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母が感染症を起こしたのは、抗癌剤が直接の原因ではないにしろ、母の癌治療が原因の元になっているのは事実だと思う。 腸炎を起こしているのは、絶食し、抗生物質を使用しているため、腸内の正常な善玉菌まで死滅してしまい、その代わりにCD菌という通常なら繁殖しない菌が腸内に繁殖してしまったため。 また肺炎になったのも、抵抗力が落ちているからで、これも抗癌剤により免疫力が低下したためだと思われる。 ということは、癌を殺すために、自分までもが苦しんでいる。 癌は自分にとっては異物ではない。もともと自分の細胞であるものが、突然変異をしてしまい異常繁殖?を続けているものだ。 でもその突然変異細胞は、自分をも殺してしまう勢いで自滅の道を歩もうとする。宿主が死んでしまったら自分も死んでしまうのに・ なぜだろう・・・こんな不思議な病気ってないと思う。自殺細胞・・・ でも、別の医師に「もし抗癌剤治療や他の治療も何もしてなかったら、今ごろお母さんはもう亡くなっていますからね」と言われて、生きる望みを掛けて治療しているのだとは思う。 今の治療を否定してはいないし、何よりも本人が治療を望んでいる。 でも元々は自らと同じものであった異常細胞を殺すということは、自らも傷を負わずにはおられない。自分と自分が戦っているようなものだ。 何と苦しい戦いだろうと思う。
September 29, 2008
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今日で5日目、高熱が下がらない。今日も、39度から40度の熱。抗生物質も投与しているのに・・・・ 今日、主治医の先生が時間をとって下さり高熱についての話を聞いた。 先ず、この高熱は抗癌剤の副作用ではないとのことだった。(感染症を引き起こしたのは、抗癌剤により抵抗力が落ちたという間接的な影響はある) そこで、何による高熱か考えられるのは、今のところ3つ。1.腸炎・・母は下痢をしており便の細菌検査の結果、CD菌という菌が見つかったそうだ。母は抗生物質を投与されているのでこの菌が繁殖したと考えられる。2.肺炎・・母はもともと肺の状態が悪かったが(過去に結核を患った)、レントゲン検査の結果何らかの影が見られ、肺炎を起こしている。3.足の付け根からの中心静脈からの細菌感染。 ただ1の場合で、40度近い熱が続くのは疑問だそうだ。3の場合は可能性が高いが、中心静脈の管挿入部を見ると炎症を起こしているようには見えず、これも本当にこれが原因かわからないそうだ。 また、管を抜いてしまうと今度は栄養点滴を腕から行うことになり、その場合は中心静脈の場合の3分の一の栄養分しか身体に取り込むことが出来なくなるそうだ。その場合、抵抗力・体力が低下している母にはダメージが大きくなると言う。 ということで、カンファレンスルームで夫と主治医、私の3人で「う~む」と黙り込んだ。 というか、相談されても素人の私達では結局決めかねるのだけど、私は主治医のこういうところが、人格的にはとっても好きなのだ。なんというか、すごくオープンなところ、医者だからと私達を上から見下ろすことがない態度。 「血液内科の先生は3人いるんですよね、他の先生は何と言われてますか」と尋ねると「部長は、中心静脈を抜いて入れ替えた方がいいと言ってます」と教えてくれた。 主治医も今の状態だと原因を特定するためにも、問題はあるけれど中心静脈を抜くのがいいと思っているらしい。 「先生が抜くのを迷っている理由はなんですか?」と聞くと「明日は熱が下がらないかなという希望」と笑った。そして「でも迷いがあるなら、抜いた方がいいですね、今日抜きます」と最後には言われた。 私達も「それがいいと思います」と答えた。 医者とは大変な職業だと思う。迷いが絶対生じる現場で、一つ、一つ決断して行かなくてはいけない。でもその決断は、患者の命に関わる決断なのだ。 私は、母がこの病院に来る前、まだ悪性リンパ腫だと診断されなかったころ、某赤十字病院に母が通院していたころ、苦い経験がある。 それは、医師に任せっきりだった結果、母の正確な診断が一ヶ月も遅れてしまったという経験だ。母は、腰が痛い、足がむくむと言ってその月何度も通院しているのに、担当医師は「腰が痛いのは骨粗鬆症だから、足がむくめば足を上げるようにすればいい」と親身になって詳しい検査などをしてくれなかった。歩くのがままならないほど痛むと言って病院に通っていたというのに・・、何の処置もしてもらえなかった。私は私で病院に行っているのだから、医者が問題ないと言っているのだからと、母の状態を全く深刻に考えなかった。 ところが母の様子を見るに見かねた、叔父(母の弟)が別の病院に半強制的に連れていきそこで精密検査をした結果、なんと血液の癌の一種であるという「悪性リンパ腫」だとわかったのだ。 しかも母の場合は進行度が月単位で進む種類の悪性リンパ腫であった。そしてステージは4期。 悔やんでも悔やみきれない一ヶ月だった。 なので、今の主治医には「共に歩む治療でありたい」と伝え続けている。忙しくてなかなか会えないが(回診も一日一回程度)、なるべくコンタクトと取るように心がけている。 その主治医の腕前や能力は私にはわからないし、どの医師を選べばいいかも私にはわからない。 でも最低限、医師と患者との繋がりはしっかりと掴んでおきたいと思っている。 どうか、母の高熱が下がりますように。
September 29, 2008
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朝、目覚めるときホッとする。今日も無事に朝を迎えられたことに感謝する。 今日で4日、母の高熱が下がらない。ずっと39度台の熱が続いている。 そのため毎夜枕元に携帯電話を置いて寝ている。でも、もし夜中に携帯が鳴るときは、決して良い電話ではない。 その時を想像してしまう自分が怖くなる。覚悟は、出来ていない、というか、覚悟はまだしたくない。まだまだ、と願う。 だから、無事朝を迎えられるとホッとする。あぁ、昨夜も母は無事だったのだ。今も母は生きていてくれる。そう思うと有難くて、有難くて、 静かな朝の有難さ、
September 28, 2008
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高熱で話すのも辛そうな母。 それでも私達を気遣うのを忘れない。帰り際、「今日美味しいものでも食べて帰りなさい」と震える手で脇の机にある3千円を手渡そうとした。 札を触ろうとする母に「だめだよ、お金なんか触ったら、ばい菌だらけなんだから。お母さん今は感染が一番危ないんだからね。それにこんな時にそんな心配しなくていいんだからね」と急いで言う。 母は弱弱しく笑った。 帰り道、夫がこう教えてくれた。「お父さんにね、お母さんのお金は断らずに受け取って欲しいって言われた。それがお母さんの一番の楽しみだから受け取って欲しいと頼まれた」と。 胸がつまった。母にとっては、それが今自分に出来る精一杯の愛情表現なのだろう。その母の想いが胸につまる。 その母の想いを夫に伝えてくれた父の想いにも胸がつまる。
September 27, 2008
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母の熱が下がらない。原因は不明。おそらく感染症を起こして高熱が出ていると思うが、それがどこからの感染かわからない。 尿道の管からか、中心静脈の管からか、それとも・・・ なぜ、早く原因がわからないのかもどかしい。主治医を信用していると書いているのに、つい、主治医の無力(無能)さを思ったりもする、見放された気持ちになる。 38度台の熱があっても見かけは元気そうで話好きの母が、今は話すのも辛そうにベッドで海老のように背を丸めて苦しんでいる。 声も震える、手も震える・・・・ 解熱剤を飲んで抗生物質を点滴しても、一旦は37度台に熱は戻るものの、またすぐ39度40度近い熱が出る。 どうして・・・・・ このまま高熱が下がらないのが一番気がかりだ。 こんなことで母を失いたくはない。
September 27, 2008
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昨日の夜から高熱が出ているそうだ。今日病院に行くと「しんどい」と母が弱弱しい声で言う。 楽しみにしていた新しいピンクのパジャマを持っていったけれど自分で見て着る意欲もなさそうだ。聞くとなんと熱が40度近くあると言う。 看護婦さんに聞いても原因はまだわからないそうだ。主治医から抗がん剤の副作用は投与後一週間後ぐらいから出ますと聞いていたが、高熱も副作用なのだろうか。それよりも白血球が減少しているため感染による高熱だろうか。 38度以上の熱があっても元気によく話す母が、さすがに40度近い熱とあって、うんうん唸りながら辛そうだ。身体の節々が痛いと言う。特に腰の辺り。そしてお腹も少し。 首周りに冷たいタオルを置いてあげると「気持ちいい」と喜んだ。 病人にがんばれという言葉は禁物だと思うので「苦しいよね、しんどいよね」と言って足や腰をさすってあげた。 本当はこれは病気の母だけのことではなく、自分にも当てはまることだけど、何が起こるかわからない日々。 今日という日が永遠に続くかのように将来に思いを馳せる一方、これが最期の出会いや会話になることもあるのだという想いが頭をよぎる。そう想う瞬間、今がアリアリと生々しく立ち上がって見えるのはなぜだろう。将来を思うほど、今は薄くかすんでしまう。 でも私が母に出来ることはごく少ない。それでも有難うと喜んでくれる母の姿に自分の居場所を見つける。 今日は携帯電話を枕元に置いて寝ようと思う。
September 25, 2008
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明日、母の病院に行く、その時、父に言おうと思うことがある。(私もしつこいな~) というのは、昨日父から母の様子を伝える電話があった。前日ブログに書いたとおり喧嘩別れをしたので、もう電話もないと思っていたから、ちょっと意外だった。 喧嘩のことなんて全く気にしていない雰囲気。私の「もうお母さんのこと嫌なんじゃないの」という言葉にも「そんなこと言ったっけ」という、とぼけぶり。 最初は、こういうわだかまりのなさが家族なのかと、こっちが構えていた分(私って何でも深刻に考える性格なので)ふっと気が抜けた。が、が、よくよく考えるとこれってよくない、これがよくないと思えてきた。あれを何もなかったようにされては困るのだ。 あの父の般若顔を見るのは二度とごめんだ。あれを「何かあったっけ」とすっとぼけられたら困る。 それにもう二度と、今度こそ二度と、父とあんな口論をしたくない。私の気持ちが真剣だということだけは、最後にきちんと伝えたいと思う。 感情的にならずに、冷静に冷静に淡々と、想いだけを伝えられたらと思う。 今日は美容院に行ってきた。3センチほど切ってもらってさっぱりした。 一休みしていた公的施設で、70代ぐらいの男性のお年寄りが同世代の女性に息つく暇もなくしゃべり続けていた。 その話の中で耳に残ったこのセリフ。「俺は本当は大阪にいたかもしれんのだ。大阪におったら俺はこんな生活はしとらん、今ももっとバリバリやっとたで、俺は出来るんやで・・・」 返事をする間もない女性は黙って聞いているのみ。 人の振り見て、わが身を正せ。と思う瞬間でした。
September 22, 2008
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死を見つめているはずなのに どうして生が見えてくるんだろう。 死を真剣に見つめれば見つめるほど その先に生がありありと濃く 立ち上ってくるのは どうしてだろう。 死を見つめているはずなのに ただ生きていることの有難く
September 21, 2008
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父が病室で切れた。 切れた経緯は、ただその出来事が地雷を踏むきっかけになったにすぎないと思うのでここでは省く。 ただ、私の一言が地雷を踏んだ。 「いつもくどくどと細かいこと言うな!俺がどんな気持ちで毎日病院に来てると思うんだ。毎日朝4時半に起きて、洗濯して、お母さんの世話をして。俺はもう75歳なのにこんなことやらされて。俺は今まで10年以上もほったらかしにされていたんだぞ。俺の気持ちがお前らにわかるのか!!!!!!!!」みたいなことを、個室の病室で大声で叫んだ。 あの般若顔で・・・ 私は父がそう怒鳴る顔をじっと見てた。「あぁ、この人のこの般若顔久しぶりに見た」と動揺することなく冷めた思いでじっと見た。 子供の頃から、父が癇癪を起こしたときのこの顔を表情を何度見てきたことだろう。普段、無口で他人と交流することがほとんどなく、趣味は仕事という父が、母との喧嘩で切れるといつも見せてきた、あるときは物を投げながら、あるときは母に暴力を振るいながら見せてきたこの表情。 私が結婚して、父と母がある事情で10年近く別居してからは見せることがなくなったこの表情。 それを久しぶりに見た。過去の父の姿が、ありありと鮮明に私の脳裏に思い浮かぶ。 てっきり、年で性格が温和になって父も変わったと思い込んでいたけれど、父は変わってなどいなかった。 そして私も言い返す。父はそのまま病室を出て行くかと思ったが、ブツブツ言いながらどっかりと不機嫌な表情のまま病室の椅子に腰を下ろした。最後はまたまた病人の母に「あなたはもう帰りなさい、私のことは大丈夫だから」と取り成され病室を後にした。 こういうときいつも思う。どんな状況になっても母親というものは母であり続ける。そのすごさを思う。申し訳ない、お母さん。 看護婦さんには父と母の様子がおかしいのでよろしくお願いしますと声をかけておいた。 病人にストレスや心配事は絶対避けたいことなのに、自分の愚かさを思う。 それにしても、父は母と別居していた10年間を恨んでいたと初めてしった。また母の看病にストレスを感じていることも・・・「やらされて・・」という言葉にショックを受けた。父は母の看病をやらされていると感じているんだ。 ここでは、父と母の関係のことは書かない、私にはわからないから。 ただ、私がわかったのは、私は父にすごく執着していること。私には理想の父像がある。それをずっとずっと父に求め続けていた。それをしても無理だと、どこかではわかっているはずなのに、凝りもせずずっとずっと求め続けていた。KNさん(父の名前)という人ではなく、私の理想の父をKNさんにずっと求め続けていた。 でも得られない、どうしても得られない、その思いは憎しみに近い思いを抱く。愛の反対は憎しみではない、愛と憎しみは近いところにある。 妹にそのことを話したら妹は淡々と「私はとっくの昔にそんなことわかってた。だから理想の父像なんてない、もうそんなものは昔に捨てた。だからお父さんとは普通に付き合える」と言った。驚いた、妹も同じように感じていたことに。妹は父に近い存在で父の理解者だと思っていたから。 父の般若顔を見て、昔を思い出し、すっと何かが冷めた気がした。 父に対する幻想、叶えられるかもという期待あの般若は私に現実を教えてくれた。 まだ、父に対する確執はあると思う。母を介して父とも接することになると思う。 父は父である前にKNという一人の人間であることを、受け入れなくては、私の確執は終わらない。
September 21, 2008
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今日、夫のパソコン周りを掃除していたらコンビニのレシートがパソコンの後ろに置いてあるのを見つけた。見ると昨日、菓子パンを5個ぐらい買ったらしい。時刻は3時ごろ。ちょうど私が病院に行っている時間。 最近、また過食嘔吐をしているのかな。レシートをじっと見ていたら、もしかしたら夫は私にこのレシートを見つけて欲しかったのかと思えてきた。 夫が帰ってきてそう聞いた。夫は「そんなことないよ、別にただ置いただけ」と笑った。 昼食後、夫は和室で昼寝を始めた。私も眠くなって寝室で横になる。 一時間ぐらいで目が覚める、最初朝かと勘違い。あぁ、昼寝したんだと思い出す。 ふと、将来に対して不安が襲う。こんな風に過ごしてて、将来経済的に大丈夫なんだろうかといういつもの不安。いつもこの不安に襲われると夫に不安を打ち明けた、夫にその不安を取り除いて欲しくって。 でも、今日はやめた。この不安って今必要なんだろうかと思うから。 私の不安は将来の不安で今の不安じゃない。 今は金銭的に困ってないし、経済的には問題はない。なのにどうしてわざわざ不安を未来に捜し求めてしまうのだろう。いい加減に止めたい、この不安探し。 夜、父から電話がかかる。母の病状を伝える定期連絡。今日の母は元気がなかったらしい。副作用の影響か?それとも父との不仲のせい? 母に対しても将来のことはわからない。想像することはあっても、それに固執することは意味がないと一番自分がわかってる。 過去を悔やむことはある、未来を憂うこともある。それなら今は、と思う。 今はどうかと自分を見つめると、私は幸せだと思うのだ。 ある日突然母が癌と言われても夫が摂食障害であっても、それで今は収入が全くなくても、 今の私は幸せだと思うのだ。 将来さえ憂うことなく過去を悔いることさえなければ 今は幸せだと思うのだ。
September 18, 2008
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久しぶりのブログ。 9月11日と12日は、山梨の八ヶ岳・清里に行ってきた。というのは、そこのRホテルの宿泊券に当選したからだ。最初、当選メールをいただいたときはうれしいというより、戸惑った。母が入院中のこの時期に「旅行」という気分にすぐになれない。逆に、旅先にでも気になって楽しめないのではという思いがあった。 でも、母の病状も安定しているし、妹も来てくれてるし、何より自分にとってもよいことだと思えてきて、夫と二人行ってきた。 ホテルの温泉にのんびりつかって、広々とした部屋でぐっすり眠った。観光は美術館と清泉寮の散策。清里は寒いくらいだと思ったけれど、昼間は思ったより暑く、夕方になると冷え込んだ。 見知らぬ土地で入る温泉って格別だ。 母の治療は、9日に悪性リンパ腫に効果があるという「リツキサン」の投与が初めて行われた。リツキサンは比較的副作用が少ない薬で、投与後すぐ(その日のうち)症状が現れるそうだ。 母の場合は、当日ではなく翌日、悪寒と高熱があったが、すぐ回復した。 主治医の話によると、母は抗がん剤からの副作用の回復が遅いそうだ。そのため、2~3週間の間隔で行われる抗がん剤投与が母の場合4週間ぐらいにずれ込んでいる。あまり間隔があくと抗がん剤の効果は薄れてしまうそうだ。 16日は中心静脈の入れ替えがあった。母の場合は、以前首から中心静脈を入れようとしたら呼吸苦になったため、やむを得ず股から管を入れることになった。股から入れる欠点は、動きが制限されること、細菌感染の可能性があることがあげられ、あまり望ましくない。 そこで、今回は首に入れ替える予定であったが、やはり首からはうまく入らなかった。出血がひどかったそうだ。 母が中心静脈の入れ替え処置をしている間、休憩室でずっと祈っていた。「母にとってうまくいきますように」と。 で、結果は首ではなく股だった、祈りって何だろうと思う。この結果に落胆している自分がいた。 今この状態が祈りが聞き届けられた状態なのだと思い直す。 自分の目先の希望なんてあまりに視野が狭すぎる。 17日は3回目の抗がん剤投与が行われた。今までは、母の体調を見ながらの投与だったが、今回は初めてCHOPの4種類の抗がん剤投与になった。 今のところ、腫瘍は小さくなっている、腫瘍マーカーも低くなっている。 主治医が言うには、投与後一週間ぐらいから副作用の心配があるらしい。 癌を殺す抗がん剤は、正常な細胞も殺し、免疫力を奪ってしまう。何のための治療なのかと疑問に思う瞬間だ。 悪性リンパ腫には抗がん剤が効く、この言葉にすがっている自分がいる。 癌との付き合い方には自分としても疑問は多い。「癌と戦う」という言葉にはどうしても違和感がある。 癌細胞は、自分の細胞が変異したもので、もともと自分自身でもあるからだ。戦うものではないと思う。 母の病に対する祈りはいつも言葉につまる。いつも今に感謝の気持ちを忘れずいたい。今、母が元気で生きていてくれること、そして、副作用が強く出ませんように。と祈る。
September 18, 2008
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今日主治医から家族に母の治療について話があった。 母は、骨転移をしているので血液の状態が悪く、抗がん剤の副作用の回復が遅く、なかなか次の治療に移れないとのことだった。また予後の話も聞いた。 それから母の病室に戻り、いつものようにいろいろ話す。それほど広くない個室の一角に、私、夫、父の三人が腰を下ろす。私が動くと夫にぶつかるほどだ。いつものようにただ座っているだけの父を見て「別に何もしていないなら、ここにいないで休憩室に行っててよ」と言った。 そんな私の様子を見ていた夫が「僕はもう帰る」といきなり言い出した。「帰るなら一緒に帰ろうよ」と私も慌てて立ち上がる。逃げるように病室を出て行く夫を、階段近くで捕まえた。「どうして、急に帰るって言うの」泣きそうな気持ちで夫に聞いた。「あんな雰囲気の病室に一緒にいたくない。どうして君はいつもお父さんにああいう言い方をするんだ。」夫はそのまま階段を下りていった。 病室に戻ると、私達の雰囲気を感じた父や母がどうしたのと聞いた。「私がお父さんに嫌な言い方をするから、○○(夫の名前)が嫌だって帰っていった」と言うと、父は「なんてことだ・・」と言いながら夫の後を追いかけて行った。 病室に残された、私と母。病気の母の前で、こんなことになるなんて、心配掛けるようなことをするなんて・・もうだめだ、一杯、一杯だと、母のベットの傍にしゃがみこむ。「あぁ、もうだめだ。私が悪い、もうだめかもしれない」とつぶやく私に、「何言ってるの、夫婦なんだから、大丈夫だよ」と母は言う。今一番、自分のことで心配をかけたくない人に励まされるなんて、何ということだろうと、自分が情けなくて笑えて来る。 「大丈夫、大丈夫」と繰り返す母。心が落ち着かなくて、雑巾で病室の窓やドアを拭き始めた。 父もなかなか戻らない。夫に会えたのだろうか。父と私の関係に、夫を巻き込み、不快にさせ、母に励まされてる。 確かに私が悪い、父にあんな言い方をする私が悪い。でもこれはずっと昔から積み重ねられてきた、私と父の関係の中で絡まってきている私の感情のもつれだ。ただ単に「邪魔だから、病室から出て欲しい」という言葉だけでは解決出来ない、何十年も積み重ねてきた、心のしこりの塊が私にあの言葉を吐かせている。 同じ姉妹でも、きっと私の妹は同じ父にあんな言い方はしないだろう。 でもそれに夫を巻き込んて不快な気持ちにさせてしまったことは本当に申し訳なく、嫌われても仕方がないと思う。でも今、私の心は一杯、一杯で余裕がなくて、ここで夫に見放されたら途方に暮れてしまう。 そんなことを思いながら、祈るように掃除を続けた。 しばらくすると、夫が病室に戻ってきて、何もなかったように「お父さんが寿司を食べに行こうと言ってくれたから、寿司を食べに行くよ」と言ってくれた。すごくうれしかった。母が夫に向かって「この子が不愉快な思いにさせてごめんなさいね、どうか二人仲良くしてね、お願いします」と頭を下げて泣きそうな顔で謝ってくれた。父も戻ってきた。 私がまいた種なのに、父と母は自分のことのように心配して夫に謝ってくれる。そして夫も何もなかったように病室に戻ってきてくれた。皆の温かさに涙が出そうになる。誰も私を責めなかった、すごくうれしかった。受け入れられていると本当に思った。 これが家族だ。 どんなことがあっても、後で、何もなかったように自分を受け入れて、許してくれる。これが家族だ、この狭い母の病室で私達4人は、確かに家族としてここにいる。 まだ、掃除をし続ける私に母が「早く、みんなでお寿司を食べに行きなさいよ」と言ってくれる。父や夫は「気が済むまで掃除すればいいよ」と言ってくれる。 夫が「お父さん、病室のスリッパのままで僕を探しに来てくれた」と教えてくれた。 家族の愛をひしひし感じながら、網戸の汚れをごしごし擦り続けた。
September 8, 2008
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今日も病院、母と車椅子で散歩。土曜日の病院は一般の外来患者がいないからとても静かだ。ロビーにも人はまばら。少し病院の外をぐるっと散歩。蒸し暑く日差しも強い。早々に戻ったけれど、木陰に吹く風は心地よかった。もう少し、涼しくなったらまた母と外に散歩に出れればと願う。 今日は入院2ヶ月目で初めてシャワーが浴びれたと母がとても喜んでいた。ずっと風呂にも入れずに、身体を拭く毎日だったから、母の気持ちはよくわかる。最近は、病院に行くたびに母にオイルマッサージをしている。それが日課になっている。 最近、夫に避けられている。喧嘩とは違う、普通に話しているけれど、何か違う。いつ病状が変わるかもしれない、いつ病院から電話がかかってくるかもしれないという毎日の中、私の精神状態はいっぱい、いっぱいだ。 夫とはリラックス出来る安らぐ関係でありたいと願う。 疲れた自分の身体や心の癒しを他人に求めるのは間違っているのかもしれない。頼りたければ、助けて欲しければ、割り切って、お金を出してプロに癒してもらうのが一番いいのかもしれない。 他人に、癒しを要求することはその人にすごく負担をかけすぎる。特に、摂食障害になるような繊細な夫にはなおさらだ。それがわかっているのに、一番身近な夫にすがりたくて寄りかかってしまう。寄りかかって、自分の好き勝手なことを言ってしまう。 結婚当初、夫が言ってくれた言葉「僕は、誰が何と言ったって君の味方だからね」を思い出しては、一人涙ぐんでしまう。 弱いな・・と思う。特に今日は生理痛で、下半身もキリキリ痛む。肩も痛い。何で他人にすがろうとしてしまうんだろう、苦しくなるだけなのに。 たぶん自分に自信が無くて、これでいいのか自信が無いから、そんな今の自分でも受け入れて欲しいのだろうな。 自分で自分を支える強さをもっと持ちたい。他人にすがるのではなく。 夫婦の意味って何だろう。
September 6, 2008
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最近、胃の調子が悪い。口臭もあるようだ、夫に口が臭いと言われる。 今年4月にピロリ菌の除菌をして以来、口臭もなくなり、胃の調子もよくなって、喜んでいたのに。 母が入院して2ヶ月。最初の一ヶ月は、よく泣いた。号泣なんて、子供の頃以来だった。声を上げれば苦しさも少しは減るかと大声で泣いたのに、苦しさは変わらなかった。 あれから2ヶ月。 不思議と苦しくて苦しくてという渦中にいる時は、体調は狂わなかったのに、今になって胃の調子が悪くなる。 今まで蓄積されてきたものがついに溜まって、痛みとなって現れたのだろうか。2ヶ月というのは、ひとつのピークなのかもしれない。 精神的にも疲れていると思う。イライラしている自分に気づく。いつも母に付き添っている父が、私が病室に入るたび、付き添い用のベッドに足を組み寝転んで、本を読んでいるのを見ると怒りがわいてくる。理不尽な怒りとわかっていても、そんな父を疎ましく思う。父や夫から浮いている自分に気づく。気持ちがすれ違ってみじめな気持ちになってくる。 私はいつ「万が一」の時が訪れても後悔しないように一生懸命やっている、精一杯やっている、と心が叫んでる。そんな自分に満足している。でも疲れている。夫からピリピリしてると言われ、避けられる。 無理はしていないはずなのに、 きっとこれは私の性格のせいだ。 誰も私を責めていないのに、何かしろと言ってはいないのに、一人で背負い込んで、一人で視野を狭くしている。 リラックス、リラックス、と自分に言い聞かせている。
September 4, 2008
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9月1日は母の誕生日だった。本当は知人のマッサージをする人に頼んで、母にオイルマッサージのプレゼントをしようと思っていた。 というのも、私が病室で足湯をして足をマッサージしてあげるといつも気持ちいい、気持ちいいと喜んでくれるからだ。 でも、その数日前に体調が不安定になって、プロの人に病室に来てもらってマッサージという雰囲気ではなくなってしまった。 そこで知人から直接マッサージの簡単な方法を教えてもらった。私が覚えて私がすれば、いつでも母にしてあげられる。 そして9月1日。この日の母は元気そうだった。鼻からの胃管も取れて、端から見るととても病人に見えない。 ベッドの端に腰掛けた34キロの母の背中、肩、腰をゆっくりマッサージをする。そして、頭。足のふくらはぎ、足の甲、足の裏、指。手の先、腕。最高の母とのコミュニケーションの時間。 私にとっても心地よく、幸せな時間。 私が足をマッサージした日は、足がぽかぽかと暖かく夜も気持ちよく眠れると言ってくれる。 母を見てると、いつも不思議に思うことがある。私といるときの母はいつも明るい。また、父に対する不満も素直に口にする。元気な頃と全く変わらない母だ。 でも、彼女は自分が癌だと知っている。というか、私もびっくりしたけれど、先生が告知してしまった、本人に向かってはっきりと。それまで、告知すべきかどうか悩んでいたのがなんだったかと思うくらいに、あっけなくはっきりとそれは伝えられた。 先生は「病名を正しく伝えないと、正しい治療は出来ません」と最初から告知すると言っていた。でも、こんなはっきりと癌というと思わなかった。 最初の病院では、私は主治医に「癌と直接言わずに、悪性リンパ腫という表現に留めて下さい」とお願いしてあった。母は自分の病気は悪性リンパ腫だとは知ってはいたが、それは癌だとはっきりわかってなかったと思う。 でも今の病院に転院した新しい主治医は、「悪性リンパ腫、これは血液の癌だからね。だから治療も簡単ではないよ。」と最初にはっきりと言った。 その時の母の暗い「あぁそうなんですか」と低くつぶやいた声とその表情は、はっきりと今も覚えている。 その夜、母は「こんな美しい子供が私の子なんて」と私の髪を撫ぜ、私の手を握り「○○ちゃん(私の名前)のこの手一本、一本を忘れないようにちゃんと見ておこう」と言いながら、私の手に口づけをした。 私は母の前で泣いてはいけない、と思っているのに、涙を抑えきれず、顔を背けて泣いた。 あれから、一ヶ月がたつ。最初に先生が癌告知をして下さったお陰で、母とは病気について何も隠さずに話が出来る。「癌」という言葉もつい口にして話をしてしまう。 母は自分の病気の程度は知らない。癌ではあるけれど、治ると信じて治療を受けている。私たちの前で、取り乱したり、嘆いたりすることもない。 そんな母を見ていると、不思議に思うことがある。 でも、告知してよかった。と今はつくづく思っている。告知することは、母と私達家族と、先生が共に歩んでいく力になる。嘘をついて、隠し事をしては共に歩めない。 本人と家族、医師が共に歩む覚悟があるなら私は告知はすべきだと思う。
September 3, 2008
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