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日本では、ツリーが撤去され、門松が建てられ始めましたが、実はまだキリストの生誕祝いは終わっていません。なぜなら、キリストが生まれた時にその知らせを星で知ったマギ(magi)が、星をたよりにベツレヘムにやって来るまで日数があるのです。彼らマギ(magi)がベビー・イエスを拝み、祝いの品を渡すのは1月6日、公現祭・エピファニー(epiphany)の日。それ故、カトリックの国では、最低でも1月6日まではクリスマスツリー(Christmas tree)やプレセピオ(Presepio)は飾られたままとなります。決して撤去が遅いわけではないのです マギ(magi)については、2013年12月「マギ(magi)の正体で紹介しています。リンク マギ(magi)の正体加えて言うと、東方教会では、エピファニー(epiphany)は別の意味合いを持っています。東方では、イエスの洗礼を記念する日がエピファニー(epiphany)なのだそうです。イエスの洗礼とは、大人になったイエスが(洗礼者)ヨハネよりヨルダン川で水の洗礼を受けた日。これはエジプト起源の祝いだそうで。元はナイル川の神、オシリス神崇拝から来ているらしい。そんな訳でクリスマスは過ぎましたが、「クリスマス歳時記 2」をつづけさせてもらいます。聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日プレセピオ(Presepio)無原罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)12月8日ムリーリョの「無原罪の御宿り フイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)の受胎告知ラファエロ 聖母の結婚 (Sposalizio della Vergine)プレゼピオ(Presepio)父の入院で予定がくるいましたが、「クリスマス歳時記」を書こうかと思ったきっかけは、たまたまその日が「無原罪の御宿り日」(12月8日)であったから。※ プレゼピオ(Presepio)を飾るのは12月8日(無原罪の御宿り日)の日と決まっている。プレゼピオ(Presepio)はキリスト降誕の情景をフィギュアで現したオブジェです。そもそもは、識字率の低かった欧州で、生誕の物語を演じて見せたのが始まりだったらしい。一説には、アッシジ(Assisi)の聖フランチェスコ(San Francesco)(1182年~1226年)が考案したとも言われている。バチカン美術館の入口にあったものザルツブルグの聖アンドラ教会にあったものイタリアでは等身大の人形が飾られる事もあるらしいが、家庭用はミニチュア。パターンが幾つか決まっていて、納屋で生まれた所。マギが東方より訪ねてくる所。納屋でキリストに祝いの品を渡す所。天使が集まる所等々。※ 2013年12月「マギ(magi)の正体」の所でもプレゼピオ(Presepio)を紹介。すでに冒頭で触れたが、マギ(magi)が来訪する翌年の1月6日、公現祭・エピファニー(epiphany)の日までは当然ながらプレゼピオ(Presepio)は飾られている事になる。プラド美術館 ムリーリョの「無原罪の御宿り ベネラブレス(Venerables)」1678年バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolome Esteban Murillo)(1617年~1682年)スペインでは非常に人気のある画家です。日本ではあまり知られていないかもしれませんが・・。マリア信仰の厚かったスペインでは、特に聖母の純潔性を描いた作品は圧倒的な人気があったと言う。その中でもムリーリョの「無原罪の御宿り」は代表格である。下の拡大写真はウキペディアから借りてきました。自分の写真はボケ気味で拡大が無理だったので。無原罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)12月8日「無原罪の御宿り日」とは何か? 日本人には聞き慣れない言葉だろう。無原罪とは「原罪を持たない」と言う事。では、そもそも原罪とは何か?それは創世記、アダム(Adam)とエヴァ(Eve)が神の意向に背いてリンゴを食べた事に始まる人間の生まれながらに持った罪の事である。しかし、人間の女性で唯一、原罪を持たずに生まれてきた者がいる。それが神の子とされるイエス・キリストを宿したマリアの事である。しかもマリアはこの世に命を得た瞬間(母アンナの体内に宿った時)から無垢な者として存在したとされる。その記念すべき日が、無限罪の御宿り日(The Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary)なのである。※ ローマ・カトリック内でもマリアの無原罪問題は長らく論争された教義であるが1854年に教皇が公認。カトリック信者の多い国では12月8日は法廷休日に認定されているそうだ。因みにパナマでは母の日に認定されているらしい。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)祭壇画に描かれた無原罪の聖母目に留まったので撮影していたが、聖母マリアの貫禄に恐れ入ったのかな?※ 正教会ではマリアの無原罪を認めていない。マリアに栄光が得られるのは、神の子イエス・キリストを生んで聖母となった時。ところで、「処女懐胎」とも言われる理由は、マリアの懐妊は、性交による所でなく、天の聖霊によって子が宿された事。大天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知がそれを示している。フイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)の受胎告知 アルテビナコテークから受胎告知も多くの画家が描いているが、中でも優美で特に素敵な絵の一つです。ルネッサンス期の画家で、サンドロボッティチェリの師匠であるフイリポリッピ(Fra Filippo Lippi)(1406年~1469年)の作品。受胎告知では共通に、マリアとマリアに告知するユリの花を持った大天使ガブリエルがいる。彼は神の言葉を伝える天使なのである。この絵はそれだけではない。時代の流行もあるのだろうが・・。下の絵の左上、天上人からの金の光の帯が鳩(聖霊)を通してマリアに届く。それによりマリアは懐妊する。精霊による懐妊が、レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知よりも解り易い。子供を産んでもなお、彼女は純潔であると言う事を象徴している絵である。だが、教義では、もっと深く清純とされた。マリアはすでに彼女の母アンナのお腹に宿った時から原罪を持たないで生まれたクリーンな人とされている。無原罪の聖母の絵画はスペインで特に好まれたらしい。因みに、現実的に考えると、マリアにはヨセフと言う夫がいる。以前読んだ興味深い本によればダビテ・ソロモンの血をひく家系とされる修道士ヨセフは、当然子孫を残さなければならない。彼には婚約者がいた。それが修道女マリアである。しかし婚約中に懐妊してしまったので正式に二人の子とは認定されず、処女懐胎と言う流れになったらしい。そしてヨセフは3年に1度下界に降りて結婚生活を営んだ。その時の職業が大工であったそうだ。※ 「イエスのミステリー」死海文書で謎を解く NHK出版 原題 「Jesus The Man」 Barbara THIERINGついでなのでマリアの結婚の絵画を紹介。非常に珍しいタイトルであるが、何とラファエロの名品である。ブレラ美術館 ラファエロ 聖母の結婚 (Sposalizio della Vergine) 1504年頃サン・フランチェスコ聖堂サン・ジュゼッペ礼拝堂(ペルージャ近郊のチッタ・ディ・カステッロ)の為の祭壇画として制作。この祭壇画はラファエロが21歳の時。この絵画では、神の子を産む、マリアの結婚相手を司祭が選んでいるらしい。杖に花が咲いた大工ヨセフが夫として選ばれた・・と言う内容らしいが・・。先に紹介したように、実際はダビテ・ソロモン王の血をひくヨセフありきの二人の結婚である。ところで、この作品はラファエロの師、ピエトロ・ペルジーノの「ペテロに鍵を渡すキリスト」(システィナ礼拝堂)に構図がそっくり一緒。建物、人物の配置、遠近を使用した床の描き方まで・・。ペルジーノの弟子をしていたのは4年程。この頃は師の影響がかなり強く出ているが、それでもラファエロらしい人物像がすでに表現されている。ブレラ美術館でも目玉の一つになっている。因みに、師匠ペルジーノの技術を吸収したラファエロは、この祭壇画製作の後すぐ、フィレンツェに移りレオナルドやミケランジェロから刺激を受ける事になる。クリスマスのルーツについて書く予定が、着地点が変わりました。次回番外の形で載せるか検討中。ところで前回ラストに出した問題の解答ですが、あの聖母子の製作者はサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)(1904年~1989年)でした 来年になりますが、清明神社と秦氏の関連で松尾大社を紹介予定です。
2017年12月27日
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さて、長らくお休みしておりましたが、今回はクリスマスイベントに関する話を・・。クリスマスイベントと言っても、俗なパーティーの事ではありません。真面目にカトリック信者のクリスマスイベントを幾つか紹介 今回写真は三角構図の聖母子を中心に選びました。※ 写真は、美術館で撮ってきた全て自前の写真です。映り込みなど、正面から撮影できなかった絵もありますが・・。聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)聖母子の絵画(ダ・ヴィンチとラファエロ)クリスマス(Christmas)歳時記アドべント(Advent)聖ニコラウスの日((Saint Nicholas of Myra)12月6日聖母子の絵画(ダ・ヴィンチとラファエロ)聖母子を描いた絵画はローマ時代から存在し、ルネッサンス期には大量の聖母子が描かれた。が、芸術性の高さでも取り分け知られているのが、レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ・サンティの三角構図の聖母子であろう。※ 三角構図とは、四角いキャンパスや写真のレイアウトを決める時に、三角形の構図に収めると、バランスが良く、まとまり感が出て、失敗が少ないのだ。ダ・ヴィンチは特に三角構図を好んだらしい。わざと三角構図に描き込むと言うよりは、恐らく自然と落ち着きのあるバランスが三角構図の発見であったと思われる。三角構図はモナリザにも利用されているが、聖母子で言うなら、2人よりも3人の方がバランスが良いのは明らか。※ 聖母子とは母マリアと幼児キリストである。聖母子絵画に3人?聖母子以外に加えられるのは、聖母マリアの母であるアンナや、マリアの従姉妹エリザベスの息子ヨハネ。とり分けヨハネは、後にキリストに水の洗礼をした為に洗礼者ヨハネと呼ばれる。絵画に幼児が二人居る時は、キリストとヨハネに間違い無い。因みにマリアとエリザベス、キリストとヨハネの4人のバージョンもある。イエス・キリスト(英 Jesus Christ) ナザレのイエス(BC6年~BC4年頃誕生~AC30年頃)洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)(英 John the Baptist)(BC6年~BC2年頃誕生~AC36年頃)ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)(1483年~1520年)の作品からウイーン美術史美術館からのラファエロベルベデーレの聖母子(Madonna del Belvedere)orプラトの聖母(Madonna del prato)or 草原の聖母 と呼ばれる。1506年十字の杖を持つのがヨハネ聖母がいない二人だけの絵画もある。可愛い幼児二人はそれだけで絵になる。ルーブル美術館からのラファエロ聖母子と幼児聖ヨハネ(Madonna col Bambino e san Giovannino)美しき庭師(Bella Giardinier)1507年アルテピナコテークからのラファエロカニジャーニの聖家族 (Sacra Famiglia Canigiani)1507年※ カニージャ(Canigiani)は最初に所蔵していたフィレンツェの一族の名前らしい。聖母子と、聖母の母アンナ、父ヨアヒム、洗礼者ヨハネマリアの両親が加わる絵は、滅多に無い。(これだけかも?)アルテピナコテークには、別のラファエロの聖母子もある。こちらの絵はフィレンツェのピッティ宮殿にあるトンド(円形)の小椅子の聖母と構図が一緒。だからか? 構図がちょっと不自然。無理に収めた? トリーミングされた感がある。次はレオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)の作品からルーブル美術館からのダ・ヴィンチ聖アンナと聖母子1510年頃聖母子と共にいるのは、姿は若いが、マリアの母アンナとされる。マリアの母アンナの登場は、恐らく、聖母マリアの「無原罪の御宿り」が公認されてからではないかと思う。※ 「無原罪の御宿り」については、次回歳時記で紹介します。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で見つけた絵画を紹介。ラファエロにも、ダ・ヴィンチにも似た聖母子の絵は、実は上の絵が元になっているらしい。描いたのは、ダ・ヴィンチの弟子の一人、チェーザレ・ダ・セスト(Cesare de Sesto)(1477年~1523年)聖母子と子羊(Madonna con il Bambino el'agnello)1515年弟子のチェーザレは、明らかに師匠ダ・ヴィンチの作品を真似しています。しかし、そこにはマリアの母、アンナがいない。何故いないか? 実はこれは論争になっている謎なのです。真実は解りませんが、チェーザレ作品はシンプルに幸せそうな聖母子そのものです。三角構図にはブレがあるが・・。一方、聖アンナがいるダ・ヴィンチ作品の方は、確かに三角構図になっているようですが・・。安定よりも、むしろ構図に違和感を憶える気がします。もろもろのバランスが崩れている気がします。聖アンナを後から足した感じが満載です。いや、むしろいろいろ書き直したのかもしれない。そしてバランスが崩れたのか?三角構図は、二等辺三角形だからこそ美しい。巨匠を真似してもやっぱりひと味ちがうんですね ※ 20014年9月「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」を紹介。その中でそこの目玉サンドロ・ボッティチェリの聖母子も紹介しています。リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)クリスマス(Christmas)歳時記神社仏閣、教会と、なんでも参拝する日本人にとって、12月25日のクリスマスはただのパーティー・イベントでしか無い。しかし、クリスチャンの人にとって、クリスマスは特別なイベントの日なのである。特にローマ・カトリック圏では12月に入ると、クリスマスを迎えるの為の準備がおごそかに進められて行く。その始まりの一つがアドベント(Advent)である。※ 正教会やプロテスタントでもクリスマスの祝い方は異なります。アドベント(Advent)※ 2009年12月「ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)」の中でアドベント(Advent)の紹介をしていますが・・。アドベント(Advent)は、ラテン語のAdventus(到来、降臨)に由来する。簡単に言えば、キリストの降誕日(クリスマス)まで、カウントダウン方式で降臨を待ち、祝うと言うイベントです。※ ローマ・カトリック、ルター派では待降節と呼ぶ。期間はキリスト誕生(降誕日)の前約4週間。しかし、開始日(Advent Sunday)は毎年異なり、11月30日の使徒アンデレの日に一番近い日曜日が第一主日(First Sunday of Advent)と設定される。アドベント第一主日(First Sunday of Advent)アドベント第二主日アドベント第三主日アドベント第四主日アドベントの終了は12月24日の日没後つまり、クリスマスまで4回の日曜日を過ごしてクリスマスを迎える事になる。祭司が紫色または青色の典礼服を着用し、最初の紫色または青色のアドベント蝋燭(ろうそく)がミサで灯され始まる。皆も家でリースに飾ったろうそくに灯りをともし(一週毎に1本づつ増やす)その日を待つのである。そこら辺のイルミネーションの点灯式とは次元が違います。そもそもは東方教会において洗礼志願者が断食と悔改めを実践する準備期間であったらしい。西方教会では待降節までの典礼として取り入れたようだが、儀式はあくまで厳かに。祈るのはイエスの人間界への降臨を顧み祝い、未来における降臨(最後の審判)を待ち、悔い改め、慎み深く心の準備を整えてその日を待つ。願わくば、最後の審判の裁きで、蘇れる事を望んで・・。つまり、本来のクリスマスは楽しむものではなく、あくまで、キリストの誕生日を祝う祭典だと言う事です。当然祝うのは家族単位。恋人同士で一夜を過ごすなどあり得ない。敬虔なるカトリックの信者の方から見たら、信者でもない日本の勘違いクリスマスには驚くのでしょうね。また、アドベント(Adventus)の期間内には、12月6日の聖ニコラウスの日や、12月8日無原罪の御宿り日も含まれている。それは共に今のクリスマスに関係する日である。聖ニコラウスの日(Saint Nicholas of Myra)12月6日ミュラ(Myra)の聖ニコラウス(Saint Nicholas)(270年頃~343年)ミュラ(現トルコ)の司教であったニコラウスの伝説は、日本人のほとんどは聞いた事も無いと思うが、それこそが、クリスマスのブレゼントの由来となる話なのだ。前にも触れているが、どうも12月25日に子供達にプレゼントをする習慣は、実は新大陸のアメリカから始まったと言われている。つまり、本来は12月6日がプレゼントデー。それは聖ニコラウスに因んだイベントであったらしい。3世紀、貧しさで身売りされそうになった三姉妹の為に、聖ニコラウスは彼女らの家に干してあった靴下の中に金貨を入れて救ったと言う。靴下や長靴にプレゼントを入れると言うルーツはその靴下にあったらしい。だからオランダでは25日よりも、聖ニコラウスの日である6日にプレゼントをもらうのがポピュラーだそうだ。12月6日が聖ニコラウスの記憶日(命日)だから。因みに、プレゼントの慣習は、オランダ移民によりアメリカへ伝わったとされる。聖ニコラウスはSaint Nicholas→Sinter Klaas(オランダの発音)→オランダ訛りでSanta Clausとなったと言う説もある。が、ちょっと疑問なのは、アメリカに伝えたオランダ移民は間違いなく清教徒であろう。つまりプロテスタントである。プロテスタントは聖人崇拝は無いはずなんだけどな (・_・?) ハテ?※ 2009年12月「ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)」では聖ニコラウスの日についても書いています。クリスマス歳時記 次回につづきますが、その前にクイズです。下の聖母子は誰の作品でしょう超有名人ですよ。
2017年12月21日
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タイトルとカテゴリーを変更しました。今回はちょっと趣向を変えて、ウイーン美術史美術館所蔵からちょっと怖い絵画を紹介。製作者は超有名なバロックの巨匠、フランドル出身のルーベンスです 合わせて紹介する写真は以前紹介した事のある所ですが、今回は視点を変えての紹介となります。ところで、遅れた理由はもう一つ。今回も紹介にあたり、ルーベンスの来歴と、その絵画のモチーフとなった伝説(ギリシャ神話)を再度調べていたら、例によって、どんどん方向性が変わってきてしまいました。最初、一枚の絵画から始まったテーマは、ヴィザンティン帝国の創建の時代に遡り、ヴィザンティオンに帝国の首都を置いたコンスタンティヌス1世に辿りつき、さらに彼が造った? ローマ帝国正規軍の紋章ラバルム(Labarum)に行きつきました。しかし、ラバルム(Labarum)に興味はあるが、今回は断念。全くもって今回の内容にはひっかからないのですそなこんなで、どこかで必ずやりたいテーマがまた一つ増えました。ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)色調絵画バルール(Valeur)メドゥーサ(Medousa)は何者か?イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサイェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者ルーベンスのメドゥーサ(Medousa)とりあえず、ウイーン美術史美術館所蔵の絵画から紹介。The Head of Medusa 1617年 ~1618年ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens) (1577年~1640年)ヘビは動物専門の画家フランス・スナイデルス(Frans Snyders)、(1579年~1657年)作品はギリシャ神話の怪物メドゥーサ(Medousa)がペルセウスに退治され首を落とされた所のようです。ゴルゴーン(Gorgōn)3姉妹のうち、不死身で無い3女、メドゥーサはペルセウスの宿題の為にターゲットにされます。そもそもはペルセウスの母ダナエに言い寄るポリュデクテスに彼女の首を差し出す約束をしたからでした。メドゥーサ(Medousa)は髪が蛇,見るものを石にする目を持つ。(もとは普通に美女だったらしい。)ペルセウスはアテナイ神とヘルメス神の助けを受けて彼女を捜索して殺し首を持ち帰る事に成功。その首は死んでもまだ効力を発揮。最終的にはポリュデクテスを石にした後にアテナイ神に献上。アテナイ神はメドゥーサの首を自分の山羊皮の楯アイギスにはめ込み最強の盾にした。小品ながら非常にドラマティックに描かれている。ヘビやファイア・サラマンダーは専門家のフランス・スナイデルスの筆であるが、メドゥーサの見開かれた眼と総合演出はさすがルーベンスである。特に押さえられた配色の、しかも暗色の中でメドゥーサの青白い顔の色は取り分け目立つ。いつもなら、ルーベンスの女性は赤色を刺した暖色で、プルプルの肌つやを持つのが特徴だ。ここでは怪物で、なおさら死人なので赤みこそ無いが、確かにルーベンスなのだ。どこの誰のオーダーで描かれたのかは解らないが、異質ながらも引きつける魅力は小品でも十分ある。さすがルーベンスなのか? さすがメドゥーサなのか? 因みにギリシャ神話では、メドゥーサの血についての伝説が幾つかある。1. メドゥーサの首からあふれ出た血から、空駆ける天馬ペガサス(ラテン語|Pegasus)が生まれた。2. 切り落とされたメドゥーサの首から滴り落ちた血はペルセウスによって2つの瓶に集められ、アテナイに献上された。右側の血管から流れて右の瓶に入った血には死者を蘇生させる効果が、左側の血管から流れて左の瓶に入った血には人を殺す力があったとされる。色調絵画バルール(Valeur)これらはバルール(Valeur)と呼ばれる技術が使われた作品に分類されそうだ。バルール(Valeur)を説明するのは難しいが、構図(配置)や色の明暗(色調)による視覚効果を狙ったりと、五感に訴えた表現作品と言える。巨匠だからこそ怪物の迫力が伝わるバルール(Valeur)である。その成功によりこの絵の完成度は増している。1620年代から1640年代にかけて、原色を用いず、色彩を抑制(淡褐色などごく限った色)。その中で明暗の変化を利用して雰囲気を出した作品がフランドルで流行している。※ この時期は服飾においても、白と黒の地味な服装が流行。風景画の中にも海と空だけの海景などまさに単色の世界が出現。その新傾向の絵画は、色調絵画とか、単色様式とか日本訳されているようだが、これがバルール(Valeur)作品をさしているのだろう。またこれらに共通するのが、断片的作品。広大な景色からごく一部分を抜き取って表現したもの。「メドウーサの首」はまさしくそう。本来なら、メドゥーサを退治するペルセウスが画面にいても良いし、何よりメドゥーサの体全体があっても良い。これら限られたアイテムで表現する効果は確かに面白いが、実は何より、効率の良い仕事なのである。膨大化する絵画需用をこなす為に編み出した妙案かもしれない。従来の大きな作品では製作時間がかかりすぎる。これらは時短作品でもあるのだ。写真左下のファィア・サラマンダー因みに2012年06月「グエル公園(Parc Guell) 2 (グエル公園のファサード) 」で紹介したファサードを飾る謎のトカゲの正体がこれ。やはり欧州には多く生息しているようですね。リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)メドゥーサ(Medousa)は何者か?ところで、メドゥーサ(Medousa)は、海の神ポルキッュスの娘。そもそもは美しい髪と瞳を持つ絶世の美女だったそうだ。彼女はアテナイ神と張り合い彼女の逆鱗に触れて醜い、おぞましい怪物の姿に変えられたと言う。美しい髪は蛇に。美しい瞳は見る者を石に変える邪眼(じゃがん)に。別の伝承では、さらに歯はイノシシのごとく、顔は醜悪。黄金の大きな翼を持っていたとも・・。それはアテナイ神の呪いである。ギリシャ神話は読んでいて、つくづく神は傲慢で我が儘だと思っていたが、結構たちが悪い気がする。メドゥーサは洞窟に潜んでいただけなのに、わざわざ探されて退治されてしまうのである。ちょっと、いや、かなり気の毒だ。※ この話は英雄物語(ペルセウスの物語)に書かれている。でも本来のメドゥーサ(Medousa)はギリシャ以前の時代に土地に土着していた豊穣の神様として、東地中海からエーゲ海に至る地域で信仰されていた女神だった。以前紹介したナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)はメドゥーサ(Medousa)の目玉の形をした護符。アレクサンダー大王の没後にヘレニズムの文化が始まったとされるが、それ以前からメドゥーサ(Medoūsa)信仰は存在していた。それはギリシャの神々の体系がつくられるよりも前だったと推測できる。実はメドゥーサについては、以前触れていた事がある。2009年05月「地下宮殿とメドゥーサ (Medousa)」2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 1」2009年05月「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2 パルテノン」※ 若干読みにくい所を書き換えました。以前は毎日更新していたので内容も浅いですが・・ この際、メドゥーサ (Medousa)を掘り下げて、以前メドゥーサ寝殿に飾られていたかもしれないメドゥーサ像を再び紹介する事にしました。それは以前紹介した地下寝殿に現存する部分ですが、視点を変えて見てみてください。※ 実はダン・ブラウンの小説「インフェルノ」で思いだしDVDで確認しました。遺跡の内容は今も変化無し。「インフェルノ」ではクライマックスに地下宮殿で激戦している。イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)のメドゥーサ5世紀にどこからかもたらされた石として、事もあろうに地下貯水槽の柱に転用されてしまった悲しいメドゥーサのヘッドの話です。それは現在のトルコの首都イスタンブール。かつてのコンスタンティノープルに設置された古代ローマの地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)に置かれています。地下貯水槽とは言え、美しさでは世界一と言える列柱廊の並ぶバシリカ造りと言う事から地下宮殿 (イェレバタン・サラユ・Yerebatan Sarayı)とも呼ばれ、また英語ではバシリカのある貯水槽(バシリカ・シスタン・Basilica Cistern)で知られています。それは1985年「イスタンブールの歴史地区」としてユネスコ世界文化遺産に登録された遺跡です。Yerebatan(地下)、Sarayı(宮殿) と言いわれる理由が解る。まるで大聖堂の中の光景。でも、ここはイスタンブールの地下に掘られた貯水槽なのである。(現在は使用されていないが・・。)場所はアヤ・ソフィアに近いイエレバタン通り。ここはビザンチン時代のセブンヒルズ(7つの丘)の一つで、コンスタンティヌス帝が都を築いた時の最初の丘にあたる。当初の丘の中心には公共広場(Stoa Basilica)(アウグストゥス大広場)があり、その地下にそれは造られた。給水施設が近代化された時に、ここの使用はとりやめ、今はただの池となってしまった。1960年代に天井近くまであった水は抜かれ清掃され、今は観光と時々コンサートなどのイベントが催されている。イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者最初にビュザンティオン(コンスタンティノポリス)に給水施設を造ったのはローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)とされる。皇帝は330年、都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都すると、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた。※ ビュザンティオンは後にコンスタンティノポリスとなり、現在はイスタンブールと名を変えた。※ 東側のローマ帝国は後に東西に分裂するが、旧都市名ビュザンティオンから東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれる。ローマの街造りは上下水道に始まる。そして浴場の建設ははずせない。水は黒海の近くから運ばれ、かつてはイスタンブール大学のあった場所に90万平米の大型貯水槽が造られ、一端そこに貯めてから宮殿やアヤ・ソフィアに供給された。当初は広場に大聖堂もあったらしいが、476年火災が起きた。(後に聖堂は再建)そしてユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(483年~565年)(在位、518年~527年)の時代に貯水槽は拡大される。それが今に残る地下貯水槽(イェレバタン・サライ ・Yerebatan Sarnici)である。長さ140m。幅70m。天井を支える8mの花崗岩。柱は4mおきに28本ずつ12列。全部で336本。それぞれの柱には細かい模様が彫られ、コリント式の柱頭が付いている。ここの建築には7000人の奴隷が使役されたと言う。そのバシリカ構造と壮観さから地下宮殿(イェレバタン・サラユ ・Yerebatan Sarayı)と呼ばれるようになったと言う。1453年にオスマン帝国が征服され、現代に至るまこの給水施設はトプカピ宮殿に水を供給したと言う。泥水5000トンが抜かれ、足場が組まれ、一般公開されるに至ったのは1987年。この建設の資材は再利用なのである。実はローマの都市は案外リサイクルで成り立っている。ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の城塞を取り壊し資材を運んだ。また、近くのヘレニズム時代の遺跡からも資材を調達。かくしてどこからかここにとんでもない物が運ばれたのである。メドゥーサ(Medoūsa)の首実はこれは写真を逆さにしたものなのである。本当の姿は下。全体を見せると、こんな感じに置かれている。置かれている・・・と言うより、実際はこんな使われ方をしている・・と言う事に着目。またこんな横倒し使用のもある。メドウーサの顔が踏みつけられたかのような粗雑な扱いにビックリするが、これは当然メドゥーサ信仰の無い者達の仕業である。この置き方は敢えてサイズ調整の為だと前回書いたが、悪意があるのは確か。コンスタンテイノポリスを造ったコンスタンティヌス帝)(在位:306年~337年)は初めてキリスト教を公認したローマ皇帝である。正確に言えば、あらゆる宗教の信仰を認めた皇帝なのである。だから彼の治世には以前のヘレニズムの時代の神様も、同様に大事にされていたはず。実はユスティニアヌス1世 がここの建築をするまでの間にキリスト教がローマ帝国の国教になったのである。392年、テオドシウス1世は(Theodosius)(347年~395年)(在位:379年~395年)キリスト教を東ローマ帝国の国教と制定。異文化の神殿破壊や遺跡の排除がこの後に始まったのだと推測される。ここを建設したユスティニアヌス1世 (Justinianus I)(在位、518年~527年)の時代には他文化の遺跡等を破壊する事は何でも無い事だったのだろう。上に向きを変えて、気付いた事がある。口が半開き。もう一つは口を閉じていた。まさかこれは・・。神社の境内にある狛犬。あるいは寺の門前の仁王像に同じ。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像なのではないか?もし、そう解釈するなら、この像は神殿か何かの入口に飾られていた像だった可能性が・・。ユスティニアヌス1世は黒海沿岸の古い城塞を壊してここの資材の一部とした。ひょっとするとその城塞の入口には一対のメドゥーサ(Medoūsa)の顔がはめ込まれていたのかもしれない。ついでに気になっていた柱について・・。中には変わった模様の柱がある。これについては目玉飾りで被われた柱と解釈。ここを建設した時に使役された奴隷が7000人?古代のテキストでは、列の涙が貯水槽の建設中に死亡した何百もの奴隷たちに敬意を表していると記されているとか・・。しかしキリスト教で「奴隷に敬意を現す遺物」を造る事は考えられない。単純に、これもどこかの遺跡からのリサイクル(柱)と思う。それにこの柄、これは涙と言うより、まさにナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)そのものではないか?つまり、これらはメドゥーサ(Medousa)の目玉そのものと解釈した方が納得がいく。目玉の付いた柱は、どこかの寝殿から持って来た物の可能性は高いが、護符として、わざとそこに建てた可能もあるかも・・。参考にうちのナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)の写真左のは縦11.5cmあります。トルコのお守りで、守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶのが良いとされています。詳しくは前に書いたのを見てください。メドゥーサ(Medoūsa)の首 おわり
2017年12月04日
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