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2026.03.28
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カテゴリ: 報徳記を読む
沢木興道「永平家訓抄話」

天桂和尚は、「目の鞘はずして見たるがよきじゃ」といつもいった が、みながめいめい目に鞘をはめておる。それでは何鞘をはめておるかというたら、男は男鞘、女(おなご)は女鞘、金持鞘、貧乏鞘、学者鞘など、おかしな鞘を各々はめておる。そこで天桂和尚は、「目の鞘はずして見たるがよきじゃ」といったのである。ちょうど双眼鏡でこっちから見るのと、あっちから見るのとで、こっちから見ると大きく、あっちから見ると小さく見える。それと同じことで、人間は絶えず千差万別、朝から晩まで、七面鳥よりもっとはげしく変わりどおしで、そして正味に行きつかずに死んでしまう。それが本当に幽霊である。つまり諸相非相(諸相は相にあらず)の正体を見ずして死んでしまうのである。諸相非相が決定すればそれが即見如来(即ち如来を見るなり)である。それがなかなか得られんから「邪見脱し難し」である。そこで議論を聞いても、何事かを話しているのを聞いても、みな誤解の上塗りばかりをやっているので、わたしはいつも気の毒でならぬ。先生が教えていることも、生徒が習っていることも、嬶(かかあ)のやきもちも、亭主の飲んだくれも、金持の金の張り番も、貧乏人の質置きも、みなこれ「邪見脱し難し」の邪見である。なぜかというたら、 それらのことはみな我見というものから割り出して考えておるからである


二宮翁夜話【6】尊徳先生はこうおっしゃった。
天理と人道との差別を、よく弁別する人は少ない。
人身があれば欲があるは、すなわち天理である。田畑に草が生ずるのと同じだ。
堤防は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる、これがすなわち天理である。
そうであれば、人道は私欲を制することを道とし、田畑の草を取り去ることを道とし、堤防は築き立て、堀はさらい、橋は掛け替えることを道とする。
このように、天理と人道とは、別のものであるため、天理は万古変ずることなく、人道は一日怠るならばたちまちに廃してしまう。
そうであれば人道は勤めることを尊び、自然にまかせることを尊ばない。
人道の勤めるべきは、己れに克つ教えである。己れというのは私欲である。
私欲は田畑にたとえれば草である。克つとは、この田畑に生ずる草を取り捨てることをいう。
己れに克つとは、 自分の心の田畑に生ずる草をけずり捨て、とり捨て、我が心の米麦を、繁茂させる勤めである。これを人道というのだ。
論語に、己れに克って礼に復(かえ)る(※)とあるのは、この勤めのことである。



※ 論語第十二顔淵篇第12-1 顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日(いちじつ)己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すは己に由(よ)る、而うして人に由らんや。顔淵曰く、請う、その目(もく)を問わん。子曰く、礼に非ざれば視(み)ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵曰く、回、不敏と雖も、請う、斯(こ)の語を事とせん


二宮翁夜話続編 42 尊徳先生は言われた。
心が狭く局限されていると、真の道理を見る事はできないものだ。
世界は広い。だから心を広く持たなければならない。
しかしその広い世界も己(おのれ)といい、我(が)という私物を一つ中に置いて見る時には、世界の道理はその己に隔てられて、その見るところは皆半分になるものである。己というもので半分を見る時には借りたものは返さない方が都合がよく、人の物を盗むのはもっとも都合がよいようだが、この隔てている己というものを取り捨って、広く見る時には、借りた物は返さねばならないという道理が明らかに見え、盗むということは悪事であることも明らかに分るようになる。
だからこの己という私物を取り捨る工夫をすることが専一である。
儒教も仏教もこの取り捨てる方法を教えることを専一とする。
論語に「己に克(か)って礼に復(かえ)れ」と教えたのも、仏教にては見性といい、悟道といい、転迷という。
皆この私(わたくし)を取り捨る修行である。この私の一物を取り捨てる時には、万物不生不滅・不増不滅の道理もまら明らかに見えるものだ。
このように明白な世界であるけれども、この己を中間に置いて彼れと是れとを隔てる時には、直ぐにその場に得失損益・増減生滅などのさまざまな無量の境界が現出するのである。


二宮翁夜話続編 四二 翁曰、心狭く局りては、真の道理を見る事能はざる物なり、夫世界は広し、故に心をば広く持つべし、されども其の広き世界も己と云ひ、我と云ふ私物を一つ中に置て見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半になるなり、己と云物にて半分を見る時は借たる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤都合よかるべけれど、此隔てなる己と云物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云道理が明らかに見え、盗むと云事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云私物を取り捨るの工夫が専一なり、儒も仏も此取捨方を教るを専一とす、論語に己に克て礼に復れと教えたるも、仏にては見性といひ、悟道といひ、転迷と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり、如此明白なる世界なれども、此己を中間に置て彼と是とを隔つる時は、直ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界現出するなり





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最終更新日  2026.03.28 11:39:15


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