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大阪関連のBack numberも加えました。さて、今回は三度(みたび)大阪からの紹介です。大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村茶臼山(ちゃうすやま)真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前古戦場(天王寺)天王寺公園(てんのうじこうえん)「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」と言う諺(ことわざ)がありますが、いつもお参りに行っていた義理の両親が眠るお寺さんはどうも「大阪の陣」の合戦地だった事が解りました。※ 新しい寺だと思いきや、創建は1185年(文治元年)とかなり古かった。そして調べて見れば、すぐ裏の丘は茶臼山(ちゃうすやま)で、寺の正面ゲートの前方には安居神社がある事も解りました。知る人なら知る、そこは大阪冬の陣、夏の陣、共に武将らの本陣が置かれ、合戦場所となった曰く(いわく)の土地だったのです。近年の大河ドラマのおかげで真田幸村(さなだ ゆきむら)ブームが起きていて、それで知る所となりました。(関連場所には赤いのぼり旗が立っている。)私、日本の戦国物あまり詳しくありませんが「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」の縁で今回、真田 幸村(さなだ ゆきむら)(信繁)氏の合戦地と最後の地を紹介する事にしました。真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前ところで真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で知れ渡った豊臣方の武将ですが、本名は真田 信繁(さなだ のぶしげ)(1567年~1615年)が正解です。「幸村(ゆきむら)」の名は後世、江戸期の軍記物「難波戦記(なにはせんき)」の中で付けられた名前らしく、反徳川の武将だった為に本名を敢えて控えた? ようです。いわゆる芸名が一人歩きして本名を食ってしまった感じです。茶臼山(ちゃうすやま)茶臼山(ちゃうすやま)と河底池(かわぞこいけ)共にここは現在、天王寺公園の敷地内になっています。住所は大阪市天王寺区茶臼山町1-108写真撮影の場所は慶沢園(けいたくえん)前。茶臼山(ちゃうすやま)と名が付いているが標高26m 小さい丘程度である。実は5世紀頃の古墳ではないか? と言う説もあるが出土品が出ていないので判らないが、大阪はヤマト王権時代からの歴史を持つ土地なのである。確かに前方後円墳のような形ではあるし近所の四天王寺(聖徳太子建立の寺)では埴輪棺が見つかっているので可能性は高い。天王寺公園の地図・・方位を北にあわせる為に横にして、さらに必要箇所を少し足しました。ピンクが茶臼山です。その周囲が大阪市立美術館もあるエリアです。グリーンは動物園。オレンジは最近できた天王寺駅前の芝生広場。茶臼山の北北西に一心寺があり、さらにその北に安居神社があります。さらにずっと北に行けば大阪城です。一心寺と安居神社に挟まれる道は逢坂(おうさか)で右(東)に登ると四天王寺があります。実はここは上町台地(うえまちだいち)と呼ばれる丘陵地の西の稜線に位置していて、このあたり「天王寺七坂」と呼ばれる有名な坂が並んで存在しています。茶臼山(ちゃうすやま)山頂ルートは天王寺ルートや一心寺ルートなど外からのルートは3つ。山へ登るのは5箇所。一心寺から見た茶臼山一心寺も高台になっている。本当にただの小山。名前がついている事に驚くが戦国の時代には茶臼山には城郭があったらしい。築年は1546年(天文15年)。細川晴元の家臣である山中又三郎が古墳の上に建てたとされる大塚城である。木が無ければ西方面の景色は一望できたはず。古戦場(天王寺)ところで天王寺と言う場所は数々の戦場になった場所なのである。その理由は地形による所が大きい。(次回詳しく)先ほども触れたが、上町台地(うえまちだいち)と言う小島のような丘陵が平たい台地の上に乗っていて、古来そこに人が住み着いたからだ。※ 上町台地(うえまちだいち)の北には大阪城が建っている。1576年(天正4年)4月石山本願寺(現大阪城の場所)が挙兵し、天王寺まで進軍。織田方の天王寺の砦が包囲されると京都より信長自ら少ない手勢で救援に向かい先陣の足軽に混じって駆け巡り危機を脱っした戦いが石山本願寺VS織田信長「天王寺の戦い」である。さらに戦国最後となる豊臣家VS徳川家の決戦の場所もここである。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、ここを徳川家康は住吉から茶臼山に本陣を移し使用したと言う。徳川方はここより真田丸を攻めたのである。さらに翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣では、反対に豊臣軍の真田信繁がここを本陣にして徳川の首をとるべく野戦に出たのである。(茶臼山砦や茶臼山陣城)一心寺側ルートからの茶臼山山頂へのアクセス山頂は狭い古戦場の戦線地図が置かれているのだが、ガラスで光って見えにくく。写真も全てダメでした。山頂登頂の証明書が欲しい人は、茶臼山ゲート前の一心寺存牟堂で発行してくれるらしい。9時~16時。一部100円の実費がかかるが・・。最近山頂には立て看板が建った。真田信繁(幸村)の人となりや名言が書かれている看板が幾つか。武将の鏡と称される名言が真田信繁(幸村)には数々あるらしい。上は豊臣方に受けた恩義を忘れない。と、同時に金品に目がくらんで恩義を忘れるヤツは人ではないと罵倒。確かに真田信繁(幸村)は豊臣方に忠義を尽くしたが、彼の兄は徳川方に忠義を尽くした。そして兄弟で敵対したわけだが、そもそも真田の家を残す為に敢えて二方に別れたのが本当だ。※ どっちが勝っても家名が残るからね。下も茶臼山にあった看板この図ではJR環状線の内(豊臣方、赤)と外(徳川方、青)で対峙して戦った事になっている。まさに真田信繁(幸村)は上町台地(うえまちだいち)の上手側から攻めている。※ 赤い甲冑は真田信繁(幸村)のトレードマークである。天王寺公園(てんのうじこうえん)茶臼山は左。河底池(かわぞこいけ)にかかる赤い橋は和気橋。西から東方面を撮影。四天王寺は茶臼山の向こう側。その写真右方面にアベノハルカス写真右に見切れているのが大阪市立美術館。大阪市立美術館美術館エリアから天王寺駅前の芝生広場に出る歩道橋からまさにこの当たり徳川の陣前の合戦場所。次回、真田信繁(幸村)最期の地を紹介Back number 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年04月26日
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天満の造幣局博物館と関連リンクをラストに載せました。大阪市北区天満1丁目に造幣局がある。創業は1871年。明治政府により近代国家としての統一した貨幣による貨幣制度の確立を図る為、江戸幕府の時からあった金座と銀座を接収して造った貨幣氏司がルーツになっている。遡る事1868年。英国の払い下げの造幣機械を購入して大阪に造幣局を誘致したのは五代 友厚(ごだい ともあつ)(1836年~1885年)である。一時NHK朝ドラ「あさが来た」でブームになったイケメン五代様である。※ 彼は明治政府の参与職外国事務掛となり、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し、かつ初代大阪税関長となっている。近代式の機械工場とは言え、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足で調達してラインを確保したようだ。(それに伴う燃料や電信電話、ガス灯、時計もいち早く導入している。)他に簿記も複式簿記となり、インクとペンが使用される。職員の身なりも、断髪、廃刀、洋服の着用を率先。造幣局が欧米文化移植の先駆者であり、大阪の近代工業及び文化の興隆を牽引して行ったのである。(大阪の町工場の原点がそこにあるのかもしれない。)その造幣局では毎年4月に桜の花見が催されている。造幣局は大川(旧淀川)沿いに立地していて、川辺の全長560mの通路には桜の木が多数植栽されている。それを4月の一週間だけ一般の人も中に入場して桜を鑑賞する事ができると言うもので、かなりの賑わいをみせるイベントなのである。今年は、桜の花と名前をしっかり撮影して歩いてきました。大阪 造幣局 桜の通り抜け造幣局ルーツ桜の通り抜け小手鞠(こでまり) 大手鞠(おおてまり) 紅手鞠(べにてまり)大沢桜(おおさわざくら)八重紅虎の尾(やえべにとらのお)楊貴妃(ようきひ)法明寺(ほうみょうじ)八重紫桜(やえむらさきざくら) 白雪(しらゆき) 鬱金(うこん)千原桜(ちはらざくら)毎年3月中旬に決めると言う桜の通り抜け、今年は4月11日(火曜日)から4月17日(月曜日)でした。所が今年は3月桜の開花頃に寒さがぶり返し開花が中断。結果的にスタートの11日時点で3割程度、最終日の17日でさえまだ満開までいかないような状況。つまり今年は造幣局が桜の開花時期を見誤った感じでした貴金属を扱う場所なので通常一般人は入れ無い。毎年この時期だけの風物詩である。1883年(明治16年)、当時の造幣局長遠藤謹助が「大阪市民の皆さんと一緒に花見を楽しもうではないか。」と発案したのがきっかけだったそうだ。全長560m。混雑するので一方通行となっている。(入口は天満橋方面から。出口は桜宮橋へ。)トイレは入口と出口にある。近年はツーリストが多く張り紙には中国語と英語、韓国語が書かれていて大阪城にバスを停めて歩いてくるらしいので驚いた。染井吉野(そめいよしの)染井吉野(そめいよしの)江戸末期頃、駒込染井村の植木屋が初めて出した品種と伝えられる桜で、大阪城公園は染井吉野ばかりであったが、逆にこの造幣局ではこれが唯一の木だそうだ。写真は13日時点のもの。いつもなら染井吉野はとうに散って居るはず。八重紅大島(やえべにおおしま)八重紅大島(やえべにおおしま)花は淡紅色の八重咲き、大島桜系の一品種で、花弁数は26~35枚、少し香りがある造幣局は八重桜が多い。そもそもここは藤堂藩の蔵屋敷があった場所。その庭の桜を造幣局の北門と南門を繋ぐ道にそって移植したものらしい。種類も凄いが、中にはここでしか見られ無いような桜もあるらしい。小手鞠(こでまり)小手鞠(こでまり)多数の花が枝の先に密生して咲き、小さい手毬の状態となるところから、この名が付けられた。大手鞠(おおてまり)大手鞠(おおてまり)多数の花が枝の先に密生して咲き、大きい手毬の状態となるところから、この名が付けられた。花は、中輪の淡紅色で花弁数は20枚程。紅手鞠(べにてまり)紅手鞠(べにてまり)小手毬と同様であるが、花が赤い手毬の状態となるところから、この名が付けられた。小手鞠(こでまり)や大手鞠(おおてまり)は造幣局以外ではなかなか見られ無いらしい。大沢桜(おおさわざくら)・・里桜大沢桜(おおさわざくら)京都嵯峨野の大覚寺境内にある大沢池畔にあった非常に美しい淡紅色八重で、花弁数は15~18枚の優雅な里桜である。八重紅虎の尾(やえべにとらのお)八重紅虎の尾(やえべにとらのお)古くから京都で栽培されていた桜といわれ、その咲く有様は虎の尾のようで、花は淡紅色である。 楊貴妃(ようきひ)楊貴妃(ようきひ)昔、奈良地方にあった桜で、つぼみは紅色であるが、開花時には淡紅色となり、花色も優れ豊満なので、中国の楊貴妃を連想して世人が名付けた。花弁数は、20枚程である。法明寺(ほうみょうじ)法明寺(ほうみょうじ)京都府美山町の法明寺境内にあった名花を、佐野藤右衛門氏が接木育成し、命名した。花は淡桃白色である。八重紫桜(やえむらさきざくら)八重紫桜(やえむらさきざくら)紫桜の重弁の品種。三好 学氏が小石川植物園において紫桜の実生栽培したところ、重弁のものが生じ、この名が付けられた。白雪(しらゆき)・・里桜白雪(しらゆき)東京荒川堤にあった里桜系の名花で、花は白色の一重で、花つきが多い優美な品種。 鬱金(うこん)緑の桜? 鬱金は今年の花に選ばれている。鬱金(うこん)古くから知られた桜で、江戸時代に京都知恩院に植えられていたといわれ、樹姿は直立高木で、花は淡黄緑色のショウガ科のうこんの根の色に似ていることから、この名が付けられた。花弁数は10~15枚。千原桜(ちはらざくら)千原桜(ちはらざくら)淡い緑を含む白色の花弁は、染井吉野の1.5倍と大きく、1本の小枝に一重と八重とが咲き乱れる様は、誠に見事である。?名前が落ちてわかりませんでした。ちょっと桜には見えませんね。ものすごく可愛いです。今年は少ないからこそ、桜が綺麗にとれた感じがします。昨年は満開で花が密集している上に人が多すぎた為に桜に近づけない状態。今年は自撮り棒禁止になったので、少しは渋滞緩和になったのかな?造幣局はいつか中の紹介がしたいです。造幣局書きましたリンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2017年04月18日
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9日日曜朝まで降っていた雨が上がったので大阪城公園の桜の様子を見に出かけてきました。チョット遠回りでしたが、天満の天神さんを通りぬけして天神橋(てんじんばし)から天満橋(てんまばし)に戻る形で西外堀を歩いてめざし、大手前から大手門に回り込み入城。西外堀に着いたのはちょうど昼頃。天気はそこそこ晴れて来た事もあり、そこまで来ると城を目指す人がだんだんに増えてきていました。恐らく花見をするには最後の日曜日。毎夜の雨で夜桜が見られ無かったので皆さん待ちに待っていたのでしょう。大手前から大手門まで、すでに桜並木が満開で(日当たりが良いので)、そこで満足している人もいましたが、とりあえず、西の丸庭園を目指してみました。大阪城は幾つかのブロックに分けられていてエリア毎にそれぞれ楽しめるのですが、天守閣の西に位置する西の丸庭園は1995年11月アジア太平洋諸国の首脳級が参加する国際会議「APEC'95」きに迎賓館が建てられて芝生広場とそれを囲む桜や四季の花が楽しめるように整備されているのです。(有料ですが・・。)今回は西の丸庭園中心に桜を拾って見る予定でしたが、大手門にもこだわってしまいました ※ 2011年09月「空からの大阪城」で天守閣はちょこっと紹介しています。2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜徳川幕府の城大手口 枡形門(ますがたもん)西の丸庭園北政所(寧々)の屋敷跡?大阪城アクセスマップピンクで囲んだのが西の丸庭園→が大手門紫の星印が石山本願寺推定地の碑大手口(大手門)大阪城の表玄関になるのが大手口の門(大手門)である。城には幾つか口(出入りの門)があるので今ならどこからアクセスしてもかまわないが、城の防御の為に堅牢な造りになっているので大手門から観察しながら入るのがお勧めです 西の丸の坤櫓(こんやぐら)から大手口を撮影ゲートまでのストロークは長く左右は堀。門手前の櫓が千貫櫓(せんがんやぐら)である。左が千貫櫓(せんがんやぐら)右が大手口を形成する枡形門(ますがたもん)の一画、多聞櫓(たもんやぐら)徳川幕府の城大阪城と言うと、豊臣秀吉の城と言うイメージがあるが、現在の城は徳川家康により再建された城1620年(元和6年)~1629年(寛永6年)の遺構となっている。※ 秀吉当時の城の残骸は地下に多少残っている程度。秀吉の城を完全に消し去って新たな城を築いたと思われる。大手口の門は寛永5年(1628年)、大阪城再築の、徳川幕府により建造されたもので、幕府による命令で諸大名が城壁を形成する巨大な石を運び込んで造られたものなのである。大手口一の門 高麗門(こうらいもん)大手口枡形内 高麗門(こうらいもん)内側から大手口枡形内 大手門南方塀(写真右が一の門)壁の穴は鉄砲用。 侵入者に対する攻撃用の壁となっている。大手口枡形内 多聞櫓(たもんやぐら)の一部? 壁の巨石に驚く大阪城ではとんでもない巨石があちこちに使われている。中でもこの大手門の巨石は城の威容を誇示する為に表22畳(35.82m2)から29畳(47.98m2)の表面積の石が採用されている。採石地は瀬戸内海小豆島と推定。当時舟にしてもここまでどうやって上げたのかいつも思う所だ。大手口 枡形門(ますがたもん)大手口は防御の為に枡形(四角)構造になっていてL字に門が二つある。(一気に進入できないような造り)一の門は高麗門(こうらいもん)、二の門は櫓門(やぐらもん)と言うのが枡形の一般的な形だそうだ。大手口枡形内 二の門 櫓門(やぐらもん)多聞櫓(たもんやぐら)の一部である。今まで秀吉VS家康の戦いがあった所だと思っていたがそうではなかった。合戦後に全て新しくされているので・・。徳川の時代に新設されたこの枡形大手口内は、江戸時代には商人が定期的に入城。城詰めの大番衆が商人から日曜品など購入する為の市が立ったそうだ。少なくとも江戸の時代は大阪城は長く平穏。しかし落雷による火災が度々。1665年(寛文5年)には落雷によって天守が焼失。徳川慶喜が大阪城を追われた戊辰戦争(ぼしんせんそう)(1868年~1869年)時の大火災。明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用。その為に昭和20年の空襲で破壊。城はいつのまにかコンクリートのビルになっていた。(昭和の天守)昨年姫路城の天守に登ったが、景色以外大阪城の天守に魅力が無いのが残念だ西の丸庭園さて、本来の目的であった大阪城公園の桜の紹介です。広大な芝生広場の前。写真の場所は恐らくかつての城代屋敷のあたり。徳川時代の西の丸跡地とその南に位置していた城代屋敷と合わせて昭和40年(1965年)、総面積約64,000m2の芝生庭園として西の丸庭園は開園。ソメイヨシノを中心に約300本の桜が植えられた桜の名所となっています。※ 大阪城公園全体では3000本。入園料は本来大人200円だが観桜ナイター期間中は350円になっていた。でも中学生以下無料。(大阪在住の)シニアも無料だそうです。お金取るけど価値はありました。何よりタダの所より人が少なくて静かです。天守から内堀一つ隔てた西の丸は豊臣時代に多くの御殿が建ち並んだ場所だそうです。秀吉没後慶長4年(1599年)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が一時住んでいた場所でもあり、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦まで徳川家康も住んでいたらしい。※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)寧々様はその後京都に移り住み、1605年伏見城から化粧御殿と庭園を移築して方丈を造り晩年の19年をそこで過ごす。それが近日紹介の圓徳院である。※ 秀吉と寧々様の霊廟のある高台寺は、昨年紹介済み。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)芝生広場からの天守閣左見切れているのが迎賓館。京都二条城の二の丸御殿の白書院をモデルにした純和風建築だそうだが建物が微妙。写真撮らなかったのです。(後からあれが迎賓館だと知った)「APEC'95」で建てられた迎賓館は今は結婚式場とかに利用されているそうだ。大阪城は今回はこれにておわり
2017年04月12日
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2日より大阪に滞在しております 大阪はさぞや暖かいかと思って来たものの6日以降また天気はくずれ夜は寒さもぶりかえしています。おかげで桜の開花を楽しみにしていたのに雨と寒さで桜も蕾の状態で止まってしまっているようです。6日に撮影した時点では見頃は今週末かな? と思っていたのですが、その後の天気の悪さでわからなくなった感じです。5日に京都も見てきましたが、京都はもっと遅れて全体としての見頃は来週くらいかな? と言う状況でした。でもそちらも天気次第かも・・。以前(2011年4月)に紹介した「大阪淀川沿いの桜の名所」のアクセスが増えており、勘違いと期待がもたれているのかな? と言うわけで、今年の桜の状況を報告するのが今回の写真です。※ 写真は2017年4月6日に撮影してきたものです。2017年4月 大阪淀川(大川)沿いの桜 (源八橋から桜宮橋)源八橋(げんぱちばし)から帝国ホテル界隈桜宮橋(さくらのみやばし)から陽光桜(ヨウコウザクラ)6日昼頃の撮影です。この後3時間ほどして雨が降りだしてきました。以降ずっと天気が悪いです。実際はそこそこ天気だったものの、写真で見るとかなり暗く光量の少なさが判ります。そんな訳で多少明るく色調調整しています。それでもかなり曇った感じですが・・。源八橋(げんぱちばし)から大川(旧淀川) 源八橋から 右の高いビルはOAPタワーで、その手前に帝国ホテルがあります。源八橋(げんぱち)については、2011年「大阪淀川沿いの桜の名所」ですでに紹介していますが、中島にかつて梅林があり、橋が架かる前までは舟の渡しがあったそうです。今は中之島一帯に桜を植えようと言う「桜の会・平成の通り抜け」プロジェクトが建築家安藤忠雄氏の呼びかけ(2004年11月にスタート)で発足し、その成果が実っての桜並木が誕生。源八橋は日照が良いのでここの桜は水面にまで大きな枝をのばして綺麗でした。桜を上から撮影する機会はなかなか無いものです。源八橋のたもとから川縁を帝国ホテル方面にまだ八分咲き だから? 毎年来ていますが、何だか今年は桜が少ない気がしました (・_・?) ハテ?その理由はもしかしたら枝の伐採にあるのでは?今年は大きな太い枝がかなり落とされてスッキリされちゃっているようです。そのせいでいつもは左右から覆い被さるように張り出していた桜の枝がなくなって空がはっきり見えているせいかもしれません。今のシーズン、舟はお花見コースで岸辺を航行。対岸の桜も微妙。本来なら今週末が花見所のはずでしたが、この日より天気は悪化。曇りか雨か・・のお天気がずっと来週いっぱい続くらしいです。傘さしての文字通り「桜の通り抜け」はともかく花見の宴会は今年は難しいのかな?この日は午後から雨の予報があるにも関わらず場所取りしている方がいました。根元までシートをかけているのが気になりました。東京の上野公園では、通路の方に座席コーナーが区分けされていて桜の根をふんづけて痛めないよう配慮されています。帝国ホテル界隈OAP(大阪アメニティーパーク)前OAPレジデンスタワー前桜宮橋桜宮橋(さくらのみやばし)から橋のたもとからOAP手前まで屋台が許可されている? ようです。毎年出てるから・・。桜宮橋上から源八橋方面源八橋の向こうJR大阪環状線の橋があり、右岸がすぐ桜宮駅OAPタワーと帝国ホテル桜宮橋から南 大阪城方面写真中央に大阪城がポツンと見える。写真より右岸に造幣局造幣局前の川辺の桜はそろそろピークだけど造幣局の中の八重桜はまだまだ。今年の桜の通り抜けは4月11日(火)から17日(月)と看板がありましたが微妙な気がします。※ そう言えば今年は英語と中国語のお知らせ張り紙も出ていましたよ。大阪城・・・前に障害が・・。前はもう少し見えたはず。帝国ホテルのラウンジ前にひときわ目立つピンクの桜が・・。陽光桜(ヨウコウザクラ)天城吉野(アマギヨシノ)と寒緋桜(カンヒザクラ)とのミックスらしいです。開花時期は3月から4月。染井吉野(ソメイヨシノ)よりも少し早く咲く桜は改良25年の傑作らしい。確かにひときわ目立っていました。冒頭大阪滞在と書きましたが中旬までは大阪にいる予定です。旅先と言うわけでもないのですが、家にいませんので資料が集められません。しばらく写真紹介などが中心になると思います。ご了承お願いします。因みに天気にさえなれば、大阪城公園の桜も紹介したいです。
2017年04月07日
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今回のクラナッハ作品を出すにあたり、絵画のタイトルを調べる為にインターネットで各美術館やクラナッハを検索。その中で「Lady Justice」と言うタイトルの素敵な絵を見つけた。パブリックドメインになっていたので紹介したくて、でも美術館や来歴を確認しようとしてちょっと奇妙な事が起きた。書かれている美術館そのもののホームページ見つからない。写真提供者の氏名も公表されていない。その作品のタイトルを検索しても、同じ提供写真にしか行き着かないのだ。(・_・?) ハテ?私も美術書は今まで散々見ているけれど過去にそれを見た事は一度もない。公開されていない絵? と言う事は可能性あるが、それにしてもその画像だけはいろんな人が利用しているにもかかわらず、誰も作品を直接見たふしがない。それ以外の写真が全くないのだ。そもそも、クラナッハの工房では速筆して納品する為に、同じ素材の使い回しが多い。その為のテンプレートまであったらしいのだ。だから同タイトル作品は複数存在するし、若干差し替えた似て非なる作品もできあがる。つまりクラナッハ作品はたくさんあるけれど、構図や物語などで分類していくと、人物が違うだけで同じ作品だったり、ちょっとポーズを変えて神話から聖書の話に持って行くなどの技が使われている。そんな作品をクラナッハでなく、弟子達が量産していたので作品数は多いのだ。もちろん最後にクラナッハのチェックは入るが・・。確かに「Lady Justice」はクラナッハの要素満載の絵である。ただしクラナッハの作としてはできが良い感じがする。整いすぎている感があるのだ。絵柄から発注者が裁判所の関係ではないかと想像できるが、それならよけいに来歴があってしかるべきだ。2日かけてあれこれ探してたどりついた結論は「ちょっと怪しいかも・・。」である。※ 作品(「Lady Justice」)は気になるでしょうから最後にのせておきます。クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)Venus en Amor(ヴィーナスとアモール)アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のコレクション16世紀、優秀な芸術家は宮廷芸術家として各地の王侯君主の宮廷に招かれ、君主の賓客、廷臣、友人、年棒付きの専任芸術家として優遇され、地元の組合(ギルド)からは解放された自由な立場が与えられたそうだ。※ 石工ギルドも地元組合(ギルド)に縛られない特権を持っていた。ティツィアーノのように貴族の称号を与えられる事もあったようだし、ラファエロなどは彼自身が王侯の貴族のような振る舞いをしていたと言う。クラナッハ(Cranach)は1508年ザクセン選帝侯フリードリッヒ3世より盾形紋章(Escutcheon)を与えらている。(その時点での爵位は付されていない。)1508年はクラナッハがネーデルランドで少年時代のカール5世の肖像画を描いた年だ。ザクセン宮廷からの名代で出向いたからか? 宮廷画家としてのクラナッハの順応は素早かったようだ。クラナッハ(Cranach)は絵だけで無く、宮廷衣装や近衛兵の武具を飾る紋章のデザインもしているし、この頃は古代神話を題材にした作品が多かったようだ。もちろんそれらは自身の工房で多作され、フリードリッヒ3世の依頼をはもとより、地元教会祭壇画などの依頼も驚くほどのスピードでこなしていたと言う。そんな所から「速筆の画家」とあだ名されたらしい。Venus en Amor(ヴィーナスとアモール)ベルギー王立美術館(Musées royaux des beaux-arts de Belgique)Venus en Amor(ヴィーナスとアモール) ※ アモール=キューピッド 1531年Cupid complaining to Venus(ヴィーナスに不平を言うキューピッド)と言う事をテーマにした寓意画だそうだ。何とも魅惑的な色っぽいヴィーナスである。クラナッハ独特の小さなバランスの悪い胸が気にもならないほど。女神を裸体で描くのは北方では初の試みだったそうだ。しかし、南が完璧なプロポーションと近寄りがたい美を古典の女神の姿に求め表現したのとは異なり、クラナッハのそれはヌードとしてのエロティックさ満載だ。母である美の女神の美しい肢体は解剖学的にはおかしいと思う。小顔で手足は長く、かつ、お腹がポッコリと出ていると言う不思議なこだわり。そして書き添えられている薄いベールは、かつてキリストにふんどしをつけた画家のような隠しではなく、敢えて強調する為の策だったそうだ。また、当世風の羽根飾りのつば広の帽子に大きな首回りのアクセサリーは、何も身にまとっていない事をより強調した効果? でもあるのだろう。クラナッハが描いたのは理想美ではなく、官能を刺激する女性のエロティシズム(eroticism)? なのかも。ロンドンに同じ構図の絵があり、そちらのタイトルではVenus mit Amor als Honigdieb(ハチミツ泥棒アモールとヴィーナス)になっている。それにしても神の子を抱くマリアよりもリアリティーがある母子はこちらかもしれない。この絵はナポレオンの意匠の蜜蜂を調べていた時に見つけた絵だ。(自分で撮影してきた写真です。)余談だが、この額縁にBalon(バロン) クラナッハと書かれていた。クラナッハは貴族の仲間入り? 男爵に昇格?子供なのにやけに足が長いキューピッドである。ヴィーナスの足も長がすぎるが・・。クラナッハもそう言う意味では現実的でない体を描く。ルネッサンスが求めた究極の美の形とも全く違うが・・。ナショナル・ギャラリー ロンドン(National Gallery London)Venus mit Amor als Honigdieb(ハツミツ泥棒アモールとヴィーナス) 1537年こちらはウィキメディァから借りて来た写真です。(パブリックドメインで公開)流行の帽子とアクセサリーを身に付けるヴィーナス。6年経過して帽子が派手になりポーズも大胆になっている。でもベルギーの作品の方が色っぽい。バックには前よりも彩色豊にはっきり景色が描かれている。多分明らかに依頼者の意向が反映された絵と思われる。割に派手な彩色は、まさか家具の一部でも無ければ使わなさそうだが・・。教訓が込められた作品であるが、裸婦をメインにしているので今回はあまり触れない。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のコレクションそれよりも驚くのはこの絵の来歴だ。この派手めな彩色絵画の来歴を今ナショナル・ギャラリーは必死で追い、一般から情報を求めていると言うなぜ?それはこの絵がヒトラーが所有していたコレクションの中にあったらしい事が判ってきたからだ。(ヒトラーは古典派嗜好であった。)今はまだ裏付け取りをしている最中らしい。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)は「ナチス・ドイツの総統」と表現した方が早いが、正式には国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の総統である。以前2016年「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」ホフブロイハウス(Hofbräuhaus)の中ですでに触れたが、もともと画学生であったヒトラーは名画のコレクターであった。コレクターと言うと体裁は良いが、実際は権力により集めまくったコレクションである。(とはい言え画家になる事をあきらめても、なお、求めた芸術への執着には感服する。)※ リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション※ リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)前出、ヒルデブラント・グルリット(Hildebrand Gurlitt)(1895年~1956年)は美術品の審美眼と人脈の広さをヨーゼフ・ゲッベルスに買われてアドルフ・ヒトラーの為の美術館のディーラーとして働いていた男だ。謎とされているのが1909年~1945年。ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring) (1893年~1946年)の名前も出て来ている。件(くだん)の「Venus en Amor(ヴィーナスとアモール)」の絵がヒトラーのコレクションの一部であった事が間違いなく証明されるなら、この絵には「ヒトラー(Hitler)のコレクション」と言う輝く来歴が付与され、もともと価値ある絵であるが、もっともっと高額の絵画に変身する事になるだろう。(ナショナル・ギャラリーが必死になるのも当然ですね)ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)ロトと娘いやらしそうな年寄りの行為により旧約聖書の話ながら卑猥さを感じずにはいられない。内容も父との近親そうかんである。※ 漢字で入力できませんでした。理由は子孫を残す為に姉妹で唯一の男である父の子を求めたのである。絵は父が酒に酔わされて娘に仕掛けられている所である。因みに二人はやがて子供を出産。長女の息子「モアブ」はモアブ人の祖となり次女の息子は「ベン・アミ」はアモンの人の祖となった。なんか本当に生々しい感じがします。Lady Justice最後に冒頭話が及んだ出所の怪しい件(くだん)の裸婦。「Lady Justice」を紹介Amsterdam Fridart Stichting(アムステルダム フリダート財団) 1537年Lady JusticeJustice as a naked Woman with Sword and Scales(剣と秤を持つ裸の女性としての正義)Lady Justiceは、裁判所のシンボルに置かれている審判の女神像の原型である。16世紀頃から目に目隠しがされる。クラナッハの要素満載であるが、実はクラナッハにしては美し過ぎるし完璧過ぎるのがちょっとひっかかった。剣の下方に前回紹介したクラナッハのサインも入っているようだ。果たしてこの絵は、そもそも本当にあるのか?クラナッハ(Cranach)おわります。案外興味深い画家でしたね。※ 「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)」ではクラナッハが画家以上に実業家であった側面を紹介しています。特にマルティン・ルターとの関係は驚きです。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)
2017年04月02日
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