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19日夜、、ドイツの首都ベルリン(Berlin)で大型輸送トラックがクリスマス市のアーケードに突っ込むと言う許しがたい信じられ無いテロが起きた![]()
ベルリンは欧州の諸都市の中でも人口が多い街。もしかしてクリスマス市が狙われる・・と言う噂はあって警戒はしていたようだが、まさかトラックでクリスマス市に突っ込むなんて誰も想定できなかったろう。
想像通り、後から過激派組織ISが犯行声明を出した。さらに同志に向かって車両を使って群衆を攻撃するよう呼びかけているらしい。
改めて思う。過激派組織の目的は何なのだろう。
よく、ジハード(jihād)と言う言葉が使われるが、本当のジハードは奮闘とか、努力と言った意味で、ムスリム(イスラム教徒)の守る大切な行いをさしているそうだ。
過激派達はそのジハードを「異教徒を滅ぼす為の奮闘」と、かってに置き換えているのか?
敵対する、あるいは迫害する異教徒のいた大昔ならともかく、今はお互いの宗教を重んじて異教徒同士でも手をさしのべあって生きていこうと言う時代なのに・・・。
彼らの目的は世界をイスラム色で塗りつぶしたい・・と言う理由だけでは無いはず。
(彼らは正統なイスラム教徒とは全くの別物。)
彼らの真のねらいは?
世界を恐怖に陥れたいと言うだけの、非常にたちの悪いただの愉快犯なのではないか?
あるいは彼らのトップはゲーム感覚で世界を版にして遊んでいる?
共鳴する同志? と言うコマにテロを起こさせ世界が恐怖するのを楽しんでいる?
リンク ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)
リンク ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)
リンク クリスマス市の名物グリューワイン
2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)
鷲峰山 高台寺(じゅぶさん こうだいじ)
茶室 遺芳庵(いほうあん)
家康と北政所の不思議な関係
史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州
八坂の塔の東北。東山霊山(ひがしやま りょうぜん)の山麓に鷲峰山 高台寺(じゅぶさん こうだいじ)がある。
そこは最初、 豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となって夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺
であった。(この時点で 高台院は
曹洞宗)
1624年に北政所が亡くなってから
、北政所の兄(木下家定)により 建仁寺の三江和尚を開山として迎え高台寺(正式には高台寿聖禅寺)と号したようだ
。(建仁寺は臨済宗なので宗派替えとなった。)
※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)
※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)
高台院塔頭全景図(看板を撮影)
青屋根・・・・・・・・・方丈(ほうじょう)
右上の紫屋根・・・霊屋(おたまや) 秀吉と北政所を祀る霊廟。
方丈と霊屋の間・・開山堂 方丈手前の渡り廊下に観月台(かんげつだい)がある。
地図の左側の石畳の道が「ねねの道」。その道より左手にねねの住まいである圓徳院がある。
こんなに京都市内にもかかわらず、かなりの敷地でありしかも環境は素晴らしく良い。
紅葉の名所としても有名で、竹林もある。桃山時代の作庭である庭園の素晴らしさはずば抜けている。
さらに院内には茶室が何棟か建っており、テーマでいろいろ茶会が催されているらしいから調べてから行くのも良いだろう。(体験予約もできるらしい)
入り口の正面は庫裏(くり)
庫裏(くり)・・食堂や僧達の住居部
茶室 遺芳庵(いほうあん)

茶室、遺芳庵(いほうあん)
は 趣味人で京都の豪商であった灰屋紹益(はいやしょうえき)(1607年~1691年)と夫人の吉野太夫(よしのたゆう)との好みの茶席
らしい。(1908年に紹益の旧邸跡から移築したもの)
見える格子のついた丸窓は吉野窓。
小さいながら高台寺を代表する茶席の一つだそうだ。
見える建物が開山堂
開山堂の周りは多くの石組で飾られた小堀遠州 作の桃山時代の庭園となっている。
今回いろんな角度から庭園を紹介。
偃月池(えんげつち)と亀島
この庭が「鶴亀の庭」とも呼ばれる所以が池北側の亀島と南の岬の鶴島の存在だ。
徳川家と北政所の不思議な関係
実は 高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があると言われている
。
資金だけではない、 高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も担っている
。
(家
康は配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命している。)
例えば 堂宇は北政所の母、朝日局の菩提寺であった康徳寺の堂を移築して仏殿としている
。
※ 朝日局(あさひのつぼね)は高台寺内の旭雲院に葬られたがそれは今は無いようだ。
伏見城からは今は焼けてしまった方丈や利休の意匠による茶室(傘亭、時雨亭)が移築されているし庭園の
石もそうである。
また伏見城の化粧御殿は高台寺前に移築され、そこが北政所の住居(現在の圓徳院)とされた。
豊臣家を滅ぼした事を考えると破格の待遇
のような気がする。
何しろ家康は秀吉が嫌いだったはず。利休切腹の件もあり恨みは深かったと推測。
しかも、豊臣家が滅亡する1615年には、秀吉を祀る豊国神社を廃絶させ、阿弥陀ヶ峰に葬られていた秀吉の墓はめちゃくちゃにされているのに・・。
家康の時代に入ってからも(関ヶ原以降) 北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていた
そうだ。だからこそ、高台寺(創建は時は高台院)は創建当時から立派なのである。
では その
理由は何なのだろう?
政治的配慮で家康が北政所に気をつかった? と言う説があるが・・。
ひょっとすると、 北政所を大事にしたかったのは徳川家康ではなく、息子 徳川秀忠(とくがわひでただ)ではなかったのか?
徳川2代将軍となる徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)は実質的な人質の体で1590年に豊臣家に入っている。(彼は特に秀吉に気に入られ秀忠の名をもらっている。)
つまり 秀忠は11歳で秀吉の元に行き、子の無い北政所に実母のように面倒を見てもらい、秀吉にも気に入られて豊臣家で案外良い待遇を受けていたようなのだ。
北政所が落髪して尼僧となったのが1603年。
秀忠が将軍職を継いだのが1605年。
そして 高台院が創建されたのが1606年と考えるとまさに北政所の為にお金も骨も折ったのは徳川秀忠と言う事になる
。
実際、高台院が創建されてから 秀忠は度々高台院を訪れて北政所に会っていた
と言うのだからやっぱり? と言う気がする。
鶴島がどれか解らなかったが、たぶんこの写真範囲にあるはず。
観月台(かんげつだい) 重要文化財


檜皮葺き(ひかわぶき)の唐破風造り。文字通り観月する為の建造物である。
これは秀吉遺愛の台(うてな)だそうだ。それ故、これも伏見城からの移築物なのだろう。

史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園 と小堀遠州
開山堂の左右、西と東に池を持つ庭園は小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の桃山時代を代表する池泉回遊式庭園である
。この寺の最大の見所はこの庭園と言える。
石は伏見城から運ばれたようだ。それを小堀遠州(こぼりえんしゅう)が組み替えて優雅な庭園を造り上げている。どの角度から見ても絵になる庭園である。
織田信長が天下統一を図り、秀吉が天下を統一した時代。
信長の安土城と秀吉の桃山城(伏見城)双方から 安土桃山文化と呼ばれる時代がある。
乱世が落ち着いて余裕の出できた武将達が茶の湯に興じ、器や調度品、茶席の造作、作庭、ふすま絵など素晴らしいものが沢山生まれた。貴人達が好む華やかな文化を武将達も求め花開いたのである。
つくづく平和が文化を創る・・と思う。余談であるが、日本の文化がどれもこれもすばらしいのは、平和な江戸の時代が長く続いたおかげである ![]()
話はそれたが、 桃山時代と称される秀吉の時代は利休を筆頭に茶の湯の優雅な世界が構築された時代
である。
この庭の作庭士、小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579年~1647年)もたくさんの肩書きを持っているが茶人である。
大名、茶人、建築家、作庭家、書家。 彼は万能の総合演出家だったのだろう。
西の偃月池(えんげつち) 開山堂正面側から

この撮影直後、目の前を突然カモが横切り偃月池(えんげつち)から臥龍池(がりょうち)に移動して行った![]()
開山堂(かいざんどう) 重要文化財
入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂は創建時の建物で重要文化財であるが、これが前出、康徳寺の堂を移築したものかは不明。(寺の資料には書かれていなかった。)
この堂の左が偃月池(えんげつち) で右が臥龍池(がりょうち)である。
内部の撮影ができないし、内部は薄暗いので解りにくいが 礼堂部中央の彩色天井に北政所の御所車の天井が使われ、前方の格子天井は秀吉の御座舟の天井が利用されているそうだ
。
現在 は高台寺開山の三江和尚(三江紹益禅師)(1572年~1650年)を祀る塔堂になっている。

東の臥龍池(がりょうち)
高台寺つづく
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