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2026.02.26
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カテゴリ: 坐禅
「覚悟はよいか」 朝比奈宗源 (抜粋)

煩悩のまま その2

「仏心の生活」

 これは親鸞さんの教えともまったく同じだ。「南無阿弥陀仏」ととなえる称名すら、みずからの「行」とせず、口をついて出る念仏は、ただもう、弥陀如来の救済に対する感謝のことばだと、そういうふうに「信心」に徹底した親鸞さんと同じなのだ。『正信偈』に、

  大悲無倦常照我
といっている。
 煩悩眼(まなこ)を障(さえ)て見奉らずといえども大悲倦(う)むこと無く常に我を照らし給うー。
 そのとおりなのだな。われわれ、いつも煩悩という心の迷いに目の前をさえぎられている。目の前の煩悩のすがたしか見えないのだ。しかれども、大悲は無倦。いい言葉だな。
 わしたちは「我」にとらわれている。煩悩にぐるりととりこまれた「我」のなかに凝り固まっている。不自由といえば不自由なことはない。・・・・・人間、本来、自由であるべきなのだが、その自由を縛っているのは、自分なのだぜ。煩悩で目の前がまっくらなのだ。まっくらだから、行動もままならない。
 だから、その目先の闇をつき破らなければならないのだ。つき破るという行為が禅であり、坐禅をして心を調えると、かならず闇が晴れて先が見えてくる。「大悲無倦」だからなあ。
 禅も出発点は、まずたしかな仏の光に照らされてあることを信じることからはじまるのだ。この信心なくして、行に入ったものはない。みんな、たしかな仏心を信じて、坐禅をしておるのだ。
 『涅槃経』は、繰り返し繰り返し、この道理を説く。「一切衆生悉有仏性」―一切の衆生は、ことごとく仏性を具有す、といい、あるいは「大信心は仏性なり、仏性は即ち如来なり」という。この言葉は、親鸞さんも『教行信証』に引用している。
 自力も他力も、つまるところ、如来そのものたる仏性にめざめるところから始まる。それがすなわち「大信心」というものだ。
 達磨さまが申された四行観の「理入」とは、要するにこの道理をあきらかにされたにほかならない。
 したがって、達磨大師いらいの祖師がたも、この道理にしっかり足を踏まえてやってこられた。
 達磨さまから法脈をかぞえて六代目にあたる六祖慧能禅師はな、達磨様によって中国につたえられた禅を、完全に中国のものにされ、禅をさかんにされたかただが、このかたの生涯を通じての説法は、この一大事に尽きた、といえる。






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最終更新日  2026.02.26 06:00:09


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