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伊藤一隆を葬るの辞
・その日、私はその朝、私が読んで大いに感じたところの詩篇第22篇をもたらして彼をおとづれました。
・そして私どもの青年時代よりの習慣として、神聖なる場合には英語を用いるを常としましたゆえに、私は英語をもって全篇を読みました。
・真暗闇から真光明へ、最大のコントラストに伴う最大の喜び・・・
キリストの苦難が信者の喜びの基である
「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」の声を発したまいしその苦しみが、われらの平安獲得の因を成した・・・
私の感想のありのままを述べました。
その時の伊藤の喜びはたとうるにものなく、彼はその病体を床の上に起こし、私の手を取り、感謝を繰り返し、・・・
人の救わるるは彼がなす事業に由るにあらず、神の子が彼のために流せし血、人の罪のゆえに甘んじて受けたまいし死の苦しみに因るとの、深い、旧い、強い信仰でありました。・・・
キリストは、明治の9年、北海道札幌において、英人デニング、米人クラークをもって青年の彼を捕えたまいました。・・・
私は伊藤自身がたびたび言うのを聞きました。
ぼくは、なぜ神が、ぼくごとき者をこんなに恵みたもうか、その事がわからない
・・・
私はここに私の旧友を葬るの役目に当りまして実に感慨無量であります。
彼と共に、共同の友人広井勇の葬儀をおこないてより、いまだ半歳に成りません。
今またここに、大島、新渡戸の旧友と共に、彼、伊藤を葬らねばならぬ場合に立ちいたりました。
いずれも50年来の信仰の友であります。
歩みし道は異なりましたが、目ざす目的は違いませんでした。
そして私どもの生涯に少しなりと、この世の進歩、幸福に貢献するところがあったとすれば、それはこの貴き知識の結果でありしことを認めます。
広井勇の工学の独特なりしも、伊藤一隆の社会事業の一頭地を抜きん出しも、この知識のたまものであります。
そして彼の信仰というが決して新しい、いわゆる合理的の信仰ではありませんでした。常に新しい、ゆえに旧(ふる)い信仰でありました。使徒パウロより今日に至るまで変わりしことなき、キリスト教会通有の信仰でありました。
Let me to thy bosom fly. (*1)
とか、または
Just as I am without one plea
But that thy blood was shed for me(*2)
とかいう古い賛美歌に表われた信仰でありました。
* 1 わがたましいを(Jesus,Lover of my soul)は、チャールズ・ウェスレーの代表作の讃美歌であり、英国の讃美歌の中で最も有名な讃美歌の一つである。1740年に、「試練の時」にと題して発表されたのが最初である。メソジスト運動に対する迫害に危険の中で作られたという説がある。チャールズ・ウェスレーの回心後まもなく作られ、メソジスト運動の起こってから公になった。
Jesus lover of my soul, Let me to thy bosom fly.
While the nearer waters roll, while the tempest still is high.
Hide me, O my Savior, hide, till the storm of life is past;
Safe into the haven guide; O receive my soul at last.
讃美歌273 わが魂を 愛するイエスよ 波は逆巻き 風吹き荒れて
沈むばかりの この身を守り 天の港に 導き給え
* 2 讃美歌21 あるがままわれを 血をもてあがない イェス招きたもう み許にわれゆく
伊藤と信仰談を交えて、事がここに至りますれば、彼の態度は急に厳粛に成り、何か大問題の彼の中心に触れしを覚えました。忘れもしません、昨年10月初旬、私が北海道旅行より帰りて後、間もない時でありました。彼の病のやや重きよしを聞きましたゆえに、私は彼を彼の病床におとづれました。みやげ話はたくさんにありましたが、彼の最も喜ぶのは聖書でありました。その日、私はその朝、私が読んで大いに感じたところの詩篇第22篇をもたらして彼をおとづれました。そして私どもの青年時代よりの習慣として、神聖なる場合には英語を用いるを常としましたゆえに、私は英語をもって全篇を読みました。そしてそれに私の簡単なる註解を加えました。そしてその要点は次のごとくであったのであります。第一節の「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」以下第21節までが、キリスト受難の苦しみを預言したる言葉である、実に悲歎きわまりなしであって、読むに堪えざるものが多い、されども第21節後半部に至って調子は一変する、「なんじ、われに応えたまえり」を前置きとして、後は終わりまで、感謝、歓喜、希望の連続である。絶望の声をもって始まりしこの歌は、希望満々の言葉をもって終わる。
民の裔(すえ)の内にエホバに仕うる者あらん
主の事は代々に語り伝えらるべし
彼ら来りて、こはエホバのみわざなりとて
その義を、後に生まるる民にのべ伝えん
と、真暗闇(まくらやみ)から真光明(まひかり)へ、最大のコントラストに伴う最大の喜びである、そしてこの事は何を示すか、キリストの苦難が信者の喜びの基であることを示す、「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」の声を発したまいしその苦しみが、われらの平安獲得の因を成したのであると思うと、私の感想のありのままを述べました。その時の伊藤の喜びはたとうるにものなく、彼はその病体を床の上に起こし、私の手を取り、感謝を繰り返し、いかにも私が彼の旧い信仰を新たに喚起したかのごとく見えました。すなわち伊藤一隆の信仰は、パウロ、アウグスティヌス、ルーテル、カルビンらの信仰でありまして、人の救わるるは彼がなす事業に由るにあらず、神の子が彼のために流せし血、人の罪のゆえに甘んじて受けたまいし死の苦しみに因るとの、深い、旧い、強い信仰でありました。伊藤一隆は、彼が従事せし水産事業や石油事業や禁酒事業に由って救われんとは毛頭思いませんでした。彼が救わるるの希望の岩は、彼の救い主が彼の罪のために流せし、あがないの血においてありました。もし彼のこの信仰のゆえに、迷信または独断をもって彼をあざける者がありますれば、彼は彼独特の常識、直覚をもって、あざける者の無知、浅薄をあざけりました。キリストの十字架抜きのキリスト教は、わが伊藤一隆にとりては、一顧の価値なきキメーラ(妄想)でありました。
前にも述べましたとおり、見ようによっては伊藤一隆は人生の一のエニグマであります。東京は芝神明前の土木請負業者の家に生まれ、純江戸っ子の性を受け、しかも野卑ならず軽薄ならず、悪しき事にはことごとく反対し、善き事にはことごとく賛成し、富を作るの技両(ぎりょう)を有しながら、これをおのがために使わざりしというのであります。彼はいかなる地位についても有用の人物でありました。死に至るまで、人のために尽しました。彼は日本人として最も有利にその一生を使うた者の一人でありました。何が彼をしてかかる人たらしめたのでありましょうか。彼の受けた教育でありましょうか。彼が交わりし友人でありましょうか。否、否と、彼自身が答えます。否、否と、私ども彼の旧い友人が答えます。神の恩寵が彼をして、かくあらしめたのであります。彼は事業家、活動家でありし以上にキリスト信者でありました。キリスト信者である以上にキリストの召しうどでありました。キリストは、明治の9年、北海道札幌において、英人デニング、米人クラークをもって青年の彼を捕えたまいました。そして終生、彼を手放したまわず、彼をもってそのみ栄を現わしたまいました。私は伊藤自身がたびたび言うのを聞きました。
ぼくは、なぜ神が、ぼくごとき者をこんなに恵みたもうか、その事がわからない
と。そしてこれ、彼がすでに病にかかり、万事がすべて不如意の時でありました。生気溌剌たる江戸っ子がキリストの捕うるところと成る時に、伊藤一隆のごとき人物が起こるのであります。
私はここに私の旧友を葬るの役目に当りまして実に感慨無量であります。彼と共に、共同の友人広井勇の葬儀をおこないてより、いまだ半歳に成りません。今またここに、大島、新渡戸の旧友と共に、彼、伊藤を葬らねばならぬ場合に立ち至りました。いずれも50年来の信仰の友であります。歩みし道は異なりましたが、目ざす目的は違いませんでした。そして私どもの生涯に少しなりと、この世の進歩、幸福に貢献するところがあったとすれば、それはこの貴き知識の結果でありしことを認めます。
広井勇の工学の独特なりしも、伊藤一隆の社会事業の一頭地を抜きん出しも、この知識のたまものであります。私どもは信じて疑いません、伊藤一隆をその青年時代に捕らえし者、すなわち昇天せるナザレのイエスが、日本人多数の霊を捕えたもうまでは、日本に目ざましき根本的の改革の起らざることを。日本のキリスト教会そのものが、伊藤一隆の信仰に立ち帰るの必要があります。彼は死して、私どもをして、彼の代わりてこのことを叫ばしめます。諸君彼の声を聞いてやってください。そして彼の生涯をさらに一層意味あるものと成してやってください。彼は死ぬるまで日本国のためを思いました。彼を弔うの唯一の道は、彼のこの無私無欲の志を立ててやることであります。私は彼に代わりて、ひとえに諸君に願います。
付録
伊藤は明治5年、すなわち私より2年前に、札幌において、英国聖公会宣教師デニングよりバプテスマを受けたのであって、いわゆる札幌バンドの内で最初のキリスト信者であった。後に、メソジスト、長老(日基)、聖公会の三派が合同して札幌独立基督教会を作りし時に、彼は聖公会を代表して新教会の柱石の一人となり、死に至るまで、その忠実なる会員また維持者としてかわらなかった。また旧札幌キリスト信者の内で、直接に「聖書研究社」の事業に対し実際的同情を表してくれた、きわめて少数者の一人であった。彼はしばしば柏木聖書講堂の講壇に立ち、単純なる十字架の福音を説き、彼独特の家長的祈祷を捧げてくれた。彼は東京基督教青年会の理事であったが、大正8年(1919年)に、同会が私に対してその講堂使用を断わりし時に、私に同情して理事の職を辞した。彼は多くの事において私の善き相談相手であった。昨年(1928年)6月2日、私どもの受洗第50年記念日に、青山墓地において、M・C・ハリスの墓前において、旧友5人に代わり祈ってくれたのは彼であった。今やこの人逝(ゆ)いて、大なる寂寥を感ぜざるを得ない。
(1929年2月『聖書の研究』)
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