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2026.01.31
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カテゴリ: 坐禅
「ありがとう」の人生―足立大進仏心講話集 | 足立 大進 |本 | 通販 | Amazon
「《ありがとう》の人生」 足立大進

「X=∞(無限大)」

p.25 私の大学時代の先生が口癖のように、「X=∞」ということをおっしゃった。

 自分の命というものが、俺の命にとどまらず、ご縁お蔭を頂いているこの世の中の総てに支えられている。天秤にかけたら、自分の命と全宇宙が同じだというんです。
これがお釈迦さまのお悟りなんです。


塵涓抄(じんけんしょう) – 足立大進老大師 遺書
国師今津洪嶽老師 | kudaridamaのブログ
 私の大学の頃、今津洪嶽という老教授がいらした。仏教の講義で、こういうことをおっしゃった。今は大学の教授が酒を飲んでから教室へ来たりすると、すぐにクビになりますが、私たちの時代は、古き良き時代であった。
 この先生は講演先の岐阜からの帰りで、車中でウイスキーのポケット瓶を傍へ置いて、チビリチビリ飲んでくる。午後になって京都の学校へ着いたころには酔っ払っている。その先生が赤い顔をしながら「X=無限大」と黒板にお書きになる。そして、「X=無限大、こいつがわかればな、もう仏教のお経なんか読むことはないよ。仏教は全部これでつきるんだ。」と。「禅宗、禅宗というけれども、禅の教えもX=無限大がわかりやあいいんだよ」そういう駄ボラみたいなことをおっしゃっていた。酔っ払っていうのですから、私たちはこんちきしょう、いい加減なことをいってやがると思った。
 いま考えてみると、これはすばらしい講義です。X=無限大、Xというのは自分の命です。自分の存在です。あなたがた一人ひとりが全部Xなんです。イコール無限大であるという。世の中の全てのものによって支えられ生かされている、空気も太陽も水も、ご両親も、あるいは弟や妹も。食べるもの、着るもの、全てのものに支えられて生かされている世界がある。
 天秤(てんびん)というはかりがあるでしょう。「天秤ばかり」。みなさんご存知ないと思うけど、昔はそういう重さを量(はか)る器械があつた。一方に重しを置いて、五グラムとか十グラムとか、こちらに物をのっけます。私のうちは歯医者でしたから、親父はよくそれで薬や金(きん)を量っておりました。あなたがたが天秤の片方に乗ったら、もう一方に宇宙のすべてのものを乗っけてやっとバランスがとれている。命というのはそういう素晴らしいものなのです。それをご縁であり、お陰であると受け取らなかったら、人間らしい生き方はできないと、こう申し上げていい。

今津洪嶽老師は大東亜戦争の一番昭和天皇様が御苦労召された時期を国師として支えられた。

京都の妙光寺住職にして日本大学、花園大学の教授。

老師は明治から昭和に至る禅の巨匠としても、その道に於いては知らぬ者が居なかったと言う。

その為、弟子となろうと多くの人材が門を叩いたが、老師の修業の過酷さ故に、殆どの人が道半ばにも至らず老師の下から逃げ出したという。

実際に修行の最中に亡くなった方も一人二人では無かったようです。



マッカーサーの元へと天皇陛下が通訳の武藤さんを連れて赴かれた事は歴史上も記述が残っていますが、天皇陛下がマッカーサーの前に立たれる決断を良しとして送り出されたのが国師としての老師であったと言う事は、歴史の何処にも残ってはいないのです。天皇の国師とは正にその様な歴史の蔭と成る存在と言う訳です。

一体どの様な修行を為されたのか…斎場の場で白日様が教えて下さったエピソードが有ります。

かつて、師匠がとにかく《掃除》だけを何年もさせられたものだ。

庭掃除を次々させられたので…師匠も「参った」と言いたく無い性格の方ですから…綺麗にとことん庭先を掃いて、そうして見事に綺麗にして、得得として老師の元へと行った所、
老師曰く「そのゴミはどこへ捨てたか…」

「ゴミですか?それは竹籔の中へ捨てました」
老師は烈火の如く怒られて
「庭先は綺麗に成ったけれど、竹籔の中が汚く成ったではないか…直ぐ竹籔を掃いて来い」

それから一週間も要して落葉が一つも無い様に竹籔の中を綺麗に掃き清めた。

《師匠(老師)に対して、これくらいの素直さが無ければ、務まらないものだ》

師は、今度は一つ文句の言われない様に掃除をしてやろうと思い、石ころを集めて穴を掘って埋め、燃やせる物は全部燃やした。



「ゴミはどこへ遣ったか?」

「石ころは穴を掘って埋め、燃やせる物は皆燃やしました」

「よう気が付いた。じゃ、燃やした"燃やし殻の灰"はどこへやったか?」

「灰はその辺に放(ほか)しました」

「たわけ者!!」と怒鳴られ。



さあそれから何度綺麗に掃除しても、綺麗に掃き清めても、筋を付けて3年の間、今津老師はこの掃除の終了を許さなかった。

3年の月日が巡った時に、師が命ぜられた掃除を…綺麗に掃き清め、筋を立ててゴミは全て処理をして、老師にいつもの様に「ただいま掃除が終わりました」と。

すると老師は、庭に飛び出して来て、飛び石の上をパパパーと飛んで行って、庭木をトントンと叩いたら、木の葉がパラパラと舞い散ってしまった。

これが《禅の掃除》なのです。

老師はこの時、こう言われた…

「この世の中にゴミは無い」

「置くべき所に置かざればこれゴミだ。置くべき所に置けば、これゴミに非ず」

置くべき所に置くか、置かざるかが、ゴミと成るか、ゴミと成らざるかの境だ。

「良く聞かっしゃい」
「人の世と言うものは……此の人の世ばかりで無く、《宇宙は縁起に因って成り立っている》じゃ。

"この世"は《縁》に拠って世の中の全てが生じていると言う事じゃ。

"原因が有って結果を生じる"とは"原因無ければ結果を生ぜず"と置き換えても良かろう。

即ち、《縁に因って世は動き、両手を打つ所に音は生ず、両手打たざれば音無し》とな。

『縁の集いに拠って世が成り立っている事が宇宙の原則』なのじゃ。

即ち、縁有るが故に集い、縁無くして其れが消えるが故に、"この世"は仮のもの、又"この世"は《空》と言うのは"空しきもの"と言っても良いじゃろう。

縁有って集い、縁無くして亦散るのが、此の宇宙の実相じゃ…と言う事は、縁集まれば結果を生じ、縁無くては何事も此れ成り立たずとも裏書きして置いても良いと言う事に成ろう。

太陽有るが故に地球有り、地球有るが故に月有りと。

お互いの縁に因って其の太陽や月も地球も成り立っているのじゃ。

宇宙は縁に因って成り立ち、縁に因って成り立たざるものは何一つ無い。

因って元々有るに非ず、縁に因って"有"と成り、縁無ければ"無"と成ると。

春来たれば桜の花が咲き、匂っても春と言う《縁》無くては木の幹を割っても一枚の花弁だに無き桜が《縁》有れば、また4月に咲く。

《縁》に因って物は生じ、《縁》無くて消えるが故に、これ《有》か《無》かと。

《無》と思えば《縁》に因って生じ、《有》と思えば《縁》無くしてまた消える。

これ《有》と言うも間違いなれば、これ《無》と言うも間違いじゃが、この《有》·《無》に片寄らず、《有·無》に拘(こだわ)らず、《有·無》の両者に跨がっているもの、これ『空』と言う。

即ち、宇宙の実相は『空』なのじゃ。

わしの話を能々(よくよく)耳に留めて置くが良い。

縁に因って生じ、縁無くて消えると…敢えて言えば…『縁』に拠って生ずる根本の力は有ったと雖も、理屈の上で言えばそう成るだけだから、実態としては『空』なのじゃ。

『生命の世界』等と言い、佛教に於いては、これを『法界』、『法身』と言う。

神道においては、『天津身光日乃大御神』と言うが、実は《縁》に拠って生ずるのが出発点であって、《縁》無くては元々これが無いのじゃ。

理屈で言えば、可能なるエネルギーが元々有った等と言うが、もしも《縁》以前に可能なるエネルギーを認めると言う立場は、佛教は…または神道は取らないのじゃ。

《縁》に拠って生ずると言う意味に於いて、"この世"から消え散じた後も、神々の世界に至る迄の幽界、霊界、神仙界、神界と有って…だから現実に於いての神の働きは真に具体的であり、姿、形を保(も)たれ給うているのじゃ。

即ち、神も《縁》に因って生じたものだから、宇宙は全て《縁に因って生じたものだから、縁を超えてはこれ無し》じゃと言わねば成らん。

この辺の消息を余程能く摑んで置かないと、一分の間違いが千里の開きをそのところに至らせる結果と成るのじゃ。

『宗教』と言うものは、時を得ずは本当の働きが出て来ないもので、《縁起と言う事は、本体はこれ『空』、"縁に因って仮の姿を生ずる"と言うもの》じゃ。

また、《縁》と言うものには《目に見える現実の世界丈では無くて、見えざる世界の縁来たざるしては何事もこれ成り立たず》じゃ。

見えざる無形の世界の助け借りずしては、何事も人の世も成り立た無い事を"この世"の愚か者達は理解が付かないと言う事なのじゃ。

これを称して《迷える者》と言うのじゃ」と、御説きに成られたのです。

今津老師の修行と言うか、禅の修行は悟りを目標として照準を定めて居られたので、そこらのいわゆる常識の知性の範疇に於ける修行からはかなり非常識だったように観えますが、実は悟りとは或る意味宇宙を解明し、宇宙と合体する事が悟りの本質なのです。

ある朝、師は老師に尋ねられたそうです。

「おい!わしが今朝観た夢の中身を言ってみい」と。「わかりません」と冗談を言われたかと思ったそうでしたが、「愚か者!それで弟子が務まるか!」と怒鳴られたそうです。

禅は《一個の器の水を減らしも増やしもせずに移し替える》のが基本と言われます。

師匠と文字通り同じ匂いが身体から発するまで、師匠に成り切らねば成らないのです。

すべて、悟りを開いた師は老師の夢だけで無く、弟子一人一人の夢の中に入り込む事を当たり前の如く行っていました。





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最終更新日  2026.01.31 18:45:50


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