MM2022のブログ

PR

×

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2026.02.24
XML
カテゴリ: 坐禅
永平初祖学道用心集 6-24

道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)



「或は教家の久習(くじゅう)、或は世典の旧才(くさい)、皆禅門を訪(と)わる、其の例是れ多し」

 この間も良寛さまの話をしたら、「良寛さまの話を聞いただけではどうもわれわれにはぴんときませぬ、もっと月給がふえるとか、そういう話が聞きたい」高等学校や専門学校の先生がそういうことをいう。わたしらから言わせれば、食わんと死んでいいよ、簡単にいえば、坊主をしておるということはなかなかたいへんなことじゃ。わたしは最初から寺を持たぬ。物をくれとはわたしはいったことはないぞ。くれといわんで生きておろうというのじゃから・・・。くれやがるならそれはしかたがないけれどもー。それにはどうしても、最初から食わんと死ぬという覚悟をしておらんならん。坊主として安閑と生きておるというのは間違うておる。そうすると未だに生きておるのはこれは奇蹟じゃな。「但宗師に参問するの時、師説を聞いて己見に同ずること勿れ」。これは前にあった正師についたときの話である。道元禅師は犬の糞が仏だといわれても疑うなといわれた。だから「若し己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄(きよ)うし、眼耳を静かにして、唯、師法を聴受して更に余念を交えざれ。身心一如にして水を器に瀉(うつ)すが如くせよ、若し能く是(かく)の如くならば方(まさ)に師法を得ん。今愚魯の輩(やから)、或は文籍(もんじゃく)を記し、或は先聞を蘊(つつ)み、以て師説に同ず、此の時、唯、己見古語のみ有って、師の言未だ契(かな)わず」
共産主義の人で、仏教も平等じゃないですか、こういうてきた人があるが、共産主義の平等と仏教でいう平等とは一緒でない。だから、「或は一類あり、己見を先として経巻を披(ひら)き、一両語を記持して以て仏法と為す」
むかし、仏教の悪口をいおうと思って、仏という字を人に非ずと読んだ人がある。これは、みな自分の勝手なように読んだので、仏法を読んだのじゃない。だから「一両語を記持して以て仏法と為す」と。
「後に明師宗匠に参じて法を聞くの時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合わざれば非と為す、邪を捨つるの方(みち)を知らず」これなら少しも進歩も変化もない。
「豈正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫(じんじゃごう)なるも尚迷者たらん」
塵沙劫というのは無数無限の時間ということである。「尤も哀むべし、之を悲しまざらんや。参学識るべし、仏道は思量、分別、ト度、観想、知覚、慧解の外に在ることを」これらは、めんどうくさくいうておるけれども、知覚がどうの、卜度がどうの、慧解がどうのというが、これはみな意識妄想を費やして多言他慮することをいう。「若し此等の際に在らば、生来常に此等の中に在って常に此等を翫(もてあそ)ぶ。何が故ぞ今に仏道を覚(さと)らざる」そうすれば、「学道は思量分別等の事を用うべからず」そんなものは要らぬよと。「常に思量等を帯びて吾身を以て検点せば、是に於て明鑑なる者なり」この文章はちょっと読みにくいが、思量等をもって仏道とするようなことをもってしては、何にもならぬのだ。「吾身を以て検点せば」これは坐禅儀でいえば回光返照すれば、わたしの言葉でいえばレントゲンにかけて、ぶるぶるっと心で思っておることを撮ってみることである。かくのごとく自己をもって検点せば明鑑なる者なり。これが悟りか、これが悟りでないかということは、あわてておるからわからぬので、よく静まれば「明鑑なる者なり」で、鏡にかけたようにはっきりしておる。(「沢木興道全集」第2巻p.159-161)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.02.24 03:00:05


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: