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今日は病院に行く前に神社に寄った。今日は大晦日だ。毎年、お参りはお正月ではなく、大晦日に行く。 人が少ない神社が好きだし、年が明けて「神様、今年もよろしくお願いします」と言うより、年末に「今年一年ありがとうございました」とお参りする方が私には合っている。 母が入院して、今年は大晦日もお正月もピンと来ない。気持ちがフラットじゃない状態で神社に行くのは気が重い。どうしようか迷ったけれど、お昼ごろ行くことにした。 参道では屋台の準備が始っている。神社は多くの若い巫女、巫男?の人たちが、今夜に備えて清掃作業をしていた。 神社で伊勢のお清めのお塩を頂く。 お参りをしているうちに、もやもやっとした気持ちが落ち着いてきた。「今年一年ありがとうございました。来年は・・」と気持ちを込めて祈った。 参拝を終えて、近くのバス停から病院に向かう。母の病室に着くと病室の小掃除。バケツにお湯を汲んで神社でいただいたお清めの塩を中に溶かす、母の病室のお清めだ。 個室の窓、テーブル、ベッドの手すり、洗面所、ポータブルトイレ、入り口のドアを清めの塩を溶かし込んだお湯で丁寧に拭いた。それからベッドの隅に盛塩を二つ置いた。 祈りってなんだろうな、と思う。私にとって、祈りとは心がシンと落ち着く場所だ。だから神社は、願いの場所じゃない。願いを持つと心は重くなる、苦しいほどに重くなる。 何も願わぬことで、私の心は開放される、癒されていく。神社は、私にとっては頭を空っぽにさせてくれる場所だ。だから願うことはあまりしない、 感謝と報告を自分の心の中で、何かに向かって語りかける。 「もしかしたら年を越せないかもしれません」と言われたのが嘘のように、母は今日も元気だった。食事が出来なくて、年越しそばが食べられないのを残念がっていた。 でも私は、母が生きていてくれるだけでうれしい、こうして一緒に話し、笑い合えることは、何て幸せなことだろう。 ありがたく、幸せな一年だった。今年もあと3時間あまり
December 31, 2008
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年の瀬、母は副作用もなく元気です。 この時期の病院はとても静かだ。人が行き来するのは、一階のロビーや売店、お見舞い客の人たち。 普段は多くの人たちが溢れる待合や廊下は、清掃の人たちが黙々と掃除をしている。 ジュースを買いに行ったついでに、外来の階をぐるっと歩いた。灯りが漏れてる部屋はあるけれど、薄暗い長い廊下では誰にも会わない。 誰もいない薄暗い待合で一人ジュースを飲んだ。 今年は年末年始に帰宅する患者数が例年に比べると少ないそうだ。それでも病室は、きれいにシーツ交換された空のベッドが目立つ。 すぐ中の様子がわかるようにと、少し開けられた個室。通りすがりにチラッと見ると、酸素マスクをした初老の男性が苦しそうに弱弱しくうめいてた。 帰りのバスの中、白い杖をついた人がバスに乗り込む。空いている席がないか確かめるようにゆっくりと、私が座っている席の傍にやってくる。 「どうぞここ座ってください」すぐ、彼に席を譲れた自分がうれしく、心が温かくなる。 偶然その人と、降りるバス停が同じになった。杖で道を辿りながら歩き始める彼。しばらく様子を見ていたけれど、「気をつけて帰ってください」と心の中でつぶやいて先に歩き始めた。 歩きながら「家はどこですか、家までお送りしましょうか」と言えばよかったか、それはお節介か、と思いが巡る。足を止めて、彼が来るかどうか待った、来ない・・ どうしよう、一旦家の方に歩き始めたけれど、やっぱりと振り向いて、走って彼を探しに戻った。 どこにも見当たらない、杖で歩く彼の足がそれほど速いとは思えないのに・・試されたように冷たい雨が降ってきた。 今年がもうすぐ終わろうとしている。誰もが幸せでありますように、と想うのに、実際自分が出来ることは少ない。 今までの私は、いつも自分の想いを人に伝えることに一生懸命だった。 言い換えれば、自分の思い通りの人生にしようとするのに一生懸命だった。 だから、たくさんの人たちの気持ちにすごく鈍感だった。見えてないことが多すぎた。伝えることに一生懸命で、相手がどう想ってくれているかまで考えなかった。 でも自分の思い通りにしようとする人生なんて、実はとても窮屈で苦しく寂しい人生だ。 来年は、出来れば今から、相手に与えることが出来る人生でありたいと思う。あの個室でうめいていた男性に近寄り、手を握ってあげれるように、白い杖をついた彼に「一緒に歩きましょうか」と言えれるように、 喉が渇いて水を飲もうとしているときに、同じように喉が渇いている人が目の前にいたならば、先ずその人に「水を飲みませんか」と自分のコップを差し出せるような人に、少しでも近づけるような、そんな人になりたいと、思う。
December 30, 2008
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今の私にとって「祈り」とは静かに自分の心を見つめる場所だ。 何か一つに執着して想うことなくただ、自分の心の中に沈んで、自分を見つめる。 つい最近、気付いた。 お母さん あなたほど、この世で私を愛してくれている人はいない。 あなたほど、私を無条件に受け入れ続けてくれた人はいない。 あなたほど、私を守ろうとしてくれた人はいない。 全部、ずっと当たり前だと想ってた。時には、うっとうしく感じたことすらある。 常にそばにあり、絶え間なくあるものに人は気付かない。その貴重さに、その奇跡のような存在に気付かない。 それが失われるかもしれないと想ったとき、 ようやくそれに気付くのだ。 日常で、今生きている奇跡を惜しむように過ごす時間は少ない。 この世は、きっとそんな貴重で、奇跡のような存在に囲まれている。 生きとし生けるものが幸せでありますように
December 23, 2008
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寒いほど、ぬくぬく暖かい布団の中は天国になる。朝はその天国からなかなか抜け出せない。 今日はいい夢を見た。 いい夢は、目が覚めても、夢の自分がまだ心にも身体にも残ってる。 夢の世界はただ別に存在するもう一つの別の世界。パラレルワールド。信じる?私は信じる、だって、どちらが本当でどちらが嘘って、どう区別する? どちらにいるときの私も、本当の私だ。夢の世界でも、私はいつだって本気で生きている。 今日見た夢。一番好きだったところは私の左手に釘が突き刺さる、私は釘が深く刺さらないよう、慎重に手を動かすのに釘は深く深く刺さって、すべて左の手の平に埋まってしまう。 手のひらに全て埋まった太い釘。私は左手の釘をじっと見つめた。私はそばにいる人にその手のひらを見せて「抜いて」と言う。 その人はうなずいて、外科の道具を取り出して、私の手のひらの釘を抜こうとしてくれる。 私はそれを見て、とてもとても安心する。あぁ、彼はきっと釘を抜いてくれる。 他のところは、もうあまり覚えていない。 今日一日、左の手のひらを見る度に心が暖かくなった。 結局、釘が抜けたかは夢ではわからなかった。でも、釘を抜いてくれようとする人がいたことにそれが、何より私の心を暖める。
December 20, 2008
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主治医から十中八九、肝臓の影はリンパ腫の転移だと言われ、CTの写真を見せられ言葉につまった。 十日前の写真と昨日撮った写真。何も説明されなくてもわかる。明らかに影が大きくなっている、しかもいくつも点々と。 主治医もこのままのスピードで広がれば、年内に肝臓は癌で覆いつくされてしまうでしょう・・と言った。 言葉で「肝臓に転移しているかもしれません」と言われても、元気そうに見える母を見ているとピンと来なかった。でも、実際こういう写真を見せられると強烈だ、生々しくて事実を受け入れざる得ない。信じられなくて頭がボーとしてしまう。 生検の正確な結果を待たずに、19日から抗がん剤治療を始めることになった。新しい抗がん剤は「R-IMVP16/CBDCA」 悪性リンパ腫に最も効果が高いと言われる「R-THP-COP」の治療後の肝臓転移。この状態で新しい抗がん剤がどれほど効果があるのか。 主治医はこの抗がん剤が効かない場合は、年を越せなくなる可能性もあると言われた。 つい先日はその時期が「来年春」と言っていたのに、今日はそれが「年末」になってしまった。先生言うこと違うよ・・・ もう母には余命の告知はしない。主治医も余命が3週間未満の場合はしない方がいいと言った。余命告知の目的は、よりよい生を生きるためだ。その期間があまりに短いと、ショックの中で立ち直れないまま死に至ってしまう。それでは告知の意味がない。 それにしても、4回目の抗がん剤治療が無事に済み、手すりにつかまりながらも歩けるようになり、春には退院して、母と一緒に、食事に行ったり、買い物に行ったり、旅行をしようと思っていたのに・・・それが何より何より楽しみだったのに。 食べること、買い物をすること、旅行すること健康な人なら明日にでも出来ることなのに私達にとっては、それは手に届かないくらい遠い願いだ。奇跡のような願いなのだ。 神様もう少しだけ・・ 主治医は恐らく母は、このまま食べるようになることなく退院も出来ないかもしれない、と言った。 癌になっても、死の直前まで食べれる人もいるのにね癌になっても、旅行できる人もいるのにね、癌になっても歩ける人もいるのにね、どうして・・ あぁ、だめだ、なぜ母が、なぜ母が、の「なぜ」のスパイラル。何かの罰だろうか、私の想いが悪かったのだろうか叔母の新興宗教を否定したからだろうか、負のスパイラル。 違う、違う、 母は今、生きている。一人で歩けなくても、食べることが出来なくても、 母は今、生きている。ただそれだけで、ただそれだけで、
December 19, 2008
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「ありのままのその人を受け入れることたとえどんな姿でも、今ここにあなたが生きていることが大事なのだと最期のその時まで、その人を慈しむこと・・」ある本に書かれていたホスピスについてだ。 ホスピスという言葉は、今までよく耳にしたけれど、具体的に「ホスピスとは何か」については知らなかった。自分なりのイメージは、「もう他に治療方法がない人が、心の癒しを求めて行くところ。死までの期間をよりよく生きるところ」 ホスピスの理念は、その人のありのままを受け入れて、あなたが生きていることが大切なのだと伝えること。ふと目の前に、マザーテレサの姿が浮かぶ。 ある記者がマザーに「なぜ、もう死ぬ人を助けるのですか。」と尋ねたとき、マザーはこう答えた「その人の最期の時、自分は愛されていた、この世に生まれてよかったと感じてもらいたいからです。」 この言葉に私はすごく感動した。人は死ぬ瞬間の想いを抱いて次の世界へ旅立つという。例え、それまで憎しみの人生や、悲しみの人生だったとしても、死ぬ瞬間愛に包まれた想いで逝ける人は、きっと魂は愛の世界に旅立てる。と私は信じている。 だから、ホスピスの理念を改めて知り、その必要・重要性を益々感じた。 本来このホスピスの理念は、死期が近い人だけに当てはまる理念ではない。 でも今の医療では、死期に近い人にこの理念はとても必要だ。一般の医師や看護婦に身体の手当てはお願い出来ても、心の癒しまではとうてい要求できない。 実際、病院で医師や看護婦を見ていると、とてもそんなことを望めない。これは医師や看護婦個人の問題として思うのではなく、今の医療体制ではとてもそう望めないと思うのだ。 母が癌と知って、心の葛藤がいろいろある。苦しくて辛くて、そういうとき、一番聞いてもらいたいのは、聞きたいと思う相手は、本当は医師なのだ。 でもいつも話は治療方法が中心でとても心の部分まで踏み込めない。たぶん、医師もそれは意図的に避けている。 母の転院前の病院では、癌患者・患者の家族を対象に臨床心理士による無料カウンセリングが設けられていた。 大変有難い制度だと、私は一度受けたことがある。相手は医師ではない、治療的なことは何もわからない。でも心がすごく楽になった。そう、ただ聞いてもらいたかっただけなのだ、一緒に「そうだよね、苦しいよね」と言ってもらいたかっただけなのだ。一緒に泣いて欲しかっただけなのだ。泣かせてくれる場所が欲しかっただけなのだ。 それだけで、救われる。人の心は薬だけで癒されるのではない。 人はいつか死ぬ。だから治療過程で、「もう手の施しようがない」という時は必ず訪れる。 そのとき、どう相手にそう伝えるのか。そしてその後、どう相手を癒していけるのか。 「もう手の施しようがありません」と言われ、あっさりと「わかりました、では後は結構です」と言える人など、どれくらいいるのだろう。 「治療法がないので、退院して下さい。」では心は癒されない。安らかに逝けない。人は薬だけで、癒されるわけではないのだ。 昨年患者として知り合った、F医師を思い出す。彼は、終末医療に力を入れている。彼は「治す医療より、看取る医療をしたい」と言った。「メスで患者の心は癒せない」と外科医の彼はメスを捨て、勤務医から開業医になり、現在は終末医療に力を入れている。最初はそれがよくわからなかった。 そんな諦めの医療なんて・・と好きな医師だけど、彼が理解出来なかった。 でも今は彼の想いが少しはわかるようになってきた。彼は、患者や家族と一緒に泣ける医師なのだ。患者の心に寄り添うことで、患者の身体は治せなくても心は癒している。最期に愛の世界へ旅立てる。 マザーが生涯をかけて行った、愛の治療を彼はしている。 ホスピスの理念が医療に幅広くゆき渡っていく、医療体制が整うことを切に願う。 きっと、医療の原点は、マザーの行為にあると思うから。
December 15, 2008
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明日、月曜日に肝臓の生検をする。主治医の話では、CTを見る限り肝臓の影はリンパ腫である可能性が高いという。 おそらく手術も延期。 2週間前まではCTでは見えなかった影なので、急に大きくなった可能性が高い。ということは現在の抗がん剤はもう使えない。別の抗がん剤を使用することになる。 でも現在の抗がん剤は、悪性リンパ腫には一番よく効くといわれているR-THP-COP。これが効かないのに、他の抗がん剤にしてもどうなのか・・・ 主治医は、別の抗がん剤にしても効かない場合は、緩和的治療に切り替えた方がいいのではと言った。 その場合の余命は春ぐらいかもと・・ 今回は副作用もなく、母も手すりにつかまりながらも歩けるようになり、治療はこのまま順調に進み、手術をして食事も出来るようになると思っていたのに。 手術も出来ず、このまま抗がん剤も効かなければ、母はもう食事をすることなく最期を迎えることになるかもしれない。 母の枕元にあるメモ帳には、テレビ番組で見た料理のレシピがいくつか綴られている。きっと良くなると信じている母。 「そんなことって・・」医師の説明に言葉がつまる。 旅行もしようねって、言ってるのに。 一緒に食事も行こうねって、言ってるのに。 母は元気になっているように見えるのに、 だって、一人で手すりにつかまって歩けるようになってるよ。 でも抗がん剤は効いてないの? 肝臓に転移したの? 今、生きていてくれるだけで有難い、 そうだけど、そうだけど、 今日の冬の太陽の眩しさと暖かさはなぜか、私の心を苛める。 あぁ、苦しい、
December 14, 2008
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抗がん剤治療から2週間。前回が嘘のように副作用もなく、母は元気です。 今日は、毎週水曜日のロビーコンサートにも行き(今日はハンドベル)、人気の少ない2階(消化器検査)の長い廊下で手すりにつかまって歩く練習と車椅子を自分で動かす練習(手に力をつけるため)もした。 昨日は腹部エコーの検査があったそうだ。母に「先生何か言ってた?」と聞くと「何も」と言う。「何も言わなかったの」と言うと「何も言わないのはよかったということじゃないの」と言うので、それはないだろうと心で思う。 しばらくすると担当看護婦さんから「先生から娘さんにお話があるそうです」と声をかけられた。 別室で待っていると、しばらくして主治医がノックして入ってきた。 予想通り母の病状についての説明だった。 β-DG菌の値が500ぐらいになっているため、プレドニンの投与を中止したことを聞いたあと、「あと問題があってですね、」と言葉は続き「昨日の腹部エコーの結果、肝臓に影が見られるそうです」と告げられた。 「肝臓に影ということは、肝臓に転移したことですか」と聞くと、その可能性が高いと言う。ただ、他の原因も考えられるので(β-DG菌の可能性)今は断定出来ない。そのため、明日は肝臓の造影CTを行い、その結果によっては生検を行うとのことだった。 肝臓転移であった場合、今回の抗がん剤は効いていないことになる。抗がん剤の種類を変える必要性が出てくる。また、12月に予定していた手術も延期になる可能性もある。 明日の造影検査の説明文書に署名をして部屋を出た。 肝臓転移の可能性・・転移のことなんて全く思ってもみなかった。実際の母は日々元気になっていくように見える。 まだ確定したわけではないのだから、このことはまだ妹にも叔父にも言わないでおこうと思う。 私、泣かなくなったなと思う。まだ事実じゃないから実感が沸かないのか。それとも実際の母が元気そうだからか・・・ 7月の入院当初は、小腸の癌かもと言われ、その場合はもう手の施しようがない、会わせたい身内がいれば早く連絡するようにと言われた。 そう言われたときは、ああそうなのか、まるでドラマのワンシーンのようだと、いやに冷静に医師の話を聞いていたのに、母の病室に入ろうと、部屋の入り口の鏡で自分の顔を見つめたとたん、顔がみるみるゆがんで、涙が溢れ出してきた。 そのまま、病室に入ることが出来ず、病院の廊下の隅にしゃがみこんで一人泣き続けた。 7月はよく泣いた。病室では泣けないから、家で号泣した。 そういえば、10月も泣いたな、主治医から今夜かもしれない、挿管をどうしますか、と言われたときも泣いた。 廊下で主治医の袖をつかんで泣いた。看護婦に「ここでは他の患者さんの迷惑になります」と言われて我に返った。 肝臓転移、まだ確定したわけではない。
December 10, 2008
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以前ブログにも書いたけど、母は状態が悪くなってから数ヶ月同じ病院に通い続けた、しかしいつも「異常なし」「しばらく様子を見ましょう」と言われて帰ってきた。 でも端から見れば、母の状態は明らかに異常ありだった。それを見かねた叔父が、ほぼ強制的に別の病院に転院させ、検査の結果、悪性リンパ腫だとわかった。しかもこの病気は進行が早く、早期治療が望ましい病気だと言う。何でもっと早く・・ 叔父は、病院や医師に対して訴えるとまで言った。 でも母はと言えば、その医師に何の不信も抱いていなかった。叔父が強制的に転院させ精密検査を受けさせなければ、あのままあの病院に通い続けていたと思う。「何でもっと早く別の病院に行かなかったんだろう」とその医師ではなく自分を責めていた。 私が受け入れられなかったのは、母が「悪性リンパ腫」という血液のガンだと言う事実で、それが受け入れられないために「骨粗鬆症」だと言ってガンを発見してくれなかったその医師を恨んだのだ。 そういう恨む気持ちがきっと「医療訴訟」に結びついていくのだろう。 医療は命が関わってくるから想いの根は深い。どこかでその原因を探さなくては、悲しみを乗り越えられないほどに。 今でも実感するのは、主治医のことをよく知らない身内ほど、何かあると主治医のことを悪く言う。 私はそれがすごく嫌だ。こういう人たちが医療訴訟を起こしているのだとしたら悲劇だと思う。 だから、私は今は母の主治医とはきちんと関わり続けたいと思ってる。 以前の病院の時のように何も知らないのに、結果だけを知ってその医師を恨むようなことはしたくない。 知らない人が結果だけを見て、その人を判断することは間違っている。 遠方に住む、叔父・叔母・妹の医師に対する態度を見て実際そう思うのだ。主治医のことをほとんど知らないのに、直接話したこともないのに、批評する。 主治医に遠い人ほど、不信感を抱く、結果しか見ない。 私は主治医に近い人でありたい。
December 8, 2008
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最近、医師のブログをよく読んでいる。もっと医療について知りたいと思うから。 ある医師のブログで「自分の患者が自分のことを実名であげ、事実とは違うことを患者のブログで書かれ、このままでは自分のプライバシーが守られないと、今後その患者の治療を拒否することにした」という記事を読んだ。 その記事に対しては様々なコメントがあった。「医師が患者を拒否するなんて」「どうか先生、その人を見捨てないで下さい」など、患者側を庇うコメントが多かったと思う。 でも医師は、自分の意思を貫いた。「もう私はその人は診ない」 その患者のブログというのも読んでみた。医師に指摘された記事は削除されていたけれど、医師に診察拒否をされたショックと、表立って医師に対する怒りは書かれてはいないが、診察拒否というのはいかがなものかという表現だった。 その二つの記事を読んでどう思うか。 ずるいかもしれないけれど、正直よくわからない。強いて言えば、私には医師と患者というより、人間関係の問題のように感じてしまうから。第三者である私にはよくわからない。 その医師は「今の医師は患者を恐れています」と何度も書いていた。 これはとてもよくわかる。 というのは、私も母の主治医から治療について説明がされる度、彼から「医療訴訟になるから~は出来ない」という言葉をよく聞くからだ。 私は主治医が特別だとは思わない、別の医師からも「今はすぐ訴訟になってしまうから」という言葉を聞いている。 でも、仕方ないと思いつつ、寂しいと感じてた。 だからあるとき、聞いてみた「先生は、どうしていつも医療訴訟の話をするのですか」と。主治医は「あなたのお母さんの場合は、特殊なのでそうなる可能性が高いのです」と言った。確かに、母は主治医がこの5年間で二人だけという、血小板に対するアレルギーで呼吸苦になったり、抗がん剤投与後の肺炎も、こんな重度の肺炎になった人は初めてだと言われた。 そして「現に僕の同僚の産婦人科医と小児科医は、裁判を抱えています」と続けた。 良かれと思ってすることが、良い結果を生まないと、医師のせいになってしまう。 夫は私が医師を信頼していないから、彼は私を恐れているのだと言う。 私は主治医を信頼していないのだろうか。確かに私は医師にいろいろ質問する。素人の私が専門医である彼に、これは大丈夫かと質問している。なんて滑稽な、失礼なことだろう。 私の質問一つ、一つが彼を追い詰めているのかもしれない。
December 8, 2008
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病院に行ったとき、夕食で時々利用するお店がある。 病院から歩いて数分。看板には、地元では人気のある蕎麦屋、「●科」の●●支店とある。病院の周辺で手作り看板をいくつか見かける。初めて行ったのは、10月。 母の高熱が10日ほど下がらなくて医師から「今週末がヤマかもしれません」と言われた日の夜だった。 そこは、老夫婦二人(ご主人は80代、奥さんは70代)で営む、小さなテーブル席が4つほどの、小さなお店。(そのうち二つのテーブルは物置のようになっていた) 彼らの一人息子(40代)は、2年前に母と同じ病院で亡くなっている。脳腫瘍だったそうだ。 その時、お客は私達だけで、私も母の話をしてしんみり過ごした。 それ以来、時々行くようになった。老夫婦の親しみやすい人柄と、メニューの安さに惹かれて。うどんが中心のメニューは、ほとんど400円ほど。 ただ、味がこれがあの「●科」の支店の味なのか?と思う味。ご主人は自分は、「●科」創始者の一番弟子だと言う。でも、以前食べた味噌煮込みは味がしなかった。あんかけうどんは、あんが固まってうどんと馴染んでなかった。全て微妙な味がする。 そしていつも私が行く時、お客はいない。まるで私専用のお店のようだ。 今日も行ってきた。午後5時過ぎ、お店に入ると狭いお店にやはり先客はいない。「いらっしゃい」テーブルに座っていた奥さんがうれしそうに、急いで立ち上がる。 何にしよう、メニューを見ながら考える。ここでは、無難なメニューを選ばないと・・・特に避けたいのは、肉、魚系、いつも微妙な味がする。 なのに、なのに、奥さんの「今日はうな丼あるよ」の一言で、「じゃ、それお願いします」とつい言ってしまった。お腹が空いていたし、うなぎは好きなので、ついうっかりと。 うなぎを焼く気配がしない。ドキドキしながら待っていると、すぐに出てきた。見てすぐわかるその姿、ここで焼いてない冷たいうなぎ。 あぁ、やはり・・これはどこで焼いたのか、いつのうなぎか。ご飯をすくうとタレでご飯が浸りきって「つゆだく」状態。あぁ・・ 一口、うなぎを食べる。泥臭い・・すごく。箸でめくって皮を見ると生々しい色だ。 どうしよう、食べれない・・・ ご主人が帰ってきて、顔見知りの私のテーブルにやってくる。「どう美味しい?」「はい、美味しいです」嘘は言わない信条の私だけど、不味いとは言えない。「どこのうなぎですか」と聞くと(中国産と言われても驚かない)「これはね、天然うなぎ。宮内庁ご用足しの場所で密漁したの。」とひそひそと言う。でも不味い、というか私の口には合わない。 私の思惑をよそに、ご主人の話はなお続く。「このうなぎのタレは、吉●(全国的有名店)の板長から教えてもらった秘伝のタレ、僕は彼と友達なの」「ここのぞうすいは、昭和天皇も食べた雑炊」「僕、昔は●●(私は知らないが政治家らしい)の秘書もしていた」「●●に別邸を持っている」とかとか・・・ 私は、合わせるように「へ~そうなんですか」と答えるけれど、ご主人の話の内容より、頭の中はこのうなぎをどうしようかでいっぱい。 このご夫婦の前で、ご自慢のうなぎを残して帰ることは出来ない。 こっそり、ティッシュに包んで捨てようかと思うが、目の前にご主人がいるのでそれも出来そうにない。 無理して食べるかどうしよう、と迷いつつこっそり夫にメールした。「うなぎが食べれないどうしよう」 返信「健康のために食べずに帰りましょう」これで迷いがふっきれた、夫よありがとう。 携帯を握り締め立ち上がると「ごめんなさい~、今自宅からすぐ帰るようにと連絡があったんです。まだほとんど食べてないけど、すぐ帰らないと~」と言い、今日は嘘だらけの日だと、上着と携帯と手袋を身に着ける。 それでも奥さんとご主人は「そうですか、また来てくださいね」と丁寧に見送ってくれた。私も「はい、またゆっくり食事に来ます」(これは本当の気持ち)と言ってお店を後にした。 外は冷え込んですごく寒い。口の中はまだ泥臭い、さて、どうしよう。うなぎ2切れと、ご飯を半分ぐらいしか食べてないので、どこかで食べなおそうかと、周辺をウロウロしたけど結局、病院の売店でクリームパンとオロナミンCを買って、病院の待合室で座って食べた。 ほっと一息。私は人気のない病院がとても好き、なぜかリラックス出来る。 家に帰ると、夫から「病院の近くで、うなぎ500円という看板を見たよ。こんな500円のうなぎ誰が頼むんだと思ったけど、君が注文するとは勇気あるなって、笑えたよ」と言われた。 それでも、今度行くときは何を頼もうかと思っている私。ここまで来ると、どうしてもあの店で美味しいと思う味に出会いたい。 あのご主人は夢想家なのか、それともとんでもないすごい人なのか。それでも、いつも客がいないあの店とご夫婦が、私はなぜか好きなのだ。 また急に、帰らなくてはいけないことになってもね。
December 6, 2008
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昨日からネットの無料占いにはまっている。きっかけは、ある占い師?の人と知り合いになったから。占いって、今まであまり興味がなかった。なぜ他人に自分のことがわかるのかと思えてしまう。 私が好んで試しているのは、生年月日の占い。これがやってみると、すごく面白い。中には???と思うのもあるけれど、「これって、私そのものだ!」と思う内容もあってびっくりする。 面白くて、夫や妹、両親などの生年月日を入れて試してる。 これなんか、「これは私の自己紹介か?」と思うほど私そのものだった、特に太字のところ。恐ろしい・・-------------------------------------------------あふれ出るような深い愛情の持ち主であるあなたにとって、恋愛は必要不可欠であり、心のよりどころ。この人と決めた相手には、とことん尽くし、それを相手が喜んでくれることで、何より幸せを感じます。また、相手から、何かを頼まれたり、求められることで、深い満足感を得ます。愛情深い分、独占欲の強さも相当で、かなりヤキモチ焼き。甘えん坊で、好きになるといつも一緒にいたがり、相手に自由を与えない面もあります。たぶんに感情的な面もあり、恋人の気持ちや態度にも敏感に反応しがち。相手が何気なくとった言動を大げさに騒いだり、「嫌いになったんでしょ」なんて泣いたり、騒いだりする面も。やりすぎると、相手がうんざりしていそう。ほどほどに。------------------------------------------- 怖い、怖すぎる、あと別のコメントでは「お節介と受け取られる」とあった。う~ん、なるほど、その通り。これが自分では親切、正しいと思い込んで行動してるから、タチが悪い。こういう時って、周りが全然見えてないから、誰かがブレーキをかけてくれないと、止まらない。 でも、こういう性格って、生年月日でわかるというのが、すごく不思議。 だって、生まれつきそういう性格で生まれてきているわけで、生まれたあとの環境じゃないってことになる。あぁ、生まれたときから決まってるとは・・ ということは、他人との相性というのも、生まれた時から決まっているということか。努力してよくなる関係というのは、やはり無理があるのか。 でもある意味諦めもつく。この性格は誰のせいでもない、生まれつきのものだって。そう思うとジタバタする気が失せて、しょうがない、認めて付き合うしかないと気も楽になる。 いまさら、温和でのんびりした性格に憧れても仕方がない。 でも生年月日でわかる人の性格。すごいな、恐ろしいな、でも、人智を超えた力を感じて面白い。
December 3, 2008
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母の病室が「準クリーンルーム」になっていた。ちょっとびっくり、病室も部屋の中も変わってないので気付かなかった。看護婦さんに言われて、病室のドアの外を見ると「準クリーンルーム」の札が貼ってあった。 理由は、月曜日から白血球の数が減ったから。なんと300ぐらいだったそうだ、予想通り抗がん剤副作用。今日は1000ぐらい、このまま徐々に上がっていけば問題ないはず。 前回は、このあたりで高熱を出し、感染症で重度の肺炎を起こしてしまった。 白血球が少ないといっても、母は吐き気や痛みなどの自覚症状は何もないので元気そのもの。 うれしい限りでほっとしたいところだけど、まだまだと気持ちは引き締まる。 月曜から、病室から出ることは禁止になった。今日は、母が毎週楽しみにしているロビーコンサートだけど、こんな状態ではもちろん行けない。 でも看護婦さんから主治医が「今日、行きたいと言うだろうな、どうしような~」と悩んでたと聞いて、うれしかった。看護婦さんも「だめです」という言い方ではなくて、ちゃんと母の気持ちになって話してくれる。 「病人だから、白血球が少ないから行けないのが当たり前、行けるはずないだろう」という態度じゃないことが、すごくすごくうれしい。 午後6時過ぎ、病院から出る。空に浮かぶ三日月。 駐車場から病院をしばらくじっと仰ぎ見る。 私は、夜の灯りが好きだ。暗闇に灯る明かりを見ると、心が温かくなってくる。あの灯りは人の営みそのものだから。 大きな病院の建物にともるたくさんの小さな灯り。その一つ一つに、患者、医師、看護婦、お見舞いの人たちの姿が目に浮かぶ。 この病院に通うようになって、もう5ヶ月になる。
December 3, 2008
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今日、夫に昨日想ったことをきちんと伝えて謝った。自分の不安を夫に解消してもらおうとしたこと。 夫は、「君のせいじゃない、やはり何もしてないのは事実だから、何か始めなくてはと思ってる。稼ぐにはどこかで雇ってもらうのが一番早い」と言った。 ネットでハローワークの求人を見て、気に入ったところに早速電話で問い合わせていた。 夫が仕事の内容で気に入ったのは他県、今の自宅から通えるかはわからない。 夫は通えなかったら、ここを売って職場の近くに引っ越せばいいと言う。 問合せ先は、「忙しいですよ、それでもやる気があるなら面接に来てください」と言ったそうだ。 どうするのかな・・・ どうなっても、もう自分の不安を人に押し付けることだけはしたくない、 と思っている。 不安って、いつも未来に向いている。不安が大きい時は、今を大切にしていない時だ。 今を大切にすれば、きっと不安は小さくなる、なくなりはしないと思うけど、ずっと小さくなる、 まだ来ぬ未来の不安を想うより 今を大切にしていきたい。 不安がぐっと押し寄せるときこそ 今をきちんと見つめたい。 改めて想う自分の器の小ささよ。
December 1, 2008
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