、それぞれ死んだ娘たちの出身地の寺にまつり、長く冥福を祈ったという。 この話は、およそ五百年前のものといわれ、それ以来、春秋の彼岸には″六阿弥陀詣で…といって、六つの寺を巡拝する人が跡を絶たず、この巡拝は昭和の初めころまでさかんだったといわれている。 六阿弥陀の寺は、足立区江北二丁目にあった恵明寺、北区西ヶ原一丁目無量寺、同区田端一丁目与楽寺、台東区上野常楽寺、江東区亀戸四丁目常光寺、北区豊島二丁目西福寺の六寺だったが、いまでは無量寺、与楽寺、西福寺、常光寺の四寺が残っているだけである。
2004.10.23

「家貧しくして孝子出ず。」豊かな現代では孝行をする若者はあまりみかけなくなってるのは残念なことです。親の世話を拒否する若者が多いのが一般的のようです。親がなくなると遺産めあてに争いが始まるという。「争族」が見聞されるのは嘆かわしい限りである。自分の身体をさしだしてまで母親においしいものを食べさせてあげたいとするこの孝行息子たちの話を今の若者方に話し読ませてあげてください。 およそ三百数十年前のことである。 麻布の裏長屋に、親孝行な浪人兄弟が住んでいた。兄弟は力をあわせて手内職に精を出すが、暮しは少しも楽にならず、ときには自分たちの食事をさいて、母親だけに食べさせることもあった。 「お金さえあったら、もっとお母さんに楽をさせてあげられるのに・・・」 兄弟はただ金のないことをなげいていた。 ある日、外出先から帰った兄が、突然、こんなことを弟にいった。 「私がキリシタンだと、役所に訴えれば、ほうびの金がもらえる。そうすれば、こうまで母親に不自由をかけずにすむ。お前は、そういって、このわたしを訴えて欲しいのだ」 「信仰のない者を、しかも実の兄を訴えては、天罰が下るに違いありません。その天罰が恐ろしい。それまでおっしやるなら、いっそのこと、この私を訴えて下さいと、弟はこういって、真向から反対した。、一度言い出したら、なかなか自分の主張をひっこめようとしな性格の兄が先の短い親のために、この命を捨てるのは惜しくない」と言い切ると、弟もなす術もなく負けてしまった。 当時、キリシタンは禁制だった。したがって、幕府は信者を摘発するのに密告者を褒賞する制度をとっていた。 弟は、兄の命令通り、数日後奉行所に「恐れながら・・と、兄が禁制を破ってキリシタンとして信仰を続けていることを訴え出たのである。兄は捕えられて獄舎につながれた。「兄が信者なら、弟の方も多少の疑いはあるが、訴人のことなれば、この際、特別のはからいをもって詮議を差し控える」ー 弟はその後、 奉行所に呼び出され、こう言い渡されて、銀百枚を褒美にもらった。 獄舎につながれた兄は、毎日厳しい取り調べを受けた。とがった棒を並べた上や、白州 (小石を敷いたところ)の上に数時間も座らせられて、打つけるのひどいせっかんを受けたあと、逆づりにされたりした。火攻め、水攻めと、ありとあらゆる厳しいせっかんが続いた。そんな時、兄の答はただ「信者に間違いありません」の繰り返しだけで、キリシタン宗門のとなえごとなど何ひとつ知らなかった。親孝行をするために、褒美の金欲しさから仕組んだ事件であり、ニセ信者だから、キリシタンについての知識は全くなかった。一か月余りの取り調べの後、役人たちは 「どうもおかしい」と、この男に疑いを持った。 一方、弟は褒美の金で毎日おいしいご馳走を母に食べさせることができた。そして、兄については「他国へ出稼ぎに行った」と、母に嘘をついていた。しかし、やがて母親が不審を抱きはじめた。 ある夜、褒美の大金が母に見つけられた。あるはずのない大金を母親につきっけられた弟は、嘘を言い続けることができず、一切を打ち明けた。母は兄弟の厚い孝心に深く感動し感謝したが「嘘をついてまで孝行するということは、本当の孝心ではない」と諭した。翌朝、弟は「親孝行するための金欲しさから、兄弟が相談のうえ、兄をニセ信者に仕立てて訴え出たものです」と、中し出た。 兄の供述に疑いを深めていた矢先だったので奉行所は直ちに兄を獄舎から出して、弟と対面させた。弟が一切を母に打ち明けたあととは知らぬ兄は 「弟は気違いです。私は本当に信者です」と言い張っていたが、涙ながらに語る弟の言葉に「母がそんなに心配しているなら……」と、兄もついにニセ信者を認めてしまった。 、 このことは直ぐ上役に報告された。その結果、兄をキリンタン信者とする確証がない。そうかといって、公儀をいつわった罪は重いがこれも親孝行がしたいため、はりつけの刑を覚悟の上、信者だと訴えにおよんだもので、孝道心の厚い兄弟だ、とかえってほめられた。間もなく兄は獄舎を出され、町役の樽屋藤左衛門に預けられた後、無罪が宣告された。 ・ このあと、改めて兄弟は孝心に対して、宗門改め奉行井上筑前守から金十両、町奉行加賀仙民部少輔から金三両、龍奉行石出帯刀から金三面のほうぴをもらったこの話はたちまち江戸中にひろまった。会津若松の城主保科肥後守正之は、兄弟の孝心に感心して召し抱えたという。 獄舎は文京区小日向回丁目にあったキリシタン獄舎だといわれているが、現代では跡かたもない。
2004.10.22

日本の昔話にはキツネやタヌキが登場する。このお話は当時の若者にタヌキの名にかりて、働くこと、「勤労」の大切さ、誰でも、「楽をしたい」働くものはおれたちの敵だ、仲間はずれにしている、江戸時代の風潮を戒めに作られてお話でしよう。小中学校でも「シカト」といって「いじめ」があるのは残念ですね。出る杭は打たれるでない社会にしたいですね。 府中市の写真 「弟子入りしたいという若い男が来ています」 小坊主の取り次ぎで住職の等海師が訪ねて来た若い男に会った。 「ご高名をしたって、はるばる筑紫国 (福岡県) から訪ねて来ました。どうか、私を弟子にして下さい」と、その男はふかぶかと頭をたれた。 「修行は厳しく大変な苦行を積まねばならぬ。そんな大望を抱くより、国元で親に孝行したほうがよい。どうしても僧になりたいなら、生国にも高憎がいるはずだ。そこで弟子入りしたらどうかな」と、住職は一応断わったが、しばらく話しているうちに、なかなかしっかりした若者で、決意のほどもわかったので、まず寺男として使ってみることにした。およそ六百年もむかしのことである。 若い男は、ほかの寺男や小坊主より朝早く起きて、骨身を惜しまずよく働き、読み書きもじょうずだった。これは将来ものになる、と住職は秘かに期待していた。 三年目を迎えた夏の夕方、仕事も一通り終り、一息入れたくなったのか、若者は誰も見ていないのを幸いに本堂で昼寝をしていた。すると「おいおい」 と、ゆすり起こす者がいる。若者は、不覚にも熟睡してしまったことをはじながら、目をこすり、よく見ると、目の前にいるのは住職だった。若者ははね起き、座り直した。 「お前は、わしに百姓のせがれだなどと、うそをいっていたな」 「うそではありません。百姓の生まれです。本堂に寝そべって申し訳ございません」 「そんなことを聞いているのではない。お前のしっぽはなんだ」 若者の表情はー瞬ひきつり、青ざめた。そしてたちまちタヌキの姿にかわった。 「おっしやる通り、私は人間ではありません。実は古ダヌキです」といって身上話をはじめた。 「私はタヌキとしてこの世に生を受け、山の中で大きくなりました。もの心がついて、働きものの人間にくらべ、タヌキはなまけものだとわかりました。そればかりか、人間が汗水流して作った食べ物を盗み食いする。それでは人間に申し訳ないと思って仲間たちが集まったところでタヌキもこれからは一生懸命に働こうではないかと提案が誰一人として賛成してくれません。ついには仲間からつまはじきされました。それからは、人間に化て下男に住み込んだり、百姓の手伝いをしてきました。その後、人間に負けない修行を積もうと思って寺を転々と渡ってきました。 そのうち高僧の名を聞いたので、筑紫の百姓のせがれに化けて住み込みました。とうとう、高僧に見破られてしまいました。「これからは山に帰って、静かに寿命がつきるのを待ちます」といって泣き崩れた。住職はあわれに思って「よく話してくれた。お前の心がけは見上げたものだ。人間にもまさる」とほめた後「タヌキだということは、わしのほか、誰も知らない。わしは黙っているから、いままで通り働いてくれぬか」 といった。しかし、タヌキは 「いままで多少なりとも人間に恩返しができたのは何よりでした。これ以上人間に化けることが罪のように思えます」といって、住職の申し出た好意をどうしても受けなかった。住職は仕方なくタヌキに暇をやることにした。 その夜、タヌキが住職の部屋にいとまごいに来た。「三年間の恩返しに、天竺 (インド) でお釈迦様の説法を聞いたときのメモ帳を差し上げます。それからお世話になった村人のために、お釈迦様が天竺で説法しているところを、わたしがお目にかけます。その時、お釈迦様の姿を見て合掌したり声を出したりしないで下さい」といった。住職は、このタヌキの申し出を心よく受けることにした。その翌日の昼、村人たちが大勢、お寺の近くの浅間山に集まって固唾をのんで待つていた。やがてゴーンゴーンと鳴る鐘の音と共に、急にあたりが暗くなり、草木がおい茂っていた浅間山が、みるみるうちに峨賀たる岩山に変った。その岩の上に白髪の老人が長い杖をついて立っている。あまりの変りように驚いて村人たちは、注意事項のあったことも忘れて、思わず合掌して拝んでしまった。次の瞬間、老人の姿は消え、村人の前には、いつもと変らず浅間山が元通り立っていた。タヌキはそれ以来、再び姿を見せなかったという。 ― タヌキの寺男がいたのは、府中市矢崎町の安養寺だと伝えられている。タヌキが等海師に渡したと伝えられる「メモ帳」なるものは、明治維新の時、神仏分離のため視察に来た役人が持ち去って以来、その行方はわからないという。参考化狸ものがたりこれは安養寺に伝わる伝説で、正体をかくし高僧に仕えていた狸が、ある日居眠りをしているときに尻尾が出てしまい、正体が知られてしまったという話です。知られた狸は全てを打ち明け、「人間に化けて以来三千年・・・、ご恩返しに二千年前お釈迦様に教えを受けたことを実現しますので人見が原にきてください」といとま乞いをしました。翌日、高僧は弟子を連れて赴くと、浅間山のあたりに周囲を七宝瑠璃で飾られたお釈迦様の座った多宝塔が四方に輝きあらわれました。高僧たちは、この仏の世界に歓喜し、「どんなことがあっても合掌しない」という狸との約束を忘れ、思わず合掌し経文を唱えると眼前の仏の世界はたちまち消えてしまったということです。
2004.10.21

孝子長五郎 日本が戦争に敗れGHQの指示で学校の教科書特に『修身』が廃止され孝行の記述は黒く墨で消すように指示がだされ、一億総懺悔で今までの道徳理念が否定されてしまった。あれから半世紀が過ぎた。親孝行は死語に化してしまっている。この話は日本の若者たちに聞かせ、自分はどうあるべきか考えさせる資料として下さい。 いまからおよそ二百年余り前、押立 (稲城市) の貧しい百姓夫婦に、長五郎という独り息子がいた。自分の田畑を持たない夫婦は、日雇いになって、やっとその日を過すありさまだった。長五郎は、親の仕事先に毎日連れて行かれた。そして、仕事をしている近くで、いつも独りで遊んでいた。それでも病気ひとつせず、すくすくと成長した。 長五郎は、七つになったある雨あがりの日、母のいいつけで村はずれまで用足しに行くことになった。ところが母は、道がかわいたから、草履をはいて行きなさいといった。この話をそぱで聞いていた父が、まだ道がぬかっているから下駄をはいて行きなさいという。長五郎は、二人の言うことを考え、どちらに従うべきか迷った。が、下駄と草履を片方ずつはいて家を出た。これを見た村の子どもたちは 「長五郎よ、片足ずつちがったはきものはいてどこへ行く。お前のところには満足な履物もないのか」と、手をたたいてはやしたてた。 「道がよく乾いていないから、水たまりは下駄で歩き、乾いたところは、草履で歩くのだ」 長五郎は、こうやリ返して平気で歩いていった。 両親が働きにでたあと、長五郎は家のまわりを掃いたり、近所の手伝をしたりした。日暮れになって親が帰るころには、お湯をわかして待っていた。こうして、親に何ひとつめんどうをかけなかったので、村人たちは長五郎を働きものだとほめていた。 ある日、八、九人の子供と長五郎が遊んでいた。そのうち、ある子供が 「おいみんな、一から十までの間に ’つ’がいくつあーるか」と、とんち問答を出した。子供たちはみんな指を析って数えていたが、「九つだ」と、大声で答えた。長五郎だけは「五つに ‘つ’ の字が二つあるから十だ」と、正確に答えて、問題を出した子供をおどろかした。その子供は長五郎に負けてなるものかとばかり、また問題を出した。 「星の数はいくつ ?」 子供たちはしぱらく考えたが、この難問に答えられなかった。ただ一人、長五郎は星の所まて連れて行け、そうすりや教えてやると見事に答えた。家貧しくて寺小屋へも通えなかった。このとんち問答の答え方は、長五郎の頭脳のめぐりが良いことを示していた。 十五歳になった時、父親が急病で死んだ。間もなく母親は、眼病か、栄養失調かははっきりしないが、失明してしまった。それからというものは、長五郎は朝は早く起き夜遅くまで馬車馬のように働いた。屋外の仕事ができないような、雨や雪の日にはわら草履を作って売った。長五郎があまり働くので、母親もじっとしていられなかったのだろう、長五郎のとめるのも聞かず、草履作りをはじめた。しかし、失明した母の作った草履は、とても売り物にならなかった。長五郎は、母親の作ったぶかっこうで不揃いの草履は自分ではいた。村の祭りや族芸人がやってきた時などは必ず母を背負って行って、決して一人で楽しむようなことはしなかった。やがて長五郎は、嫁をとってもよい年ごろに達した。村の人々も、長五郎が母親につくす姿といい、仕事振りに感心していたので、嫁を世話しようという話は何度か持ち上がったが 「嫁をもらうと、母への孝行がうすれるら、母が生きているうちは決して結婚しません」と、きっぱり断ったという。 名主の兵右衛門は郡代を訪ねて、長五郎の親孝行について詳しく申し上げた。郡代はさっそく長五郎を呼び出し、白銀二十貫と七反歩の水田をほうびとして与えたという。 稲城市押立には、。いまでも長五郎の石碑が残っていて、春の彼岸の中日には毎年祭りが行われるまた、長五郎がもらった水田は、この石碑のそぱにあって孝子面と呼ばれていたが、いまでははっきりしない。江戸末期の歌人蜀山人は、長五郎の話を聞いて、こう歌っている。 たまはりし、門田に旗を押立て 親につかふる道しるべせよ 親の親、子の子の末と、なりはひもゆたかに保つ年のあら小田
2004.10.20

江戸時代には病気を治すことは大変なことであったろう。老婆が失明し、自殺まで考えたが仏様の使者,閻魔大王にすがれば直るかもしれない、願を掛け、その甲斐あって目が見えるようになったという話。今でも信心する人が絶えぬと言う。 むかし、緑におおわれた小石川の白山台地と本郷向ケ丘台地にはさまれた細長い谷間の中ほどに、源覚寺という寺があった。この寺は伝通院第三世定誉随波上人が建てたものだ。上人は高齢になったので、静かに余生を送ろうと考え、徳川二代将軍秀忠に、そのむねを願い出た。さっそく許されて、伝通院からほど遠からぬこの谷間の一角を拝領した。当時は閑静な、禄の濃い美しい谷だった。そこに寛永元年(一六二四年)寺を建立し、落成した。その後、いつのことかわからないが、近くの半井和州侯の別荘の池から、閻魔大王の像がすくい上げられた。像はこの寺に安置された。閻魔大王にお参りすると、幸運が舞い込むということから「小石川の闘魔さまといって江戸中に知れ渡った。閻魔さまにお参リする人は、一月と七月の十六日つまり薮入の日に多くこの両日がにぎわった。宝暦年間(一七五一― 一七六四年) のある晩春の日のことである。参拝者が閻魔さまを拝もうと顔をみると、あの恐い眼の片方がつぶれている。さらに不思議なことに、閻魔さまにはおよそ縁のない、こんにやくが供えてあった。 「閻魔さまの片目がつぶれている」と、参拝客の間で大騒ぎとなった。ところが、それから何日か過ぎたある日、こんにやくを供え、閻魔様の前で一心に祈っている一人の老婆の姿を住職が見つけた。「閻魔さまにこんにやくをお供えしたのは、お婆さんだったのかね」この私しですが・・・」「この間から、こんにやくをどうしてお供えしているのか、参拝する人からたずねられるが、返事ができないので、そのわけをたづねたいのだが「上人さま、それには深いわけがございまして・・・ 」と、老婆は、閻魔さまにこんにやくを供えるようになったいきさつについて語りだした。老婆はしだいに視力が衰えていくことに気がついた時、「これも年のせいかな」と、こう思った。だが、朝、両眼に目やにがたくさんつく。これは年による視力の衰えではなく、眼の病気に違いない、と考えるようになった。それからというものは、老婆は眼病によくきく薬を求めて江戸中を歩いた。しかし、どの薬も老婆の眼には効き目がなかった。お医者さんにも診察してもらったが、結果は同じで、病は悪化しっいに失明してしまった。 これまでは他人の世話にならずに生きてきたのに、これからはいちいち手を引いてもらわなければならない。老婆は、みじめな気持になってしまった。 「こんなことなら、いっそ・・・と、何度か絶望のあまリ自殺を考えたという。こんな苦悩に沈んでいる時、ふと頭に浮かんだのが、「そうだ、小石川の閻魔さまに願を掛けてみよう」 ということだった。 閻魔さまは仏法を守護し、衆生の幸福をはかるために、仏がこの世につかわした使者だ、と、老婆は誰かに聞いたことを思い出したからである。 さっそく老婆は閻魔堂の前に立った。そして「眼をなおして下さい」と、願をかけた。二十一日間というものは、すべてを忘れて、ひたすら閻魔さまの慈悲にすがった。そして満願の夜、老婆は閻魔さまの像の前にひれ伏した。そのままいつ眠るともなく、老婆は深い眠りに落ちていた。すると夢の中に閻魔さまが姿をあらわし「われ、日月にもひとしい両眼のうち一つをえぐリ取ってなんじに授くべし」と、いかめしい表情でいったかと思うと、忽然と姿を消した。そこで夢からさめた老婆はおどリ上がって喜んだ。両眼がもと通りに見えるようになったのである。老婆は、ぽろぽろ涙を流しながら閻魔さまの像を見ると、なんと片眼がつぶれていた。老婆は、食べ物のうち、最も好きなこんにやくを自分で食べず、閻魔さまに供えることにした。 ″こんにやく閻魔〃 と呼ばれるようになったのは、このことがあって後のことだという。この寺は、文京区小石川二丁目にある源覚寺だといわれ、いまでも独眼の閻魔大王の像がこわい顔をして立っている。そして、むかしほどではないが、目の病人がお参りに来るという。
2004.10.19

女中の身体を借りたキツネ どの時代でも怠けものより、働き者を歓迎する、怠け者に働け、働けといってもかわることは滅多ににない、こんな寓話を広めて働きもの歓迎の風潮を作ったのには感心せざるをえません。 「女中にキツネがついたが、それ以来よく働くので、いつまでもキツネに女中の身体を貸したいよ」一 加賀備後守の江戸屋敷留守居役、泉淵忠左衛門が、ある日こんなことを友人に話した。奇妙な話にその友人がキツネにつままれたようにけげんな表情で忠左衛門に問い返した。 「女中にキツネがついたといわれるか・・?」「いかにも、その通りだ。まあ、はじめからこの奇談をお話しょう」と、忠左衛門は、大まじめで語リはじめた。 文化七年(一八一〇年)十二月のことである。 忠左衛門は、ある夜夢を見た。夢枕に一匹のキツネが立った。しかもこのキツネは人間の言葉で忠左衛門に話しかけてきた。 キツネが言うにはー 私は本郷四丁目麹屋の裏の稲荷のせがれですが、親と意見が合わず、親子げんかをして家を追い出されてしまいました。けんかのいきさつについてはしばらく聞かないで下さい。そんなわけで、とにかく、わたしはいま泊るべき家があリません。まったく困り果ててしまいました。そこで、甚だ勝手なお願いで恐縮ですが、このお願いは聞き届けて下さい。というのはほかでもありません。お宅の女中を一時貸していただけないでしょうか。ぜひお願いします。そのうちに、友人を仲に立てて、親にわびを入れ、自分の家へ帰れるようにします。それまでいる所に困っていますので。決して、あなた様にご迷惑がかかるようなことも、また女中の奉公にさしさわりがあるようなこともいたしません。どうか、わたしの窮状を察して、お聞き届け下さい。 キツネの切なる願いに耳を傾けていた忠左衛門は「それは気の毒だ。それほどまでにいうなち貸してやろう」と、あっさり承諾してしまった。キツネは涙を流して喜んだ。「ありがとうございます。ご恩は決して忘れません」と、キツネは忠左街門に。ペコリと頭を下げた。と、思った瞬間、忠左衛門は夢から覚めた。そして「なんて奇妙な夢を見たのだろう」と、一人で考え込んでしまった。 忠左衛門は、夜が明けるのが待ちどおしいようにして、キツネに身体を貸す約束をしてしまった女中を、注意深く観察したが、少しもかわったところは見当たらないし、また言動にも変化はなかった。忠左衛門は内心ほっとした。 ところが、これまでよく気のつくとはお世辞にもいえなかった女中が、その日の昼ごろから、急にばりばリ積極的に働き出したのである。 これまで、この中に「水を汲みなさい」と命令すれば「ハイ」と、命令されたことだけは忠実に実行するが、積極的に仕事を探し出てやるところまで頭が働くような女ではなかった。少し足りないところがあった。 ところで、女中の眼の輝き、積極的な仕事のやリ方を見て、忠左衛門は「こりゃキツネがついたな」と、直感した。が、彼は、このことを一人の秘密として、一切、口外しなかった。しかしょく注意してみていると、これまであまり上手でなかった針仕事まで、器用に早くやってのける。仕事が早いし、上手であって、一人で五人分の仕事をこなしてしまう。これには忠左衛門の方がすっかりどぎまぎしてしまった。 ある日、忠左衛門が外出しようとすると、例の女中が玄関まで見送りに出て来て、 「きょうひる少し回ったころから、雨になりますから、雨具の用意を……」といって、雨傘を差し出した。忠左衛門が空を見上げたが、青空が広がっており、降りそうにない空模様だったが、女中の言葉に従って雨傘を持って家を出た。ところが不思議なことに、空か曇って来て女中が予告した時刻になると、果たして降リはじめたのである。これは一例だが、女中の予告はいつもよく的中して、忠左衛門を驚かした。 この話は、友人を通じて江戸の町の話題になった。その後、キツネがどうなったか、身体をキツネに借リられた女中についても何んにも言い伝えがない。 こんなキツネなら「うちのかみさんにも、キツネがついてくれたらとそっと望んでいる男性が案外多いかも知れない。
2004.10.18

亡き夫と再会“逢う坂”先進国の共通する問題は少子化だといわれる、若者が結婚に踏み切らない。結婚してもすぐに離婚をしてしまう。この話は結婚した男女の心の持ち方を諭したものであろう。日本の将来のために、結婚をし、次の世代を継承者を是非作っていただきたい。 およそ千二百年前、奈良の都から小野影美佐吾という独身の青年が国造として武蔵国に派遣されてきた。なかなかの美丈夫だった。毎日のように、部下を連れて領内を巡視していた。 するとある日、美しい気立てのやさしそうな娘が畑を耕しているのを見た。巡視を終って屋敷に帰った美佐吾は、さっそく娘の身元を調べるよう部下に命じた。娘の名は「かづら」 とすぐわかった。それからというものは、巡視に出るたびにその娘の姿を追い求めた。そして、二人の心にほのぼのとした思いがかょうょうになっていった。しぱらくして、美佐吾の方から人を介してかづらを嫁に欲しと求婚した。教養のない百姓娘だといって、かづらの親たちはこの求婚を断った。それからも美佐吾の求婚は、いろいろのかたちで続いた。美佐吾のねぱり強い求婚にかづらの両親も折れ、間もなくかづらは美佐吾に嫁いで行った。 この話は、たちまち武蔵国にひろがり、人々は寄るとさわると、この結婚話で持ち切りだった。 一方、かづらを嫁に迎えてからの美佐吾は、土地の事情にもよく通じ、領内の人々に温情をもって接したので、ますます評判がよかった。 「二人の仲がむつまじいのう」 このごろの国造は、われわれ百姓の話によく耳を傾けてくれ、大助かりだ」 村人たちは、こんな会話をかわしていた。 こうして数か月が過ぎ、都から美佐吾に上京するよう命令が届いた。美佐吾はかづらや村人と別れを惜しみながら、元気に旅立った。 奈良の都に着いた美佐吾は、旅の疲れから病に倒れた。若草山のほとりで静養していたが、かづら恋しさから、「武蔵国からかづらを呼び寄せて欲しい」と、毎日のように付添の人を困らせていた。それから美佐吾の容態は日に日に悪くなった。美佐吾は、自分の死が近いことを知ったのか「わたしが死んだら武蔵国に葬ってくれ」と遺言した。彼は、ついにかづらを慕いながら死んでしまったのである。だが、美佐吾の遺言とはいえ、武蔵国はあまりにも遠かった。美佐吾の遺体は若草山のふもとに葬った。そして、美佐吾の遺言に少しでもそうように、葬ったところを″武蔵国’と呼んだという。一方、かづらは、夫が旅立った後、夫の無事を祈っていた。夫が元気な姿て再び武蔵国に戻って来る日を持ちこがれていた。美佐吾が旅立ってから、かれこれ一年半が過ぎたある日、都から、美佐吾の死を伝えて来た。かづらにはあまりにむごい知らせだった。あれほど、元気で旅立って行ったのに……。かづらには、どうしても美佐吾の死が信じられなかった。 「もう一度でよいから、夫にあわせて下さい」と、かづらはひたすら神に祈った。ある夜、一人の白髪の老人が、かづらの夢枕に立った。 「願いをかなえてやるから、近くの坂で待て」というお告げがあった。夢からめたかづらは、もしかしたら、夫が無事に帰って来るかも知れないと、あわい期待を抱きながら、夜が明けるのを待った。まだ明けきらぬ東の空からの光をたよリに、お告げの通り、。坂の途中に立って待った。するとどうだろうにこやかな表情の夫、美佐吾が元気な姿でかづらに近づいて来るではないか.かづらは感動のあまり、涙があふれ、リリしい夫の姿がぼーとっかすんで見え、声を掛けようとするが言葉にならず、やっとの思いで夫の手をとり、その足下に泣き崩れた。しばらくして激しく揺れた心も少し静まり、夫に話しかけようとかづらが顔をあげた。かづらの前に立っていた、リリしい美佐吾の姿はかき消され、かづらは暗い坂にうずくまっている自分を発見した。かづらは必死に夫を呼び続けたが、呼び声はむなしく、林の奥深く消えて行った。そしてかづらは、気を失ってしまった。 どのくらい時間が経過したろうか。かづらは、村人の手厚い介抱でようやくわれに過くぇっ返った。 かづらは、坂の途中でなぜ失神していたかの一部始終を村人に話した。特に、いとしい夫、美佐吾に会ったくだりは村人たちの共感を呼んだ。そして「夫を慕ぅかづらの、純な気持が神様に通じ、一目だけ美佐吾にあわせたものだろう」と村人たちはいって、もらい泣きしたという。それから、この板を「逢坂」と呼ぶょぅになった。かづらは、これ以来、仏の道に入り髪を断ち、死ぬまで夫の冥福を祈ったという。とこの坂は、新宿区市谷船河原町の十四番地と十五番地の間にある、小さい板だいわれ、いまでも逢板と呼んでいる。だが、ここに往んでいる人々でも、この純愛物語を知っている人は殆どなく、都内の一部の故老たちがいい伝えているだけだろう。
2004.10.17

天から降った男 昔ばなしは面白くするために作ったものであろう。人間の欲望は空を飛びたいという願望からこの話が出来たと思われます。 「ひとふろあびて来るよ」 若衆が肩に手ぬぐいをひっかけて、でかけて行った。それから、ものの三、四分とたたぬのに、表戸ががらからっと開いた。若衆がおどり込むようにして、家の中に駈け込んで来た。若衆はよほど急いで走ったらしく、呼吸が乱れ、ほとんど言葉にならないが、何かいっているらしい。 「どうしたというんだ。落ち着いて話してごらんよーこ 父親が息子のあわて方を見て、そういった。 「あ、あ、驚いた。真っ裸の男が」 「真っ裸の男がどうしたというんだ」 「竹門の暗がりに男が立っていたので、近づいたら、ぱったり倒れた。よく見たら、その男は真っ裸だったんで。驚いたのなんのって。」 この怪事件は、文化年間(一八〇四 一 一八一八) の八月下旬、浅草の馬道で起こった話である。なんでも、この若衆がふろ屋へ行くと出かけたのが観音様の暮れ六つの鐘がなってからいっとき (約二時間) は経過していたというから、だいたい、午後八時ごろだったらしい。それに、旧暦だったころのことだから、今の暦でいったら、九月末から十月初旬ということである。したがって、午後八時といえば、もう暗い。街路灯などない時代のことだから、うごめく人影は確認できても、裸かどうかはよほど近づかないとわからない。この若衆は、暗闇の中でうごめく人影に深い関心を示したようである。 この話は、すぐ隣近所に知れわたった。そして、若衆を先頭に、八っつあん、熊さんといった連中が、竹門の近くまでやってきた。ところが、どえらい事件を予想して、なかばヤジ馬根性でやってきた若衆らの一団は、拍子抜けしてしまった。事件現場らしきところには血一滴こぼれていない。ただ裸の男が道ばたに寝ている。る。一人がこわごわ裸の男に手を触れてみた。 「生きている。たしかに呼吸をしている。 裸の男は酒気をおびている様子もないのに、この騒ぎをよそに、こんこんと眠り続けている。さっそく町役人に届け出た。 現場へ駈けつけた町役人にも、この事件が何かさっぱりわからない。しかし、このまま放ってもおけないので、裸の男をとりあえず近くの番屋に運び、医者の診断を受けさせた。診断の結果、医者は 「別段これという悪いところはない。ただし少し疲労しているようだから、しばらく安静にして、このまま寝かせておけばよかろう。たいしたことはあるまい。容態でも急変したらお知らせ願いたい」 さすがに医者は落着いたものである。医者の診断どおり、翌朝、この男は深い眠りから覚めた。 役人は型通り取調べにかかった。「生国は?」「姓名は?」 男には、なぜ調ぺられているのか、さっぱりその間の事情がのみ込めぬ様子だったが、調べにははきはき答えていた。男は京都の油小路二条上ル、安井御門跡の家来、伊藤内膳のせがれ安次郎、二十五歳といった。 「ここはどこでござるか」安次郎は、少々不安になって、逆に役人にたずねた。 「貴殿はここが江戸だっていうことをご存知なかったのか」- 役人たちは、この珍問答にどっと笑った。ところが、安次郎は驚きと不安で涙を流しはじめたのである。 安次郎の供述のあらまし 二日前、近所の嘉右街門と家来の庄兵衛を連れて、京都の愛宕山に登った。山頂上には愛宕神社がおまつりしてあり、そこにお参りした。その時拙者は、桜色の四つ花菱の紋付と黒の絹の羽織を着ていた。もちろん大小二本の刀を差していた。山頂に到着したころ、あまり暑いので木陰で帯を解いて涼んでいた。と、そこへ白髪の老僧かいずこからともなく姿を現した。 「お武家、おもしろいものを見せてつかわそう。拙僧のあとについて参られよ」と、いった。老侶に誘われるまま、ついて行った。そのあとのことは全く記憶にない。安次郎は裸だったが、白足袋をはいていた。役人は安次郎の供述の真疑を確めるため、足袋屋に安次郎の足袋を鑑定させた。 「この足袋は京都の仕立てに間違いございません」と足袋屋は確信ありげにこう答えた。役人たちは、額を集めて相談した。いろいろ意見は出たが、結局「安次郎は老僧のまじないで空を飛んで江戸に降った」という結論を出した。 この話は、「人が空を飛んだ」 と江戸市民の間で大評判になった。 浅草馬道といえば、当時の江戸第一の歓楽街吉原のすぐ目と鼻の先である。 これは道楽息子の安次郎が金をつかい果たした時の姿と想像する向きもあろう。どぅ解釈されるのも自由である。当時のことだ。武士の息子の乱行を内々に納めようとして、こんな話をでっち上げることもありそうなことだ。遠い京都の男だといえば差しさわりがないから。
2004.10.16

現代の日本は少子高齢化で年金問題が問われている。人間長寿を希望するがこの話のように子や孫に先立たれひとり残されていきることもつらいことであろう。寿命も程々がよさそうである。 あの女は娘のように若々しいが、あれで八百年も生きているのだそうな」 どこからともなく舟でやってきて袋村(北区) に住みついた若い女がいた。みたところ、十七、八歳の娘としかみえないが、いつとはなしに、土地の人たちの間はこんなささやきがかわされるようになった。しぱらくして、その女性は八百比丘尼ということもわかった。そして誰いうとはなく、八百比丘尼についてこんな話が村人たちの間にひろまった。 千年もむかしのことである。若狭国(福井県) に、異国人が一人住んでいた。村人たちはこの異人をある祭の日に招いてごちそうした。異国人はたいそう喜んで 「今度は私かきのうのお礼のしるしに、珍しいものを皆様にごちそうします」といって帰った。 それから数日たって村人たちは招かれた。好気心の強い村人たちはみんな打ち揃って異国人の家へ行った。ところが、出されたごちそうは、村人たちがいままで見たことも、聞いたこともない物ぱかりだった。 「どうかごゆっくり召し上って下さい」と異国人はしきりにすすめるのだが、みんなは、ただ顔を見合わせるだけで、だれ一人として箸をつけるものがない。 「そうそう、皆さんは肉を召し上らなかったんですね」 しぱらくして異国人は、思い出したようにいいながら、家人に命じて魚や野菜 の日本料理と取り替えてくれた。みんなは喜んで食べた。 「あの獣の肉はいったいなんだろう」「異国人はいつもあんな肉を食べているのかな」 村人たちは帰り道、こんなことを話し合った。ところが、そのうちの一人が、帰ってから自宅でこの肉をよく調べてみようと、皿に盛ってあった一切れの肉を、誰にも気付かれないようにふところに入れて持ち帰った。しかし、やたらのところにおいて、誰かが知らずに食べて中毒にかかっては大変と、神棚の裏に隠しておいた。 翌朝、長女がこれをみつけてしまった。「これはいったいなんだろう」 ー いろいろ考えたが、まるでわからない。匂いをかいでみると、うまそうである。そこで一ロ食べてみた。なんともいいようのないほどうまい。長女は、てっきり誰かがあとで食べようと思っておき忘れたものだろうと推測したが、もう一ロ、一口と、ついみんな食べてしまった。 長女が食べた肉は人魚の肉だったのだ。その後、婿をもらって何年かが過ぎた。ところが、この肉の不思議な魔力によって、彼女は年をとるということを忘れてしまった。両親が死に、やがて夫も年老いて死んだが、彼女だけは、十七、八歳の娘盛りのまま、年をとらない。百年、二百年が過ぎて、孫もひ孫も、つぎつざに老いて死んでしまった。誰しも、不老長寿を願わない者はないだろう。しかし、自分の近親者につぎつぎ先立たれたら、かえって、人間の間で生きるには孤独感にさいなまれるようになるのではなかろうか。彼女は、ついに、人間の住むところを離れ、山奥に隠れ住む決心をした。数百年後のある日、山をおりてみた。生まれ故郷はまるで変容してしまって誰一人として知っている人はいなかった。浦島太郎やリップバンウインクルと同じである。 ’ 「人魚の肉を食べると、千年生きられるというが、むかしむかし、神棚の裏にあった、あの肉が人魚の肉だったのだ。そうに違いない。それで、こんなに長命だったのだ」!娘は、ようやく自分の長命の秘密に気が付いた。「これからまだ、二百年ばかの寿命が残ってはいるか、これ以上生きるのはごめんだ」と、さっそく、領主を訪ねて人魚の肉を食べた話から、長命の話まで一切合財の身の上を物語った。そして、残りの二百年の寿命を領主に譲り渡して旅に出た。各地を巡り歩いた末、武蔵国にやってきて、袋村に住みついた。ここで彼女は寿命の終るの を静かに待っているのである。 八百仕丘尼が “最後の余生〃 を送ったといわれるところは、北区袋町の堂山と呼ばれる小高い丘とされている。
2004.10.15

少し前の話ですが中学生が公園に仮住まいしている身なりの悪い人たちに暴力を加えて死に至らせたというニュースがありました。人間を服装や身なりで判断すべきではない、と江戸時代の親はこのように子供にさとしたのでしょう。この話を是非学校の道徳事業の教材にして欲しいですね。私のホームページの心の東京革命の赤印のところをクリックし、現在の教育の現状を改善しようとしている方々の存在を知り、応援してあげてください。 「坊や、みすぼらしい服を着ているからといって、その人を見下げてはいけないんだよ。心の正しい人が一番立派なんだから」 足立区内に、むかしから住んでいる家庭では、子供がむやみにものを欲しがったり、増長した振舞いをすると 話は平安時代にさかのぼる。いまでも、この話を聞かせてさとすという。 弘法大師が諸国説法の旅の途中、草深い武蔵国の東のはずれの地を訪れた。早春のことだった。谷中 (台東区) から足立方向に進んで行くうちに、大きな川のほとりにでた。川はまんまんと水をたたえて、ゆうゆうと流れている。 渡しの小屋では大師一人が舟を待っていた。向こう岸から大勢の人を秉せて波し舟が着いた。客が降りてしまうと、渡し守はクイに舟をつないでしまった。大師は、渡し守に「わたしを向こう岸まで渡してくれませんか」と頼んだ。渡し守は、うさんくさそうに大師を頭のてっぺんからつま先までじろじろ見ていたが、そのまま、大師の言葉に答えようともしないで、黙って小屋の中に入ってしまった。 大師は京の都を旅立ってから、かれこれ一年近い旅を続けてきた。その問、野に寝たり、木の下で雨露を凌ぐという、苦難に満ちた旅だったので、法衣は破れれ、疲れ果てた姿だった。このみすぼらしい姿を見て、波し守は旅を続けながら物乞いして歩く、こじき坊主と思ったのだろう。大師は、なおもあきらめずに、渡し守に舟を出すように求めた。だが徒労に終った。小屋の中からは、なんの返事もなかったのである。 あきらめた大師は、水辺に降りて行き、しばらく流れを見つめていた。足元に落ちていた木の葉を三枚拾いあげ、これを水に浮かべると、何やらロの中でぶつぶつと呪文をとなえた。すると木の葉はたちまち舟にかわった。大師はその舟に乗って流れを横切リ、対岸へ渡った。この様子をはじめから最後まで小屋のふし穴からのぞいていた渡し守は、腰を抜かすほど驚いたのである。「あの舟は、わしの舟だったのでは……」と、疑った渡し守が、大急ぎで小屋を飛び出してみたが、舟はちゃんとクイにつないだままになっていた。「不思議なことがあるものだ」と、渡し守はしきりに頭をかしげて考え込んでいた。 そこへ地元の豪族が一人でやってきた。渡し守はまるで人がかわったように、もみ手して、ペコペコ頭を下げた。舟の綱を解き、舟を岸に近づけようとしたが水面にぴたりとはりついたまま、どうしても動かない。竿で舟を押したり、綱で引っぱってみたが、舟はびくともしない。ついに渡し守は、汗まみれになって地べたに座り込んでしまった。 これをみた豪族は腹を立てて渡し場を立ち去ってしまった。 その夜渡し守は、村の物知りの古老をこっそり訪ねて、昼間の出来事を詳しく物語った。黙って渡し守の話に耳を傾けていた物知りの古老は 「それは神さまか、仏さまが人間に姿をかえていたのだ。お前さんには、人の風体を見て小ばかにする悪い癖がある。その罰が当たって舟が動かなくなったのだ」と、渡し守をきつくたしなめた。渡し守は、泣き出しそうにおどろきあわてた。そして「では、どうすればよいのでしょう」 と、古老に助けを求めた。 「お坊さんの去った方に向っておわびしなさい」と、古老が教えてやった。渡し守が、教えられた通りにすると、舟は何事もなかったように水の上をすべるように動いた。 その後、村人たちの間にこの坊さんこそ、弘法大師だという話がひろがった。これは、弘法大師が諸国巡りをしている時の話のうち最も有名なもののーつといわれている。この川は、当時入間川だったが、その後、河川のつけかえがあり、いまは荒川になっている。
2004.10.14

キツネにかまれた魚屋 昔の人たちも動物との共生を考えていたようですね。きつねやたぬき これらをいじめるとバチがあたるといってむやみやたらに殺したりはしなかったようです。まして人を殺すことは絶対にしないように。現在の殺伐とした世相を変えたいものですね。江戸川べりの篠崎村(江戸川区)に権八という魚屋がいた。 真夏のある日、いつものように魚を入れたオケを天びん棒でかついで魚売りに出かけた。江戸川土手を歩いて篠崎村と小松川村の境まで来た。ふとみると松林の木陰で四匹の狐が気持よさそうに昼寝をしていた。かんかん照りつけられるし、魚の売れ行きも思わしくなかったので、気がむしゃくしゃしていた権八は「人間様が汗だくになって働いているのに、キツネのぶんざいで昼寝などするとはけしからん」と、無性に腹が立ってきた。権八は落ちていた棒切れを拾うと、抜き足差し足で狐に近づき、力いっぱいなぐりつけた。狐はきゃんきゃん鳴きながら、一目散に逃げ去った。「ざまあ見ろ!」ー 権八は、りゅういんを下げて、また天びん棒をかついで歩き出した。 ところが、少し歩いたと思ったら、急に空が暗くなり、大粒の雨が降り出した。権八はよく休ませてもらう茶店へ向って走り出した。すると、暮れ六つ(午後六時ごろ)を告げるお寺の鐘の音がゴーン、ゴーンと聞こえてきた。おかしなことがあるものだと権八は思いながら茶店に走りこんだ。 店には、四、五人の顔見知りの村人が集まっていた。わけを聞くと、昨夜おか゛みさんが急に死んだというのである。そして茶店の亭主は権八の顔を見るなり 「権八さん、よいところへ来てくれた。これから皆さんの手を借りて女房を野辺に送るところだ。わしの帰るまで休んでいてくれ」といった。権八は、まだ魚が売れ残っているし、困ったことをいう亭主だ、と思ったが、日ごろ世話になっているので、しぶしぶ承知した。 間もなく、村人たちは茶店から消えた。一人残った権八がぼんやりしていると、冷たい風が吹き出し、権八のほおをなでた。部屋の中が無気味に暗くなった。その時である。死んだはずのこの家のおかみさんが、ひょっこり目の前に現われ立っているではないか。権八はおそろしさに背中がぞくぞくしてきた。そして逃げ腰になった。おかみさんは「わたしはお前さんを思いつめて死んだんだよ」といって、権八の肩に手をかけた。 「とんでもない」 権八は、がたがたふるえながら、何やら叫んだようだが声にならない。必死になって権八が手を払いのけようとするが、からみついてくる。同じようなことを何回も繰り返しているうちに、おかみさんは権八の左手にかみついた。その痛いことといったらなかった。助けを求める声も出なかった。かみつかれた手を振りほどこうと、もがけばもがくほど、痛みが激しくなり、権八は土間を転げ回りながら気を失った。 日中の暑さを避けていた百姓たちが、夕方涼しくなって野良仕事に出て来た。そして血だらけになって倒れている権八を見つけた。村人たちは権八に水をかけるやら、背中をたたくやら大騒ぎになった。やっと正気に戻った権八から話を間いた村人たちが茶店に行ってみると、こんどは亭主が狐につままれたような表情をしていた。 「権八さんはきょう一度も姿を見せないし、女房はこの通りぴんぴんしている」 そこへ元気なおかみさんが顔を出した。その後よく調べてみると、権八が倒れていたまわりの畑が荒らされており、権八がかついでいたオケの中には一足の魚も残っていなかった。 そこで村人たちは、権八が狐にだまされ、畑の中で独りあばれ回ったのだと結論を出した。権八もすっかり参って、翌日、狐の好きそうな魚を籠に入れて、松林の中にこっそり供えたという。寛政(一七八九ー 一八〇一年)ころの話とされている。 狐にだまされた話は全国いたるところにあり、いまでも山村へ行けば狐にばかされたという人がいるかも知れない。東京ではこの篠崎村付近に狐がたくさん住んでいたらしく、この種の話も多く残っている。だが、いまは狐の住む余地は二十三区にはないだろう。
2004.10.13

狩り場を荒らす老人 文化年間(一八〇四一八一八年)のある早春のことである。 向島の百花園の御成門が開いていた。この門は、将軍がタカ狩りにこのあたり、百花園に立ち寄る時しか開かない。 百花園の前には、ひろびろとした田圃が続いていた。田圃の中には、小さい百姓家がぽつんぽつんと立っていた。ここらあたりは湿田で、一年中ぴちゃぴちゃと水がたまっていた。ところどころに、ョシやアシの枯れた茂みが見える。 晩秋から早春にかけて、ツルがよく群をなして渡って来たし、バンも多かったた。三河島、南千佳、鐘ケ淵、向島の寺島一帯は、将軍家の狩り場になっていた。 「将軍のお成り」ということになると、一週間以前から名主は村の百姓を集めて注意事項を申し渡す。 「当日は、朝から火をたいてはならぬぞ。よいかな」 いろいろの注意をならべるが、このことについては特に力を入れていう。将軍がお成りになった時、火事を出しては大変だからである。将軍お成りの前の晩は、百姓の家は大変だ。一日分の飯を作っておかなくてはならなかったからである。口には出さないが、百姓は将軍のタカ狩りには反対だった。こうるさいことをいって困らせるからだ。それだけではない。まだ寒いのに、一日中、冷えた飯を食べなくてはならない。当時の百姓の常食はおそらくヒエのかゆといったところだろう。冷えたヒエのかゆをすするだけで、火で体を温めることもできない。外へ仕事にも出られない。「いっそ、一日中ふとんにくるまって寝ることにしよう』’という百姓もあった。こうして百姓の心にもやもやとしたものが欝積していたが、これらを吹き飛ばすようなことが起こった。 将軍が白髭神社の近くの田圃に夕方鷹を放して狩りをはじめた。ところがどうだろう。アシの枯れ葉の茂みから、一人の白いひげの老人が飛び出した。そして田圃にいるバンなどの鳥を追い立てて逃がしてしまうのである。家来たちは激怒した。 「無礼者め! 何をするか!・」と、家来たちが怒鳴ろうが、この老人には馬の耳に念仏である。いやむしろ家来たちを挑発するようにさえ見えた。 この老人は湿った田圃をまるでウサギのように走り回る。家来たちが追い駈け回すが、あまり早いので捕まらない。老人のなすがまま、だまって見ているわけにもまいらない。将軍などおえら方の目前でこんな老いぼれた一人の人間に、このタカ狩りの行事がかき乱されては、武士の面目が立たぬと、家来どもは顔を真っ赤にして、怒鳴り散らしてはまた追い回す。まるで子供の鬼ごっこと思えばよい。そのうちドロの深い方へと老人は逃げる。家来はこれを追う。ドロ田に足なとられて、歩くのがやっと。口々に「無礼者め!」「待て!」と、家来のわめく声だけが、あたりの静かさを破っていた。そのうちドロ田の中にポツンポツンと、動けなくなった哀れな家来の姿が取り残されただけだった。 この時ならぬ珍事に、名主が呼び出しを受けた。土下座してかしこまっている名主に、偉そうな武士が 「あれなる老人に、見覚えがあるか」といった。名主は白ひげの老人の姿を見たが、全く知らない。 「恐れながら申し上げますが、一度たりとも見たことのない老人でございます』と、正直にいった。家来はやきもきして、名主に念を押して「確かだな」といった。 こんな問答が続いている時、老人が役人の方を向き、にやにやしていた。一人の家来が腹にすえかねて、老人を狙い矢を放った。ところが、老人の姿はあとかたもなく消え去った。百姓たちは、この話を聞いて、心の中で喝采した。そして誰いうともなく、あの老人は、白髭神社の神様だというようになった。 百花園には元禄(一六八八-一七〇四年)のころ、多賀藤十郎という悪代官がいた。百姓を牛馬のようにこき使い、重税をかけた。怒った百姓が、ムシロ旗を先頭に、代官屋敷に押し寄せて代官を家族もろ共放火して焼き殺すという事件があった。この土地の百姓は、これ以来、百姓一揆こそ起こさなかったが、反官色の強い土地柄だったらしい。この話も、こうした背景があって生まれたものだろう。墨田区東向島一丁目の新田仲通り付近にツル土手、白髭神社近くにバン土手と呼ばれるところが残っているが、これは狩り場だったころの名残りだろうか。だが、現在では、この名称すら知っている人は案外少ないし、狩りのじゃまをした老人の話にいたっては、ほとんど知る人がないといっていいだろう。主権在民の世の中では、こんなむちゃなこともあり得ないし、役所に対して気に食わぬことかあっても、神様のお手をわずらわすこともなかろう。この種の話が忘れられて行くのは、時代の変化によるもののように思われる。
2004.10.12

鼻取りをした如来 世の中が乱れてくると先祖様の供養どころか神社、仏閣のことなど考えにくくなるのが人間でしよう。この話は如来さまが少年に姿をかえ、人間のあるべき生き方を教える寓話でしょう。お互いが助け合える社会こそ好ましい環境でしよう。仏様の意図はそこにあったのだと思います。戦国時代のこと、武蔵国八王子村の金持の百姓の家に一人の少年が訪ねて来て 「馬を一日貸してくれませんか」と、いった。この家の主はびっくりした。出しぬけに、しかも見知らぬ少年が、馬を貸してくれ、というにいたっては、まずたいていの人が驚くのもむりがない。まして馬は大切な家畜である。強欲でその名を知られていた金持の百姓は、心の中では「あんな青二才の少年に、大事な馬など貸せるものか」と思っていたが、相手がまだりんごのようにあかいほっぺたをしている少年なので、つい心を許し、からかってみた。 『馬をな……?………それで馬をなんに使うつもりかな」 「田植えをするのです」 「田植えを・・・」 金持の百姓はいよいよ驚いた。そして、顔がまるで口ばかりかと思われるように大きく口をあけて 「あっははは!・あっははは!」と、大声をたてて笑った。だが、少年はしんけんな表情で相変らず百姓の前に立っていた。 「小僧一体全体どこの田植えをするのかな?」 「妙観寺の田圃です」 この言葉を聞くと、百姓はどきっと胸に突き当たるものがあった。 当時の日本は、室町幕府の中心にいた足利将軍の勢力が衰えて、各地の豪族が起ち上がり、相互に勢力争いをしていて、戦争の絶え間がなかった。そして、寺についていた百姓もいつしかいなくなり、寺の田も荒れ果てていた。だが、すっかり人心の荒んだ時代のこと「お寺のことまでかまっていられない」というのが、当時の百姓たちの本音だったろう。仏のご利益もあまり期待が持てなかったのだ。 「妙観寺の田圃を……」と、金持ちの百姓は不思議そうに首をかしげた。妙観寺には、こんな少年がいるはずがなかったからである。だが、つぎの瞬間「新しく寺に来た小僧だな」と、百姓は直感した。話がここまで進んでしまった以上、百姓は馬を貸すのか貸さないのか、はっきりした返事をして、決着をつける必要が生じてしまった。もうゴマカシはきかなくなってしまった。それに、さすがの強欲な百姓でも、如来さまを供養する米を作るためだと聞いては、「いや」とはいえず、しぶしぶ馬を貸すことにした。 その日の夕方、例の少年がドロまみれになって、百姓の家に馬を返しにやってきた。馬を小屋に入れたと思うと少年の姿は消えてしまった。百姓が妙観寺の田圃を見に行くと、広々とした荒れ田が、一日であおあおした水田にかわっているではないか。 百姓は最初、わが目を疑った。一日で、あの荒れ果てた田圃がこんな美田にか・わるはずがないと・・・。しかし、目の前の事実はどうしても疑いようがなかった。金持の百姓は胆をつぶさんばかりに驚いた。百姓はその足で荒れ果てた妙輯寺に高齢の住職を訪ねて、少年に馬を貸したいきさつを話した。肯きながら百姓の話を聞いていた住職は、 「それは、この寺の本尊、阿弥陀如来の化身かも知れない」といった。 金持の百姓は、この言葉を聞いて、いよいよ感動してしまった。荒れ果てた寺の田植えを本尊自らが行ったとは・・・・。 この話は、たちまちのうちに世の中に広がって行った。下剋上の時代だけに、このような話が、もてはやされたのかも知れない。そして、この寺の如来さまは馬の鼻取りをしたというので「鼻取り如来」と呼ばれるようになった。強欲な金持の百姓は、この事件があってから、すっかり心を入れ替え、敬虔な仏の信者になり、心の温かい人間になったという。もちろん、妙観寺の田植えは、もう阿弥陀如来の化身のご出動を願うこともなく、この百姓たちの手で毎年とどこおりなく行われたことだろう。 この如来は、八王子市横山町の極楽寺の本尊になっている。如来像は、丈が三尺余り(約一メートル)で、鎌倉時代の快慶作と伝えられている。左足をわずかに踏み出したポーズのこの立像は、微笑をたたえ、如来像を拝する人に恵みを与えているような感じを抱かせる。微笑しているので、歯がわずかに見えている。このため「歯吹き如来」の名もある。
2004.10.11

民話は誰かが話したことが言い伝えられたに違いない。神仏を信仰することの大切さを教えるために作られた話かもしれない、喜運寺の地蔵様の肩のあたりが本当にかけているのか検証してみたいですね。興味がありますね。 豆腐やの吉兵衛が店をしまってからその日の売り上げを勘定しながら首をひねった。「音次このカシの葉っぱはどうしたのだ。近頃ちょいちょい木の葉っぱが入っているぞと小僧をよびつけた。「そんなはずはありません。私は必ずお客さんからいただいたお金はちやんとその箱の中に入れてますよ」 二人は不思議なこともあるものだといいなから、あしたからはお客からもらう金を厳重にチエックすることにした。 その次の夜の勘定のときはお金だけだった。二日日の夜勘定した時にはまた葉っぱか一枚混じっていた。二人は顔を見合わせて、お互いにきょう店に豆腐を買いに来た客の顔を思い浮かべているふうだった。ややあって吉兵衛がいった。「いっも来るかわいい小坊主が今日は来たな。あの小坊主の姿が見えた日には必ず葉っぱが入っているようだ。どうもあの小坊主があやしい」 そこで二人は小坊主が来たら跡をつけることにした。 次の朝、小坊主か姿を現わし、油揚げを買って行った。吉兵衛は小坊主から受け取った金をためつすがめつ見たが何ら不審な点のない正真正銘の金にちがいない。 ところがそこへ、小坊主の跡をつけた音次がいきせき切って駈け込んで来た。そして「小坊主は喜運寺の前で、姿が消えましたと報告した。 当時、喜運寺のそばの太郎兵衛山や猫松橋あたりには、毎晩狐が出て人間をだますという話が信じられていた。このため吉兵衛は、カシの葉っぱの件は狐の仕業だとひとり決めしていた。こんど来たら化けの皮をはいでやるといって、吉兵衛はくやしがった。 その次の朝、まだ夜が明けきらないうちに小坊主がやってきた。そして、また油揚げを買った。小坊主は油揚げを籠に入れると、ぶらぶらと表へ出て歩き出した。吉兵衛はこの小坊主の跡を追った。そして、吉兵衛は豆腐切りの大きな包丁で、後から小坊主に切りつけた。小坊主は「きゃあー』と、叫び声をあげたと見る間に姿を消してしまった。 吉兵衛が「おーい早く誰か来てくれ」と助けを求めた。音次か駈けつけてみると、古兵衛が一人うろうろしているだけでほかになんの姿も見えない。 「どうしたんです。親方!」「小坊主は狐に違いない。いま、このほうちょうで切りつけたら、姿が消えやがった 二人して近くを探し回ったか、小坊主の姿はどこにも見当たらなかった。なま殺しのままにしておくと、あとの崇りが恐しいというので、二人は提灯で照らしなからもう一度探した。その結果、油湯げの入った籠と血のついた石のかけらかあっただけだった。よくよく見ると道のあちこらに血がしたたっていた.二人は気味わるげに点々とこほれている血の跡をつけていくと喜運寺境内の地蔵堂の前でとまっている。てっきり、狐の奴が逃げ場を失って地蔵堂の中にかくれたのだと、二人はそう信じた。騒ぎを聞きつけて、寺や近所の人か集まってきた。そこへ地蔵堂から、この寺の住職か飛び出して来た。地蔵様の肩から血が流れている」一瞬、みんなは黙ってしまった。ややあって、こわごわ地蔵堂の中をのぞき込んだ。確かに石の地蔵尊の肩のところが欠けている。吉兵衛か拾ってきた血のついた石の破片を肩のところにくっつけてみた,ひったり合うではないか。 「地蔵様が、小坊主に姿をかえて、油揚けを買いに行ったのだ」-近所の人たちはそういって、この油揚げ好きの地蔵さまに、豆腐や油揚けをかわるかわる供えへ、それ以後例の小坊主の姿が豆腐やの店先現れなくなったという。今からおよそ二百七八十年前の」話である。 この話の地蔵尊は、文京区白山二丁目、喜運寺境内に地蔵堂にあったといわれるか、米軍機の空襲で寺もろとも焼亡した。その後、寺は再建されたが、地蔵堂は復活せず、地蔵尊は本堂に同居している,地蔵像の肩は欠けている.猫俣橋は埋められ跡かたもない。太郎兵衛山は、この寺の近くの高台地だといわれているが、今では住宅か密集していて、狐の住むスキもない。この話テレビとリモコンのオモチヤで遊ぶ現代子には受けるだろうか。
2004.10.10

神田紺屋町の音八じいさんは人の好い正直者で通っていた。ある日、じいさんは、花房町(今の万世橋付近)の古道具屋で古ぼけた車長持を五百文で買った。車長時というのは長持ちの下に車がついていて、地震や火事の時、着物や布団を運ぶのに便利なように作られていた。これは明暦の江戸大火後うまれたが、大火の時、われもわれもと車長持をひっぱり出すので往来が大混乱し、かえって長持ぐるみ燃えてしまったり、焼け死ぬ人も出たほど。こんなことから、幕府でも一時車長袴の使用を禁じたことがあった。音七じいさんが買った寛政(一七八九一一八〇一年)のころには、すっかり長持ち人気が落ち、古道具屋の店先でほこりをかぶっていた。 ところか、音七じいさんの家に車長詩を持ち込んでからどえらいことが起こった。買入れた車長持から火の玉が飛び出したからである。 じいさんが車長持を買った日は夕方から雲が低くたれ込め、夜になってから風が出てきた。川岸に植えてある柳の枝が南からの生暖かい風にわずかに揺れていた。 その夜、音七じいさんの家の前を通りがかった者が、じいさんの家から青白い尾をひいた火の玉が飛び出したのを見たといいふらした。この話は、たちまち町中乃大評判になった。曇った晩はこの不思議な火の玉が十も二十も飛び出すというのである。見物人がこわごわ音七じいさんの家を取りかこむ騒ぎになぅた.そして、ついに「幽霊屋敷だ」という者まで現われる顛末である。なかには『あの家は、むかし首つりがあり、その怨霊が火の玉になって現われるのだ』と、知ったかぷりをしていいふらす者も出た。さすがの音七じいさんも、これにはすっかり参.,てしまった。薄気味の悪い思いをするよりいっそ引越そうということになり、音七じいさんは車長持に家財道具を積んで四谷の方へ移った。 「やれやれ、これで災難からのがれたわい」といって、その晩、じいさんはゆっくり寝ようと思っていた。ところがどうしたことだろう。その夜もまた火の玉が屑ぴ出したのである。二つ三つの火の玉が車長持の周りをぐるぐる回っていた。 貪七じいさんが腰を抜かさんばかりに驚いたのもむりがない。その夜ひと晩まんじりともせず、夜が明けるとともに神田花房町の例の古道具屋に車長持をひっぼぷ、行りた。 「とんでもない買物をしてしまった。この関買った車長特には何かの祟りがあるのか、よなよな火の玉が出て困る。引き取ってもらいたい」 と、じいき・んは古道具厭に淡し込んだ。だが、ど・っしたことか、古道具屋は「引き取れぬ」の一点張りで、じいさんの要求に応じようとしない。じいさんもこん負けしてまた重い足どりで四谷まで車長袴をひっぱって帰った。気の好い膏七じいきんらしい。そして車長袴を家の前にほ’たらかしておいた。欲しいという人でもあったらただでくれてやろうと思って……。 眼目汲、見知らぬ男の子が車優待の前に立っていた。音七じいさんの顔をじぅとーつめながら車艮持の底をこつこつたたぎなからにやにやーている。話しかけても話が通じない。この少年は睨だったのである。この少年が車長袴の底をあ求りたたくので、音七しいさんがよく調べてみると、底が二重になっていた。そこに引き出しがついている。あけてみて音七じいさんはびっくりぎょうてんした。やまぶき邑をした慶.艮小判がざくざく出てきたのである。数えてみたらざっと5百両あった。 音七じいさんは町役人を通じて奉行所に届け出た。それ以来、火の玉は全く出なくな,てしまった。火のの玉はこの小判だ、たのかと、音七じいさんは初めて火の玉の原因がわかったのである。 奉行所で御勤役の筒井伊賀守が調べてみたか元の持ち主は全くわからなかっへこのため小判の発見者の音七じいさんに五百両の大全か転げ込んだ。 五百両といえば、現在数千万円はする。正直じいさんかドクをしたよき時世の話である。
2004.10.09
延宝(1673-1681)の頃篠崎村(江戸川区)に喜八としのといういたって仲のよい夫婦がいた。この夫婦は仕事に精を出して働くので、生活も楽でこれという不満はなかったが、ただ一つ子供のないことが悩みの種だった。 冬のある日、喜八は土くれの上に鍬をたてて寄りかかりながら、妻のしのに話しかけた。 「子供のことはあきらめた。お前をせめているわけではないが、そのかわり、五右衛門さんのところのサルを譲り受けようと思うがどうだろう。少しはさびしさをまぎらわすこともできよう」 だまって聞いていたしのはすぐ賛成した。喜八はさっそく五右衛門を訪ね、米サルの親子を交換して、わが家に連れて帰った。喜八夫婦はサルをわが子のようにかわいがったので、よく二人になついた。 それから一年ばかりたった、ある朝、喜八はいつものように畑に出た。しのはせんたくしようと思って、木灰を熱湯にとかした液をオケに入れたまま、汚れた着物などをとりに家の中に入った。その間、オケの縁にあがって遊んでいた子ザルが、熱湯の中に落ちてしまった。子ザルの叫び声を聞きつけ、真っ先に駈けつけ子ザルを引き上げたのは親サルだった。しのの知らせで帰ってきた。大やけどした子ザルは夫婦の温かい看護のかいもなく、間もなく死んだ。夫婦は子ザルの遺体を野原に手厚く葬った。夫婦にと子ザルを可愛がっていただけでけ、悲しい災難だった。しかしできてしまったことで、いまさちどうにも取り返しはつかない。くよくよしても仕方のないことだ。夫婦はこの事故を忘れるように努めていた。ところが、親ザルの寂しさは人間と違って、あきらめようのないものだったようだ。あの子ザルの死亡事故以来、悲しそうに泣き続けて、餌を食べなくなってしまった。喜八は親ザルを膝にのせて、「お前の子供をいとおしく思う気持はこのわたしにもよくわかる。だけれど、子ザルは自分でオケに落ちたのだ。わしら夫婦が悪いわけではない。まして、お前が悪いわけではないのだ仕方ないではないか。もうかなしまんでくれ」と、まるで人間に語りかけるようにして、慰めた。親ザルは、丸いドングリ目を喜八の方に向けて黙って聞いていたが、喜八の独り言が.終ると、膝から飛び降りて台所の方へ歩き出した。「何をするのだろう」ー不審に思った喜八が、親ザルの跡をつけていくとーー 喜八はびっくりした。親ザルが、どこからみつけたのだろうか、子ザルが落ちたオケの蓋を持ち出してきて、喜八の方を見ながら、静かにオケの上にのせたではないか。それはまるで、人間の不注意をなじるようであった。喜八はがくぜんとした。喜八は親ザルのしぐさが終ると、すぐ親ザルの頭をなでながらいった。「オケの蓋さえしてくれたら、子ザルは熱湯に落ち込まなかったというのだな、ものが言えないので行動で示したのだと思うと、喜八には、親ザルがふびんでならなかった。 喜八はしのを呼んで、一部始終を話して聞かせた。しのは「それはかわいそうなことをしました。気がつかなかったとはいえ、わたしの手落ちでした」といって泣き出した。 こんなことがあってからも、親ザルのかなしみは癒されず、だんだんにやせ細っていった’。これには喜八もほとほと困り果ててしまった。そして、ついに業をにやして、喜八は「しのも悪かったとわびているではないか。そのまま泣きやまないのならこの家を出て行け」と、怒鳴りつけた。親ザルは喜八にぴょこりと頭を下げると、足をひきずるようなかっこうで出て行った。怒鳴りつけたものの、喜八は心配のあまり跡をつけた。それとは知らず親ザルは子ザルを埋めた野原へ行き、いっとき声をはり上げてかなしそうに泣いた。それから子ザルを掘り出して両腕でしっかり抱きしめて歩き出した。恐怖と好奇心にかられた喜八はなおも親ザルの跡を追った。しばらくして川べりに出た。あっという間もなく、親ザルは、子ザルの遺体を抱いたまま深い川の流れへ身を投じた。われにかえった喜八が川べりに走り寄って、親ザルを呼んだが、サルの姿は再び水面に浮かんでこなかったという。この話を伝え聞いた村人たちは、サルだって子を思う親の心は人間と変るところがないと言って、袖を儒らしたという。いまではこの話を知っている人は少ない。親ザルが身を投じた川は江戸川ではないかといわれている。また一説に
2004.10.08

恋は湖を渡って 調布深大寺深大寺・虎柏神社は東京のオアシスの一つですね。日本人の持つ素直に神仏を尊崇する気持ちを次の世代にも伝えたいですね。万葉と渡来人の里・狛江郷を巡る道狛江郷の渡来人 「ぴゅーん」 弓矢が軽いうなりを残して飛んでいった・、木立の間から走り出したシカに見 事に的中した。そのつぎの瞬間、シがは高く飛び上がると、一層荒々しく走り去ろうとした。矢は背中に突き刺さったのである。つぎの矢は、頭に食い込むよう命中した。シカは二歩、三歩ほど歩いたろうか。必死になって逃げようとしたがヽ力つきてどっと倒れた。どす黒い血がふき出した。狩衣姿の男が、倒れたシカのところにかけ寄った。 「大きな獲物だ.いつになく大きい……」と、満足そうにひとりごとをいった男は、多摩川べり柏野(調布市)の里親右近長者である。里長といえば、村長みたいなものだろう。千二百余年も前のことである。 右近長者は狩りが何より楽しみだった。毎日、山野をかけめぐって鳥や獣を追っていた。 ところが、この長者の妻、虎女は慈悲の心が深く、いつも夫の狩り好きをにがにがしく思っていた。「罪のない鳥獣を影殺さない……」とヽ.たまりかねた虎女はある時、夫を戒めた。さすがの狩り好きな長者も、虎女の泣いて訴える言葉には耳を傾けなければならなかった。それ以来、長者の狩り姿を見た村人は一人もいなかった。 狩りをやめてから長者の家庭はなごやかな空気につつまれていた。この夫婦の間には一人の娘がいた。年ごろになるにつれ、美しさを増していった。そのころ、いずこからともなく、一人の立派な青年が村に現われた。青年の名は福満といった。村の人たちは「都のある大和から来たものだろう」と、うわさした。長者の娘はすっかり福満に魅せられてしまった。娘は恋のとりこになってしまったのである。 このことを知った右近長者は激怒した。 「とんでもない娘だ。どこのだれともわからぬ、すじょうの知れない男を婿にしたいとは、どうしたことだ」 しかし、どんなに父の長者が激しくしかっても、あかあかと燃えあがった、娘の恋の火の手は消えるどころか、ますます、その勢いを強めていくだけだった。これをみた長者は、二人の仲をさくために、近くにある湖の島に娘を閉じ込めてしまった。これにはさすがに若い二人も、なすすべがなかった。 ある日福満は波静かな湖の‘ほとりに立って、遠くに霞んで見える島をのぞみながち恋人に会いたいー心から神に祈った。「そのむかし、三蔵法師が経を求めて天竺行く途中、、流沙河がどうしても渡れなかったが、水神の深沙大王 に祈りヽ無事大河を渡ることができたと伝えられています.『 渡していただきたい。かなえて下さいましたら、寺を建て、一生の守り本尊にします。どうかこの願いを聞き届けて下さい」福満の祈りが終るか終らぬうちに、彼の前に広がっている鏡のような湖面に、ぽっかりと大ガメが浮かんだ。カメは、ゆうゆうと波打際へやってくる。福満がカメの背に乗ると、静かな湖を、恋人のいる島を目指して進んだ。やがてカメは 島に着く。湖面を渡る福満の姿を眺めていた娘は、いち早く波打ち際に迎え、手をとりあって再会を喜んだ。 この奇跡を知って、驚きかつおののいたのは、ほかでもない長者だった。「神の助けが借りられるあの男はただ者ではない」ー 長者はついに二人の結婚を許した。かくして長者の家庭には再び平和が訪れた若いニ人の間は男の児が生まれた。この児は成長するに従って、神童という評判がたっていたのである。青年期を迎え、この’天才’は、出家して僧になりた。そして、唐に渡り法相宗学を学んだ。学が成り、帰国後、父親が神に誓った通り、この村に一寺を建立した。この寺が、調布市にある、古刹深大寺で、この憎が満功上人だという。寺の近くにある虎狛山祇園寺、虎狛神社は、館跡に長者夫婦を祭ったものと伝えられている。この話は、満功上人の徳をたたえていつとはなしに作られたという。また、一説には、奈良時代、武蔵の住民に仏の道を教えるために作った話だともいわれている。
2004.10.07

敷石につかまった盗人他人の品物を盗む、万引きをした、中学生、や高校生、を問い詰めると、品物を返せばいいんだろう。と言い返す、本人、親が多いと防犯係りの方が嘆いておられました。私のサイトのホームから心の東京革命のところをクリックしてお母さんお父さんのための子育て講座へリンクしてみてください。 真夏のある朝、賢融和尚はいつものように早起きし、小僧たちと一緒に境内を掃除をしていた」そこへ小僧が走ってきた。「大変です。大きな男が不動様の前で、助けてくれと泣き叫んでいます」和尚はほうきを持ったまま駈けつけた。見ると、一人の男が階段下の敷石の上に尻もちをついたままもがき苦しんでいる「すみません。つい悪い心を起こして、こんな目にあいました。お坊さんお助け下さい」男は和尚の姿をみると、汗と苦痛にゆがんだ顔をあげてあわれみをこうた。 お寺の付近の民家へ、このごろしきりに泥棒が入ると聞いていたので、和尚はこの男が盗人だとすぐわかったが、おだやかにこう聞いた.、「お前さん、大きな袋を持ってなにしていなさるのだ」村のはずれの家で鎌と下駄を盗み、その隣の百姓家の納屋からお米を袋に一杯盗んでのの帰り道、お寺の前を通りかかりました.よせばよかったのに、つい欲が出まして、ついでにお寺の仏具もと思ってお堂に入りました。蝋燭立てと仏像を盗んで袋にいれ、急いで階段をかけおり、この敷石を踏んだとたん、足が動かなくなりました。この石から絶対離れません。そのうちとうとう夜が明け小僧さんに見つけられてしまいました。仏像を盗もういう大それたことしをしたので、仏様の罰があたったのです。もうこれからは、決して悪いことはいたしません。どうかお許し下さい」と、大声をあげて泣き出した。 「またどうして盗みなどをして人様を苦しめるのだ。お金がそんなにほしいのか」と尋ねた。問われるままに男が話した身の上話はこの男は夫婦と子供二人の四人暮しで、妻と二人で名主の家の手伝いをしたり、近所の人から頼まれる野良仕事などで稼ぎ、どうやら貧しいながらも楽しく暮らしていた。ところが、二年前ふとしたことから妻が病いの床に伏したため、少々あった蓄えもすぐ薬代にかわってしまった。それでも一向にききめがなく暮らしはは苦しくなるばかり、思いあまって、ふと盗みを働いたのがやみつきとになりそれ以来、いろいろと悪事をかさねてきたという。涙とともにざんげする男の表情から、本当に前非を悔いていることが読みとれた。「よくざんげした.だがよく考えてみよ.この世の中には、苦しくなっても人さまのものに手をかけず、じつと我慢してまじめに働いる人がいっぱいいる。人生には苦難はつきものだ。仏像を盗んで足が敷石にくっついたのは、仏像がお前を改悛させようとして罰したものだ。よくそこのところを理解できたろうな」と和尚はやさしく、この男をさとした。そして、本堂に入って不動様に祈るといままで動かなかった男の足がたちまち敷石から離れたという。 全てをざんげして改俊した盗人は、正しい人間に生まれかわりますと、賢融和尚に固く誓い、その足で盗品を一軒一軒回って返し歩いた。それからというものは、この男は以前にもましてよく働き、再び幸せな一生を送ったという.これは寛永 (一六二四-一六四四年)ころの話である。この話に登場してくる寺は、江戸川区東小岩二丁目にある善養寺で、主役の不動尊は今も健在だ。盗人の足がくっついて離れなくなったと伝えられる敷石は、いまもこの寺にある影向の石だと伝えられている。賢融和尚はこの寺の五代目にあたる住職で、名誉の誉れ高く、その名は江戸中に聞こえていたという。この話も名僧につきものの伝説の一つであろう。
2004.10.06

身代わり地蔵さん働き者のときさんの信心の厚い態度を嫌った長男の嫁さわはときさんをいじめた、焼き火箸で顔を押し付け髪を引っ張り引き倒した。今でいうドメスティックバイオレンスの一種。その報いに「さわ」はまもなく死んだ。地蔵様の罰があたったという話です。思いやりの心をお互い持ちたいものです。 下総 (千葉県)の主家を追われた下女の「とき」は、少しばかりの身の回りの品と、地蔵さまを入れた袋を背負って江戸へやってきた。あちらこちらと奉公先を探した末、本郷(文点区)の漬物屋に住込み女中に入った。「尊い地蔵さまを自分のような卑しい女が、いつまで.も持っていては罰があたる」落ち着いてみると、ときにはこう孝えるようになった.そこで近くの徳性寺を訪ねて地蔵さまを預かっていただきたいと頼み込んだ。下女と地蔵さま-!このとりあわせに、住職は不審の念を抱いた。そして、この不思議な関係を根掘り葉ほり尋ねた。ときは下総の柏下の豪農、佐八のころに雇われていた。佐八は熱心な地蔵さんの信者で、屋敷内に地蔵様さまをまつっていた。そして、毎日地蔵さまに米や団子を供えるるのが働き者のときの勤めだった。こんなことから、ときも、いつとはなしに地蔵さまを深く信仰するようになった。「佐八さんところのおときさんを、ちよつとは見習えー信心も深いし、働き者だ。」 こういっての老人たちはなまけ者を戒めるようになった。数年後、佐八がひよつこり死んだ。すると佐八の長男長兵衛の妻さわは、まるで人が変っように、ときにつらくあたり散らした。ときが野良仕事から帰って夕食の支度に忙しい時でも「お茶を持っておいで、これをすぐせんたくしなさい」と、ときの顔さえみると、つぎからつぎへと用事をいいつけて、こき使った。それでも、ときはひとことの不平もこぼさず一生懸命になって働いた。こんな時でも以前にも増して地蔵さまを深く信仰した。村人たちはまた、こんなこと、を言い出した。「かわいそうなのはおときさんだ。おときさんが座ったところを見たことがない」さわさんはひどすぎる.長兵衛さんはなぜ黙っているのだろう。たまにはおときさんをかばってやればよいのに・・・」「お人よしの、長兵衛さんにそんなことがいえるものか」村人同情は、ときに集まっていった。・ 佐八の一周忌が来た。この日もときは薄暗いうちから起きて働いた。ちよっとの・ 暇をみて団子を地蔵さまに供えているところを、さわに見つかった。さわは額に青筋を立てて怒鳴り散らした。「石の地蔵に団子をあげたとてなんのご利益があるものか。このごくつぶしめが」はきだすようにいった場句、さわは、目をむいて駆け寄ると、ときの頭髪をつかんで引き倒した。その上、やけ火箸でときの頬を打った。ときが泣きながら、手で顔を覆った瞬間、ときは地蔑さまの姿にかわっていた.驚いたことに、ときの顔からは焼け火箸の跡が消えでいた。その代わり、地歳さまの顔から血が流れていたという。・・・恐しくなったさわは「今日限り、この家を出て行け.地蔵像も一緒ににつれて行け」と、毒々しく捨てぜりふを残して奥の間へ逃げ込んだ.こんなむごい目にあわされても、ときは、この家において下さい、と泣いて頼んだが、さわは「出て行け」、の一点張りでときの願いを聞き入れようとしなかつた。ときは、やむなく故郷をあとにして江戸へ出てきたのだった。一部始終を聞き終った住職は「よくわかった。この寺で引き受けてあげよう」といった。そして、地蔵さまが身代わりになったのも、ときの信仰心が厚かったからだ、といって合掌した。この話はたちまち江戸中にひろがった。そのうち誰いうとはなしに傷除けの地蔵さまだといわれるようになり、お参りする人々の姿が跡を絶たなかったという。一方さわは、ときが家を出てから間もなく死んだ。村の人たちは地蔵さまの罰があたったのだと、陰でそういっていた.ときがその後、どうなったかについてなんのいい伝えも残っていない。この話はおよそ二百年前のことだといわれている.話の徳性寺は文京区本駒込一丁目にあったが、昭和二十年四月十三日の大空襲で丸焼になった。その時、ときが預けたと伝えられる石の地蔵像も行方不明になったという。
2004.10.05

大力平三の武勇伝 「どうもしやくにさわってしようがねえ」平三は、さもくやしそうに、そうそう.いって、熱い茶を一口がぶっと飲んだ。宝暦八年(一七五八年)五月二十日― 旧暦だから、いまの六月末から七月初旬だったろう-のひるさがりのことである。この日は目黒不動の縁日で善男善女が街道筋にはひきもきらずというところ。平三も市五郎、又市の二人の親友と誘いあって、不動さま参りに深川からやってきたのだ。途中・街道博打にひっかかったのが平三だ.不動さま参りの人出ねらって開帳したイカサマ博打だったのだろう。平三は、たちまち三百文ばかりまきあげられてしまつた。博打にはいささか自信のある平三のことだから、カッカ.とすづかり熱くなつてしまつた。みかねた二人の同輩が「また帰り途にしたらどうだ」と、平三をなだめて、やっと先を急ぐことになった。ところが・、平三はまだおさまらない様子だった.目黒川に沿って広々とした田んぼがひらけている。しばらく行くと茶店があった。平三の興奮を少しでも鎮めようと、三人でお茶を飲むことにした。が、無念やる方のない平三は、ますます興奮する。不動さま参りなど、そっちのけの態である。この三人は深川木場に働ぐ人夫だった。荒っぽい仲間の中でも平三の力持ちは通って、いる・たいした大男でもないが、バカ力がある。けんかといえば、三度の飯より好き。けんかがあったら買って出る。一度も負けたことがない。また、博打ときたらけんかにおとらず好きで、じょうずだった。この平三が見事にしてやられたのだかから腹の虫が納まらないのもむりがない。「なんとしても合点がいかねえ。もし八百長だったら、ただじゃおかねえ。どうだ、やっつけようじゃねえか」 ―平三は友人二人にはかった。平三の友だち二人も「合点だ」とばかり賛成した。このゲームは単純なもので銭の裏表をあてさせるものだった.竹の筒に一枚の銭をいれてれて、ガラガラ振ってぱっと急造の台の上に筒の口の方を下にむけて『丁』とか「半」とか言ってかける。一文,二文はって客が勝てば倍にして返す。負ければそのまままきあげられる。三人が先刻の博打場まで引き返すと、黒山の人だかり。盛んに筒取りが叫んでいる平三は人をかきわけて筒取りのところに近づいた.「さつき一貫ばかり負けた。少し返してもらおう」と、威勢のよいところを見せた。一貫とは千文である。大体一両の四分の一というところだ.筒取りはからからと笑った。じようだんも休み休みいえ.きさまがいくら負けようが、こっちの知ったことじゃあねえ.ビタ一文返せるもんか・・・・」 この言葉を言い終るか終わらないないうちに平三は、筒取りの胸ぐらをひっつかむと、高々と差し上げた。次の瞬間、筒取りはすぐ前のドロ田の中に放り込まれた。これを見たグルの連中が三、四人、平三に飛びかかったが、平三の相手ではない.ぽんぽん投げ飛ばされ、たたきつけられた。これに市五郎、又市が加勢した。十数人いたヤクザたちはとてもかなわぬと思ったのか、ちりぢりに散って逃げてしまった。乱闘の跡には銭が散乱していた.三人でかき集めたら、四貫ほどもあった。ドロボウの上前をはねるつて、このことだ」と、三人は大笑いして、この場を立ち去ったそこからおよそ五六町〔5,6百メートル〕も来たところ、棒を持った十数人が、平三ら三人を待ち伏せていた物陰からいっせいに飛び出し「やっちまえ!」の掛け声と共に、平三らにとびかかってきた平三ら三人は左右に飛びはねながら相手の手の捧をたたき落とし、逆襲に転じ棒を風車のように振り回し、相手をたたきのめした。けんかが好きだというだけあってどきょうがある。大力プラス度胸。これに相手方はすっかり呑まれ、またしてもばらばちに散ってしまった。 平三らは「久しぶりに胸つかえがおりた」などと、深川目指して引き揚げた.′これは二百年以上前の江戸庶民の生活のひとこまだが、いまもあまり違わないようだ。平三は、五、六十貫 (200キロ)もある右を軽々と持ち上げた大力の持ち主で、深川の富岡入播、鈴ケ森八幡にある庭石を差し上げたことで、江戸中に彼の大力が知れわたったという。だが、平三の差上げた石がどの石か、いまはわかっていない。
2004.10.04

子ザルの恩返しこの世の中に不可解なことが、ありますね。「虫の知らせ」とかいって遠く離れた地に住む友人や両親がなくなるちかなくなった方の夢を見たとかです。猿が助けた和尚さんは袖を引っ張られたために命を救われたという話、善因善果のお話ですね。 元禄 (一六六八)―(一七〇四年)のころ、神楽坂(新宿区)の松源寺という寺に、 徳山という住職がいた。のどかな春のある日、住職は向島の壇家から法要の招きを受けた。そこで小坊主一人をつれて出かけた。二人が隅田川の竹屋の渡し場までくると、大勢の花見客が舟を待っていた。春霞がたなびき、向島のあたりはかすんでいる。住職は土手に腰をおろし隅田川の風物にみとれていた、間もなく舟が着いたので腰を上げると後から法衣の裾を引っ張るものがいる、振り向くとそれは一匹の小ザルだった。「おかしな猿だ、」と、住職はそう思いながら岸の方に歩きはじめた。すると、また追っかけてきて裾を引っ張る。住職は不思議に思って腰をかがめ手を差し出すと小ザルは逃げようともせず、住職の膝にひょいと飛び乗った。 あまりに人なつこい振る舞いに。住職は猿の頭をなでながら「お前はどこの猿かななぜ私の着物を引っ張る気だ。」とひとりごとをいっているところへ、猿に逃げられたといって一人の男が駆けててきた。橋場(台東区)で酒屋をしている武蔵屋という檀家の主人だった。二人が立ち話をしているうちに渡し舟は住職を置いてきぼりにして漕ぎ出してしまった。ところが、舟が川の中ほどに差しかかったころ、舟は突然ひっくりかえり沈んでしまった。すぐ助け舟も出たがたくさんの人がおぼれ死んだ。住職はしばらく横牲者の霊をとむらうため合掌していたが「わしだけがサルのお陰で災難をのがれた・・・」と、つぶやいた。 武蔵屋の主人は「サルの恩返しでしょう。このサルこそ、御坊からいただいたサルですよ」と、膝を乗り出してきた。しばらく小首をかしげていた住職は一年前の出来事を思い出していた。松源寺は周囲を樹木や雑草に包まれていて、昼間も薄暗いところだった。寺の境内にはときどきサルがやってきていたずらをするので住職も因っていた。しかし、人畜に害を与えるほどのいたずらもしていないので、住職はそのまま放置していた。ある日、住職が外出した留守中に、小坊主とその仲間がサルをワナにかけて生捕りにした。帰ってきた住職はこれを見てかわいそうに思い、「別に悪いことをしたというのではないのに、売り飛ばすのはかわいそうだ。わたしがお金をやるから放してやってくれ」と言っているところへ武蔵屋の主人が来合わせた。そして武蔵屋が「わたしに売って下さい。かわいがって育てますから・・・」と引き取っていった。それきり住職は猿のことを忘れていた。その猿が一年後にひょっこり姿を現し渡し場の難から救ってくれたのである。住職はあらためて武蔵屋に「サルに助けられるという尊い体験を初めてした。恩返しの意味でサルを大切に育てます。このサルを私に譲って下さらぬか」と申し入れた。武蔵屋も心よくサルを住職に譲った。それ以来、猿は松源寺で住職の手厚い保護を受けながら暮らした近くの人々はいつしかこの寺を「さる寺」と呼ぶようになった。お参りにに来る人たちからもかわいがられたが、数年後に死んだ。この物語りはその後ながく語りつたえられたという。松源寺はその後明治三十九年神楽坂から現在の中野区上高田一丁目に移った。その時、門前に猿を彫った石碑を建て、その台石に「さる寺」と刻み、つけた。石碑はいまも門前に残っている。しかし、「さる寺」をしっていてもさるの恩返しの話をしっている人は今はほとんどいないだろう。
2004.10.03

正直者は損だ、上手に世間を渡った方が「勝ち」こんな言葉をよく耳にします。確かにそのことも事実でしょう。しかし、ながい一生のことを考えるとそうでないことがバブルの時代を過ぎて実証された、幾多の事例を見聞しています。やはり正直でありたいですね。熊本細川藩の江戸詰めに、上田という信心深い足軽がいた。彼はかねてから仏像を手に入れたいと思っていたが、足軽の収入ではそうやすやすと手が出なかった。ある時、上田は古物買いのじいさんに「手ごろの仏像の出物があったら頼む」と、依頼した。 ある秋の日のこと、古物買いのじいさんが上田を訪ねて来て「だんな、掘り出ししものですぜ」といって、一体の古ぼけた阿弥陀の像を持ち込んできた。仏像は一二尺(約六〇センチ)余りで、古色蒼然としているが、それだけに何か由諸ありげに思われた。上田はすっかり気に入った。そして三百文で買い取った。 上田はさっそく仏像のほこりをはらい、みがきをかけはじめた。ところが、台座にみがきをかけているうちに、台座がパカツと抜けてしまった。そして、紙包みがでてきた。中から小判がざくざく、山吹色に輝いていた。数えてみるとちょぅど三十両あった。彼はびっくりした。それから考えた。「だれかが災難に備えて蓄えた金だろうが、しまい忘れて、仏像を売ったに違いない。これはぜひ、これを売った人へ返さねばいけない。仏像まで売るのだからよほどこまってのことだろう・・・」 数日が過ぎ、古物買いのじいさんが顔を見せた。上田は仏像の台座が抜け、三十両もの大金が出てきたいきさつをじいさんに話した。売り主は、麻布の古川橋付近に住む浪人とわかった。 上田は浪人宅を訪ねて、例の三十両を返そうとしたが、この浪人、大変ないっこく者で「拙者は全く覚えがない。金は受け取るわけにはいかない」と、どうしても受け取ろうとしない。「受け取ってくれ」「いや、受け取るわけにはいかぬ」の押し問答が続いた。これでは、いつまでたってもらちがあかない。結局、家主が仲に入って話をつけた。条件というのは、三十両は浪人が受け取る。そのかわり、浪人は上田の好意に報ゆるため、わずかに残っている、先祖伝来の古茶碗を上田に与える、ということで、両者は納得した。 上田はその茶碗で朝夕お茶を炊んで満足していた。と、ある日、何かの用事があって、同藩の茶坊主が上田の家へやって来た。茶碗を見て驚いた。茶坊主は「これは珍しいものらしい。ちょっと拝借」といって、持ち帰ってしまった。細川侯はこの道の通人だった。この茶碗を一目みて「井戸茶碗といって、古くから茶人に珍重されている名器だ○足軽尉僻の家にあるべきものではない0盗みとったか、何かわけのあるものに違いない。よく調べてみよ」と命じた。上田は呼び出され、茶碗の入手経路などをたずねられた。しかし、上田にはかくさなくてはならない事情がないので、包み隠さず正直に申し上げた。細川侯は上田の正直なのに感心した。そして茶碗を百両で買いとった。当時、二十五両で百俵の米が買えたというから、百両は大金である。そのうえ士分にとりたて五十石を加増したという。 この茶碗の話を老中の酢椚朗糾が小耳にはさんだ0そして「名器、井戸茶碗をぜひ拝見したい」と、細川侯に申し入れた。断りかねて、茶碗は田招家へ届けられた。この茶碗、一年たっても細川家に返されなかった。柏手は、当時飛ぶ鳥も落すほどの羽ぶりの幕間筆頭田招意次だけに、へたな催促もできない、といってあの茶碗には未練がある。なんとか取り返す方法はないものかといろいろ知恵を絞った。ある時、家老が一案を出した。「田招侯に一つ何かの耗題を持ち込めば気がつくかも知れぬ…:・」1この策をいれて田招侯へ 「屋敷が狭いので家中の者ヽノ こ ヽノ 一一・喜一一・こ ¢大々に-屋芳をつくりたいと思う。ついては、場所がないので困ロして、 去 -Yる。神田橋外の空地が好適地と思うが、貴下のご威光で将軍の許可をもらっていただけないものか」と申し入れた0当時神田橋付近宗の空地は江戸城のが酪貯とされていたから、絶対に許可するはずがないと、細川家ではたかをくくっていた0要は、許可はどうでもよいのJである。茶碗さえ戻ってくればよいのだ0ところが「茶銘のお礼をと思っていた矢先だから、取り計らいましょう」と、間もなく「下屋敷の件、お聞届け」と、細川家に伝達され当時大名たちをうらやましがらせた細川家下足敷はこうしてできた。もちろん茶前は返ってこなかった安永の頃の話である。この下屋敷は、通称茶碗屋敷と呼ばれた。正直者めでたしという、江戸っ子好みの話になっている。
2004.10.02

カラス婆さん由来記カラス婆さんの話は、リストラされた武士のひとつの選択肢であったかもしれない。高利貸し、貸すほうが悪いのか、借りるほうが悪いのか、現代人も同じことを繰り返しているようですね。子供達にお金の怖さを教える必要がありますね。 「かねてから覚悟はしていたが、こうなった上は、一日も早くここを引き払わねば。・・・ 息子の郡治郎が「身持不行跡のかどにより、公儀によりいとまをつかわす」と、主君から追放された日、おたきは顔を曇らせながら、ひとりごとのようにこうつぶやいた。郡治郎はただ、かるく肯くだけった。早春の陽光が障子紙の破れ目から、二人の座っている部屋へ忍び込んでいる。庭の梅は、見事に花を開いている。おたきはたち上がると、静かに障子を開け、梅の花に見入っていた。 「この梅も今年が見納めに…・」と、いいかけて、おたきはだまってしまった。そして、わき出る涙を、こらえきれないように袖でそっとぬぐった。おたきは竹内伊右街門の妻だった。伊右衛門は、御徒士三枝谷伝蔵の組下で、下谷和泉橋通りに住む七十俵五人扶持の下級武士だった。おたきはどちらかといえば気性が強い女で、貧乏武士の家庭にあって、家計の不足を着物の仕立ての内職で補ってきた。 宝暦年問(一七五一― 一七六三年) といえば、入代将軍吉宗の緊縮政策が崩れ、再び生活が派手になったころのことである。 生活が派手になり、芝居が大入満員を続け、お茶屋から毎夜三味線と歌声がもれて来ていても、当時の武士には加増されることはなかった。つまり、現在のサラリーマンのように、べーアップはなかったのである。「景気がよくなった」と喜ぶのは、大きい商人とか、一部のお茶屋の経営者などだけだった。下級武士は禄があがらず、百姓は重税にあえぎ、物価高で庶民の生活は楽でなかった。大名さえ、札差しから翌年の米を抵当にして、金を借りたほどだった。 こんな時、伊右衛門は病死した。郡治郎が跡を継いだが、勤務にはあまり熱心でなかった。熱心になれなかったのである。少しばかり小理屈を並べる郡治郎は「精を出して働いたからといって、禄高があがるわけでなし・・・」と、よくグチをこぼした。そして、重くのしかかる階級制度に、ちょっぴり反抗する姿勢を見せるようになった。だが、これもはなはだ消趣的だった。郡治郎は、遊び人の仲間に入り、悪がしこい商人などを脅し回っていた。郡治郎が「身持不行跡」のレッテルを貼られ、お払い箱になったのも、そんな事情だったらしい。 おたきは、郡治郎が追放された時もらった「厄介養育金十五両」で、下谷三崎町に小さい家を買って住むようになった。郡治郎が浪人の身分になると、おたきはこれまでと全く違った生き方を始めた。着物の仕立てなどの内職をやめて、へそくりを資本にして金貸しを始めたのである。資本金が資本金だから庶民を相手の金融業である。「一両でも二両…もょいから、用立てて下さい」と、おたきの家を訪ねる人が、だんだん目立ってきた。こんな時おたきは、「お貸ししましょう。ただし手数料は先にいただきます」こうして、容赦なく二割くらい天引きして渡す。借金にくる人々は小売商人で、貧乏武士を相手の商売では売掛金がなかなか回収できず、、表面では売れて景気がよさそうでいてその日の仕入れにも、事欠くことがしばしばあったようである。おたきは、夕方になると、朝金を借りに来た人の家を訪ね歩きその日の利息、を取り立てる。この日歩も、もちろん高利である。利子が払えないと「約束が違う。それではそこにある商品や道具をかたとしてもっていく」と、手当たり次第もっていってしまう。一刻も猶予も与えない厳しさ。「強欲な婆め!」と、町人の間にはこんな陰口もささやかれたが、借金した弱身で、おたきに正面からぶつかって行くほどの勇気を持ち合わせた者もいなかった。 おたきが毎日持ち歩いている鹿皮の袋も、貸し金のかたにむりやりにとり立てたものだろう。 当時の江戸市民は、おたきの強引さに恐れをなして、「カラス婆」と呼ぶようになった。このころ江戸市中を警戒していた御徒士は黒頭巾、黒い着物といういでたちで、数人が隊を組んでパトロールしていた。江戸市民はこれをみて「カラスが来た。カラスが来た」といっていたそうである。おたきが元徒士の妻だったことから、「カラス婆」というようになったと伝えられている。 おたきの最後がどうなったかはわからない。ところで、西洋ではギリシャ、ロ―マ時代から高利貸しがあったそうだから、江戸時代に高利貸しが横行していても不思議とはいえまい。江戸の庶民が高利にあえいだ姿はいまの東京の「サラ金地獄」とそっくりである。からす婆に似た高利貸しが、現在の東京に存在している限り、東京人は二百年前の江戸市民を笑うことはできまい。
2004.10.01
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