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久しぶりにこういった宇宙論の本を読みました。昔は宇宙論とか物理のあれやこれやの雑学的なことが好きで、よく読んでいたんですけども。とはいえ、基本的に文型よりかつ、論理的か感覚的かでいえば感覚的よりの私では、細かいところは素通りでして、総論的なことを読んで、「へえ」と面白がる程度ですが。よく読んでいたのは学生時代で、思うに、今よりも色々に迷ってみたり悩んでみたりしたあの頃、「科学」という確かさとか正しさに焦がれた面もあるのかと思います。青年期特有の、自分の足元が定まらないあの不安定さの中でも、世界の成り立ちをざっとでも知ることで、どうにか二本足で立てるようにしたかったのかと。ただ同時に、「わかる」とか「知る」とかいうことは、非常な楽しみでもあります。単純に、新しいことを知ることが楽しみでもありました。その興味が徐々に、移っていって今にいたり、もうちょっと哲学とか人間自体とか宗教とか、そういう方向に流れていったわけです。そうやって、自分のこととか人のことのか世界のこととか分かりたかったんですね。……今、急に腹痛になり、上の文から1時間ほど空いてしまいました。何を書きたかったか忘れてしまいましたよ、トイレにこもっているうちに……と、いうわけで、久々に読んだ物理系の新書です。『子供の科学』は毎号読んでいますが、またそれとは違いますからね。もう、『宇宙は本当にひとつなのか』というタイトルだけで、個人的には「買い」なのですが、久々にこういう世界に触れたこともあって、非常に楽しんで読むことができました。とても分かりやすかったですし。宇宙について、今、何がわかっていて、何がわかっていないのかを整理しながら、「宇宙とは何か」を考えていきましょう。との帯の通り、ここまでは解き明かせたけれど、ここからは謎、という境界が明快で、潔い1冊でしたね。宇宙の成り立ちとか、宇宙に満ちている謎の暗黒物質やエネルギーとか、そういうものも面白かったですが、一番惹きつけられたのは、タイトルにも語られている、多元宇宙や多次元宇宙の可能性です。まるでSFのような異次元の話だとか、事象が枝分かれしていく可能性とか、こんな風に今の物理学では真面目に論議されているのだなあと感動でした。でも、こうやって宇宙の成り立ちや仕組みについて知っていく作業の中でこそ、今ある宇宙の奇跡というか、もう神様の存在でもいなければやってられない、というような気分になるから不思議なものです。きっと科学者の方の中でもあるんじゃないかなあと思うのですよ。「ああ、神よ」と、この奇跡の上に乗っかって成立する世界の裏にある何かに、信じるも信じないもなく、そうつぶやいてしまいたくなる瞬間が。そのくらい、宇宙のことを考えるというのは、存在についての根源的な思索、ということでもあるんでしょうね。素敵です。とても面白かったので、もう1冊、同じ著者の宇宙論の新書を買ってしまいました。じっくり読み進めたいと思います。
2011年10月30日
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傷ついても傷ついても手を差し伸べる おろかさ重ねていとしさ募る「もう、よしたらいいのに」というほどの献身が、時にあります。「もう、十分なのに」「それ以上は、傷つくよ」と、声をかけたくなるほどの献身ですね。「そんなに信じて、また損するよ」という盲目な信頼もあわせれば、なおさらです。人のおろかしさは更におろかさを呼んで、一度足がはまると抜け出せず、しかもその場所は暖かに足を包む沼地だったりもしますから、足をとられてはまっていること自体が心地よかったりもするのが厄介で。そういう時、見てる側はやりきれなかったりせつなかったり、苦しいぐらいなのに、献身している側は、そんなの何でもないさ、笑っていたり。人の悪意を疑うのも、人の善意を信じるもの、その人の自由なわけですが、大抵の人は全てを疑うのはつらいし、全てを信じるのは怖いから、考え考え、あるいは直感的に、信と不信の間をいったりきたりしているんでしょう。でも、時々、無防備に全てを信じる人もいるんですよね。「ばかだな」って、人に思われることさえあるのに、それでも信じる。最近思うのですが、こういう人は、人への「信」を持つというよりも、人に対して限りなく「寛容」ということなのかもしれない、と。「傷つく? だまされてる? まあ、それはそれ、そのとき考えるよ」、的な感じで。「傷ついたら、ま、すごく哀しいし、ちょっと泣いちゃうかもしれないけど、ね」という。そういって笑えるのはおろかかもしれないですが、とても人間的で、しかも優しいですよね。「不信」の時代の次は「信」の時代に戻るのではなくて、「寛容」の、「許し」の時代につながっていくとしたら、それは素敵なことかもしれませんね。
2011年10月26日
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この1週間、仕事の他は寝ていることが多かったため、ブログのネタがない……今日なんて、まだ3時間ぐらいしか起きておりません。朝起きて、すぐ昼寝、的な。本を片手に居眠りを、なんてベタなことをやってしまいました。仕事が一段落するのは、まだまだまだまだ先。長い道のりです。でも、来月はお休みが多いので、フェルメールを見に行きます、絶対。そこでエネルギーを補給するのを楽しみに、乗り切りましょう、自分。と、いうわけで、ブログを書き始めたはいいんですけれども、書くことが浮かびませんので、近況報告をつらつらと。離人症でもやっていけますよ、ということを伝えたいブログですので、書くことがなくてもあんまり更新が開くと、やっている意味が薄れちゃいますからね~。そうして飽きっぽい自分の場合、一度更新を滞らすと、そのままつれつれーっと放置してしまう可能性が大きいですから。「あるような、ないような」というのは川上弘美さんの本のタイトル、だったような。最近、「あるような、ないような」あるいは、「あることは証明できないけれど、それがあると思えば力になる」ものについて、考えることがありまして。神様とか、愛だとか、ですね。誰だったか忘れてしまったのですけれど、「愛」というものがしっくりこないのは、それがないからなんじゃないか、ということを書いていましてですね、「あ、そうかも」とすっきりしまして。誤解があればあれですけれども、この「ない」というのは、あくまで「自分の中にない」ということでして、「この世に存在しない」という意味ではありませんので、あしからず、です。私はもともとそういった感情には薄い人間ではありますが、それにしても、「愛してる」という言葉への抵抗感といいますか、ある意味では拒絶感に近いものがあると思うんですが、それがかなり、強いです。もう、ここで「愛してる」と打つだけで、「うわっ」と思うくらい。「あ、書いちゃうの? 書いちゃったんだぁ」的な。ですので、恋愛漫画や映画などでそういう直接なセリフが出ますと、途端に冷めちゃって、急に物語の世界から引いてしまうところがあります。でもですね、不思議なことに、外国の映画の「愛してる」はオーケーなんです。それからですね、親が子に向ける「愛情」や、趣味や嗜好における「ちょっと偏執的な愛」もオッケーです。鉄道模型とか、何かのキャラとか、数字とか、そういうものは大丈夫なんですね。でも、恋愛関係における「それ」はダメなんですよね~「好き」とか「惚れた」は全然いいんですけども、「愛」がつくと抵抗を感じるんです。ずっとですね、何でかな~、自分が信じていないからか、でもそれだけでフィクションの世界の言葉にまでこんなに引くだろうか、なんて考えていたんですけれども。分からないのは、ないからだ、という言葉ですっきりしまして。「好き」から進んでも「大好き」まで、「惚れた」から進んでも「ベタ惚れ」まで。それが人の言うところの「愛」なんだよ、ということもあるんでしょうが、私の中で納得がいかない以上、それはやはり「愛」というにはちょっと違う。そもそもほら、「愛」とかいう言葉自体、輸入品的なところがあるみたいですし。信じるも自由、信じないも自由。自分にとって救いのある方を、便利な方を選んでもいいじゃないですかね。などというところで、大分行数も埋まりましたので、終わりにします。
2011年10月23日
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胃腸の調子がよくなったと思いまして、いくらかだらだらとした日々が過ごせるようになるかと思いましたら、仕事の方がとんでもなく忙しくなり、残業の日々になってしまいました……再び更新、滞りがちになっております。残業のせいで胃腸の病院にも行けない始末で、不調をぶり返しちゃいましたし。それに忙しくなると、その日の記憶に対する現実感まで希薄になるので嫌なんですが、いたしかたありません。ここが踏ん張りどころ。そんな中、1ヵ月以上前から読み始めていた本を、今日こそ読み終えようと開きました。『働かないアリに意義がある』今、おもっきし働かされてますけどね、ええ……これも新聞の広告を見て気になっていた1冊で、『ふしぎなキリスト教』(でしたっけ?)と一緒に購入した1冊でした。進化生物学者である著者が、アリやハチなどの小さな昆虫たちの社会の研究を、人間の社会や組織にたとえながら分かりやすく説明してくれる1冊で、非常に面白かったです。帯からして、興味深いですから。アリとキリギリスの童話から、アリといえば働き者、のイメージですが、「7割はぼーっとしていて、1割は一生働かない」なんてことが書かれています。目次を見ていても、休んでいる働きアリのことから、何故働かないアリが存在するのか、そもそも働いているアリは何で女王という他人のために働いているのか、そんな働きアリの社会たちにのっかる裏切り者のアリの話、結局群れるのか個を通すのかどちらがいいのか、そういった進化を遂げたのはなぜか、などなどなど、興味を惹かれる話題が目白押しです。そうして何より、小さな脳しか持たない、人間のような高度な精神機能を持たない小さな虫たちの社会が、なんと人間が作る社会や組織に似ているのかということに気づかされて、こう、苦笑してしまうというか、微笑してしまうというか、「やれやれ、仕方ないことだよなあ(自分含め)」としみじみ思わされました。それから、我々が作る社会の面白さ、ということも感じましたね。働かない個体というのは、生産を是とする社会から見れば無駄な存在なんですけども、結論から言えば、そのはみ出し者がいる社会や組織の方が、長続きするそうで。無駄を内包してこそ持続していく社会の、面白さですよねえ。大抵無駄なことの方が面白く、美しかったりもしますから。まあ、それだけでは全部なくなっちゃいますから、私もあくせく働くわけですが。その無駄であることの価値、無意味であることの価値を理解することのない、小さな虫たちの世界でも、無駄であるモノを受け入れるほうが社会が続くなんて、本当に興味深いことです。何故働かないかという理屈もまた、面白かったですよ。うんうん、そうだよねえ、と。新聞広告の通り、期待通りの1冊でした。
2011年10月16日
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久しぶりにだらーんとゆっくりできた休みでした。先月はちょっと胃腸の調子を崩しまして、あんまり余裕がなかったんですよね。そんなわけで、今日は読みかけだった本を一気に最後まで。<あらすじ>高校生の一人息子の失踪にはじまり、佐知子の周囲で次々と不幸が起こる。愛人の事故死、別れた夫・雄一郎の娘の自殺。息子の行方を必死に探すうちに見え隠れしてきた、雄一郎と後妻の忌まわしい過去が、佐知子の恐怖を増幅する。悪夢のような時間の果てに、出口はあるのか――――人の心の底まで続く深い闇、その暗さと異様な美しさをあらわに描いて読書会を震撼させたサスペンス長編。『九月が永遠に続けば』というタイトルに惹かれて手に取りました。ホラーサスペンス大賞を受賞した作品と、裏表紙の上のあらすじを見て、ミステリなのかなあ、と軽い気持ちで手に取った作品だったのですが、そんな軽い気持ちで読める作品ではありませんでした……全体を通して漂う非現実感と、それに付随するまるで世界が終わる寸前のような不穏な空気。普通のホラーのように、その場面を考えて怖くなるというような、想像力に働きかけて怖さを引き起こすようなものではなく、その不穏さは周囲を取り巻き、やがて皮膚からじわじわと侵食し始めて心に達し、触れたくなどない、できれば見ないでいたかった闇に震えるような、そんな物語。何より恐ろしいのは、その果てのない、終わりのない闇が、時に美しくさえ見えてしまうことがある、自分の精神構造に気がつくとき。失踪した息子の行方を主人公が探す中で明らかになるのは、目を背けずにはいられない酷い事件の記憶です。人の酷い暴力性によって起こされた事件が決して過去のものとなることはなく、それはその事件が犯人の逮捕という一応の結末を迎えたところで、傷を負った人の心が、それで元に戻れるわけではありません。その目を背けずにはいられない人の残忍性、――――実際、文章を追いかけることができずに目を逸らすことが何度もありました――――その圧倒的な暴力に打ちのめされて闇に閉ざされた心が、こんなにも破滅的に美しく、人を惹きつけずにいられないとは……息子の失踪という物語の始まりは、一応の終焉を迎えますが、その後の世界は、今まで生きてきた世界とはあまりに違うものです。何も知らなかった頃には戻れず、日常と非日常が薄皮一枚隔てて横たわる、そんな危うい世界の境界で、物語の終焉の向こうにあるものは何だろうと考えずにはいられません。本当に、つらい、物語でした。つらいことなど起こらなければいいのに、と心から思うのですが、しかしそれもまた、恐ろしく美しい人の一面なのだという事実は、消しようもありません。
2011年10月09日
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いまや「かわいい」という単語は、本来の意味も国境も越えて、世界で通じるそうで。「はにわからハローキティまで」という副題のもと、今号の特集では「かわいい」という言葉の含有するものについて論じておりまして、非常に興味深く読みました。はにわから仏像から、禅画、キャラクタ、エトセトラ、今までには「かわいい」ものとして評価されなかったものも、今や「かわいい」で一くくり。そんな「かわいい」とは果たしてなんであるのか、面白い考えがちらりほらり。中でも、精神科医の齋藤環氏の寄せた文章が面白かったですね。氏は「かわいさ」には少なくとも2種類あると考えているとのことで、それは表情豊かで共感しやすいディズニー的なかわいさと、表情に乏しく通常の意味での共感が難しいサンリオ的なかわいさに分かれる、と。そして、私の好きだった「たれぱんだ」も、今も好きな「あおくび大根」も、勿論ハローキティやマイメロディもサンリオ的なかわいさを持つわけですが、このかわいさというのは、一種のディスコミュニケーションに基づいている、と続けます。表情に乏しくて何を考えているか分からず、共感しづらい「閉じた」かわいさ。コミュニケーションに対して閉ざされているということが、どうしょうもない「かわいさ」という魅力を持ちうるということは、この時代の若い世代を包み込む「孤独」というものを考えると、なんだか立ち尽くしたように、考えに沈みこみそうです。自分としても、逆に「開かれている」キャラクタには大して愛着を感じません。唯一好きなのは、チョッパーぐらいですかね。ええ、チョッパー、非常にかわいいです。感情が閉ざされているものに感じる愛着。つまり、一方通行の愛着、ということですよね。これから「かわいい」はどこまで行くんでしょうね。
2011年10月04日
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