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※ 写真の9割は自分で美術館で撮りだめしていたものです。
ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)
ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum
)
ウイーン 造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)
ベルギー王立美術館(Musées royaux des beaux-arts de Belgique)
きっかけは2017年1月「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」の時に見つけた「蜂に刺されるキューピッド」の絵でした。
この絵には別の意味で非常に興味のある話題が秘められていました。
正直クラナッハは好きな画家にランクしていなかったので、(イタリア絵画のが好き)北方系は今まで興味を持って見る事はほとんどありませんでした。が、オーストリア、ドイツ、ベルギーなどの美術館にはとにかく作品が多数。
改めて興味を持ってクラナッハと言う画家を確認すると、クラナッハの作品は宗教画の中でさえも、あふれる独特なエロティシズム感。大人の邪(よこしま)な目を使って覗(のぞ)くと見えて来る官能美。そこに行き着く?
そして驚いたのは画家自身の画家以外の才能でした。
クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)
ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)
ザクセン選帝侯の宮廷画家クラナッハ
クラナッハ家の紋章とモノグラムのサイン
マルティン・ルターとの親交とビジネス
ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)(1472年~1553年)は北方ルネッサンス期の画家
です。
※ この場合の北方とは、アルプス以北のドイツやネーデルランドを指したが、広義ではイタリア以外の国でのルネッサンスを総じた呼称。
当時神聖ローマ帝国内であったドイツのフランケン地方クラーナハで画家で工房を持つ父の元に誕生。
名前のクラナッハ(Cranach)はそこに由来している。
同時期のドイツの画家としては、デューラーやホルバインに並ぶ大御所
である。
自身の工房でも大成功を収め、ヴイッテンベルクの宮廷画家としても活躍、かつ、資金の運用にいろいろ起業しているやり手なのである。
特に、宗教改革においては画家以外のビジネスで大成した実業家でもあった。(後で詳しく紹介)
ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum) Adam and Eve(アダムとエヴァ)
先ず、お気に入りの一枚から紹介。
クラナッハ(Cranach)の裸婦にしてはシンプルに美しく、多くの画家がアダムとエヴァ
を描いているが、宗教目線をはずして、最も美しいアダムとエヴァだと気に入った作品である。
創世記、天地創造によって最初に神により創作された人がAdam and Eve(アダムとエヴァ)である。
このタイプの絵の形はおそらく祭壇画の蓋絵(ふたえ)として描かれたのではないかと想像する。
ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)
Paradise(楽園) Garden of Eden(エデンの園) 1530年
創世記、天地創造の一幕Garden of Eden(エデンの園)
背景は神がアダムを創作し、エヴァを創作し、二人がヘビに騙されて木の実を食して神の怒りをかい楽園を追放される姿が描かれている。
下は二人に説教している図
最初に紹介したアダムとエヴァの制作年代が不明であったが、ひょっとしたらこの絵とモデルが一緒かもしれない。
ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) Goldenes Zeitalter(黄金時代) 1530年
※ こ の絵はすでに「アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)」で一度紹介していますが、敢えて載せました。
ギリシャ神話から来る黄金時代は遙か昔、人は神々と共に争いのない素晴らしい世界で暮らしていた。と言う理想的世界を示している。
働かずとも、食となる木の実がたわわに実る楽園で人々は毎日愉快に踊って暮らしていると言う図なのだろう。
黄金時代はシンプルに表現すると「 最も素晴らしかった時代」
と表現できる。
最近では何かの最盛期を指して「〇〇の黄金時代」と例えられる言葉だ。
面白い事に この絵が描かれた1530年と言う時代はまさにクラナッハの黄金時代なのである。
ザクセン選帝侯の宮廷画家クラナッハ
イタリアで起きたルネッサンス(Renaissance)がアルプスを超えるまでには時間を要した。
2016年2月「アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー」で イタリアで勉強したきたデューラーがドイツで最初のルネッサンスの画家
となったと紹介したがデューラーが神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕え宮廷画家になるのは1512年の事。
一方 ルーカス・クラナッハは画業は父の工房で学び、30歳くらいまで父を手伝っていた事が確認
されている。逆にその頃のクラナッハ作品は無い。(工房では父の名前で作品を出
していたと思われる。)
以前、ドイツでは一人前になる前に人生の意義を探求する為の遍歴の旅に出る慣習があると書いたが、 1501年頃からウイーンに赴き人文学者のサークルに入って思想の面からイタリアルネッサンスの理念に鼓舞したと言われている。
ウイーンは文化の中心地であり、人脈作りもあったのかもしれない
。
画家としては1503年にはすでに一流印刷会社の下絵を描いていて、この頃ザクセン選帝侯の目にとまった?
1505年にザクセン選帝侯フリードリッヒ3世(Friedrich III)に請われ宮廷画家としてヴイッテンベルク(Wittenberg)へ向かった。以降クラナッハは3代のザクセン選帝侯に仕える事となる
。(42年間? )
クラナッハが仕えたザクセン選帝侯3人
フリードリッヒ3世(Friedrich III)(1463年~1525年)(在位:1486年~1525年)
ヨハン(Johann)(1468年~1532年)(在位:1525年~1532年)
ヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich )(1503年~1554年)(在位:1532年~1547年)
裸婦ではないが・・クラナッハぽい絵として紹介。
ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)
Die Prinzessinnen von Sachsen(ザクセンの王女)Sidonie, Aemilia ,Sibylle 1535年
Sidonia (1518-1575) Emilia (1516-1591) Sibylla (1515-1592),
描かれた1535年はヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich )の治世。
3人の王女はヨハンの娘。ヨハン・フリードリヒの姉妹と思われる。
※ クラナッハをスカウトしたフリードリッヒ3世には正妻がいなかった。次代は弟ヨハンが継いだ。
クラナッハの女性像はデューラーがイタリアルネッサンスから学んできたような理想のプロポーションとは程遠い。良く言えば個性的。悪く言えば田舎臭いかもしれない。(当時は新鮮だったのだろうが・・)
でもそれがクラナッハらしさであるのは間違いない。面白い程個性的だ。
クラナッハの黄金時代、クラナッハらしい特性の一つ。 1530
年以降?
当時流行の派手なアクセサリーと帽子を付けた女性像を描き始めている。
例え裸婦でも装身具を身に付けさせた
クラナッハのねらいは?
ウイーン 造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)
Lucretia(ルクレティア) 1532年
上の絵の左下に黄色で囲んだ所にクラナッハのサインが入っています。
アクセサリーを身に付けていないのでちょっと疑問だけど・・。
下も以前紹介した絵であるが、上と同じくサインの部分を囲みました。
ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) Lucretia(ルクレティア)
製作年代が不明であるが、ザクセンの王女と同じアクセサリーを付けている事から推察して1532年~1535年あたり?
このLucretia(ルクレティア)の正確なタイトルはDer Selbstmord der Lucretia(ルクレティアの自殺)
だ。これについては以前デューラーの所で説明済み。
Lucretia(ルクレティア)やJudith(ユーディット)はクラナッハだけでなく多くの画家がモチーフに選び数多くの作品が残されている
。
人物の顔がまばらな事からモチーフを利用した肖像画の特性を持った絵なのかもしれない。
※ ユーディットの場合たいてい服をきている事から奥方。裸婦のルクレティアは愛人の肖像画?
だとしたら ルクレティアは裸婦を描く為の方便に利用された絵かもしれない
。
クラナッハ家の紋章とモノグラムのサイン
クラナッハ家の紋章
王冠を被ったドラゴンが指輪を加えている図?
ウィキメディァからパブリックドメインになっていたのを借りてきました。赤の部分は手製で書き込みました。
この図を簡略化(上の赤で書いた部分)したものをサインとして晩年のクラナッハは絵に描き込んでいたそうだ。(実際絵を拡大して幾つかからそれらを発見した。)
前にデューラーのサインについて紹介した事がある。 1500年以降の作品にはデューラーのサインマークが記されるようになり、やがてそれは北方ヨーロッパの画家達も真似る所となった。
ウイーン 美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)


※ 全てに入っているわけではない。
マルティン・ルターとの親交とビジネス
ザクセン選帝侯の城があった ヴイッテンベルク(Wittenberg)は、宗教改革の爆心地である。
それはクラナッハを呼 んだフリードリッヒ3世(Friedrich III)がヴィッテンベルク大学を創設し、1508年、マルティン・ルターを教授として招いていているからだ
。
下は以前紹介した事がありますが、 クラナッハ作のマルティン・ルター夫婦の肖像です。
ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli) 1529年

ルターは修道士であったが、自身でおこなった宗教改革後、まさに新約聖書の発行後にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で26歳の元修道女と結婚している。1525年6月、41歳の時だ。
ルターとの親交は1511年頃にはすでにあったようだ。
祭壇画の制作も増えていた時期だが、肖像画の依頼も増えマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)自身の肖像画も多く残されている。
アルテピナコテークの所で、クラナッハとルターについてはちらっと触れたが、二人 が親友であったのは間違いない。
1517年
、当時ヨーロッパ最大の聖遺物を有していたヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会。
ヴィッテンベルク大学神学教授であった ルターはヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけ、宗教改革の口火を切った。
その後ルターは神聖ローマ帝国の ヴォルムス帝国議会で異端として破門を受ける
事になる。
マルティン・ルターが保護を求めたのがザクセン選帝侯である。
時の フリードリッヒ3世は彼をヴァルトブルク城(Wartburg Castle)内にかくまいルターはそこで聖書の翻訳活動をしたのである
。
それが世に有名な ルター翻訳の新約聖書刊行である。(1522年9月)
以下にはルターの新約聖書発刊に関する記録を記した。
1522年9月、ルターがラテン語からドイツ語に翻訳した「新約聖書」が大版で出版。(9月聖書)
同年テクストが改稿され挿絵も訂正。
1524年モーセ五書・歴史書・詩書
1526年ヨナ書、ハバクク書、
1528年ゼカリヤ書、イザヤ書
1529年、新約聖書が基礎から校正され、1530年には最終的な編集。
1529年ソロモンの知恵
1530年ダニエル書、エゼキエル書の注釈付き
1531年詩篇が最終的な形で完成。
1522年9月に新約聖書が印刷されてから、テクストは度々改稿。また少しずつ内容が増えて加わり新約聖書だけでもどれだけの印刷を要したか。
驚くなかれ。 これらは全て独占で印刷
されていた。
この 新約聖書初版を印刷した会社こそが、ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)の起業した会社
だったのである ![]()
1525年、クラナッハは宮廷に出入りする宝飾家クリスティァン・デーリングと共に印刷会社設立の許可をフリードリッヒ3世より取り付け、 ルターの新約聖書の独占印刷権を獲得
したと言うわけだ。
上に示したように続編も多数発行され、膨大な印刷を行った為 にヴイッテンベルクの他の印刷会社は全て消え、そればかりか印刷でトップであたライプツィヒを抜
いて ヴイッテンベルクは出版の中心地 になった
と言う。
もともと事業家で製薬の会社なども持っていたクラナッハには、さらに莫大なお金が舞い込み、1528年の所得申告では ヴィッテンベルクを代表する金持ちになっていたそうだ。
1534年ルターは旧約聖書の出版も行うのであるが、 クラナッハ
は1533年に会社を売却
している。
先ほど クラナッハの黄金期と言ったのは地位も名声もお金も手に入れたと言う意味
があったからである。
さらに加えると クラナッハは1537年から3期(9年?) ヴイッテンベルクの市長を勤めている
。
もはや画家としての才よりも事業家としての才能の方がまさっていたのではないか?
と、色々思ったわけだ。
クラナッハ(Cranach)の裸婦 つづく
リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)
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