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2026.08.05
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カテゴリ: 報徳
「大磯町史」より

1 当時の大磯宿

 当時、大磯宿海岸沿いは、南下町、北下町の二町で構成されていた。天保14年当時漁師家196軒を含む300軒余が軒を連ねていた。(『東海道宿村大概帳』)

2 天保の飢饉時の打ちこわし
「大磯宿打ちこわし」は首謀者23名を含む、参加者585名の宿民によって引き起こされた。天保14年当時の宿内人別3056人であるから、宿内の約2割が参加したことになる。
 打ちこわしは、天保7年(1836)7月29日の夜8時頃から真夜中の午前1時半過ぎまで、5時間にわたって行われた。対象は穀屋で回船問屋の川崎屋孫右衛門をはじめ、米の小売業(質屋・酒屋兼業)の7軒である。これらの店と店続きの居宅を土破り、打ちこわした蔵からは、米・麦・豆などを持ちだして、店内や往来にまき散らし、酒、醤油を井戸へ投げ込んだ。

3 なぜ打ちこわしが起こったのか?打ちこわしの状況は?
 首謀者の一人清七の口書(くちがき:供述調書)より(町史2近世89)
 ちなみに清七は宿内の北組の属し、農業の傍ら旅籠(はたご)屋を営んでいた。
 天保7年はまれな凶作でした。米の値段も次第に高価となり、7月18日の夜には大風雨と大時化(しけ)によって、大磯の浜には津波同様の高波が押し寄せて宿内南組の家54軒がつぶれました。その後も不漁が続き、いろんな物が高値が続き、小前の百姓は難渋しておりました。
 宿内の米屋は、米を買い入れることができないからと、一斗買い求めようとしても、五合しか売ってくれず、旅籠屋を営む者にとっては、旅人の休憩や宿泊にも差し支えるようになってきました。
 7月21日、南・北組の小前百姓の主だった者が寄合いし、米価が高くなり小売りの米も少ないことで困っていると宿役人に相談しよう、南組の者は北組役人へ、北組の者は南組役人へ出向くことを決めました。
 北組の長七郎・伝八・卯兵衛と主だった者が南組名主勘兵衛方へ出向いて相談すると「南組役人へ北組の百姓は用事がないはずだ」と殊のほか腹を立ててののしった。
 南組の主だった者は北組の年寄才三郎(大磯宿本陣)へ出向いて小前の難渋を訴え、才三郎は南組役人とも相談しようと答えたが、南組名主勘兵衛が不承知で腹を立ているから、この件は無かったよう才三郎に申し入れを行った。この後両組の寄合は行われていない。
 7月27日、宿内の小売値段が一升につき148文が、46文値上されて194文にはねあがった。
 穀屋孫右衛門は7月、米価が高値になる前に安く買い入れた米を持っていた。
天保4年の米価高値の際に、宿の役人の取り計らいで、金一両に一斗安の米を売りだし、なおかつ50両を困窮の者へ割渡したことがある。

 私(清七)は、北組長七郎へ孫右衛門は大家だから、小前の身分で掛け合っても通じないから、大勢が寄り合って打ちこわしをするよう掛け合えば直安の米を売りだすことになると相談すると、長七郎は同意した。同日(27日)長七郎は、家の前を通りかかった伝八を呼び込んで、この話をすると同意した。
29日、北組百姓喜八・彦七・卯兵衛・佐次右衛門へも同様の話をすると一同同意して、29日夜、浜辺で寄り合うよう示し合わせた。
 夕方7時頃、私は股引き・わらじで家名古三河屋と入った提灯を持って、長七郎らを誘って浜辺へ行きました。
 南・北組の小前の者共が話を聞き伝えて、大勢の者が集まって来た。そこでこれまでの経緯や今後の掛け合いの方法を決めた。
 この話し合いの最中に、彦七・佐次右衛門・弥吉・吉右衛門・平三郎・作右衛門・九兵衛・紋右衛門・要助・次兵衛・甚右衛門・平右衛門の12名は、孫右衛門と同じ町内の者であるから、孫右衛門への掛け合いは任せてくれるよう申し出た。そこで12名の後に、大勢の者が付き従って、掛け合いの様子を見守った。
 孫右衛門の留守を預かっていた利右衛門は「一斗安ではなく、五升安売りの米しか売り出せない。これに不承知であれば、打ちこわしなど勝手に致すべし」と言った。この一言に、掛け合いに行った者共が孫右衛門方へ押し入り、有り合わせの棒やなどで、戸や障子その他を打ちこわした。
 私は、孫右衛門が値上がり前の直安の米を持っていることから、その米を売りだされることが目的でしたが、打ちこわしが現実になり、取り鎮めようとしましたが、大勢のことゆえ何分にも行届かず、孫右衛門方はじめ、孫七・喜右衛門・喜四郎・新八・徳蔵・権兵衛方までも打ちこわすことになってしまいました。

なぜ、米価のことを宿役人へ相談する時、南組・北組と係り違いに、北組の者が南組名主勘兵衛方へ出向いたのか?

元来。宿内米価の値段の取り決めには、南組名主勘兵衛が重要な役割を担っていた。
しかし南組の者は、常日頃から勘兵衛の勢いを恐れ、勘兵衛への掛け合いを譲り合い、先だって相談しようという者がいない。また組下の小前ばかりで相談にいっても勘兵衛は取り上げてくれるか、取り上げてもなおざりにされると考えられる。宿内は南北の両組に分かれているが、一宿一体である。入れ替わりに出向いて相談すれば、相談も行届き、互いの様子も知れてよいということで、それぞれ組違いに相談に出かけました。


なぜ、米価のことを宿役人へ相談する時、南組・北組と係り違いに、北組の者が南組名主勘兵衛方へ出向いたのか?

元来。宿内米価の値段の取り決めには、南組名主勘兵衛が重要な役割を担っていた。
しかし南組の者は、常日頃から勘兵衛の勢いを恐れ、勘兵衛への掛け合いを譲り合い、先だって相談しようという者がいない。また組下の小前ばかりで相談にいっても勘兵衛は取り上げてくれるか、取り上げてもなおざりにされると考えられる。宿内は南北の両組に分かれているが、一宿一体である。入れ替わりに出向いて相談すれば、相談も行届き、互いの様子も知れてよいということで、それぞれ組違いに相談に出かけました。

穀物商孫右衛門に対する一斗安の掛け合いは、ちょうど江戸表へ他出していた孫右衛門の留守を預かる親類の利右衛門と孫右衛門の世話で商売する孫左衛門と、大磯北町の彦七・佐次右衛門・弥吉・吉右衛門・平三郎・作右衛門・九兵衛・紋右衛門・要助・次兵衛・甚右衛門・平右衛門の12人の掛け合い人との間で行われた。
 利右衛門と孫左衛門は、孫右衛門が留守であることを理由に、最初二、三升安売りを主張し、掛け合い人との間の交渉はなかなか進まなかった。米の一斗売りを要求し譲らない掛け合い人たちに対し、利右衛門は五升安売りを最終回答として提示する。そしてこれが聞き入れないなら「打ちこわしも勝手しだい」言い放てしまった。
 この言葉に掛け合いの様子を見に集まった大は激高した。北組百姓の久内、亀五郎、南組百姓の七左衛門、金次郎、久兵衛、定七の6名が、最初に孫右衛門の戸・障子を打ちこわした者たちである。この行動をきっかけにおよそ600人の宿民が、次々と孫七、喜右衛門、喜四郎、新七、徳蔵、権兵衛の居宅、土蔵、、その他を打ちこわして行く。
 打ちこわしの被害者は、宿内きっての穀屋で、回船問屋でもあった川崎屋孫右衛門、穀物小売商の喜右衛門、穀物小売と質屋を営む喜四郎と近江屋新七、穀物と酒小売りを営む徳蔵、酒・醤油・味噌・油の小売りと質屋を営む油屋権兵衛である。
 清七の口書によると、油屋権兵衛は前々より奇特の者で、荒波の被害の時は被害にあった者たちへ施しをした者であるが、一夜に二度も打ちこわしされた。清七自身は打ちこわしに参加していないし、騒動を取り鎮めようとしたが、何分大勢の事ゆえ、行届かなかったと供述している。
 この七軒の持ち高は、権兵衛が31石、孫右衛門が23石二斗六升、徳蔵が22石4斗、喜四郎が12石2斗4升、新七が4石9斗3升、喜右衛門が4石8斗6升、孫七が3石4斗8升であった。

 孫右衛門の被害の状況

 川崎屋孫右衛門の穀屋としての営業は大規模なものであった。川崎屋は、代々北下町の大泊(おおとまり)海岸近くに居宅を構え、回船問屋として近在から買い入れた米穀類や塩を中心に、米・大麦・大豆・小豆・小麦・塩・酒など手広く取り扱っていた。
 打ちこわされた場所は、下町の通りに面した間口五間奥行三軒の土蔵造の店、間口五軒奥行七間半の土蔵続きの居宅、間口三間奥行三間の塩置き場、間口三間半奥行二間半の別座敷であった。
 米穀類は米50俵、大豆211俵、小豆3俵、大麦69俵、舂麦27俵のすべて、小麦560俵、塩166俵が俵を切り崩されて蔵内や往来へまき散らされた。
 無事に残った穀類は米30俵、もち米2俵、小麦457俵、塩4俵に過ぎなかった。(二宮尊徳全集20)

 孫右衛門の口述によると、米穀類の大半は、下総国花輪村高梨兵左衛門や、近在近郷の者たちからの預かり分であると主張した。たとえば米80俵のうち、8俵は板戸村(伊勢原市)甚兵衛よりの預かり分であり、大豆211俵のうち15俵は十日市場村(秦野市)与五左衛門、194俵は浦賀(三浦氏)与右衛門へ既に売渡が決まっていた分で、孫右衛門所持の大豆はわずか2俵にしか過ぎなかった。小麦1017俵のうち過半の550俵は下総国花輪村高梨兵左衛門よりの預かり分、119俵は高麗寺村平右衛門よりの預かり分、9俵は粕屋村(伊勢原市)源右衛門よりの預かり分、4俵は白根村(伊勢原市)弥吉よりの預かり分であった。(二宮尊徳全集20)
 高梨兵左衛門は「野田の高梨」といわれ、後のキッコーマンであり、醤油醸造家の筆頭であった。
 野田における醤油醸造用の小麦として、最も多く使われていたのが「相州小麦」であり、相模川から西の箱根・小田原付近までの小麦が最良とされていた。


5 処罰
 大磯宿を所轄していたのは韮山(静岡県韮山)の江川代官だった。
 江川は、打ちこわし発生後、手付の斉藤勘兵衛らを差し向けて、首謀者、被害者、組役人、参加者、宿役人の順で取り調べを開始させた。
関係者を韮山代官所の牢に入獄させたのは事件発生後20日ほどを経た8月20日である。関係者は宿預かり、または手鎖宿預かりとなって口書(調書)を提出し、双方の関係者全員が韮山に送られ、入牢を申付けられた。
 2年後の天保9年(1838)5月12日、打ちこわした者たちと、打ちこわしを未然に防ぐことができなかった村役人及び宿役人の罪科が確定し、刑の執行が行われた。
 打ちこわした側の刑罰は、打ちこわし頭取の清七に重追放(江戸10里四方及び相模国に立ち入ることを禁止、清七の田畑・家屋敷は没収)。
清七の発意に同意した首謀者に数えられる卯兵衛・彦七・佐次右衛門・伝八・喜八の五名に所払(居住地への立入禁止)。孫右衛門方へ掛け合いにいった者と最初に打ちこわしを始めた弥吉・吉右衛門・作右衛門・九兵衛・紋右衛門・要助・次兵衛・甚右衛門・平右衛門・久内・亀五郎・七左衛門・金次郎・久兵衛・定七の16名に過料銭5貫文。打ちこわしに参加した563名に村高100石につき2貫文の過料銭が課せられた。
 一方、打ちこわされた側の孫七・喜右衛門・喜四郎・新七・徳蔵・権兵衛・孫右衛門に、3貫文ずつの過料銭と急度叱(きっとしかり)。打ちこわしを未然に防ぐことのできなかった名主勘兵衛には過料銭5貫文。名主作右衛門・柳助、問屋久右衛門には過料銭3貫文ずつ、年寄才三郎ほか6名には急度叱り、打ちこわし人と掛け合った孫左衛門・利右衛門に急度叱の罪科が確定した。
 罪科の確定は、罪に処せられる者たちが印鑑持参で韮山代官所へ出向き、罪科を記載した差紙を受け取ることで決着することになっていた。そのため村役人は名主・組頭を代表してそれぞれ1名ずる。宿役人代表2名。打ちこわし参加者563人を代表して2名、その他、弥吉・吉右衛門・作右衛門・九兵衛・紋右衛門・要助・次兵衛・甚右衛門・平右衛門・久内が韮山に出向いて罪科の申し渡しを受けた。
 清七は天保7年(1836)8月20日から罪科確定の天保9年(1838)5月21日までの2年ほど入牢した。利右衛門・孫左衛門は天保7年(1836)8月20日から天保8年(1837)12月晦日までの1年6か月ほど入牢した。打ちこわし首謀者の一人長五郎は獄内で病死した。52歳であった。

6 孫右衛門の入牢
 孫右衛門は、打ちこわし直後の8月下旬に韮山の江川代官所に召しだしとなり、20日には取調べの上、入牢を申付けられた。被害者が入牢を命じられることは珍しい。これは代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)から飢饉の時は指定の値段で米を放出するように説諭されても、半年間頑(がん)とはねつけたからだといわれている。孫右衛門が出牢したのは翌年天保8年(1837)3月29日であり、8か月近く入牢したことになる。出牢してからも宿預け(訴訟や裁判関係者を宿泊させた公事宿(くじやど)・郷宿(ごうやど)に身柄を預けること)となり、未決勾留者として預けられたのである。


7 孫右衛門の引き続く不幸
 9月5日、大磯宿を大火が襲う。
 夜の4つ半(午後11時頃)から昼の4つ(午前10時頃)まで燃え続け、宿の家数666軒の、75%にあたる501軒が焼失し、30名もの焼死者が出た。
この大火事は、北下町の半七宅が火元であった。同じ町内の孫右衛門の自宅と店も焼失した。
 当時身重の妻は、孫右衛門が韮山で入牢するや心労で大病を患い、赤子を生んだものの十月十一日に亡くなった。残された赤子は、伊勢原の加藤宗兵衛家に引き取られたが、間もなく亡くなる。孫右衛門は愁嘆言語に尽しがたく、欝々茫然と打ち過ごすしかなかった。(『町史』2近世100)
 孫右衛門ら関係者に判決が下ったのは天保9年(1838)5月21日で、孫右衛門は「急度叱(きっとしか)り」(江戸時代の刑罰の一種で叱責)が申し渡された。
 判決が降りてようやく帰宅した孫右衛門は、居宅は打ちこわされたまま、類焼の場所は修繕の跡がなく、妻も子もいない。そのありさまに愁涙に耐えることができなかった。孫右衛門は、大磯を離れ隣の高麗寺村にある酒造蔵に移住したいと言いだして、相談を受けた親類は、祖先以来相続の家株を一度くらい障害があったからと放り出すなら、家名に傷をつけるだけでなく、第一に祖先に対して不孝にあたる、まずは一生懸命家業に励み、再び華々しき渡世となって人々を見返したらどうだと説得した。しかし、これだけ災厄が積み重なれば、家業を相続する手段もないと、大磯の店は別家の伊三郎に任せ、孫右衛門自身は高麗村山へ引っ越すことを決意する。



『報徳記』の大磯宿打ちこわしの内容と『町史』の史実には大きな事実の違いがある。

1 打ちこわし当日、孫右衛門は江戸にいて、打ちこわし連中と交渉にあたったのは、伊三郎ではなく、利右衛門と番頭の孫左衛門であった。連中の代表として同じ町内の彦七・佐次右衛門・弥吉・吉右衛門・平三郎・作右衛門・九兵衛・紋右衛門・要助・次兵衛・甚右衛門・平右衛門の12名があたり、一斗安を要求した。利右衛門・孫左衛門は最初2、3升安売りを主張し、場合によっては打ちこわすと脅迫する連中に対して、利右衛門は五升安売りを主張し、これが聞き入れないなら「打ちこわしも勝手にすべし」と言い放った。この言葉に久内・亀五郎・七左衛門・金次郎・久兵衛・定七の6名は有り合わせの棒や真木で孫右衛門の戸・障子を打ちこわしていって、この行動をきっかけに600人の宿民が群集心理にかられて打ちこわしをはじめた。
(原因の一つとして南組の名主勘兵衛が普段から居丈高で怒りっぽく、南組の小前の百姓たちは誰も勘兵衛に交渉しようという者がなく、北組の小前の百姓が交渉に行くがなぜ北組の者が来ると勘右衛門が激高し、結局孫右衛門の店との交渉の場に名主や村役人は同席していなかった。そのため紛糾した事態を取り鎮める者がいなかったということもある。)

2 伊三郎は孫右衛門の別家であり、使用人ではない。事件後、孫右衛門の打ちこわされ、焼失した家と店の管理をまかされていた。事件後、事情を報徳関係者に語ったのが伊三郎で、打ちこわし当日の番頭で当日の交渉にあたったと誤り伝わったのではないか。

3 『報徳記』では、孫右衛門は度重なる災難に宿民に復讐を誓い、牢獄内でわめきちらし、3年にわたって入牢したとあるが、判決が下った天保6年5月22日(事件は天保7年7月29日)には叱責(急度叱り)されて帰宅している。

4 孫右衛門は帰宅して打ちこわされ更に火災にあった店と妻子を失った悲しみに隣村に引っ越そうと考えるが、親戚一同に先祖代々の家株を盛り返して打ちこわした宿民を見返すべきだと説得される。

『報徳記』の記述は、伝聞もあり事件が非常に単純化されて、聴きやすいように編集されているようである。
これは『報徳記』の高慶が尊徳に師事する以前の他の事案にも共通するようで、高慶自身がこれらは伝聞であり、信頼できるかわからないと記述しているとおりである。これらを史実と違うからといって、『報徳記』を一概に史料的価値がないと切り捨てる向きもあるが、第一次史料と第二次史料とを混淆したもので、
『報徳記』の史的・思想的価値を損なうものではない。





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最終更新日  2026.08.05 01:00:14


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