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2026.05.30
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カテゴリ: 内村鑑三
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内村鑑三Q&A 山本泰次郎


Q それではクラークはどのようにして札幌農学校の生徒らにキリスト教を教えたのですか?

明治9年頃の日本の官立で、公然とキリスト教を教えることはまだ許されていなかったはずですが。

A クラークは黒田の要請に応じて現職のまま札幌農学校の教頭となりましたが、

「他人が2年でやるところを、自分なら1年でやってみせる」

と豪語しながら、新設の農学校の基礎をすえるために来日しました。

彼は横浜に上陸するや、まず英語の聖書50冊ばかりを買い入れました(※1)。

※1 ここのクラークが英語の聖書を50冊ばかりを買い入れたという山本泰次郎氏の記述は、誤りであるようで、

アメリカ聖書協会の代理人ギュリック博士から30冊を札幌農学校の生徒用にと寄付されたものであるようである。

もう一冊のクラーク聖書

http://www.lib.hokudai.ac.jp/koho/yuin/yuin93/yuin2.html


                文学部教授  土屋 博


 1876(明治9)年8月W.S.クラークが札幌農学校に赴任したとき、 英語訳旧・新約聖書(Authorized Version)30冊を携 えており、やがて時期を見て(おそらく10月頃)、第一期生全員にそれぞれの氏名を記入して分け与えたことはよく知られている。

この出来事は、翌年の「イエスを信ずる者の誓約」とともに、日本キリスト教史におけるいわゆる札幌バンドの原点として伝説化されるに至った。

30冊の聖書は、クラークが横浜上陸後自ら聖書会社へ出向き、二三のやりとりののち購入したも のだという話は、内村鑑三の講演に由来し、逢坂信忢によって若干の修正を加えられた上で、一般に流布されているが、今日では、多少事実と異なるのではないかと考えられる。

クラーク自身の妻あての書簡には、「L.H.ギュリック博士が私を訪ねてきて、私に札幌の生徒用にと英語聖書30冊を呉れました。彼はアメリカ聖書協会の中国と日本担当の代理人です」と記されているからである(太田雄三『クラークの一年』昭和堂、1979年、63ページ)。このギュリックおよび彼の家族とクラークとは、翌年再び会っているので,聖書贈呈に関する書簡の記述は確かであると思われる。

また、学生たち一人一人の名前をクラークが書き入れたということは、大島正健によって伝えられてきたが、帰国後のクラークが行なった講演の新聞報道にも同様の記述が見られるので、間違いなく史実であろう。

IMG_0280.JPG

5 クラーク先生を記念するもの

札幌独立キリスト教会の会同 明治10年4月、クラーク先生は先に記したごとく、札幌を去るに先立って「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、一期生の有志の者に署名させたが、二期生もほとんど全部が署名するに至った。その後、署名者の約半数は信仰を捨てたが、残りの半数は毎週集会を開き、聖書を研究して信仰を練り、卒業後、明治14年同志相はかって外国の教派と何ら関係のない札幌独立キリスト教会を設立した。爾来クラーク先生の遺業の一つであるこの信仰の一団体は幾多の困難の内に成長発達した。

大正元年に内村鑑三氏が独立教会応援のために来札した時、クラーク先生の宗教的な働きを記念すべく、札幌独立キリスト教会の会堂が、大通西7丁目に堂々と建設された。この会堂は永久的耐火建築物で、地下室を有し、建築費はおおむね会員またはクラーク先生を敬慕している人々の寄付により、札幌に縁故があった中條清一郎氏(作家中條百合子の父)の同情ある設計により、工事は義侠心に富む伊藤亀太郎氏の手によって竣工したものである。そして大通りにおける由緒ある教会堂として、札幌市民にも愛慕されている。

記念胸像  大正15年5月北大創基50年記念会が挙行されるに当り、札幌同窓会の幹事が発起人となり、広く卒業生、教職員、学生生徒、その他の有志から寄付金を集め、クラーク先生の胸像を学園内に建立し、これを大学に寄付して祝賀の意を表し、また先生の功績を記念することになった。しかもそれがクラーク先生生誕百年に相当し、この記念事業は一層意義を深めた。5月14日、楡影のもとに除幕式が行われた。時あたかもよき春日和で、微風はやわらかくほの暖かく吹きわたり、ちょうど本学創基50年記念式餐宴後であったので、職員の家族も見え、学生生徒も加えると参列者総数3千名と記録されている。第一期生内田瀞(キヨシソウの名は氏を記念している)氏の令孫住友琴子さんが除幕の綱をひき、50年前の人格者が厳然として現われた。あたかも50年式典に特に臨揚された高松宮殿下は岡田文相等と共にお立寄になった。北海道大学最初の胸像はかくて雄大な学園に一光彩を添えた。胸像は銅像で、田嶋碩朗氏作。胴石は福島県産の紅御影、高さ6尺1寸、幅2尺3寸角。文字 W.S.CLARK は先生の自署を拡大したもの。それに先生の遺訓 Boys Be Ambitious が刻記されている。台石の模様はクラーク先生の研究に一新転機を与えたヴィクトリア・レジア(前述)を図案化したもの。台座石は胴石と同地産、高さ1尺、幅3尺6寸5分角。敷石は茨城県稲田産の花崗岩、約240立方尺の石材を有し、16尺2寸平方ある。

この記念胸像も大戦の波に呑まれて姿を消したが、昭和23年キリスト教青年会の努力によって再び厳然として現われた。その年10月8日から3日間、北海道大学は象牙の塔を公開して、全くなごやかな和気あいあいたる大学祭をくりひろげていった。8日午前10時クラーク先生胸像再建の記念式典が、全学教職員や学生参列の下に挙行された。この胸像は私が保管していた原型により、彫刻家として令名のある在京加藤顕清氏の手になったもので、北大に在学中の孫の潤子の手によって除幕した。

記念碑  「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と激励の一語を残し、クラーク先生が終生の思い出とした札幌農学校生徒と袂を別った地、島松に、師を偲ぶ記念碑建立の議が、昭和9年頃有志の間に起った。昭和9年6月15日前北大総長佐藤昌介男爵を始め、新島名誉教授に私も加わり、北大キリスト教青年会汝羊会有志は島松に向い、クラーク先生が馬上から慈愛こもるまなざしで訣別した土地を探った。当時とは地況が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭が建てられた。


恐らく彼は、太平洋上で、日本に行って伝道せよとの、天からの細い、静かな声に接して、ひそかに決意を固めたのでしょう。

そして開拓使長官陸軍中将黒田清隆および第一期生の一行と一緒に、御用船玄武丸で品川沖から海路札幌へ向かいました。

その船中で、待遇の悪いことに憤懣をいだいていた生徒らは、ある日、甲板上で泥酔の上、放歌乱舞しました。

黒田長官は激怒して、函館へ着いたら全部追い返してしまえ、と厳命を下しました。

黒田はそれまでも農学校の生徒のことでは非常に苦労して来ました。

明治5年(1872年)に開拓使仮学校(明治8年7月札幌学校と改め、9年8月札幌農学校となる)を開設して以来、黒田の期待に反して優秀な生徒が得られず、ある時などは、生徒の粗野放埓な生活を怒って、彼らを一斉に放校してしまったほどに失望に失望を重ねてきました。

それだけに、このたびこそは、クラークのような立派な人格者を教頭に迎え、その手で選抜してもらった生徒だから、と大いに希望を託していた矢先きの出来事だけに、黒田は激怒してしまったのです。

幸い周囲のとりなしで放逐の事だけは思いとどまりましたが、生徒の徳育のむずかしさをつくづく痛感した黒田は、徳育の一切をクラークに託そうとしました。

クラークは徳育の効を挙げるには、道徳の本源である聖書を教える以外に道はない、と答えます。

黒田はもちろん同意はしません。

クラークは自説を曲げません。

同じ折衝を繰り返すうちに、船は小樽に近づき、黒田は止むなく折れて、生徒に聖書を教えることを黙認しました(※2)。

※2 「船は小樽に近づき・・・生徒に聖書を教えることを黙認した」というのも誤りのようである。黒田とクラークの押し問答は実に開校式の時まで続き、そこで黒田は道徳教育に聖書を用いることを黙認したのである。その後の視察で、札幌農学校の生徒の態度がクラークの道徳的感化と聖書によるピューリタニズム(道徳的純潔性)の浸透により倫理的人間的に著しい効果を挙げていることを確認できたため、全面的に道徳教育についてはクラークに任せると言ったのである。

 どうもこのピューリタニズムは、クラーク主義を研究しようとすると、いまだに大きなパワーを持っているように感じられる。感化力をいまだに持っていて働きかけてくる。

 それこそがおそらくは クラークの言葉、ビー・ジェントルマン、ボーイズ・ビー・アンビシャスが日本人の心に響き続けているゆえんでもあろうか。

「札幌農学校」では「玄武丸船上のクラーク博士と黒田長官」を次のように伝える。(P37-41)
 選抜された官費生11名は、クラーク博士一行や黒田長官ともども開拓使御用船玄武丸に乗船して、品川沖を出帆した。玄武丸は東北地方の太平洋岸に沿って北上をつづけた。この船は小さな蒸気船で、わずか644トンに過ぎなかった。非常に揺れるので1名『ごろた丸』といわれていた。甲板の中央に光採りがあり、その真下がホールで食堂、談話室ともなっていた。その周囲に一等船室があった。三等室はトモの方にあり、荷物の多い時はそこも荷物の置き場所になっていた。
 品川沖を船出するとき、東京湾の風景にあかず見入っていた生徒達も無聊をかこってきて、大量の荷物と同居していた三等室の生徒から、過密な船室内の待遇に不平不満がおこりはじめた。ある日の昼、何人かの生徒が甲板上で卑猥な俗歌を大声でうたったことが発端になって、一騒動もちあがった。彼らのいた場所は、ちょうど黒田長官が食事をしていたホールの真上だった。
 すでに開拓使仮学校において生徒達の粗野な行動に苦い経験をなめていた長官は、今度の生徒こそはと大いに信頼し期待しただけに、怒りが爆発した。「こんな生徒ではとうてい成業の見込みはないから函館に着いたら、そこから追い返してしまえ」と極言するほどだった。黒田長官の激しい性格の一面を知っていた随行のものは長官をとりなし、生徒の一人一人を呼んで注意叱責し、航海中の謹慎を命じてなんとかその場はひとまずおさまった。黒田は生徒の前途に不安を感じるとともに、北海道開拓のかなめとして創設されるべき農学校における徳育の必要を痛感したのであろう。黒田はクラークに人物養成の問題に関して意見を求め、専門の学術以外に修身学の教授を請うたのである。 

黒田 「最高の道徳を生徒たちに仕込んでいただきたい」。

クラーク 「それでは生徒の精神教育の糧として、聖書を読ませましょう」。

黒田 「いや、キリスト教はわが国の厳禁するところであるから、聖書の類は一切用いてはなりません」。

クラーク 「国典については知りませんが、聖書によらなくては徳育は思いもよりません。聖書にまさる心の糧はないと思います。聖書が悪ければ、その徳育の問題にはふれないでおきましょう。」

<クラーク精神( Clarkii Spirit )> 2  いかにしてピューリタニズムは札幌に伝わりしか

黒田長官から、新たに北海道に創立する学校に特に熟達した教師をと人選を託された在米国特命全権公使吉田清成は面識のあったマサチューセッツ州立農科大学校長クラークに『先生ご自身おいでくださるご意志はありませんか』と相談した。『面白い、行ってやろう』。クラークは農科大学校長在職のまま一年の賜暇(1876年5月20日から1年)を得て、招聘に応じた。その際知人に『日本で新たな学校を設立するには2年は必要でしょう』と言われ、『自分は1年でなし遂げる』と自信を示した。明治9年6月29日クラークはホイラー、ペンハロー2教授を伴って横浜に到着する。一方開拓使は優秀な生徒を「教師到着の節直ちに試業」し募集した。開拓使設置の札幌学校の生徒で進学できる生徒は20名に満たず、文部省管轄下の東京英語学校と開成学校にも開拓使の生徒募集公告が張り出された。その第一の条件は英語での読み書きの能力で、在学期間は4年、卒業後北海道で5年実務従事の義務があり、全て貸費生という条件だった。生徒は7月5日クラークら3人のアメリカ人教師から口頭試問を受け11名合格した。黒田長官とクラークらは7月25日玄武丸で北海道に出発した。生徒は三等室に押しこめられ、風波による船酔いなど憤懣押え難く、土佐ボーイの黒岩・田内らが一等室の頭上の甲板を踏み鳴らし放歌高吟した。黒田長官は烈火の如く怒り、「函館に着いたら全員追い返せ」と航海中謹慎を命じた。側近になだめられ放校処分は免じたが、乱暴な生徒への道徳教育を痛感してクラークに問うた。『今回あなたをアメリカからお迎えしたのは、単に学問を教えて頂くためではありません。生徒を薫陶して北海道の拓殖に役立つ有為な人間に育て上げ、日本のために役に立つ者にしたい、それが私の念願です』クラークは承知したが、徳育のために聖書を使用することの是非について議論となり、決着がつかなかった。クラークは7月始め横浜で英文聖書30冊の寄贈を受けていた。

この事情について内村鑑三がアマースト留学中クラークに聞くとこう答えたという。「農学校を建てる事、農学教育を授ける事は決まっていた。長官は私に『先生に特別に頼みたい事はこの学校の徳育教育です。先生はどういう方針で教育されますか』と問うた。『私にはただ一つの道があります。私はキリスト教を教えます』黒田長官『キリスト教はわが国で永い間禁教です。わが国にはわが国の宗教がある。キリスト教はご免こうむりたい』『私の道徳はキリスト教です。それで悪ければ道徳教育は行いません』その問答が繰り返えされた。開校式前夜、長官がクラークを呼んで『先生あなた変えないか』『変えません、私の道徳はキリスト教です』『ではよろしい。教えなさい。然しごく内証で教えてください』(「如何にして基督教は始めて札幌に伝わりしや」)

明治9年8月14日開校式があった。黒田長官は、「わが国の農業は多くは老農老圃の実験により慣習にたよるため、進歩がない。そこで今、農学校を設け、教師を海外から求め、育英啓蒙し、農学を一新しようと思う。この目的を達せば北海道だけでなく、全国に普及しよう。これが本官が本校に望む所である」と式辞を述べた。クラークも「青年紳士諸君、君らの母国において、勤労とまたそれより生ずる栄誉の最高地を得んがために努力せよ。常に健康に留意し、食欲を慎しみ、性欲を制する力を養い、従順と勤勉の習慣を養い、学術を研究せよ」と述べた。大島正健は明治9年11月26日の手紙で「クラーク氏は博学秀才で生徒に示すに種々の金言を以てし、深くキリスト教を信じ、当地は固く禁教となっていたが、先生の高説に黒田公も一啄も入れられず。今日に至っては置いて問われなくなった」と報じた。クラークはまず禁酒禁煙の誓約に教授生徒に署名させた。後日視察に来た長官は生徒の態度に満足し、徳育をクラークに一任した。そこでクラークは用意の聖書を生徒に渡し、自室で生徒のために日曜学校を開いて、聖書を教えた。








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最終更新日  2026.05.30 16:00:04


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