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2026.02.22
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カテゴリ: 坐禅
永平初祖学道用心集 6-22

道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)


「又年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず」年寄りが偉いようにもいうけれども「おれものう、七十越したでのう」という老僧がある。七十越して何がよいか、爺になったら、ちとぼけておるわい。沢木さんも若いときにはちゃんとした和尚だったけれども、七十になったらぼけたな、というだろう。悪くなるのはあたりまえだ。沢木さんがいままでも飯食わせてもらえるのは、頑張った前の暖簾やな、老舗や、雪隠の電気のようにぼうっとなったら、聞くのもつらいでのう。むかしわたしが熊本におったときに、若い時には非常な雄弁家だった老僧がいた。八十五、六の時分には信者が「むかしからの義理で聞くけれども、もうああぼうっとなると聞くのがつらいなあ、昔は居眠りの出るような話はしなかったけれども」といって気の毒がりよる。和尚の方でもこのごろは起きておるのがつらいといったことがある。「又年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず」年老というのは七十、耄及というのは八十、九十だ。九十にもなったらちょっとぼけて、雪隠の電気みたいになるかもしれん。わたしは昨日、尾張で始めてのところで講演した。それでもどうやら昨日はまだ間に合ったらしかった。始めての信者が仰山できて「わたしは一所懸命たくさんの本を読んでおるが、なかなか偉いことをいう」と妙なことを言って褒めてくれよった。まだあそこでは間に合うと見える。しかし年をとって偉くなるということはよういわんが、「年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず」と。「又幼稚壮齢を嫌わず」よく「貴様幾つじゃ」「まだ二十」「何じゃ青二才め」などというが、わたしは十七、八から後は偉くなっておらぬことがよくわかる。偉くなったのは人間界の屑ばかり。紙数まくったり、娑婆のことばかりよく知って、人間なめることばかりうまくなった。決して偉くなったのじゃない。幼は十歳以下じゃげな。稚は十何歳、壮は三十、齢は六十とかいうが、とにかくそういうことは問題じゃない。幼稚壮齢を嫌わず。「趙州(じょうしゅう)は六旬余にして始めて参ず」これは六十幾つで始めて坊さんになったのじゃない。六十幾つからまた修行に出たということである。「たとい三歳の童子たりと雖も、われより優れたらんにはわれ道を聞かん、たとえ八十の老翁たりと雖も、われより劣りたらんにはわれこれを教えん」そういう態度で百三十まで生きた、えらい図太い爺じゃ。「然りと雖も祖席の英雄たり」六十幾つで発心したが英雄といわれている。英雄ということは、千人、万人に優れとおるということである。「鄭娘(ていじょう)は十三歳にして久学す」中国という国は妙な国じゃ、名前はない。鄭氏ならその子供には第一、第二、第三と番号がつけてある。鄭氏の第十三娘、それでよいことじゃ。日本のように名前つけるのに骨折って、何という名前つけようか、とうとうめんどうなことになってオサムという名前やら、申吉という名前やらつける。申年やで申にしておけというわけじゃ。子供が一生嫌う、おれを申にしてしまいやがったと思う。虎年に生まれたら虎吉

(「沢木興道全集」第2巻p.156-158)





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最終更新日  2026.02.22 02:00:05


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