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アッサーラームアレイコム8月18日アンマンのクリフホテルに1週間滞在していた私は、サーメルや日本人旅行者に見送られながら、別れを惜しみながら深夜の空港へと向かって行った。別れを告げたときの、あのサーメルの寂しそうな顔がとても印象に残っている。夜中の3時に、この旅4、5度目となるエアーアラビアを利用して、アンマンからUAEのシャルジャを経由して、この旅の最終目的地へと旅立って行った。最終目的地イエメンの首都サナアへ上陸間際私が選んだ旅の最終目的地は、アラビア半島の最南端にある半島での最貧国、イエメンの首都サナアであった。サナアは標高2300m程に位置していて、周りは焦げ茶色をしたワイルドな山々に囲まれている。イエメンの男たちは、昔ながらの衣装を身に付け、今もなおジャンビアという刀を腰巻に装着している。イエメンとは、果たしてどんな国なのだろうか!?上空から見た、上陸間際に目にしたとてもワイルドな地形・山々を見て久しぶりにアドレナリンが湧き出るほど興奮していた。 エアーアラビアでサナアに上陸 乗客はもちろんアラブ人ばかりであった☆★イエメンに上陸する航空映像はこちら!!(You Tubeへ)★☆イエメンに入国するにはビザが必要だ。東京の大使館で取得することが出来るが、ここサナアの空港でもアライバルビザが簡単に取得出来るのだ。写真や書類は一切不要で、パスポートと5500YRをビザカウンターに差し出すだけで即ビザを発行してくれる。$1=198-199YR(イエメンリアル) カッコイー!イエメンのビザ 最高額紙幣の1000YRと50YR これまたカッコイイ!!無事にビザをもらって入国審査の列に並んでいるときであった。「カメラ!!」「カメラ!?」「カメラ!!」突然、強制的にある係官にカメラを没収されてしまった。中には、まだバックアップしていないイランやシリア、ヨルダンの貴重な写真が1000枚近く収められていた。このまま画像を消去されてしまうのか!?。。。思い当たることがあった。実は、エアーアラビアを降りてからターミナルへ向かうバスの中で、飛行機の写真を何枚も撮影していたのだ。ここイエメンに限らず、多くのイスラム教国家や軍事的要素の強い政権の国家などでは、空港や鉄道駅、重要施設や橋などの写真撮影は禁止されている。先日も、イランのテヘラン駅で写真を撮ったことが警察官に知れてしまい、事情聴取を受けてしまったばかりでもあった。今度はヤバそうだ。。。。せっかくのこの旅の『メインイベント』へ入国目前にして、私は青ざめながら入国審査を待っていた。無事に入国を果たしたが、肝心のカメラが返ってこなかった。慌てて先ほどカメラを没収していった係官を探し出した。ようやく彼を見つめると、警察官がいる別室へと連行された。そして、2人で椅子に座りながらの取調べが始まった。「写真をみせて下さい。」彼は小柄で可愛らしい顔をしているが、腰にはしっかりと拳銃を装備していた。私は、何とか間際に撮ったイエメニア航空の写真が表示される前に、他の写真に切り替えようと試みたが、見事に失敗しモニターにはしっかりと撮影されたばかりの機体が表示されてしまった。 イエメニア航空機彼の動きが一瞬止まった。ヤバイ。。。彼は、次々とコマ送りをしながらイランからヨルダンまでの写真をチェックしていった。「これはどこですか?」「イランです。。」「Very Beautiful!!」その後も、ドキドキしながらもチェックは続いた。中略「No problem」「Dont Worry!!」「レディーの写真は無いのかな!?」いつの間にか、和やかムードになってきた。彼は、女性の写真を見たがっていたり、イランやシリアの綺麗な写真をみながら楽しんでいた。これは大丈夫そうだ!そう確信し、間もなく無事開放された。他の中国人のカメラが1台、その別室に置かれていた。ひょっとしたら、飛行機を撮影したしないに関わらず、ランダムに取り調べをしているのかもしれなかった。とにかく、自由の身となってサナア市内へと向かっていった。空港からはタクシーも利用出来るが、ここは庶民的な移動手段であるダッバーブ(乗り合いミニバス)を利用することにした。これなら、市街地まで50円もかからずに行くことが出来るし、それより、早くイエメン人と触れ合ってみたかったのだ。 これらがサナア庶民の足・ダッバーブ乗り場90リットル、約20kgのバックパックとサブバックを車内に置くとかなり狭くなってしまうが、それでも彼らと身を寄せ合いながら、早くイエメンを感じてみたかった。 ダッバーブ車内で。これが噂のジャンビアだ!!カッコイイ!!早速、乗り込んだダッバーブ車内で人の良さそうなおじさんに写真撮影をお願いしたら快くOKしてくれた。イラン、シリア、ヨルダンとムスリムの4ヶ国を旅してきたが、イエメンはどこの国とも違った雰囲気を感じた。イエメン人の顔や体格、衣装も他の国とは異なっていた。彼らは、他のアラブ諸国の人々より小柄で、トゲのない優しそうな顔をしている人が多い。他のアラブ人たちは、ガタイが良く、強面の男が多いのとは対照的だ。この感覚は、インドを旅した後バングラデッシュに入国した時の感覚と非常に似ていた。インド人は、特に北インドの人々はキツい顔をした人が多いのだが、バングラデシュの人々はイエメン人と同じように小柄で優しそうな顔をした人が多かったものだ。そういえば、ここイエメンでは女性の姿をあまり見かけないことに気づいた。たまに見かけても、全身を黒いチャドルで覆い、目だけ露出して他は全て真っ黒だ。この点でも、イエメンは他のアラブ諸国とは明らかに違っていた。シリアやヨルダンではカジュアルな服装をしている女性も結構いたのだが、ここイエメンでは皆無であった。イエメン人は、ちょっと貧しそうに見えた。街を歩く男たちの服装は汚れていることが多く、たまに女性や子供の物乞いも見かけた。食事にも恵まれていないのか、小柄でやせている人が多い気もした。アラビア半島最貧国であるのは間違いなさそうだが、ハートの暖かさは他の国より抜きん出ているような気もした。汚れてはいるが、そのワイルドなイエメンスタイルのファッションセンスは、今までのムスリム国家の中でダントツでNo.1だ。空港からのダッバーブを一度乗り換えたとき、どれに乗り換えたらいいか分からなかったのだが、親切なおじさんが案内してくれた。市街地に到着して、安宿を探しに歩いた。すれ違う子供たちから、ハロー!と何度も優しい声がかかった。途中で、バックパックからサンダルが落ちてしまったのだが、わざわざ追いかけて私の所まで屈託のない笑顔で届けてくれた子供もいた。とても嬉しかった。目をつけていた安宿2軒が満室だった。久しぶりに1時間以上ダウンタウンをさ迷いながら宿を探した。2300mの所にあるサナアは天気が良くてもそれほど暑くはなかった。路上で物を売るおじさんや子供たち。 安食堂で昼ごはんを賑やかに食べている男たち。通りはイエメンの男たちでかなり混雑しザワザワと賑わっていた。 お世辞にもきれいとは言えないゴミで汚れた通り。引っ切り無しに飛ばしてくるタクシーやバイク、自家用車。 イエメンの男は黙って客を待つ(バイクタクシー)重い荷物を抱えながら街中をさ迷ったが、重いとも感じずに久々に猥雑とした雑踏を楽しんでいた。かなり期待していた国イエメン。想像以上に人の良いイエメン人。警察官までも人の良さそうな国イエメン。想像以上に賑わっていたサナアの街中。これはかなり期待出来そうな国だ!!⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.08.30

アッサラームアレイコム※※今回のブログを読む前に、必ず前2回分の記事を読んでください。・その1 ◎夕日を浴びながら『死海』で浮いてきた・その2 ◎『サーメルヒストリー』 私は、アンマンのクリフホテルに1週間ほど滞在していた。 ある時は、この旅では珍しく読書をし、ある時は他の旅行者と話をしたり食事に行ったり、ある時はベランダから味気ないアンマンのダウンタウンをボーッと眺めていた。あの香田証正さんと同じように。。 クリフホテルのベランダから・1 クリフホテルのベランダから・2サーメルが、香田さんの本を大切に保管していることを知ったので、彼に頼んでその本を読んでみることにした。『香田証生さんはなぜ殺されたのか』この本は、『貧乏旅行作家』の下川裕治氏によって執筆された。サーメルのことについても書かれていた。私は、彼の旅行記やエッセイなどを結構読んでいて、内容はもちろん、彼の視点や彼の文章スタイル、感性なども気に入っていた。しかし、この本を読む前に、ちょっと疑問に思ってしまった。。香田さんのことを『ネタ』にして、また本を書いたのか。。。こんなことを言っている私もネタにしていることには間違いないのだが、彼の本を読んで、それはネタではなくて、同じ一人のバックパッカーとして共感することが出来るもので、ぜひ、同じようなバックパッカーの方には読んで欲しいと思ったので、このように文章化してみた。この本を読んでみて、改めて色んなことを知ることとなった。当時、世間では、『無知で無謀な若者』といった風にかなりの批判を受けていた。香田さんは、最初にニュージーランドへワーキングホリデーをしに行っていた。といっても、仕事が目的ではなく、語学学校で英語の勉強をすることが目的だったようだ。下川氏は彼の足跡を辿るべく、彼と同じルートを進んでいった。彼は、そこでは仕事には恵まれず、資金も足りなくなってきて、そこからイスラエルへ渡って行った。下川氏も感じていたように、香田さんより年下の20代前半の未熟な日本人の若者が多く、またニュージーランドの土地柄的にも、面白くもなく、何か不完全燃焼であったようだ。その気持ちは私には理解出来た。私は、2005年の12月から翌年の1月までオーストラリアに滞在していた。同じように、日本人の若者がかなり多く滞在していて、彼らは日本にいる時と同じように日本人同士でツルんでいて、オーストラリアという国からもあまり刺激を受けることもなく、私はバックパッカーとして旅をしていてもイマイチ、ピンとくるものがなかったのだ。彼はイスラエルに飛んで、何か仕事を探そうとしていたようだった。下川氏によると、イスラエルも物価は高めで、エルサレムやテルアビブでは旅行者に対してボッタくってきたりもして、やはり、そこでも居心地は良くなく、また精神的にも何かの焦りを感じていたように思われるようだ。消化不良・不完全燃焼が続いてしまい、しかし、そこでフランス人の若者からイラクでの体験談を聞き、彼のイラク行きを決意させてしまったようだ。クリフホテルの『サーメルブック』には、香田さんの写真や、彼が他の旅行者からもらったというイラクの傷付いた幼い少年の写真が残されている。彼は、傷付いたイラクの子供たちを助けたいという思いで、イラク行きを強く決断したようだ。その時、危険なイラク情勢を知っていたサーメルは、何度となく彼を説得してイラク行きを止めさせようとしていた。ギリギリまで、彼に頼まれていたイラク行きのバスのチケットを予約しなかったそうだ。しかし、最後の最後まで彼を説得してイラク行きを止めることは出来なかった。サーメルは、かなりの悔いを残しながら、日本大使館へ連絡をした。まだ、イラクに入国する前の時間にである。サーメルは、知り合いがやっているバクダッドの宿に電話を入れた。しかし、彼が泊まっているという情報はなかった。後に、アルジャジーラというカタールの国際衛星報道番組内で、彼が人質となったことを知ることになり、その後、彼の訃報を聞いてしまうことになってしまった。そして、クリフホテルには様々な報道陣が詰め掛け、また、サーメルは色々と事情聴取をされた。誰よりも、サーメルは傷付いていた。。。一生悔やんでも悔やみきれない。。。。その後、福岡のご両親に連絡を入れ、サーメルの希望を伝えた。『KODA HOTEL』を持ちたいと。その念願は、なかなか叶わずじまいであった。しかし、今回は数年来の念願が叶いそうである。そんな状況の中で、『KODA HOTEL』の名刺を作ることになった。現『MANSOUR HOTEL』のオーナーの所に、彼と一緒に行って名刺の案を考えた。香田ホテルという日本名や、日本人だけへの特別サービスについては日本語で記すことになった。私はネットカフェに行って、新しい『KODA HOTEL』の名刺の原稿を作りに行った。その次の日は、サーメルの昼休みの時間を使ってネットカフェに行き、彼の200人余りの日本人の友達にメールをするのを手伝った。彼の念願『KODA HOTEL』について知らせるためである。その後、サーメルは私を昼ご飯に連れて行ってくれた。 クリフより徒歩10秒の安くてウマいご飯&スープ屋そして、彼は一銭も受け取らず、仕事があるからと言って急いでクリフへと戻っていった。その後、Mixi内に『KODA HOTEL』というコミュニティを立ち上げた。これを見て、サーメルがいる『KODA HOTEL』に日本人旅行者が集まってくれたら嬉しい。 現『MANSOUR HOTEL』への路地入口 2階がレセプション レセプション レセプション脇のロビー 広くて綺麗なドミトリー! 一部『KODA HOTEL』へ向け改装中 廊下も広々としているもちろん、他の日本人旅行者もサーメルの手伝いをしていた。 各国の情報ノートへ貼り付けるためのチラシ予定では、10月1日から現『MANSOUR HOTEL』が『香田ホテル』というサブネームを持ち、サーメルが現場のマネージャーとして彼の念願の『KODA HOTEL』が誕生します!!※※『KODA HOTEL』というネーミングは難しく、『MANSOUR HOTEL』と『香田ホテル』という名前を併記する予定です。
2007.08.23

アッサラームアレイコム8月17日今日は、1週間ほど滞在していたアンマンのクリフホテルでの最終日となった。この1週間で、観光したのはたったの死海へのミニツアーと他に半日程度であった。その他の時間で何をしていたのかというと、主に、クリフホテルに置いてある情報ノートを読んだり、読書をしたり、あるいはサーメルと大貧民やUNOをやったり、他の日本人旅行者と話をしたりといった感じであった。 クリフホテルのロビーこのように、かなり時間があったので、時々サーメルを手伝ったりした。何を手伝ったのかというと、彼の数年来の悲願である『KODA HOTEL(香田ホテル)』へ移籍するためのサポートをしたのである。何をサポートしたのかは、後ほど(次回)触れることとしよう。情報ノートを読んでみると、数年前からクリフホテルを辞めて、独立して『KODA HOTEL』で働きたいという悲願があった。しかし、何度となく移籍先のホテルとの折り合いがつかなかったり、または、クリフホテルのオーナーに引き止められたりといった風に、その悲願は決して叶わなかった。情報ノートとは別に、『サーメルブック』というブ厚いノートがあり、そこには幾多の日本人旅行者を中心に、サーメルへの感謝・感激の言葉が彼らの写真と一緒に収められている。 サーメルブックそして、その『サーメルブック』内には、『サーメルヒストリー』という物語が書かれている。ある日本人がサーメルに取材をして、それが日本語で書かれているのだ。もちろん、サーメルの快諾の上で、そして彼の色々な思いが書き込まれていた。サーメルはヨルダン人ではない。彼はパレスチナ人なのだ。ここヨルダンでは、全人口の70%ほどをパレスチナ人で占められている。アンマンでは、それ以上の割合でパレスチナ人が住んでいるのだ。しかし、少数派のヨルダン人が警察官や役人として取り仕切っているのだ。クリフホテルのオーナーはヨルダン人である。彼らオーナー一族は、ほとんど仕事はせずにサーメルを奴隷のようにコキ使っているのが現状だ。サーメルの月給はたったの125JDほどだそうだ。彼は、その僅かなお金の中から、我々日本人旅行者にペプシコーラやネスカフェを何度となく差し入れてくれた。「Do you want Nescafe??」この言葉を何度聞いたであろうか!?こちらが遠慮しそうな素振りを見せると、「YES!」と彼が勝手に返事をしてしまうこともある程なのだ。そして、一切のお金やお礼は受け取ってくれない。これに困った日本人旅行者が『サーメル募金箱』を設置し、その名目は『KODA HOTEL』への援助金となっている。本当は全文を書き込みたいのだが、そうもいかないので、ここでは『サーメルヒストリー』の一部をご紹介しよう。・1948年(第一次中東戦争)に祖父がパレスチナからヨルダンに移住。・イスラエル建国後はパレスチナに戻れず。・1974年ヨルダンでサーメル誕生。・父は仕事が忙しく、週1-2回しか帰宅出来ず、母は兄弟姉妹間で酷い差別をする。サーメルはその犠牲に。。・15才で学校を卒業し、車の修理やプラスチック工場等で働く。ただし、給料はほとんど母に取られる。。。・19才の時に知人の紹介でクリフホテルで働き始める。・23才の頃、精神が不安定になる。家族とは別居のアンマンで強く孤独を感じる。戻りたくても母のいる実家には戻れない。。。・そんな中、礼儀正しくて同じ黒い瞳をした日本人が励みに感じる。・日本に戻ってからも連絡や手紙をくれたり、日本人とは心から打ち解け合えた。・日本人を家族のように思え、そんな私を良くしてくれる日本人に私も良くしてあげたい!・旅に疲れてやっと『家』に着いた『兄弟』にソファーで休んでもらって、コーヒーやコーラ、ご飯を差し上げるのはごく自然なことである。・荷物を降ろし、ソファーに座って熱いネスカフェを飲みながらホッとした表情をするのを見ると、自分までホッとする。「おかえり、ようこそクリフへ!!」・ヨルダン人の友達はいない。なぜなら彼らは危険で嫌いだから。・ヨルダン人が銃を持っていても警察はなにもしない。ヨルダン人とパレスチナ人がトラブルを起こしても、パレスチナ人だけが悪者にされる。。。・パレスチナに戻って生活がしたい!!・でも一生無理であろう。。ビザを取るのは絶望的であるし、ヨルダンやシリア・レバノン・エジプトではパレスチナ人なしでは経済が成立しない。。。・あの国はもうイスラエルだ。。。 私もサーメルブックに綴ってみた 日本人旅行者が彼に寄贈したカメラで1枚サーメルには複雑過ぎる様々な事情がある。そんな中、我々日本人旅行者には身銭を削ってまで、こちらが恐縮してしまうほどの様々なもてなしをしてくれている。それを目の当たりにした私は、彼をサポートしたいと考えた。幸いにも、私にはアンマンからの飛行機待ちのために1週間ほど時間があった。節税等のため、今回も住民票を抜いた私は現に『住所不定無職』である。ここ数ヶ月、毎日のようにダラダラと遊びほうけている訳ではないが、日本の社会にいる人にとっては信じられないほどの自由な時間を過ごしいる。今さら、『自分探しの旅』をしている訳ではない。そして、仕事もせず家族のためにも、日本社会のためにも、旅先の国の人のためになっている訳ではない。そんな中で、情報ノートに色々な旅の情報を書き込んだり、情報交換の話をすることによって、他の旅行者の役に立てれば嬉しい。実際、そんなことぐらいしか役に立っていない。サーメルと会って、彼の姿を見て微力ながら彼の役に立つことが出来ればと思った。~以下、続く~
2007.08.20

アッサラームアレイコム8月11日2日前に白タクに乗って、オーストラリア人3人と一緒にシリアのダマスカスから国境を越えここヨルダンの首都アンマンにやってきた。(1人/約$10。所要4時間強)※詳細は後日、別途にてそして、私はそのままミニバスに乗りぺトラ遺跡があるワディムーサというヨルダン南部の町に向かい、そこで2泊してアンマンに戻ってきた。ここアンマンは、イスラエルやイラクにもほど近く、またシリアやエジプトから出入りしてきた長期旅行者がかならず通る中東の要所でもある。アンマンは、都市全体が丘陵上にありアップダウンやカーブした道路がとても細かく張り巡らされていて、その道を容赦なく無数のタクシーや市バス、車が慌ただしく走っており、かなり混沌とした猥雑な街だ。そんな、イスラエルやイラクへのゲートの街でもあるアンマンにはある期待感を持ちながら、ちょっと憧れていた。街自体はたいして見所も無く、むしろつまらないのだが、やはり日本人には超有名なあの安宿に行ってみたかったのだ。 クリフホテルへと続く階段そう、あのクリフホテルにやってきたのだ。 3階がクリフホテル この看板が目印だ 私は、この看板やこの階段を何年か前にテレビで見ていて、それを覚えていた。それは、日本人旅行者がこの宿からイラクへと向かってしまい、そして、誠に遺憾ながら人質となって殺害されてしまった事件があり、その時に日本でも大きく報道されていて、この宿のことをよく覚えていたのだ。そして、その時に彼のイラク入りを最後まで止めさせようと努力した、あのサーメル氏と会うことが出来た。「Are you Mr,Samer??」そして私は彼と固く握手をした。彼に会えて感動した。私には、彼に何ともいえないオーラのようなものを、そのとき感じた。なぜ彼に会えて感動したのかは後日触れることとしよう。さて、この日はワディムーサやダマスカスで出会った日本人旅行者たちと死海へ行くことになった。本当は、前日のぺトラ観光や移動の疲れもあり、この日に行くつもりはなかったのだが、その時のノリで快諾したのだ。しかし、疲れていながらも、彼らとそのメンバーで死海に行って本当に良かった。サーメル氏にタクシーを手配してもらって、総勢7人でタクシー2台に分乗して、17時過ぎに死海へと向かった。(1台20JD。私は5JD。1$=約0.7JD)標高700mほどのアンマンのダウンタウンから、車は快調にスピードを上げていった。かなりの下り坂やカーブが続き、それは2年前のアメリカ西海岸縦断ドライブを思い起こさせるような、ワイルドで素晴らしい景色が続いた。死海に入る手前で武装した兵士によるIDチェックが行われた。右側は、イスラエルへと続く国境に向かうキングフセイン橋方面。左側は、死海へと続く道だ。ここでパスポートを持参していないと、その人だけ死海に入ることは出来ないのだ。もちろん、サーメル氏や運転手が事前に確認をしてくれていた。 間もなく死海が近づいてきた出発から1時間ほど経ち、リゾートホテルや整備されたビーチが続くエリアを抜け、長期旅行者で資金に乏しい我々は、無料で入れる奥のビーチへと歩いていった。 ゴミが散乱しているアンマンビーチの外れこのビーチは無人で、勝手に入ることが出来るが、ゴミがかなり散らばっていて、お世辞にもビーチとはいえるものではなかった。しかし、我々にはそんなことは関係なく、死海には代わりないこのビーチで存分に楽しんだ。水際には、 し、塩の結晶が!!水中にもこれほどの塩の塊がある他のメンバーは我先へと死海に入っていった。良く言えば冷静沈着な、悪く言えばつまらない人間の私は、まだ死海へ入るのをためらった。なぜなら、サンセットの時間まではかなりの余裕があり、しかも、あまりにも強くて濃い塩分濃度のために皮膚が痛くなるとのことで、まだ早いと思った次第だ。そして、当初はみんなのカメラマンとなり、またちょっとした貴重品管理係的な役割を果たした。とはいっても、周りには数人の現地人しかおらず、死海まで来てわざわざ盗難をするような人たちではないと判断出来たので、神経質になる必要は全くなかった。さて、私にもその時がやってきた。確かに浮いた!!死海でお約束の『読書』 そして、死海の海水を舐めてみると、やはり相当に塩辛くショッパかった。サンセットは19時半くらいであった。 みんなで浮いた浮いた!!有料シャワーの代わりに、我々は大きなペットボトルに水を詰め込んでクリフホテルから大量に持ち込んでいったので、それを使って全身に付いた死海の塩水を流した。原始的な方法であるが、なかなか気持ちのいいものだった。 イスラエル側の建物の灯りが見える帰りのタクシーでは、死海やアンマン市内の夜景を存分に楽しんだ。そして、クリフに戻ってからはみんなで近くのイラク飯屋ことイラキ食堂に行って死海ツアーの打ち上げをした。楽しくて愉快な仲間たちのおかげで死海ツアーを満喫することが出来た。ナイスな写真を撮りまくってくれた世界一周中の朴さん、ありがとう!一緒に死海で浮きまくったみなさん、ありがとう!ヨルダンの3大名物の・ぺトラ遺跡・死海・そしてサーメル氏との出会いこれらを、ヨルダン入国後3日で早くも満喫してしまった私は、ここクリフホテルにて、陸路で行くのはとても困難な国へ向かうための18日深夜3時のフライトまでゆっくりと過ごすとしよう。~旅行記の順番が度々前後してしてしまって申し訳ないです。諸事情により、また後日必ずもれなく過去の旅行記をアップしますのでお楽しみに!!~
2007.08.13
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