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こころの対話 伊藤守・著 引き続き、面白いのでこの本について コミュニケーションはキャッチボールコミュニケーションの完了とはA「気分はどうですか」B「あまり良くないですね」A「そうですか、気分がよくないんですね」これで完了するのだという。A「気分はどうですか」B「あまり良くないですね」と言われて、A「なんで?」またはA「みんなは楽しそうですよ」と答えることは、コミュニケーションの未完というそうだ。と言うことは、私は今までコミュニケーションというものをしてこなかったことになる。よくあるパターンは、「なんで?」とか、「私は~」という自分の意見。そもそも、コミュニケーションについては誤解をしていた。コミュニケーションとは、単なる言葉のやり取りが続くことだと思っていた。会話さえ途切れなければそれで成り立つもので、相手の言葉をどう受け止めるかまでは考えてもいなかった。 またコミュニケーションには、適度な距離感も必要だという。距離が近すぎると、他人を自分のように思い込んでしまい、うまくコミュケーションが取れない。(子供に対する母親の場合など) コミュニケーションをキャッチボールに例えると未完のコミュニケーションとは、キャッチボールがいつのまにか、相手をやっつけるドッジボールになっている。○○してはいけません、○○しなさいと、こちらが受け取る暇がないほど多量のボールが投げつけられる。投げたボールと違うボールが返される。自分が投げたボールを他人に渡されてしまう。自分の頭ごしにキャッチボールをされる。などがあるという。 そしてもっとも劣悪なコミュニケーションとは「無視」だ。ボールを投げたのに誰からも受け取ってもらえない。また、コミュニケーションは言葉だけではない、姿勢、視線、表情、口調、それらも全てコミュニケーションに関わっている。 そういえば、愛の反対は憎しみではなく「無視」だと聞いたことがある。 この本を読んでいると、コミュニケーションの大切さをひしひしと感じる。 著者は書いているコミュニケーションの基本は、どっちも責めない、責められない、評価もしない、評価されない。そういうコミュニケーションを通じて、誰でも安心していくことが出来る・・難しい話をする必要はありません、無理に相手を励ましたり、諭したりする必要もありません。無理に相手を受け入れようと、自分を律する必要もありません。ただコミュニケーションのキャッチボールを繰り返しなさい。 とても参考になったので、早速夫との会話に取り入れている。夫が何か言うと、そのオウム返しをしている。ご飯が食べたいねと言われると、「ご飯が食べたいのですね」と言うように。夫は笑っているけれど、先ずは実践から。 コミュニケーションの目的とは、お互いを安心させ、お互いを勇気付け、元気付けることである。なぜならば、私達はたった一人で生存できるわけではないからです。まわりの人をいかに生き生きさせるかということが、あなたがより豊かに生きていく、もっとも効果的で確実な方法だからです。 ※太文字で書いてある箇所は、「こころの対話」からの引用です。
April 29, 2008
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最近、うーん面白いと思う本によく出会う。 今日は、「心の対話」 伊藤守・著今見たら、楽天ブックでは在庫なしになっていた。 この本には、コミュニケーションの大切さ、人の話を聞く大切さが書かれている。コミュニケーションはキャッチボール。 私のように、一方的に自分ばかり話して、相手の話をじっくり聞くことが出来ない人。自分を主張することに、会話の正しさを見出している人には、目からうろこ。だから私って人間関係が下手なのかも、と実感させられ、まさにその通りと、とても役に立つ。「心の対話」より P56-----------------------------------相手の話を聞くことを、最終的には、相手を受け入れることだとか、相手の希望を叶えることだと思っているから、相手の話が聞けないのです。相手が言いたいことについて、相手と同じビジョンを持っていくこと、それが「聞く」ということです。---------------------------------------会話をしていると、どうしても「でもね」とか「私は」と相手の言葉を遮って自分の意見を押し付けてしまう。例え、自分はそう思わなくても、相手が何を伝えたいのか、どうしてそう思うのか、最後まできちんと耳を傾けることがいかに大切なことか。今まで言葉は、自分を正当化することや、自分の思い通りにすることにしか使っていなかった。これは、会話じゃない、投げっぱなしのボールだ。「心の対話」より P68------------------------------------もやもやした状態は、誰かに聞いてもらい、少しずつ話していくことによって、認識可能な日常の言葉になり、自分の考えていること、感じていることがはっきりしてきます。-------------------------------------こういうことって本当にある。悩みを相談することは、特別な助言を求めたり、説教をしてもらいたいからとは限らない。ただ話を聞いてもらいたいだけで、相手が何も言わなくても、誰かに話しているうちに、答えが自ずから見えてくるっていうことは、本当によくあることだ。P70--------------------------------------おそらく、どこまで聞いていっても、完全に相手の寂しさそのものを感じることは出来ないでしょう。でも、共通ビジョンがもてたとき、相手は自分で自分の求めていた答えを見つけていくものなのです。--------------------------------------これって不思議だなと思う。自分の気持を相手に伝えて、相手がそれをきちんと聞いてくれることによって、ただ「聞く」ことによって、その答えが見つかっていく。何か相談されると、つい得意になって、何かいいことを言おう、素晴らしい助言をしよう、なんて張り切ってしまうけど、そんな必要は全くないんだと気づかされる。 コミュニケーションをなくしては、人は生きてはいけない。P87-------------------------------------コミュニケーションが交わされることで、自分はこの宇宙で「たった一人ではない」と体験すること以上に、私達を安心させるものはありません。-------------------------------------- この本を読むようになって、やたら夫に「あなたの話をきちんと聞くからね、何でも話してね」とアピールしている私。相手の話をきちんと聞く、心のゆとりを持ちたい。気づくと、いつものような態度に戻っている私、オイオイと落ち込む。こういうことは、実際訓練していかないと、なおらないものだ。
April 29, 2008
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もしも明日が、人生最後の日であったならという題目はよく聞かれる。 私もさてどうするか、と考えたこともあるけれど、実感が湧かなくて真剣に考えられなかった。 夫が、「人生は後悔がない方がいい。もし、もうすぐ死ぬかもしれないと分かったとき、何をしておけばよかったと思う?」と尋ねた。「う~ん、何だろう、前から行ってた世界一周旅行かな」と答える。 どうせ地球に生まれたならば、世界中を見て周りたい、それは、ずっと前からの、「もし~ならば」でいつも私が言う答えだ。「じゃぁ、今すぐ実行した方がいいよ。いつか、なんて思っていたら死ぬとき後悔するよ。」夫に言われてドッキリする。「いつか~」とか、「もし~」なんて言葉は、幻想の世界を語る言葉だ。現実を引き寄せる力はない、ということを内心は知っている私は、そうだよね、本当にそうしたいなら、何をおいてもそうすべきだよね、このままでいいのか、と自己嫌悪。 と、同時に実行しないのは今の生活に満足しているからではないか、とも思う。「そうしないと後悔するって言われると、まるで今のままだといけないみたいじゃない。そりぁ、世界一周出来たらいいなとは思うけど、今の生活でも私は満足してるよ。あなたと結婚出来たことで、人生これで悔いなしって、思えるしね。うん、後悔しない。」と夫に答える。強がりかな?でもこれは間違ってないと思う。 料理をしながらも考えた、最後だからすべき事って・・すべきことは、とりあえず目の前のこと「もし明日人生最後の日だとしたら、それでも、私はお腹が減ればこうして、あなたと私の食事を作るのでしょう~♪」そう歌いながら、野菜を刻む。 実際は、パニックの波に揉まれて、その事実を事実として受け入れることが出来ないまま、タイムリミットを迎えてしまうだろう。最後までバタバタあがき泣きながら、心穏やかとは、ほど遠く。 でも、いつものように、食事をし終える時のように「ごちそう様でした」と両手を合わせるように、その時を迎えられたら、 それはなんて素敵なことだろう。 そういう生き方って、どんな生き方なんだろう。
April 28, 2008
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前回に引き続いて、ひろさちやの「法然」を読む この本の中で、ひろさちやさんが面白いことを書かれていた。-----------------------------------------------------------「人生には意味はない」意味があると思うから、人に価値・無価値の判断が生じる。知らず知らずのうちに、他人と比べて自分の価値を測っている。商品定めをするように機能的価値だけで捉えてしまうと、自分という人格そのものを高く評価してもらうことが幸せな生き方になってしまう。 人生に意味はなく、何らかの目標を達成することもない。と、捉えることで責任の重荷が取り払われ、生まれて初めて完全な自由を感じる。人生は無に過ぎないという秘密を掴み取ったことで、この世の苦も意味を成さなくなってくるのだ。 真の自由とは、この世の価値感から離れたときに得られるのである。----------------------------------------------------------- 人生の意味や目的がわかれば、もっと人生は生き易くなると思っていると、この考えはとても新鮮だ。ましてや、人生の意味や目的もなしに生きることに罪悪感を抱くような時は、はっとさせられる。 自分は無価値な人間だ、と悩むことは、裏を返せば「自分は本来価値ある人間であるべきなのに」という強い思いが潜んでいる。自分には価値などない、と言いきれる心があれば、そのことで悩むことはないだろう。 人生に価値はなく、意味もないと、言い切ることで、心に余裕が生まれる。肩の力が抜けてすっと楽になる、視野がぐんと広くなる。不思議だけれど事実だ。 こんなとき、自分を縛り苦しめているのは、自分の心なのだと気づかされる。 相田みつをの言葉で、一番に覚えた好きな言葉は「美しいものを美しいと思えるあなたの心が美しい」 本来、美しい汚い、苦しい楽しいという絶対的なものは存在しない。全て、その人の心が生み出しているものなのだ。 苦しみも、喜びも、外からはやってこない。全て自分の内から生じるものなのだ。 ひろさちやの「法然」を読むで、面白い話が書かれていた。-----------------------------------------------------------ある高僧が、子供たちにお菓子を配っていた。子供たちのよだれや汗が高僧の衣につくことを、見かねたお付の人が言った。「衣が汚れるので、私が配ります」すると、高僧はこう一喝をした。「何を言うのだ!汚いのはよだれではない、よだれを汚いと思う、おまえの心こそ汚いのだ」
April 28, 2008
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昨日、夫の叔母からいただいた本「なぜ生きる」を読んでいて、惹きこまれつつも、実感としてはよくわからないと思うこともあった。 例えば、「目先の趣味などに生きがいを見つけてもそれは所詮、苦痛を一時的に忘れるための時間潰し」だとか、「苦悩の根源である無明の闇が破られたとき得られる大歓喜。未来永遠の幸福・・」について。 「人生の目標を成し遂げても、その目的達成とともに、寂しく虚しい感情を抱き始める人は多い。」これは夫がそうだった。 私にはわかるような、よくわからないような、でも興味が引かれる、もっと突き詰めてみたい衝動。 「なぜ生きる」の元になっている親鸞についてもっと知りたいと思い、図書館で本を探した。どの本がよいのかわからなかったけど、選んでみたのは「歎異抄」梅原猛「ひろさちやの法然を読む」(法然は親鸞の師であった) ここだけ抜粋すると、誤解を招いてしまいそうだけど法然は、「南無阿弥陀仏を唱えることで、極楽浄土で往生しよう」念仏とは、この世のために唱えるものではなく(この世で願いを叶えるためではなく)、死後の極楽往生のために唱え続けるものだと言う。 私が驚くのは、死後の世界をこのように確信して迷いなく言い切るところ。 私は死後の世界についてどう思っているのだろう。死に向かって生きているのに、死なないようにと生きている。少しでも長生きしたいと願いながら生きている。あらゆる恐怖の元は死に繋がっている。その恐怖を避けるために生きる工夫が凝らされる。 死によって、肉体は確実に消滅する。でも意識はどうなんだろう。 あっ、今思った。もし、意識も肉体と同時に消えてしまうなら、死を恐れる必要はない。恐怖を抱える意識は「生」の間しか存在しないのだから。 でも、死後も意識だけは残るとするならば、 日本の仏教の本を読むことはめったにない。そういえばいろいろな僧侶(思想家)がいたのだ、他に思い浮かぶのは、空海、最澄、日蓮、道元、蓮如、名前だけで、それぞれどんな教えを説いているのかよくは知らない。それぞれ何を説いていたのか。 しばらく、読み続けてみようと思う。
April 27, 2008
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先日、夫の叔母が「この本すごくいいよ」と、夫に本を下さった。夫は、親戚の中でこの叔母には自分のことを素直に話せると言う。叔母の息子さんは鬱病だそう、そのことで叔母もいろいろ自分に対して悩んだらしい。 「なぜ生きる」高森顕徹・監修 夫が読み終えたので、私も読んでみることにした。まだ最初の方しか読んでいないけど、生きることについてわかりやすく書かれていて読みやすい。共感出来る部分もすごく多い。 夫はこの本を読んで「内観だ」と思ったそうだ。そして気づいたのは、自分の傲慢さ。 自分は、自分と言う存在を否定していた。なぜこの世に生まれて来たんだと、好きなように生きられないと、周りを恨んでいた。自分は、他人のことばかり気にして、自分の思いを押し殺して生きてきた、他人に合わせること、謙虚であるよう生きてきた。 そう思っていた。 でも、それは全く違うと、気づいたそうだ。 自分を情けないと思うほど、実は自分はもっと素晴らしい人間のはずだ、という想いがその奥にはある。 俺はもっとすごい人間なのに、なぜ周りは認めてくれない、 俺はもっと出来る人間なのに、なぜこれだけしか出来ていない、 その気持が、他人に受け入れられない絶望感と自分を卑下する気持として現れる そう、思ったそうだ。自分の傲慢さが、今の自分に対する不満を生んでいる。 だから今は、すごくありがたい気持だ、と夫は言った。 じゃ、もう自分が嫌になったり死にたいと思ったりしないの、と聞いてみた。 僕は相変わらず、自分のことは嫌いだし、人に対する恨みつらみもあるし、自己中心的な人であることに変わりはない。ただ、こんな自分でもこうして生かされている、一緒にいてくれる人がいる、そう思うと、 そのことがすごくすごく有難くて仕方ない、ありがたい、ありがたい、そう言って、夫はフローリングを掃除し始めた。
April 26, 2008
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今日の朝方、「かーっつ!」と言う夫の寝言に目が覚めた。大声で気合が入っていたので、本当驚いた、驚いたので、「何かお祓いでもしてるんかい」と頭を撫でたら「はははは・・」とうれしいそうに笑った。これも寝言なのか?と思いつつ、私も眠いのでそのまま眠った。 目が覚めて、夫に寝言のことを聞くとやはり覚えてないという。でも言われると、大声を出して笑ったような気がすると言っていた。 夫の寝言は面白い。 面白いことと言えば、5月のGW明けに夫は催眠療法を受けに行く。きっかけは、ボランティアでスクールカウンセラーをしているI氏を知り、I氏について調べていたら、なんとこの人、以前テレビ番組「アンビリーバブル」に「催眠療法・前世療法」で登場していた人だった。そういえば、その番組いつかは忘れたけど夫と見た、あの人かぁ、とぼんやり思い出す。 きっかけはボランティア活動で、行き着いた先は「催眠療法」。 催眠療法は、飯田史彦氏の「生きがいの創造」でも取り上げられている。代替療法として取り上げている医療機関もある。実は、夫は昨年ある医療機関の紹介で一度催眠療法を受けた経験がある。だから催眠療法については関心があった。 二人がたまたま見ていた番組で催眠療法が取り上げられ、その時出演していたI氏。そのI氏をボランティア情報を通じて再び知り、I氏に興味を持った夫。彼の著書を読んでみたいと思っていた時に、お世話になっている病院で偶然I氏の著書を見つけ、驚いた夫は何かI氏と縁を感じたそうだ。しかも、I氏が住んでいる場所は、私達のところから車で一時間ほどという近距離。 夫にどうして催眠療法を受けようと思ったの、と聞くと「受けたいと思ったから、今は自分がしたいと思ったことは、何でも素直に実行してみようと思う。深い理由なんてないよ。」と言った。 うん、それでええ、それでええ。 私もよければ同席出来るという。夫が構わなければ一緒に行こう、私も楽しみだ。「生きがいの創造」飯田史彦 私達がお世話になっている、医師から紹介された本。「催眠療法・前世療法」に関心がある人はどうぞ。
April 24, 2008
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ちょっと風邪気味かな、頭痛がする。体温計で計ったら平熱だったので、なんとかやり過ごそうと思う。 昨日、夫がパソコンで何か熱心に見ていた。覗くと、ハローワークの職紹介だった。「へ~職探してるの」と言うと「やっぱり、僕は自営には向いていないと思う。いつまでも自分には才能があるって思っていても、実際には出来ないんだから、僕はだめだよ。だとしたら、またどこか仕事探さないと。」と言う。 夫は2年前、サラリーマンを辞めて独立をした。それは結婚当初からの夫の夢で目標だった。でも、昨年投資した資金が回収出来なくなり、収入がなくなった。 現在は、今までの蓄えで生活しているけれど、夫は精神的にもすっかり自信を失くしてしまった。ここまでやってきた実績を思うと、だめだと自分を卑下することはないといつも思うけど、私の声は夫の自信にならない。無責任な励ましになってしまうだけだ。 散歩に出かけた夫。携帯にメールが届く。「僕は自営業に向いていないというのではなく、僕には自信がないのです。」自信ってどこから湧いて来るんだろう。 私が夫に伝えることはこれしか思い浮かばない。「ええよ、どんなあなたでも、ええよ。」そう入力して返信した。 しばらくしてまたメールが届く。「ありがとう。ええよ、っていい響きだね。」 散歩から戻ると夫が言った。「君も何か思うことがあったらきちんと話して欲しい。これからのことは、二人で相談しながら決めて行きたいと思っているから、僕も何でも話す。僕はこの一年で、仕事のことも自分の心の問題もきちんと区切りをつけたいと思う。」 「一年か、」夫が期限を区切ったのは初めての気がする。でも私はそれを期待しない、大切なのは、~したいと思う気持。だからもう何でも来いだ。それが生きるエネルギーになる、もしかしたらそれが自信にも繋がっていくのかも。結果は後から。 自分以外の人のことをどうにかしようと考えたって無理だ。所詮、それは私バージョンのあなた、にしかならない。もうこのことは、またかと思うほど繰り返しているから心底そう思う。 私に出来ることは、ええよ、ええよ、ええよ、これに尽きる、というか、今はこれしかない。
April 23, 2008
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夫から「君は今の僕に不満があるんじゃないか」と言われた。 他人の気持に敏感な夫は、私の心の動きにもすごく敏感だ。私が「夫に良くなってもらいたい」と思う気持は、夫には負担になる。 今の自分を否定されているように、認められていないように感じるからだ。 夫が何より望んでいるのは、ありのままの自分を受け入れてもらうこと。 それをわかっているつもりだったのに、気づくと「夫がよくなれば」という思いを抱いてる自分に気づく。口では、「あなたが~」と言っているけれど、きっと自分のためにそう思ってるだけ。夫はそれを敏感に受け取っている。 今日は、車で一時間半ぐらいかけてフラワーパークに行った。そこは観光バスも多く訪れる。平日だというのに多くの人たちが訪れていた。チューリップが丁度今が盛りの頃。 何枚かチューリップの写真を撮った。夫が「僕をここで撮って」と近くに立つ。私がカメラを覗くと、どうも暗い、花の位置もイマイチだ。「もっといい場所にしようよ」私はレンズを覗きながら、他の場所を探す。気づくと夫はいなくなっていた。離れた場所にいる夫に近づくと「もう、撮らなくていいよ」と言う。こんなことが何回かあった。 そのうち、私は気づいた。なぜ、夫が撮らなくていいよ、と言うのか。夫は自分が撮ってという場所で撮ってほしいのだ。でも私は自分の判断でそれを否定して、他の場所を探してしまう。夫が撮ってという場所で写真を撮ることがどれくらい大切なことか、私にはそれが全然わかっていなかった。 場所が暗かろうが、花が綺麗かどうかなんて関係ない、大切なのは、夫がそこで写真を撮ってほしいという気持なのだ。 それを簡単に否定してしまう、自分の傲慢さ。あぁ、またしても、私って、 こんな私でも、必要としてくれる夫。どうしてか、聞かずにはいられない「どうしてこんな私でもいいの、何度も同じことを繰り返してしまうのに」自分でも自分にあきれてしまうのに。自分なら、もうこんな人といるのは嫌になってしまうのに。「それでも、理解しようとしてくれるから」と夫は言ってくれた。 いつも同じことの繰り返しのようだけど、また最初の一歩は、前の一歩よりは、少し進んだ一歩でありたい。
April 21, 2008
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誕生日ってあまり気にしたことがない。特に、今の年齢となっては、出来れば時間が止まって欲しいと思うくらいだ。 だから、今回も忘れていたということはないけれど、あぁもうすぐだ・・あぁ、年はとりたくない・・と思うぐらいだった。 当日も思い出す時もあったけど、無意識に過ごしてた。 が、ところが、その夜、あと一時間ぐらいで今日も終わりという時に、今日私が生まれて来たという事実が私を襲った。私にとって今日という日は、なんて貴重な一日であったかに突然気づいてしまったのだ。 そう思うと、今日と言う日の軽々しい過ごし方に、自分が自分に対して後悔の気持で一杯になってしまった。 私は○○年前の今日、朝5時半にこの世に生まれて来た。そうだ、今日の朝、5時半に私は何をしていた?寝ていた、と思う、ちょっとは覚醒していた頃か?でも、すっかり自分が生まれた時間のことは忘れてた。一年のうちで、私にとっては一番大切な日であったのに。あぁ、時間が戻せるなら、今日の朝5時半に戻って、自分が自分に対して「おめでとう、この世に生まれてきてくれてありがとう」と祝福してあげたい。ごめん私、ごめんなさい。 私が一番大切にしているもの、私が生まれたときの写真。母からもらい受けたもので、病院で撮られた写真だ。生まれたばかりの私が産湯に浸かっている写真。 目を閉じて、手のひらを固く握り締め、手足をぎゅっと縮めてる。なんて愛おしいんだろうと、その写真を見るといつも思う。「こんにちは、あなたは○○年後には、私になるんですよ、生まれてきてくれてありがとう」 自分がこの世に生まれてきた奇跡のあかし。母子手帳も欲しくて母に頼んだら「ない」という、どこにあるか忘れてしまったと言う。この時は、すごくショックだっだ。自分の存在を否定されたようなショックさ。実際の私はここに存在しているというのに、自分が失なわれてしまったような喪失感。 生まれたばかりの自分の写真を見ているとこの子を大切にしようと思う、この子が幸せになりますように、と願う。 今の自分を否定することは、この子を否定することだ。 一年に一度の誕生日、生まれてきてくれてありがとう。私は誰より自分にそう言おう。私が誰より自分を愛して大切にしてあげたい。 私が私を抱きしめて
April 18, 2008
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ピロリ菌の除菌の薬を飲み終えた。終わってしまって、ちょっと寂しい感じ。 一週間、朝夕薬を飲み続けた。危惧していた副作用は、自覚するようなものは何もなかった。 今日、再度診察に、この病院は個人病院だけど、待ち時間は市民病院並みと言われている。 今日も、診察が終わり会計を済ませるまでに2時間近くかかった。 もちろん患者さんの数が多いこともあるけれど、先生が一人の患者さんに割り当てる時間が長いのだと思う。 じっくり患者の声に耳を傾けてくれる先生なのだ。先生の人柄が出ている。個人的には大好きな先生だけど、今日は結果報告だけなのにやはり2時間は長かったなぁ。持ってきていた本を読むのも飽きるほど。 先生に3週間後に除菌判定をしますと言われた。検査は便でするそうだ。 3週間後検査をして、その検査の結果がわかるのはその一週間後。 もし、除菌出来ていなかったら再除菌になる。 どうかな、除菌出来てるだろうか。確率は70~80%だから高いんだけど。 あ~除菌出来てるといいなぁ。
April 17, 2008
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今日、印象的な夢を見た。 夢の中で私は高校生。私は、黒い服を着た男たちに追われている、理由はわからない。私は必死に逃げる。私が逃げることで、周りに迷惑をかけたり他の人が死んだりする。でも、私は逃げ続けた。 何とか逃げて、家に戻る。家族は優しく接してくれたが、親戚の人には「恥さらしだ」と言われた。私が逃げることで、多くの人に迷惑をかけたからだ。私は、早く捕まって殺されてしまった方がよかったのか、と叫ぶ。 学校に言っても、クラスのみんなと馴染めない。誰も私に話しかけて来ない、まるで私は存在しないかのように。先生の態度も冷たい。途方に暮れる私。 その時、ある一人の先生が、50代ぐらいの痩せて眼鏡をかけた見かけは頼りなさそうな先生だけが、私を支えてくれた。 学校で私はいつもその先生を探す。見つけて甘える、先生は結婚しているのにと思いながら。「ずっと私の傍にいて」と言う。困った表情の先生。 でも、ある日、思い切ってクラスメートに声を掛けてみた。するとその子は普通に話してくれた。私もうれしくてたくさん話す。その子達と話したのは、それだけだったけど、うれしかった。 それだけのことでも、自分に自信が持てた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その夢の先生で、思い出したのは結婚前に働いていたときの部長さんだ。その頃の私はすごくショックなことがことがあって、3ヶ月家に閉じこもっていた。それから立ち直るために仕事を探してた。 そういう中で見つけたのが、あるバイトだった。短期雇用で雇用期間は4ヶ月ほどだった。私はそこで、自分が生きている実感を得た。毎日働きに行くのが楽しくて、楽しくて、全てが有難い、そういう気持で一杯になった。 その時の直属の部長さんが、今日の夢に出てきた、痩せて眼鏡をかけたあの先生だったのだ。 部長さんは私の内面ついては、何も知らなかった。偉ぶることなく気さくで、楽しい人だった。部長さんから、人の優しさ、人と接する楽しさをもらった。当時、私は独身、部長さんは既婚。最初は、全く年齢的にも容貌的にも、恋愛対象ではなかったけれど、もし部長さんが未婚だったらどうだっただろう。 よく一人で休みの日は渓流釣りに行くと言っていた部長さん、私は「今度一緒に連れって行って下さいね、約束ですよ」と笑いながら話したことがある。部長さんも「おう、約束だ、行こう」と笑った。 その後、私の部署が変わって部長さんも変わった。 そしてバイトは終わった。後半はほとんど、部長さんに会うことはなかった。結局あの時の、「渓流釣りに連れて行って」という約束は叶えられなかった。 それは会話の流れでの言葉だと、自分でも思いつつ、本当に部長さんが誘ってくれたらと期待もしていた。 この夢を見て思い出したことは、あともう一つ。 人は辛いことがあっても、孤独でもたった一人、自分を暖かく受け入れてくれる人がいるだけでそれは自分の生きる力になる。それは、人が人に対して与えることが出来る最高の力なのではないか。 そして、それは誰にでも出来るという、素晴らしさを持っているのだ。 私も、誰かのたった一人の人でありたい。 ありがとう部長さん、あなたのことずっと忘れません。
April 16, 2008
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今日の午後、公園に行った。 そこは敷地が広く緑も多い、遊歩道もある大きな公園。午後3時ごろの平日の公園は、人はまばらだ。見えるのは数組の親子連れ。入り口付近で、賑やかに聞こえてくる子供向けの音楽が、人気のない公園では、かえって寂しさを引き立てる。ところどころに点在するベンチや東屋。そこで、路上で売っていたパン屋さんのパンを夫と食べた。ジャムパン、カマンベールチーズパン。 パンを食べたあと、少し散歩した。とても静かだ、いつの間にか人は誰もいなくなっていた。春の陽に木々の新緑が鮮やかに映える。誰もいない芝生や、無人のベンチ、を見ていると、なぜか、どこかで見た気がして切なくなる。誰もいない風景、懐かしく、寂しいというより抱きしめたくなる風景。夢の中で見たのか、心の引き出しのどこかにある風景。 家に帰ったら、夜すごく眠たくなった。最近、私は自然の中へ出かけると、夜すごく眠くなる。最初は、花粉のせいだろうか、と思っていたけれど、今日も眠い。花粉の季節はまだ終わってないのだろうか。 今はまだ午後9時前だけど、そろそろお風呂に入ろう。 今、なぜ人は生かされてるのか、生きていていいのか、について考えていた。 眠くてぼんやりした頭では、想いはまとまらない。ただ、なぜなぜと言葉だけが回ってる。 人は自分のため、だけ思っても生きる道は見つからない。他人のため、だけ思っても見つからない。 夫は以前よく「なぜ、俺みたいな人間がこの世に生きていていいんだ、教えてくれ」と言っていた。その時も、私は答えにつまった。 今はどう思う、と夫に聞いた。夫は、「君が僕を必要としてくれているから、君が僕を大切にしてくれるから、僕も自分を大切にしたい、と今は思ってる」と答えた。
April 15, 2008
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今日も夕方、川原に菜の花摘み。最近、葉物野菜がなくなってくると、菜の花を摘みに行って食卓に出している。 すっかり自然(自生)のものを、そのままいただくということにハマッテる。 菜の花の時期はもう終わりなのか、ほとんどが花を咲かせているか、種をつけ始めている。摘める若芽は少ない。 と、夫が遠くから私を呼んだ。近づくと「タラの芽があるよ」と言う。私は山菜には全く疎いのでわからない。へ~、こんな川原にタラの芽があるのか、と思いつつ興味深々「採って帰る?食べてみようか」と言うと「う~ん、まだ生えたばかりみたいだからやめとく」と夫は言った。それで私も採るのは止めた。 その後、しばらく菜の花摘みをしていると散歩中の実家の父に会った。父にタラの芽があった、と言うと、「こんなところにあるわけないよ」と言うので「じゃぁ見せるよ」と一緒に見に行った。 タラの芽を一目見た父は、一言こう言った。「これはよく似てるけど、ウルシだな」「え~!!!!」絶叫する私。絶句する夫。ウルシって、山の中にあるもんじゃないの・・ 父は「こんなの触ったらあかんよ、かぶれるで。人によっては近づいただけでかぶれる人もいるから」と静かに言った。そ、そんな、それは手遅れというもの・・・・・ 落ち着いて、先ほどのシーンを思い出す。確か、私は近づいたが触れてはいない、と思う。夫も「君は触れてなかった、僕は触ってしまった・・ちょとだけど」と言った。 父はもしかぶれるなら、今日の夜ごろ症状が出るだろうと言う。 何度も手を見つめる夫。私も父にウルシかもと言われてから、顔が痒くなってきた。 家に戻って、ネットでウルシについて調べる。やはり、タラの芽とよく似ているそうだ。症状は強い痒みと赤い腫れ、水疱瘡のようになると言う。顔がパンパンに腫れてしまうこともあるとか。夫は「ウルシの汁に触れたわけではないから大丈夫だよ」と自分に言い聞かせるように言っていた。私も「そうだよ、大丈夫だよ。」と言う。 でも父に教えてもらわず、その後タラの芽だと思い込んで摘んでいたらと思うと・・・怖い・・・ 先日は、圧力鍋の重りが外れて危ういところで大火傷。今回は危ういところでウルシ摘み。 夫が「最近は危機一髪生活だな~」と言った。 本当にそうだ、これは良いことだと捉えよう。 ウルシも、明日の朝まで何ともなかったら大丈夫だと思う。無事朝を迎えられますように。
April 14, 2008
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10日木曜からピロリ菌の除菌を開始して、今日で4日目。 除菌をする前は、副作用が出る場合があると聞いていたけれど、私の場合は、今のところ全く副作用はない。 それどころか除菌をするようになって、いつも食後は慢性的な胃もたれがあったのが、なくなった。 普通に食事が出来る、副作用はない、胃の調子もいい。何か気持も前向きになって日々を過ごしている。 病は気から、とも言うけれど、気持の要素は大きいと思う。除菌する前、医師に副作用について質問をしたとき、「あまり副作用副作用って、気にしたらダメだよ。下痢するかもとか、気持ち悪くなるかも、って思うと、本当にそうなってしまうから。特に君の場合はね」と言われて、さすが主治医の先生だけに私の性格を良く知っていると思った。 今回の除菌はすごく積極的な気持になれたからした。迷いがない。こうして迷いなく決めれるときは、たいてい気持と身体が一致しているときだ。 一年前、除菌をしなかったのは、心の不安が大きかったから。身体にいいかも、と思っても、気持がついてこなければ、実行しない方がいい。 今回、除菌をすることで取り入れたことは、●ピロリ菌に対する鎮静作用があるという、明治のLG21を一日2回食べること。●抗生物質により、腸内の善玉菌まで死んでしまうと聞いたので(だから腹痛や下痢になる)、乳酸菌のサプリメントを飲むこと。という以上の2つ。あとは通常通りの食事(食事は通常より多く食べているかも)と生活をしている。 まだ除菌が成功するかはわからないけれど、(成功率は70%ぐらいと聞いている)副作用もなく、楽しい気持で薬を飲むことが出来ている。 もし除菌を考えている人で、副作用が怖くて迷っている人がいたら、副作用は人それぞれだということだ。過剰に神経質になる必要はないと思う。 残り3日、このまま順調に過ぎるといいなと思う。これは、お勧めのサプリ。腸をきれいにしてくれます。お陰で、除菌中でも下痢をすることもなく快調です。「ちょうさわやか」ここが楽天で今のところ一番安いです。腸の調子が悪い人、一度お勧めします。
April 13, 2008
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夫は現在、薬は服用していない。 10年ほど前、摂食障害で入院していたころは、薬依存症だったと言う。でも、ある日ベッドの中でふと「自分はこんなところで何をしているのだろう」と思い、薬はやめようとキッパリ思ったそうだ。薬は意識をもうろうとさせる、自分が自分でなくなる。それ以来、夫は薬を使用していない。 夫が通院、入院生活を経て出した結論は「薬では治らない」だった。 もちろん、夫も摂食障害を強く治したい思っている。それは傍にいる私にもよくわかる。「俺はこんな病気といつまで付き合っているんだ!」と握りこぶしで床を叩きながら、よく自分に対して怒りをぶつけていた。メンタル面から治療してくれる施設も探したが、見つけたのはどれも入所者は女性に限定されていて、夫は「僕は入れない」と落ち込んでいた。 夫も私も共通している認識は、心の問題は、薬では治らないだ。 今から一年ほど前、二人で探して見つけた精神科医を尋ねたことがある。自己PRに「あなたの心の悩みを話してください」とあった。 夫も緊張しながらも、きっと期待してたと思う。 ところが、診察室に入り椅子に座った途端、「診療方針としてはどうしようか、薬で治療していこうか」と言われた。てっきり自分の話を聞いてもらえると思っていた夫は「僕は、薬で治すためにここに来たのではありません」とはっきり言った。 私もびっくりした。結局「あなたの心の悩み・・」は全然聞いてもらえず、カウンセラーを紹介されて終わりだった。 その時間は多分、10分ぐらいだったと思う。 私は、精神科医に会うのはこの時が初めてだった。他の医師や治療方法については知らない。でも、治療といえばすぐ薬を持ち出す医師とは信頼関係は築けない。 現在、夫は月に一度の割合でカウンセリングを受けている。夫が希望する限り、私も同席している。カウンセリングのHさんの前だと饒舌に話す夫。内容は、ほとんど夫が話し、Hさんがそれを聞き、時々助言をするというものだ。ある日、帰りに「なぜカウンセリングに行くの」と聞いたことがある。夫は「Hさんに自分のことを話すことで、今の自分の位置がわかるから」と言った。心の問題は誰でも持っている。それを抱えて生きている。どう生きていくか、自分の心の奥と正面から向き合い、最終的には自分でつかんでいくしかない。 何をつかむのか、「自分自身を」★これは、夫の場合の話です。心の病に対する、薬の使用を否定するつもりはありません。私と夫の摂食障害との向き合い方なのでそれをご理解いただけると幸いです。
April 13, 2008
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今日、料理していたときの出来事。 我が家では、ご飯は圧力鍋で炊いている。私は、電気炊飯器より圧力鍋で炊くご飯の方がすごく美味しいと思う。炊き上がりの時間も炊飯器より早い。 で、今日もいつものように圧力鍋でご飯を炊いていた。炊き終わり、いつものようにテーブルに圧力鍋を移そうと持ち上げる。 その時、いつもより激しく動いている重り(圧力鍋の蓋の中央についている)に気がついた。重りの周りが水蒸気でぶすぶす言っている。何かおかしい・・・と台所に鍋を下ろした。 その瞬間、ポロっと重りが下に落ちた。 その途端、「ブシュー」という音とともに、ものすごい勢いで水蒸気が真上に噴出した。夫がその音を聞きつけ飛んできた。「危ないから近づくな」叫ぶ夫。「ブシュー」と音を立て続け、吹き上がる水蒸気、近づけないので、さいばしで重りを被せようとする夫。でもうまくいかない、濡れ布巾を上に乗せて、何度か挑戦してやっと、収まった。 重りが鍋を運んでいるときに外れたら、あの水蒸気は顔にかかっていただろう、と思うとゾッとした。おそらく、高温の水蒸気を顔に浴びればひどい火傷になっていた。 今頃は、救急車の中か・・・ こういう時、私は自分以外の存在に感謝せずにはいられない。誰に向かってというわけでもなく、あの時、あの場所で、蓋が外れてくれた、自分の力ではどうしようもなかった出来事に、感謝せずにはいられない。 そういえば、15年ぐらい前、火事を起こしそうになったことがある。ぼやで気づいて、急いでホースの水で消火して被害は最小限に留まった。あと少し、気づくのが遅かったら、もう人の手には負えない火の勢いになっていた。隣家への被害も免れない。 思えば、私達はある意味、奇跡の一瞬一瞬の中で生きているのかもしれない。 車を運転していれば、事故や人を轢いてしまう危険性だってある。 料理でも使う道具は人を簡単に殺せる凶器だ。(昨年は、ざっくり人差し指の先を切り落としてしまった。全治一ヶ月) 自分の不注意がそれらを引き起こす原因になっているだろうけど、それを気にしていたら何も出来なくなる。 今こうして、何事もなかったようにブログを書いていられる時間をありがたく思う。 夫もテレビを見ながら「今日はいい日だったね、もしあの時、火傷をしていたら今頃はこんな風にテレビなんて見てられなかった」と何度も言った。
April 12, 2008
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今日は先日行って、全然咲いてなかった桜を見に、山へ行った。(と言っても、車で30分ほどの小さな峠を登ったとこだけど) 今度は、きちんと情報も確かめて、今が満開だそう。きっと平日でも混んでいると見込んで、午前8時には着くように行った。さすがにまだ駐車場には数台しか止まっていない。屋台も開いてない。 桜は満開だけど、昨日の雨のせいか散り始めている木々も多い。これで今年見る桜は最後かな。 人工的に作った桜吹雪 道路の両脇にある歩道を散歩する。夫が、わらびを見つけた。 一時間ぐらい散策して過ごした。私達が帰るころ、屋台もぼつぼつ開き始めた。 次の予定は、近くの温泉。10時から開店、10時少し前に着いた。規模が小さいわりに、ここは多くの人が訪れることで有名な温泉。 既に玄関前に並んで待っているお年寄りが何人かいる。常連さんだろうか。 朝一の温泉、ここで、一時間ぐらい過ごした。 次は、いよいよ昼食。デカ盛りで有名な食堂屋さんへ。 以前、行ったときは定休日を間違えて行けなかったところ。11時半ごろ着く。夫は、味噌カツとご飯大盛り。私は、オムライス。 どんなデカ盛りが来るか楽しみにわくわく待つ。 来ました!ご飯大盛りは、どんぶり茶碗にかき氷のように高く盛られている。これぞ、ご飯大盛り、とうれしくなる。 味噌カツとご飯大盛り オムライスも通常で頼んでこんな感じ。はちきれそうなご飯の量だ。中にはきちんと、玉ねぎ、鶏肉が入っている。 いただきます。オムライスを一口、う、うま~い。これなら、もしかしたら全部食べれるかも、と思いつつスプーンを口に運ぶ。 よくあるテレビの大食い番組が頭に浮かぶ。大盛りって最高! でも、全部はやはり食べられなかった。半分でお腹一杯になってしまった、でも満足・満腹度110%。食べ終わる頃、席は満席状態。ほとんどが、男の人たちだ。興味深く他の人たちの料理が運ばれて行くのをチラチラ見る。う~ん、どれも素晴らしい。大盛りバンザイ! 夫は味噌カツ、ご飯、そして私のオムライスの残り半分を完食。密かに食べられなかった時を想定して、タッパーを持参していたけれど、必要なかった。 これで二人で1500円ほど。夫は、最近食べた味噌カツの中で一番美味しかったそうだ。 ただ、ご飯大盛りを頼んだのが店で自分だけだったので、食べてるとき、恥かしい思いをした。他の皆が自分を見ているような気がして嫌だった、と言うので、 私は、「何でそんなこと気にするの~、たくさん食べれるのっていいことなんだよ。私なんて、胃の調子が悪くて食べたくても食べれない時期があったから、今普通に美味しく食べれるのがすごく幸せ。たくさん食べれるなんて、すごく誇らしくて、幸せなことなんだよ。あなたがうらやましいよ。」と言う。 本当にそう、食べれることの幸せ。幸せって食べれること。 今、ピロリ菌の除菌をしているせいもあるのか、私の胃袋は絶好調だ。ありがたい、ありがたい。 次は、ショッピングモールをウロウロして、食料品を買って帰ってきた。 私は、昨日NHKのテレビを見ていて、忘れないようにしようと思ったことがある。それはガンの人を取り扱った番組だった。 「私はガンだ、将来いつ死ぬかもわからない。でも、今この瞬間は元気なのだ。だからこの瞬間を、精一杯楽しんで生きていこうと思う。」 心にずっしりと響いてきた。今この瞬間を楽しむ、それが精一杯生きるということ。いつも、いつも忘れないようにしたい。 夫も今日は楽しかったようで、「最近考えが変わってきた。今まではいつも将来のことを考えて行動していた。でも、人はいつ死ぬかわからない。だとしたら、先を考えて生きていくのに疑問が出てきた。今を楽しむように生きていこうと思う」と言っていた。 今を楽しむって、刹那的で否定的に捉われがちだけど今を楽しむことが、人生を大切にするということではないかと私は思う。
April 11, 2008
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今日は、夫と病院に行ってきた。夫はカウンセリング、私は診察。 車で一時間、病院までの道のりは、ほとんど堤防沿いを走る。家を出て、堤防沿いをどんどん走ると、堤防の道の両脇に菜の花が点々と続いている。 病院がある地域に近づくほど、多くなる。群生しているたくさんの菜の花。自生ばかりではなく、育てている農家も多そうだ。 この川沿いは菜の花が多いと聞いていたけれど、こうして注意して見ていると、至るところで黄色花をつけた菜の花が風に揺れている。 帰りにまた菜の花摘みをしようと、目ぼしい場所をチェックする。 途中、道の駅によると、農産物直売所で多くの菜の花が売られていた。やはりこのあたりでは、農家の人が育てているのだ。 診察が終わり、回転寿司で昼食を食べたあと、帰り道チェックしていた堤防沿いに車を止めて、川原に向かって降りていった。 見渡す限り、菜の花が点々と群生している。しかも、背が高い。家の近くに咲いている菜の花とは大きさも多さも違う。 夫と二人左右に分かれて菜の花を摘んだ。まさかこんなに多くの菜の花があると思わなかった。スカート姿の私は、下草がチクチクと足に当たる。足元を気にしながら菜の花に近づく。 夫の方を見ると、背の高い菜の花に、夫の姿はすっぽり隠れてしまい、ところどころで夫の赤いシャツがチラチラ見える。 デジカメ持ってこればよかったな。 人気のない広い川原で、菜の花に囲まれて、菜の花摘みをする二人。立ち上がる菜の花の匂い。 夫が「今日のことは、ずっと忘れないと思う、いい思い出になるよ。死ぬ時きっと思い出すんじゃないかな。」と言った。 気をつけていたつもりでも、夫のパンツや私のスカートに菜の花の黄色花粉がついていた。 来週もまた通院だ、来週もまた摘みに来よう、今度はジャージ姿で。 早速、夕食に菜の花ソテーを作った。一口食べて、二人とも「うまい!」と言う。夫が「家の近くの菜の花と味が全然違う」と言った。私が「私の料理が上手だから美味しく感じるんじゃない」と言うと、「だって、花の味がするよ、これは春の味だ」と言う。そういえば、そうだ花の味がする。 自分達が食べるものをこうして、自然の中からおすそ分けしてもらう。同じものを食べるにしても、お金を出してお店で買うのとは、何かが違う。
April 9, 2008
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今日は夫婦で病院に、夫はカウンセリング、私は診察。 私は、昨年一年ずっと胃の調子が悪かった。一時期はそれで落ち込んで、神経質になっていた。検査の結果、慢性胃炎と言われ、胃の中にピロリ菌がいると言われた。 除菌をしますか、と言われたけれど精神的にも参っていたので、したいと思わなかった。他人からは、それはストレスが原因かも、とよく言われたけれど自覚はなかった。 いつも思うことだけど、本人がストレスだった、と思えるようになるのはその時期を過ぎてからだ、渦中にいる時はよくわからない。 今年になってからは、調子もよくなってきた。普通に食事も出来るようになった。一番ひどいときは、ずっとおかゆを食べていた。それから、だんだん普通のご飯も食べれるようになったけど、油モノや肉類、お菓子は避けるようにしていた。正確には避けていたというより、食べられなかった。 でも今は、普通にお菓子も食べれる(私ってこんなに甘いもの好きだったか、というほど食べる。味覚が変わったのだろうか)。油モノも少しならOK、肉も食べすぎなければ美味しく食べれる。 食べれるようになって実感したのは、食べれることの幸せ。あまりガツガツ食べてると、後でまた苦しむことになるかも、と不安がよぎるけれど、今食べれる幸せを思うとそれでも構わないと思ってしまう。(でも自重しよう、したい) そんな中、昨年はやらなかったピロリ菌の除菌に挑戦してみる気になった。 症状がよくなってきたのに、なぜと思われるかもしれないけれど、私としては調子がいいから挑戦してみようという意欲が湧いてきたのだ。 私なりにピロリ菌について学んだことは、 ピロリ菌は、50歳以上の人なら80%は保有していると言われている。ピロリ菌保有者のほとんどは慢性胃炎になる。(症状が出ない人も多いらしい)胃がんの発生源になる可能性が示唆されている。(ピロリ菌がいない人で胃がんになる人は、ほとんどないらしい)除菌の成功率は現在では抗生物質に対する耐性が出来てきて、70%ほど。副作用が出る場合もある。(多くは下痢)そして、保有者が80%と多すぎるため除菌には保険が効かない。保有者全てに保険を適用したら保険がパンクしてしまうからだ。(胃潰瘍など特定の病気がある人を除く) よって、私のような胃炎では保険適用にはならない。(胃炎というのはありふれた病気だからであろう)また、ピロリ菌に対する歴史がまだ浅いせいか(発見されたのは1980年代に発見)医師によって除菌に対する考え方も様々だ。ただ現在では、学会では除菌を勧めているらしい。 以上のことを参考に自分なりに考えた末、除菌することにした。 先生から、一週間分朝と夕に飲む薬をいただく。費用は、自由診療で12000円ぐらいだった。 いよいよ明日から、ピロリ菌除菌開始です。
April 9, 2008
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今日、ビデオに撮っていた「オーラの泉スペシャル」を見た。ゲストは東国原知事。久しぶりに見たオーラの泉だけど、今回は面白かった。東国原さんが、導かれるように宮崎の高千穂に行ったことや、そこで声を聞いたこと、猿田彦の話。 私は、世の為や、多くの人に影響を与える人というのは、いつも人智が及ばない力が動いているように感じる。それは、もともとそういう宿命で生まれているのか、その人の生き方によってそうなるのかはわからないけど、その人の努力だけではない、何か強い流れ(力)みたいなものがその人を通して発散されている、ということをずっと前から思っていた。 だから、江原さんや美輪さんが東国原さんに「あなたには、人智が及ばない力が働いているんですよ・・」と言われたとき、すごく同意してしまった。 東国原さんほど、県をまるごと商品化して県のために尽くしている知事はいないと思う、本当にすごい人だ。 今後は宮崎だけでは納まりきれないとさえ思う。 そして、番組の中で印象的だったのは江原さんが言った言葉だと思うけど、「何か困難な時に陥ったとき、その静の時間をどう過ごすかが、とても大事です。その時どう過ごすかが、その人のその後の人生を決めるのです」という言葉。 東国原さんは、1回目のフライデー事件で謹慎になったとき本を書きあげてそれがヒットし、その縁で元奥さんの加藤かずこさんと出会い、2回目の謹慎の時、勉強をして早稲田大学に入学をし政治を学び、政治の道に入っていった。全部、何かつまずいたときが次の人生のステップになっている。 静の時間をどう過ごすか、自分に当てはめると、何をしたいわけでもなく過ごしている感じで、情けなくなってしまうけど、 一つ、はっきり分かるのは、何かつまずいたとき、それを恨んだり、悔やんだりしても、絶対それは次には生かされない、ということだけは、わかる。 恨みや、妬みは、自分のためには、絶対ならない。(そもそも恨みの感情は自分のためではないと、客観的に気づけばそれほどエネルギーの浪費はないのだけど) 何かあった出来事を、受け入れることが早く出来る人ほど、「恨みや妬み」の気持から、次のステップへと進むことが出来る。なぜ楽な方を選ばずに、いつまでもしがみついてしまうのだろう。 感情には多々振り回されてしまうけど、これは本当だと思う。
April 7, 2008
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今日は曇、午後からは雨だとか。ベランダを掃除していたら、桜の花びらが数枚落ちていた。隣の公園の桜が風に運ばれてきたようだ、桜が散っていくのが頭に浮かぶ。 急に散ってしまう桜を、写真に撮りたくなって公園に向かった。部屋着と寝癖の髪のまま。 公園では、隣の神社で結婚式を終えた花嫁さんが散りゆく桜の前で写真を撮っていた。 昨日まで真っ白に膨れ上がっていた桜の木々は、痩せたようにほっそりとして緑の葉を点々とつけている。 池の表面が桜の花びらで桃色に染まっていた。 曇って暗くて、はっきり写らなかったのが残念。桜が咲くようになって、よく写真を撮りにいくようになった。
April 7, 2008
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今日は、あるセミナーに行ってきた。なかなか勉強になるセミナーで、終了後出た昼食のお弁当も美味しかった。 帰り道、お祭りの商店街に寄ってみた。歩行者天国を歩いて周る。いつもは、日曜でも人通りの少ない商店街が、今日は多くの人出賑わっている。人の多さに私の歩くスピードも早くなる。歩行者天国で、夫は沖縄のお菓子サータアンダギー、豆乳ドーナッツ、私はたません(たこせんべいの上に目玉焼きが乗っていてそれにお好みソースがかかっているお菓子)、みたらし団子を買った。日陰に設置されたテーブルでそれらを食べた。 帰ってから、今日のセミナーの講師の人が「60歳を過ぎたら社長を引退して、子供のための病院と学校を作りたい。その夢があるから今頑張れる」と言っていた言葉が印象的で、つい夫に「あなたもK(講師の名前)さんのような人になって」と言ってしまった。 夫は「僕はそういう風に自分の力ではしようとせず、人にやらせようとする人が一番嫌いだ」と言った。 そうだ私は、自分でしようとせず、夫にさせようとしている。ずるいな、これが今の私だ。 食事の時、夫は「僕にとって結婚は、愛しているからするというものではなかった。車や家、お金と同じだった。自分の心の傷や虚しさを埋めるためのものだった」と言った。私が「よく本人を目の前にそういうこと言えるね~」と笑うと夫は「今だから言えるんだ、君が僕が嫌っている僕の部分を愛してくれると言った時に、僕の中でそれが変わったんだ」と言った。 私も変わったこうして笑える、夫も変わっていくように。 散歩から帰って、台所で水を飲んでいた夫が「ゆっくり、ゆっくり行こう~。だって僕には○○(私の名前)がいるんだから~、○○は僕を愛してくれているから~」とリズムをつけながら歌ってた。 そうだね、ゆっくり、ゆっくりでいいよね、私もね。 このところ、外出すると夜すぐ眠くなる。春のさいか、花粉のせいか、すぐ眠くなる。 でも今日は、NHK篤姫と映画フライトプランを見たいから、それから寝よう。
April 6, 2008
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今日も暖かい、結局お祭りに行くのはやめて、公園と堤防に出かけた。 今日も公園は多くの人で賑わっている。昨日の夜は、じっとしてるとちょっと肌寒かったけど、今日はポカポカ陽気。今日なら、私もシート引いて桜の下でご飯食べたかったな、シートで昼寝してる人もいた、いいなぁ、夫もここで焼肉焼いて食べたいと言っていた。 風が吹くと桜の花びらが、わーと舞い散る。あまりにきれいで、いそいで写真に撮ったけど、また失敗。うまく撮れない。う~んぼやけた感じ、今度はフラッシュを使ってみよう。公園の池に浮かぶ桜の花びらがきれい。 公園を抜けて、堤防の桜並木を歩く。 また菜の花を探して、きょろきょろ見渡す。旅館の裏の川原を歩くと、黄色い頭が点々と見える。菜の花って、3月ごろから咲くというから、もうないかと思ってた。いつまで自生しているんだろう。 ポキン、ポキン、と気持ちよく手折る。黄色い花の周りをモンシロチョウも飛んでいる。 点在している菜の花を手折りながら、川原を歩く。自然のものを、分けていただく。食べ物は、普段お金を出してしか手に入れたことがない。なぜだろう楽しい、 本当に今日は暖かい、昨日の服装では汗ばむほどだ。吹く風も暖かい、風にのって聞こえる、御輿を担ぐ笛の音、鐘の音。 前回採った場所には、また新しい花がたくさんついていた。菜の花の生命力に驚かさせる。すごいなぁ、 夫も腕まくりして採っていた。楽しくて、前回より多く採ってしまった。これは料理2回分はあるかも。何作ろう・・・大切にいただこう。 この写真2束分ぐらい採りました。
April 5, 2008
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今日明日は地元のお祭り。今日は、朝から暖かい、午後は菜の花摘みか、お祭りでも見てこようか。 地元の祭りって、興味もあまりないし、行ったこともあまりない。 昨日夜、夫が「この間、夕食に惣菜をたくさん買ったときは、やはり理解して欲しかった。あんな風に、良くないといわれると意見を押し付けられてる感じがする。 外出するのがストレスなのは、満腹な状態で動くのが嫌だから。満腹になったら動かずじっとしていたい。だから外出先ではあまり食べないようにする。でも空腹な状態で外にいるのもストレスだし。家で食事をしているときが、一番リラックスしているときだから、その時間は好きに食べさせて欲しい。 嘔吐することをやめたいという気持より、なぜ食べてしまうのかを思う。どうして身体は満腹だと思うのに、もっと食べたいと思うのかわからない。」と言った。 私は私で、いつまでこういう暮らしが続くのか、不安になることもある。でも、こういう暮らし嫌じゃない、あれ?じゃぁ、何が不安なんだろう。 正体がわからない不安、あぁ、そういえば、「不安とは正体が見えないものに対する想い」って聞いたことがある。そう思うと、不安って、今ここにないものに対する想いなのか。だとしたら、そういうことに心を痛めるのってもったいないな~今を楽しもう!っと、根が楽観的な私は、凹んでもこうして立ち上がるのであった。 今日も、楽しく過ごそう。
April 5, 2008
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今日は金曜日、桜も満開、気温も今までと比べると暖かい夜。 今日は夜桜日和でしょ、と思い、ベランダに出てみたら、焼肉の匂いが漂ってくる。 これは見に行かなくてはと思い、歩いてすぐの公園にそそくさと出かけた。 夜桜を見るというより、夜桜を見に来ている人たちを見に行きたくて。 賑わう公園、黒いスーツ姿の男の人たち。酔っ払い、大声で肩を組んで話し込むサラリーマン。池に向かってゲロしている新入社員。老若男女の車座の団体は、一人づつ立って自己紹介。二人でこじんまりと座る老夫婦。本格的に台座を組みランタンで寛ぐ常連さん。川沿いの一番桜がきれいな場所に陣取る、屋台村。 あちこちから漂う、焼肉の匂い。夫が「焼肉って、どうして匂いの方が美味しく感じるんだろう」と言う。本当に食欲を誘う匂い、お腹が空いた。 リンゴ飴が欲しかったけど、リンゴ飴を売る屋台は見つからなかった。夜桜は、こうして桜の下で楽しんでいる人たちを見るのが楽しい。 夜の公園のざわめき、白く浮かび上がる桜の花びら。何か夢の中のワンシーンを見るようだ、 この場面を写真に撮りたくなった。カメラを取りに部屋に戻って、数枚撮ったけど、真っ暗で何も見えない。ブログに写真を載せたかったのに、残念。 今日は、午後9時から映画を見る予定、それが楽しみ。この楽しみ一つあるだけで、生きる力が湧いてくる。幸せってこういう楽しみの積み重ね。「トゥームレイダー2」見たことあるけど、あの女優さんは好き。特にあの唇。 明日は、堤防に菜の花をまた探しに行こう。本当は菜の花畑が見たいけど、どこにあるんだろう、いつか見てみたい。
April 4, 2008
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プロフィールで写真があってもいいなと思い、PCに保存してある写真の中から探してみた。 自分のプロフィールだから、自分のイメージに近いものと思ってたらこんなのがあった。 これは私の後ろ姿、撮ったのは夫、携帯電話のカメラで。去年、巨石のある公園と聞いて興味を持って行ってきたのだけど本当に不思議な感じの公園だった。なぜ、こんなに巨石がごろごろあるんだろう、と思うほど、そこかしこに巨石の群れがある公園だった。巨石がある公園というより、巨石で出来てる公園という感じ。こんもりと小山になっている、その公園の頂上(巨石の上)に立つ私です。 なぜか、祠があったのも、不思議。何に向けての祠なんだろう。
April 4, 2008
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もうお花見も今週末までと地元のニュースで言っていたので、今日もまたまた、桜を見に行ってきた。 今度は、車で30分ぐらい、山の中にある桜。2000本ほどの桜並木が県道沿いにあるという。昼過ぎに出たので、混んでるかと思いながら、山道のカーブをずんずん上がる・・いつまで上がっても道路わきの木々は閑散としてる、桜はどこだろう、とあれっと、よく見ると、それらは全部桜の木だった。 全然咲いてない・・・・が~んと思いながら、もう引き返そうと思っていたら、花見用?の駐車場が目に付いた。桜は咲いてないけど、駐車場に車はたくさん止まってる。同じように、あぁ勘違いで来た人々か・・・ 市の中心部からそれほど離れた場所でもないのに、山の中だとこうも咲く時期が違うのかとびっくりした。お店の人は、平地の桜が散る頃にここの桜は咲くのだと言っていた。 桜はまだつぼみのままだけど、屋台や出店だけはしっかり出ていた。ここまで来てしまった人々は、ここで桜の枝を愛でつつ、団子を食べていた。 私達は、出店をぐるっと見て周り、クッキーの試食をして戻ることにした。 来週末ぐらいには、満開になるだろうか、その時また来よう、今度はちゃんと調べてから。 今日は午前中、なんとなく、ウツウツした気分だったので、桜を見て、温泉でも入って気持を切り替えようと思ったのに・・・温泉も入る気が失せた。車の中で、「私は、うつうつ、びょうびょう、うつうつ、びょうびょう~」と自分でリズムをつけながら歌っていたら、夫が「うつ病の人が、そんな歌、歌うか~」と笑った。 帰り道、夫が「君がマックシェイクを飲みたいなら、付き合ってもいいよ」と言う。私は、別に飲みたいと思わなかったので、「あなたが、マックシェイクを飲みたいなら、付き合っても良いよ」と笑いながら言い返すと、夫はウィンカーを右に出してマックがある方へ、ハンドルを切った。 最近、外出をすると夫はいつもマックに寄るようになった。夫のお気に入りは、マックシェイク・バニラSサイズ、2つ。M一つではなく、Sを二つ買うのが夫流。そしてお持ち帰りに、チーズバーガーを買う。これは、夕食のおかずの一部になる。ご飯のおかずに、マックのチーズバーガーをつまむ、これは夫婦流。 明日は、何度も行ってる近所の公園の桜を見に行こう。今日は暖かいので、夜桜見物の人が増えそうです。
April 4, 2008
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昨日、夫に夕食を買いすぎじゃないと話をした後夫がしばらくして、「そうか、君はそう思っていたのか・・・」と考えるようにつぶやいたとき、自分の気持が少しでも伝わった気がしてうれしかった。 それから夫は、「どうして、今日はあんなにたくさん買ったのかな、きっとストレスもあったと思う」と話してくれた。私が、「電車の旅行、楽しくなかったの?」と聞くと「楽しかったけど、朝思いもよらず、電車が込んでいたから、そういうことがストレスになったのかもしれない」と言った。そういえば、夫は電車の中で電車の混み具合について、結構いろいろ話してた、私はこの程度の混雑振りは平気だったけど、夫は気になっていたんだと初めて知った。 今までは、摂食障害の夫に食べ物についていろいろ言うのは禁句のようになっていた。でも、私の中でいつも触れないようにすることに、すっきりしない気持があったので「買いすぎじゃない」と言ってしまった。でもそうしたことで、夫が私の気持ちも聞いてくれて、どうして食べたのかを、夫の方から話してくれたのは、とてもうれしかった。 今までだったら、「やはり君は理解してくれない」と心を閉ざしていたように思う。 だから、新しい何かを感じてうれしかった。 今日も朝から、夫は再度、草なぎ君の昔のドラマ「僕が生きる道」(草なぎ君が余命一年の教師の役)をPCで見ていた。見ながら夫が「余命一年だと知ったらどうする」と聞いてきた。 「もし、自分が余命一年と知ったら・・」正直わからない、まずそれを受け入れることにきっと精一杯だろう。その先の、どう生きていくかまでは、今はわからない。考えたくないのかもしれない。余命一年、このことを現実的に想うことを、きっと私は無意識に拒否してる。頭の中は真っ白だ。 夫は、こういうドラマを見て、自分の生きる道を見つけたいのだと言った。今のままでは、不完全燃焼だと。燃えたいのだと。 「そんなの、ドラマ見てて見つかるものかな」ぽつりと私は言う。私にはわからない、逃げかもしれないけれど、探せば見つかるのか、どうすればわかるかなんて、わからない。苦しめば(苦労すれば)わかるのか?と言うと、違う気もする。楽しいことをしている先に、見えてくるのかも、どうだろう。でも楽しいことを見つけるのも、難しい。結局、ぐるぐる思考だけが周ってる。 今日は、花粉も少なくなってきたので、久しぶりに布団を干した。 今日も、午後から桜を見に行くかもしれない。今しか見れない桜だから、今見に行こう。ニュースで桜も、今週末で終わりかもと言ってた。
April 4, 2008
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昨日の夜、夫はまた大声で寝言。 うつらうつらの意識の中で、夫の叫ぶような寝言を聞いて、明日「○○」って寝てるとき言ってたよって教えてあげようと思ったのに、起きたらすっかり忘れてた。 もちろん寝ている夫に記憶はない。そういう夢の心当たりもないそうだ。 何って言ってたかな~、う~ん思い出せない。でも夫が大声で話す寝言を聞くのは、私にはうれしい感じがする。なんでも言わずに溜めてしまう夫だから、夢の中でも少しづつ出して欲しいと思う。 今日は、桜を見に岡崎に行って(前ブログに書いた)、それから豊川稲荷にも行ってきた。豊川稲荷では昼食にうなぎを食べた。それはそれで、美味しくてよかったのだけど、夫には少なすぎたようだ。(お店の人にご飯大盛りと言ったけど、どうみても大盛りには見えなかった。どうでもいいことだけど、大盛りって言ったらびっくりするくらい大盛りでないとがっかりする、本当にこれ大盛り?って思うお店って多い。これからはご飯持参したい) 帰り道、夕食代わりに、お気に入りのお店で焼きそばと、お好み焼きを買ったけど、夫はコロッケとから揚げが食べたいと、よく行くスーパーに惣菜を買いに行った。 そして、帰ってきて買ってきた惣菜を見てちょっとびっくり。コロッケとから揚げの他に、鯖の塩焼き、さつまいもの天ぷら、かき揚げ、あられ類(3袋)、ポテチがあった。 それらをじーと眺めているうちに、夫には言わない方がいい一言だけど、言ってしまった。「油モノは身体によくないよ、特に惣菜モノは作ってから時間が経ってるし、身体によくないと思う」 また言ってしまった一言のあと、伺うように夫を見ると、夫はまた自己否定されたと傷ついた様子だったけど、「これは、あなたを否定して言ったのではないからね、私は油モノはよくないと思うから言っただけで、これは二人の価値感の違いだけで、あなたを否定したわけではないからね。」としつこいほど言った。 夫は「それはわかるけど、そう言われたら僕はどうしていいのかがわからない」と言ったので「別にどうもしなくていいよ、お互いの価値感を理解出来れば、私はあなたが食べたいと思ったから買ったんだってことを理解して、あなたは、私は油モノはたくさん食べるのはよくない、という価値感を持っている人なんだって理解してくれれば、私はすごくうれしい」と言った。 そうだ、私も私のことを夫に理解して欲しいと思っているんだ。私もあなたを理解するから、私のことも理解して欲しいのだ。だから私も私の気持ちを伝えたい。(ただ、価値感を強く押し付けてしまわないように。自分が正しいと思い込まないように。) でも、夫は普段こんなに夕食は食べないし、惣菜や油モノも買わないのに、どうしてだろうと振り返ると やはり、あの昼食は少なかったからだと思う。 いつもは、昼食は私が作って家で食べる。家で食べれば、好きなものを好きなだけ食べれる。やはり、手作りだ、手作り、これに限る、と改めて実感した。 最近、中国餃子の影響もあってか、より手作りに力が入る私。今までの初チャレンジは、カレーとシチュー。夫はカレーが大好きなので、これは手作りしたい一番だった。ルーで作らないカレーが作れるか不安だったけれど、美味しくできた、夫も気に入ってくれた。これでもうルーで作るのは、さよならしたい。 明日、チャレンジするのは、マーボー豆腐。これも、もうレトルト調味料とはサヨナラしたい。 これからは、お弁当を持参して出かけよう。
April 3, 2008
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父からもらった青春18切符を利用して、電車に乗って桜を見に行ってきた。 朝、6時前に自転車で家を出て、30分かけて最寄のJRの駅に向かう。早朝はまだまだ肌寒い、自転車を切る風が冷たかった。 早朝だから、まだ電車は空いているだろうと思ったら、電車は既に満席状態、途中の駅まで座れなかった。 午前8時ごろ目的の駅につく。人気のない落ち着いた感じの駅。徒歩15分ほどかけて「岡崎公園」についた。 たくさんの桜が満開を迎えていた。散り始めている桜もある。屋台もたくさん出てたけど、9時前の今はどの店も閉まってる。堤防にテントや大きなトレーラーが止まってる。トレーラの前には洗濯物が干されてた。屋台の人が寝泊りしているのだろうか。 散歩してる人や通勤の人とすれ違う、でも人は多くない。昨日とは違って、前を気にせずのんびり歩ける。やはり「早起きは三文の得」だ。 最近見た桜では、見た時間帯も含めて一番好きに過ごせた場所だった。 電車に乗って遠出をするのは久しぶり。最近は、移動は自動車ばかりだから。 車窓に広がる、見知らぬ町の家並み。晴れた日の、見知らぬ町の風景は、なぜか私をわくわくさせる。 すごく平和で幸せな落ち着いた気持になってくる。見知らぬ家の屋根に干されてる布団、線路沿いで踏み切り待ちをしている見知らぬ人、見知らぬ神社、公園、学校の満開の桜、全て初めて見る風景なのに、どこかいつか見たような愛おしさ。 その時は、不安さえもどこかに消え去って、ただ、あぁ幸せだなと思う。それしか思い浮かばない。 ずっと外の景色を見ていたいけど、眠くなって、うとうと眠る。
April 3, 2008
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今日は薄曇。 夫は昨日ほとんど眠れなかったと言った。そのせいか私も熟睡できなかった、夫が熟睡してないと、隣の私にもそれがわかる。そして、私も熟睡出来ない。夫が熟睡してると、私も熟睡できる。夫婦ってこういうものかな。 夫が、午前中4ヶ月ぶりぐらいに床屋に行った。すっきりさっぱりして帰ってきた。若返って見える、独身でも通じるかも。「かっこよくなったね」と何度も言う。 昼食後、車で20分ぐらいの隣市に桜を見に行った。ここは、川沿い4キロほどに渡って、1200本の桜があるそう。日本の桜100選の一つとか。 平日でも、たくさんの人たち。ちょうどお昼ぐらいだったので、多くの人が堤防の端に腰かけて食事をしていた。 屋台もたくさん出てる。屋台がある道沿いは、前をよく見てないと歩けないほどの人。つい、桜より、屋台のメニューに気を取られてしまう。 うまいと評判のたこ焼き屋さんの屋台の前は、長い行列。ちょっと関心があったけど、あきらめた。 たこ焼きより、桜。 屋台から少し離れた堤防は人も少なくなって、のんびり歩ける。やはり人は桜より食べ物があるところに群がるんだねと夫と話す。 もっとずっと先まで歩きたかったけど、夫がもう戻るというので引き返す。 明日は晴れたら、電車で他の桜を見にいくつもり。
April 2, 2008
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夫は、最近ずっとPCで過去のテレビドラマを見てる。今見てるのは、「一つ屋根の下」。江口さんも、ノリピーもみんなすごく若い、10年以上前のドラマだったか?その前は「オンリーユー」、「光とともに」、そして「僕の道」三部作。 最近は夕方、近くの公園と堤防を二人で散歩してる。何か、桜が咲くようになってから寒くなった。それまでは、最高気温が20度だったりして、一気に春に向かって暖かくなると思ったのに。暖かい日に、のんびり桜を見にちょっと遠出をしようと思っているのに、いつ行けるだろう。 歩きながら、夫が「一つ屋根の下」を見ていて思ったことがあると言った。 「人生って、倒れたり起き上がったりして生きていくんだってこと。今までは、倒れたらそれでおしまいだと思ってた。倒れたら、そこで全て失ってしまうって思ってた。だから倒れることが何より怖かった。でも、今は倒れても起き上がる力があれば、そこでゼロにはならないって思えるようになってきた。 でも、まだ自分の好きなように生きることや、人に優しくすること、人に頼ること、そういうことが正しいのかは自分ではわからない。 そうすることは怖い感じがするよ。」 私が、どうして怖い気がするのと聞くと、「今まで、そんな風に生きてきたことがないから。 そう生きるのは僕にとって初めての経験だから。」と夫は答えた。 普段平日は、閑散としている公園も、桜が満開のこの時期は、多くの人が訪れている。夜、花見宴会をする人たちが、シートを引いて準備をし始めている。 つまずいたり、ぶつかったり、転んだり、そこで待っていてくれ人、手を差し伸べてくれる人、通りすぎていく人、 起き上がる自分の力 私もこの先も、何度もつまずいて、ぶつかって生きていくんだろうな、 ぶつからないように、つまずかないようにと気をつけて生きるより、 ぶつかっても、つまずいても、起き上がれる強さを持ち起き上がるのを待っていてくれる人がいる人生でありたい。
April 1, 2008
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