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Q たしかに不思議な話です。
ソンナことがはたしてあり得るのでしょうか。
A キリスト教の歴史にはしばしば見られる事実です。
現に札幌バンド-内村らはこう呼ばれていました-および横浜バンド(植村正久らが属していました)とならんで、日本の三大バンド運動の一つとして、あの花岡山の盟約(1876年、明治9年)で知られる熊本バンド(海老名弾正らがこれに属していました)の生みの親のジャームズ・ジーンズは陸軍大尉で、当時熊本英学校の一英語教師に過ぎませんでした。神はしばしば、こうした素人信者、時にはアンナ男が、と世間が驚くような人間を用いて、職業的宗教家の及びもつかぬような驚くべき、偉大な伝道を行わせたまいます。
伝道ー人に神の言を伝えて人を救うということは、人間の業ではなく、神の聖旨に出で、神ご自身がなしたもう聖業です。ゆえに神は思いがけない人を思いがけない所に送って、聖霊をその上にそそぎ、彼を神の器として用いて、人の目に怪しとうつるような霊魂救済の事業を成しとげたもうです。これが伝道なるものです。新約聖書の初代聖徒らとその伝道とは、その代表です。これが真の、力ある伝道です。
クラークもその神の器として札幌で用いられて自他共にいぶかるほどの大伝道をなしとげたのです。(略)

2012年9月4日北海道大学
3 教育者としてのクラーク先生
クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なる
Boys, be ambitious!
であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならぬという事である。この事は先に記した明治9年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。
既に述べた所を見ても、先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれたのである。
札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。
先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に
「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。
米国においてもクラーク先生は学者としてよりもむしろ教育家として知られているくらいで、米国人名辞書には米国の教育家としてその伝記が綴られている。
4 宗教家としてのクラーク先生
宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であったという事の外は何も聞き及んでいない。しかし札幌滞在わずかに8ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。クラーク先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない一の平信徒に過ぎない。しかるに先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、全くこれによって日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治9年の頃、官立学校においてほとんど公然とバイブルを学生に、しかも教室において教える事を黙認されたということは、今より考えれば実に不思議の出来事である。そこに天の深き摂理の加わったことを信ぜざるを得ない。黒田長官が学生の品位について非常に心を用いられ、札幌農学校の前身たる東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全部の学生に退校を命じた場合もあった。しかるに先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であったので、これを下の食堂に聞いた黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。しかし取調べの結果、航海中特に謹慎を命ぜられてその場はとにかく納まりが付いたのであるが、黒田長官の心は穏やかなる事ができない。ここにおいて黒田長官とクラーク先生との間に有名なる徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えられんことを懇請した。この時クラーク先生は直ちに快諾したが、しかし徳育を施すにはバイブルを用いるにあらざれば、何ら効を奏することはできぬと主張した。長官もまたキリスト教のバイブルを用いることに激烈に反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかったのである。
札幌へ着かれてから黒田長官は更に深く学生の徳育の必要と、またクラーク先生の人格熱誠に感動され、自説をまげて徳育のことは一切クラーク先生に委ね、ただバイブルを一の文学として、また一の修身学書として教えることを黙認したのである。この時クラーク先生の荷物の内には既に横浜で購入したバイブル数十冊が学生に配布されるべく用意されてあった。クラーク先生は毎朝授業に先だち聖書の講義をなし、また学生をして名句を暗誦せしめ、また彼らのために熱祷を捧げ、次第に彼らを導き感化した。明治10年4月札幌を去られるに先だち、「イエスを信ずる者の誓約」なるものを起草し、学生中有志の者に署名せしめた所、第一期生は全部これに署名し、約一年を経て後第二期生もほとんど全部署名するに至った。先生はまた帰国後も札幌に思いを馳せられ、絶えず、文書をもって彼らを奨励し、特に信仰上の働き、その奮闘ぶりを聞き、この上もなく喜ばれた。伝聞するところによれば先生臨終の際に牧師に語られた言に、「今自分の一生を回想するに何ら誇るに足るようなものはない。ただ日本札幌において数ヶ月間、日本の青年に聖書を教えたことを思えばいささか心を安んずるに足る」と。これをもってみても、いかに先生が熱誠をこめて彼らを教導されたかが推察できる。
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