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夏休みが終了、泰くんの学校がはじまった。忙しく、夢のように過ぎてしまった夏休みが終わり、現実に戻ってしまうのかと思うとなんだかむなしい。
2010.08.31
新しくお墓を作るにあたり、東京で使っていた兄のお墓の墓石も、記念碑として新しいお墓にいれることにしたのだが、寸法がわからない。 そこで悩んでいたら、私たちを迎えにきてくれることになっていたパパが小平までいって、お墓の寸法を測ってきてくれた。写真までとってくれて。 助かるー。さすがー。 青い、きれいな石だから、磨いてあたらいいお墓の隣に並べることにした。これにともない、小平のお墓は引き払って、兄のお骨も改葬ということになる。 前のお墓の改葬手続き、お骨を出して移すこと、そのために魂抜きをしてもらうことの手配など、これもあわただしくすすめなければならないが、あまり情報がなくて、とにかく電話しまくることがいっぱい。 この2週間、どれだけ新しい経験をつんだことか。
2010.08.28
葬儀社の担当者が、喪主である兄にむかって「妹さんは社長さんか何かやっておられるんですか?」と聞いたらしい。兄がびっくりして普通の主婦ですけど、なんで?と聞いたら「あまりにてきぱきしておられるので‥」と苦笑いしていたらしい。 まあ、家族がなくなってすぐなのに、ものすごい勢いで決めることを仕切ったからびっくりされたんだろうけど。気がつくと、葬儀社の担当者もお墓を作る石屋さんも、電話してくると喪主の兄でも母でもなく、妹さまはいらっしゃいますかと言ってくる。よほど私いばっているんだろう。 この日も、25日に打ち合わせたあとお墓のモデルパターンをいくつか作って連絡すると言ってたはずの石屋さんから連絡がないのでイカって営業に電話をいれたところ、即効担当者から電話がきて、家にすっとんできてくれた。 まあ、うちの場合納骨を五十日祭に間に合わせるのに、お墓を土地から買うところから始めるので非常に忙しい。普通、お墓を買うのも大変だから無理に49日にあたる五十日祭に納骨することもないと思うんだけど、母の希望でなんとしても五十日祭までにと決めただけに猶予できない事情がある。 結局29日にちゃんとしたレイアウト図を持ってくるということになったのだけど、その前に私は東京に帰ってしまうので見られないのが残念だ。 母が少し精神的にハイになっているのも気になる。兄も仕事が始まり、兄の子供たちは二人とも学校が始まっている。少しずつ、夢がさめるように現実にひきもどされていくかんじ。 父がなくなってから、外に対する細かい渉外をずっとやってきたけど、義姉にひきついでまた東京に一人戻るのは、なんとなく仕事を投げ出すような気分だけど、いつまでも夏休みにひたっているわけにいかない。せめて、あれこれわかるように告別式関連のことやこれからやること、手続き、書類などを整理しておくことにした。 なんてたくさん、仕事があるんだろう。 世帯主が亡くなるということはなかなかに大変なことで、さっそく銀行も止められてしまい、ガスや電気などのライフラインも引き落としがとまり、振込書が届いてる。これを解除するためにはすべての相続人の印鑑登録証と印鑑が必要。これは私も東京に帰って手続きしてこなければならず、一度帰ってからもう一度手続きにもどってこないといけない。故人の、今年1月から亡くなるまでの税金を決めるために準確定申告もしなくちゃだし、年金の手続きだの車の名義変更だのまだいっぱいある。父の場合は職場を2回変わっているから年金も共済と厚生年金と国民年金の3つあり、面倒くさい。書類みてもよくわからない。 それでも、兄と私と義姉の3人、フルに働いてなんとか先が見えてきた。これ、一人でやるのって本当に大変だと思う。こんなとき、家族って大事だなとしみじみ思う。 それと、あれこれ自分のもの、わかるようにしておかなきゃだな、と思ったりも。あと、数日。夏休みが終わる。
2010.08.27
この日は父の誕生日だった。あと10日生きていれば、82歳になったのに。誕生日をお祝いしてあげたかったのがとっても心残りだった。 亡くなる前、手帳に何回も日付をあれこれ書いていた。26日はある意味、メモリアルデーだったのは間違いない。誕生日までは生きていたいと思っていたはずだったのに、10日前の16日にいってしまった。おじいちゃん、間違えたのかねえ‥と母と話した。
2010.08.26
二十年くらい会っていない、幼馴染の友達に会えた。 地域の風習で、地区の自治会長が必ず葬儀に来ることになっているのだけど、そのとき代表焼香でどんなに偉い人より先に呼んでくださいと司会者が言ったのだが、自治会長が今年だれなのかがわからず調べたところ、なんとたまたま私の幼馴染で一番仲良しだった友達のお父さんだった。これも父の引き合わせか。
2010.08.25
先日、一本の電話があった。父がなくなってからいろいろな電話がかかってくるけれど、その電話は生前の父が待ち続けていた電話だった。 勲章の申請をするので、書類を書いて欲しいというしらせだった。 父は、かつて国立病院の院長をしていたので、勲何等だかなんかがもらえるはずだった。が、やめて久しいときがたっても国からは何のしらせもなく、そのうちには「小さな病院だったし忘れられちゃったのかなぁ」といたくがっかりしていたものだった。 私はあまりそういうことには関心がなくて、そうなんじゃない?とあまり気にもかけていなかったが、今になっていざしらせを受けてみると、亡くなってから勲章くれるなんて、待っていたのに‥という思いがこみ上げる。どうしてもっと早く‥と思ったが、兄が調べたところ、その勲章というのは退職してからじゃないともらえないものらしい。 父の場合、なくなる直前の7月末まで職場に籍があったので、収入もあって、勲章の対象からはずれていたらしい。 それでも、亡くなるまで2週間あったのに。もうちょっと早く知らせてくれていたら、父は勲章の名誉を胸に天にのぼれたのにな、と残念で仕方がない。 父の勲章の書類を書くのに、詳しい経歴が必要なのだが、正直何年何月からどこに働いていたか、という正式名称だとか正式な年月日がわからず、父の部屋に入って書類をひっくり返し、ほこりまみれになって探しまくった。 どうしてもわからないところがあると兄に聞いたら、兄が「とうちゃんの寝室の戸棚に、日記があるからそれを調べてみたらどうだ」というので、寝室にいって調べてみると、果たして日記が並んでいた。びっくりするのは、それがものすごく若い古い時代のものからずーっと年代順に丁寧にラベルまではってあり、目次つきで本のようになって並んでいたこと。 おかげで、ものすごい量の日記を全部読まなくても、ある程度検討のつくあたりを読んで、正確な年月日を調べることができたし、父が東京から群馬にうつってきた経緯なども知ることができた。 これは人に読ませてもいい、というようないわばブログのような日記なのだが、中には美しい手描きの挿絵や、入場券、絵葉書などもたくさんはってあるし、家族のことなんかも書いてある。読みながら、自分のメモリアルな出来事を父がどう思っていたのか、今になって知ることができて、涙が出てきた。 こうして、書いておくことは必要なんだな。やっぱり。いつか、子供が読んで何を思うかわからないけれど、なんだか温かい嬉しい気持ちになった。 とはいえ父の若いころからの日記だから、その量は膨大で、実家に帰るたびに楽しみに読むことにして、とりあえず勲章の書類をしあげた。 二階級特進と同じだ。こういうのは、亡くなる前にもらいたい。
2010.08.23
母に一服もられた
2010.08.22
告別式がすべておわってから発覚した、メモリードのミス。対処方法を相談するため朝からまた担当者が来た。
2010.08.21
葬儀場に泊り込んで、この日は告別式。お花が30本もたった。
2010.08.20
通夜の日。メモリアルコーナーに力をつくしてくれた担当者に感動する。
2010.08.19
この日は、湯灌、納棺の日だった。母の兄弟たちが朝から大勢お線香をあげにきて、結局納棺までいて帰った。久しぶりにあう親戚のおばさんたちはすっかり年をとっていたけれど、元気で力強かった。
2010.08.18
眠れない夜をすごしたのに、朝10時から葬儀社の人が打ち合わせに来るというので、めちゃくちゃな家のまま、私と母、兄で打ち合わせに参加した。子供たちは義姉が家でみてくれている。
2010.08.17
8時半すぎ、病院から電話があった。父の意識が薄いのですぐにきてくれとのこと。とりあえず私と母が急いで家を出、兄と義姉には後でくるように頼んだ。 9時15分到着、病室に入ると、大きな枕によりかかるようにして父が横になっていたが、頭はだらんとたれ、目はとろんとして力なく、薄く白いまくがかかっているようだった。 「きたよ、おじいちゃん!」と声をかけるが、反応なく、窓のほうをむいたきり目がまったく動かない。 必死で声をかけ、手をたたき、顔をみせると目がかろうじて少しうごくが、体にまったく動きなし。看護婦さんがきて、話を聞くと早朝すでに意識が薄かったとのこと。一目見て、もう意識が戻ることはないのではないかと思う状態だった。 母の顔をみると、母も蒼白だった。そのまま病室をいったんでて、電話して兄と義姉、子供たちを呼んだ。それから、兄に頼んで実家の電話帳を探してもらい、東京にいる唯一の弟にも連絡をつけてもらった。 電話してるうちに病室に先生がきたようだった。母が、私のノートに先生の話したことを書き留めていた。 「あと数時間です。点滴とモルヒネ少々、痛み止めいれます」と書いてあった。 ふと気づくと、寝ている父の顔はいつの間にか伸び放題だったヒゲがそられてきれいになっていた。髪もボサボサだったのに、昨夜のうちに短く切りそろえられていた。 昨日のうちに退院の準備をしていたんだな。ぼんやりそう思った。きれいにして、退院しないといけないから。ホスピスの看護婦さんたちは、こういうことになれている。ナースセンターに、父の担当看護婦さんが詰めていた。目が赤かった。泣いてくれてるんだ。 それから、シャツを着替えて下着を代えるために婦長さんがきたが、手をかけて父の顔をみて、道具をしまってしまった。 「動かすと呼吸がとまりそうなので、後にします」ということだった。 呼吸は、とぎれとぎれだったけどまだしっかりとあった。聞くと、バイタルはしっかりしているとのこと。バイタル、つまり血圧と脈拍。血圧はその時点で134-74、脈もきっちり。意識が薄いものの、すぐに心臓がとまるかんじでもないとのことだった。 じっと窓辺に座っているうち、1時間くらいして兄夫婦と孫たちが到着。大きな声をあげて元気に子供たちが入ってくる。これから旅立ちを迎える人の病室とは思えないほどにぎやかになる。 おじいちゃん!おじいちゃん!おじーちゃーん!きたよー! 次々に孫たちが声をかけると、突然とろんとしていた父の目が動いた。窓辺をむいて動かなかった目にかかっていた白いまくが突然おちて、右から左へぐるっと目が動く。孫たちに気がついたようだ。子供たちが手を握ってさすったりしているうちに、父の顔に生気が戻り表情が出た。 しばらくは動けないようだったが、時間がたつにつれ、身体を起こし始めたので、母と私も「きたよ!きたよ!」と声をかけると、無言でうなずいた。今日は声がぜんぜん出ない。何かいおうとするのだけど、ヒューヒューとかすれた音が喉からするばかりで、声にならないのがわかった。ストローをさしてコップに水をいれ、渡すけれどストローを吸う力もない。そこで、母がティッシュをぬらして父の口にふくませてやると、もっともっとと欲しがった。 何回かその方法で水を飲ませると、ようやくかすれてよく聞き取れないながらも声らしきものが出てきた。耳をぐっとちかづけ、ようやく聞き取ったのは、「なんで‥‥こんなに‥‥‥くる‥しいの?」という言葉だった。 今日は痛みと息苦しさがひどく、水をさかんにほしがり、何度もティッシュで飲んだ。 再び、やっとのことで「レスキュー」と言った。痛み止めのモルヒネをいれてくれ、という言葉。看護婦さんがきて、太ももにレスキュー専用の管をつけた。30分ごとにいれますから苦しかったら呼んでください、といって帰った。 レスキューが入ると、目に光が戻り、手も動くようになる。 子供たちはたいくつしてDVDをみたり暴れたりするようになってきたので、母がいったん家に戻りなさい、と言った。義姉は帰りがたいようだったけれど、涙をおさえていったん帰った。兄もあきらめたように「一度戻るよ。たのむな」と帰った。兄は、もう父が数時間しかもたないのがわかっていたのに母の状態をみて、あきらめたんだと言っていた。 兄たちが戻ってしばらくするともう少し父は元気になった。朝きたときは完全にこの世を去りかけていたのに、死のふちからいったん戻って目が見えるようになったらしく、私と話ができた。 「おまえがきたからよかった、目がみえるようになったよ。今日は船がみえるんだ、チャンスだな」と苦しい息なのに言った。危篤なのに、やっぱりまともな話はできないのかな、と思ったけどすでに話があまりできないのでうん、うん、とうなずいた。 そのうち、看護婦さんがもう一度きて、薬をいれかえたり水を飲ませたり、身体をふいたりしてくれた。母が、今しかいえないと思ったのか、「もうすぐ誕生日だから退院してフランス料理食べに行く?」といったら、「いけないよ」と言った。 看護婦さんが「いいですね、毎年行ってるんですか?」というと、母が今まで父がいかにグルメであれこれ食べにいったとか、海外にいったときにこんなことがあって‥というような、食べ物に関する話を始めた。しゃべってるうちに、だんだん愚痴になってきちゃって、当の本人が目の前で死にそうになってるのに「本当にしょうがない人なのよ、食べ物では苦労したんだから」なんて言い出す。父は半分おきて聞いているんだけど、情けないような、でもちょっと笑顔で私を見る。聞こえないけれど「またかーちゃんがとうちゃんの悪口いってるんだよ~」と言ってるのがわかる。 そのときが、思い出すと最後の幸せな瞬間だった。最後の日にあんな顔がみられてよかった。最後まで、おこられてる父が笑ってるのが嬉しかった。 再び言葉がなかなかでなくなり、手のひらに指でかいて知らせていた。 私と母、看護婦さんが父を囲んで3人で談笑している最中に、父が急に、手のひらを見せて何かを伝え始めた。 「一」その下に「夕」、夕のとなりに「ヒ」と書いた。それから人という字。 死人? え? 看護婦さんもびっくりした。死人? 死ぬ人? 母も聞き返す。 私にはわかった。最近父が書く、手帳をよく読んでいたから。人に見えた字は、カタカナのヌだ。父は昭和一桁うまれだから、カナ文字を時々カタカナで書いていた。せん妄が始まってからは、昔の習慣に戻ることが多く、古いことをよくしゃべっていたけれど文字がカタカナと漢字で書かれていることが多くなってきたのに気づいていた。 父は、この日自分が死ぬことがわかったのだ。医者だからなのか、死ぬ人はみんなわかるのか、わからないけれどとにかくこの日死ぬということがわかって、私たちに知らせたのだった。 看護婦さんや母には通じず、何いってんのと混ぜ返されてしまったのでそれ以上言うのをやめてしまったが、父はまだ伝えたいことがあったのかもしれない。 そのうち、東京から弟が到着した。私には久しぶりにあう叔父さんだ。字数制限を超えるかも。続きは後で。
2010.08.16
母と二人で言ったら、今日はおきていて、「目が見えないからお前かわりに見てくれ」という。また、いつもの戦闘の話で、「味方の船がどっちをむいてるかみてくれ」という。 食事がきているが、またいっさい手をつけない。牛乳をやたら飲む。 母が飲ませている梅のエキスの粒を一つ飲む。それ以外は薬ものまない。シーツのわきから、薬が出てくる。看護婦さんに見せると、一つはわかるが、もう一つはわかりませんね、と言った。 しまった、父が勝手に前の病院からとりよせて飲んでる薬だったらしい。見せちゃいけなかったかな。 看護婦さんに、看護に必要なものが足りないので買い置きくださいといわれるので、売店に買いに行こうとすると、めずらしく「だめだ、お前はここにいてくれ」という。 「目が見えないからここにいろ、船を見てくれ」と手を振って怒る。 母がイライラしてきて、ほっといて帰ろう、きりがないと言って病室を出て行ってしまった。 私も、「今日は帰るよ、明日またくるから」と言ったら、手をふって怒ってる。 でも、いつものことだと思って「バイバイ」と声をかけたらおこってそっぽをむいている。 そのまま、病院を出た。なんてことをしてしまったのかと今は思う。 この日こそ、一晩中ついててもいい日だったのに。 次の日、早朝に電話がくるまで。まだ父はずっと病院でこのままわけわからないことを言いながら生きていけると思っていた。
2010.08.15
今日は母、私、パパの3人で行く。行くと、起き上がれず寝ている。 ご飯はまったく食べない。看護婦さんに聞くと、この日は朝も食べなかったらしい。薬も飲まないので、痛み止めのモルヒネを鼻薬にかえるとお医者さんが言った。 声もあまりでない様子。 この日は、もうすぐ夏休みが終わりなので東京にかえるパパが、最後になるかもしれないと父と話をよくしてくれた。誰がみてももう、別れが近いのがわかる。 帰るとき、看護婦さんに呼び止められる。 「旅立ちの時が近づいています。前にお伝えしたものは用意されましたか?」といわれた。 用意するものとは、退院のときの衣服と、家で寝かせるための布団。そして、葬儀社の手配だった。 母は、このところずっと「きっと長生きする」と言っていたので、少なからず今日の状態をみてショックを受けていたよう。
2010.08.14
この日も母は行かないというのでまたパパと二人で行く。行ったら、お昼を看護婦さんと食べているところだった。看護婦さんは、家族がくるとナースセンターに帰るので、その後をひきついだが、最初にスプーンのあとが3つついているきりで、その後は食べようとしなかった。結局この3口が父の食べた最後の食べ物だった。 朝は3分の1くらい食べたというので無理に食べさせるのはやめてさげてもらい、話をしようとしたが、昨日かなり動いたから疲れたらしく、起き上がるのもつらいのか一度寝たらもうおきなかった。ノートに「ほとんど動きなし」と書かれている。 それでこの日は早々に退散することに。寝かしてやるのも大事と思った。 帰るよ、とそっというと、目をあいてなんだか怒ってる様子。いつもの戦いの話で、私たちはここにいないと悪い敵がせめてくる、というのだけど、ずっと寝てるばかりだししょうがないなぁと思って「でも今日は帰るよ」というと、目を閉じてしまった。 怒ったかな?と思いつつ、「バイバイ」と扉から言ったら、返事もしない。 と思ったら、10秒くらいたってから「ばいばい」と手をあげた。あ、単に遅いだけだったかとちょっと安心して帰った。 確実にご飯の量や起き上がる回数が減ってきた。看護婦さんの話では、トイレが間に合わないことが数回でてきたとのこと。なんだか、不安。
2010.08.13
昨日の言葉どおり、母は朝病院へいかないと言うので、私とパパと二人で行った。 行くとやはり寝ている。寝かしておくと、30分くらいたって起きて、私たちをみつけ、いい顔をした。 このごろはお昼にいってもお昼を食べさせるのが大変になっている。 今までも、おかずはほとんど手をつけないが、味噌汁とおかゆだけは必ず食べていたのに、この日も朝が遅かったという理由でやっぱり半分しか食べなかった。 おかゆを半分しか食べない。今までこんなことなかったのに。 トイレはベッド脇で、ナースコールで用を足す。しかしベッド脇に横をむいて一度座ってしまうとなかなかもとの位置にもどろうとしない。以前、ベッド脇に腰掛けていて前にひっくりかえって怪我をしたこともあり、この姿勢は非常に危ない。なんとか、看護婦さんと家族とで元の位置に戻そうとするのだが、重いのである程度は自分で動いてもらわないとベッドの高い位置に引き上げることは不可能。 それでなんとか動かそうと説得したり頼んだりしてやるのだが、動くといって手をかしてようやく立ち上がると、なぜか歩いてどっか行こうとする。つってもほとんど歩けないので、家族と看護婦さんが押し戻してなんとか座らせるのだけど、何回も繰り返してこっちも、父も疲れ果てても全然位置が変わらない。 結局2時間頑張ったけどまったく動かすことが出来ず、看護婦さんに頼んで仕方なく帰ることに。 いったん病室を出たところで、パパが「いけね、忘れ物」。時計を忘れたという。しかし、家族の顔をみるとまた長くなるので、看護婦さんにとりにいってもらう。病室の近くまで私がいってみると、結局前を向かせるのが難しいので、机のほうをまわして、ベッドに横向きのままおやつを食べていた。 看護婦さんが話しかけると「おーぅ」なんて快活な返事をしている。そっとみると、なんだか父がかわいらしく見えて、自分の心の狭さが情けなくなる。 この日はこれで帰った。 後で聞いたら、私たちが帰ったあと、おやつのおまんじゅうは全部食べられたらしい。 甘いもの、お好きなんですねぇと看護婦さんがにこにこしていた。 これも、最後のおまんじゅうだった。やっぱり、思い出すと泣ける。無理に前に座らせようとしないで、机をまわして好きなように座らせて、まんじゅう食べるとこ一緒にいてあげればよかった。
2010.08.12
いつもどおりお昼ごろにつくよう、病院へ。 昨日、すごくまともになっていたので、期待をして家を出る。 しかし、今日は昨日の疲れたでたのかうってかわってひどい状態だった。 じっと座って、また何かの空想の戦いの話をし続ける。シーツの模様のラインをみて、この線が何かの境界線なのだと言ったり、ティッシュの箱の裏を読んで、何かの戦いの切り札なんだよと語る。現実のことを言ってみても、「そうだな‥そうするか」と気のない返事を返し、すぐにまた戦いの話に戻っていく。 そういう状態の時に、お着替えやトイレ、食事をするのは大変なこと。看護婦さんがやろうとしてもすごく怒るので、母が着替えを手伝おうとシャツに手をかけると、手をふって暴れ、「うるさい!」と怒鳴った。そのくせ、怒鳴ると急にしゅんとなり、「怒鳴っちゃった‥どなっちゃったよ」と気にする。 見ていると、看護婦さんも母も、時間を気にして早くさせよう、早くおわらせようとして両方から声をかけたり、きつい物言いをしている気がする。 父も動こうとするのだが、やはりせん妄があってなかなか進まないから見ていると大変イライラする。介護の現場で、患者さんが虐待されるというのもわかる気がする。子供の面倒をみるのによく似ているが、違うのは、相手が大人で、大きくて重くて、しかも尊厳をもった年配者だということ。子供みたいにしかりつけたり抱えあげてすむ問題でもない。ここの看護婦さんたちは専門だからよくわかっているのだけれど、それでもイライラはするようだ。 せめてあまり印象を悪くしないよう、私が父を説得して動かすのだけど、時間もかかるし日に日に大変になるようだ。 それでも、看護婦さんは「家族の方がいると笑顔が増えるんです」という。 家族だから、聞いてあげれるし、時間もかけられる。でも、家族だからこそわがままになることもある。つまり、プロと家族の両方の協力で頑張るしかない。 やっとおちついたところで、母とまた窓際の椅子に座り込んでいたら、眠ったと思っていた父が、私たちが座っているのと反対側の、誰も居ない空間に向かって話しかけていた。 「今日もなぁ、いっぱい話せて楽しかったなぁ、○○。よかったよなぁ、○○」 ○○は私の名前だった。よかったよかっという父の顔がにこにこしているので、また悲しくなった。 この日は、病棟で月に一回開かれるイベントの日。今月は、夏祭りだ。 近くの医科大に通う女子大生が、浴衣できてくれ、歌を歌ったりカキ氷やヨーヨーつり、わた飴屋さんなどを開いてくれるらしい。子供たちも今日は来ているし、せひ父にも参加してもらおうと、看護婦さんたちも強く勧めてくれる。 しかし、この日はせん妄が非常に強く、何を言っても動くのが難しい。トイレをするのもやっとだし、一度ベッドのはしに座ったらなかなかもとの位置に戻ってくれず、頭からひっくり返りそうなので危なくてしょうがない。 こんな状態で無理だよ、と母がいうけれど、看護婦さんに車椅子をもってきてもらい、父を誘った。しかし、すでに開始時間をすぎてホールからは歌が聞こえてくるのに、父は車椅子に乗るのを拒み、結局あきらめてしまった。 子供たちを義姉にあずけきりだったので、私も祭りの様子を見に行ってみる。すると、子供たちがカキ氷を食べていて、ヨーヨーを釣ったんだと嬉しそうにもってきた。そこでせめて父に祭りの雰囲気だけでも味合わせてあげたいと、ヨーヨーとカキ氷をもらって病室に盛っていくことにした。 病室では父がさっきと変わらぬ姿勢で座っていたが、ヨーヨーを見せると少し嬉しそうにした。水の入った冷たい感覚が、父を少し呼び覚ましてくれたらしい。 「向こうでお祭りやってるよ。浴衣のきれいなお姉さんたちがいっぱいいるよ」というと、すごく嬉しそうな顔をする。あ、そうだ、父はおねーさんが好きなんだったと思い出して、「みんな若いおねーさんたちと一緒に写真とってるよ。一緒に行こうよ」というと、「そりゃいいなぁ~、いってみるか」と言い出した! 恐るべし、おねーさんパワー。あのすごい状態からここまで復活させてくれるならなんでもいいや、といかにたくさん浴衣のきれいな人が来てるか語りまくると、父はかなりやる気になった。そこでさっそく看護婦さんを呼び、もう一度トライするので車椅子お願いします!というと、看護婦さんも急いでもってきてくれる。 おねーさん、おねーさんと連呼しながら父を動かし、車椅子に乗らせることに成功!祭りが終わる前に、と急いで廊下を押して走り出すと、父が「待て!」という。 「何?」 「めがね持ってきて」 ‥‥。合点だ! めがねがなくちゃきれいなおねーさん見れないもんね。てことで、病室にめがねを取りに戻り、急いで祭り会場へ。祭りはすでに最後のほうだったが、新しくきた患者さんにおねーさんたちが取り囲んで顔をくっつけんばかりに写真をとってくれる。すっかり細くなった手をとり、やさしく話をきいてくれ、カキ氷も食べさせてもらって父もご満悦。 ヨーヨーも自分で釣ることができ、楽しい時間がすごせてよかった。 しかし、あまりにおねーさんの連呼をしすぎたせいか、母はちょっとへそをまげているようす(^^;) 父は祭りの後だいぶ疲れてしまい、すぐに寝入ってしまった。祭りが終わったのが4時だったけど、母もずっといたせいで疲れたのとやきもちだったのかわからないけれど、「今日は長く居すぎた、疲れたしあんなふうに元気になれるならきっと長生きするだろうからもう明日はこない」と言い出した。 祭りだったから今日は仕方ないよ、と言ったものの、母は「あんなのにつきあってられない、明日はもういかない」の一点張り。 看護は疲れるよね。これもまた仕方ないか。 そしてこれも後から思えば、この日を境に、次の日から本当に父の旅立ちのカウントダウンが始まった。
2010.08.11
この日から、父の状態を日記につけ始めた。認めたくなくても、父の弱り方は別れが近いことを予感させるものだったから。 思い出すのは悲しくてつらいけど、忘れたくないことでもある。涙ばかり出てくるけれど、書かなくてはいけない気もする。自分のために、書けるときに書いておく。 ◆◆◆◆‥‥◆◆◆◆‥‥◆◆◆◆‥‥◆◆◆◆‥‥◆◆◆◆‥‥◆◆◆◆ 12時過ぎ。行ったらお昼も食べずに寝ている。気持ちよさそうなので寝かしておく。最近夜眠れないらしく、昼間もうつらうつらしていることが多いと看護婦さんの言葉。 寝ている間に、机の上にある手帳を開くと、昨日私たちが帰ってから、6ページも何か書いてある。ほとんど読めないようなよれよれした字で、しかしやはりせん妄に取り付かれた内容だった。夜通し、自分のおかれている状況を分析してたたかっている話なのだけど、現実にはありえないような話が書かれていて、父のせん妄が深いことを思わせる。 でも、そんな中に、一文、見つけた。 「○○○(私)とこんなにも終日話せてよかった」と書いてあった。どうやら私は、父の夢の中の戦場で、将軍をつとめているらしい。強敵を前に勝ち目のない戦いを続けている父に、夢の中でも力になれたことが私にはただ、うれしかった。 14時10 おきて自分でナースコールし、用を足す。この週に入り、自力トイレが難しくなった。歩けないので、どんどん筋肉が落ちて足は棒のようになってる。 それでも、たっぷり寝たせいか少し元気になり、いつもより明晰に話をする。とはいえ、話しているとところどころにせん妄が混ざる。 今日は戦国大名の前田家になっているらしく、母に「太閤殿下がどうでるかだな‥庭でも歩いてみるか?」などという。母も、医者に言われたとおりなるべく話をあわせようとするのだが、目覚めていても夢の中に居続ける父の姿が悲しくてしょうがないらしく、すぐに「しっかりしてよ!」などと話を壊してしまう。それも、悲しい。 でも今日は父にいい知らせを伝えるのだ。 父が、つい先日まで仕事をしていた病院の事務長さんがきてくれるのだった。 その事務長さん、Yさんは父の右腕として、長く一緒に病院をきりもりし、親グループや患者さん、その他もろもろのことに対して一緒に闘ってきたいわば同士。父が弱ってきてからはすっかり頼りにしてきていたし、Yさんも慕ってくれていた。 父が入院し、7月末で退社してからも元の病院でずっと事務長をしていたのだが、父は何か遣り残したことがあるらしく、せん妄が強くなってからたびだびYさんの名前を呼ぶようになっていた。 先日も、何か別のことをしようとして父を説得している最中に、「よしわかった、やろう。今すぐやろう。それじゃYさんを呼べ!」と突然大声で叫びだす事件もあって、みんなあわてていた。思いつめた母がYさんにお願いして、この日きてもらうことになっていたのだった。 Yさんがくるのは3時すぎとのことなので、母と二人まちながら父と話をしていた。 Yさんがきて、職場の話をいろいろしてくれた。父はすごく安心したような顔で聞いていて、退社直前に始めていた改造計画の話を楽しそうに聞いていた。心の中はまだ退社していなかったのだな、と思った。Yさんも、そのへんはよくわかっているようで、「先生に書いていただきたい書類もたくさんあるのでこんどお持ちします」などと言ってくれる。 Yさんと話をしているときの父はまったく、病院長の父であって、せん妄は少しも出ていなかった。顔つきもかわり、病が遠ざかったかにも見える。 Yさんとの話の中で、家族の私たちに父が訴えたかったことが一つわかった。 父は、「俺はボケ老人じゃない」ということを一番いいたかったんだ。 何日か前、父がおかしなことを言い始めたあたりから、看護婦さんも、家族も、父がせん妄にとりつかれてしまったことに気づき。そしてその時間が長くなるにつれ、いつのまにか父が言うことをまともに聞こうとしなくなっていた。 颯ちゃんよりも小さい幼児が何か言ってるみたいに、「はいはい」と聞き流し、父の声がよく聞こえなかったりすると、適当に自分で推測して返事をしてたりしてたのを父はよくわかっていた。そして、自分がそういう態度で扱われることを一番恐れていたのだった。 もともと医師で、院長で長く人を指導する立場にいた人だったのに、この病院ではもはや看護婦さんも「おかしなことを言うおじいさん」としか見ないようになってくる。薬のこと、酸素のこと、その他いろいろな処理のことでそういえばよく看護婦さんと喧嘩していたのはそのせいだったのか。俺はボケていない、そう思いながらも、漢字や薬の名前が思い出せなくなる。ふっと意識を緩めると、何を言ってたかわからなくなる。それが、我ながら恐ろしく、しっかりしないといけない、時々自分を見失うことを知られてはならない‥そう思っていたのだという。 Yさんに訴えるように言う父の話に、はっとさせられた。 そういうば、さっき、父に「ピンクのコップに水をいっぱいにしておいて」といわれたとき、目の前をみたら黄色のコップしかなかったから、私が「はいはい、黄色だけどね」と返事して水を汲んでおいたこと。私は、父が間違えて黄色をピンクといったのだときめつけていたけれど、Yさんとの話の中で父が「洗面台にピンクのコップがあるんだよ」、と言ったので見に行ってみると、たしかにそこにもう一つ、ピンクのコップがある。つまり、父は「すでに入ってる黄色のコップのほかに、もう一つピンクのコップにも水をいっぱいにして、すぐ飲めるように並べておいてほしい」といいたかったのだ。 けれど、父は肺がんだから息が苦しくて、あまり長くしゃべるのが難しい。意識が朦朧としていることも多いし、せん妄の入った話をしている時間も長い。だから、家族に要求することが言葉足らずになってしまうらしいのだ。しかし、そのわずかな真実の言葉を拾い上げて、理解してあげることができなかった。それが、父には悔しい。誰も彼もが俺をボケ老人扱いするんだ、と言った。 この言葉には本当に自分が、おざなりになっていたと気づかされる。父は、一生懸命、病と闘い、薬や酸素のせいでおそってくる妄想と戦い、医師であり院長である自分を守ろうとしていたのだった。 もっと、父の立場で話をきかなくては、と思う。 Yさんが帰っていき、父はとてもすっきりした顔をした。1日の日からひっかかっていたことをなしえたのかもしれない。 長く話をしたので、疲れたようだった。 その日が、最後に父とまともに話せた日だった。
2010.08.10
父の話が、かなりやばいかんじになってきた。 一生懸命話をきいているのだけど、本気で戦いの中に自分がいると思っている。病院の人が敵で、自分を監視していて、油断するとガスを送り込んでくるんだと言う。 兄に、メールした。夢の中とこっちをいったりきてりしている様をむなしくて、伝えたかったから。
2010.08.08
7月末からこっちへきて、毎日料理をするようにしている。
2010.08.07
余命3か月と宣告され、ホスピスに入院した父を見舞うため、7月末から実家にきて一週間。 毎日毎日病院に通っていて、これ以上人は弱れるのかと思うくらい、一日一日父の衰えを見ました。 でも、疲れて眠りながらも父はまだ医者であり続けていたし、いろんなことを深く考えている頭脳明晰な人でした。それが、8月に入って仕事を退職して数日後から何かを恐れるようになりました。 そして、そのおそれていたことが始まってしまいました。 父の言うことが、理解できなくなってしまいました。難しい顔をして、何者かと頭の中で戦いを始めてしまい、心はそちらにむいたきり戻れなくなりつつあります。 もうあまり現実のことに関心はなくなってしまったようです。 この状況から再び戻れるのかと思うとよくわからず、不安で悲しい。 ただ、涙がでるばかりです。
2010.08.06
最近自分で母の車を運転して病院に行くようになった。
2010.08.05
おばーちゃんが見てしまったらしい。影。
2010.08.04
単身東京へ戻り、パパの病気の検査のため、二人で大学病院へ。
2010.08.02
パパの大学病院の検査が明日あるので、単身東京へもどることに。
2010.08.01
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