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イランのヤズドから首都・テヘランへ戻ってきた。前の日に、鉄道駅まで切符を買いに行ったとき(実際は駅では買えずに旅行代理店で購入)半ズボンを履いていたら、駅にいた警察に注意された。イランには服装規定があり、それは外国人にも適応されている。時には、服装を取り締まる警察もいて、服装違反でイラン人が逮捕されることも珍しくない。女性は、髪の毛が露出しないように頭から全身を黒いチャドルで覆うのが基本。顔は露出している人がほとんど。黒でなくても、カラーのチャドルでも問題ない。しかし、実際にはテヘランやエスファハーンで多く見かけたように、髪の毛を茶色やブロンドに染めて露出させたり、ジーンズを履いたり(ジーンズは都市部では一般的)、ケバケバしい派手なメイクをしている若い女性も珍しくはなくなっていた。男性は、長袖のシャツと長ズボンが基本。半袖のTシャツでも問題はなかった。半ズボンについては、最初のテヘラン滞在中にお世話になったハッサン氏に、特に問題はないと教えてもらっていた。実際に、ほとんど問題はなく過ごしていて、せいぜい、たまにジロっと下半身を見られる程度であった。ヤズドの駅にいた警官が暇だったのか、厳しかったのか、その時だけは注意を受けたのだった。 イランの自動車ナンバープレートテヘランでは、エスファハーンのドミトリーで1週間ほど一緒に過ごした旅仲間とも再会した。そのうちの2人と一緒に3人で地下鉄に乗って、エマーム・ホメイニー師の霊廟を見に行った。 エマーム・ホメイニー師の霊廟 私の背後にイスラム革命の指導者が永眠している夜は、3人で地球の歩き方に載っていた中華料理屋に行った。情報ノートにあった通り、値段が高いのに反比例してとてもお粗末な中華料理であった。ちなみに、日本料理屋・瀬理奈もヤバいらしい。その帰りに、商店に寄ったりしながら歩いていたら、中華料理に満たされなかったお腹が減ってきたので、たまたまあったサンドイッチ屋に入った。サンドイッチを待っていると、1組の父子が入ってきた。そして、おじさんが英語で「日本人ですか?」と話しかけてきたので、そうだと答えると「ダルビッシュを知っていますか?」「私はダルビッシュの叔父なんです」という話になった。ダ、ダルビッシュ!?そう、今や日本のエース、プロ野球・北海道日本ハムのダルビッシュ有投手の実の叔父だというのだ。彼の父親はイラン人で、母親は日本人だというのは有名だ。そう、そのおじさんは彼の父親の実弟なのだ。ダルビッシュの父親は、兵庫県の確か芦屋でじゅうたん屋を経営しているのは知っていた。そして、叔父さんもテヘランでじゅうたん屋をやっていて日本にも輸出しているらしい。叔父さんの持っている、ハイテクで高級な携帯電話で我々と一緒に写真を撮った。これから、いつも連絡を取っている日本の兄、ダルビッシュの父親へメールでその写真も送るとのことだった。ダルビッシュの叔父さんと2ショット! 叔父さんは、もし良かったら自宅に遊びに来ないかと誘ってくれて、携帯番号や住所、メールアドレスを書いてくれた。また、テヘランのバザール(市場)にお店があるから、ぜひ来てくれないかと誘ってくれて、バザールの住所を書いてくれた。次の日、私だけ興味があったので、1人でバザールに行ってみた。この、とても大きな迷路のようなバザールに迷い、何度かイラン人に道を聞きながら、何とか彼のお店に辿り着いた。しかし、彼はいなかった。近くにいた若い男性に聞いてみると、今は別の場所にいるという。彼が携帯を貸してくれ、叔父さんに電話をしてみた。所用で外出しているらしく、「お店に来てくれて、電話もくれてとてもハッピーだよ。」「もし時間があったら、家に来ないか?ホテルまで迎えに行くけど。」と誘ってくれた。「もし時間が出来たら電話します!」と言って電話を切った。実際には、夜の帰宅がちょっと不安だったので、せっかくのお誘いに乗ることはなかった。というのも、テヘランの夜の治安はあまり良くないからだ。暗くなると、人通りの少ない所は危険な香りがするし、実際に昼夜を問わずバイク強盗や麻薬中毒者も結構出没しているのが現状だ。こういった、イランやテヘランの事情・裏事情については次回にでも書いてみようと思う。せっかくのお誘いだったのだが、ここは身の安全を優先して遠慮させてもらった。バザールにあるダルビッシュ叔父さんのお店。ペルシア語でダルビッシュと書いてあるはず思いがけない、いい出会いだった。ここテヘランの次は、西へ向かうつもりであった。具体的には、タブリーズから国際列車でトルコへ入り、ワン湖をフェリーで、再び列車でトルコ中部で降りてシリア入りしようかと考えていた。テヘランの鉄道駅や、旅行会社を散々たらい回しにされた挙句、システムダウンなどもあり2日ほどかかってやっと分かったことは、テヘランではタブリーズ発の国際列車の切符は買えず、しかも、テヘランからも数週間は満席だということだった。イランでは、鉄道切符のシステムダウンが頻繁に起こっていて、切符1枚買うのにとても時間と手間がかかった。これ以上、テヘランですることもなく、3週間ほど滞在したイランという国にも満足し、お腹一杯となっていたこともあり、国際列車が無理だと分かった、その瞬間にネットで格安航空券を予約し、その3時間後位にはテヘランからエアーアラビアを使い、UAE経由でシリアの首都・ダマスカスへと瞬間的に飛んで行った。最後にお世話になった、テヘラン市街地から郊外のエマーム・ホメイニー空港までのタクシーの運転手は、昔日本に住んでいて仕事を何年かやっていて、日本語が達者な気さくで優しい若めなおじさんだった。色々と素敵なイラン人との出会いもあり、とても満足しながらイランを去っていった。イランといえば、偏ったマスコミの報道のせいで、・核開発を進めている国・危ない国といったマイナスイメージばかり先行しているが、やはり噂通り、そんなことはなかった。行った者でしか知ることの出来ない、イランの良さがそこにはあった。~以下、シリアへと続く!!~~次回は、イラン総集編の予定~☆☆本年も、終わりなき旅~世界の旅行記~をご愛読下さいまして、誠に有難うございました。☆☆☆☆来年も、どうぞ宜しくお願い致します。☆☆⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.28

7月23日エスファハーンから夕方の列車に乗って、ヤズドという街にやって来た。すっかり暗くなった鉄道駅からはタクシーで安宿に向かった。イランでは、それほどボッタクリが多い方ではないのだが、タクシーは別。テヘランでは、自分も含め、旅慣れた旅行者もまた値段交渉に四苦八苦し、最終的には少し多めに払わざるを得なかった。ここヤズドでも同じだった。選択肢が他にないので、完全に足元を見られた格好で、仕方なく少し高めの金額となった。といっても、ここは産油国イラン。鉄道や長距離バスは驚くほど安く、それに比べタクシーは割高だが、それにしたって我々にはかなり安い値段で利用出来るのだ。ヤズドの旧市街にある金曜モスクの近くでタクシーを降り、暗闇の中、宿を捜し歩いた。まずは、有名なシルクロードホテルをチェックした。中庭が綺麗で、それなりに旅行者も利用していて雰囲気は良かった。しかし、見せてもらったドミトリーがイマイチで、部屋を見せてくれたマネージャーらしき若い男の態度が横柄だったので、ひとまず断った。断ったときの態度もまた悪かったものだ。この宿は、各種ガイドブックに載っていて、ヤズド一の安宿である。がしかし、テヘランの安宿の情報ノートには、スタッフ絡みの金銭の盗難事件が何件か発生した、ということが書かれていて、個人的に警戒していた。次に、人気がなく迷路のような真っ暗な旧市街を、7分ほど少々恐る恐る歩いてコハーンホテルという宿に入った。対応してくれた女性が親切で、見せてもらったドミトリーはまずまずで、しかも一人で独占出来ることもあり、この宿に即決した。やはり、他の旅行者から聞いた情報通りの両宿であった。コハーンホテルは、新しいので確かに宿泊者は少なかったが、雰囲気が良くお勧めだ。屋上からは、砂漠都市の景色や旧市街、金曜モスクも眺めることが出来た。3泊すると伝えて、朝食込みで1泊40,000リアルにしてもらった。ちなみに、コーヒー・チャイは終日無料で、レイトチェックアウトもサービスしてくれた。 中庭の半地下にあるドミトリーを3泊4日独占! ドミトリー入口から階段を下りると、カナート(地下水路)がある! コハーンホテルの中庭。とてもリラックス出来たここヤズドの街はとても暑かった。朝夕は別として、昼間は灼熱の太陽が照り付けてきて、歩くのさえ大変であった。昼食の時間が終わってから夕方までの間は、街中ではほとんど人影が見えなかった。そんなヤズドではあるが、この街の旧市街の街並みがなかなか良かった。 ヤズドの旧市街。一日を通して人気が少なく静かだった買い物を済ませた少年。体に全く合っていない大きな自転車に乗っていた静かな旧市街を歩いていて、少々道に迷ったので、バイクに乗ったおじさんに聞いてみた。話してみると、彼はイラク人であった。私もそんな気がしていた。イラク人は、浅黒くてちょっとイカつい顔をしているのが特徴だ。私が日本人だと分かると、おじさんは嬉しそうに笑ってくれ、お互い握手をした。顔は怖いが、本当は陽気で豪快な人が多いことは、後の旅で何人ものイラク人に会って知ったのである。イラン・イラクを始め、中東の人たちは親日的だ。特にイラク人は、日本の自衛隊の派遣援助のおかげで日本人には好意的なようである。 夕暮れのヤズドの金曜モスクヤズドの街は旅行者が少なかった。現地人も少なく、そして、テヘラン、エスファハーンと比べてちょっと貧しそうな雰囲気でもあった。あまり旅行者慣れしていないのか、エスファハーンではあれほど話しかけられたのに、ヤズドではほとんど話しかけられなかった。しかし、旧市街の街並みや建物、雰囲気は独特の趣があり、のんびりと過ごすには良い所でもあった。~イラン編、まだまだ続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.26

zz前回の、『世界の半分、イランの真珠』イラン・エスファハーン大写真集!はこちら⇒ここ、イランのエスファハーンに10日間も滞在したのは、もちろん街の雰囲気がかなり気に入ったからなのだが、もう一つ重要な理由があった。やはり、長期滞在をするに相応しい安宿の存在である。私は、アミーレキャビールという安宿に9泊していた。この宿は、エスファハーンに唯一といっていい安宿で、ただですら少ないイランへの世界各地からの個人旅行者が集まる所だ。私は、テヘランからの夜行列車で朝早くにこの安宿に着いた。 9泊したアミーレキャビールホテルどうやら、前日が満室だったらしく、まだ部屋が空いていなかった。中庭に行ってみると、2人の日本人がそこに敷いてあった寝具のそばで座りながらガイドブックを読んでいた。彼らは、超長期旅行者で、旅先で出会ったカップルだった。超長期というのは、半年とか1年を超える旅行だということである。2人は、前日部屋を確保出来ず、中庭に野宿させてもらったらしい。しかも、中庭に泊まるにしては安くはない金額を払っていた。そして、3人でその日の部屋を待っていた。私はシングル希望で彼らはドミトリー待ちであった。お昼のチェックアウトまでの間、何回か確認しに行ったのだが、なかなか空かなかった。ドミトリーは結局1ベッドのみ空きが出て、シングルは空きが出なかった。というか、すでに前の日からの先客が待っていたのだ。最終的に、この日は私がドミトリーへ、彼らは中庭にある半地下ドミトリーに部屋を取ることになった。数日後、5ベッドしかないドミトリーには、私と中庭で知り合ったカップルと、別のもう1組、計2組の超長期旅行者のカップルの計5人、日本人で占領することとなった。私たち5人は、基本的にたまに一緒に食事に出かける以外は、日中は各々で行動していた。 ご飯や魚、数種類の肉を皆でシェアー。イランで一番美味かった料理だ夜になると、シャワーを浴びたり、皆で雑談をして、なかなか良い時間を過ごしていた。カップル2組と一緒の5人部屋。話だけ聞いたら、居心地が悪そうな気がするのかもしれないが、全くそんなことはなかった。5人が5人とも、ほとんど気を使うことはなく、雰囲気や居心地の良い空間であった。男3人は、ほぼ同世代で女2人はその少し下という丁度良い具合でもあった。やっぱり、長期旅行者だけあって、私も含めその辺はお互い慣れていて、程よい距離を保ちながら良好な関係を築いていた。結局、私はこの部屋に9泊した。(1泊=35,000リアル)彼らも私とほぼ同じ時期にチェックアウトして次の街へと旅立って行った。10日間、左奥から2番目のベッドに世話になったあの日から、もうすぐで半年になろうとしているが、他の4人はまだ旅を続けていることであろう。今回の旅、イランの旅、エスファハーンでの旅をより良いものにしてくれたあの部屋と、あの仲間に感謝したい。 エスファハーン郊外にあるアーテシュガー(拝火神殿)からの景色 夜のエマーム広場で幻想的にライトアップされたモスク一日の最後を、この素敵な雰囲気なエマーム広場で、私は毎日のように過ごしていた。 夜でも馬車に乗ることが出来る 夜遅くまでピクニックを楽しむ多くのイラン人ファミリー21時や22時になっても、現地の若者たちや女性や子供たちも含めて、とても大勢の人々が夜のエマーム広場で素敵な夜の時間を満喫していた。今夜は、どんな人と出会うのだろうか。今夜は、どんな風にモスクが輝いているのだろうか。今夜は、どんな素敵な雰囲気なのだろうか。毎晩、ここへ来るのが楽しみで仕方なかった。夜のエマーム広場で、噴水や綺麗に輝いているモスクを眺めながら芝生に座っていると、色んな人から話しかけられた。現地の大学生や、おじさん、色んな子供たちや、さらに若い女性たちからも挨拶をされたり、質問を受けたり、楽しく雑談を交わしたりして、とても素敵な時間を過ごしていた。とても分かりやすい英語で話してくれた彼ら。その好奇心に溢れた目やとてもいい表情が印象的ここでも必ず、「Welcome to Iran!!」と皆んなが挨拶してくれた。この言葉は、いつどこで誰から何回聞いても、とてもとても嬉しいものであった。 昼のエマーム広場は色彩鮮やか 夜のエマーム広場はとても幻想的『世界の半分』という名に相応しい夜のエマーム広場。この世界に2つと、こんなに幻想的で素敵な夜の空間はあるのだろうか。いや、ないであろう。今まで旅した約30ヶ国の中で最も綺麗で素敵な雰囲気な所の1つ。『世界の半分』と呼ばれる意味が分かった。 ~まだまだイラン編、続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.19

○過去のイラン関連ブログ一覧・イランビザを東京で取得はこちら⇒・イラン入国の様子はこちら⇒ ・テヘラン編Part.1はこちら・テヘラン編Part.2はこちら⇒・エスファハーン編Part.1はこちら⇒過去のブログにも書いた通り、7月11日にイランへ入国しテヘランに数日間滞在した後、エスファハーンという街に向かっていた。『世界の半分』『イランの真珠』という形容がピッタリで、エスファハーンの街はとても魅力的であった。この街をすっかり気に入ってしまい、10日ほど滞在することになり、その間に相当数の写真を撮っていた。その写真の中から、厳選したエスファハーンの様子をご覧頂きたい。 ザーヤンデ川とスィーオセ橋 ボートを借りて楽しむイラン人観光客 街中で見かけたエスファハーンの地図看板 エスファハーンの代名詞、エマーム広場 エマーム広場でバスを待つ女性たち 昼間からピクニックを楽しむイラン人ファミリー エマーム広場では馬車に乗ることも出来る ザーヤンデ川を眺めながら遊歩道で優雅に散歩 ハージュー橋へ散歩しに来たイラン人女性 アルメニア人居住区にある教会 イラン・イラク戦争で亡くなったイラン人の墓地 エマーム・ホメイニー師の看板 エマーム広場から始まるス-ク(市場)の入口付近 エマーム広場に隣接する『伝統的チャイハネ』 携帯をいじりながら水タバコを楽しむ若者 これがイラン式のチャイと口に入れてチャイで味わう角砂糖 伝統的チャイハネを仕切るマスターエスファハーンに10日間も滞在したのは、エマーム広場の存在がかなり大きかった。ここは、エスファハーンの、イランという国の憩いの場になっていて、イラン人や外国人観光客が訪れては、モスクに入ったりチャイハネでのんびりしたり、昼夜を問わず芝生に座って皆でピクニックを楽しむ人々で賑わっていた。とても大きな広場で、とても雰囲気の良い所でもあった。エマーム広場には、何か独特なオーラがあったようにも感じた。とても静かな時間が流れ、心が休まる優雅な時間を過ごすには最適な場所だった。私は、毎日のようにそのエマーム広場を訪れていた。エスファハーンのイラン人は、とても親切でフレンドリーな人が多かった。イラン有数の観光地なので、もう少し擦れた人が多いのかと思っていたら、全くその反対であった。こちらが外国人だと気づくと、笑顔で「Hello!」「Welcome to Iran!」この言葉を何度聞いたことであろうか。女性でも、こちらを珍しそうに見てきて、友人と一緒に笑いながら噂話でもしながら私に挨拶をしてくれたことも何度となくあった。この、一言二言ばかりの歓迎の挨拶がとても嬉しかった。「Welcome to Iran!」この言葉を聞いただけで、イランに来て良かったと何度も思ったものだった。驚いたことに、近くを歩いていた若い男性2人組みに挨拶をされたと思ったら、いきなり「これ飲みなよ!」と言わんばかりに、大きなペットボトルの水を渡されたこともあった。豊かな緑に恵まれ、優雅に流れるザーヤンデ川、優しく接してくれた人々のおかげで、とても雰囲気が良く感じながら、清々しい気持ちでエスファハーンでの10日間を満喫していた。エスファハーンは、イランの心のオアシスでもあったのだ。~エスファハーン大写真集・第2弾へ続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.11

7月8日友人をアムステルダムの空港で見送った後に乗った、オランダ・アムステルダムからの列車は、国境を越えてドイツのデュッセルドルフという街に到着した。 はっきりいって、どんな街なのか、全く知らなかった。ただ、アムステルダムから近くてエミレーツ航空が就航している都市、という理由でドイツの西外れのオランダに近いデュッセルドルフに行くことにしたのだ。本当は、ベルリンや他の街も見たかったのだが、今回は時間と予算の都合でドイツはここデュッセルドルフだけの滞在とした。地球の歩き方『ヨーロッパ』にはこの街は載っていなかった。そして、コピーした1枚の地図だけが頼りだった。駅から歩いて宿を目指した。宿は、メールで予約しておいた、バックパッカーズ・デュッセルドルフという、なかなか良い安宿だった。 この部屋には2泊したのだが、ドミトリーに男は自分だけで、他は全員女性ばかりだった。この2日間は、デュッセルドルフの街を散歩したり、のんびり過ごしたりしてエミレーツ航空のフライトを待っていた。何も知らずに訪れたデュッセルドルフの街。実は、なかなか素敵な街であった。 ライン川沿いの遊歩道日曜日なのでたくさんの人々で賑わっていたドイツといったらビール。ビールといったらドイツだ。昼間から、ライン川を望むオープンバーで、休日を楽しむ人たちがみんなでビールを片手に素敵な時間を過ごしていた。和やかな光景だった。 街中でも昼間からビール、ビール! ドイツの銀行何と意外にも、この街には日本人街があったのだ。 ホテル日航と日本食レストランなんでも、ここデュッセルドルフには数多くの日本企業が進出していて、約7000人の日本人が住んでおり、これはドイツで最多だそうだ。割高ではあるが、日本食レストランや日本語の本屋もあった。高層タワーからライン川とデュッセルドルフの街を眺めに行った。 これがライン川 デュッセルドルフの街並みこの眺めが素晴らしかった。ゆったりと流れるライン川と、綺麗な建物で整備された街並み。特に、これといったものはないのだが、平和で穏やかな感じのする街なのであった。こんな居心地の良い街が好きだ。市内を走る地下鉄 センスあるホーム内の広告宿で、偶然知り合ったアメリカ人のおじさんは、実は、立命館大学の教授だったらしいことを知った。 ソファーでネット中。とぼけた感じの面白いオヤジ・トーマス彼は、結構年なのにも関わらずヨーロッパを自転車で旅していた。そして、タイのバンコクにアパートを持っているらしく、タイ人の若い女性と一緒の写真も見せてくれた。驚いたことに、アメリカと国交のないキューバの首都・ハバナにも家を持っていて、色々と写真も見せてくれた。かなり面白いキャラだったトーマスとはバンコクで再会でしようとか、色々と話をした。宿近くのアジア系食堂に行った時、フライドライスが5ユーロだったのだが、予算が3ユーロだから、と頼んでみたら、フィリピン人の若い女性が笑顔で3ユーロに値引きしてくれた。ドリンクもサービスしてくれそうだったが、そこは遠慮させてもらった。料理をしているのは香港人だった。特に白人社会にいると、アジア人同士だとお互いに親近感が持てる気がした。とても嬉しい彼女の計らいだった。ドイツには、わずか2日半しか滞在しなかったが、落ち着いたデュッセルドルフの街が気に入ったこともあり、かなりの好印象な国となった。7月10日夕方、バスと電車に乗って空港へ向かった。 デュッセルドルフ国際空港内 この空港内に、格安航空券やツアーを販売している代理店が大量にあって、ちょっとビックリした。夜、エミレーツ航空でデュッセルドルフからドバイに向かった。そして、UAEの格安航空会社のエアーアラビアに乗り換えるため、シャルジャという首長国の空港にタクシーで向かった。 UAEドバイの隣の首長国にあるシャルジャ空港このまま、一気にイランへと旅立って行った。イラン編はこちら!!~以下、中東編へ続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.01
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