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どんな風に終わりを迎えるのかと思った2011年も、いつもどおりの今日で終わり、どんな風な始まりが訪れるのかと思った2012年も、いつもどおりの明日に迫っています。今年が、こんなにも心に重くのしかかるような1年になるとは、想像もしていませんでした。体調や精神状態の浮き沈みの波を管理しながら、同じだけれど微妙に違う、そんな1日1日をどうにか積み重ねていって、そうしてこの1年が終わるのだと、そう信じて疑っていなかったのですが、3月11日に震災が起こりました。こんなにも大きな喪失を、まざまざと見せ付けられることになろうとは思いもせず、自分の無力もちっぽけさも、今日の延長線上に当たり前に続くと疑わない明日の脆さも、同時に心にのしかかりました。それでも自分にできることは、様変わりした現実を、新たな日常として積み重ねることだけです。ひたすらに、毎日を送る。よいことも悪いことも起こるし、気分も浮いたり沈んだり、むしろいつまで自分がこのままでいられるのかという不安や、ネガティブな感情の方が多いには違いないのですけれども、それでも時間の流れにさからうことは誰にもできませんから、必ず訪れる明日を今日に変えていくしかない。そうしてできるならば、今日より少しは嬉しい、明日へ。光の方を向いているって、そんなに簡単なことじゃないんですよね。暗く深い海の底に沈んでいこうとしている自分を、どうにか海面にゆらりと輝く光の方へ導こうとしても、もがけばもがくほど人は沈んでいくものだし、頭を上げるよりも、下を向くほうが実は楽でもある。人間の体は浮くようにできてるのだし、力を抜いたら浮くかもしれないけれど、だけど、力を抜いていいのだろうか、何もしなくていいのだろうか、そんな想いから力を抜けずにもがいて、やっぱり苦しくなって、などということも、きっと人にはしょっちゅうなのではないでしょうか。そんな中で、できることがあまりに小さい、ちっぽけな『ひとり』であることを、肯定的に認める勇気があると、少し生きやすくなるのかもしれないな、と思ったりします。最近再読している『ワンピース』の主人公が、仲間を助け出そうとするときに、「おれは助けてもらわねえと生きていけない自信がある!」と大きな声で敵に言うのですが、このセリフの、かっこよさったらないですよね。この、人間と自分に対する圧倒的なまでの肯定力といいますか、助けてもらわなければ生きていけない、「ひと」というつながりの中でしか存在できない自分であることの歓びとか、助けてくれている人への信頼と愛情とか、もう、これ以上ないくらい感じました。今年なくなったアップルの元CEO、ジョブズのように「世界は変えられる」と信じて行動するのも、このうえなくすごい。でも、自分のちっぽけさやできることの少なさを否定せずに、つながりの中で日常を築き、悲しんだり苦しんだりしながらも、ひとの間にあることの歓びを感じられる毎日も、このうえなく魅力的ではないでしょうか。むしろ、そんな大勢の人たちの上に、この世界は成り立っているのでしょうから。これから震災という出来事のうえに、どんな世界が築かれていくのかはわかりませんが、やはり自分は、それを見ていたいなあ、と本心から思っているようです。できることは、日常をどうにか送ることだけの自分ですが、ひとまずは今年も元気でありました。広大なネットの世界の隅の隅、離人症という世界の中の私ではありますが、来年も、きっと元気です。この片隅の場所を訪れてくれたみなさんにも、光射す一年が訪れますように。2012年もまた、よろしくお願いします。
2011年12月31日
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これまでもこれからも同じだっていい 希望死せし時代の幸福前回の記事では、自分は希望うんぬんと考えてきたわりに、何か具体的なことを志向したり、実践してきたわけではなかった、ということを書きました。つまり、何か具体的なことを実現しよういう、いわゆる「希望」は私にはないわけです。でも、自分が幸福ではないかというと、そうではないわけで。『希望学』にもあるのですが、希望がない、という状態は、将来の見通しがきかないことだけでなく、将来がある程度予測可能な範囲内にしかない、と考えてしまう状態にもある、という状態も含まれると記してありました。そうして、つい先日の新聞に若者論が少し載っていたのですが、希望喪失時代を生きる若者は、結構な高い割合で現状に満足しているという、そんな調査結果が示されていました。つまり、経済成長が終わった停滞期にしか生きていない若者の多くが、これ以上がないんだろうな、と分かってしまっているわけです。まあ、全体的な流れとして、現状以上によくはならない。だから、今のままでいいのだ、と。勿論、若者を一くくりにして全てがそうだ、という乱暴なことを言うつもりはありませんし、夢の実現、という希望を持って進んでいる人もいることでしょう。でも、多くの人が、未来に対する想像力を失っている、ということはあるかと思います。想像力、と同時に、創造力、かもしれませんね。希望の不在に気づいたとき、ちょっともう、若者とはいえなくなった私ではありますが、でも、私が「希望」というものを持たない、未来に具体的な何かを描かない理由は、すごく似てるな、というか、そのものだな、と思ったんですよね。死に至る病は絶望であるとか、希望は最後に死ぬとか、希望が人の生に動力を与える最大のものなんだ、という意味のことは言われていますし、実際のところ、私も「希望を持つ」ということは、大きな力なんだ、と思っていました。でも、自分にいわゆる「希望」がないと気づいたとき、愕然としたと書きましたが、それはオブザーバーであったことにであって、「希望がない」ことそれ自体じゃないと思っています。何故ならば、希望がないとわかった今になっても、特段「希望を持とう」という強い想いもないからです。希望は変化を伴うものである以上、その変化を恐れているのか、これ以上はない、という諦めであるのか、それとも幸福であるのか。分からないけれど、私には何か現状を変えようとか、現状に加えようとか、そういう強い気持ちはありませんし、これでいいのだろう、と思っているのも事実。未来に向かって変化がないわけはなく、偶然にも必然にも、大きくも小さくも、様々なことが変わっていくでしょう。ただ、それは受け入れられる限りは、受け入れていこうという、くらいのスタンスしかない。未来を想像・創造する力、変化を信頼する力、ファンタジーやフィクションを現実に組み込んでいける力。希望を持つために必要な能力はたくさんあるのですけれど、ふと思うのは、「具体的な何かを実現しようとする行動」という希望とは違う、新たな希望が生まれているのでは? と思ったのですよ。それは、とにかく人とつながっていきたいと手を伸ばすこと。今、記事を書きながら思いついて、しっくりきました。絆への希求、人に対する純粋な好奇心、ふるえながらも伸ばされる手、笑うこと、泣くこと、怒ること、嘆くこと、喜ぶこと、楽しいこと、そんな人とのかかわりの中にあろうと、つながろうという願い。それそのものも、あるいは今ある希望なのでは? と思った次第でした。これからまた、変わっていく可能性は十分にあると思いますけども。
2011年12月23日
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ひとの世の空しさにに向けるまなざしに 愛をこめよう祈りに代えて『希望学』という本を最近読んでいると、何度かブログにも書きましたが、ふとですね、自分は大事なことを考えないままに、希望とか考えているな、と気づきました。非常に単純な質問です。自分は何を希望しているのか?そんなことも確り考えないままに、希望絶望うんぬんと、考えていた自分に驚きました。じゃあ、改めて考えてみた結果、どうなったのかというとですね、あれ? 自分、何かを志向して行動しているわけじゃないな、という結論でして。いや、正直愕然としました。確かに夢みたいなことを思ったりはしますけれども、『希望学』の中では、希望とは「具体的な何かを実現するための願い」ということで、それは実現に向けての何らかのアクションを引き起こしていくものだ、と定義されています。つまり、その実現に向けての願いと、そのための行動を引き起こす力を含めての、希望なわけです。そうなってくるとですね、今まで私が思っていたことは、希望ではないんです。私の生きるための動力は、ちょっと前までは惰性のようなものだったと思います。こう、すとん、と産み落とされた勢いで、自分から止まることもできず、という感じで。震災の時も書きましたが、今は「見ていたい」というのが一つの大きな動力になっています。人という存在を見ていたい、これから人の行く先を見ていたい、これから世界がどうなっていくのか見ていたい、そんな好奇心に限りなく近い感情。限りなく近い、というのは、それが私なりの人という存在に対する愛情を含んでいる点で、野次馬とは違ってありたいという、そんなつまらない、けれど自分には大事な見得です。でも、それって、目を開いているだけだよね、という。しかも、たぶん見たくないものは直視できない。あれ、自分は、こんなところでもオブザーバーじゃないか、と。離人症で世界から切り離されただけじゃなく、気持ちの面でもアウトサイダーになっている。ああ、なんてことだろう、と思いました。勿論、見るという行為は主体的な行為にもなりうるし、能動的に見るということも成立するとは思います。しかし、私は何かに干渉するという欲は殆どありません。自分自身に干渉されたくないから、他人にも干渉しない、といえば聞こえはいいですが、特定の個人に対する無関心の表れといえば、そうに違いなく。それでも人や社会を「知りたい」という欲求だけはあるのだから、不思議なもので。そういう意味では、私は目に映るものを受け入れるという、受動的な見方が中心なわけです。それは、何かを志向してまなざす、というのとはちょっと違う気がするんですよね。目的がないから。まなざすことだけが、そのまなざしの意味となっている。でも不思議なことに、希望がないらしい私が幸福じゃないかといえば、そうではないんです。ちょっと長くなりましたので、続きます。
2011年12月18日
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なにやら久しぶりに本のことを(といっても雑誌ですが)を記事にした気がします。最近残業続きなせいで、どうにも時間が思うようにいかず、というのは言い訳で、気づくとなんにもしないでだらだらしている時間が増えてしまっているんですよね。時間がない、ではなく、作るもんだ、という言葉をそのたび思い出しながら、だらだらしてしまう自分、いかんな、と思っております。まあ、でも、来年から仕切りなおそうと、なお自分に甘い次第です。と、いうわけで、芸術新潮11月号は、ヴェネツィアの特集でした。ヴェネツィアといえば、水の都ということで、水路に浮かぶゴンドラ、的なイメージはありましたが、美術や建築と言われると、あまりぴんときません。しかしながら、イタリア美術で有名なティツィアーノやティントレットは、ヴェネツィアで活躍した画家なのだと、今更ながらに知りました。個人的なせっかくの水の都、都市の風景をもう少し特集に織り交ぜてほしかったのですが、それならばガイドブックでも見ればいいわけで、わざわざ芸術新潮で特集することもないですもんね。歴史の流れに沿って、中世ヴェネツィアの絵画・建築が紹介された特集でした。美術館で実際の絵画を見たことは少ないながらありますが、やはり、教会という信仰と祈りの空間で見る中世西洋美術は、全く違ったダイナミックな強さがあるのだろうと、特集を見ながら、自分がその絵画と建築の一体となった空間に建つことを空想していました。特定の宗教の信仰がない私にとっても、その荘厳で神秘的な空間に立つことができたら、もう、ただただ何か絶対的な存在の力を信じたくなるに違いないと、そう思わせる空間がそこには完成しています。ただの空想でそのくらいの力を持つのだから、信仰の力が今よりもずっと強かった時代の人々には、そこは非常に大きな救いと信の場であったのでしょうね。だからこそあんなにも美しい、空間が成立したのでしょうから。国内の移動だけでも調子が悪くなったりするので、国外なんて夢のまた夢ですが、空想することは自由で限界は遠いわけです。眠る前やぼんやりしているとき、そういう場に立つ自分を想像するだけでも、意外と満足な自分がいたりもします。想像はどこまでも自由で、どこまでも力づけてくれるから、楽しい方向にきたえていくのは、とても嬉しいことですよね。その材料を、芸術新潮に限らず、色々な本がくれたりします。
2011年12月14日
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東日本大震災からはや9ヵ月、季節が3つ、過ぎていったのですね。私の住んでいる地域でも、浜の方は津波の被害にあいましたが、少しずつ片付けや復興は進み、港はもとの、とは言えないものの賑わいを取り戻し、観光地であった場所には、その場所を以前より美しくするためのプランが考えられています。私は働き出してから浜の近くには住んでいなかったので、津波の被害の本当を知りませんし、停電や買い物に少し不自由したぐらいです。そんな中で徐々にあの日の記憶が薄れていることに気がついて、はっとすることがあります。あの日感じた寒さも、停電が明けてテレビが映し出した惨状に対する、わけのわからない悲しみやら無力感やら憤りやら、様々に混じった感情も、これからどのように東北が進んでいくのかという絶望も希望も、いつの間にか、感じることはなく、考えることもなく、日々を送っている自分に気づきます。勿論、距離感というのは大事で、元気で普通に暮らしている人がいなければ社会が成り立たないというのもありますし、皆が全てをまるで自分のことのように悲しみを抱いているのは、好ましい状況ではないと思われます。でも、忘れてはいけないことも確かにあって、それはやっぱり、東北には、あの日を乗り越えてがんばってる人たちがいる。そういう事実認識だと個人的には思っています。東日本大震災の直後は、いつも被害の大きかった被災地のことを考えていましたが、その頻度は確実に減っていて、時々自分を戒めるように、忘れるなよ、と思います。別に、忘れないから、思い出すから、考えるから、被災地の何が変わるというわけではないんですけれども、何もできない代わりに、がんばってる人たちがいるのを忘れるな、と。そしてもう一つ言えば、震災からいままで、被災地にあるのは悲しみや絶望だけじゃなくて、日本全体を励ますような希望でもあるんだよ、ということも忘れないようにしよう、と。天秤で絶対量を比較できるとするならば、それは悲しみとか苦しみの総量に、希望というのは勝つことはできない、というのは確かに一つの事実なんですが、でも、もともと、生きていくということは、大抵の場合において、悩んだり苦しんだりしてる割合の方が多い気がするんですね。でもそれは必ずしもマイナスでしかないわけではなくて、希望喪失が言われている昨今ではありますけれども、そこを通り抜けていった先の光の輝きの強さといったらないわけです。だからもう少し、東北の各地で冬の寒さの中でも芽吹いている希望を、いろんなところで知っていきたいなあ、と思うのです。テレビを見ても、新聞を見ても、なかなか喪失とか復興の遅さとか、政治がうんぬんとか、なんだかその他ネガティブな情報が多いのですが、なんかもっともっと、人を元気付ける希望の芽は出てきてるよ、と思うのです。ネットはその辺の情報は、自分で探索できるのですけれどね。だからもういっそ希望新聞でも希望チャンネルでも、もう、絶望だって乗り越えていくさ、こんな風に歩いてる人がいるぞ、という、希望を照らして力にするくらいの、そんな極端な表現があってもいいし、教えてほしいなあ、と思います。絶望だけを語るよりも、そこを超えて行こうとする人たちの姿を見せることが、3月11日以降も震災は続いていて、でもがんばっている人たちがいて、応援したい、忘れない、ということにつながる気がするんですよね。まずは自分自身が考えることをやめないように、ここに書いてみました。絶望がないとはとてもいえないけれど、もっともっと、明るさはあるんだぞ、進んでいけるんだぞ、ということを、忘れずにいたいと思います。
2011年12月11日
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立ち尽くす己の無力を乗り越えて 明日へつながる希望の架け橋時々、呆れるぐらいに自分は無力だ、と思います。時々、呆れるぐらいに人は強いな、とも思います。そうして、そういう人という存在だからこそ、いとしさは募り、というわけなのかな、と。昔は、考え方がひねてましたので(今がひねていないとは言いませんが)、人間嫌いを口にしてはばかりませんでしたが、今はちょっと照れくさいですけども、とりあえず好きですよ、と言えるぐらいには大人になりました。思うに、随分他人というものを警戒していましたし、人というものを甘くみていたのだな、ということなんでしょう。青年期特有の傲慢さといいますか、斜に構えている感じといいますか、そういう自分は何様か? というところが確かにありました。そんなもんじゃないぞ、と今なら思います。単純に好きとか嫌いとか、そんな言葉を当てはめれられるような、そんな簡単なものじゃないぞ、と。無力さへの気づき、といいますか、そういうのがあるかないかって、きっととても大事なことだと思うんです。もう、こてんぱんになるぐらいに、自分にも世界にも負けちゃって、打ちひしがれて、うわ、もうだめだ、とかなりながらも、滞りありながらも毎日を送っていく。そうして見すえた先につながっていくものがあるとしたら、希望がありますよね。一方で、その無力さへの気づきがなければ、とてもひとりよがりになってしまうような。はいつくばっても進むとか、現実にうちのめされても歩くとか、勝っても負けても、とりあえず生きてゆくということの重さ。中島みゆきさんの歌に、重き荷を負いて、という曲があります。「重き荷を負いて 坂道を のぼりゆくもの ひとつ 重き荷は重く 坂道は 果てもなく 続くようだ がんばってから 死にたいな がんばってから 死にたいな 這い上がれ 這い上がれと 自分を呼びながら 呼びながら……」この曲を聴くまで、「がんばってから死にたい」なんて、考えたこともなかったです、私。なんならできるだけがんばらずに済むならそれにこしたことはない、くらいに思ってました。「がんばってから死にたい」と言える、かっこよさ、今なら素直に認められます。その「がんばる」は、何か目標に向かって全力を尽くす、ということだけじゃないと思うんですよ。「今、ここにあること」を選択し続ける。その精一杯の自分を、肯定する。そういうことも、含まれるんじゃないかなあ、と。なんだかとりとめもなくなってしまいましたね。明日は雪だそうです。日に日に寒くなっていく毎日、風邪などひかれないよう、あったかくしていきましょう。
2011年12月08日
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以前に読んだ『宇宙は本当にひとつなのか』があまりに面白かったので、読み終わる前に同じ著者の新書をと買った一冊でした。「素粒子物理学で解く宇宙の謎」という副題の通り、素粒子の種類や素粒子に働く力の法則などの素粒子物理学の基本を説明しながら、「宇宙はどう始まったのか」「私たちは何故存在するのか」「宇宙はこれからどうなるか」といった疑問に挑んでいく内容は、上述の1冊に比べて難解な印象を受けました。素粒子物理学という小さな小さな世界や、そこで働く力というものを、理屈で理解できないのは勿論なのですが、直感的にイメージするのも難しく。ちょーっと流し読み、的な部分も多々ありましたが、思ったよりも時間がかかりましたね。手の届かない、果てまでたどりつけないほどの大きな大きな宇宙ことを考えるのも、手につかめないどころか、目にすら見えない小さな小さな素粒子のことを考えるのも、そこへ向かおうとする意志する人間について考えるのも、果てしないことのように思えます。どういう手段をとって、自分を含んで横たわる世界と関わっていくか、というのは人によって千差万別でしょう。宇宙の理を解き明かすことによって、世界とのかかわりを深めていくのも、素粒子について研究することで、世界や人の成り立ちに思いを馳せるのも、そんな知りたがりの人間に興味を惹かれて、人間を理解しようと努めるのも、自分が置かれた世界とどうかかわっていくか、その一つの手段であるような気がします。新しい知識を得るということには報酬系も働くそうで、だからこそ自分も興味を持って、自分とは縁のない分野の本でも手を伸ばすのでしょうけど、ただそれだけでもないですよね、きっと。じゃあ、自分がどういう風な態度でこの世界とかかわりを持ちたいと思っているのか、どんな行動で、この世界とかかわっていきたいと思っているのか。それはまったくもって謎なんですけれども、たぶん「ことば」というものが、一つの大きなヒントなんだろうなあ、とは思います。人もまばらなインターネットのすみっこで、とりとめもなくことばを置いていく自分の行動は、ひとつのヒントかもしれませんね。今年もあっという間に12月。大分寒くなってきましたね。今年はもう風邪を引きましたので、ぶり返さないように気をつけます。
2011年12月04日
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