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豊臣家の短命と徳川家の長期維持は、身内子孫を邪魔だから排除したか、多く育んだかの形で歴史は変遷して行ったと思います。京都の佳いところばかりでなく、時には歴史上の弱者の悲哀を偲ぶことも、知っておくことが大切とも考えました。 【瑞泉寺】(ずいせんじ) 山号 慈舟山 浄土宗禅林寺派 前関白豊臣秀次公御一族四十九宝塔菩提寺坂本龍馬の京都木屋町の寓居跡 坂本龍馬寓居の址【酢屋】(すや)と高瀬川を境にほんのそば三條通木屋町下がった位置に、人知れず菩提寺が有りました。太閤秀吉の姉「とも」の子、従弟にあたる【秀次】 当初近江八幡43石の大名でしたが、秀吉の嫡男鶴松の幼くして死去に実子が恵まれず、秀次を養子に受け入れ後継者として、聚楽第まで建てて、関白の位まで授かってもらった処淀君との間にやや【秀頼】が産まれるや否や、難癖をつけて関白職を奪うばかりでなく、高野山に追放の上自刃に追い込まれました。聚楽第も焼失させるほどに、それだけでは気が済まず、何の罪も無い秀次に仕えた側室・侍女及びその若君4名・姫君1名も三條河原で斬首。その場に、切腹した秀次の首まで晒したという醜業は目にあるものを覚えます。天下人の用心は、肉親をも信頼出来ないで、世にも恐ろしい地獄絵を見せ付けました。後に高瀬川を開削した【角倉了以】が、刑場の址地とされる此処に菩提寺を建てたとあります。 記この堂の中央に安置された地蔵菩薩は、秀次公一族の処刑の際、刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授けたと伝わる尊像です。極楽浄土へ死者を導く【引導地蔵尊】として京洛の人々に今日なお崇敬されています。 寺伝では「定朝作」 秀次公四十九の供養等四十九の供養等秀次の墓と四十九の供養塔 墓標 鐘の棒の漣のような響きは、悲しみを訴えているようでした。安らかに憩われるようにお祈りしました。 首塚の前に「南無阿弥陀仏」と記された鐘棒五個が鳴らすと、共鳴してカランコロンといとも悲しい音色が境内を奏でていました。 殉職した四十九柱絵図 秀次の首塚三條河原の刑場で四十九柱の遺体を地中に埋め,その上に高野山からの秀次の首を西向きに晒し、三條大橋を渡る人々に晒したという、寺伝が残されています。昨日の侵略による野蛮的「耳塚」と共に、一番に訴えたかった京の街の繁華街に近い,「酢屋」と【瑞泉寺】へ写真を撮りにいきました。殆ど人は、存在をご存知有りません。でも歴史で悲しい出来事は、太閤の栄華の蔭で歴然と残されていました。秀次の無念さを考え、四十九の御霊の菩提を祈ってまいりました。難を逃れた武将たちは、のちに関ヶ原の戦には、徳川方に就いたとも言われています。 布団着て寝たる姿や東山 服部 嵐雪七条大橋からの東山右がわ一段と高い山が阿弥陀が峰【頭の形】真ん中清水山【お腹を突き出したような形】左側の低い山は高台山【足元】明日はねねさんの高台寺へ、旦那が高いところなら私は地中深く低いところで、旦那をそっと見守りたいと。
2013.02.28
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本日は、昨日の三十三間堂の直ぐ側にある、豊臣秀吉に関係する遺跡をご紹介します。秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さんより大きいものを建てましたが地震で壊れました。そして死後近くの阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。 あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の菩提寺がないことに、気付きます。 明日は、身内の豊臣秀次の菩提寺「瑞泉寺」をご紹介します。 京都駅から、七条通りを東へ、「七条大橋」西詰めから、車を停めて「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きいお腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿にも見えます。 「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪布団着て寝たる姿や東山 豊国廟の500段石段下正面この阿弥陀が峰頂上に豊臣秀吉が眠っています 頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で、「吾が屍を都の見下せる場所に葬れ」と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた五輪塔の石碑があるのみでした。 寧々夫人は、脚元の「高台寺峰」に、「旦那が高い所ならば、わたしは地中深く掘り下げたところに」と謙虚に高台寺に眠っています。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】が有ります。 豊国神社(とよくにじんじゃ)伏見城から移築国宝唐門 豊国神社前 【豊国神社】(とよくにじんじゃ) 太閤秀吉を祭神として祀られて居ます。徳川家康により焼き払われましたが、明治時代に再建され、拝殿は伏見城の遺構を持ってきています。徳川家康は秀吉なきあと支配し、豊臣秀頼に命じて財産を使わすため青銅の大仏さんを建てさせさせました。この大仏さんも寛永の大地震で倒壊、「寛永通宝」に化しました。落慶法要のときに、釣鐘の銘に家康は因縁を付けました。 方広寺の釣鐘白塗りの部分に「国家安康・君臣豊楽」の銘が書かれています。 【方広寺】釣鐘に有名な「国家安康・君臣豊楽」 の銘があり、徳川家康の曲解で「大阪城冬・夏の陣」と豊臣家は滅びてしまいました。 家康の名を安の字で分断・豊臣が栄えるの意。 方広寺の岩だけ当時のまま残っています。 耳塚供養塔 【耳塚】「豊国神社」の前の道の側にあり、秀吉が韓国に野望を広げて攻め入り、韓国の罪無きひとびとの耳や鼻を船で日本に持ち帰り、その数で論功功賞を図った惨い仕打ちに、目を覆いたくなるのですが、その被害の霊に対して「供養塔」が建てられています。「瑞泉寺」での、豊臣秀次一党身内でも痕跡無くなるまでの自己防衛の仕打ちと重ね、歴史上真意は如何に。一方神にまで奉じられている現実、太閤贔屓の方も多いでしょうが、その蔭も京都には遺されて居ます。人間の神格化。野望に残忍な犠牲そして、釣鐘によっての大阪城の滅び。因果報応が、この一画に集められた異様な場所でもあります。明日は、その悲劇【瑞泉寺】(ずいせんじ)をご紹介します。
2013.02.27
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今朝は、仏像の設置の常識が解る、仏像鑑賞に役立つお寺でした。右 本尊 左(上位)雷神・帝釈天(太陽)・吽形仁王 風神・梵天(宇宙)・阿形仁王 NHK大河ドラマ平清盛も終わりました。後白河法皇の壮大な離宮【法住寺殿】の一角に法皇は勅命により清盛に三十三間堂を1164年創建したと伝えられています。柳と三十三間堂法住寺殿跡地三十三間堂外の向いに位置し、そのお隣に75代後白河天皇の御陵そして、養源院が並んでありました。恐らくどなとも知られずひっそりとしていました。 後白河天皇陵養源院門 【養源院】 浅井長政と徳川の菩提寺当初、淀君が秀吉に頼んで、父の菩提のため建てられました。秀吉亡きあと、豊臣に関係ある建物は壊されましたが、妹【江】(ごう)の願いで、長政の菩提寺は残され、徳川の菩提寺ともなりました。【血天井】としても忠臣鳥居氏たちの供養もされています。参道徳川の三つ葉葵参道の現在の紅葉三十三間堂外側からこの向かいに養源院があります。修学旅行生がタクシーでそして外人の方も多く見かけます。殆どの方は、日本一細長いお堂の中を1001体の観音像に驚きそのまま退散される方が多いですが、往時火災で持ち出されたのは、観音さんの前に並んだ鎌倉時代の国宝二十八部衆と風神・雷神に観賞されるゆとりも無いようです。タクシー利用の修学旅行生時代は代わり、桃山時代には豊臣秀吉がこの周辺を広く確保し方広寺では高さ19mの木造大仏(奈良の大仏14.9m)を建てたとされています。秀吉死後、墓地を背後の阿弥陀が峰に葬り徳川家康によって、秀吉の所縁のものは、ねねさんの願いで太閤塀と南大門だけが、現代遺されています。南大門と築地塀 瓦に五七の桐紋歴史の流れを推し量りながら、明日から順次寺社の説明にはいりたいです。後白河上皇も、平清盛も、権力を持たれて三っつの事ができないと言われた(加茂川の水・賽の目・比叡の僧兵)72代白河天皇に縁があり、後白河天皇は、鳥羽天皇と待賢門院さんとの子で、平清盛は、父平忠盛だが、祇園八坂神社境内にある忠盛灯篭のゆわれで、白河天皇のご褒美として、白河院の女房祇園女御(妹の説?)与えられた母とも言われています。あれだけ歴史上の有名人物でも仔細が判然としていません。いずれにしても両者気性は激しかったようです。明日は歴史上名高い方広寺に参ります。
2013.02.26
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修学旅行には、欠かせない観光地のようです。でも時間を急ぐのか小走りに廊下を駆け巡るだけでどれだけの印象に残るものか惜しまれます。観音さん千一体の多さに驚きますがその前列の国宝の二十八部衆像に目を留めてほしいです。1体とは始まりを意味します。それにしても、仏様一体でもご利益は届くと思いますが、後白河上皇は、数の多さで臨まれたようです。世界文化遺産並みお堂と考えられます。【蓮華王院】【三十三間堂】天台宗 開基 後白河上皇 山号 なし外人観光客・修学旅行には、人気の高い寺院です。明治の煉瓦風の建物「京都博物館」の南向いに有ります。受付を入りますと、長方形に三十三の間の扉で仕切られた、日本一長い建物に驚きます。観音さまは、人の願いに応じて、三十三身に変化される数に合わせているようです。更に堂内に入りますと、これまた観音さんの立ち姿の多いことに、感歎の声を発せられます。 何せ、真ん中に十一面千手千眼観音菩薩坐像【国宝】(仏師法印湛慶作)が蓮華坐に安置され其の両脇に五百体づつそして、その裏手に一体の十一面千手千眼観音菩薩立像が所狭しと整然と並んでいます。 そして観音菩薩の護身役として前列に二十八部衆と風神雷神【何れも国宝】が並んでいます。左右対称の場合は、本尊より左手が上位です。(私達より向かって右側)例えば。「雷神・風神」「仁王の阿・吽形像」「梵天(宇宙)・帝釈天(太陽)」この形式は、「清水寺」も観られましたし、外でも良く観られますので、参考にされるには、最も身近に大きいお姿で拝観出来ます。頭痛のお守り 何でも「後白河上皇」頭痛持ちだったそうで、夢のお告げにより、紀州「熊野権現」の附近で、自分の頭蓋骨にすすきが生え、その穂が揺れる度に、ずきん・ずきん痛むと。そのことにより34回に及ぶ「熊野行幸」され参詣されると共に、「平清盛」に命じて、数の量の多い仏を祀り頭痛納めに努められたと言う伝説も有ります。お守りの中にも「頭痛封じ」が有るのは珍しいです。通し矢の場所 廊下を巡ると「通し矢」の歴代の名人の額が掛っています。現代でも伝統として、正月成人の日に、女性による「通し矢」の行事が行なわれています。何故? 「昔紀州の殿様が鷹狩りをしていました、すると大事な鷹が、柳の枝に絡みつき離れず、短気の殿様が家来に命じて、木を切ってしまえと、其の時弓の名人横曽根平太郎が名乗り出て、枝を払うことで無事、鷹が救われ、柳の精が喜んだ」後に弓の名人の許に「お柳」(おりゅう)と言う別世の美人が訪れ、お嫁にと二人の間に「緑丸」が産まれました。平和な家庭でしたが、ある時、お柳が悲しくも「私は実は貴方に助けられた柳の精です。京の都に狩り出されることに成りました」と実は此処三十三間堂の「棟木」に供出されることになったのです。でも誰の手でもびくとも動かなかった柳の木に、「緑丸」が優しくお母様と泣く泣く言って、手で優しく摩ると、動き出したと言います。廊下の壁に「三十三間堂と柳の棟木」と題して、掲示されています。皆様、急がれるため殆ど見ておられません。 仏師「西村公朝和尚」さんの二十八部衆の面白い観方を一部披露します。【神母天王像】は【鬼子母神】(きしもじん)関東では信仰が厚いそうです。シンバルを両手で鳴らし、その音を目を真中に細め、静かに聴こうとしている彫刻。 我が子が500人も有りながら、他人の赤ちゃんを見ると全て食べてしまう鬼女でした。お釈迦さんが堪らず、彼女の子1人を隠されましたところ、彼女は気が狂ったように泣き叫び探したそうです。其処でお釈迦さんは「500人の内一人でも亡くした母親の悲しさ、喰われた他人の母親の嘆きや如何ばかりか」と諭されました。心を180度改め,幼児を護る安産の福の神に成りました。【阿修羅王像】(あしゅら)喧嘩・闘争を好み、梵天・帝釈天とも闘いました。これも、お釈迦さんに諭され仏の味方と成りました。眉間にも目がある三つの顔を持ち合わせています。奈良・興福寺の【阿修羅像】は、東京でも大人気となりました。私個人としても、仏像で最も愛好しています。【迦楼羅王像】(かるら)コブラ(蛇)を常食の巨鳥。鳥頭人身の形を採り、横笛を吹き、右足先で リズム・調子を採るユーモアな像に観られます。インドの神さまです。【帝釈天王像】(たいしゃくてん)右手に太陽をあしらった鏡を持っています。【摩喉羅王像】(まごら)眼が眉間も合わせ5個もありますよ。 こうして観ていきますと「仏像」にも興味が沸いて来るのではないでしょうか。二十八部衆は皆国宝でゆっくり観察してみたいです。【十一面千手千眼観音菩薩】(じゅういちめん・せんじゅ・せんげん・かんのんぼさつ)形として両方に20の手しか有りませんが、一つの手に25の法力を持たれ40×25で1000とされ、実際千の手に近いのは、奈良・唐招提寺の観音菩薩。大阪葛井寺(ふじいでら)そして京都府京田辺の宝壽寺です。正面 次回は、三十三間堂の周辺のご案内をしてみます。
2013.02.26
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安楽寺は、庶民の信仰上由緒ある寺院になってしまいました。此処暫く、法然上人の威徳を偲びご紹介しましたが、哲学の道沿いにも幾つかの社寺があり、散策する人の目を引いています。 【霊鑑寺】臨済宗・南禅寺派哲学の道のほぼ半ばを東に入った少し小高き所に有ります。安楽寺に隣接しています。 門跡尼寺で、谷御所とも云われています。特別拝観のときしか内部は観られません。本堂・書院・居間が佇み立石を多く使った石組みで、池泉回遊式庭園はこじんまりしても心和みます。後水尾上皇の遺愛の散り椿ほか、黒に近い濃い紫の椿など各種の品種が見事で,【椿寺】としても有名です。。代々皇女が尼僧として継がれ、寺宝には、皇室で使われた宝物が多く、特に御所人形は200点にも及ぶといわれています。 【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。東天王町にある【岡崎神社】にも狛犬に変わり「兎」が居ました。 岡崎神社 狛犬の「うさぎ」次回は、三十三間堂に参ります。
2013.02.25
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悲しい歴史があります。 民衆仏教への恐怖による弾圧とも考えられます。 82代後鳥羽天皇は安徳天皇の次の天皇ですが、法然・親鸞上人を流刑されました。 【建永の法難】然しおん自らも鎌倉幕府北条政子・義時攻めに敗れ、隠岐島に御子次男順徳天皇も佐渡島に配流の浮世となりました。世に言う【承久の乱】です。大原陵で眠っておられます。長男土御門天皇は倒幕に反対意見でしたので、流罪でなくご自身の意志で高知にそして後に都に近い阿波の国で生涯を遂げられました。 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。本堂一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。鈴虫・松虫の供養塔後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】仏道の僧でありながら罪とされました。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。 法然上人さんは、当時【清水寺】で【念仏道場】を最初に開かれたとされています。【阿弥陀堂】には、その旨と上人さんの像が祀られています。 鈴虫・松虫も法然さんを清水に訪ねて、その法話に、感じいれられたともいわれています。 入口京都市観光局の立札安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市境内庭園 仏足石 供養塔への登り口 安楽坊・住蓮坊の供養塔 参道 庭園内の千両 本堂の背景 東山 鹿ケ谷和尚さんのご説明がとても明るく、阿弥陀如来さまのそばで、座してお話を受けました。本堂内に、鈴虫・松虫尼僧の像が飾られていました。
2013.02.25
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此処暫く【法然上人さん】の威徳を偲んで、更新しています。 銀閣寺から岡崎・円山そして清水寺に亘っての足跡が遺されています。特に清水寺では、釈迦堂と並んで阿弥陀堂があり、その場所で法然上人が念仏道場として初めて開かれたとされて上人像も祀られています・【法然院】浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。明日安楽寺ご紹介します。 参道 此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。 境内 境内 境内 萱葺の内から撮った門 椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。
2013.02.24
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法然上人が説かれた、【浄土宗総本山】です。 弟子の親鸞上人も同じく【浄土真宗】として、本願寺があります。全国から法要のため多くの信者さんたちが、お参りにこられます。 鐘楼-【知恩院の除夜の鐘】大晦日と言いますと、テレビでも表題のシーンが放映される事が多いですね。108つの煩悩を振り払う、僧侶十数人掛かりで、撞かれます。【重さ70トン】 御影堂(みえいどう)大河原の頂上の真ん中に瓦が三枚ほどくくられてあります【知恩院】(ちおいん)は、浄土宗の総本山とされ、法然上人が開祖で、一般大衆でも難しいお経を唱えなくっても、ただ【南無阿弥陀仏】と唱えるだけで阿弥陀さまの世界【西国極楽浄土】に召されるということで、日本全国信者さんが大勢信仰を持って居られます。 御影堂(みえいどう)は法然上人が祀られ、大きい建物です。何でも、【左甚五郎】の作と言われています。 過日、疑問にずっと感じていましたが、信仰の対象と成るはずの【阿弥陀堂】が西側に小さくって、聖人とはいえ【御影堂】がとても大きいことに、和尚さんの説明では、阿弥陀堂は【礼拝堂】であり御影堂は、【説法堂】として広く多くの人達が法話を聞くお堂と。やっと納得できました。 長い竹の棒で位置を説明します。 有名な【忘れ傘】が正面向かって右側の軒下に見上げるとひなびて居ますが、見られます。実は忘れたのでなく、木製の建物として、最も恐ろしいのは、【火災】です。それに対応して、水に関係する【傘】を置いたのでしょうね。 屋根の頂上の中央に【瓦三枚】が縛られて置かれています。和尚さんのお話では、作者は半永久的に残したい意味で、「この建物はまだ未完成ですよ」の意図と考えられます。人間も慢心しないで未だまだ足らない事が多々あります謙虚さを説かれていました。寺社では、隠れた為になる教訓が気付かない所に有るようですね。 各観音開きの高さ3mはありましょう扉も、指一本で動くほどに。真っ直ぐ削られた名工が証明されます。錠前の下部にカッパとかスッポンが出入り口を守る魔よけとして存在していますよ、実に微笑ましい存在です。 西側に阿弥陀如来の祀る阿弥陀堂があり、阿弥陀像の両手の指をよく見ますと、親指と人差し指を交えて居られます。皆様の仏壇を観察してみてみられては!、(仏像の観察) 更に奥に行きますと、廊下が【鴬張り】になっています。そして更に進みますと、大柄杓(ひしゃく)が手の届かない、梁(はり)に掛けられ、【シャクに触るな】につながります。又、柄杓は、多くの人を救いとるの意。 あまり上手に画けて、【抜け雀】【三方正面真向の猫】観る者が位置を変えても、親子の猫の目がこちらを見ている。日本一大きい三門 一度は観られると良い豪華な【三門】は日本一大きいとされています。その上層部には、建築の責任者寺社奉行【五味金右衛門夫婦】の【白木の棺】と像が置かれています。予算超過でその責めを採り自刃。三門は、徳川二代将軍秀忠公によって建てられ、楼上には、お釈迦さんが、祀られて居ます。お釈迦さんは両手の指を伸ばしておられます。(仏像の観方) 三門から御影堂まで、急な石段【男坂】となだらかな【女坂】があります。七不思議のひとつ【瓜生石】 二条城に通ずるミステリ地下道の出入り口される【瓜生石】この石の上に祇園の牛頭(ごず)天皇が降り大石から瓜が実った。 以上を【知恩院の七不思議】とされています。知恩院は、徳川のお城でも有ったようです。 御殿の東北には、東照宮があり、家康・秀忠を祀って居ます。庭薗も観られます。 知恩院境内の最も聖なる地法然上人御廟所石段を登りつめた場所 御影堂の東に急な石段を登り詰めますと、【勢至堂】(せいし)即ち法然上人のご幼名でありそして、【御廟】が有ります。その勢至堂の裏側即ち北側に、NHK大河ドラマ天地人で話題となった、徳川家康の孫、豊臣秀頼に嫁がされた【千姫の墓】があり、京都の市街が、美しく見渡せます。千姫の墓千姫も。父秀忠公と静かに京都を見守ってくれていましょう。 東照宮への庭園 御影堂の東側から勢至堂・御廟への石段登り口次回は、法然上人を慕って【法然院】に参ります。
2013.02.23
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昨年の京都の紅葉です。本日の朝に引き続き、法然上人さんのゆかりの寺院【くろ谷・金戒光明寺】紫雲の庭園のもみじをご紹介致します。 この時期に特別拝観されています。紫雲の庭は、法然上人を祀る御影堂に面する場所で、池泉回遊式に散策鑑賞できます。阿弥陀堂も特別拝観で初めて観ることが出来ましたが、例によって撮影禁止で、天井に描かれた龍も皆様に紹介できませんでした。もみじのイメージだけご鑑賞のほどを
2013.02.22
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今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の発祥地会津藩の京都での寄留地でもあり、広い墓地で、殉難者の墓鎮魂の場として境内に弔っています。法然上人さんの辿られた寺院をご紹介してみます。 寺院も一つのテーマーでリンクしてみますと、全体図の夫々関与していることで、興味がわくような気がしてまいりました。三千院の道中、熊谷直実の大原問答で師匠法然上人に若し危害が加わればと腰掛けて鉈を持って待機した石を紹介しましたが、今回は鎧を掛けて武士を捨てた松が話題です。一の谷で源義経に仕えた直実が、敵将の平敦盛の首を仕留めたか15歳と言う若武者に戦の哀れを感じて、京にもどり、法然上人に帰依し、菩提をとむらったといいます。(平家物語)御影堂(みえいどう)法然上人を祀る 熊谷直実の鎧掛けの五葉の松【金戒光明寺】(こんかいこうみょうじ)(黒谷)浄土宗大本山 開基法然 開山 紫雲山 吉田山(神楽岡)の南端に位置します。【真如堂】の奥に三井家の廟所があり、地続きに南へ歩みますと、 会津藩の墓地【会津藩殉難者】の墓地が広く繋がっていました。此処「黒谷」に本陣を構えて駐屯していたと言うことです。平和の時代を迎え、思わず当時の悲惨な歴史を顧みて、霊の安らかに眠られん事を念じました。 地元では、「くろだにさん」と愛称で呼ばれています。法然上人が比叡山で修行され、43歳のときにこの地で念仏を唱えられたとき、光明があたりを照らされたことから念仏道場を開かれたとのこと。浄土宗の建物形式にそって、山門・御影堂・阿弥陀堂があり、特に変わった処といえば、 三重の文殊塔石段で高く登った所に三重の搭があり、【くろ谷の文殊さん】として「文殊塔」が一際、美しく建って居ます。 【日本三文殊】で、丹後天橋立の【切戸文殊】・大和【阿部文殊】そして【岡崎文殊】(黒谷)黒谷文殊塔は、徳川秀忠菩提のために立てられ、運慶作と云われています。 「三人寄れば文殊の知恵」賢いと言うよりも、健康的な判断が出来る智恵の授かることを願いたいです。 阿弥陀堂 【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、 「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。内部は、非公開。 山門 【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額 が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教え を始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん) 中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されています。撮影禁止です。 御影堂の裏に、最近庭園を散策できるようになりました。紅葉の頃最適です。 次回は知恩院に参ります。
2013.02.22
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昨日は、氷点下1度の中で、ゲートボールの大会に参加。腹の底より冷え込みました。帰ってコメントするのもままならず、失礼しました。妙心寺の側に、NHK大河ドラマ「平清盛」で当初よく演出された「鳥羽天皇」の中宮でありながら、権威を持った「白河上皇」に寵愛され、女性としての生き方に不本意のままに過ごされ、夫たる鳥羽天皇には、美福門院に片寄られ、白河上皇崩御後は何の権威も持てず、出家されて建てられた、法金剛院とされています。一つの哀話とも考えられます。偲びつつ誰も訪れないひっそりした御陵を訪問しました。鳥羽天皇との間で、【後白河天皇】の母君でもあり、平清盛との葛藤が平家物語で登場します。 【法金剛院】奈良の宗派「律宗」 開基 待賢門院 (たいけんもんいん) 山号 五位山 JR「花園駅」駅前に有ります。昨日の「妙心寺」の観光の際には、近くですから是非ともご訪問をお勧めします。過日お知らせしました「特別名勝指定」国宝級の庭園の一つです。極めて小規模ですが、いにしえを偲ぶに相応しい、落ち着いて鑑賞出来ます。自家用では、嵐山に向かわれる途中に道路沿いにあり、駐車場もゆったりしています。入口の門自動車道路を隔てて、JR花園駅があります。 蓮の開花季節7月中旬から8月初旬には、門前にその旨の案内が掲げて有ります。 庭園入口常時では、礼堂の西側裏に「仏殿」が有り、平等院の阿弥陀さんを彫った、「定朝様式」(じょうちょうようしき)の【阿弥陀如来坐像】 が私たちの礼拝する、目の間近前に拝する事が出来ます。八角九重型の蓮坐は、阿弥陀さんを一際引き立てているようです。阿弥陀さんは、「東向」で極楽浄土をイメージして造られた、【待賢門院】の蓮池が保たれて現代も活き活きした状況を感じ取りました。横には着飾った【十一面観音菩薩】がお厨子の中に立像として拝する事が出来ます。 平安時代前期、右大臣 藤原夏野の別荘から「双丘寺」(ならびがおかじ)として建てられましたが、その後奈良の唐招提寺の僧によって再建され、「律宗」となっています。寺の荒廃により、「待賢門院」が出家され再建されました。 京都の北方に目立つ、「ラクダのこぶが二つ並んだ丘」を「双ヶ丘」(ならびがおか)と言いますが徒然草で有名です。その南麓に「五位山」がありそこに法金剛院が建っています。 庭園 仏堂が見えます。 背景が【五位山】五位山の右手裏手に御陵があり待賢門院さんが静かに眠っておられます。 【待賢門院】お父上藤原公実とは、若くして死別 【藤原璋子】(ふじわらのしょうしたまこ)として、74代鳥羽天皇の中宮(皇后)・75代崇徳天皇・76代後白河天皇の母君後に「女院号」【待賢門院】と呼ぶようになりました。大変美貌でお父上無き後.白河院の加護を受けて居られる内は、良かったようですが、保護者の崩御後、旦那の鳥羽天皇が「得子」後の「美福門院」に心を寄せられ、待賢門院は、信仰も厚く、出家して「法金剛院」で、生涯を送られましたとか。五位山の北麓に、【花園西陵】として御陵が有りました。とても静かな場所に眠って居られました。【妙心寺】のほんの側でした。近所の人も関心を持たないほどでした。 参道花園西陵 待賢門院さんの皇后陵 【青女の滝】(せいじょのたき)石組みは平安時代で、日本最古の人造滝石組みと言われています。 【歌碑】待賢門院の侍女【待賢門院堀河】の百人一首。尚【西行法師】も訪れたということです。法師は、源氏の武士で詩歌の精通で恋慕するも、出家して地方を行脚したと云います。 「長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝は物をこそ思へ」 歌碑嵯峨野・嵐山方面は尽しましたので、次回は、八重の桜で高視聴率の【金戒光明寺】に参ります。
2013.02.21
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嵐山の保津川で三船祭りは、仁和寺の寝殿の襖絵にまでいにしえより大切に扱われています。映像のアップは、以前楽天写真館で溢れて消え去りました。文章だけで今回更新したいと思います。【車折神社】 (くるまざき神社) 【芸能神社】社名は、【後嵯峨天皇】が大堰川(おおいがわ)へ行幸の際神前で御車の轅(ながえ)が折れてしまったため神威を恐れ車折大明神の号をおくられました。【三船祭】 5月第日曜日に大堰川で行なわれます。境内に 【芸能神社】が芸の達成の為、名札を奉納しています。2千枚飾られています。昔は、美空ひばり・五木ひろしの名がありましたが今は無くなりました。祈念神石 はじめに、社務所にて祈念神石を授かり神前で願い事をして、持ち帰り、願い事が適えば、神前に返納するもので、山のように詰まれていました。嵐山・大堰川(おおいがわ)【三船祭】 宇多上皇の行幸のあった大堰川のご船遊びに因み、御座船・龍頭船・鷁首船(げきしゅ)など二十数隻が様々な古典芸能・芸術を奉納し平安時代の船遊びを再現します。豪華さは、菅女たちが、川面に扇子を多く流しそれを競って拾う観光客の姿でした。
2013.02.20
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仏像は、京都では殆ど撮影禁止で、皆様方に映像で判りやすくご紹介出来ないことがとても残念です。許可を得られたグーグルの画像で検索してみてください。朝一番にでかけますので、ひづけが19日となっています。仏像として国宝の第1号に指定された飛鳥時代の【弥勒菩薩半跏思惟像】が祀られています。【広隆寺】(こうりゅうじ)真言宗御室派 開基 聖徳太子 京都には、国宝が多いです。そこで「クイズですが、国宝指定が存在する日本では何処の都道府県が一番多いでしょうか?」聞くところによれば、最も多いのが、東京都265件国立博物館が殆ど管理しています。次いで京都226件そして奈良県198件の順に成っています。 広隆寺は、地元では。「太秦(うずまさ)の太子さん」と親しまれています。 その【国宝指定第1号の仏像】が、此処広隆寺・霊宝殿に納められている【弥勒菩薩半跏思惟像】(みろくぼさつはんかしいぞう)です。 弥勒菩薩が半分あぐらをかかれたお姿で、顔に指をあてがい人類をどのように救おうかとお考え姿です。京都検定試験1級で出題されました。漢字で正確に覚えなければ解答出来ません。半跏とは、韓国流で半分あぐらをかかれたお姿を指します。思惟とは、片手を頬にあてがって、人類をどのようにして救おうかと、想いに耽っておられるお姿指します。何ともいえない微笑を浮かべられたお顔を見上げているだけでも心打たれる仏様です。室内の放送に寄れば、弥勒菩薩さまとは、人の救いを考えられつつ、56億7千万年後(567)に、この世に如来として現れられる仏さんと言われ、地球学の学会でも、この数とほぼ一致していると聞いた事があります。(567と覚えます) 前述しましたが、「弥勒如来像」は奈良の「唐招提寺」で観られます。 韓国にも、全く類似した「弥勒菩薩半跏思惟像」が現存しているようです。 【飛鳥の三弥勒】広隆寺にもう一体「泣き弥勒」【国宝】が隣接して納められています。べそを描いておられ、仏像には、金箔の一部が残っています。もう一体は、奈良法隆寺の東側に隣接した【中宮寺の弥勒菩薩】を飛鳥時代の三弥勒と称されています。 【霊宝殿】四隅には、「四天王」「じ・ぞう・こう・た」即ち「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」が少し大きめに立っています。西側に薬師如来・日光菩薩・月光菩薩そして前列に十二神将【国宝】正面に弥勒菩薩二体と天平時代の作の弥勒菩薩一体他に大日如来・聖徳太子そして使えた「秦の河勝夫妻(藤原時代)が並び、東側には、毘沙門天・吉祥天(夫婦)(尚多聞天は毘沙門天は一諸)愛染明王。不動明王が、そして南側に観音菩薩像が三体内二体は【国宝】となっています。修学旅行生も勉強の為多く案内しました。寧ろ中学生から教えてもらいました。「おじさん、四天王の覚え方は じ・ぞう・こう・た としておじさんの好きなマージャンのとん・なん・しゃ・ぺできまり」と。東・南・西・北 夫々を担当する四天王です。【本堂・上宮王院】【国宝】聖徳太子の立像が祀られて居ます。地元では、「お太子さん」として親しまれています。隣が太秦映画村として賑わっています。【桂宮院】聖徳太子を祀る 八角円堂で 非公開 【講堂】阿弥陀如来【国宝】「下品中生」の珍しい印相をされています。「平等院」阿弥陀さんの印相をご参照下さい。両脇に地蔵菩薩・虚空蔵菩薩(重要文化財)【南大門】仁王像 阿・吽(あ・うん)次回は、平安朝の【法金剛院】に参ります。
2013.02.19
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今朝の京都は、どんより曇っています。気温すでに4度とましです。天龍寺の広大さからは、控えめの寺院に参ります。京都観光では、室町時代の【足利家】に関する寺院が要所を占めてているやに思われます。金閣寺・銀閣寺・天龍寺・相国寺そして等持院です。 【等持院】(とうじいん)臨済宗天龍寺派 開基 夢窓疎石 歴史上に登場する人物で、時代に応じて、イメージで印象の悪いと考えられていた者が、理由が有って善良な人物とも取れる事がよく。出てきます【足利尊氏】がそのひとりです。戦前歴史で朝廷に背いた国賊と教えられました。然し現代に残されている遺跡寺院からは、そうとも思えない足跡が観光によって感じられました。 牧野省三銅像 等持院然りです。映画監督「牧野省三像」が立っているその奥に玄関口門前に大きく「等持院」と書かれた門標がありました。足利尊氏の戒名「等持院仁山妙義」から付けられたとされます。寺院の格式から「寺・院・坊・庵・軒」とされています。戒名は残った人がその人の遺徳を偲んで贈名とするとすれば、「等持」の漢字に寺が二字含まれて居ます。慕われ尊敬された方と思えます。そして寧ろ何か原因があったのでしょう。敵であった、「後醍醐天皇」の菩提の為に、建設費を「天龍寺船」での貿易で立派な「天龍寺」を建て、その立役者の足利家は等持院で、一歩下がって礼を尽くしているように思えて成りません。庫裏の入口蟇股に「二引きの家紋」【順路】•1. 表門に等持院の額が掛っています。•2. 玄関口の瓦及び蟇股(かえるまた)には二引きの足利の紋が見られます。 達磨の絵•3. 廊下の突き当たりにダルマの絵が目立ちます。天龍寺の管長さんが描かれたそうです。座禅を続けていますと足が立たず、それがダルマさんの姿に成られた、「ダルマ禅師」の絵です。•4. 方丈前の廊下は、「うぐいす張り」できゅっ・きゅっと歩くと音がします。 方丈庭園•5. 方丈(本堂)には、釈迦三尊が祀られて居ます。 霊光殿•6. 【霊光殿】正面に尊氏の母堂が大切に振興つき「地蔵菩薩」を尊氏のの仏の庇護のため賜った尊氏の念持仏両脇に禅宗の祖師「達磨大師」と「夢窓疎石」が、足利将軍15代の像(5・10は除く)何故か徳川家康の像有り。 足利尊氏の墓頭の部分が欠けています 7..【足利尊氏の墓】上部の宝塔が欠けています。何でも三條大橋東詰で御所に向かって、平伏している像、「高山彦九郎」が朝敵として刀で切り付けたと言う伝説が有ります。バック立命館キャンパス手前に茶室【清蓮亭茶室】8.【池泉回遊式庭園】夢窓疎石作庭「芙蓉の池」と称し、蓮の形した「亀島」書院正面の這い松の「鶴島」「石橋」「滝の石組み」天龍寺の庭園形式になぞらえています。9.【清蓮亭茶室】八代足利義政が建てた武家床の貴人席があります。等持院型灯篭と自然石で出来た司馬温公型手水鉢が有り、茶席からの庭園の眺めもやや高台からとなり素晴しいです。 借景に、衣笠山が近年まで、眺められたのですが、時代の波に逆らえず、「立命館キャンバス」の校舎で、遮られてしまい、致し方がないとは言え残念です。石組みの池泉回遊式庭園 奥の池奥の池 天龍寺・金閣・銀閣と足利将軍の関係する「菩提寺」としてひっそり佇んでいます。次回は、国宝第1号の仏像【広隆寺】に参ります。
2013.02.19
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今朝か京都はら雨模様です。嵯峨野から高雄方面見どころ紹介してきました。本日より、世界文化遺産も【真言宗】をご紹介します。弘法大師さんが開かれた宗派です。【大子堂】が建てられています。【仁和寺】 真言宗御室派総本山 開基 宇多法皇 世界文化遺産に登録 当初訪問しました、「龍安寺」の隣接した場所に有ります。従って宇多法皇が「夏でも雪景色を見たい」「衣笠山」も近くに望めます。正門には「仁王さん」が逞しく「阿吽」(あうん)の形相で睨んでおられます。仁王門から【国宝・金堂】その背景大内山を望む 阿形の仁王さん口を開けている 吽 形の仁王さん口を閉じています阿吽(あうん)の仁王さま 仁王門から、正面に大内山を背景に国宝【金堂】が佇み、京都御所から移された、「紫宸殿」で「現存する最古の建物」とされています。 仁和寺は、888年(仁和4年)年号と同じは、比叡山の「延暦寺」も同様です。この辺りでは、タイムカプセルのように、いにしえの御所の雰囲気で満ちています。本尊は阿弥陀如来そして、「脇侍」(きょうじ)には、観音菩薩・勢至菩薩が祀られて居ます。同じ阿弥陀三尊も、「霊宝館」には、国宝の仏像が有り、常時拝観出来るようです。国宝・金堂 手前には、「五重の搭」があり、春の遅咲きで有名な、御室の桜園が有ります。 五重塔 見所は、仁王門を入って左手に【仁和寺御殿】があり、二条城二の丸御殿と同じく、ボタンを各部屋で押すと、説明が聴けます。1.【本坊表玄関】玄関前の庭には、大きい這い松がみごとです。 仁和寺御殿入口の這い松 中に入ると「御室流の生け花」が見事です。側に孔雀明王の掛け軸が掛けられ、香のかおりが落ち着きを覚えます。 白書院の前庭白砂正面・勅使門 右手に仁王門2.【白書院】四季の襖絵が画かれ、廊下から白砂の向かいに「勅使門」「仁王門」を眺めると雄大さを感じとられます。 宸殿3.【宸殿】前には、「左近の桜」「右近の橘」が備わっています。 五重塔を取り入れた庭園4.【宸殿の北側】に廻りますと、五重の搭が借景で心和む庭園の池にめぐり合えます。 池を取り入れた庭園庭園要素「天龍寺の曹源池」と同じく、瀧は水が流れ、無「鶴島」「亀島」そして石橋が整っていました。部屋の襖絵は、大和絵・春の桜・夏の加茂の祭り・秋の嵐山の「三船祭りの絵」冬の交野(かたの)(大阪)鷹狩り 宇多法皇の居室5.【上段の間】宇多法皇の居室で、最も要と成るお部屋です。此処からの庭園の眺めは最高です。天井は貴賓の方が居られる「格天井」で、螺鈿(らでん)細工の床。違い棚付書院が有ります。 霊明殿への廊下6.【霊明殿】近衛文麿公の額・秘仏薬師如来が祀られ、此処からの高台からの眺めも素晴しいです。7.【黒書院】堂本印象の襖絵。「リス」等動物の存在が可愛いです。次回は、足利菩提寺【等持院】に参ります。
2013.02.18
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高雄三尾の寺院ともみじ、如何でいたか。更新に字数が多く登録できなかったので、追加します。高山寺の駐車場から更に国道を北に向かいますと清滝川にそって。北山杉の群れがずっと続きます。天皇陛下が皇太子の頃に妃殿下とご訪問された由緒ある林です。北山杉の群れ 国道に沿って続きます。 高山寺から眺める日の出の山明日は、真言宗 【仁和寺】へと参ります。やはり弘法大師さんに関係します。
2013.02.17
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きょうと とがのを高山寺 恋に疲れた女が ひとり此処も京都の人気スポットのようです。前回まで此処の写真を撮っていなかったため、思い切って出掛けました。紅葉は始まったばかりでした。でも中国人そして外人の方はじめお客様が多かったです。【高山寺】(栂尾高山寺)(とがのお・こうざんじ)真言宗 開基 明恵(みょうえ) 世界文化遺産に登録 【高雄】は、京都では、紅葉の名所で、其の周辺に【槇尾】(まきのお)【栂尾】(とがのお)と紅葉が美しく、【三尾】(さんび)と言われています。その最も奥に高山寺が有ります。大きい駐車場から、急な山道を登り詰めた所に、急な坂道中国語で話す女性達もお寺の玄関口に辿り着きます。 高山寺 石水院の入口の門廊下伝いに暫し歩みますと、国宝【石水院】(せきすいいん)があり、廊下には、影絵の様な形で【蟇股】(かえるまた)のシルエットがとても芸術的に美しいです。 国宝建物【石水院】此処が一番趣の深い写真と思います。観る人によって感動は違ってくるでしょうね。本間で坐って外の景色も、山が見え、紅葉は一段と美しいです。 たまたま思いに耽っておられる女性のかたみうごきなしでした額には、「日の出先ず高山寺を照らす」と漢文で書かれています。鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅額で寺名ともなりました。この山の向こうから日の出が見られるのでしょうね。床の間には、国宝【明恵上人の樹の上で座禅姿】の屏風が飾られています。 国宝の掛け軸です。明恵和尚さんが樹の上で瞑想されているお姿です。又、本間の横に、国宝【鳥獣人物戯画】全4巻の写しが置かれ、蛙と猿が人物的表現で戯れている図で、愉快に成ってきます。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の筆と言うことです。ガラスケースでしたが、何とか写せました この様に【国宝級】が3個あるだけでも、寺の建物は小さくても、文化的価値は、高いと、思われます。京都検定1級の試験に出題されました。又本間に運慶作の可愛い「子犬の像」が何とも微笑ましくお客様を迎えています。仏師 運慶が彫ったという子犬です可愛いですね 外に出ると、日本最古の茶園が狭いですが、存在し「明恵上人」が「栄西禅師」から、中国から持ち帰った茶の種を贈られ。馬の歩む足跡に従って植えることを教えられました。「日本最古の茶園」 茶園の様子 宇治の「黄檗山万福寺」にも門前に有ります。今回は時間のゆとりがあるので、初めて広い境内をめぐって来ました。大杉の階段を登りつめました 開山堂(明恵上人)を祀っています一番奥に本堂【金堂】がひつそり建っていました。このお堂の前で、杖を付いた痛ましい老人の私に二人の女性がいたわり思い遣りの優しい気持ちで「大丈夫ですか、ご一緒しましょうか」と声がけあり、ブログの取材で来ましたというとブログの名をとなり聞けばお二人とも、遠く北海道からの観光なさる方たちでした。絆も生まれ不思議な出会いに恵まれました。金堂前の急な石段高山寺参道出口
2013.02.17
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病院の結果が血小板150正常値で、79から91とやや回復かげんでした。昨年8月最悪 6からの回復ぶりです。原因一切不明です。生命あることのお恵みに感謝しています。 今回、高山寺に写真を撮ることを目的で、もみじももそこそこでした。帰途、空車のタクシーも通らず、次のJRバス停前で、小さいうどん屋さんで昼食、二組6人のお客さんが外人さんでした。店の地元のおばさんの勧めで高雄方面の最も早く紅葉するといわれる西明寺が直ぐ側だから是非にということで、既に弱い脚を使い切っているので、そろりと訪問してきました。此処もタクシー観光では通過地点ですので、初めての訪問となりました。【槇尾山西明寺】 真言宗大覚寺派江戸時代の再建には、徳川綱吉公の母君 桂昌院が寄贈したとされています。門前やはり此処も石段を登り、山中にお堂が建っていました。でも神護寺ほどではなくホッとしました。門前のもみじ門前では手箒てで常に掃除しておられました。本堂前の戸灯篭釣鐘1回百円・撞いて来ました。静かさが山に響きました。手を合わせて、目をつぶり暫し思いに耽っていました。虎の絵の屏風もみじの庭門前のもみじ清滝川指月橋から清滝川を渡る重い足も、心癒されました。京都にはまだまだ良いところが有りました。高雄三尾 高雄神護寺 槇尾西明寺 そして 次回は 世界文化遺産・栂尾高山寺 をご紹介します
2013.02.16
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ただいまから5週間目の診察に国立病院まで出かけます。また一日仕事のようです。 昨日に引き続き、神護寺の聖域を巡ります。嵐山の保津川の支流清滝川の上流に此処たかお三尾があります。楼門を過ぎれば、平らな境内で、一安心しました。何といっても中心は、【金堂】で。国宝の薬師如来像が祀られています。そして重要文化財の薬師さんのセット日光菩薩・月光菩薩(がっこう)十二神将そして四天王【持国・増長・広目・多門】天が揃ってみられます。金堂(本堂)国宝薬師如来像がまつられています。 金堂への石段 石段 登りつめた場所石段の下時代劇でよくここのシーンが出てきます かわらけなげ2枚百円清滝川渓谷 清滝川渓谷かわらけ投げ みなさん楽しく試みておられます上手な人の場合は、長時間遠くへ飛行続けます下の川から此処まで登るのです。絶景 何れもかわらけなげ付近の情景です 。かわらけ、買ってみるか記念にシャツター長い石段を登りつめて、弘法大師さんの、護国のため建てられた聖域からの、渓谷に掛けての絶景は、みなさま満足気味でした。明日は槇尾西明寺(まきのをさいみょうじ)のもみじをご紹介します。
2013.02.15
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バレンタインデーみなさま愉しい一日をお過ごしください。Googleの模様替えで楽しい動物たちが挨拶にあらわれますよ。健脚の方は、高雄に来られれば、昨日・一昨日ご紹介しましたとおり栂尾高山寺・槇尾西明寺そして高雄神護寺とセットでお参りされると意義が深いと思います。山岳仏教で山登りが厳しいです。 本日は、将軍塚で、平安遷都を推挙した「和気清麻呂」の墓と京都の都の礎を「嵯峨天皇」と築きあげられ護国のために神護寺を建てられた弘法大師に偲び昨秋訪れたものを二日に亘って再録します。弘法大師は、山岳仏教として、北国・高雄にまで、布教の為寺院を創られました。 【神護寺】【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高雄山 高尾は、京都では、「紅葉」の名所で、シーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いて、ひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として、「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高雄山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます。秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと、上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き、周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 高雄橋・ もみじと高雄橋 参道途中の茶屋息が苦しく、足が痛み出し、勇気の撤退をしょうとしましたが、ままよと再発進参道の茶屋 参道から振り返った景色 休み休みして漸く神護寺楼門に辿りつきました 平安京の立役者・和気清麻呂公の霊廟 明王堂その側に日本三名鐘の鐘衝き堂があります銘が有名宇治平等院・形 滋賀・三井寺の音明日に続きます。
2013.02.14
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北朝鮮3度目の核実験、人間の終局目的が歴史文化国民の幸せは何処に、ただ生き延びたいだけの独裁にしか見えません。危険で哀れな国ですね。大覚寺は世界府文化遺産に指摘もありましたが、有名であって国宝級の建物・仏像が無く、世界遺産に登録されていませんが、京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 さがごりゅう 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 玄関(何故か「明智門と言います)の門を潜りますと、豪華な「御嵯峨流」の生花が歓迎してくれます。明智門 各部屋の襖絵には、狩野派の画家によるものが、観られます。【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」の旧殿を移築されたものです。 宸殿家光の妹 東福門院さんが御所で使われたたてものを移築 前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇が祀られて居ます。御影堂左 嵯峨天皇 右 弘法大師 を祀る御影堂から 勅使門を眺める舞楽を舞う台 【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。遍照山が池面に美しく映っています。 池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、スケールの大小、壮大さ、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、竹や苔の美しさ、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。次回は神護寺に移ります。
2013.02.13
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おかげさまで、何時の間にかアクセス受けた数が12万台戴いていました。 日頃からの皆様方の応援が唯一の支えであったこと、ここで改めて感謝いたします。ブログ名:京都観光をご案内し・・・総アクセス数:120261 アクセス(平均 105 アクセス/日)開設日数:1147日(開設日:2009/12/23)日記記入率:95.1% 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 山号 嵯山 。現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています。「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(遍く照らす太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」が、ひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。 「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう) この状況で、作詞家 永六輔は、「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌 「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」「直指庵」も近くにあり、女性の心の癒し安らぎ憩いが得られる環境に嵯峨野はあるようです。 大澤の池 池の一番奥に【名古曽の瀧跡】がありました。此処は時間もかかりますので、今回ブログ取材のためこの歳になって初めての訪問で感慨ふかいものがありました。 瀧の鑓水の流れの跡大澤の池に注ぎます。 瀧の水が池に注ぐ場所背景の山は、嵐山です。遍照山が大澤の池に映っています。遍く照らす即ち仏の慈悲この池に写す手法は龍安寺・金閣寺そして銀閣寺でも見られます。そして千円札にも富士山の富士五湖が採り上げています。観音堂納経堂時代劇に常にロケに利用されます。次回は大覚寺の境内をご紹介します。
2013.02.12
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嵯峨天皇陵から200mのそぱに【直指庵】があり、女性の方で恋に疲れた方々らが「思い出草」に静かに記帳して、庵に遺す部屋が用意されています。何冊もあり、可なりの人々が訪問されているようです。 本日は昨年の秋に訪問した、もみじと女性の駆け込み寺とも云われる。こころの癒しの名所とも云えます。 【嵯峨野の飛び地】 愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有ります。NHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、【津崎村岡】でした。【直指庵】(じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山 入口【直指庵】石塔参道本堂の前庭本堂本堂奥庭への道 大覚寺の北方に位置します。やはり孟宗竹籔に包まれたひっそり佇む庵が建っています。 隠元禅師の高弟「開基独照性円」が草庵を結びました。 「直指人心見性成仏」(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)禅宗の悟りを示した言葉です。荒れ果てた「庵」を幕末の勤皇家、近衛家老女「津崎村岡」によって再興されました。「村岡局の胸像」は、亀山公園の敷地内にひっそり座しています。 【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津崎の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて 、静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。NHK大河ドラマ「八重の桜」で井伊大老暗殺の場面が先週放映されました。 津村 村岡の墓所嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」しても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。 【想い出草】のノートを記帳する部屋恋に破れた女の方が此処で心を鎮めるかなりのノートが置かれていました。 境内には、【想い出草観音像】が優しく見守って居られる様に思えます。 帰り道 帰り道 次回は、嵯峨周辺最終地の嵯峨天皇の開かれた[嵯峨御所・大覚寺]に参ります。名古曽の滝跡は、85歳にして初訪問です。
2013.02.11
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今朝も京都で氷点下2度と冷え込みました。皆様体調管理にご留意願います。本日は、大覚寺に関係ある嵯峨天皇の御陵が嵯峨野の小高き山上にあり昨年登ってきました。 ブログで観て頂きたい一念で、過去一度も訪問出来なかった箇所にも参りました。昨今の【名古曾の瀧跡】もそうで、本日は嵯峨野の山上にある、京都の都を本格的に定められた、桓武天皇の皇子【嵯峨天皇】陵に初めてあえぎながらも、極めてきました。 【嵯峨天皇御陵】は山道を登ること、二百段、杖をついて登ってきました。再三申しあげますが、794年に桓武天皇によって、【平安遷都】が行われましたが、その皇子さん【嵯峨天皇】によって、大覚寺で弘法大師さんと共に、まことの都造りを成し遂げられました。今でも、小高き山上より、嵯峨野を通して、京の都を見守って居られるようです。嵯峨天皇御陵 参道入口 坂道 坂道振り返ると嵯峨野 まだまだ目的地が見えません。やっと見えてきました とても清々しい感じです。 嵯峨山上陵と書かれています 帰途は獣道から しだがはえています。 裏山には、小倉山そして愛宕山が見えました。この愛宕山の頂上には愛宕神社があります。 小倉山を見下ろす、別の風景です。 漸く嵯峨野の景色にもどってきました。 山道にこんな林も麓にありました。達成感は、清々しい感じでした。然し杖突持っては冒険で疲れ切りました。次回は直指庵に参ります。
2013.02.10
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この寒空に、ゲートボールの伏見区の大会に行ってきました。紅葉の名所と朝に更新しましたが、昨年の秋に確かめて来ました本日二度目の更新です。【宝筺院】 (ほうきょういん)楠木 正行 (くすのき まさつら) 足利 義詮 (あしかが よしあきら) 両菩提所表門入口入り口付近 菊の花も境内一円 紅葉 隠れた名所本堂前もみじの絨毯本堂内の まさつらと僧侶の絵本堂から 庭園展望本堂からの眺め庭園散策家紋 左 二引きの足利家 右 菊水 楠木家左 第二代足利義詮の墓 右楠木正行の首塚初代足利尊氏は 後醍醐天皇の菩提のため 天竜寺を親子二代で 敵であった方の 人は憎まぬ史跡が伺われます。庭園を鑑賞山茶花も まけずに白い山茶花も ありますよもみじの絨毯と 木漏れ日以前には、それほど紅葉していない様子を御所絵介しています。今回は、もみじの絨毯を味わってきました。車夫の方の 観光が多く やはり穴場として 多くの車夫の方々のご案内が多かったです。車夫の方は、とても 礼儀正しくって、 関係のない老人にも 「こんにちわ」と笑顔で 挨拶が徹底しています。 観光関係として とても大切なことと気持ちよくしました。
2013.02.09
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戦時中、神戸湊川神社に参拝時、「ああ忠臣楠子の墓」として畏敬の念で対しました、碑は水戸光圀公とあるので尚更でした。足利尊氏は後醍醐天皇を【天龍寺】を建てて菩提寺にしました。息子足利義詮は、楠木正成の子「正行」を慕い、墓所の側に崇めて塔と首塚を隣接して眠っています。親子の武将として相手への思い遣りが遺された記しを感じます。 もみじの隠れたお寺をご紹介します。ちょつと寄られるに相応しいです。 二代将軍足利義詮の墓と楠正行の首塚【宝篋院】(ほうきょういん)臨済宗天龍寺派 「清凉寺」仁王門の西に位置します。二代将軍足利義詮(よしあきら)の塔所で戒名から寺名にしています。有名なのは楠正成の子「正行」(まさつら)の首塚が義詮の墓所に隣接して、義詮の墓所が三重の搭」そして正行の首塚が「五重の搭」として石塔が隣接して立っています。南北朝の敵ながら。義詮が正行の人柄を慕い、其の側に葬るように遺言されたということです。父 【足利尊氏】が対戦相手であった、【後醍醐天皇】を慕いその菩提寺として、立派な【天龍寺】を建てたように、父子ともに相手を人間的には慕い、菩提を弔っています。 秋には【紅葉】の素晴しい穴場ですのてで、是非覗いて見て下さい。 本堂 何れも境内 【森嘉】(もりか)仁王門の東へ直ぐの所に「嵯峨の豆腐」の老舗が有ります。「愛宕水」の名水で作り上げた豆腐は、朝一番に売切れてしまうほどです。ひろす・湯豆腐等が皆さんの憧れのまとです。
2013.02.09
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日本全国再び氷点下の冷たい朝になったようです。体調管理の難しい季節です、充分にご健康維持にご留意願います。嵯峨野巡りも終わりました。嵐山に向けて帰途にあります。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】(せいりょうじ)【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん 嵯峨野巡りも終えて、嵐山の方に戻った位置に「嵯峨釈迦堂」があります。 この一帯は「源氏物語」に登場する「源融」(みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】(インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。 【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。 「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】(あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】(うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。 駅を見ると旅情がかり立たれますね。
2013.02.08
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遠くソロモン沖の大地震の影響で、津波警報に心配されました。今回は被害もなくってよかったです。嵯峨野は祈りの道として、相応しく、天台宗の僧侶で仏師であった「西村公朝おしょうさん」が有志で羅漢さんを信徒の彫られた石像が奉納されています。【仏像】の知識はこの方のお話や本で解かり易く教えていただきました。一生感謝しています。 【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社(あたご)参詣の古くからの茶店 更に道を進めてまいりますと、自動車道と交わる所に、「愛宕寺」が有ります。【愛宕念仏寺】【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。京都市内で一番高い「愛宕山」頂上に「敵は本能寺にあり」とと号令した明智光秀か神託を受けたと言う「愛宕神社」の参道に有ります。 故西村公朝(にしむらこうちょう)和尚さんの寺です。ご生前中「祈りの造形」と題して、NHKの3ヶ月に亘る講義から、仏像の基本的な観方を興味深く教えて頂き、京都観光奈良も含めとても参考に成りました。「国宝の審査委員でもあり仏像修理」の担当出来る「仏師」でもありました。 現在も本屋で、仏像に就いての「公朝」さんの本が見つかれば、京都・奈良の仏像鑑賞にとても役立つと確信します。仁王門【仁王門】の側に「三宝の松」が一本有ります。「将軍塚」の「三鈷の松」(さんこのまつ)と同じく何か宝物が得られるのでしょうか? 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】(らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼境内本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 【本堂】空也上人の弟子の「千観内供像」が有ります。 現代の自動車道は、過去電車が通って居りました。「愛宕寺」の側から「トンネル」があり、越した所まで、通じていました。何故なら、「愛宕山」山上の「愛宕神社参詣」の登り口に至る為でした今は廃線となり、自動車で、【清滝橋】即ち登山登り口まで行けます。先に述べましたとおり「明智光秀」も愛宕詣でで,神託を得たとして、「敵は本能寺にあり」と丹波行きを返して都に攻め入ったとも言われています。火の神様です。 「清滝」の渓谷の清流は、とても景観で静けさを感じさせます。紅葉の景勝地でも有ります。 嵯峨野巡りは、如何でしたか?皆様のご来訪数が伸びて、やはり関心の深さに感謝しています。一度は日本にこんな素晴しい心琴をもたらす、文化の象徴とも言える場所へのご来訪をお待ちしています。
2013.02.07
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今朝の京都は雨が降り続いています。各地では大雪ということですね充分に歩行運転に気を付けて下さいね。 昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるコメントを多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝のきもちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で【今 東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。 【化野念仏寺】(あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】(湛慶作)が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】(さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると、鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界を、この世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを【蓮台野】と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2013.02.06
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嵯峨野巡りも大詰めとなってきました。昨年の秋に訪問した写真です。もみじの頃となります。【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に【瀬戸内晴美】即ち【寂聴】さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】天台宗 山号曼荼羅山(まんだらやま) 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される「鳥居型」が有名です。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 「寂聴」さんは、此処でも「源氏物語」を執筆されていました。 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。 ある母娘のお客様を嵯峨野巡りをご案内していました。 娘さんとの子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と訪問を拒まれました。中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、「手当てと言うでしょう、温かい母さんの手は、子供の痛みを和らげますね、「手当というでしょう」私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙を流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され 、貴重な体験をされました。そして一緒に記念写真を「ハイポーズ」と寂聴さんが言われてにこやかな写真がお客様の手に残りました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。東北にも一寺を設け、東奔西走、人の心を癒されておられます。女性のみのお話会が月に一度あるそうですが、申し込み予約が殺到しているようです。私たちは本当に恵まれたと尊い体験をさせていただきました。今でも良き思い出として残っています。
2013.02.05
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今朝の京都は雨降りとなっています。祇王さんは、自分が清盛に推奨した仏御前のために屋敷を去る時に、仏御前のために襖に詠まれた「萌出も、枯るるも同じ野辺の草・・・」とかきのこして後にしました。 平家物語と嵯峨野は深い関係の、遺跡でもあります。 人間関係がままならなかつたのですね。【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】と「建礼門院」に仕えた侍女【横笛】の悲恋の舞台となった場所でも有ります語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け」 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は化野の念仏寺を訪れたいです。
2013.02.04
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本日は節分、日曜日でもあり、各地で豆まきの行事がおこなわれましょう。そして恵方に向かって恵方巻の巻き寿司をかぶり、福を求めて祈願する方も多いことでしょう。嵯峨野巡り中心祇王寺 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂入口萱葺の門孟宗竹苔庭手水鉢 「嵯峨野巡り」の中心的叙情に溢れた観光が味わえると存じます。「平清盛」の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし)「祇王」にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」(いまようのうた)七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」 草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして秋が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで、「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ、別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓右は平清盛の供養塔仏午前は、加賀に帰って亡くなられたそうです。 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2013.02.03
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今朝は比較的に9度と冷え込まない気温になりました、2月2日を「にゃんにゃんの日」または22日とする方もおられます。ブログで猫君を取り上げておられる方が多くみられます。何と無く愛嬌を振りまいて心和ませてくれますね。 嵯峨野巡り5. 【二尊院】天台宗山門派 開基 円仁(慈覚大師) 山号 小倉山 嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。 【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。【厭離庵】(えんりあん) 「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。 入口玄関庭園への門居間中心山荘の跡地本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉懸崖上の茶室茶室への路地 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」も有りました。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。 次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。【嵯峨野の中心的訪問地】と心得ます。誰しも心の打たれるところ存じます。
2013.02.02
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2月に入りました。もう春もそっと顔をのぞかせているようです。テレビで知りました。 1月31日ノゴロあわせで【愛妻】の日だったのですね。歳を取ると、つくづくその必要性を感じます。家族の平和はそこからもうまれそうです。本日は、貧しさの中でも芭蕉の十大弟子のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む、【落柿舎】(らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 田園風景【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地も、まんざらと未だにひそかに眠っているようです。 次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2013.02.01
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