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この前は、山道間違って瀧で行き止まり、険しかったので改めて、本日アタックしてきました。若王子山の頂上に位置し、杖を付き持って休み休みで呼吸を整え健長者は片道20分のところ3時間掛け、疲れてしまいました。団体さんそして連れの方たち可なりお会いすることが出来ました。従って本日は、コメントのご返事も出来ない状態ですのでお許し下さい。明日ご報告するつもりです。 哲学の道の始点少し紅葉ががってきました 標識の左下が哲学の道 疎水 向かって左 八重の墓 右新島襄の墓バックが山上の林
2013.10.31
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銀閣寺から法然院そして安楽寺沿いに哲学の道があります。その疎水の入口に、熊野若王神社があり、過日道を間違い苦労して、瀧を見て折り返ししてきました。本日、新島襄そして八重の墓地にアタックしてこようと思います。 法然院の側にやはり念仏修行の安楽寺があります。(非公開)キリスト教への弾圧だけでなく、解かり易く一般民衆にも会得出来る法然上人・親鸞上人の説かれた宗教に法難の歴史がありました。安楽寺山門の前に掲げた「京都市の立札」です。 安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配竜流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市 入口の門 本堂 本堂の背景庭園 千両 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。 一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。 女官 鈴虫・松虫の五輪石塔 五輪石塔に至る 小さい門 後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】 (1107年) 仏道の僧でありながら罪とされました。 (謹んで訂正しました。)心無い権勢は出来ません、それから14年後に【承久の変】(1221年)鎌倉幕府を打倒されるはずが失敗後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡島へ天皇が配流され土御門上皇は自ら土佐で過ごされました。天皇が配流なんて、私の時代には教わりませでした。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 仏足石【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。帰路からみた表門
2013.10.31
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京都の紅葉は地元紙の予報では、11月中頃からと報じています。八重の桜、先週は会津の戦士山川の妹10年間のアメリカ帰りの「山川吉松」娘を嫁に欲しいとした薩摩藩の「大山巌」が、会津の敵・味方に禍根が残り、山川の兄は血相変えて反対しました。その前に吉松は八重に相談に訪れ、八重から自分と将来を共に出来る人と私は新島襄を決めたと話しました。そして見応えは、八重が一計を大山と「腕相撲で決着」をと提言大山は女ごときにと一笑に付しますが、いざやってみると八重が優勢そこで、捨松が思わず、「大山さ~ん」と声を発したので、八重は捨松の真意と決意が判り、力を弛め、大山も負けるところでしたと白状。山川の兄も、大山に「お義兄さんよろしく、もうこの館内では過去の遺恨は消えました」とありました。現在の日本の平和の誕生と思いました。来週は、新島襄が上京して、亡くなるとのこと。その屍が此処法然院と並ぶ東山の一帯に眠られることに成ります。 此処暫く【法然上人さん】の威徳を偲んで、更新しています。 銀閣寺から岡崎・円山そして清水寺に亘っての足跡が遺されています。特に清水寺では、釈迦堂と並んで阿弥陀堂があり、その場所で法然上人が念仏道場として初めて開かれたとされて上人像も祀られています・【法然院】 浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。明日安楽寺ご紹介します。 参道 此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。 境内 境内 境内 萱葺の内から撮った門 椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。
2013.10.30
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やっと秋らしく、成りましたもみじは11月末ごろになりそうです。 京都大学に最も近い観光寺院の【真如堂】です。旧三校の校歌 くれないもゆる に出てくる「吉田山」に位置します。金戒光明寺に隣接し、奥に存在する「会津藩の殉死の墓地」を通り抜けますと、「三井家の墓地」から真如堂に通じています。 法然上人さんが、比叡山からの辿られた寺院関係を続けています。 応仁の乱を免れた阿弥陀如来さんを祀る 三重塔【真如堂】 (しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」 (旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、 【頷ずき弥陀】 (うなずき)と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、 「修行者の本尊に成って下さい」 と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」 と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。 向井去来の歌碑法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。 涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。嵯峨野落柿舎にも小さい墓がありましね。【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清涼寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来 左端が大文字です。8月16日送り火が灯されます。 涅槃の庭 ねはん背景大文字如意ケ嶽 涅槃の庭の別庭に近代感覚の石庭【涅槃の庭】 (ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶(マヤ)夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。 春日局の桜【春日局の桜】 本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 境内に去来の寺がありました。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。 ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)何れも、最近アップしました関連のお寺が当時から数え歌として民衆の人々に親しまれた寺院であることが、伺えそうです。次回は、哲学の道沿いの法然院に参ります。
2013.10.29
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秋晴れの気温も低めで良い季節になりました。JR 東海の「そうだ京都へ行こう」では、南禅寺塔頭【天授庵】をアピールしていました。11月15より11月30日まで紅葉の特別公開で、書院から紅葉の庭園が観られる絶景です。 寺院ばかりでなく、秋の花を求めて尋ねました。賀茂川の上流に沿って府立植物園に菊花展を開催していました。写真だけでもご鑑賞願えれば幸甚です。カンナ背景に温室展示館が有りますジンジャー1ジンジャー2ジンジャー3何れもハワイでは首飾りわするそうです菊花展飾り バラ園も コスモス カンナと噴水小雨が降って来ましたサルビア コリウス と ノゲイトウ トレニア・バイロニー 盆栽時には花を愛でて散策するのもいいものですね。次回は、頷き阿弥陀の真如堂に参ります。
2013.10.28
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台風皆様のところ無事だったでしょうか。お見舞いします。 三門前のみかへり阿弥陀如来石塔 境内広場 観光堂内玄関 パックに多宝塔(開山の御廟所)【永観堂】 浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都山号 聖衆来迎山【紅葉の名所】法然上人八百回遠忌 内庭 勅使門の市松模様の砂紋 龍が巻き付く唐灯篭 四百年前のもの 臥龍廊下 多宝塔通路に繋がる。 仏像は撮影禁止のため、イメージとしてボスターで 【見返り阿弥陀】 全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。 【永観堂の七不思議】. 抜け雀 火除け阿弥陀 大火事にも燃え残られた阿弥陀像 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。「臥龍の廊下」廊下は、龍がうねるように曲がって造られています。涙を流される観音菩薩像。.本尊「見返り阿弥陀如来像」境内はとても広く、入り口の門の小さいわりに奥行きの深いことに、驚きます。観光される穴場かもしれません。境内の池楼閣への階段 一番奥に阿弥陀堂があります。 多宝塔 多宝塔からの京都の街 永観堂境内展望 【みかえり阿弥陀と永観律師】 広い寺院の境内で高所の奥に「阿弥陀堂」があり、そのみかえり阿弥陀像の前に、お寺さんの手書きで素晴しい,ことばが書かれていました。 このみかえり阿弥陀如来のお姿勢を現代に問うならば 「遅れる者たちを待つ姿勢」 「自らの位置をかえりみる姿勢」 「愛や情けをかける姿勢」 「思い遣り深く周囲をみつめる姿勢」 「衆生とともに正しく前へ進むリーダーの把握のふりむき 真正面から おびただしい人びとのことを案じて 横を みかえる事には しばられない姿勢」 これがこの仏さまの み心ではないでしょうか。と 春の陽気で水鳥が 境内にある永観堂幼稚園児のために思い遣り 明日は府立植物園に菊花展を。
2013.10.27
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府立植物園・菊花展今回、アクセス150,000達成の節目を戴き、皆様の多くの方々からご祝意を賜り、心強く嬉しく感謝で一杯です。今後とも京都観光を楽しんで戴けますようよろしくお願いいたします。 関連性をもつて、観ていただけますと、それぞれの意向に、共通する深い趣がうかがえそうです。 南禅寺は、鎌倉中期に禅宗として、建てられましたが、 応仁の乱または火災で焼失してしまいました。庭園は有る程度遺されました。徳川時代に再興された南禅寺そして塔頭が現代のこされています。本日の金地院(こんちいん)は徳川家康と懇意にあった崇伝和尚が庭師、小堀遠州に庭園を造りました。 【金地院】 東照宮への道 鳥居が立っています。 南禅寺の塔頭の一つで、「三門」の前の「中門」の外に位置します。徳川家康に仕えた「崇伝」が京の地に【東照宮】を造営し、今に残っています。 苔庭 参道 本殿入口 東照宮本殿 本堂の前には、枯山水の「鶴・亀の庭」として大きい岩が横たわっています。東照宮に対して吉慶を象徴した【祝儀の庭】とされ、「小堀遠州」 作と云われています。二条城の庭園も同じくです。 鶴・亀の庭枯山水庭園 方丈庭園「八窓席の茶室」は遠州好み「三畳台目」の茶席で名席とされています。明日、文章のご案内で、永観堂をご紹介してみます。
2013.10.26
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アクセス数150,000は昨夜達成しました。就寝後でした。3年10ケ月、殆ど毎日、繰り返しでもありますが、京都観光はその日の環境によって違った雰囲気を感じます。そして観光を通じての歴史のことも偲びつつも、多くの方々のご訪問を受け感謝しています。これからもよろしくお願いいたします。 ブログ名:京都観光をご案内し・・・総アクセス数:150038 アクセス(平均 107 アクセス/日)開設日数:1402日(開設日:2009/12/23)日記記入率:95.2%石川五右衛門で有名な「ああ絶景かな・絶景かな」のセリフをのこしたという南禅寺三門のすぐそばに天授庵の庭園が三門の上からも眺められます。 本日は、南禅寺開祖の【大明国師無関善門禅師】をお祀りする開山塔で枯山水と池泉回遊式庭園と東庭と南庭に分かれた趣の深い庭園で三門の上からも垣間見ることが出来ます。八重の桜に関係する寺院としてコースに入っています。八重のお兄さん山本覚馬の先に生まれた「みね」と夫の「横井(伊勢)時雄」の墓地があるということです。伊勢は同志社第1回卒業生で第3代総長みねは産後思わしくなく、24歳の若さで2児を残して亡くなりました。【天授庵】 南禅寺の塔頭庫裏の入口 南庭への入口石畳が菱形で龍の蛇腹正門からの道も苔に満ちた石畳 此処の見所 正面が正門 苔庭南庭に通ずる書院 竹林も見えます 池泉回遊式庭園作者不明でも、南北朝時代の様相が伺われます。本日は写真だけで観察してみてください。800年の 遺された 平和な景色が 私たちの時代に壊したくないです。明日も南禅寺の境内にある塔頭に参ります。
2013.10.25
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ブログ名:京都観光をご案内し・・・総アクセス数:149992 アクセス(平均 107 アクセス/日)開設日数:1402日(開設日:2009/12/23)日記記入率:95.2%21時40分おやすみなさい。
2013.10.24
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時代祭の歴史絵巻が皆さんに観て戴いて感謝します。ブログ友の「赤いバラさん1960」も行列の最終地平安神宮の模様をアップされていますので、是非観てみてください。23日のコメント蘭からアクセスしてみてください。お陰で、一日のアクセス数も新記録で盛況でした。もう少しで今日明日、150,000に届こうとしています。皆様の応援のお陰です。感謝です。 南禅寺 の境内にに 南禅院 があります。此処も 「夢想国師」 の作庭とされています。規模は小さいですが、庭園の基礎要素の瀧・石橋・鶴島・亀島などが全て備わって、調和の素晴らしさが鑑賞できます。 【南禅院】 開基 無関普門 南禅寺の境内で、【水路閣】レンガ造りのアーチ形を潜り石段を少し登った所に有ります。同じく「水路閣」を更に登り詰めますと、疎水の勢い良く流れる水路を眺める事が出来ます。 こじんまりした庭園ですが、 【夢窓疎石】 の作庭で、庭の要素は、瀧を始め揃って存在しています。南禅寺の発祥の地で、徳川綱吉の母に当たる「桂昌院」の寄進により再建されました。紅葉の時期も素晴しい景色を見せてくれます。 苔の庭園 池のある庭園 夢想国師の作庭鎌倉時代 の中頃【亀山天皇】が風光明媚のこの地に離宮禅林寺殿をたてられました。また天皇は禅宗帰依されて寄付されました。南禅寺の発祥の地とも言われています。 応仁の乱で焼失、現在の建物は元禄16年綱吉の母珪昌院によって再建されました。 【水路閣】このアーチを潜り抜けた場所に南禅院の小さいお寺があります。案外知られていない紅葉の名所でもあります。この水路閣の行く手は、哲学の道に通じその山手に 新島襄と八重の家族の墓地があります。何時しか再度アタックして、取材してみたいです。次回も南禅寺の境内の塔頭にご案内します。
2013.10.24
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観覧席2列目でしたが、とてもラッキーだったのは、本物の舞妓さんとお姉さん三人の艶やかな姿が、必然的に映る場所でした。 行列の始まり葵祭の旗明治維新の鼓笛隊西郷隆盛 坂本龍馬【江戸時代】 徳川城使上洛式長踊りとお囃子で思わず観覧席の拍手で和やか大名行列の奴さん和宮吉野太夫 【安土・桃山時代】 牛車羽柴秀吉織田信長 【室町時代】足利将軍細川氏 応仁の乱山名氏 応仁の乱風流踊り 【中世婦人列】 大原女淀君静御前 【平安時代婦人列】巴午前横笛 滝口入道常盤午前清少納言・紫式部小野小町 【神幸列】 祭りの終わり御鳳輩(ごほうれん)桓武天皇・孝明天皇の御神霊 【白川女献花列】白川女 献花列 最後に、自然の形で舞妓さんの表情が、祭りに参加して共有する姿勢にとても明るく楽しむことが出来ました。不思議なお恵みと思いました。
2013.10.23
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詳細は、明日更新します。2時間半の行列で、帰ってきて疲れました。コメントに応じられなくってご免なさい。15万アクセスにもう少しとなりました。皆様のご後援に心より感謝いたします。
2013.10.22
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本日は、京都の 都が出来た、誕生日の【時代祭】です。12時からの行列、85才京都に住んで初めて、観覧席の予約をも買ってきました。どんな人物が、平安講では採り入れているか取材してきます。 足利義満の定めた、京都五山の上位は 【南禅寺】でした。 昨日建仁寺は第三位でした。五山の上位 南禅寺第一位 天龍寺第二位 相国寺第三位 建仁寺第四位 東福寺第五位 万寿禅寺足利義満がきめたので、大徳寺・妙心寺は断ったそうです。 三門 三門から参道 【南禅寺】 臨済宗南禅寺派大本山 開基 無関普門 山号 瑞龍山 禅宗五山の上位に格式が高いことが伺われます。五山の1位天龍寺2位相国寺3位建仁寺4位東福寺5位万壽寺とされています。【三門】は義賊「石川五右衛門」の楼上よりの「ああ絶景かな・絶景かな」と歌舞伎で有名に成った【楼門五三の桐】(さんもんごさんのきり)の一場面です。傾斜の急角度の梯子を伝って楼上に登りますと、その光景が体験できます。 法堂三門より参道の正面に【法堂】(はっとう)が有り、狭い窓から内部が見にくいですが、正面に「釈迦三尊」が天井には、龍が画かれています。 水路閣 【水路閣】 (すいろかく) 京都をイメージした明治の名所で、ポスターによく紹介されます。レンガ造りでヨーロッバ風のロマンチックな風情を感じます。 水路閣の上、疎水の流れ その上には「哲学の道」へと京都唯一の坂に逆らって北に向かって流されています【疎水】の分流が流れています。 田辺朔郎博士像 【琵琶湖疏水】 明治2年工部大学(東大)卒業論文に【田辺朔郎】(たなべさくろう)が運河により滋賀から京都への物資の運送に便を成し、そのうえ「蹴上の地」で傾斜を利用して「水力発電」を計画。日本で電車弟1号を発車させました。その論文を採り上げた京都府初代知事【北垣国道】 (きたがきくにみち)の英断で、苦難と財力の超過で完成。そのため知事を誹謗して「こんどきたがきは、ごくどうもの」と名前でなじったそうです。現代【水】に恵まれ、疎水の周りには、桜並木が何処も彩り、人の心の潤いに大いに寄与しています。銅像は「蹴上」に田辺工学博士が、平安神宮の西の方に「北垣知事」が今も見守ってくれています。 【本坊】受付の前に履物を脱ぐ場所に、 【脚下照顧】(きゃくかしょうこ)禅宗の教えで、履物を揃えて置く様な心掛けで、禅寺を鑑賞するとよりよく、理解出来る意味で書かれていました。確かに以前も何回か記していますように、禅宗の寺院では、修行僧の行事か、「塵一つ落ちていません」 清浄感を味わうことが出来ます。廊下には、「五山の寺院の名」「東山三十六峰の山の名」が掲げてあり、一つの部屋の向う小庭には、「シシ脅し」のセットが見られます。(詩仙堂参照) 方丈庭園 【方丈庭園】「小堀遠州作」と言われる、枯山水の立派な白川砂で覆われた広い庭園に縁に坐って、ボタンを押す事で、説明が始まります。片隅の岩の配置は、【虎の子渡し】 を象徴するように、豪華なものです。襖絵は、狩野派の親子三代「狩野元信」「狩野永徳」そして「狩野探幽」の立派な絵が観られます。特に「探幽」絵の「水飲みの虎」は、有名です。何故か「三尊石」を象った石群があちこちの庭に見られます。新島襄と八重のご家族の墓地は、南禅寺境内から隣接した山中に眠っておられます。昨日アタックしましたが、失敗しました。
2013.10.22
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本日、八重の桜に関係する場所を巡って来ました。明日は、時代祭初めて観覧席の予約を取り付けて来ました。時代考証でどんな人が登場するのでしょうか。京都府庁明治の建物八重の兄、山本覚馬が目が見えなくっても、京都府府議会に当選。初代議長薩摩藩邸跡同志社大学正門新島襄が薩摩藩邸を譲られ大学を建てました。同志社大学正門校内風景教会聖堂と緑地帯聖堂たまたまオルガンの練習中で中に入れませんでした残念。ステンドグラスで飾られ、新島襄の絵も掲げられているはずでした。八重の開いた女子同志社高校正門校舎正面玄関新島襄・八重の墓の入口熊野若王子神社和歌山の熊野権現の出先とも考えられます。また哲学の道の始点南禅寺の境内からの続きです。 墓は若王子山の上にあります山裾の右に永観堂と南禅寺の境内になっています。神社からも見上げられます新島襄そして八重の眠る墓を目指して臨んだのて゜すが、道の入口が4カ所あり、最も主たる広さの道を間違って選び、瀧で突き当りでした。杖を付き持って、喘いで険しい石段を登り、足が笑ってしまいましたので次回に改めて、新島襄たちのお墓をアタックしてみたいです。 人は、道を誤ると取り返しのつかないことが、肝に銘じました。 でもお山の雰囲気が隣接している気持ちで観て下さい。本来、南禅寺で葬られるべきでしたが、耶蘇(クリスチャン)というだけで、無縁さんの葬られる山上の墓地となりました。本来の道と思いました瀧も神格化しまと鳥居が設けられるのですね。清らかな谷水でした苔が古いですお地蔵さんに会えてほっこりしました。行き詰まりが瀧でした。がっくりしました。山から絶えることのない一筋の瀧一番右側の道に道しるべがありました。次回この道を辿りたいと思います。神社から望んだのがまちがいで、しっかり道標がありました。滝と書かれた道を選んだ゛のですね。同志社の共同墓地とも記されています。健長者で20分とも書かれていました。初老の男の方が独り下りて来られました。聞けば大阪からと言う事でした。ドラマの面白さが伝わるようでした。明日は、南禅寺その次時代祭の登場人物をご紹介してみたいです。
2013.10.21
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八重の桜の八重が、新島襄が没後、お茶の道と禅の道に興味を持ち此処、建仁寺に足繁くかよわれたといわれています。熱心なクリスチャン宣教師でもあり、兎角非難もありましたが、「日本人として良いものを学ぶことが何故いけないのですか」として続けられたようです。京都観光の八重の桜コースに入っています。八坂神社の境内を出ますと、【祇園】の街です。舞妓さんの踊る、祇園歌舞練場に隣接して、雰囲気は、一転して清楚に掃除の行き届いた、禅寺 臨済宗【建仁寺】に至ります。足利義満の決めた 京都五山の第三位に格付けされています。国宝・風神・雷神と天井の龍が有名で、そして庭園が美しいです。風神・雷神は観音さんに仕える二十八部衆の両側に位置して祀られることが多いです。 風神・雷神図 国宝の模写 【建仁寺】 臨済宗建仁寺派大本山 開山 明庵栄西 開基 源頼家 山号 東山 京都最古の禅寺で、鎌倉時代建仁2年(1202) 二代将軍源頼家(よりいえ)の庇護のもとに建立。年号を採って【建仁寺】とされました。朝廷政治から、武家政治に変わったころでもあります。 栄西(ようさい)禅師は、中国より、お茶の種を持ち帰り、高山寺で初めて栽培、喫茶の茶祖です。【建仁寺の学問面】(がくもんづら)秀でた禅僧排出されたことから。 禅問答の掛け軸○ △ □ の字は 江戸中期に書かれたそうです。 唐子の襖絵中国では安産を願って描いたとされます。兎の襖絵 風神・雷神の襖絵 【方丈】「大雄苑」の名の枯山水庭園が広がります。花頭窓(かとうまど)からの方丈庭園 本尊は、十一面観音菩薩 【徳川秀忠・江】の娘 和子姫(まさこ) 後水尾天皇の中宮。【東福門院】寄贈三尊石の庭園【潮音庭】四方正面の三尊石 四季折々に苔も美しい。 【茶席・東洋坊】茶室の西側に有名な「建仁寺垣」が観られます。法堂天井に双龍が描かれ云います高台寺は建仁寺派今回双龍を採り入れました。 天井・双龍絵ほかの寺院では めったと写せない天井龍です。【法堂】(はつとう) 釈迦如来と脇侍に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)尊者が祀られ、天井に平成14年画かれた【双龍】小泉淳作筆が観られます。(あうん)の口をした2匹の龍が描かれ、阿形の手には玉を掴んでいます。禅寺では、龍を飾っていますが、龍は仏法守護として、また水の神として、雲を呼び、仏法の教えの慈法雨を降らせるとしています。【風神・雷神図】【国宝】(俵屋宗達絵)は、江戸時代。見事で有名です。現物は、京都博物館に保存。 十六羅漢像【陶製一六羅漢像】明治から大正にかけて作成 龍の襖絵【雲龍図】海北友松(かいほうゆうしょう)襖絵春日局の父君の友人 橋本関雪の襖絵 昭和15年大修理で60面描かれました。 祇園花見小路歌舞練場の側に、建仁寺が広い伽藍で、静寂の境内に臨みます。今回、ブログでご紹介しました【両足院】【半夏生】はその塔頭の一つでした。建仁寺・塔頭【両足院】半夏生京都観光寺院として、堂内は全て、写真撮影禁止とされていますが、驚きと感動を覚えました【建仁寺】は全て写真撮影可ということでした。皆様にご紹介出来て嬉しいです。次回は、京都五山の上とされる【南禅寺】参ります。
2013.10.21
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昨日そして今朝も雨が降り続き、気温も20度となりました。 日本の歩んで来た歴史を偲ぶことが出来ます。菩提する心は大切にしたいです。本日は、清水寺から三年坂維新の道ねねの道そして円山公園までの散策についてご紹介してみます。京都らしい風情の味わえる散策道でもあります。 法観寺【八坂の塔】五重塔別の角度から 三年坂写真の手前を左に曲がったところから二年坂・一年坂 【台所坂】の長い石段を降りますと、「ねねの道」に至ります。降りたところに、 【円徳院】が有ります。襖絵は、長谷川等伯作と云われています、小さな庭園が楽しめます。院内に「三面大黒天」という珍しい像が祀られて居ます。ねねさんも時折寝泊まりされたとか。円徳院庭園【霊山観音像】 「高台寺」の南隣接して、大きい観音像がコンクリートで戦後造られました。 霊山観音 維新の道 維新の道「ねねの道」の南端から、東に掛けて「維新の道」が急な坂道として登りますと、 京都霊山護国神社北側に【京都霊山護国神社】があります。戦争で戦士された英霊が祀られて居ます。観音像は、更に目だって大きく、航空機でも存在が判るほどです。幕末の頃に「招魂社」として建てられ、維新の頃の亡くなった550柱の墓があり、 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓特に「坂本龍馬・中岡慎太郎そして、木戸孝允」の墓は、有名です。 龍馬たちは京都の都を見守っているようです。 高台から京都の街が見おろせます。霊山は「りょうぜん」と読んでいます。 ねねの道素人・舞妓姿に変身して楽しむ方も多いです。 石塀小路 大雲院・祇園閣 大雲院は、浄土宗で、本能寺の変でなくなった織田信長・長男信忠の天皇勅命による菩提寺で、墓地には、碑が立っています。そして盗賊「石川五右衛門」の墓があり、墓石があちこちあやかりたいとして欠けているそうです。因みに戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」 贈り名に 十字と多いこと 寺格の院を配するなど、従来高位の人、社会に著しく貢献した人に、贈られるもので、正に当時の義賊と賞賛されたことが伺えます。非公開寺院ですが、予め申し込まれると拝観可能のようです。円山公園、音楽堂の前に佇んでいます。 円山公園円山公園の再び坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像明日は、八坂神社から建仁寺へ参ります。
2013.10.20
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我が儘な夫を最後まで、ねねさんは支えてきました。 高台寺庫裏の入口 【高台寺】 臨済宗建仁寺派 開基 弓箴(きゅうしん) 山号 鷲峰山 豊臣秀吉の夫人「北の政所ねね」が秀吉没後9年後に建てたお寺で、後陽成天皇より下賜された「高台院」にちなんで名付けられました。秀吉並びに生母・養父母そして木下家の菩提を弔うべく建てられたようです。徳川家康もねねさんには敬意を表し、普請に要する費用も援助したとか。伏見城に有った【薬医門】【傘亭】【時雨亭】なども移築されて残っています 三門薬医門の「蟇又」には、「見返り狐」と「うさぎ」が飾られています。庫裏横の受付より庭園に入っていきますと三門【薬医門】蟇股の中に兎裏には狐 【臥龍池】(がりゅういけ)が「蓬莱形式庭園」として広がります。鶴島・亀島はおおきいです。 鶴島・亀島の庭園池を巡りながら【楼船廊】(ろうせんろう)の最中に屋根を一段高く「四方唐波風」で【観月台】が目立ちます。東山からの出る月の眺めは、侘びを感じます。 観月台【開山堂】北の政所の兄「木下家定夫妻」も祀られて居ます。格天井がみものです。 開山堂【臥龍廊】 「開山堂」から「霊屋」への渡り廊下です。龍の様に曲げられています。 臥龍廊【霊屋】 (たまや)の政所は、寛永元年(1624年)9月6日77歳で逝去。此処に眠っておられます。「おたまや」と愛称されるほどに、【蒔絵】(まきえ)が豪華で、「五七の桐」紋を交え、特に夫、秀吉が好んだ「朝露」を、「秋のすすきの葉に露の玉」を採り入れた「ねねさん」の気持ちが痛々しく伝わるようでした。 「花筏」「浄土の様楽器」の蒔絵には、ねねさんの思い遣り、希望の念じ方が伝わるようでした。霊屋の内陣に、秀吉・ねね夫人の坐像が飾られていました。 ねねさんの御廟【霊屋】 「大阪城の落城」で燃え盛る火炎を、どのような悲しみで、眺められた事でしょうか。更に高台に、【傘定】と【時雨亭】が昔のままに残されています。中には自由に入れます。 傘亭時雨亭【方丈】は、最近立派に建てられ、【書院】では「おうす茶」も楽しめます方丈庭園観月台から南東の山を眺めますと、【阿弥陀が峰】が見上げるように見えます。ねねさんはひとりどうにもわがままを通した秀吉の菩提を弔っていたのでしょう。 高台寺の石段を降りますと、市民から誰が名付けたか「ねねの道」があります。見下ろすと 【八坂の五重塔】 が見えます。 法観寺の八坂の塔 大雲院の祇園閣石川五右衛門の墓
2013.10.19
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平安神宮の祭り今年も10月22日は、京都の三大祭のひとつ【時代祭】がおこなわれます。平安講の主催での登場人物に、織田信長は登場しますが、その列に羽柴秀吉として、行列に加わります。一方、徳川は家康を含め、各将軍の登場は無く、徳川時代は和宮が参列しています。太閤贔屓の方々も多く、戦国時代は、誰も信用できない用心深さが仇になったのかもしれません。京都の遺跡で、殆どご存じの無い、秀吉の残虐も、目を覆うものが有ります。一方、家康にしても、方広寺の釣鐘の銘で、因縁を付けて豊臣滅亡の所作も、心に懸ります。徳川時代15代過ぎて、明治になり、豊臣も解放されて、むしろ出世頭と褒め讃え、豊国神社として神にまで祀られました。太閤記も一時もてはやされました。歴史の真実は、図り知られませんが、今回の耳塚そして瑞泉寺を思う限り、歴史の悲哀を感ぜずにはいられません。秀吉の墓も、徳川時代に野党たちに宝物をと、荒らされ、真実のほどが判らなくなっています。私が以前より疑問視していましたのは、現在墓とよばず【豊国廟】と称されていることが不思議でした。遺言で山上から京の都を見下ろせるところにといったことで墓守も、護れなかったかもしれません。自業自得とも哀れです。因果応報のことばが、恐ろしいことです。
2013.10.18
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豊臣家の短命と徳川家の長期維持は、身内子孫を邪魔だから排除したか、多く育んだかの形で歴史は変遷して行ったと思います。京都の佳いところばかりでなく、時には歴史上の弱者の悲哀を偲ぶことも、知っておくことが大切とも考えました。 【瑞泉寺】 (ずいせんじ) 山号 慈舟山 浄土宗禅林寺派 前関白豊臣秀次公御一族四十九宝塔菩提寺坂本龍馬の京都木屋町の寓居跡 第二代槇村知事が造った京都の繁華街「新京極」のそば、坂本龍馬寓居の址【酢屋】(すや)と高瀬川を境にほんのそば三條通木屋町下がった位置に、人知れず菩提寺が有りました。太閤秀吉の姉「とも」の子、従弟にあたる 【秀次】 当初近江八幡43石の大名でしたが、秀吉の嫡男鶴松の幼くして死去に実子が恵まれず、秀次を養子に受け入れ後継者として、聚楽第まで建てて、関白の位まで授かってもらった処淀君との間にやや【秀頼】が産まれるや否や、難癖をつけて関白職を奪うばかりでなく、高野山に追放の上自刃に追い込まれました。聚楽第も焼失させるほどに、それだけでは気が済まず、何の罪も無い秀次に仕えた側室・侍女及びその若君4名・姫君1名も三條河原で斬首。その場に、切腹した秀次の首まで晒したという醜業は目にあるものを覚えます。天下人の用心は、肉親をも信頼出来ないで、世にも恐ろしい地獄絵を見せ付けました。後に高瀬川を開削した 【角倉了以】 が、刑場の址地とされる此処に菩提寺を建てたとあります。 記この堂の中央に安置された地蔵菩薩は、秀次公一族の処刑の際、刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授けたと伝わる尊像です。極楽浄土へ死者を導く【引導地蔵尊】として京洛の人々に今日なお崇敬されています。 寺伝では「定朝作」 秀次公四十九の供養等四十九の供養等秀次の墓と四十九の供養塔 墓標 鐘の棒の漣のような響きは、悲しみを訴えているようでした。安らかに憩われるようにお祈りしました。 首塚の前に「南無阿弥陀仏」と記された鐘棒五個が鳴らすと、共鳴してカランコロンといとも悲しい音色が境内を奏でていました。 殉職した四十九柱絵図 秀次の首塚三條河原の刑場で四十九柱の遺体を地中に埋め,その上に高野山からの秀次の首を西向きに晒し、三條大橋を渡る人々に晒したという、寺伝が残されています。昨日の侵略による野蛮的「耳塚」と共に、一番に訴えたかった京の街の繁華街に近い,「酢屋」と【瑞泉寺】へ写真を撮りにいきました。殆ど人は、存在をご存知有りません。でも歴史で悲しい出来事は、太閤の栄華の蔭で歴然と残されていました。秀次の無念さを考え、四十九の御霊の菩提を祈ってまいりました。難を逃れた武将たちは、のちに関ヶ原の戦には、徳川方に就いたとも言われています。 布団着て寝たる姿や東山 服部 嵐雪七条大橋からの東山右がわ一段と高い山が阿弥陀が峰【頭の形】真ん中清水山【お腹を突き出したような形】左側の低い山は高台山【足元】明日はねねさんの高台寺へ、旦那が高いところなら私は地中深く低いところで、旦那をそっと見守りたいと。
2013.10.18
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台風26号の爪痕、犠牲になられた方々のご冥福とお見舞い謹んで捧げます。 一昨日NHK放映の【さっちゃんのお気楽ブログ】として好評手書きの絵画が人気があるようです。有名人に成られ「堀江幸子」とGoogleで検索しても、ブログが出て来ました。是非お試しを 許は天台宗のお寺の境内が、後白河上皇の院政に移り鎌倉幕府で武家政治と変わり、豊臣・徳川の支配下になりました。 本日は、昨日の三十三間堂の直ぐ側にある、豊臣秀吉に関係する遺跡をご紹介します。秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さんより大きいものを建てましたが地震で壊れました。再建しても火災にも会って今は存在しません。 京の童歌 「京の、京の大仏つぁんは天火で焼けてなあ。三十三間堂は焼け残った。ありゃどんどんどん、こりゃどんどんどん。うしろの正面にどなた。お猿きゃっ、きゃっ、きゃっ。」 そして死後近くの阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。 あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の菩提寺がないことに、気付きます。 京都駅から、七条通りを東へ、「七条大橋」西詰めから、車を停めて「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きいお腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿にも見えます。 「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪布団着て寝たる姿や東山右方が頭で左が伸ばした足にみえます 豊国廟の500段石段下正面この阿弥陀が峰頂上に豊臣秀吉が眠っています 頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で、「吾が屍を都の見下せる場所に葬れ」と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた五輪塔の石碑があるのみでした。 ねね夫人は、脚元の「高台寺峰」に、「旦那が高い所ならば、わたしは地中深く掘り下げたところに」と謙虚に高台寺に眠っています。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】が有ります。 豊国神社(とよくにじんじゃ)伏見城から移築国宝唐門 豊国神社前 【豊国神社】 (とよくにじんじゃ) 太閤秀吉を祭神として祀られて居ます。徳川家康により焼き払われましたが、明治時代に再建され、拝殿は伏見城の遺構を持ってきています。徳川家康は秀吉なきあと支配し、豊臣秀頼に命じて財産を使わすため青銅の大仏さんを建てさせさせました。この大仏さんも寛永の大地震で倒壊、「寛永通宝」に化しました。落慶法要のときに、釣鐘の銘に家康は因縁を付けました。 方広寺の釣鐘白塗りの部分に「国家安康・君臣豊楽」の銘が書かれています。 【方広寺】釣鐘に有名な「国家安康・君臣豊楽」 の銘があり、徳川家康の曲解で「大阪城冬・夏の陣」と豊臣家は滅びてしまいました。 家康の名を安の字で分断・豊臣が栄えるの意。 方広寺の岩だけ当時のまま残っています。 耳塚供養塔 【耳塚】 「豊国神社」の前の道の側にあり、秀吉が韓国に野望を広げて攻め入り、韓国の罪無きひとびとの耳や鼻を船で日本に持ち帰り、その数で論功功賞を図った惨い仕打ちに、目を覆いたくなるのですが、その被害の霊に対して「供養塔」が建てられています。「瑞泉寺」での、豊臣秀次一党身内でも痕跡無くなるまでの自己防衛の仕打ちと重ね、歴史上真意は如何に。一方神にまで奉じられている現実、太閤贔屓の方も多いでしょうが、その蔭も京都には遺されて居ます。人間の神格化。野望に残忍な犠牲そして、釣鐘によっての大阪城の滅び。因果報応が、この一画に集められた異様な場所でもあります。明日は、その悲劇【瑞泉寺】(ずいせんじ)をご紹介します。
2013.10.17
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台風26号大型で関東地方を襲っています。昨夜17時NHKで大正10年生まれの堀江幸子さん91才の自作の絵画を交えて80才からブログを始められ、ほぼ毎日書かれ2000のアクセスとお元気で色紙に「優しい心」と記されました。拍手。 三十三間堂は、東寺と同じく、仏像の設置の常識が解る、仏像鑑賞に役立つお寺でした。右 本尊 左(上位)雷神・帝釈天(太陽)・吽形仁王 風神・梵天(宇宙)・阿形仁王 NHK大河ドラマ平清盛がありましたが、後白河法皇の壮大な離宮【法住寺殿】の一角に法皇は勅命により清盛に三十三間堂を1164年創建したと伝えられています。柳と三十三間堂法住寺殿跡地三十三間堂外の向いに位置し、そのお隣に75代後白河天皇の御陵そして、養源院が並んでありました。恐らくどなとも知られずひっそりとしていました。 後白河天皇陵豊臣秀吉は、一旦、その広大な法住寺の跡地を我がものとしましたが後に徳川家康によって採り上げられてしまいました。栄枯盛衰の歴史が感じられます。養源院門 【養源院】 浅井長政と徳川の菩提寺当初、淀君が秀吉に頼んで、父の菩提のため建てられました。秀吉亡きあと、豊臣に関係ある建物は壊されましたが、妹【江】(ごう)の願いで、長政の菩提寺は残され、徳川の菩提寺ともなりました。伏見城の【血天井】としても忠臣鳥居氏たちの供養もされています。参道徳川の三つ葉葵参道の現在の紅葉三十三間堂外側からこの向かいに養源院そして御陵があります。修学旅行生がタクシーでそして外人の方も多く見かけます。殆どの方は、日本一細長いお堂の中を1001体の観音像に驚きそのまま退散される方が多いですが、往時火災で持ち出されたのは、観音さんの前に並んだ鎌倉時代の国宝二十八部衆と風神・雷神に観賞されるゆとりも無いようです。タクシー利用の修学旅行生時代は代わり、桃山時代には豊臣秀吉がこの周辺を広く確保し方広寺では高さ19mの木造大仏(奈良の大仏14.9m)を建てたとされています。秀吉死後、墓地を背後の阿弥陀が峰に葬り徳川家康によって、秀吉の所縁のものは、ねねさんの願いで太閤塀と南大門だけが、現代遺されています。南大門と築地塀 瓦に五七の桐紋歴史の流れを推し量りながら、明日から順次寺社の説明にはいりたいです。後白河上皇も、平清盛も、権力を持たれて三っつの事ができないと言われた(加茂川の水・賽の目・比叡の僧兵)72代白河天皇に縁があり、後白河天皇は、鳥羽天皇と待賢門院さんとの子で、平清盛は、父平忠盛だが、祇園八坂神社境内にある忠盛灯篭のゆわれで、白河天皇のご褒美として、白河院の女房祇園女御(妹の説?)与えられた母とも言われています。あれだけ歴史上の有名人物でも仔細が判然としていません。いずれにしても両者気性は激しかったようです。 平忠盛は、一介の北面武士でしたが、冷静に思慮の深さで社僧の命を落とさずに救った手柄が、歴史を変えました。 平忠盛燈篭 八坂神社の社殿の側明日は歴史上名高い方広寺に参ります。
2013.10.16
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修学旅行には、欠かせない観光地のようです。でも時間を急ぐのか小走りに廊下を駆け巡るだけでどれだけの印象に残るものか惜しまれます。観音さん千一体の多さに驚きますがその前列の国宝の二十八部衆像に目を留めてほしいです。1体とは始まりを意味します。それにしても、仏様一体でもご利益は届くと思いますが、後白河上皇は、数の多さで臨まれたようです。世界文化遺産並みお堂と考えられます。【蓮華王院】 【三十三間堂】 天台宗 開基 後白河上皇 山号 なし外人観光客・修学旅行には、人気の高い寺院です。明治の煉瓦風の建物「京都博物館」の南向いに有ります。受付を入りますと、長方形に三十三の間の扉で仕切られた、日本一長い建物に驚きます。観音さまは、人の願いに応じて、三十三身に変化される数に合わせているようです。更に堂内に入りますと、これまた観音さんの立ち姿の多いことに、感歎の声を発せられます。 何せ、真ん中に十一面千手千眼観音菩薩坐像【国宝】(仏師法印湛慶作)が蓮華坐に安置され其の両脇に五百体づつそして、その裏手に一体の十一面千手千眼観音菩薩立像が所狭しと整然と並んでいます。 そして観音菩薩の護身役として前列に二十八部衆と風神雷神【何れも国宝】が並んでいます。左右対称の場合は、本尊より左手が上位です。(私達より向かって右側)例えば。「雷神・風神」「仁王の阿・吽形像」「梵天(宇宙)・帝釈天(太陽)」この形式は、「清水寺」も観られましたし、外でも良く観られますので、参考にされるには、最も身近に大きいお姿で拝観出来ます。頭痛のお守り 何でも「後白河上皇」頭痛持ちだったそうで、夢のお告げにより、紀州「熊野権現」の附近で、自分の頭蓋骨にすすきが生え、その穂が揺れる度に、ずきん・ずきん痛むと。そのことにより34回に及ぶ「熊野行幸」され参詣されると共に、「平清盛」に命じて、数の量の多い仏を祀り頭痛納めに努められたと言う伝説も有ります。お守りの中にも「頭痛封じ」が有るのは珍しいです。通し矢の場所 廊下を巡ると「通し矢」の歴代の名人の額が掛っています。現代でも伝統として、正月成人の日に、女性による「通し矢」の行事が行なわれています。何故?【お柳と棟木の由来】 「昔紀州の殿様が鷹狩りをしていました、すると大事な鷹が、柳の枝に絡みつき離れず、短気の殿様が家来に命じて、木を切ってしまえと、其の時弓の名人横曽根平太郎が名乗り出て、枝を払うことで無事、鷹が救われ、柳の精が喜んだ」後に弓の名人の許に「お柳」(おりゅう)と言う別世の美人が訪れ、お嫁にと二人の間に「緑丸」が産まれました。平和な家庭でしたが、ある時、お柳が悲しくも「私は実は貴方に助けられた柳の精です。京の都に狩り出されることに成りました」と実は此処三十三間堂の「棟木」に供出されることになったのです。でも誰の手でもびくとも動かなかった柳の木に、「緑丸」が優しくお母様と泣く泣く言って、手で優しく摩ると、動き出したと言います。廊下の壁に「三十三間堂と柳の棟木」と題して、掲示されています。皆様、急がれるため殆ど見ておられません。 仏師「西村公朝和尚」さんの二十八部衆の面白い観方を一部披露します。 【神母天王像】は【鬼子母神】 (きしもじん)関東では信仰が厚いそうです。シンバルを両手で鳴らし、その音を目を真中に細め、静かに聴こうとしている彫刻。 我が子が500人も有りながら、他人の赤ちゃんを見ると全て食べてしまう鬼女でした。お釈迦さんが堪らず、彼女の子1人を隠されましたところ、彼女は気が狂ったように泣き叫び探したそうです。其処でお釈迦さんは「500人の内一人でも亡くした母親の悲しさ、喰われた他人の母親の嘆きや如何ばかりか」と諭されました。心を180度改め,幼児を護る安産の福の神に成りました。【阿修羅王像】 (あしゅら)喧嘩・闘争を好み、梵天・帝釈天とも闘いました。これも、お釈迦さんに諭され仏の味方と成りました。眉間にも目がある三つの顔を持ち合わせています。奈良・興福寺の【阿修羅像】は、東京でも大人気となりました。私個人としても、仏像で最も愛好しています。【迦楼羅王像】 (かるら)コブラ(蛇)を常食の巨鳥。鳥頭人身の形を採り、横笛を吹き、右足先で リズム・調子を採るユーモアな像に観られます。インドの神さまです。【帝釈天王像】 (たいしゃくてん)右手に太陽をあしらった鏡を持っています。【摩喉羅王像】 (まごら)眼が眉間も合わせ5個もありますよ。 こうして観ていきますと「仏像」にも興味が沸いて来るのではないでしょうか。二十八部衆は皆国宝でゆっくり観察してみたいです。【十一面千手千眼観音菩薩】 (じゅういちめん・せんじゅ・せんげん・かんのんぼさつ)形として両方に20の手しか有りませんが、一つの手に25の法力を持たれ40×25で1000とされ、実際千の手に近いのは、奈良・唐招提寺の観音菩薩。大阪葛井寺(ふじいでら)そして京都府京田辺の宝壽寺です。正面 次回は、三十三間堂の周辺のご案内をしてみます。
2013.10.15
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仏像については、お寺さんで、殆どが撮影禁止で、許可なくしては撮れません。従って皆様方には、Google画像で検索していただくと観られますので、参考にして下さい。 【仏像の種類】 京都・奈良の観光も、景勝地・史跡を訪ねることも多くありますが、寺院が多く、従って【仏像の豆知識】は知って置かれると、観光の興味が倍加することでしょう。仏像は、経典により考え出されたもので、釈尊入滅後200~300年後造りだされました。種類分けも、悟りの高い仏様から順次表現されています。判り易い様に、会社組織で表してみました。曼荼羅図 (まんだらず)が目で観てわかり易くえがかれています。大日如来を中心にの周りの仏が悟りによって広がる図です。【如来】 (会長) 大日如来(真言密教の根本仏) 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)奈良東大寺の大仏、唐招提寺の本尊 【如来】 (社長) 薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒(唐招提寺)阿しゅく(あしゅく)・宝生(ほうしょう)不空成就(ふくうじょうじゅ)(東寺密教) 【菩薩】 (専務・常務)日光・月光 文殊・普賢・観音・勢至 弥勒・虚空蔵・地蔵 金剛宝・金剛薩睡(こんごうさった)・金剛業・金剛宝(東寺密教)【六観音】 聖(しょう)観音・十一面・千手・准提(じゅんてい)・馬頭(ばとう) 如意輪(にょいりん) 天台宗以外 不空羂索(ふくうけんじゃく) 【明王】 (部長) 不動・愛染・孔雀・降三世(ごうさんぜ)・軍荼利(ぐんだり)大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ) 【天部】 (課長) 梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)金剛力士(仁王)・風神・雷神四天王(持国・増長・広目・多門)・十二神将・二十八部衆(観音を護る)吉祥天(毘沙門天と夫婦)・弁才天(梵天と夫婦)・聖天・鬼母神(きしもじん)技芸天(奈良秋篠寺)大黒天・韋駄天・毘沙門天・執金剛神(三月堂) 【羅漢】 (らかん)(係長)釈迦の十大弟子・十六羅漢・五百羅漢・維摩居士(ゆいまこじ)・無着・世親空也・聖徳太子・弘法大師・伝教大師・法然上人・親鸞上人・日蓮上人達磨大師・祖師・高僧 【一般の人間】 (平社員)【仏像のセット形式】 ゼスチアーで、【仏】を無言で表現するには、「右手」を上にかざし、「左手」は膝前に、手の平を開けた姿で、直ぐ解かりますね。奈良の大仏さんを想像して見て下さい。昨日ご紹介した「故西村公朝和尚さん」の著書「祈りの造形」は、初めて仏像に接するに優しく判り易く書かれています。其の中に書かれています 【施無畏・与願】 (せむい・よがん)の形と称し、「右手」をかざして居られるのは、「不安・悩み等の畏れを取り除く、恵みを施しましょうの仏の意向と考えられ、一方「左手」は、お願いすれば、与えましょうの意向の姿と考えられます。 人間自由意志があり、「求めよさらば開かれん」とも言われ、寺社への参拝は、その現れにあるようです。ご家庭の仏壇の仏さんを見ていただくと殆どがその形のようです。 建仁寺寺院の三尊石 奈良の法隆寺の金堂に【三世三仏】の思想が有ります。南正面に本尊の釈迦如来三尊 遣送の如来(けんそう) 【現在】釈迦尼仏東に薬師如来三尊 遣送の如来(けんそう) 【過去】薬師瑠璃光仏西に阿弥陀如来三尊 来迎の如来(らいごう) 【未来】阿弥陀仏人は、太陽の出る東方浄瑠璃世界から送り出され、現在釈迦の教えに基づき、太陽の沈む、西方極楽浄土に迎えられる三世の思想の表現とされているようです。 ここでお釈迦さん・阿弥陀さんそしてお薬師さんの主だった仏像の見分けたが、興味あります。 皆様、両手の指を開いてみてください。その形がお釈迦さんです。そして親指と小指を交えて下さい。それが阿弥陀さんです。 次に左手薬指だけ曲げて下さい、それがお薬師さんのかたちで右手に薬壷を持っておられることが多いです。 但し、阿弥陀さんの場合は、親指と小指以外に他の指と交えた仏像がたまにあります。平等院のとき詳細を述べます。 次に仏像単独だけでなく、セットの法則のようなものを見受けます。【脇侍の教え】 (きょうじのおしえ)釈迦三尊の場合【慈悲智恵の文殊】(左)【知恵の普賢】(右) 禅寺では 【阿南尊者】(左) 【迦葉尊者】(右)(かしょう)阿弥陀三尊 【慈悲の観音】(左)【智恵と意志の勢至】(右)薬師三尊 【暖かい光の日光】(左)【冷たい冷静な智恵の月光】【釈迦如来の眷属】文殊菩薩・普賢菩薩 十大弟子 【涅槃図】(ねはんず)【阿弥陀如来の眷属】観音菩薩・勢至菩薩 二十五菩薩 【御来迎の図】(ごらいごうのず)【薬師如来の眷属】日光菩薩・月光菩薩(がっこう) 十二神将【観音菩薩の眷属】二十八部衆 東京博物館で一大人気になった【阿修羅像】(奈良・興福寺所蔵)も含まれます。既に、ご招介しました【清水寺】そして何れ記します、【三十三間堂】で観られます。次回三十三間堂の仏さんを紹介します。
2013.10.14
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春に撮った写真です秋の写真 もみじが美しいです 【東寺】 【教王護国寺】真言宗東寺派 開基空海(弘法大師) 世界文化遺産登録 その土地で、1個の【国宝】が有れば、有名になり、誇りを持ちます。此処東寺だけで、建物・仏像・曼荼羅(まんだら)の絵画・書等50点余有り、何だか麻痺しそうで、有り難味が薄れる感じです。京都には、恵まれ過ぎかも知れません。 高さ57mは「日本一高い塔」といわれています。三代将軍徳川家光が再建しました。お坊さんに教えてもらったので、解かったのですが、塔の下層の軒四方に、 「邪鬼」 が軒を支えるように、踏ん張っていました。よく仏像で、「邪鬼」を踏みつけているように見られますが、実は仏を支えていると風にも採れる事が教えられました。訪問されたら是非よく見てやってください。 邪気が軒を踏ん張ってささえています。 Googleの【画像】で東寺の邪気で検索してみてください。 修学旅行生が、「おじさん、ジャッキーの役目しているのですね。」とジョウクを飛ばしていました。 「平安京」が誕生した頃は、東寺の西に【羅城門】(らじょうもん)があり、都の中心【大内裏】(だいたいり)から「朱雀大路」の南端にありました、そして更に、「羅城門」を挟んで、西に「西寺」がありました。今は広い公園に、「西寺跡地」として石碑が建っています。だから京都の中心は、京都駅前の「烏丸通り」(からすまとおり)延長に京都御苑があります。ではなく東に移動しているようです。 薬師如来の祀られる金堂 【金堂】建物が【国宝】です。豊臣秀頼により落慶しました。堂内に入りますとわが国最大の薬師如来のセットが祀られて居ます。真ん中に【薬師如来像】そして仏側から見て「左」に【日光菩薩】(にっこう)「右」に【月光菩薩】(がっこう)そして薬師如来の周りに【十二神将】が観られます。「左の日光菩薩が上位」 多くの国宝の仏像が配置された講堂 【講堂】 建物は(重要文化財) 学僧の学問所で立体曼荼羅(密教浄土の世界)を学ばれる場所でもあります。 現在学校の講堂は、ここから名が生まれたのでしょう。 仏像が21体の内国宝が15体有り、実に壮観です。中央に【大日如来】を中心に【如来群】がそして、仏から見て「左」に【菩薩群】そして「右」に【明王群】が祀られて居ます。「菩薩が上位は確たるものです。【四天王】四隅に夫々、「邪鬼」が踏ん張っています。【明王】は、大日如来の化身と言われ、怖い形相は、世の中で、幾ら仏法を説いても頑固で聞き分けの無い衆生も居るので、そういう者を強化するためとも言われています。【梵天】(ぼんてん)(宇宙を司る)ガルダ鳥に跨り【帝釈天】(たいしゃくてん)(太陽を司る)象に乗っています 弘法大師が祭られた大師堂【大師堂】 (だいしどう)建物【国宝】弘法大師の宿坊。「不動明王秘仏」が祀られ、弘法大師の命日に当たる21日に毎月「弘法さん」として庶民に親しまれ、市が立ち縁日として大勢の人で賑わっています。 京都並びに奈良の観光で、仏像のことを知って置かれると、とても観光の興味が倍化します。 宝物館宝物館内に、ミニ五重塔が飾られています。京都に併せて五箇所にあることになります。仁和寺・八坂・醍醐・東寺に二つ。次回仏像の種類について、少し,ご紹介したいです。「東寺」その意味で貴重な文化を知る機会と存じます。池にう映った五重の塔 かささぎ おしどり夫婦 金堂・講堂が池面に写る。
2013.10.13
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良尚法親王の遺された、人間の一生を仏に護られて過ごしていく様を 曼殊院枯山水の庭園のテーマー 【人生の流れ】薬師如来の世界 来迎への遣送仏 過去仏釈迦如来 五時八教 仏の教え 現在仏阿弥陀如来 浄土への来迎の仏 未来仏 【曼殊院3】 8.「大書院」の縁側に出るや否や、お客様が歓喜の声が思わず 発せられるほどに、美しい「枯山水の日本庭園」が目の前に展開しました。 宝船を表現または鶴島とも申します。9.廊下の角を曲がりますと、【小書院】の屋根が、【雁行形】(雁が規則正しく飛ぶ群れの形)は 屋根が二重に、雁が群れをなして飛ぶ姿 「桂離宮」にも有ります。此処は是非写真を撮られることですね。兄が憎ければ真似はしなかった寧ろ慕うように模倣されています。 10.「小書院」の廊下の屋根は又、【屋形船】の様に造られ、庭園を船に乗って観ることを意味して居るようです。 庭園に沿った廊下が屋形船に乗船して見渡すような作られています。11.その廊下の側に【梟の手水鉢】が有ります。手水鉢の周りに梟が彫られています。月をこの手水鉢の水面に写し、又反射して側の白壁に月の揺らぐ姿を鑑賞します。「間接的月の鑑賞」 手水鉢の四隅に梟があしらってあります。月の光を鑑賞12.「小書院」は、門跡が客を迎える為の最も貴重な場所で、一番奥に構えて居ます。二部屋あり、庭側に【富士の間】釘隠しが「富士形の七宝焼」で部屋の四方に飾られています、客人が座す部屋で、廊下の低い欄間越しに、立って見るのでなく、坐って鑑賞しますと更に美しく落ち着いて観られるように、作者は作庭しているようです。此処からの庭園の観方が最高と言うことです。 一番奥の「小書院」最も大切な部屋からの景色中心に「瀧石」が見えます。 正面にこの庭の中心的存在として、背の高い、 【滝石】 が目立ちます。 「茶室拝見」ご希望の方は、院内売り場で申し出になれば、説明付きで案内されます。 廊下の上に【閑静亭】の額が掛っています。松花昭乗(しょうしょうじょう)の筆によります。13.「小書院」【黄昏の間】(たそがれのま)玉座と床が有り。最高の間といえましょう。「富士の間」との欄間に表菊と裏菊が「市松模様」の透かし彫りで、玉座に灯された「灯」が菊花(皇族)を通して、客人に灯が共有する思考が伺えます。14.【枯山水の庭園】小堀遠州好みの庭園。庭園の要素が整い、眺めただけでも美しさが味わえます。此処【曼殊院の庭園】は他に類例を見ない、【仏教思想】を形で判り易く秘めている意義深い日本庭園と皆様に御紹介したいです。先ず、薬師如来の世界【過去仏】庭園の中心的【滝石】は生命の発生とも取れます。 立っている石を「瀧石」と瀧の流れを表現次いで 釈迦如来の世界【現在仏】庭園の中心部分全体で表現。【亀島】【鶴島】【石橋】【水分石】【蓬莱島】そして【五基の燈籠】(灯窓3・2・1・1・1計八灯窓)はお釈迦さんの50年の説法を【五時八教】に分けて説かれたことで、燈籠で表現。【鶴島】は 【宝船】にも見立てその松の下に【キリシタン灯篭】が有り、燈籠の下部に「十字架」が刻まれています。「良尚法親王」の母上が若狭の京極家で、クリスチャンで有ったことから、偲びつつ置かれたようです。そして、阿弥陀如来の世界【未来仏】「宝船」は西へと庭園の西一帯に赤い霧島ツツジが植えられ、正に夕陽に包まれ西国極楽浄土に迎えられる形式を取っています。 宝船が西向きに極楽浄土を真っ赤な「キリシマツツジ」で此処だけに迎える姿に作られて居ます。15.【宿直の間】(とのいのま)から通路に「華道」の「立花図」「香道」の「書式」「親王「竹」「書道」「竹筆」で書かれた展示が見られます。【黄不動尊】近畿三十六不動尊霊場第17番札所16.最後に【三方正面の壷庭】の廊下に小さい釣鐘がぶら下がっています。近所の農家の民衆の方が、農作物を献上すべく訪れられたときに、合図の鐘といわれています
2013.10.12
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京都の観光寺院の屋内の写真撮影は、殆どといってよいほど禁止され、皆様に直接ご紹介できませんが、幸い、許可をもらって、紹介されています。Googleの画像を選び、「曼殊院の襖絵」で検索してみますと、画像が見られます。「虎と竹」は表玄関正面に、狩野永徳によって、竹を噛みつけている絵画がでてきます。竹は権力、当時の世襲制にたいしての反抗ともとれます。「孔雀の親子三羽」 善光寺さんを祀られた部屋の襖絵ですが、画像には、親子二羽しか写されていません。あと一羽はその右手に隠れて写されていませんが、現物は、「しょぼくれた姿」が描かれているのです。良尚法親王の気持ちを察してか、江戸時代後期の画家岸駒(がんく)が描いています。親子二羽は、お兄さんの方と思われ、母さんに沿って描かれています。お兄さんは、安心しています。同じ部屋に、私の観光案内出来てたころには、「幽霊の掛け軸」が弔はれて。善光寺さんの直ぐ横に置かれて、幽霊の寺院としても有名でしたが、最近受付の方に聴けば、閉まってあって表示されていないようです。お盆の行事の時掛け軸が三枚飾られるかもしれません。いよいよ明日は良尚法親王の遺された枯山水のていえんです。二条城の国宝庭園と同じ、ただし「小堀遠州好み」の作庭とされています。アクセスに意外と曼殊院に関心を持って戴いたので、余話として夕べに記しました。
2013.10.11
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昨日も、30度を超す真夏日で、体調異変を訴える方がおおかったです。 本日、NHKBS3チャンネルて、風土記【さば街道】21時から放映されます。京都の都の栄養源海産物が、届けられた若狭からの街道の様子です。 後水尾天皇 修学院離宮 皇后 和子(まさこ) 後に東福門院 家光の妹徳川家光八条の宮(桂の宮) 智忠親王 長男 桂離宮良尚法親王 次男昭和天皇の時代は、終戦時 【玉音】として 現人神と奉り お声を初めて聞いた感動を覚えています。現在の天皇両陛下は、被災地に於いて 国民の弱者に対して、身の危険も顧みず跪いて、対する人の姿勢にまで目線を優しく合わせて労っておられます。この思想は、皇太子殿下の時代に 此処曼殊院の 良尚法親王の家光時代の封建制度の中にあっての 民を大切にされたことをきっと感じられたものと思います。 【桂離宮】は、良尚法親王の親・兄で八条の宮家として建てられ天橋立が庭園に採り入れられているようでした。母さんが京極家で、丹後を偲ばれての心遣いでしょう。 【曼殊院】では、寺院でありながら、庭園の中心に五葉の松を宝船としてその真中に、【キリシタン灯篭】が立っています。母さんがクリスチャンだったからとのことです。次回報告します。 【曼殊院2】 田舎風の小道を、登り詰めますと、「曼殊院」の勅使門に辿り着きます。門前は急な石段が構えられ、周囲は石垣の上に白壁で五本の筋が入った格式の高い寺院として圧倒されそうです。勅使門の前には、各皇族の方々のご訪問を記念された「植樹」が目立ちます。 順路として「北門」から拝観出来ます。媚竈(びそう) 何気なく通り過ぎる方が多いです。 1.【庫裏】(くり)の玄関面に良尚法親王の直筆で 【媚竃】 (びそう)の額が掲げて有ります。 竹筆の隷書です。論語に「その奥(目上)に媚(こ)びるより、(かまど)で働く人に媚びよ」から掲げられたようです。現世でも中々実行しにくい事柄です。訪問して筆頭考えさせられる、民衆的優しい思い遣りが伺われます。2.台所から大玄関への廊下伝いに、「皇室」の来られた写真が、飾られています。3.表玄関の手前の部屋では、日本初の版画で 「竹」 模様の襖が見られます。 「竹の内御殿」 の趣からでしょう。4.【大玄関】(先入関)は高貴の方の入り口【勅使門】からの玄関です。来客に威厳と興味を、持たせる為に 「竹と虎」 の襖絵が構えています。「狩野永徳」の絵で、此処での見ごたえは、正面の虎が何故か、竹を噛み締めている異常な絵なのです。思考しますに弟ゆえに出家、と言う「竹」という権威・制度に噛み付く絵師の「良尚法親王」への心遣いとも採れます。google【画像】【曼殊院襖絵】で参照5.【孔雀の間】此処でも親鳥と二羽の子鳥が仲良く餌をついばめているシーンから、一羽は母さんと飛び立ち、一羽は残され「しょぼん」としている、そして親鳥は天へと孔雀の一生を江戸後期の絵師「岸駒」(がんく) が画いています。「しょぼん」姿が「良尚法親王」か?岸駒は「清水寺でも虎の石碑」が有ります。又「長野の善光寺の出張先」として「仏間」が兼ねて有ります。一生に一度は「牛に引かれて善光寺詣うで」ここでも済ませます。6.廊下伝いに【大書院】へ「華の間」では、法親王の画かれたカラーの屏風が置かれています。其の隣の間は、天井の桟が、正面に対して突き刺さっている仕組みで、不吉な感じがしますが、後程の「宿直の間」(とのい)も正面床に突き刺さっています。法親王の寝所として何時命を奪われるか、覚悟を決めて居られました。武士の居間の床にも敢えてこの形式を採るそうです。7.【大書院】「滝の間」の襖絵に中国人が囲碁を楽しんでいます。襖に向かって碁盤を眺めながら、蟹歩きのように移動しますと、碁盤が小さく成ったりします。欄間に卍型が見られます。「十雪の間」は【仏間】でもあり本尊は「阿弥陀如来」で他に十一面観世音菩薩(北野神社にあったものを当院に移されました)【曼殊院棚】 は仏間の隣に有ります。 【桂棚】 に似せたもので、「違い棚」は段違いも有りますが、材質も細かく違っていて、芸術美を感じさせます。【大書院】の外側に【塵慮尽】(じんりょじん)の額が飾られています。「よこしまな心を払い取り除くの意が有ります。写真撮影が禁じられていますので、言葉の説明で解りにくいですが次回 最も考えさせられる庭園は写真でご紹介出来そうです。
2013.10.11
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台風24号も過ぎても、10月で31.5度ほんじつも32度の予報がでています。すかっとした秋はまだのようです。 昨日掲載しました、【詩仙堂】と近い位置に存在します。天皇陛下は皇太子殿下の時に二度ほどお見えになっておられます。秋篠宮妃も写真が飾られていました。 本日からの3回分の【曼殊院】は、私の京都観光として、最高の奥深い意義の濃い内容の観光地と心得ます。写真撮影が、禁じられていますので、充分に理解を得られないことが残念です。 勅使門壁には最高位の寺格「5本線の筋塀」があしらつてあります。【曼殊院1】 (まんしゅいん)天台宗の五門跡の一つ 開基 是算(ぜさん)(菅原一門の出身) 大原街道も街中に、「白川通り」から東山山麓に位置し、【修学院離宮】と広域の隣接地に【曼殊院】が静かに存在しています。素晴しい観光地でありながら、観光バスが入れ切れない状況で、コースから、外されています。従ってタクシー貸切を利用されます。 天台宗の格式高き門跡寺で、京都の寺社数ある中で、皇室のご訪問されたのは、少なく、此処では、皇太子殿下・秋篠宮殿下の学生頃に、そして「紀子妃殿下」もお一人で来られた写真が展示されています。 天台宗五門跡から天台座主に成られる傾向も可也有り、現代256世天台座主半田孝淳大僧正は、当所曼殊院に門跡から推挙された方でも有ります。 主人公は、 【良尚法親王】 (りようしょう)で、今から380年前、徳川三代家光の頃、「八条宮智仁(としひと)の次男坊に産まれたばかりに、寺を与えられ僧となられました。いわゆる出家されました。同じ母親から腹を痛め、長男「八条宮智忠(としただ)親王」は父君と【桂離宮】を造られました。【修学院離宮】を造られた「108代後水尾天皇」とは従姉妹同士の関係です。 次男坊のゆえに後継に参与出来ない世襲制に 「良尚親王」のお気持ちを推し計ってか、襖絵などに、それらしく画かれた部屋が有ります。 然し、ご本人は、度量の大きい方で、五道の達人の結果を遺して居られます。そして封建時代に有って、今で云う「民主主義」の優しい志を持たれたことも、遺産として随所に遺されています。書道(竹筆)・華道(立花図)・香道・茶道(八窓茶室)・画道(色彩採用)そして仏への道と。 その上「小堀遠州好み」の「枯山水の庭園」を眺めながら、一生を優雅に過ごされ72歳に遷化されました。一方宮家を継がれたお兄様は、宮家の護持に気を配られてか僅か35歳の若きご生涯を閉じられました。何れが幸せであったのでしょうか? 「良尚親王旗」にも 【竹】 を、図柄に採り入れられています。「竹の内御殿」とも言われます。随所に「竹」が現れます。何故なら、「開基是算」は「北野天満宮」にも関係しその「梅」そして天台宗の本山「比叡山延暦寺」の「松」合わせて「松竹梅」となり、修行の一つに経を唱えながら、わらじ姿で小走りに「阿闍梨」(あじゃり)さんはこのルートを通られます。 【桂離宮】は宮内庁事務所から許可証が必要ですが、此処【曼殊院】も父上と兄上の意に、適う為、「雁行型の屋根」等に離宮の類似点が観られます。「桂棚」に対しても「曼殊院棚」も其の一つで、「桂離宮」の面影が伺い知れます。曼殊院次回に続きます。
2013.10.10
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台風24号が接近しています。充分にご用心のほどを無事に過ぎてほしいです。昨日の【蓮華寺】の素敵な庭園を造られた 【石川丈山】 の住持された【詩仙堂】をご紹介します。 月と庭に咲く花そして自然をこよなく愛でられて余生を送られました。 【詩仙堂】 (しせんどう) 曹洞宗大本山【永平寺】の末寺 開基 石川丈山 山号 六六山 宮本武蔵の一乗寺下がり松 松ヶ崎より白川通りを南下、東に坂を登りますと、 「宮本武蔵」と「吉岡門下」との「一乗寺下がり松決闘地跡」を眺めつつ、更に登りますと、「詩仙堂」の小さい門に辿り着きます。 過っては、皇太子殿下浩宮様が推奨されて、英国の故・元英国皇太子妃ダイアナ妃が訪れられた写真が悲しくも飾られています。 古びた歴史を感じる「山荘」も落ち着きますが、自然で構成された庭も趣が深いです。四季折々に咲く花を愛でて心が和みます。 ツツジが東山三十六峰を表現しています。燈籠が八坂の五重の塔 庭園 額縁に 【酔花醒月】 (すいかせいげつ)と丈山の隷書で書かれています。花の美しさに酔っている内に、何時しか月が出て目が醒めました。 鹿威し 有名な 【僧都】(添水) (そうず)一般に「ししおどし」の元祖 が此処に有ります。水の流れに従って竹筒に水が溜まると重さで、傾き、水を吐き出します。反動で置かれた石を叩く音で野性のししを脅して退散させたという事ですが、近代では、静寂を強調するように、テレビの対話するシーンで部屋の前の庭にセットされるように成りました。 「蓮華寺」の庭園も造園された 【石川丈山】 が寓居された山荘でもあり、仏間も有ります。 59歳の時造営、90歳で亡くなられました。三河の国の出身で、三河武士として25歳のとき駿府城火災の際に、徳川家康の第11子「頼房(のちの水戸藩主)」当時5歳と乳母を救出した功労も有りましたが、大阪夏の陣で家康より「一番乗り」を禁じられていたにも拘わらす、決行してしまい。33歳で蟄居(ちっきょ)を命じられてしまいました。そして髪を切って「妙心寺」に出家、禅僧の修行をしました。 幼い頃より、自然の美しさ特に「富士山」の霊姿が心に焼きつき漢詩を残しました。そして此処一乗寺村に小さな庵を建て、好きな詩と自然の風景、観月も含め一生を過ごしました。 「詩仙堂」の名の由来は、中国の三十六歌仙を一室に、肖像画は、 「狩野探幽」 が画き、「詩仙の間」を中心に呼ばれる事に成りました。 入り口の額には、 【蜂腰】 (ほうよう) 蜂の腰は曲げて居ます。謙虚を表わすようです。 仏間は、比叡山根本中堂の様に、僧の礼拝される場所を低くして、仏と私たちは同じ高さから拝めるようになっています。 仏間の前に、台所で働く人への注意書, 【六勿銘】 (ろっこつめい)の掲示板が懸けられていました。その裏には、【既飽】 (きほう) の字が書かれ、既に満腹、腹八分目の大切さを説いて居られる様です。【六勿銘】 【火の用心】【戸締り用心】【早起き】【粗食】【倹約・勤勉】【清潔・掃除】 一例を記しますと、 「勿妄丙王」(丙王を妄(みだ)りにする勿(なか)れ)「火を粗末に取り扱うな」の意です。丙王(へいおう)を妄にする勿れ 火を粗末に取り扱うな 根族(こんぞく)を忘るる勿れ 盗賊を防ぐことを忘れるな 晨興(しんこう)をいとう勿れ 朝早く起きることをいとうな 糲食(れいしょく)を嫌う勿れ 粗食をいとうな 倹勤(けんきん)を変ずる勿れ 倹約と勤勉を変えてはならぬ 払拭(ふっしょく)をおこたる勿れ 掃除をおこたるな 石川丈山が庫裏(台所)に掲げて下働きの人の心掛けを促した。嘯月楼 【嘯月楼】 (しょうげつろう) 庵の屋上に、丸と四角の窓が有り。一説には幕府に敵対する怪しい者の見張りが、何時しか観月詩歌を詠まれ自然を謳歌されるように成ったと言われています。 明日は、近くにある 【曼殊院】 に参ります。私の観光ご案内で最も意義深い場所と心得ます。
2013.10.09
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台風が近づいています、まだ暑さが異常に厳しいです。体調管理にご留意願います。【鯖街道】 京の都では、野菜類は地元で得られますが。栄養補給として、若狭湾から採れる海産物特に鯖を運ぶため、夕方塩をまぶした鯖を十四里の道を小走りに都に朝方到着、それを美味しく食したといいます。鯖寿司の銘店が京都におおくみられます。福井県小浜市・若狭町 滋賀県高島市 そして大原街道 八瀬を通って、京都市街【出町】に至ります。京阪電車【出町柳】は大阪への始発駅となっています。大原寂光院そして三千院如何でしたでしょうか。その帰途、八瀬(やせ)というところに比叡山に登るケーブルカーの乗り場があり、其処をさらに市内に走ると大原街道道(鯖街道ともいわれます)沿いに【蓮華寺】があります。大原から流れてきた【高野川】の水を池に採り入れています。 こじんまりした小さい池にも、庭園の要素が揃っています。蓬莱山 瀧 石橋 鶴島 亀島 宝船 池泉回遊式庭園 詩仙堂の石川丈山作庭【蓮華寺】 天台宗山門派 開基 実俊 山号 帰命山 大原より「大原街道」又は「鯖街道」を南下します。 途中、「八瀬」では、比叡山に登れる「ケーブルカー」の駅があり、其の先に「ロープウエイ」に乗って、渓谷を見下ろし比叡山の頂上「四明岳」に至ります。八瀬の紅葉も素晴しいです。 更に南下して、街道筋に「蓮華寺」が有ります。しっかりと大原の観光をした後の、こじんまりとした憩いの場所として、お勧めしたいです。 受付では、「散華」(さんげ)の栞が、記念に成ります。「声明」(しょうみょう)による僧数人の大きい法要のお経を唱えられるときに、「散華」が撒かれます。出来れば受付で「お茶券」も頼まれると、後で別室で静かに憩う事が出来ます。 受付の側が既に本尊「阿弥陀三尊」が祀られて居ます。観光とは云え一礼敬意を表すると気持ちも落ち着きます。 大広間に座して、柱の間から「額縁」のように池を巡る庭園を鑑賞出来ます。「池泉回遊式庭園」は「詩仙堂の主人」「石川丈山」の作庭 と言われています。 高野川 ら採り入れた水による「滝の音」は絶えることなく聞かれます。雰囲気充分です。 蓬莱山 不老不死の棲むといわれる「蓬莱山」そして「鶴島」「亀島」があり、 仏の手 「蓬莱山」に通ずる「石橋」の真ん中の下部に、「仏の手」 と言われる石が間を空けて受け皿のように、立っています。仏は直接支えず、いざというときに何時でも支えているという形式です。 宝船 「宝船」は「出船形式」で船の後ろが満載で沈みがちの表現を苔で表わしています。庭内には「薬草」が満ち満ちています。 蓮華寺型灯楼 庭園の奥に「仏殿」があり、其の前には、珍しい「蓮華寺灯篭」が構えています。六角形の急勾配の笠をあしらっています。 魔除の蝉 入り口の施錠には、 「蝉」 の金具が装飾として付けられ、魔除けの意味だそうです。堂内正面には唐獅子と牡丹の白木造りの「須弥壇」があり、左奥に「阿弥陀如来像」が祀られて居ます。 「天井」には、「愛宕寺」(おたぎじ)住職であった「故西村公朝和尚」 の画かれた「龍」が輝いています。 一応鑑賞が終わりました後に、別室で抹茶とお菓子を茶券で頂戴します。 おうすをよばれる部屋の前の小川 前庭には、小川が流れ右手上流には、池と分かれた水が 「水分石」 (みくまりいし)の役目のように水を二手に分ける小さい島があしらってありました。人生の分かれ道とも申しましょうか。とてものどかな風情を味わうことが出来ました。 庭園全景小さい、天台宗のお寺ですが、基礎に基づいて庭園が美しく観られました。明日は、蓮華寺の庭園を造られた、石川丈山の「詩仙堂」に参ります。
2013.10.08
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山形のブロ友【よっけさん】から昨日の勝林院のことは、テレビでも放映され、開創千年紀の奉賛大法要が現在、10月5日から20日まで行われている情報を得ました。知りませんでした。佳きタイミングでした。感謝です。法然上人は近年850回忌が行われました。【三千院4】 「勝林院」では、殆ど訪問者無く、ゆつくり「阿弥陀さんの世界」と「声明の調べ」を満喫出来ると思います。正に民衆の為の宗派「浄土宗の発祥の地」とも考えられる聖地で有りました。外に出て直ぐ隣に、「宝泉院」が有ります。【宝泉院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園 門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林 【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。 【血天井】 が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園 宝泉院庭園 【実行院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】 「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん) (1221年)武士から政権を取り戻そうとして北条義時追放の院宣を下され戦われましたが、敢え無く、鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】(らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。紅葉のころ又賑わうでしょう。雑踏の中でも静かな三千院の奥も愉しんでみて下さい。
2013.10.07
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PCの故障で一週間ごぶさたしてしまい。申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。 一般民衆のために開かれたとする宗派 浄土宗の発祥の基盤となった大原問答勝林院・大原問答【三千院3】 京都市内から、かなり遠い位置に「大原」は有りますので、観光時間の関係で急がれる方が多いのか、又ご存知ないのか、「三千院」の感動をそのままで、「御殿門」から、帰途に付かれる方が、殆どとお見受けします。 その証拠に、秋の紅葉シーズンでは、観光の人並みで混雑していましても、その奥に素晴しい寺院・御陵そして「音無しの滝」を訪問される方は、少なく、ゆったりと味わう事が出来ます。 熊谷直実が座って待機した石法然上人の弟子として護衛のため 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。 そして橋の渡った辺りを「鉈捨て籔」(なたすてやぶ)と言っています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】 天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 受付(殆ど不在)から石畳の道を経て、本堂に履物を脱いで堂内に、そしてボタンを押しますと、堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 京都観光の殆どの仏像は撮影禁止で、貴重な阿弥陀如来像です。親指と人差し指を交えて居られるのが阿弥陀さんです。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】 堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、「法然上人」がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、「証拠の阿弥陀」と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 堂内の裏には小さい緒仏像が、並んでいますがその中に「踏み出しの阿弥陀如来像」があります。人を正に救おうと左足を一歩踏み出す、救いの動的表現を採っていますそして「法然上人」の像も有ります。 殆ど貸切状態の様に、来訪される方は、まばらでゆっくりと、妙なる「声明」のお経を聞きつつ阿弥陀さんの世界に心を寄せて拝観できます。「三千院」の人込みが嘘の様です。次回も三千院の奥の様子をご案内しましょう。
2013.10.06
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皆様にご心配掛け申し訳ありませんでした。お陰で、ただ今PCが扱えるように成りました。明日から、再度更新を続けたいと思います。約、一週間とても心が落ち着きませんでした。嵐山の保津川舟下りも、災害から復帰しました。知恩院の国宝本堂 【御影堂】の解体修理の特別拝観も行われたようです。名人、左甚五郎の 【忘れ傘】はそのまま大事に保存されたとか。京都は10月に入っても30度は14年ぶりとか。朝夕寒暖の差がひどく、体調管理が難しいです。NHK「八重の桜」も、同志社の産声には、難産のようで、明治の京都の様子が新鮮に浮かびあがり、勉強になります。15万アクセスに近づきました。皆様方の変わらぬ、ご後援をよろしくお願いいたします。
2013.10.05
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