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2026.02.26
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カテゴリ: 坐禅
永平初祖学道用心集 7-1

道元・学道用心集講話第七 仏法を修行し出離を欣求するの人は須らく参禅すべき事(澤木興道)


第七 仏法を修行し出離を欣求するの人は須らく参禅すべき事

右、仏法は諸道に勝(すぐ)れたり。所以(ゆえ)に人之れを求む。如来の在世には全く二教なく、全く二師なし。大師釈尊、唯だ無上菩提を以つて、衆生を誘引するのみ。迦葉(かしょう)正法眼蔵を傳へてより以来(このかた)、西天(さいてん)二十八代、東土(とうど)六代、乃至五家(ごけ)の諸祖、嫡々(てきてき)相承して、更に断絶なし。然れば則ち梁の普通中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣に至るまで、抜群の者は、帰せずといふこと無し。誠に夫れ、勝(しょう)を愛すべき所以は、勝を愛すべきなればなり。葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。神丹以東の諸国、文字の教網(きょうもう)海に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍ねしと雖も雲心(うんしん)なく、海に布くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。愚者は之を嗜(たしな)む。譬えば魚目を撮って以て珠(たま)と執するが如し。迷者は之を翫(もてあそ)ぶ。譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵して玉と崇(あが)むるが如し。多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損す。哀むべし、辺鄙(へんぴ)の境、風扇ぎ易く、正法は通じ難し。然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。我朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。何為(なんすれ)ぞ、何為ぞ。高麗国は猶正法の名を聞く、我朝は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。前来入唐の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。仏書を伝うと雖も、仏法を忘るるが如し。其の益是れ何ぞ。其の功終に空し。是れ乃ち学道の故実を知らざる所以なり。哀れむべし、徒(いたず)らに労して一生の人身(にんしん)を過すことを。夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教えを聞き、教えの如く修行す。此の時知るべき事あり。所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転じ、我法を転ずるなり。我能(よ)く法を転ずるの時は、我は強く法は弱きなり。法還(かえ)って我を転ずるの時は、法は強く我は弱きなり。仏法従来此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。衲僧(のうそう)に非ずんば、名すら尚聞くこと罕(まれ)なり。若し此の故実を知らざれば、学道未だ辨ぜず、正邪奚(なん)ぞ分別(ふんべつ)せん。今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を伝授す。所以に誤(あやま)らざるなり。余門(よもん)には無し。仏道を欣求(ごんぐ)するの人、参禅に非ずんば真道を了知(すべからず。


「仏法を修行し出離(しゅつり)を欣求(ごんぐ)するの人は須(すべか)らく参禅すべき事」仏法というものが、インドでは学問でなかったことは、お釈迦さんの弟子にも眼に一丁字(いっちょうじ)も見えぬ人もあるし、それが悟りを開いた、解脱をした、ということでもはっきりしておる。仏法を修行するということは、生活をするということである。だから馬勝(めしょう)比丘が道を歩いておる姿を見て舎利弗が発心したり、お釈迦さんのお姿を見てそれで発心したり、これは皆修行が仏道の眼目であるからである。ところがいつの間にか仏道が学問になった。仏滅後、憂婆掬多(うばきくた)尊者の時分に五部の分裂ということがあった。これが十八部にわかれて、上座部、大衆(だいしゅ)部と合せてこれを二十部というが、つまりいうと二十部の分裂というのが起こったわけである。その裏面にたった一つ、そういうものにかかわらずに流れてきたものがあった。その本筋が仏道を伝えてきた。それが達磨までずうっと二十八代伝わってきたわけである。





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最終更新日  2026.02.26 05:00:05


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