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京都のもみじの名所清水寺の映像、不覚にも失敗して消去してしまい皆様に是非観て戴きたく心痛めていましたが、本日、娘夫婦の執り成しで、一部を除き復元してくれました。奇跡の様に思えてなりません。 清水の舞台 子安の塔 初めて通る音羽路 観光バス駐車場満杯 明日、12月1日、清水寺の写真をもっと観て戴けます。【高台寺】 そして今回初訪問の特別拝観【正伝永源院】は続いてその後ご報告したいと思っています。東福寺の塔頭はそのあと随時続けたいです。 皆様方にとてもとても心配お掛けして申し訳ありません。今年の紅葉は例年より早めの見ごろで鮮明で綺麗に思えました。
2013.11.30
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11月も今日まで、京都では、紅葉の見ごろは12月上旬まで続きます。今年は美しく感じます。 昨日は、昨年の紅葉の様子を掲載しましが、東福寺の観光案内の見どころをご紹介致します。 京都の禅宗には各派がありますが、今回は南禅寺を五山の上位とする第4位東福寺にまいります。 【東福寺】 臨済宗東福寺派総本山 開基 聖一国師 山号 慧日山「東福寺」をはじめ塔頭が、存在します。「紅葉」の時期には、京都駅にも近いことからか、立錐の余地も無いほどに、人出が殺到します。 足利義満の決めた、禅宗の五山の第四番目に当たります。大きさを誇張するように、寺名も奈良の東大寺と興福寺から、一字ずつ採って名付けられたそうです。【七堂伽藍】 (しちどうがらん)形式を採り、【伽藍面】(がらんづら)ともいわれています。 三門【三門】 【国宝】禅寺としては、日本一古く大きいとのことです。扁額には【名雲閣】(みょううんかく)と書かれ、足利義持公の筆跡です。三門の上に登りますと、正面に釈迦如来像・十六羅漢像は定朝作と云われています。特別拝観で内部は拝観出来ます。 法堂【法堂】 (はっとう)釈迦如来が祀られ、天井の龍の画は、【堂本印象】作です。時節(3月14日~16日)に【涅槃図】が、拝観できますが、此処も【猫】が神妙に構えて画かれている事で話題と成っています。何故なら「お釈迦さま」が亡くなる前に中毒の病で、空から「摩耶夫人」(まやふじん)母上が薬袋を投げられたところ【投薬の語源】【沙羅の小枝】(さら)に袋がひっかかり、【ねずみ】が木に登り取りに行こうとしたとき、猫が阻み、お釈迦さまのもとに間に合わなかったとのことで、十二支からも外され、功を得て、ねずみから始まる事に。 市松模様の庭園【本坊】方丈の西と北庭には、苔で 【市松模様】 で飾られ、芸術を感じさせられます。庭園は「重森三玲」(しげもりみれい)作です。塔頭寺院の【龍吟庵】も【霊雲院】の枯山水も同じ人の策定です。 方丈庭園 通天橋【通天橋】 (つうてんきょう)この周辺が、「紅葉」で最も楽しめるところです。渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)のもみじは、最高に美しいです。【開山堂】【普門院】開基聖一国師の入定の地で、ちょっとした庭園が広がります。通天橋のもみじ明日から、東福寺の塔頭をご紹介します、
2013.11.30
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昨日、大失敗しまして、折角皆様に今年の清水寺・高台寺そして初めて訪問しました、建仁寺の塔頭正伝永源院の紅葉を取材しながら、アップする際、消去してしまいました。失敗もあることを慰めて戴いたコメント頂き、感謝しています。また励みたいです。 11月も下旬を迎え、紅葉便りもほとんどよき季節を迎えました。京都で一番紅葉で人気のある東福寺に昨日行ってきました。 通天橋の周りは、もみじ鑑賞の人たちで行列ができるほどでした。 通天橋前のもみじ 人の行列 もみじの絨毯
2013.11.29
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本日、現在の京都の紅葉をと、清水寺・高台寺そして初めての特別公開の建仁寺塔頭の正伝永源院に取材に行ってきましたが、疲れ切って写真をアップするときに、チップの内臓を全部消去してしまう大失敗をやらかしました。とても美しい紅葉の映像、家内だけにテレビで見せただけで、皆様にとどきませんでした。清水寺の観光バスの広い駐車場も満杯で入りきれない車列をなしていました。紅葉は、見ごろを越した感じでした。でもみなさん美しさに歓んでおとずれておられました。正伝永源院は、織田信長の弟が建てた禅寺で、本人は五輪塔その横に夫人の同じ高さの墓がありました。代々細川家の菩提寺で元総理の細川護熙さんが描いた襖絵がありました「知音 秋声」の題名でした。京都ナウをご報告出来なくって残念でなりません。明日は本番東福寺の再掲載分をご報告します。昨年11月24日の映像です今年は見ごろで綺麗で落ち葉が出始めました。 本日、コメント多く戴いていますが、お返事が出来ない事ご容赦願います。
2013.11.28
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本日は昨年の秋の訪問す。 泉涌寺には、幾度か訪問してきましたが、ついぞ時間的余裕もなく同じ境内に塔頭として、京都らしい素晴らしい庭園のある寺院を初めて訪問しました。そして感動受けました。【雲龍院】 真言宗泉涌寺派広い庭園を囲んで赤い毛氈がひかれた畳部屋からの眺め悟りの窓 迷いの窓 障子越しに紅葉鑑賞悟りの部屋から庭園拝観清浄の間から紅葉鑑賞この和服姿の方は殆ど動かれず 観想の世界へ 掃除の行き届いた美しい庭園大輪の間 大石良雄の額 (大輪の間)伯父様が来迎院の住職で此処にもよく来られた 霊明殿 霊明殿前提燈籠の下菊花のご紋徳川慶喜が寄進した燈籠本堂薬師如来・日光菩薩・月光菩薩が祀られています障子4枚に夫々ガラス窓を配し しきしの景色を部屋から味わう梅・燈籠・楓・松と4枚違った眺めを間接的に観る仕組み玄関に真言宗ですが、龍の絵が皆様を迎えてくれました東福寺そして清水寺の大勢の観光客に押されることなく、静かにそしてお部屋の仕組みで間接的に紅葉を鑑賞をゆっくりたのしめました。足腰の悪い人のために部屋からも腰かける小さい座椅子が用意されお寺さんの心遣いが籠っていて嬉しかったです。
2013.11.28
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今朝、NHK総合7時45分から8時まで大河内山荘のもみじ早朝の嵐山の放映があります。朝日の関係で景勝がみられることでしょう。京都は 東山の南部にある東福寺の側に、皇室にゆかりのある泉涌寺があります。「八重の桜」で紹介された、孝明天皇にもゆかりのある 泉涌寺、昨年の秋に訪問しました。 【泉涌寺】 (せんにゅうじ)真言宗泉涌寺派總本山 開基 月輪大師(がちりん) 山号 東山 御寺と書いて、 「みてら」 と称します。皇室に縁あり、天皇両陛下お揃いで、「京都国際会館・世界大会」に御臨席の際に、行幸が有りました。当初、弘法大師が草庵を建てられ、「法輪寺」とされましたが、後に月輪大師が再興されたその落慶の時に泉が湧き出したので「泉涌寺」と改名されました。現代でも残っています。 「山門」をくぐりますと、左側に 「楊貴妃観音像」 の祀られたお堂があります。 楊貴妃観音堂そして再び「山門」に戻り、広場の坂道を下った正面に、【仏殿】があり、高坐に「運慶作」と言われる「釈迦・阿弥陀・弥勒」の三尊が祀られています。天井の龍の絵と堂裏に画かれた「白衣観音菩薩」絵は、「狩野探幽」の作です。「涅槃図」も有名です。仏殿が坂下にそして仏殿にまつられた三尊像の高さと門をくぐる人間と同じ高さに仕組まれています。人仏一帯の精神です 【霊明殿】四条天皇を始め、歴代の天皇・皇后・親王のご位牌が奉納されています。 霊明殿 特別に別拝観料を払って、入れます。是非皇室の雰囲気を味わって下さい。本坊霊明殿の奥には、別世界の様に、東山を背景にシーンと鎮まり返った雰囲気の御陵「十二帝陵」が有り、今回も両陛下が玉串の奉納を捧げられました。小鳥もさえずり自然の静けさは心が洗われます。御陵の入口 十二帝御陵東山が背景【舎利殿】(しゃりでん) 御釈迦さんの分骨を祀る舎利殿 【泉涌水屋形】 (せんにゅうすいやかた)今でも泉が涌いて居ます。泉涌水屋形 【清少納言の歌碑】屋形のそばに建てられています。清少納言の歌碑並んだ位置屋形のもみじ菊花展 泉涌寺境内を盛り立てていました華道のお師匠さんが和服姿で京都らしいです。明日は、泉涌寺の塔頭【雲龍院】に参ります。
2013.11.27
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昨日は一日雨の日でした。嵯峨野本日さいしゅうの掲載に成ります。1か月掛りました。 快晴に恵まれ 青空に映える景色は 一段と美しさを反映してくれました。渡月橋から、錦の嵐山の景観を眺めつつ 大堰川伝いに 船乗り場の先を右折したところに 隠れた紅葉の名所がありました。【宝厳院】 (ほうごんいん) 天竜寺の塔頭で 今回秋の特別公開として昨年の12月の紅葉の状態を観に出かけました。 みぎて須弥山を三尊石と共に築山になり丸い石群は 人生を表す 苦海が広がっています苦海の中に 「此岸」から「彼岸」に渡る 舟石が配置されていますすすきともみじ本堂 獅子の岩庭園全体を 「獅子吼えの庭」と名付けられ室町時代に中国に 二度渡った禅僧の作庭獅子吼えとは 仏が説法するの意で、庭内を散策することで、鳥の鳴き声 風の音を聞くことで 人生の心理 正道を肌で感じるこれを「無言の説法」といいますが、心癒されます。もみじの絨毯 苔ともみじ青空に映えて 左の山は 嵐山です 借景転々としているものは 夜間 ライトアップする装置です 昔 渡月橋に飾られていた 橋標大堰川 (おおいがわ) もみじの絨毯 いかがでしたでしょうか。 嵐山・大堰川(おおいがわ) 小督(こごう)の塚川沿いから少し横に入った場所にあります人は通っても、無関心でした。知らないからでしょうから、次回は東へ、泉涌寺に戻ります。
2013.11.26
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本日は、大覚寺に関係ある嵯峨天皇の御陵が嵯峨野の小高き山上にあり昨年登ってきました。直指庵から100m西に位置します。平安遷都された 桓武天皇 の皇子様です。ブログで観て頂きたい一念で、過去一度も訪問出来なかった難所にも参りました。昨今の【名古曾の瀧跡】もそうで、本日は嵯峨野の山上にある、京都の都を本格的に定められた、【嵯峨天皇】陵に初めてあえぎながらも、極めてきました。 【嵯峨天皇嵯峨山上御陵】 は山道を登ること、二百段、杖をついて登ってきました。再三申しあげますが、794年に桓武天皇によって、【平安遷都】が行われましたが、その皇子さん【嵯峨天皇】によって、大覚寺で弘法大師さんと共に、まことの都造りを成し遂げられました。今でも、小高き山上より、嵯峨野を通して、京の都を見守って居られるようです。嵯峨天皇御陵 参道入口 坂道 坂道はまだ続きます 坂道振り返ると嵯峨野 まだまだ目的地が見えません。やっと見えてきました とても清々しい感じです。 嵯峨山上陵と書かれています 帰途は獣道から しだがはえています。 裏山には、小倉山そして愛宕山が見えました。この愛宕山の頂上には愛宕神社があります。 小倉山を見下ろす、別の風景です。 漸く嵯峨野の景色にもどってきました。 山道にこんな林も麓にありました。達成感は、清々しい感じでした。然し杖突き持っては冒険で疲れ切りました。直指庵の感想で、昔から「男の駆け込み寺は無かった」?現代は有っても可笑しくない。次回は天龍寺の塔頭紅葉の【宝厳院】に参ります。嵯峨の最終です。
2013.11.25
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嵯峨野方面で毎日約1か月続いています。見どころに変化があり趣向の深みを感じます。 大覚寺から200mのそぱに【直指庵】があります。 女性の方で恋に疲れた方々らが「思い出草」に静かに現在の心境を帳面に記帳して、庵に残される部屋が用意されています。何冊もありました、可なりの人々が訪問されているようです。 本日は昨年の秋に訪問した、もみじと女性の駆け込み寺とも云われる。こころの癒しの名所とも云えます。 【嵯峨野の飛び地】 愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有ります。NHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、【津崎村岡】でした。【直指庵】 (じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山 入口【直指庵】石塔参道本堂の前庭本堂本堂奥庭への道 大覚寺の北方に位置します。やはり孟宗竹籔に包まれたひっそり佇む庵が建っています。 隠元禅師の高弟「開基独照性円」が草庵を結びました。 「直指人心見性成仏」 (じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)禅宗の悟りを示した言葉です。荒れ果てた「庵」を幕末の勤皇家、近衛家老女 「津崎村岡」 によって再興されました。「村岡局の胸像」は、亀山公園の敷地内にひっそり座しています。 【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津崎の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて 、静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。NHK大河ドラマ「八重の桜」で井伊大老暗殺の場面が放映されました。 津村 村岡の墓所嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」としても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。観音さんの慈悲に託されて置かれているのかもしれません。 【想い出草】のノートを記帳する部屋恋に破れた女の方が此処で心を鎮めるかなりのノートが置かれていました。 境内には、【想い出草観音像】が優しく見守って居られる様に思えます。 帰り道 帰り道 次回は、山の上にある嵯峨天皇陵にご案内します。
2013.11.24
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大覚寺は京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 さがごりゅう 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 玄関(何故か「明智門と言います)の門を潜りますと、豪華な「御嵯峨流」の生花が歓迎してくれます。明智門 【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」(徳川家光の妹)の旧殿を移築されたものです。 宸殿家光の妹 東福門院さんが御所で使われたたてものを移築前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇が祀られて居ます。御影堂左 嵯峨天皇 右 弘法大師 を祀る京の都造りに貢献されました御影堂から 勅使門を眺める舞楽を舞う台 【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。 名月や池を巡りて 夜もすがら松尾芭蕉嵯峨・大沢の池で詠まれたとされています。遍照山が池面に美しく映っています。 池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、スケールの大小、壮大さ、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、竹や苔の美しさ、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。次回は直指庵に参ります。
2013.11.23
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京都 らんざん 大覚寺大原三千院 と共に、歌われています。 【大覚寺】 真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 【桓武天皇の皇子】山号 嵯山 現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています。「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(遍く照らす太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」が、ひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。 「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう) この状況で、作詞家 永六輔は、「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌 「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」「直指庵」 も近くにあり、女性の心の癒し安らぎ憩いが得られる環境に嵯峨野はあるようです。 大澤の池 池の一番奥に【名古曽の瀧跡】がありました。此処は時間もかかりますので、今回ブログ取材のためこの歳になって初めての訪問で感慨ふかいものがありました。 瀧の鑓水の流れの跡大澤の池に注ぎます。 瀧の水が池に注ぐ場所背景の山は、嵐山です。遍照山が大澤の池に映っています。遍く照らす即ち仏の慈悲この池に写す手法は龍安寺・金閣寺そして銀閣寺でも見られます。そして千円札にも富士山の富士五湖が採り上げています。観音堂納経堂昨年の12月の大沢の池の様子をご紹介します。時代劇の ロケ地として よく出て来ます。お茶屋からの大沢の池お茶室のもみじ境内の入り口付近遍照山(へんしょうやま)を池に映す景色遍照とは 遍く照らす 即ち 太陽の光を表現しいては 仏の慈悲神仏混合から お寺の境内には 神社の祠がありますロケによくてできます。写経されたものを収めている塔です池を巡ります池の向かい側の景色です池を巡ります 赤い橋が 見えてきましたこの奥に 名古曽の蹟があります とても奥で 引き返しました紅葉 青い 空と池小さい池赤い橋と向かい岸もみじ 点在次回は、大覚寺の内部をご紹介します。只今から国立病院に血液検査に行ってきます。
2013.11.22
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11月下旬、京都の紅葉も各地で見ごろとなってきました。洪水で被害を受けた嵐山も、すっかり復興めいて大勢の観光客に賑わっていました。本日は天龍寺の現在の紅葉の様子をお届けします。嵐山を借景にしていますが、北向きのため、太陽の日陰に成る午後を避け、お寺も7時30分から拝観開始この時期されています。借景の嵐山 朝陽のためよく見えます 馬杉苔苔菊の花特別名勝・曽源池 バンフレットの写真の位置 外国人フォミリーも写真撮影曲水の宴の小川観光客の行列右 後醍醐天皇の供養塔後醍醐天皇の多宝殿つわぶきの花曽源池の中央の瀧の水源の溝瀧の水源地池面にうつされた紅葉裏山の紅葉裏山の苔天龍寺入口のそばに後嵯峨天皇・亀山天皇陵バックは小倉山静かで、外の人混みがうそのようでした 嵐山、お昼近く成りますと山の日陰に成って来ました保津川下りの終点訪れる人の列が絶えません洪水がうそのようです渡月橋の右に支えはコンクリートで固め洪水の上流からの流されてきた流木などを支えて橋桁は今回倒壊が免れれました お日様は写真の左上に照らしていました 次回は、戻って大覚寺に参ります。昨年秋の写真となります。
2013.11.21
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「そうだ 京都、行こう」 楽天にも広告のあるJR東海が今年の京都の推薦寺として、南禅寺の塔頭 【天授庵】 の紅葉の写真が美しく掲げています。昨日、八重の桜コースでもありますので、山本覚馬の長女みねの眠る墓地にも行ってきました。今年の紅葉は、今最も見ごろとも感じました。予定を変更して明日も、嵐山・天龍寺の紅葉をご紹介します。南禅寺の三門 南禅寺の三門その右向いに天授庵の特別公開の入り口が見えます 大きい日本一の燈籠は藤堂高虎が寄付したものですJR東海の同じ撮影の場所山門を背景にして言います菱形の敷石は、禅寺でよくでてきます「龍の蛇腹」模様其処らの方に説明すると、美しい紅葉と合わせて写されていました表玄関に通ずる歩道散りもせず最もみごろのつつじでしたみねの墓地は、回路になく、係のお嬢さんに特別に許可を受けて右隅の石畳を独りで参拝してきました。碑文は読めませんでした横井家の墓に思いを寄せて安らかに憩われることを祈りました南禅寺の隣接した国有林では父覚馬一族がねむっていますこの前の八重の桜放映で、山本覚馬の長女みねが四国から京都に帰り男の子「平馬」(山本家の継承者)を産むも産後思わしくなく27歳の若さで亡くなりました。祖母の激しく嘆かれるシーンがたまりませんでした。みねは、同志社大学第1期生の卒業の伊勢(横井)時雄の夫とともに此処天授庵に安らかに眠っています。夜はライトアップして屋内から紅葉を鑑賞しますその外側を回遊します夜も美しいでしょうね。池には少し散った紅葉が浮かんでいます池のほとりの紅葉紅葉の枝が池にたれいます南禅寺にこれほど優れた紅葉が観られるとは思いもかけませんでした今まで非公開寺院で最近に一般公開されました明日は、嵐山の復興ぶりと天龍寺の現在の紅葉をご紹介します。
2013.11.20
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よく皆さんから、京都の紅葉は?と聞かれます。本日思い切って、嵐山の天龍寺そして、八重の桜にも関係のある南禅寺の塔頭天授庵そして紅葉の名所の永観堂の紅葉の様子を取材してきました。気温最低4度、最高12度でした。紅葉には適した温度です。天龍寺・天授庵は後日ご報告するとして、永観堂の表からの部分掲載します。丁度まだ散らず最高の見ごろと感じました。観光バスも多く来ていました。特に天授庵は、楽天の広告にもよく出てくる、JR東海の京都へと天授庵の写真を掲載しています。永観堂の出口ここはでぐちです屋根越しに楓 旗をもって団体さん、観光バスが着きました空が曇って来ました矢張り青空の元撮りたいです明日は、変更して天授庵の今年の紅葉を堪能してみてください。
2013.11.19
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京都の紅葉で最も有名な【東福寺】が紅葉見ごろと発表されました。 本日は、紅葉の名所として穴場的存在の【宝筐院】の紅葉ご覧下さい。嵯峨釈迦堂の東南に隣接して建てられています。 【宝筺院】 (ほうきょういん)楠木 正行 (くすのき まさつら) 父 楠木 正成足利 義詮 (あしかが よしあきら) 両菩提所 父 足利 尊氏 表門入口入り口付近 菊の花も境内一円 紅葉 隠れた名所本堂前もみじの絨毯本堂内の正行と僧侶の絵本堂から 庭園展望本堂からの眺め庭園散策家紋 左 二引きの足利家 右 菊水 楠木家左 第二代足利義詮の墓 右楠木正行の首塚初代足利尊氏は 後醍醐天皇の菩提のため 天竜寺を親子二代で 敵であった方の 人は憎まぬ史跡が伺われます。三代足利義満の場合は我が子の憎しみに会いました。次男を寵愛したためと言われています。こどもは常に親を見て育つようです。庭園を鑑賞山茶花も まけずに白い山茶花も ありますよもみじの絨毯と 木漏れ日以前には、それほど紅葉していない様子を御紹介しています。今回は、もみじの絨毯を味わってきました。車夫の方の 観光が多く やはり穴場として 多くの車夫の方々のご案内が多かったです。車夫の方は、とても 礼儀正しくって、 関係のない老人にも 「こんにちわ」と笑顔で 挨拶が徹底しています。 観光関係として とても大切なことと気持ちよくしました。次回は、大覚寺嵯峨御所へ参ります。
2013.11.19
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八重の桜、山本覚馬は、忍耐が続きます。上の娘【みね】は横井時雄との男の子平馬を産みますが産後の肥立ちが悪く27歳で亡くなります。一人残された後妻時栄との娘【久栄】も不倫の噂で離婚した母に傷つき、徳富蘇峰の弟蘆花と互いの負い目の身で、結婚もしょうとしましたが、蘆花から解消の知らせで、独身で過ごすことに成りました。覚馬が64歳で亡くなった後1年後に22歳の若さで亡くなりました。過日のお墓は、コの字型に墓標が並び、新島家そして山本家お互いに語り合っているよな珍しい形で眠っておられました。久栄も一番端に加わってました。 嵯峨野巡りも終わりました。嵐山に向けて帰途にあります。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】 (せいりょうじ)【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん この一帯は「源氏物語」に登場する 「源融」 (みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な 【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】 (インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。 【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】 (あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】 (うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。 駅を見ると旅情がかり立たれますね。
2013.11.18
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京都も大分紅葉が進んできました。見ごろまでもう少しです。 嵯峨野は祈りの道として、相応しく、天台宗の僧侶で仏師で国宝級の仏像を修理指導をされていました。「西村公朝和尚さん」 (こうちょう)が有志で羅漢さんを信徒の彫られた石像が奉納されています。奈良そして京都観光で最も知りたい 【仏像】の知識はこの方のお話や本で解かり易く教えていただきました。一生感謝しています。そしてご冥福を祈ります。 【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕山山上にある、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】 として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社(あたご)参詣の古くからの茶店 更に道を進めてまいりますと、自動車道と交わる所に、「愛宕寺」が有ります。【愛宕念仏寺】 【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。京都市内で一番高い「愛宕山」頂上に「敵は本能寺にあり」とと号令した明智光秀か神託を受けたと言う「愛宕神社」の参道に有ります。 故西村公朝(にしむらこうちょう)和尚さんの寺です。ご生前中「祈りの造形」と題して、NHKの3ヶ月に亘る講義から、仏像の基本的な観方を興味深く教えて頂き、京都観光奈良も含めとても参考に成りました。「国宝の審査委員でもあり仏像修理」の担当出来る「仏師」でもありました。 現在も本屋で、仏像に就いての「公朝」さんの本が見つかれば、京都・奈良の仏像鑑賞にとても役立つと確信します。仁王門【仁王門】の側に「三宝の松」が一本有ります。「将軍塚」の「三鈷の松」(さんこのまつ)と同じく何か宝物が得られるのでしょうか? 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】 (らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼境内 釣鐘は音色が変わり 共和音が聖域を感じさせます。本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 【本堂】空也上人の弟子の「千観内供像」が有ります。 現代の自動車道は、過去電車が通って居りました。「愛宕寺」の側から「トンネル」があり、越した所まで、通じていました。何故なら、「愛宕山」山上の「愛宕神社参詣」の登り口に至る為でした今は廃線となり、自動車で、【清滝橋】即ち登山登り口まで行けます。先に述べましたとおり「明智光秀」も愛宕詣でで,神託を得たとして、「敵は本能寺にあり」と丹波行きを返して都に攻め入ったとも言われています。火の神様です。 「清滝」の渓谷の清流は、とても景観で静けさを感じさせます。紅葉の景勝地でも有ります。 嵯峨野巡りは、如何でしたか?皆様のご来訪数が伸びて、やはり関心の深さに感謝しています。一度は日本にこんな素晴しい心琴をもたらす、文化の象徴とも言える場所へのご来訪をお待ちしています。次回は、嵯峨の釈迦堂に戻ります。
2013.11.17
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京都の紅葉もぼちぼちです。これから12月初旬にに掛けて見ごろに成るようです。昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるコメントを 多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝の気持ちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で 【今東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】 (あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました無縁の遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】 (湛慶作) が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】(さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界をこの世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを 【蓮台野】 と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。金閣寺の側あたりです。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2013.11.16
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嵯峨野巡りも大詰めとなってきました。昨年の秋に訪問した写真です。もみじの頃となります。【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が そして【源氏物語】「野々宮神社」の悲恋。此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に 【瀬戸内晴美】 即ち【寂聴】 さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。【源氏物語】の編集も此処で執筆されました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】 天台宗 山号 曼荼羅山 (まんだらやま)寂庵の命名は、作家で天台宗の僧侶 【今東光師匠】でした。 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される 「鳥居型」 が有名です。佛教的行事に、鳥居も珍しいですが、【愛宕神社の一の鳥居】があるとしても五山に採用されたのでしょう。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。貴重な体験談 (観光ご案内して) ある母娘のお客様を嵯峨野巡りをご案内していました。 娘さんとの子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と訪問を拒まれました。晴美さんの過去の女性像を考えてのことでしょう。中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、手当てと言うでしょう、温かい母さんの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙をボロボロ流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、感謝を込めて 「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。仏にこの日の導きに感謝を一緒にされる寂聴さんの心根が尊く感じました。そして一緒に記念写真を「ハイポーズ」と寂聴さんが言われてにこやかな写真がお客様の手に残りました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。東北にも一寺を設け、東奔西走、人の心を癒されておられます。女性のみのお話会が月に一度あるそうですが、申し込み予約が殺到しているようです。私たちは本当に恵まれたと尊い体験をさせていただきました。今でも良き思い出として残っています。嫌いと心を閉じるのでなく話せば道は開く母性の手は温かく我が子の痛みを和らげる次回は、無縁仏の供養塔が祀られる【化野の念仏寺】(あだしの)に参ります。
2013.11.15
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祇王さんは、自分が清盛に推奨した仏御前のために屋敷を去る時に、仏御前のために襖に詠まれた「萌出も、枯るるも同じ野辺の草・・・」とかきのこして後にしました。昨日も、Googleで検索しましたが、あの有名人の平清盛の墓は、判然としては存在が確定していないようです。哀れででもあり、此処祇王寺の清盛の供養塔は重要な遺跡として改めて、祇王さんの優しさ偉大さを感じました。平家物語と嵯峨野は深い関係の、遺跡でもあります。 人間関係がままならなかつたのですね。【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】 と「建礼門院」に仕えた侍女 【横笛】 の悲恋の舞台となった場所でも有ります。時代祭にも横笛が隊列に加わった写真をご紹介しました。 語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け」 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は化野の念仏寺を訪れたいです。
2013.11.14
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嵯峨野巡りの中心祇王寺 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂苔がとても美しいです京都は湿地帯ですので苔庭が多く歴史を感じさせます。入口萱葺の門孟宗竹の竹林苔庭手水鉢 「嵯峨野巡り」の中心的叙情に溢れた観光が味わえると存じます。「平清盛」 の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし) 「祇王」 にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」(いまようのうた)七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃悲劇の母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」春に草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、秋には枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして時が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。此処が祇王の追いやられても、優しい心遣いでした。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。その後、暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。障子に書かれた祇王の真意が理解出来たからでしょう。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。此処が、誰も出来ない祇王の超人的な愛で嵯峨野を訪れる人のこころの糧そして救いともなり、とても人気があります。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓右は平清盛の供養塔 貴重な遺跡の存在で他に清盛の墓並びに菩提の遺跡の存在が見当たりません。 仏午前は、加賀に帰って亡くなられたそうです。 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2013.11.13
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八重の桜、京女の優しさが仇となった悲劇でした。 京都は常に勢力者が変わりますので、用心深く噂は直ぐに広がるのです。新島襄が海外まで病気を抑えて資金調達して帰国も、山本覚馬の妻、時恵に書生が故郷から離れた淋しさを優しくされて勘違いして言い寄りました。大きい学校設立への道も噂で、苦境に立たされます。 嵯峨野巡り5. 【二尊院】 天台宗山門派 開基 円仁(慈覚大師) 山号 小倉山 嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」 と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」 貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。【厭離庵】 (えんりあん) 臨済宗天龍寺派百人一首を藤原定家が編纂した場所とも言われています。「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。期日 11月1日~12月上旬 9時~16時 志納金 500円 入口玄関庭園への門居間定家塚本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉藤原定家が筆を洗ったとされます懸崖上の茶室 時雨亭茶室への路地 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」とも言われています。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。 次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。【嵯峨野の中心的訪問地】と心得ます。誰しも心の打たれるところ存じます。
2013.11.12
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本日は、貧しさの中でも芭蕉の十大弟子のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む【落柿舎】 (らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 田園風景 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地もまんざらではないと、未だにひそかに眠っているようです。 次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2013.11.11
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昨日は、伏見の藤の森神社杯第18回のゲートボール大会に行ってきました。公園の紅葉が美しかったです。少し肌寒さを感じました。 常寂光寺は、日蓮宗で本堂を始め解放されず、信仰を旨としています。仏像の存在すら判りません。「南無妙法蓮華経」のお軸が懸っているとも考えられます。 紅葉の名所として有名です。昨年秋の写真です。 多宝塔 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】 (じょうじゃくこうじ) 日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道左 男坂 (急坂) 右 女坂 (なだらかな坂) 本堂前【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 京都市街の西北の位置に有ります 【歌仙祠】 (かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】 嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2013.11.10
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嵐山も色づいてきたとの予報でした。 自分の別荘と思って、お大臣気分で、満喫してみてください。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂 先ず信心から毎日参詣してお散歩山荘の入口 左側右は常寂光寺方面へ 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 嵐山を借景 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2013.11.09
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【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、 「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。 【源氏物語】第十帖【樫木の巻】 (さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が、愛おしかった。その御息所(みやすどころ)が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て、強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。源融は、ほんの近い【嵯峨釈迦堂・清凉寺】に住まいしていました。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】 のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。ここでも中国の良い面があります。昔の中国人は偉かった。でもこの程共産党トップ書記長が【習近平氏】に代わりましたが、日本との外交政策は、如何成るのでしょうか?互恵の政策が立てばよろしいが、支配の傾向がみられます。亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学され、その折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又、中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が、嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。最近でも、中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 中国の日本に対する動向は気懸かりなものです。周恩来さんが、日本に学ぶため来日された友好の時期もありました。 周恩来の碑 嵐峡の風景本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2013.11.08
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朝の嵐山の追記です。 【高倉天皇御陵と小督の御廟】由緒を知る為には、一箇所に留まらず、リンクして関連を広げて行きますと、史実もよく理解出来るのではないでしょうか。 嵐山渡月橋の琴きき橋と昨日の忠盛塔からの、平の清盛と本日の関係で、訪問して来ました。 高倉天皇御陵小督の墓は、高倉天皇御陵の東隣に眠っています。樹の間に永い石段が有ります。 国道1号線東山西口トンネル出入り口、此の側少し登った所に御陵があります。高倉天皇は、宮中一の美人琴の名人、【小督】(こごう)の優しさに心開かれまましたが、中宮(皇后)は10歳足らずの幼少のときに政略的に婚姻が定められた【建礼門院徳子】でした。父である【平清盛】は我が娘を差し置いて何事ぞと烈火のごとく起こり、小督を追放しましたが、嵐山で述べましたとおり。宮中に呼び戻されました。御歳21歳で崩去される前に遺言で「我が墓地の側に葬って欲しい」との意志で、現代にいたるまで東山・清閑寺山に、お二人揃って眠られています。【清閑寺】 (せいかんじ)真言宗智山派高倉天皇陵の隣接した位置で、少し坂を登った所に有ります。「源平盛衰記(巻25)」「平家物語」の小督局は、宮中を追われてこの寺の尼にさせられたと寺伝にあり、高倉天皇は「私が死んだら。局の居る清閑寺に葬ってくれ」とも記されていました。21歳にして崩御清閑寺で葬儀が為されたとのこと。境内に【要石】があり、今でこそ新幹線で京都に来られますが、昔は、江戸からも歩いて,近江から山科を経て、東山の峠を越す,この位置で思わず「おお、都の灯が見えた」と感歎の声を挙げられた事でしょう。左側に「阿弥陀が峰」(豊臣秀吉御廟)右に「清水山」を配し、要石の位置が丁度、扇を開いた要ともなり、眺望が息を飲み込む思いをされた事でしょう。現代は、先に紹介しました、国道1号線トンネルを出た位置の山中に有ります。右側の山道を辿りますと、清水寺の子安の塔の裏門に辿り着けます。扇塚 京の都が開けます清閑寺の本堂。菅原道真公が彫られた本尊十一面観音菩薩を祀られています西郷隆盛と勤皇派の月照和尚とが蜜会された場所。梵鐘も有ります。
2013.11.07
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過日の大型洪水で、家屋内まで被害を受けましたが、京都観光の必見の場所として、地元の人たちの懸命のの努力で、秋の観光には、殆ど復興に間に合ったようです。 本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰川の堰き 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」 が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています。(グーグルで検索して見て下さい、写真も)中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。最近では、「温家宝首相」が訪れられました。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」 (小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。 川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】です。 渡月橋の北詰に碑が建って今す。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性悲話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった 【小督局】 (こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。明日から嵯峨野巡りに入ります。
2013.11.07
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一昨日の八重の桜で、会津のお殿様 松平容保の姉上の亡く成る前孝明天皇からの親書を見せて、逆賊で無いことを確かめあいました。後に容保の孫・節子(勢津子妃)と昭和天皇の実弟秩父宮雍仁親王とご成婚の慶事があり、会津は晴れて朝敵の汚名は払拭されました。 いくとせか みねにかかれる むら雲の はれて嬉しき ひかりをそ見る 新島八重 夢想国師が日本で初めて、庭園の思想を組み入れてその基本配置を構想したものです。瀧 蓬莱山 石橋 鶴島 亀嶋 舟石 国宝第一号の曽源池 世界文化遺産 清水寺は「北法相宗」奈良の宗派金閣寺・銀閣寺・龍安寺・そして天龍寺は何れも臨済宗(禅宗)あと世界文化遺産が12箇所あります。【天龍寺】 臨済宗天龍寺派本山 世界文化遺産に登録 開基 夢窓疎石 五山第1位庭園 特別名勝・特別史跡(国宝第1号の庭園)世界文化遺産の御紹介も清水寺・金閣寺・銀閣寺・龍安寺そして天龍寺まだまだ観尽くせませんね。嵐山渡月橋から「美空ひばり館」の前を経て、天龍寺に着きます。 【足利尊氏】が南北朝の戦で、吉野で崩御された【後醍醐天皇】の菩提を弔うために、開山【夢窓疎石】を迎えて建立されました。この地は、元々後醍醐天皇のご幼少の頃の学問所で御霊の安らぎを考えての尊氏の配慮と想いが有ったものと考えられます。建設資金捻出のために、途絶えていました中国「元」との貿易を再開し【天龍寺船】を往来して経済や文化の輸入にも貢献しました。私たちの高齢の歴史観では、天皇に背いた逆賊の謀反者と教わり、神戸湊川神社では、「ああ・忠臣楠氏の墓」と「楠正成」を謳歌してまいりました。でも京都でのお寺の遺される事で、過日に述べさせていただきました【等持院】は、尊氏一族「足利」の菩提寺で、「寺」と「院」では寺格が違い、尊氏の思い遣り、一歩引く謙虚さが、見えるように思えるのです。順路として「山門」から静かな敷地を歩み、心を静めます。1.【法堂】(はつとう)は選仏堂(座禅堂)ともいわれ、正面から覗きますと【釈迦・文殊・普賢三尊】と天井に【雲龍図】「加山又造画」が描かれています。 法堂 天井に龍の絵2.受付でパンフレットを見ますと表紙の庫裏の写真で、庫裏の実物を見上げながら、龍安寺でご説明させてもらった「懸魚」「蟇股」が大きく見られます。そして「三尊石」も在ります。 庫裏。三尊石3.【方丈】白砂と苔の境界線で、「心字」が画かれています。屋根瓦の端には「天龍寺」の文字が設けられています。 方丈4.【曹源池】 日本で最初の庭園形式に基づいて、夢窓疎石が作庭した素晴しい庭園で、嵐山愛宕山を借景して、更にスケールが大きく感じます。正面に枯山水「瀧」をそして「三尊石」日本最古の「石橋」周りに「鶴島」「亀島」そして「船石」と庭園の要素を採りいれています。嵐山を借景 愛宕山を借景寺のバンフレットの写真の写された情景 国宝第1号の曹源池5.「亀島」から道なりに進むと池にそそぐ「遣り水」(やりみず)が【曲水の宴】形式になっています。 亀島6.【多宝塔】 後醍醐天皇の尊像を安置、紫宸殿形式で、左近の紅梅・右近の白梅が備わり、 多宝塔紫宸殿造りで左近の紅梅そして右近の白梅が配されています。その前庭の苔に包まれた小高い位置に後醍醐天皇の菩提塚が古びて立っています。 後醍醐天皇の菩提塚春には枝垂れ桜が美しく飾ります。 足利尊氏は、敵であった後醍醐天皇のために菩提寺として、自分の菩提寺「等持院」より大きい敷地の文化的にも最高の庭園建設に努力しました。 天龍寺は、後醍醐天皇の幼少の頃の学問所でそこに安らかに憩われる為の計らいと考えられます。並の天下人としては為し得ない思い遣りが史跡として未だに遺されています。女性に人気があります。明日は嵐山に参ります。
2013.11.06
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いよいよ高雄の最終は、世界文化遺産のお寺にしました。 きょうと とがのを高山寺 恋に疲れた女が ひとり 此処も京都の人気スポットのようです。前回まで此処の写真を撮っていなかったため、思い切って出掛けました。紅葉は始まったばかりでした。でも中国人そして外人の方はじめお客様が多かったです。【高山寺】 (栂尾高山寺)(とがのお・こうざんじ)真言宗 開基 明恵(みょうえ) 世界文化遺産に登録 【高雄】は、京都では、紅葉の名所で、其の周辺に【槇尾】(まきのお)【栂尾】(とがのお)と紅葉が美しく、【三尾】(さんび)と言われています。その最も奥に高山寺が有ります。大きい駐車場から、急な山道を登り詰めた所に、急な坂道中国語で話す女性達もお寺の玄関口に辿り着きます。 高山寺 石水院の入口の門廊下伝いに暫し歩みますと、国宝【石水院】 (せきすいいん)があり、廊下には、影絵の様な形で 【蟇股】 (かえるまた)のシルエットがとても芸術的に美しいです。 国宝建物【石水院】此処が一番趣の深い写真と思います。観る人によって感動は違ってくるでしょうね。本間で坐って外の景色も、山が見え、紅葉は一段と美しいです。 たまたま思いに耽っておられる女性のかた身動きなしでした額には、 「日の出先ず高山寺を照らす」と漢文で書かれています。鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅額で寺名ともなりました。この山の向こうから日の出が見られるのでしょうね。床の間には、国宝【明恵上人の樹の上で座禅姿】の屏風が飾られています。 国宝の掛け軸です。明恵和尚さんが樹の上で瞑想されているお姿です。又、本間の横に、 国宝【鳥獣人物戯画】 全4巻の写しが置かれ、蛙と猿が人物的表現で戯れている図で、愉快に成ってきます。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の筆と言うことです。ガラスケースでしたが、何とか写せました この様に【国宝級】が3個あるだけでも、寺の建物は小さくても、文化的価値は、高いと、思われます。又本間に運慶作の可愛い「子犬の像」が何とも微笑ましくお客様を迎えています。仏師 運慶が彫ったという子犬です可愛いですね 外に出ると、日本最古の茶園が狭いですが、存在し「明恵上人」が「栄西禅師」から、中国から持ち帰った茶の種を贈られ。馬の歩む足跡に従って植えることを教えられました。「日本最古の茶園」 茶園の様子 宇治の「黄檗山万福寺」にも門前に有ります。今回は時間のゆとりがあるので、初めて広い境内をめぐって来ました。大杉の階段を登りつめました 開山堂(明恵上人)を祀っています一番奥に本堂【金堂】がひつそり建っていました。金堂前の急な石段高山寺参道出口 高山寺の駐車場から更に国道を北に向かいますと清滝川にそって。北山杉の群れがずっと続きます。天皇陛下が皇太子の頃に妃殿下とご訪問された由緒ある林です。北山杉の群れ 国道に沿って続きます。
2013.11.05
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11月1日掲載しました、新島襄の墓地で、山本久栄を覚馬の京都の妻は間違いで、妻は今回の放映で、【時栄】と解りました。謹んで訂正お詫びします。明治17年新島襄がスイスで学校運営資金調達のためでむきますが、ストレスと内臓の病で遺書まで書いて送り届ける苦しみの病魔に襲われますそのシーンでした。母国をと愛する人のためもう少し命を与えたまえと神に祈りますが、明治23年46歳の若さで亡くなります。時栄は、下宿人と恋仲になり、明治19年覚馬と離婚しています。人間の性は止めようがありませんでした。久栄はその娘でした。 山本覚馬と時栄の娘でした
2013.11.04
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楽天日本一優勝おめでとうございます。巨人と相手に、 美馬・則本そして抑えにマー君こと田中投手の完封リレーで3対0で球団初の栄冠をかちとりました。東北に感動と勇気を与えました。嶋捕手談話、誰かのために役に立とうとして戦う集団は、底力が出てくるものできっと結果が出るものですね。と 矢張り最終は世界文化遺産にしたいです。高山寺に写真を撮ることを目的で、もみじももそこそこでした。 帰途、空車のタクシーも通らず、次のJRバス停前で、小さいうどん屋さんで昼食、二組6人のお客さんが外人さんでした。店の地元のおばさんの勧めで高雄方面の最も早く紅葉するといわれる西明寺が直ぐ側だから是非にということで、既に弱い脚を使い切っているので、そろりと訪問してきました。此処もタクシー観光では通過地点ですので、初めての訪問となりました。【槇尾山西明寺】 真言宗大覚寺派江戸時代の再建には、徳川綱吉公の母君 桂昌院が寄贈したとされています。門前やはり此処も石段を登り、山中にお堂が建っていました。でも神護寺ほどではなくホッとしました。門前のもみじ門前では手箒てで常に掃除しておられました。本堂前の戸灯篭釣鐘1回百円・撞いて来ました。静かさが山に響きました。手を合わせて、目をつぶり暫し思いに耽っていました。虎の絵の屏風もみじの庭門前のもみじ清滝川指月橋から清滝川を渡る重い足も、心癒されました。京都にはまだまだ良いところが有りました。高雄三尾 高雄神護寺 槇尾西明寺 そして このあと明日は、 世界文化遺産・栂尾高山寺 をご紹介します。
2013.11.04
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今朝に引き続き、神護寺の聖域を巡ります。嵐山の保津川の支流清滝川の上流に此処たかお三尾があります。楼門を過ぎれば、平らな境内で、一安心しました。何といっても中心は、 【金堂】 で。 国宝の薬師如来像が祀られています。そして重要文化財の薬師さんのセット日光菩薩・月光菩薩(がっこう)十二神将そして四天王【持国・増長・広目・多門】天が揃ってみられます。金堂(本堂)国宝薬師如来像がまつられています。時代劇によく出て来ます。 金堂への石段紅葉が映えて居ました 石段 登りつめた場所石段の下時代劇でよくここのシーンが出てきます かわらけなげ2枚百円清滝川渓谷 清滝川渓谷かわらけ投げ みなさん楽しく試みておられます上手な人の場合は、長時間遠くへ飛行続けます下の川から此処まで登るのです。絶景 何れもかわらけなげ付近の情景です 。かわらけ、買ってみるか記念にシャツター長い石段を登りつめて、弘法大師さんの、護国のため建てられた聖域からの、渓谷に掛けての絶景は、みなさま満足気味でした。明日は槇尾西明寺(まきのをさいみょうじ)のもみじそして世界文化遺産高山寺で終わります。
2013.11.03
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11月に入って、NHKが神護寺の紅葉が少し始まったと報道しました。昨年のもみじをご紹介します。 日本シリーズ第6戦 楽天田中投手は神ではなかった。巨人4対2で楽天に勝ち、本日最終決戦になりました。健脚の方は、高雄に来られれば、栂尾高山寺・槇尾西明寺そして高雄神護寺とセットでお参りされると意義が深いと思います。山岳仏教で山登りが厳しいです。本日は、将軍塚で、平安遷都を推挙した「和気清麻呂」の墓と京都の都の礎を「嵯峨天皇」と築きあげられ護国のために神護寺を建てられた弘法大師に偲び昨秋訪れたものを二回に亘って再録します。弘法大師は、山岳仏教として、北国・高雄にまで、布教の為寺院を創られました。 【神護寺】 【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高雄山 高尾は、京都では、「紅葉」の名所で、シーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いて、ひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として、「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高雄山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます。秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】 壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと、上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き、周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 高雄橋・ もみじと高雄橋 参道途中の茶屋息が苦しく、足が痛み出し、勇気の撤退をしょうとしましたが、ままよと再発進参道の茶屋 参道から振り返った景色 休み休みして漸く神護寺楼門に辿りつきました 平安京の立役者・和気清麻呂公の霊廟 明王堂その側に日本三名鐘の鐘衝き堂があります銘が有名宇治平等院・形 滋賀・三井寺の音午後に続く
2013.11.03
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11月に入って、京都の紅葉便りが掲載されました。丹後の大江山だけ紅葉はじめでした。八重の桜明日【新島襄の遺言】が放映されるにあたり、意を決して若王子山(にゃくおうじやま)墓地を取材そして墓参してきました。南禅寺に耶蘇のため断れて、当時無縁仏の墓地の山上にまで神奈川県大磯から、土葬として埋葬されたもので゛す。山上とはいえ、杉木立が拡がり、探しても山裾にある南禅寺そして永観堂の境内は全く見えませんでした。国有林とも看板に記さていました。少しでも天に近い場所で、新島家そして山本家の囲まれた境内で皆、仲良く天の国で憩うておられるようでした。静寂な東山三十六峰のひとつでした。疲れましたが、甲斐は十分にありました。多くの方々から温かいコメント頂き有り難う御座いました。 安楽寺は、庶民の信仰上由緒ある寺院になってしまいました。此処暫く、法然上人の威徳を偲びご紹介しましたが、哲学の道沿いにも幾つかの社寺があり、散策する人の目を引いています。銀閣寺・法然院そして安楽寺夫々に古の雰囲気を忍ばさせてくれます。 【霊鑑寺】 臨済宗・南禅寺派哲学の道のほぼ半ばを東に入った少し小高き所に有ります。安楽寺に隣接しています。 門跡尼寺で、谷御所とも云われています。特別拝観のときしか内部は観られません。本堂・書院・居間が佇み立石を多く使った石組みで、池泉回遊式庭園はこじんまりしても心和みます。後水尾上皇の遺愛の散り椿ほか、黒に近い濃い紫の椿など各種の品種が見事で,【椿寺】としても有名です。。代々皇女が尼僧として継がれ、寺宝には、皇室で使われた宝物が多く、特に御所人形は200点にも及ぶといわれています。 【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。京都大学教授哲学者 西田幾多郎博士が 何時も考えもって散歩されたところから誰言うと無く その名が付けられたそうです。東天王町にある 【岡崎神社】 にも狛犬に変わり「兎」が居ました。 岡崎神社 狛犬の「うさぎ」明日は紅葉が始まったとNHKのローカル放送で言われる神護寺(真言宗)に参ります。
2013.11.02
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八重の桜が人気が在り、京都観光コースのひとつに若王子山の新島襄と八重の墓が有ります。 新島襄と八重の墓 今回も、団体さんに会いました。夫婦連れ、同志社大学の同窓会の婦人メンバーほか多くの方が険しい登山道を訪れて居られました。東京・名古屋・大阪と言葉を交わしますと判りました。順を追うて写真を撮って来ました。南禅寺・永観堂の境内に隣接する、国有林山上に至ります。哲学の道始点 左手に琵琶湖疎水・哲学の道の始発点です 熊野若王子神社の右手の道が参道 女性の方は同伴をおすすめします 人家は此処まで 墓参の方のための心尽くしの杖 最初の坂道 登山道に沿って山水の流れ ご夫婦ずれも目的に息沈ませて 石に腰掛けてふと上を仰ぐと林の風景坂道は、くの字で更にまだまだ 可成り整った坂道に アート式の階段がもう間もなく 最終の階段 共同墓地として、同志社の関係でキリスト教の墓神愛の墓石共同墓地とてみどりの のにふさせいこいの みわざにともないたもうやっと着きました入り口の飯島譲の最後の聖書のおことば入り口新島襄の墓やっと会えました、同じクリスチャンとして十字を切って祈りを捧げました耶蘇として罵られつつも何時も笑みを以て相手のこころをしずめられました* 墓碑の揮毫は、勝海舟とされ、三代目になりますが新島の島の字をよくみますと、横一がありません。頼まれて意気込まれて書かれたそうです。勝海舟とは八重と共に東京に赴いて同志社の設立に教育の今が大切という新島襄の熱意に理解と後援を約束されました。八重の墓お墓の色までハイカラに86歳まで(昭和5年)逝去されました山本覚馬の墓日本の国の礎を造ってくれました京都府会議員初代議長八重の父権八 母佐久 弟三郎 の墓 山本久栄の墓覚馬の京都での妻次回放送で徳富健次郎(蘆花)恋仲に成る徳富猪一郎(蘇峰)の墓次回放送で、新島襄の遺言を代筆でしたためるふと見上げるとお墓の上に一か所紅葉ががっていました。新島襄は神奈川県大磯で、明治23年1月23日に亡くなりますが明治22年に東海道線か開通、遺体は京都へそして学生たちで南禅寺の耶蘇のため断られ、若王子山の山上無縁墓地に土葬で葬られました。46歳惜しまれる人でした。
2013.11.01
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