全23件 (23件中 1-23件目)
1
永遠と一日おとついからどういうわけか頭の中にテオ・アンゲロプロス監督の「永遠と一日」の中の曲が断続的に流れていて、YouTubeで探してみました。
2009年02月24日
コメント(0)

+ =おいしい(スプーンで食べてくださいね)
2009年02月23日
コメント(0)
(人生をどう生きますか? WHAT ARE YOU DOING WITH YOUR LIFE?:p91:クリシュナムルティ:大野龍一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『人類全体のための普遍的な言語と計画(それはすべての国家の終わりを意味します)がなければ秩序はありえません。』常識的に考えると、これでは、「人類に秩序はありえない」になってしまう…でもまあ、ありえないんだろうな…
2009年02月22日
コメント(0)
(瞑想:p6:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『思考が その表象 言葉 知覚のすべてとともに すっかりやんでしまうとき』思考の表象…映像による思考 声の音や物音による思考思考の知覚…なんというか、リラックスした心の状態のとき、思考を物として知覚すると、思考は重いので、思考の知覚がうっとうしくなり、当然のように思考を手放している。
2009年02月22日
コメント(0)
「自分を捨てる」という表現はなんだか重い。これだとどうしたって、自分で作った「観念としての自分」を捨てるみたいで、そうすると、「観念としての自分」を作った自分はあるみたいだし、だったらその自分も捨てなくちゃならなくって、「観念としての自分」を作った自分を捨てるとなると、これはもう、たいへんなことになってしまう。それより、「もともと自分はない」のほうがよほどすっきりしている。もともとないなら捨てようがない。
2009年02月19日
コメント(1)
(ブッダ 神々との対話:p48:中村元(訳):岩波文庫)より引用『ただ善き人々と共に居れ。 善き人々とだけ交われ。』 これはスッと読むと、ありえないたわごとのようなのだけれど、まあ、生きておればいろんな人々と関わってしまうのだけれども、いっしょに暮らすのは善き人々、深く関わるのは善き人々、といったところかなあ…
2009年02月19日
コメント(0)
気が重いとか、不必要と気づいた思考が止まらないとか、そういうのは、なにかしら別の行為を求められている。睡眠不足なので横たわるとか、ちゃんと食べるとか、運動不足なので体を動かすとか、求められている。なんとなく気にかかる考えから逃げずに、ここから先の思考は不必要だとわかるところまでは考えるとか、求められている。
2009年02月19日
コメント(0)
(瞑想:p104:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『森のなかを夜どおし動きまわる 小さなフクロウの声』 なんてうつくしい…
2009年02月19日
コメント(0)

おいしい
2009年02月18日
コメント(0)
心の状態が崩れたと感じるとき、つい、思考をよりどころとして心の状態を立て直そうとしてしまう。けれど、思考は根本的なよりどころにはならないので、うまくいったように思えたとしても、結局のところ不安定である。
2009年02月18日
コメント(0)
(瞑想:p92:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『わたしたちは残りかすにほかならない えんえんとつづく過去を受けつぎ とだえることのない記憶をひきつぎ 選択と絶望をくりかえしている…』「わたし」が残りかすだと気づけば、「わたし」にしがみつかなくても大丈夫なんだという安心感が生まれる。
2009年02月17日
コメント(0)
(生と覚醒(めざめ)のコメンタリー2:p92:クリシュナムルティ:春秋社)より引用(一部変作)『大切なのは、精神があらゆる思考から浄化されつづけてゆくことです。 精神に思考が入るたびに、必要な思考なら使い切ってしまい、不必要な(苦を生みだす)思考なら捨ててしまい、精神を空っぽにすること。 いや、そのような「空っぽにする」といった意志にまどわされないこと。 空っぽになるのではなく、ただ空っぽであること。』 空っぽであるとかないとかは思考に過ぎないから、ただ空っぽであること。「それはそうかもしれないけど、でも、そんなこと言ったって…」というような不必要な思考を捨てて、必要な思考ならばすみやかに利用し消費し、ただ空っぽであること。
2009年02月16日
コメント(0)
横たわって目を閉じ、意識を目の前の小さな場所に集中させ、そうすることによって無意識に触れる。無意識に触れると我に返る。くりかえし何度も試みる。覚醒してゆく。
2009年02月15日
コメント(0)
(花のように生きる:p18:クリシュナムルティ:星雲社)より引用『生きている真実を叙述しようとする人には、用心してください。それは叙述できないからです。それは経験され生きられなければなりません。』これを読んで「叙述できないと言っておきながらこうして叙述しているのは矛盾している」と考えるのは屁理屈だ。本気で語られる言葉は、「平面」としての表現を超え、「立体」となって、こころに触れからだに触れる。
2009年02月15日
コメント(0)
(ブッダ 神々との対話:p40/p41:岩波文庫)より引用(一部変作)『神いわく、「煩悩の汚れを滅ぼした修行僧は「わたしが語る」と言ってもよいのでしょうか?」 尊師いわく、「煩悩の汚れを滅ぼした修行僧は「わたしが語る」と言ってもよいでしょう。 はっきりと理解しているならば、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、(仮に)そのような表現をしてもよいでしょう。」』「わたし」も「が」も「語る」も「煩悩」も「汚れ」も「滅ぼす」も「修行僧」も「名称」も「言語表現」も「仮に」も「神」も「尊師」も、すべての言葉は仮のものであり、そうした仮の言葉を使ったすべての表現は仮のものである。
2009年02月15日
コメント(0)
(ブッダ 神々との対話:p39/p40:中村元(訳):岩波文庫)より引用(一部略)『神いわく、「ひとは、あらゆることを離れるように、心を抑制せよ」 尊師いわく、「心を、あらゆる事柄から離れるように抑制すべきではない。すでに自制されている心を抑制すべきではない。悪の起こるところから離れるように、それぞれの場合ごとに心を抑制すべきである。」』「心を抑制しよう」とすると、「心を抑制することから離れる」ことができない。悪が起こったとき、「抑制しよう」という努力なしに、「悪が起こっていることに気づいたら、努力なくすみやかに抑制している」というようになればいい。まあ、「神業」ではだめで、「尊師業」というところでしょうか…
2009年02月14日
コメント(0)
横たわって目を閉じ、思考を落とす。うまくゆけば脳の状態が変化し、身心がよろこび、起きてから、まわりもひろがっている。
2009年02月11日
コメント(0)
(瞑想:p112/p113:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『ひとは そのすべてを 自分自身から 学ばなくてはならないのです 心は そこで 信じられないものを発見するでしょう ……… 生きることは まったくちがった意味をおびるのです』
2009年02月11日
コメント(0)
(しなやかに生きるために:p13:クリシュナムルティ:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『私たちは生の表面に存在し、ごくちっぽけなもので満足し、そのようなちっぽけなもので幸福または不幸にさせられるのです。 私たちのちっぽけな精神はちっぽけな問題とちっぽけな答を持ち、それらによって日々を過ごしていくのです。』
2009年02月10日
コメント(0)
(ブッダ 神々との対話:p33/p34:岩波文庫)より引用(一部変作)『言葉で表現される物事のみを心の中に考えている人は、言葉で表現される物事の上にのみ立脚している。 そうではなく、言葉で表現される物事は、言葉によって語られた物事であり、言葉によって作られた物事であると知る人は、煩悩を作らない。』
2009年02月05日
コメント(0)
(自己の変容:p43:クリシュナムルティ:松本恵一(訳):めるくまーる)より引用『感受性を豊かにさせ、心を機敏にさせようとするプロパガンダは、ただ心を鈍らせ、鈍感にさせるだけです。』
2009年02月01日
コメント(0)
(しなやかに生きるために:p6:クリシュナムルティ:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『「あるがまま(what is)」を知覚するには、聡明な反抗の精神がなければなりません。』
2009年02月01日
コメント(0)
(人生は愉快だ:池田晶子:p281:毎日新聞社)より引用『きっちり考えれば、生き死にというこのおかしな現象、それが成り立つこの宇宙というものが、なんて奇妙な存在であるかに必ず気がつくはずです。』
2009年02月01日
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1