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最近、癌の本を読んでいる。 そこで参考になった本を2冊紹介させていただきます。 癌になったとき、ただ医者に全て任せるのではなく自分でどう付き合うか、自分で治療法・生き方を選択していきたいという人にお勧めしたいと思います。 末期ガンは手をつくしてはいけない金重 哲三 「がん専門医よ、真実を語れ」近藤誠 癌は怖いと、癌にならない方法ばかり気にしてその時は逃げてしまう。 実際、直面すると、今度は奇跡を信じるようになって、やっぱり逃げてしまう。 逃げないことで見えてくるものがある。
August 29, 2008
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今日、母の鼻のチューブが取れた。とりあえず内臓の出血は収まったという事だろう。 夕方、主治医の先生にお会いできたので、母の病状について聞いた。CT検査の結果、小腸の腫瘍は抗がん剤が効いているようで小さくなっていること。ただ、輸血しているにも関わらず、血小板の値が1万と非常に低いので、それが気になることを伝えられた。 後、母の場合は完治は非常に難しいとのことだった。完治とは5年生存率を言うそうだ。 私には、主治医にどうしても聞いておきたい質問があった。「今の治療は回復するための治療ですか」主治医はそうですと答えてくれた。 話はまた延命治療(心臓マッサージ、人工呼吸器)の話になった。「これはどうしても確認しておきたいことなので・・」と主治医は言う。私は逃げ出したい気持ちになる。「延命しても、それで回復することはないのですよね」とまた以前もした質問を繰りかえす。主治医はうなずいた。 逃げたい、逃げたい、口ごもりながら「妹はその時にならないとわからないと言っています。私の叔父や叔母は延命を望んでいるようです・・」と私は他人の想いを口にする。「あなたはどうですか」彼は私を逃がさない。真っ直ぐ私の気持ちを聞いてくる。「私は・・・」病院の長い廊下の先をしばらく眺めた。「私は・・・しなくていいです」「じゃぁ、しないと言うことでいいんですね」主治医はそう言った。 主治医と別れてトイレに入る。トイレで便器に座っていたら、急に怖くなってきた。あれでよかったんだろうか、やらなくていいということは死を意味する。それでいいんだろうか、という思いが込み上げて、苦しくて吐き気がした。「嫌だ、私に聞かないで欲しい。逃げ出したいこんな質問から。母に聞いてください、そして母の希望通りにして上げてください。」 そう言おうと思い、トイレから出て主治医を追った。彼の姿はもうどこにも見当たらない、階段を下りて探そうとして足が止まった。脱力・・心が定まらなくてぼんやりと廊下を歩いた。 自分の答えが間違っているとは思っていないはずなのに、それが現実になるのが怖い、まだ受け止めきれない。母を見捨てることになるのではないかとそれが怖い。母の命の分かれ目を私が決める責任を負いきれない。 今でも朝目が覚めると、母が元気で実家で暮らしているような気がする。ほんのわずかな瞬間でも本気で思う。 でも、すぐ訪れる現実に打ちのめされる。その繰り返しの毎日だ。 現実を受け入れきれない毎朝。 死を避けてはいけない、そうわかっているのに、いざ質問されると、直面すると逃げ出してしまう。そんなことない、母は元気になると生きることに執着してしまう。 それが苦しみを生んでいるとわかっていても・・ 本当は母とも死についてじっくり話し合ってみたい。私の気持ちとしては、自分の症状について知らされずに最期を迎えるのではなく、ましてや家族が決めるのでもなく、母自身に自分の最期のあり方(生き方)を決めてもらいたい。 でも、はっきりとは聞けない。私は逃げる。 妹に励まされ、夫に支えられて私はいる。私が悩んでいるとき、夫は言った。「なんで僕を見ないんだ、こんなにも君を想っている僕がいるじゃないか」涙が出る、すごく夫に甘えてると思う。大切なものを見失っていると思う。 一人深く悩むということは、周りが見えず、自分のことしか考えていないからかもしれない。
August 27, 2008
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母が多量の吐血と下血をしてから、主治医に延命治療について考えて欲しいと言われた。 「心臓マッサージを行うのか、人工呼吸器をつけるのか」私は知らなかったが心臓マッサージというのは、肋骨を折ってするのだという、もちろんものすごい力が入るので内出血もあると言う。実際、病室で心臓マッサージを目撃したことのある夫は、ベッドが上下に揺さぶられるほどの力だったと言う。 主治医は「よくテレビで心臓マッサージのシーンがありますが、現実はあんなものではありません。」と言った。また僕は可哀想なのでそういうことはあまりしたくない。これは救命ではなく、延命になる。自然に逝こうとしている末期がん患者に心臓マッサージや人工呼吸器をつけるのはどうかと思う。また、人工呼吸器はいったん取り付けると取り外せなくなるとも伝えられた。 父は自分の時は常々、延命治療はしないようにと言っている。そのためか、医師の延命治療についての質問に「延命治療は結構です」とすぐ答えていた。 「娘さんはどうですか」と尋ねられて、私は即答できなかった。親の死に目には会いたい。最期のときはそばにいてあげたいという強い想いがあるからだ。 でも、私も延命治療には疑問がある。どうしよう、どうしよう、決めれなかった。 それよりも、こんな大切な生死に関することを当の本人の母ではなく、家族が決めなくてはいけないとはなんと辛いことだろう。それは母に対して、とても失礼でおこがましい行為のように感じる。 主治医は「本人に聞くのはショックが強いだろうから聞かないほうがいい」と言ったけれど、私は聞いてしまった。 母と私の信頼関係を信じて、聞けるなら聞こうと。そしていろいろな話をしながら、母に聞いた「もし、自分がもうだめかもしれないとき、お母さんは心臓マッサージや人工呼吸器をつけて生きたいと思う」というように。 母は「意識のない状態では生きていたくない、そのときは安らかに逝きたい」と言った。 もっと詳しく聞きたかったけど、しつこく聞くと母が不審がるのであまり詳しくは聞けなかった。これが私の精一杯だった。 後で、そのことを母の妹弟に話したとき弟(私の叔父さん)から、「そんなことを直接本人に聞くのは非常識だ。それにそんなことを聞かれて正直に話すわけがない。身内ならどんな状態になっても生きていて欲しいと思うものだ」と言われて、かなり落ち込んだ。 母は私に本当の気持ちを伝えていないのだろうか。たとえ話で聞いたから、真剣に言った答えではなかったのだろうか。私は間違っていたのだろうか。その夜は、もし母に何かあったら私のせいだと思い、なかなか眠れなった。とても苦しくて吐き気がした。 また叔父は「医者はどうせ助からない患者だから、延命をしたくないんだ」とも言った。 私は、主治医にはとても感謝している。正直に伝えてくれたのだと思う。決して、見放したいい加減な言葉ではなかったと思う。誠実な言葉だったと思っている。 延命治療について、今いろいろと考えている。ネットで情報も探っている。 生きたいと強く願っている母に最善の治療は受けてもらいたいと思う。延命の境界線はあいまいで、治療の全てが延命に入ることもあるかもしれない。 でも末期癌患者に対しては、最期が近づいたとき肋骨を折ってまでする心臓マッサージや、意識がない状態で喉に穴を開けてまでして生かす人工呼吸器に意味が見えない。そんなことを母は望むだろうか。そんな母の姿を見たくないという私のエゴだろうか。 生きるってどういうことだろう。どんな状態でも生きていて欲しいと思うのが、愛なのだろうか。 意識のある母を母だと思うのは、魂の部分を見ていないのだろうか。自力で生きられない状態では魂はどうなっているんだろう。 あぁ分からない、分からない分からない
August 24, 2008
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昨日、午前8時、母が多量の胃液と血を吐いたそうだ。真っ黒な血だったので、消化器系の出血だと思う。その後、多量の下血。 私は病室にいなかったので、父からの話では、朝8時ごろ、ベットから起き上がってうがいをしようとしたら吐き気がしたそうだ。「お父さん気持ち悪い」という言葉と共に多量の胃液と血を吐いたそうだ。洗面器3杯分ぐらい。その夜は、激しい寒気に襲われていたそうだ。 落ち着いたころ、病院から私たちのところに電話があった。 病院に着くと鼻からチューブを通されて母は寝ていた。鼻のチューブの先にある袋は真っ黒な液体で満たされていた。母が咳をするたび、鼻のチューブに黒い液体が吐き出される。 主治医の先生から話があった。CT検査の結果、腸閉塞を起こしているとのこと。また39度近い高熱が出ているので、感染症・敗血症を起こしている可能性が高いことを言われた。 腸が詰まっているので、出口を失った胃液などが口から逆流をしたらしい。鼻のチューブは胃に溜まった胃液や血を排出させるためだ。 なぜ腸が詰まっているかは、抗がん剤の副作用のため腸壁がむくんでいるためか、腫瘍自体が大きくなっているため、の二つが考えられるとのこと。 むくんでいるのであれば、抗がん剤を中止すればむくみは取れる。ただ、腫瘍が大きくなっているのが原因なら抗がん剤が効いていないことになり、癌の悪性度が非常に強いということになる。この場合は事態は深刻だとのことだった。 またしても思うこの疑問、癌の中でも1万人に一人と言われる悪性リンパ腫。そのリンパ腫の中でも、非常に珍しい、また治療が難しい小腸に腫瘍が出来たこと。 どうして母が・・・ 昨日の夜は、またあまり寝れなかった。家にいるといつ病院から電話がかかってくるかと、落ち着かなくなることがある。 今日の母は昨日と変わって元気そうな、いつもの母だった。鼻からの管はついているけど、液の色は黒くない(ということは血は混ざってない)胃液の黄色だった。熱も平熱に戻っていた。 私もうれしくなって、いろいろ母と話をした。母が元気だと私も元気になる。 でも、まだ油断のならない状況だ。母の状態に合わせて私の感情の波も大きく変わる。延命治療についても先生から考えておいて下さいと言われた。 なかなか肝を据える心境になるのは難しい。
August 22, 2008
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ある日病室に行ったら母の様子がいつもと違った。何か怒ってる雰囲気。「どうしたの?」と聞くと「勝手に私の持ち物触ったでしょ」と言う。先日、実家に行った時、母の荷物の整理をした。衣装ケースに入っていたものを一旦取り出して、中身を入れ替えた。きっとそのことだ。 どうやらそのことを父から聞いて、気分を悪くしているらしい。「あの衣装ケースは私が大事にしているものが閉まってあるの。勝手に触って欲しくなかったの、どうして勝手に触るの」と興奮したように話す。 あの衣装ケースには、確か、ハンカチーフとか下着とか入ってたなとぼんやり思い出す。 私にとって、ハンカチとか下着とかって、そんなに大切なものじゃない。というか、服全般に関心があまりないから、大切なものが入っていたと言われても、何が入っていたかあまり覚えてないほどだ。 最初は心の中で「そんなに言うなら、自分が行って自分で片付けろ、私はよかれと思ってしたのに、もう私は知らん」と思ったけれど、はっと気づいた。 大切なものって、本当に人それぞれだ。私にとってはたいしたものじゃなくても、その人、母にとってはとっても大切なものってある。 それを自分の価値観で、勝手に判断して扱うことは、その人に対して、とっても失礼なことだ。その人が大切にしているものを大切に出来ないということは、その人を大切にしていないのと同じことだ、と気づいてはっとした。 あぁ申し訳ない、心底そう思った。母に何度もごめんね、ごめんねと謝る。母にとっては、服とか帽子、アクセサリーはとっても大切なものだ。 いつもきちんと丁寧に扱われて片付けられていた。それを知っていたのに、つい自分の勝手な判断で母の持ち物を触ってしまった。 気をつけよう、心をぎゅっと引き締めた。つい、今は母が出来ないからと、自分が当然のように母の持ち物を取り扱っていた。私がしなければと傲慢になっていた。 相手の持ち物を大切にする。これはとっても尊重しなければいけない心の領域だ。 気を引き締めて、母のところにあった化粧石鹸を思い出す。もう使わないだろうと思って、勝手に自分の家に持ってきてた。 今日、母に聞いた「あの石鹸使っていい?」「もちろんいいよ、使って」と言ってくれた。後で気づいた、そうだボディソープのことは聞いてない。今度聞こう、「ボディソープも使っていい」って。 これからは、きちんと全て母に聞こう。どんな些細なものでも、母のものには母の想いが入っている。
August 20, 2008
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最近母は元気だ。すくっとベッドから身体を起こすし、ベットから車椅子までも介助なしで移動する。 何でだろう、と考え思いつくのは輸血のお陰、 血液の状態が悪いらしく、時々輸血が行われる。おそらく会ったこともない、どこの誰のかわからない人の血が、確実に母の命を支えてくれている。 今の母はその言葉通り、人に支えられて生きている。もし、輸血がなければ、今、母はいないかもしれない。 母だけの力では、母は既に存在しないのかもしれない。そう思うと、生きることの不思議さを思う。 当たり前なんてなにもない。 北原白秋で、私が好きな詩だ薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サクナニゴトノ不思議ナケレド いつも、こういう視点を忘れずにいたいと思う。私の中での戒め。
August 17, 2008
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ついに生まれて初めて白髪染めをした。所要時間30分ほど。白髪染めは「ジアミン系の染料を含まないものを選ぶ」というアドバイスをもらっていたので、そういうのを選んだ。マロン マインドカラー 黒褐色 自分でやろうと思って買ったけど、夫に「やってくれないかな~、嫌なら自分でやるけど。やってくれるとうれしいな~」としつこく何回も言っていたら、「じゃ、やる」と言ってくれた。 バスタオルを肩に巻いて、椅子にじっと座る。夫が液を刷毛にとって、白髪が目立つ前髪部分に丁寧に塗っていく。夫は器用だから、やってもらうのに安心感がある。 美容院にいる気分。リラックスして、幸せな気分。 マロンは評判どおり、匂いもきつくないし、沁みることもそれほどなかった。1液、2液を塗って30分、お風呂で洗い流す。 シャンプーをして髪を乾かし、じっと鏡を見る。おぉ~、白髪がきちんと黒く染まっている、すごくうれしい。 今まで面倒だからと、白毛が染まるというトリートメントタイプの毛染めを利用していたが、さっぱり染まらなかったから、感動もひとしおだ。 最初から、面倒がらずにこの白髪染めを使えばよかった。 きれいに黒く染まった髪を見るたびに、夫への感謝の気持ちがわく。自分ではこんなにうまく出来なかったかも。 さて、今日も母の病院に行ってくる。最近は、母の入院保険の手続きとか、事務的な用事で病院に行っている。午前中に家事をすませて午後から病院にというパターン。 夫は、今は一日オリンピックと高校野球をずっと見てる。「何か用はない?」「好きなことして過ごしてね」と言って出かけるけれど、夫の心の中までは分からないから、いろいろ一人で想像して悶々したりする。 好きなことって、人それぞれだから。。。自分の疑問を相手に委ねるのはおかしなことだ。 ずっと気になっていた、前髪の白髪。きれいに黒く染まっている。うれしい、うれしい、ありがとう。たとえ悶々することがあっても、こういうことが大切で見失いたくない日々のこと。 私も私で自分のやりたいこと、好きなことをやっていこう。
August 17, 2008
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願い事をするとしんどくなるって書いたけどなぜか、わかった気がした。 願い事を一生懸命してるときって今が幸せじゃない気がする。だって、今じゃない状態を願うから。 でも、いつも神様や仏様に既に今、見守られてご加護を受けているんだと心底思えると、 すごく心が楽になる。今が私にとって一番幸せなんだって安らかな気持ちになれる。 既に見守られてると感じて、神様や仏様に祈る言葉は いつも、ありがとうございます。って、自然にそう言える。
August 13, 2008
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今日、仏様のことを書いたばかりだけど、実際の私はこんなもんです。 最近、介護や介護保険の本を読んだいたら、ふと自分の老後のことを考えてしまった。今のような生活をしていて、自分の老後は大丈夫なのかと。やはり先立つものは「金」ではないかと、いつものように不安になってきた。 その不安を自分だけのものにしておけばいいのに、つい夫に言ってしまう。「このままで将来大丈夫かな」とかそういうこと。 夫は「今、幸せだから気にしない」と言って、私が色紙に書いたお釈迦様の言葉を私の目の前に持ってくる。「・・過去は捨てられた、未来はまだやって来ない・・」というあの言葉。今なすべきことをなせというあの言葉。 だけど、見向きもせずに横を向く私。私と一緒の気持ちになって分かち合って欲しいのに、という孤独な気持ち、「そんなの大丈夫だよ」と安心させて欲しい、甘えた気持ち。 そんなの僕は気にしないと言われて、自分の気持ちが見放された気がした。だから独り言のように「あぁ、昔のあなたの方がよかった」と言ってしまった。夫が傷つくと分かっていたのに。 夫はしばらく黙っていたけれど、「今の僕が嫌ならもう出て行く」と立ち上がり、服を着替え始めた。前々から「僕のことが嫌になったら言って欲しい、すぐ出て行くから」と言っていた夫。 夫は本気だ、本気で出て行く。私には分かる。 私も立ち上がりドアの前に立ちふさがって「嫌だ嫌だ」と夫を引き止めた。私より力の強い夫を、精一杯の力を込めて押し返す。どうしよう、夫が出て行ってしまう、涙がぽたぽた流れてきた。「もう今の僕は嫌なんだろう、昔の僕がいいんだろう。だったら出て行く。」と言う夫に「今のままでいい、今のままでいい」と言いながら必死に抱きついた。 このまま夫が出て行ってしまったら、もう二度と会えない気がした。自分は死ぬほど後悔すると思った。だから必死に夫を引き止めた。夫の服が「ビリッ」と音を立てた。 「今のままでいい、今のままでいい」と泣きながら言う私に、ようやく夫は出て行こうとする力を弱め「じゃ、ここにいる」と言ってくれた。 そして静かに「僕はいつも真剣に生きている。だから、君が嫌になったんならいつでも出て行く。これは本気だ。」ともう一度言った。私は夫の首にしがみ付きながらヒクヒク鼻をすすってた。 夫の生きることの真剣さに比べて私はどうだろう、言ってることと行動がバラバラだ。これが本当の私だ。 もう少しで大切なものを失くしてしまうところだった。
August 12, 2008
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祈りとか願いってよくわからなかった。神社仏閣に行くのは好きだけど、個人的願いをしたことはあまりない。個人的願いをすると心が苦しくなってくる。 でも母が入院してから、毎日、お経や神拝詞をあげている。何かを強く願うのは苦手だけど、お経は心が安らぐ。 そんなとき、テレビで映画「海猿」を観た。すごく面白かった。主人公は海上保安庁の潜水士だ。彼は、どんな危機に会っても絶対遭難者や仲間を見捨てない。 この映画を観て、アメリカ映画だとこうならないと思った。アメリカ映画は、多くを救うために一人を犠牲にすることがある。(つい最近観た映画もそうだった) 鳥インフルエンザの取り組み方もアメリカらしい。ワクチンを打つ人の優先順位が決められていると言う。 とても合理的で政治的だ。 でも仏教では、仏様は決して人を見捨てない。そして、もし多くの人が海で溺れていても助ける人を選ばない。仏様の近くに悪人がいて、遠くに善人がいたとしてら、仏様は迷わず近くの悪人から救い始めるという。 そもそも仏様には善人悪人の区別などない。全てが仏の子供だからだ。だから選ばない。 海猿の主人公を見ていたら、仏様を思い出してしまった。決して自分は見捨てられない、愛されていると確信できることはどれほど幸せなことだろう。たとえ死ぬとわかっていても、自分は見捨てられていないと知って死んでいくのと、そうでないのとは全然違う。同じ死ではない。人は最期の想いを抱いて死後の世界へと向かう。 「どんな人も見捨てない」それを実践した人が、マザーテレサだったと思う。 マザーテレサは、人を助けるために活動したのではない。死にゆく人が「自分は誰かに愛されていたんだと」最期にわかってもらうために人々を看取り続けた。 「愛」の反対は憎しみではなく「無視」だと言う。 最近、祈りとか願いというのが少しわかった気がする。 仏様(神様)は、決して私を見捨てない。この見捨てないというのは、自分の願いをいつも叶えてくれるという形での「見捨てない」ではない。 どんな現実が訪れても、それは仏様の御心であり、自分は決して見捨てられておらず見守られている、と信じきれること。確信できること。 そしてその想いがあるからこそ、神社仏閣の前に拝するとき、自分の祈りや願いは自ずと湧き上がる。 「神様いつも私をお守りいただきありがとうございます。」願いなど言わずとも、神様仏様は全てご存知だ。 こう、思うことが私の中では一番しっくりくる。 私は海猿の主人公やマザーテレサのようには、すぐにはなれないけれど、以前のように「どうせ助からない人をなぜ、一生懸命救おうとするのか」という疑問はもう私の中では沸いてはこない。 人はただ生きているだけではない。愛あればこそ
August 12, 2008
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最近、夫がよく読んでいるのは「小林正観」という人の本だ。熱心に読んでいた。 正観氏の本の中で言葉について書かれてある箇所がある。言葉の力、言霊。 夫は最近食事をするとき「食べると痩せる、食べると痩せる」と言って食べている。私も一緒に「○○(夫の名前)は食べると痩せる」と言ってあげるとすごく喜んでいた。 正観氏は「この食べ物が身体に良いとか悪いを考えるよりも、この食べ物は自分を健康にしてくれる本当に有難いと思って食べるのがよい」と書いている。 今日、母の病院に行ったとき、私が「お母さんは、健康のためにと願って、あの高いサプリメントを飲んでいたのに病気になっちゃって、意味なかったね」と言うと「あのサプリメントのお陰で、病気になるまで元気でいられた」と言う。 母はよく病室でこう言う「私は本当に幸せだ、私の人生はいつもツイテイル」と。癌で、手術も出来ない状態で、絶食状態で飲むことも食べることも出来ず、栄養点滴で、寝たきりで・・・と母を哀れむのは、なんて傲慢なことだろう。 お見舞いに来てくれた叔母が母に「抗がん剤治療のときは、この抗がん剤が私を元気にしてくれる、ありがとうって思いながら点滴を受けるんだよ」と言っていた。 私も母の栄養点滴に向かって「いつも母を元気にしてくれてありがとう」と何度も言う。 言葉の力、言葉の魔法。 先のことはわからない、でも、確かに今、母は幸せで私も幸せなのだ。
August 10, 2008
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今日は、夫と「ひろさちや」さんの講演会に行ってきた。あるお寺での講演会。 講演会が終わってから、本堂の千手観音様にお参りに言った。午後3時ごろ、日中の暑さが空気中に充満している時間。300段の階段を登り、本堂に着いた。山の中にあるお寺だけど、本堂は太陽に照り付けられて眩しいほどだ。 お参りをしていると汗が噴出す。 私は何かを具体的に強く願うのが苦手だ。具体的に何かを強く願うほど、その想いに自分が縛られて苦しくなってくる。「願い事をすることは、今に不満があります。と神様に言っているの同じです」と言われた人がいる。なるほどと思う。 ずっと母の「病気平癒」の祈願をするか迷っていた。 今が一番の幸せ、信じたい、信じきりたい。神様仏様は、いつもその人にとって一番の幸せを与えて下さっている。 信じきりたい。「どうして母が、」「なぜ、母が、」という問いは私を苦しめる。 私は何かを強く願うより、どんな今でも幸せだと思える心が欲しい。 ずっと、祈りとか願いって何かよくわからなかった。 そんな中でひろさちやさんが、祈りとは他人の幸せを願うもの未来をよくしたいと考え自ら努力し、そこに神や仏の加護を願うものでなければならないと書かれていたのを読んだ。 心が楽になった。境内に「願いの鐘」というのがあって、自由に突けるようになっていた。身近な人たちの幸せと、生きとし生けるものの幸せを願って、鐘を突かせていただいた。「ゴォ~ンンン」と重く低く広がる鐘の音。音の波が身体の細胞の隅々まで行き渡る。 祈りが叶いますように。 時折訪れる不安、過去の母に対する罪悪感、 時折訪れる不安、夫との生活の先行き(金銭面)、 不安は突然訪れて、私を襲う。 そんなとき、お釈迦様が言われたこの言葉を読み返す。あまりにも魅かれてしまった言葉なので色紙に書いて、いつも目のつくところに置いた。 いつでも読み返せるように。過去を追うな未来を願うな過去はすでに捨てられたそして未来はまだやって来ないだから現在のことがらをそれがあるところにおいて観察し揺らぐことなく、動ずることなくよく見みわめて実践せよただ今日なすべくことを熱心になせ
August 9, 2008
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母の2回目の抗がん剤の投与が一週間延期になった。理由は聞いてないけれど。 先生から、今の状態だと将来寝たっきりになると言われたそうだ。 というのは、母は骨転移の可能性があって股関節の骨が非常にもろくなっている。その上、中心静脈の管をそけい部から入れているので、足を自由に動かすのが難しい。 そういうことが重なって、ほとんどベッドの上で一日を過ごしているからだ。 母としては寝たきりにはなりたくないから、運動(リハビリ)はしたい。でも骨の状態からすると骨折する危険性が高く無理は出来ないという精神的ジレンマがある。 他にもある危険性、脳梗塞、脳卒中、腸の出血・・・憂いだしたらきりがない。 今、生きてることに、今あることに、感謝したい。 今日も母に病院で、「身体に気をつけてね」「あなたは長生きするんだよ」と言われて胸がつまった。自分が癌になってもなお、子供の身体の心配をし続ける母。 母が元気だったころは、その行為がうっとうしいと思った。食事に行くと、「これも食べたら」と必ず、自分の料理を私の皿に移す母だった。 ずっと、そんな母がうっとうしいと思ってた。何度「もう子供じゃないんだから止めてよ」と怒ったことだろう。 今なら、今だからわかる、母の想い。母というのは、永遠に母であり母にとっては、私は永遠に子供なのだ。 私は母の愛を超えることは出来ない。 病院から帰る前は、いつも母にキスをして帰ってた。今は、医師からマスク着用を言われているのでそれも出来ない。マスク越しに母が私の手を口に何度も持っていく。「何してるの」と聞くと「口に出来ないから手にキスしているの」と答える母。 医師から初めて癌だと告知された時も(7月24日)私の手を握り、一本一本の指を触りながら「もしかしたら、もう見れなくなるかもしれないから、○○ちゃん(私の名前)の手をよく見ておこう」と言ってた母。 私は母にとっては、永遠の子なのだ その深さを私は知らない・・・
August 9, 2008
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母が入院して一ヶ月が過ぎた。私の気持ちが落ち着いて来たので、昨日から記録として母の治療記録を残していこうと思った。 そこで気づいたのが最近、夫のことをブログに書いてないということ。 そもそもこのブログを書き始めたのは、夫との生活を綴っていきたいと思ったのがきっかけ。 この一ヶ月は思いもよらない母の病気で、頭はそのことでいっぱいだった。 なので、最近の夫もこともきちんと書いておこう。 母が入院してから、夫が「大腸がん検診って保健所で受けれるの」と聞いてきた。珍しいこと聞くなと思いつつ「がん検診は40歳以上だから、まだ保健所では出来ないと思うよ」と答えた。 気になったのでよく聞くと便の具合が最近おかしいそうだ。すぐ病院で検査してもらうことを勧めた。 病院に行くのがあまり好きではない夫も、今回は素直にすぐ病院に行ってくれた。母の病気のお陰かも。病気に関しては早期発見は、本人にとっても家族にとっても絶対にいいことだ。 病院で検便と胃の内視鏡、大腸の内視鏡の検査を指示された。胃の内視鏡は、摂食障害で15年以上嘔吐を繰り返していたので、自分の胃の状態には関心があると夫は言う。 検査が終わると、その場で結果が伝えられる。ドキドキしながら夫の帰りを待った。どんな結果でも受け入れるぞと思いながら。夫から携帯に電話が入る、「検査の結果はね」と暗い声で言う夫。大丈夫どんな結果でも私は大丈夫と心で繰り返す。 少し間を空けて「異常なしだったよ」と急に明るく言う。そうか、びっくりした、でもよかった~とじわじわうれしさが沸いてくる。 ただ、治療するほどではないが「逆流性食道炎」だと言われた。これは、嘔吐を続けたせいかもしれない。普段からよくゲップをしてたから。便の調子が悪かったのは、ストレス性の下痢とのことだった。 後日便検査の結果も出た、これも異常なし。 とりあえず、よかった。 今、異常なしだからといって永遠の健康が約束されたわけじゃない。母の場合も一年前は人間ドックで異常なしだったのに、現在は癌で入院している。「また調子が悪くなったら、すぐ病院に行ってね」と夫にしつこく言ってしまう。 今、異常なしでうれしいと言ったばかりなのに、もう先のことを心配している。今の健康に感謝しなくてはと、気持ちを戻す、ありがとう。 最近夫は、沖縄で暮らそうかなと言う。昨年旅行で沖縄に行って以来、沖縄がすっかり気に入ってしまったそうだ。そういえば、夫は帰るときも帰るのを延期しようかと空港でぎりぎりまで悩んでいた。 夫は「今は自分の中からコレガシタイという気持ちが沸いてくるのを待っている」と言う。 何か(恐怖)から逃げて、何かを焦って始めても、そんなことはきっと長続きはしない。 だから慌てなくていい。 私はどこでもいいよ、 今を一日一日大切に生きよう、そして一緒に歩こう。
August 7, 2008
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医師から明日より二回目の抗がん剤の投与が始まると言われたそうだ。今度は一回目より強い抗がん剤になるとのこと。 一回目の投与では、母にはそれほど目立った副作用は現れなかった。 今日は熱が38度近くなったという。昨日今日は腰の痛みがひどく、痛み止めの座薬を入れてもらったそうだ。 入院以来、表面上はよく話し元気そうな母を見ていると、このまま順調によくなって退院する気がしてしまう。 退院後のことをあれこれ想像している自分に気づく。 病院には癌の患者さんはたくさんいる。休憩室にいると、患者さんが抗がん剤の話をしているのを本当によく耳にする。 母より年配の男の人が面会人に「私は2回抗がん剤治療しましたが、まったく副作用はありませんでしたよ。私には合ったんでしょうね。抗がん剤は辛いと聞いていましたがよかったです」と話しているのが聞こえてきた。 頭に帽子を被ったり、ターバンを巻いている人もよく見かける。 そういう人が普通に休憩室にいたり、院内を歩いているのを見ると、癌って特別じゃないんだと安心したりする。 でも今日、悪性リンパ腫についてネットで見ていたら、悪性リンパ腫で家族を亡くした人のブログを読んでしまい、気分が落ち込んだ。 夫から「抗がん剤は、癌も殺すけど正常な細胞も死んでしまう。抗がん剤をして気分がよくなることはないよ」と言われて、それでも他に術を持たない状況を受け入れるしかない。 母の生きたいという前向きな気持ち、人に感謝する素直な気持ちを見ているときっと母は治ると思えてくる。 一方、でも・・という気持ちもどこかにある。電話が鳴るとビクッとしてしまうことがある。 揺れる気持ち。すがる気持ち、 強く願いたいけれど、それを怖いと思う気持ち。何かを強く願うことに、なぜか抵抗がある。それに執着してしまう自分に責任が持てない怖さがある。 お任せするしかない、そう思うことが自分にとって一番楽だ。目の前に現れる現実が一番幸せ、一番最善。 そう受け止めていつも感謝して生きて生きたい。それが一番楽だから。 何かを強く願うことは、辛い。それが現実にならなかったときの世界を愛する自信がない。 それでも、祈ることが受け入れられるなら、・・・と思う。
August 6, 2008
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母が入院してから一ヶ月が過ぎた。 私の気持ちも落ち着いてきたので、同じく悪性リンパ腫の人たち、または同じような症状の人の参考になればと、その経緯を書いてみようと思う。 母の病名は「悪性リンパ腫」タイプは、びまん性大細胞型B細胞リンパ腫。 母の体調が悪くなったのは、2007年の秋ごろ。背中の痛みで、いつもお世話になっている赤十字病院に診察に行った。 診断結果は「骨粗しょう症」。 それ以来、2ヶ月に一度は定期的に整形外科に通った。服用していた薬は、骨粗しょう症の薬、ビタミン剤、痛み止め。 痛みの症状が強くなってきたのは、4月頃。腰、足の痛みが強くなってきたが、その頃も異常はないと言われた。 5月になると、足がむくむようになってくる。腰や股関節の痛みも引かない。 内科で血液、尿、胸部レントゲンの検査を受けるが異常なしとのこと。 6月になると、ますます足のむくみはひどくなる。太ももから足先まで、靴が履けなくなるほどだ。両足がまるで像の足のように腫れている。足の腫れと股関節の痛みで歩くのも困難で、引きづるような歩き方になってくる。重い荷物も背中が痛くて持てなくなる。体重も減り、微熱が続いたそうだ。食欲もない。 6月は頻繁に病院に通っている。 それでも、整形外科・内科の医師は、母の病状の後ろに潜む病気に気付くことはなかった。 この時点で、母の状態を心配した母の妹弟(私の叔父叔母)が病院を変えるよう強く助言する。6月25日、公立の総合病院に精密検査に行くことになった。 当初その公立病院も、既に他院にかかっており紹介状も持たずに来た母に「そこの病院で異常がないと言われているなら、どこで調べても同じですよ」という態度だった。それが、母の腹部が硬く膨らんでいるのを見たある医師が、消化器科で診察を受けるようにと言い、急遽診察を受けることになる。(この医師の対応にはとても感謝している。そこで気づいてもらえなければまた異常なしで終わっていたかもしれない。というのは母は腸の異常は何も感じていなかったからだ。) 消化器科でCT検査の結果、十二指腸に4.5センチほどの腫瘍があると言われ、胃の内視鏡検査をすることになる。また血液検査の結果、血小板の値が異常に低いと言われる。 数日後、7月4日胃の内視鏡検査の結果、即日入院となる。翌日、医師より母の病状について疑われる病名を知らされる。 この時点の可能性は、小腸癌、悪性リンパ腫、GIST。 詳しい診断を下すため、様々な検査が連日行われる。その期間およそ一ヶ月。CT、エコー、PET、MRI、血液検査、骨髄検査、レントゲン、心電図・・ 母の病名は「悪性リンパ腫」と診断される。十二指腸の腫瘍は悪性リンパ腫によるものだった。骨にも転移が見られ、特に骨盤の部分はひどい状態だと言われる。 この病気は症状が出にくいため、早期発見は難しいそうだ。また病気の進行度が早いと言われる。週単位、月単位の進行。 小腸にも腫瘍の疑いがあるので、7月22日大学病院で検査入院をする。 大学病院で小腸の内視鏡検査。腸の状態が悪いため30センチほどしか見られない。(当初は2メートルほど見る予定だった) 23日大学病院退院後、その日のうちに別の公立病院に転院。(現在の病院では、血液の専門科がないため) 7月23日より、今の公立病院へ。 治療のため完全絶食になるので、25日、中心静脈を通す処置が行われるが、呼吸困難になり処置は中止。 28日再度、中心静脈の処置が行われる。今度はそけい部にて成功。 29日より完全絶食となる。(飲食の一切禁止)化学療法を行うので、腸の絶対安静が必要となる。 30日より抗がん剤投与が始まる。腸の穿孔を防ぐため、弱い抗がん剤での治療開始。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー母の入院までに至る自覚症状は主なものは、背中腰の痛み、両足のむくみ。他は体重減少(2キロほど)、微熱(時には38度台)、食欲不振。実際の腫瘍箇所は、十二指腸と骨。十二指腸に関しては、腹部の膨れ以外は自覚症状はなし。 それまで母は30年ほど、寝込むような病気はしたことがありませんでした。健康にも注意し、どこか具合が悪くなるとすぐ病院に行くような母でした。一年前には人間ドックも受けており、異常なしでした。食べ物にも気を使い、高価なサプリメントを毎日欠かさず飲んでいました。 骨粗しょう症だから、背中の痛み、腰の痛みは当たり前。むくみはよくある症状だから、既に病院に通っているから安心。そんな思い込みが、母の病気の発見の遅れになったと思っています。
August 5, 2008
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先日、父から「先生からここは面会人が多いので、しばらく面会を控えるように言われた」と聞かされた。 母は現在、抗がん剤治療中。免疫力が落ちている上に母の血液の状態も悪く、体重も健康な時は40キロあったのが32キロに落ちていた。 抵抗力がないので、菌に感染しやすい状態だからというのが理由だ。 先生は「面会人が来るということは、ばい菌が入ってきたと思って下さい」と言ったそうだ。 そのため、一回目の抗がん剤投与が終わる水曜日までは母に会いに行くのは控えるようにした。 母が入院したのが、7月4日。一ヶ月になる。入院当時は、苦しくて声を上げて泣き続けた。この苦しさは枯れることはないと思っていた。 でも、最近は泣いていない。夜も眠れる、食欲もある。焼肉を食べに行きたいなと思えるほどに。 ただ、朝目覚めるときは今も長い夢を見ている気がする。入院も母の病気も全部夢の中の出来事で、母は今も元気で実家にいるような気が、どうしても一瞬、してしまうのだ。 不思議だ、現実は何も変わっていないというのに。 母が病気になるなんて、ましてや一万人に一人と言われる癌になるなんて、思ってもいなかった。 母はここ30年ほど寝込むような病気をしていなかった。身体の調子が悪いとすぐ病院に行くような母だった。一年前にも人間ドックを受けていた。 毎日高価なサプリメントも飲んでいた。 でも、「悪性リンパ腫」という血液の癌になった。 今も父と妹は「なぜ母が・・」「いつから病気が・・」という疑問がぬぐいきれないと言う。 私もそう思った、母の入院に至るまでの経緯を何度自分の中で反芻したことだろう。なぜ、なぜと でも、なぜに答えはない。たとえ、毎年人間ドッグを受けていても毎日高価なサプリメントを飲んでいても 病気にはなる。 これが事実だ。 抗がん剤を投与中の母は元気そうだ。生きたいという気力に満ちている。自分が癌であるといいう事実を知ってもなお、母の口からは否定的な言葉は聞かない。 自分が母と同じ立場で、癌と知ったとき、母のように過ごせるのかと思う。 一年前の私は、癌や死はもっとも考えたくないことだった。「死を見つめることで、生が見えてくるのです。よりよく生きるために死と向き合うのです」こう言われても、よくわからなかった。死を見つめることは、死を引き寄せてしまう気がしたからだ。 でも今は違う、癌も死も真剣に向き合いたいと思う。 怖がって避けるのではなく、この目でしっかりとその姿を捉えたいと思う。 その思いが、私の生きる力にもなっている。 不思議だ・・・
August 4, 2008
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愛は巡るもの よく与えたものが返って来る情けは人の為ならずというけれど、私は母の介護をしていて気づいたのは 愛は巡るもの 与えるから返ってくるんじゃない 愛は説く必要がない 愛は教えるものじゃない 両手に注がれた水があふれ出ていくように教える必要すらなく、愛は勝手に溢れていく。 溢れた愛は、次の人の両手に、そしてまた次の人へと こうして愛は、絶えることなく受け継がれてきた その源を想うのは、気が遠くなるほどに。 愛は説くものではなく、教えるものでもなく行為そのものだ。
August 1, 2008
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