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グロスター岬での戦いに続くラバウルへの撤退の実相は「悲劇の撤退作戦~ツルブ 松田支隊~」として NHKの「戦争証言アーカイブス」に収められている。************************** 『 ツルブからの後退を開始した松田支隊に対し、第17師団司令部は2月24日、ラバウルまで後退するよう命令。連合軍がラバウルに上陸することを懸念し兵力を集めようとしたのだ。ニューブリテン島北東端のラバウルまでおよそ1000キロ。衰弱した兵士たちにとって行軍は苛酷だった。 過酷な持久戦と1000キロに及ぶ撤退で、松田支隊は2300人以上の命を失い、さらに記録によれば700人にのぼる将兵が撤退の中で行方不明になったとされている。』************************** グロスター岬はニューブリテン島の西端、そしてラバウルは東端、その間、道らしい道はない。しかも制空権、制海権は連合軍の手中。艦艇による移動は無理。多人数の移動や海岸線で露出すると、敵機の攻撃を受ける。雨期に入ったジャングルの中の泥濘の度を増した湿地、増水した川に浸かりながら活路を求める。当初、小隊、分隊でスタートした列が日ごとにバラバラになる。 食糧の補給が絶え、背嚢の糧秣も限度がある。死んだ兵士の背嚢を探ったり、現地人の作物をとる。食べられそうなものがあれば、なんでも良い。カエルとか蛇、野生の芋やその蔓。飯盒で煮た芋の蔓1本で1日持つはずがない。栄養不足の体に泥濘の湿地はきつい。雨もやまない。小銃を持つことすら耐えられない。マラリヤ、アメーバ―赤痢、皮膚病、下痢・・・・・。泥に浸かり歩き続けるうちに、靴に入った泥のために足の皮膚から出血して履けなくなる。軍靴の糸が切れる。破れた重い軍靴を捨てる。撤退当初は、小隊や分隊ごとにほぼまとまっていたが、難路を辿るうちに、追従できない負傷者、衰弱者が落伍し、しだいに分散、分解した。迷惑をかけまいと手榴弾や小銃で自決した人もいたし、遅れぬよう連れて行こうとする友の肩や手を自ら外した人もいた。かろうじて歩き続ける人たちも精一杯だった。深い川、急流が前途を阻むし、流れの弱い所にはワニが巣くう。河口近くには深い湿地の続く場所もある。その辺りには、力尽きて横たる人が多かった。雨期のジャングルでの仮泊のために雨除けなどを設けてあった所には、必ずと言っていいくらい、横たわる人たちがいた。南方のウジもハエも大きくて四、五日もすると白骨化してしまう。ラバウル到着が遅れるにつれて「白骨街道」、生き地獄の様相が深まる。3ヶ月あるいは4ヶ月、歩き続けてラバウルに達した人は 『戦闘が始まる前の150人が30人くらい!』 『中隊長以下186人だったが、撤退を始めたときで80人。それが35人!』 『一個中隊250人ぐらいおった兵隊がラバウルへ帰ったのが2、30人!』 ************************************ この頃、米軍の北上が本格化して サイパン、テニアン、グアムが相次いで占領された。 そして11月下旬にはB29による東京空襲が行われ、 本土全域が米軍の直接攻撃に曝される事態に陥った。45年に入ると、硫黄島玉砕、米軍の沖縄上陸、空襲の本格化と事態は切迫し、ドイツ降伏、広島と長崎への原爆投下、ソ連の参戦などを経て、日本のポツダム宣言受諾、降伏へと至る。その間、ラバウルでは、連合軍側の作戦によって、地上戦は回避され、約10万といわれる兵力を抱えたまま、終戦を迎えた。
2014.11.27
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前回の日記に「大戦前夜のベーブ・ルース』を引用してニューブリテン島に上陸した米海兵隊 に向かって トゥ・ヘル・ウィズ・ベーブ・ルース" To hell with Babe Ruth !"(地獄に堕ちろ! ベーブ・ルースを道連れに!)と叫んで 日本軍が斬り込み(玉砕)攻撃をかけてきたと書いた。日本軍は、1943年12月26日、米海兵隊の上陸作戦が始まって、数日後にはツルブ飛行場を占領され、特に火力の差には抗しがたく、後退しながら、夜襲を主とする反撃を続ける困難な状況にあった。その夜襲で、英語が使われたということがあるのだろうか? ******************netで見つけたアメリカ海兵隊の資料「USMC Monograph-The Campaign on New Britain 」に先に米海兵隊に占領された青桐台奪還のために1943年1月10日、日本軍が夜襲をかけたときの記録があった。その一部は次のとおり。『1月10日午前0時15分、最初の逆襲が始まった。叫び声、怒鳴り声が斜面を登ってきた。』そして、文中の怒鳴り声(howling)に次の注記が付されている。『少なくとも1時間くらいの間、日本兵たちは、"Marines ! Prepare to die !" 【海兵隊員たちよ! 死ぬ支度をしておけ ! 】と繰り返し怒鳴っていた。』 さらに、この注記には次のことも記載されている。『1952年5月に行われたこの記録の著者とのインタヴューの際、当時青桐台の指揮官のウォルト大佐と上官のシェファード准将が、この興味深い出来事があったことを一致して語っている。』【Hyper War:USMC Monograph-The Campaign on New Britain Hough, Frank O., and John A. Crown (1952).】 ********************** NHK『戦争証言アーカイブス『悲劇の撤退作戦~ツルブ 松田支隊』にもこの日の様子が含まれていて、青桐台奪回のために斬り込み突撃をかけ、多くの犠牲を出して断念したことは事実のようだ。そしてその日本側証言の中には、出撃の前に多数が大声で『ウワーウワー』と叫び声を上げようという計画があったとの証言もある。計画どおり『ウワーウワー』叫んだかどうかは、わからない。でも叫んだとすれば、"To hell"と"To die"の両方があったとしてもおかしくはない、と思う。資料では、1月10日の戦闘に関して次の記述もある。「凄まじい砲火にさらされつつ、2人の士官と防御ラインを突破し、米側の射撃で倒れた木の下敷きになって死んだ一人の少佐がいる。少佐は、片手には軍刀、左手にピストルを持っていた。」もっとも、この突撃を指揮したのは、若い少尉であったとの一致した証言があり、少佐の参戦には疑問がなくはない。むしろ、1月16日の万寿山(Hill660)での戦闘であったのかもしれない。いずれにせよ、白兵戦とも言うべき壮絶な場面である。********************** これらは、1943年12月26日から翌年1月なかばまでの出来事。南太平洋の島のジャングルの中で、上陸してきた敵に圧倒され、補給が絶えて食糧も銃弾もほとんどゼロ状態。夜襲を命じられ、生死が別れる瀬戸際で、英語の『鬨の声(war cry)』をあげる指揮官と兵士たち。敵の火力のすさまじさを十分に承知させられているだけにその無力感と絶望は深かったに違いない。この後、1月23日には前線の片山連隊司令部の撤退跡が、28日には松田支隊司令部跡が海兵隊によって占拠され、17師団司令部発松田支隊長宛と松田支隊長発4隊宛の撤退命令が確認された。そして、この苦しい戦いを生きた人たちに、次の過酷な日々となる「悲劇の撤退作戦」が始まる。ラバウルまでの約1000キロの道なき道を補給もなく徒歩で歩き続けなければならなかった。
2014.11.10
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