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君がいるただそれだけでオッケーさ 近きも遠きも元気がうれしつい先日、離人症歴8年目を迎えました。だから別にどう、というわけでもないのですけども。ここまでくれば、何年とか数えても仕方ないですしね。ただ、この8年で、自分は大分変わったなあ、と思うことが多くなりました。それが成長、と呼べるのであればいいのですが……まず第一に、いろんなことに大分寛容になったのかなと思います。それでもまだまだいらっとしちゃったりすることもあるんですけども、大体、「ま、いっか」と思えるようになったといいますか。白黒つけないグレーな場所を許容できるようになったのもあるかと思います。正しいとか間違いとかどうでもいいよね、と考えるようになりました。その他もう一つ、自分の中での大きな変化として、「生きてある」ということの絶対的な優位性を疑わなくなった、ということがあります。昔は、といいますか、恥ずかしながら思春期を過ぎても、生きる意味(この年で言うと恥ずかしいかも……)とか考えちゃってたわけです。それで、あるときふと、別に意味なんてなくてもいいんだよなあ、と思うようになり、だったら何が「生」を埋めるんだろ? と考えたところ、それは「生」自体だな、という結論に達したわけです。生きているということそのものが、意味の不在などものともせずに、何よりも絶対的で優位な力を持つ。それに勝るものはない。これは自分にとっては大きな発見でした。なんとなーく学校で「命が尊い」とか教えられているわけで、実際は知っていたはずです。だけどそれは、「へえ」ぐらいの感想しか持てない、言葉上の理解だったわけで、実感は伴わないんですね。単なるきれいごとや、空疎な言葉に見えてしまうわけです。何がきっかけかはわかりません。震災よりも前からじわじわ考えるようになっていましたし、自分でも気づかないうちにその考えを育てていたんでしょう。生きることが「尊い」かどうかと聞かれると、今も私にはわかりません。むしろ、尊かろうが、尊くなかろうが、正しかろうが、間違っていようが、良かろうが、悪かろうが、嬉しかろうが、悲しかろうが、とにかく「生きている」ということが、何よりも勝ることなんだろうなあ、と。その絶対的な優位性は、揺らがないだろうな、と思います。迷い、疑うときもあるだろうけれど、それは超然と彼岸ではなく此岸にあるのだと。これからまた、一年が始まります。来年もまた、考え方は変化しているんでしょうか。それもまた、楽しみではあります。
2011年06月30日
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開館70周年記念大特集 現地特別取材ワシントン・ナショナル・ギャラリーはなぜアメリカNo.1の美術館なのか6月号は「中野京子が読み解く印象派の時代」という副題のついた、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの特集でした。国立新美術館で印象派・ポスト印象派のコレクションを中心とした、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展が行われるそうなので、それのタイアップ、みたいな形なんですかね。アメリカといえばメトロポリタン美術館、程度で(勿論、行ったことはありません)、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに関してはなんとなく名前を聞いた程度でした。しかし、印象派周辺の作品だけでなく、ダ・ヴィンチやフェルメール、ルーベンスやラファエロなどなどから現代美術にたいるまで、ヨーロッパから離れた地へよくぞここまで幅広く集めたな、さすがアメリカ、というコレクションのラインナップです。その中の19世紀付近の巨匠と呼ばれる人たちの作品83点が来日ということで、これは特集をくまねば、というのも納得ですね。遠出ができない私には羨ましい限りです。印象派付近の作品は、ゴッホを除いてそんなに好きというわけではないのですが、絵画に宿る意志というか、熱情というか、意味というか、そういうものに惹かれる私には当然のことなんですよね。それまで神話や宗教を題材として描かれることの殆どだった絵画を、意味というものから切り離したのが印象派の絵画だったのですから。ですから、色彩や明るさは見ていて爽やかなものが多いですが、執念のような情熱といいますか、カンバスに向かわざるをえなかった意志を強く感じる、そういった作品が好きな私には「きれいだな」の他の感慨を持てないのかもしれません。その明るい美しさがあれば、十分なんでしょうけどね。意味あるものを意味から切り離すというのは、極から極へと価値観を展開していくに等しい、大きな変化を必要とするのですから。遠出はあまりすることはできない私ですが(見知らぬ土地では離人感が強くなるので)、近々県内で、それとは別の印象派絵画の展覧会が催されます。すでに前売り券は購入済み。実物を見ることで印象派に対する印象もまた変化するかもしれませんね。楽しみです。
2011年06月26日
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最近あまり小説は読まなくなりましたが、川上弘美さんの文庫の新刊を見つけて、久しぶりに小説を読みました。結果、大正解でした。現代の小説家による『純文学』を、初めて読んだ気がします。<あらすじ>12年前に夫の礼は失踪した。「真鶴」という言葉を日記に残して。京は、母親、一人娘の百と三人で暮らしを営む。不在の夫に思いをはせつつ逢瀬を重ねている京は何かに惹かれるように、東京と真鶴の間を往復するのだった。京についてくる見えない女は何を伝えようとしているのか。遥かな視線の物語。今までの川上さんの作品とは文体も違っていますが、それでも川上さんらしさといいますか、その魅力を失わず物語の世界に引き込まれます。しかしその世界は、非常に重い。重くて、苦しくて、粘着質です。一応主人公の女性にだけ見える女や聞こえる声は、解説にもあるように幻覚・幻聴と解釈することもできるのですが、その現実と非現実、彼岸と此岸の混沌と入り混じった世界を、よくぞここまで破綻なく描けるものだと、関心しきりでした。夫の失踪という大きな喪失から、東京と真鶴、つまり彼岸と此岸を往復しながら、再生していく主人公の精神の描き方は、すばらしいの一言ですね。最近の小説を読んでも、良質の「エンターテイメント」だと思うことはあっても、すばらしい「文学」だなと思うことがなかったので、川上弘美さんは前から好きでしたけれど、ここまで物語ってしまえるんだと、怖さにも似た驚きを感じました。一文一文はすっきりと短いのに、その言葉はずしん、と響きます。言葉や、人間の肉体、その一挙一動がリアルに想像できます。世界が終わる直前の、頽廃した空気感と言うのでしょうか、物語の世界には主人公の世界がいつ壊れてもおかしくないバランス感覚で綴られています。どこかおかしい。このまま進んでいいのだろうか。進んでみたい、でももう、戻れない気もする。そんな世界です。川上さんの作品の中で何が一番好きかと聞かれれば、『神様』や『センセイの鞄』などのもっと淡い空気感の中にある作品が好きです。しかしながら、どれが一番すばらしいかと聞かれれば、間違いなくこの『真鶴』でしょう。ここまで到達してしまったのなら、次はどこへ行くんでしょうね。非常に興味深いです。
2011年06月22日
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「不信」について、今日で最後です。前回までは、孤独と「不信」について書いてきました。人間が孤独なのは、赤ん坊のときの満たされた世界から、自己というものが出来上がっていく過程で切り離されることに1つの理由があると思います。そうしてその大きな喪失、心に空いた穴を、新たな「信」で埋めていくことが必要なのに、今の私たちはその「信」に値するもの、つまり寄る辺を見つけられない。それが私の感じる「不信」の構造でした。孤独はひとである以上、いたしかたない宿命のようなものです。けれど、「不信」に覆われた世界は、生きにくいし、何より哀しい。それならば、この「不信」を「信」にまで転回するような新たな寄る辺が必要になります。何をもってすれば、心を寒くする孤独の穴を埋めることができるのだろうかと、ずっとずっと考えてきました。そうしてやっと、最近、自分の中での答えが出たんですね。考えてみれば、非常に単純で。何故それに気がつかなかったんだろうと思うぐらいです。そんなことかよ、と思われるような答えに、私は気づいていなかったんですね。この「不信」の構造が、ひとの精神の成熟の過程にあるとしたら、とふと考えました。自分の外側に「信」を求める状態から、その「信」を信じられない状態になることが、成熟の過程の中にあるとしたら、と考えたんですね。そうしたら、「不信」の極まで来た今、信じられるものはもう、外側に作り上げたもの、あったものではなく、「ひと」そのものでしかないんですね。「不信」を「信」までひっぱっていくことができるのは、「ひとへの信頼」です。こんな本当に単純な答えを得るために、私はどれほど時間をかけたのでしょうか。神様というひとの世界の外側に頼るのではなく、王様や法という象徴(これもある意味では神様みたいなものですね)に頼るでもなく、家族や憧れの人物、やがて巣立たねばならない場所に行動規範を求めるでもなく。勿論、その「信」を否定するのではありません。もしもそこで「信」が得られるのであれば、それでいいのだと思います。大事にしたいものは大事にして、信じるものは信じることが確実に力になりますから。今は、その寄る辺を失ってしまったときの「不信」の行き着く先です。その「不信」を埋めるのは、「ひと」という存在を肯定する「信」なのだと思います。それは、人間の性善を信じるというのではなく、ひとも悪くないな、という「信」の形です。人間のどうしょうもなさも含めて、「でも、悪くないよな」という肯定する。象徴的な話がありまして、アリは巣に列をなしてエサを運びますが、このときにですね、働かずにぷらぷらしているアリも、1~2割程度いるそうです。だったらこの働かないアリ達を排除すれば、全員が働き者になるのではと思うのですが、実際、実験で排除すると、それまで働いていたアリの1~2割が今度は遊びだすそうです。つまりその働かないアリは、アリの世界の中にどうしても必要なんですね。アリでさえそうなのだから、人間はもっと複雑ですし、いい人もいれば悪い人もいます。いい人の中にもこっそりとどうしょうもない部分はあるでしょうし、悪い人の中にも「あれ?」と思うようないい部分はあったりします。つまり、人間のどこか一部分を取り出して、いいとか悪いとか、そういうことではなく、自分も、他人も、まあしょうもないところもあるけど、いいんじゃないかなという、能天気なまでの肯定力、と言うと、いくらか近づくでしょうか。「不信」の極までたどりついた日本人だからこそ、ここから「信」へ転回できる。なんとも逆説的ですが、興味深いことでもあります。その1つの形を、被災地の人々の姿に見出すことができました。やっぱり悪いことをする人もいたし、今も窃盗や詐欺もあって心も暗くなりますが、それでも圧倒的に多くの人たちが、それぞれの悲しみや苦しみを胸に秘め、自分のことだけでなく周囲の人を思い、そしてそれよりも広い範囲の人間を信じて、自分にできること、生きることを模索しながら、同じ時代を生きています。これは一つの希望です。「不信」から「信」へとたどりつく契機となると、まだまだ分かりませんが、ひとまず、今の自分にわかる目的地はそこなのかなあと思います。本当に長くなりましたが、この場を借りて自分の考えをまとめさせてもらいました。これからも希望の側に立って、見ていたいと思います。
2011年06月19日
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「不信」のゆくえ、3回目です。今回も長くなる可能性が高いので、お暇なときにどうぞ。前回は、孤独について書きました。ひとの孤独はどうして起こりうるのか、というところですね。それは、人間発達の観点から1つの答えを得ることができます。人間は神経学的に非常に未熟な状態で生まれて、そしてそれは運動だけではなく、世界を知覚する能力も未熟だということです。そうなると赤ん坊は、自他の境界が曖昧で、特に母親と一体化したような世界の中にいることになります。無条件に愛され、肯定され、与えられる、満たされた世界。しかしながら、発達の過程で自己が確立してきますと、自分と外界の区別がつき、その満たされた世界からは、ひとりきり、切り離されてしまうんですね。この、大きな大きな喪失。その心にあいた穴を新たな「信」で埋めていくのが、生きてゆくということなのかもしれないと、私は思っています。ここまでが前回のお話です。詳しくは前の記事にあります。今回は、その「信」に値するものについて、です。ひとが孤独であるのは、もうその存在の特性といいますか、生きる前提といいますか、そういうものだと書きました。たぶん、ずっとずっと昔から、人間って、そう変わってないと思うんですね。特に、言語ができてからは、千年前だろうが二千年前だろうが、大体おんなじく喜んだり悲しんだり苦しんだりしてるんだと思います。ですから、どの時代に生まれようとも、ひとが孤独なのは、今に始まったことではない。満たされていた世界を失った後には、それを埋める何かがなければ不安でつらいでしょう。私はそれを「信」と書きましたが、個人的に「信」ということばがしっくりきただけで、何でもいいんだと思います。「愛」でも「希望」でも「正義」でも、好きな言葉で。他の時代には、あるいは、他の国にはその「信」に値するものが、何かしらはあった、あるいは与えられていた。だから、やってこれた。けれど、今の日本のこれからを担う人たちの間には、その「信」に値するものがない。日本を覆う「不信」の時代の空気は、そういうことなんじゃないかと思います。勿論、全員じゃないです。でも、多くの人が「不信」であるのは感じます。信仰を持たない人間は神を失い、強い王様を持たない人間は忠誠を失い、規律に疑いを抱いた人間は正義を失い、求心力が弱まった家族は絆を失い、未来は希望を失った。神を失い、天皇も人となり、規律は形骸化し、家族の形は変わり、「どうせがんばっても」との諦めが未来を閉ざし、この場所に絶対的な「信」はありません。それがちょうど、私たち以降の世代なのではないでしょうか。厭世的で、閉塞した空気が漂い、ひとはもはや未来をポジティブに志向できない。そんな世界に見えたから、いつしか私は私の今いる場所が、寄る辺のない時代だなあ、と思うようになっていました。そのためか、私たちの世代とそれより若い人たちは、意識的に、あるいは無意識的に、心にぽっかり開いた「不信」の穴を埋めようと、精一杯にもがいているような気がします。もしくは、これ以上を失わないように、水に浮かんだ細いわらをつかんでいるような。他人との距離感がわからなくて、近づきすぎては傷つけあったり、自分をわかりやすく装うことで、傷つかぬよう笑ってみたり、自分の持ち物を落とさなくて済むように、他人の荷物をよけてみたり。ひとの心とひとの心との摩擦熱で、心の世界だって温暖化しているのではと思えるほど。この状態を解決するには、新たな寄る辺を見つけるしかないのでしょう。何をすればこの「不信」を「信」にまで持っていくことができるのかずっと考えていました。その答えの一つが、やっと出たような気がしています。そうして力及ばず、またまた長くなってしまいました。次回もこんな感じかもしれませんね。お暇なときにどうぞです。
2011年06月16日
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話題を引っ張った手前、ちょっとこまめに更新をば。前回は、頼りとすべき「信」を失った、この寄る辺のない孤独の時代が、どこへ向かっていくのだろうと考え始めたところまでを書きました。そう考えているうちに、なんでこんなにも「不信」に支配された孤独がありうるのだろう、そもそも、何故人はこんなに孤独なんだろう、というところを考えるようになりました。今日はその孤独の部分についてつらつら書いていきます。たぶん、長くなりますので、あしからず。お暇なときにどうぞ。人が孤独である、というのは、前提条件のようなものじゃないかなと思います。それを忘れていられるか、埋めるか、苦しむか、共に生きるか、それだけの違いで、そもそも人は孤独なんだよ、そういうものなんだよ、ということなんじゃないか、と。それは、人間の発達の過程をたどれば、一つの理由を得ることができます。人間は、神経学的にとても未熟な状態で生まれてきます。運動一つとってみても、殆どの動物が生まれてからわずかな時間で立ち、歩くのに対し、人間は首すらすわっていないような状態で生まれてきます。歩き始めるのはやっと一年後。自分で食事を取るのはもっともっと先。誰かの庇護を必要とする時間は、他の動物では考えられないほどに長いです。神経学的に未熟であるということが、どういうことかといいますと、動けないだけでなく、視覚や、聴覚や、触覚や、そういった様々な、世界を認識し、理解するための能力が未発達だということです。つまり、自分の身体感覚、どこからどこまでが自分の体なのか、どこからが外界なのか、自他の境界がひどく曖昧になっているんですね。それならば、赤ん坊の世界がどのようになっているかといいますと、自分も他人も周りにあるものも、おそらく全てが渾然一体となっている世界です。その中でも特に、母親、自分の欲求を満たしてくれる存在と一体化しているような状態です。赤ん坊が何も報いなくとも、自分をあたたかく包み込み、満たしてくれる存在。泣いて呼べば、すぐに自分の望みをかなえてくれる存在。その存在と一体となった世界にあることの充足感を、想像できるでしょうか?私たちにかつて与えられていた世界、けれど、今はなくなってしまった世界。ユートピアという言葉は「nowhere」、つまり、どこにも無い場所ということですが、存在するとすれば、そこにあったのかもしれません。母親の温もりに包まれて、自分の存在を無条件に肯定され、愛された記憶が、この世界を信頼する土台を作っていくことになります。ですが、その世界にいられるのは、本当に短い時間なんですね。やがて赤ん坊は自らの手足を動かし、寝返り、這い回り、座って、立って、不器用に自分の体で外の世界に働きかけているうちに、気づきます。自分の体が、周囲の存在とは別の、1個の独立したものであることを。自分と世界、自分と他者、自分と母親が、別々のものであるということを。このときの喪失感といったら、この上ないのではないでしょうか。勿論、私たちにこの記憶はありませんし、世界ががらりと変わるというようなやり方で気がつくのではないかもしれません。しかしながら、自分がひとりの独立した生き物であるのだと気がつくことは、それまでまじりあってとけあっていることで満ち足りていた世界から、自分の形を切り離されることでもあります。その喪失が、つまり孤独の契機なのではないでしょうか。『ひとりひとりはひとつひとつの閉じたひふに包まれていて ぼくのうけた傷にはぼくの血があふれる きみのじゃない だからわかりあえるなんて思っていない』片山令子さんの『ブリキの音符』という絵本の中の文章です。そう考えると、人の一生というのは、このときに失ってしまった何かのために、心にぽっかりとあいてしまった空間を、新たな「信」で埋めていく過程なのだ、と、そう考えることもできます。やはり、宣言どおり、長くなってしまいましたね。ここでいったん区切ります。次は、今まで「信」に値していたもの、について、書きたいと思います。
2011年06月14日
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今月が終わると、私が離人症になってから、丸々8年が経つことになります。二年前は病気が悪化して大変な一年でしたが、この一年は震災がありました。それでもこの8年を、なんとか乗り切ってこれたことで、物事の考え方も、感じ方も、本当に変化したなと感じています。それで、8年記念、というわけではないですが、最近何年も前から考えていたことに1つの結論を得たので、それについてつらつらと。タイトルにその1とあるように、ちょっと長くなりそうなので、何回かにわけて書きます。たぶん、3、4回分ぐらいで終わるでしょうか。前回、どうでもいいことを含めて長くなりすぎたので……普段の暮らしの中でも、色々考えるわけですが、私の考え方は、突き詰めるというよりは、わりと散らかしてほったらかす考え方です。すぐには結論が出ないことを考えているということもありますし、わからなければわからないまま寝かせておいて、折に触れて考えるというところでしょうか。それで、思いついてはいくつも頭のどこかしらにほうっておくわけです。いつか答えが出るかも、という希望的観測のもと、気長に考えているんですね。その中の1つに、「こどく」というものがあります。人が向き合わざるをえないものの、1つですね。いつからか今というのが、寄る辺のない、そんな孤独な時代だなと思うようになりました。それは私の中で、世界に対する「信」と「不信」というものを考えるきっかけになり、この圧倒的なまでの「不信」の時代、寄る辺のない孤独の時代が、この後一体どこへつながっていくのだろうか、と考えるようになります。「不信のゆくえ」と題名にあるように、その答えの1つが今、出たような気がしています。離人症であるということは、この世界から切り離され、疎遠になることでもあります。そんな状態で8年間を、ふらふらしながらも何とか過ごしてきた人間が出した、孤独な世界での「信」と「不信」の考えを書いていきたいと思います。とはいっても、そんなにたいしたことではありませんし、長いです。前置きの時点で、もうすでに長いような気もしています。ですので、ここで次回に続きます。本題にすら入れず……まずは、自分が世界への「信」と「不信」ということを考えるきっかけになった、「こどく」について書くことになると思います。何でこんなにも人は「こどく」なのだろう、というところから一連の考えは始まりました。それは、人間の発達を考えれば、いたしかたないわけで……というようなところから、次回は始まります。引っ張るほど面白いわけではなく(そもそも、もとが面白い場所ではないですし)、ただただ長いだけですので、次回もお暇なときにどうぞです。
2011年06月12日
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長かったスーパーナチュラルシリーズも、やっと終わり……と思ったのに、なんだか、まだ続編がありそうな気配ですね……一応シーズン5で終わりということでしたし、確かにストーリー的に決着もついたんですけども、あ、ひっぱちゃいますか、やっぱり、という終わり方でした。ストーリー的には最初は兄弟で幽霊や悪魔を退治していくという、非常に単純明快なものだったのですが、途中からなぜかスケールが大きくなり始め、天使と悪魔との戦い、ミカエルとルシファーの対決に巻き込まれてしまいます。物語自体が好きというわけではありませんが、この兄弟の関係性が好きでして。大抵、私が興味を持つドラマは、ストーリーそのものよりも、登場人物同士の関わり方の方に惹かれていることが多いです。同じく幽霊や悪魔と戦っていた父親を尊敬し同じ道を歩もうとした兄と、普通の生活を望んで父親に反発し、家族のもとを離れた弟。その二人が父親の失踪をきっかけに、この世ならざるものを退治する旅に出ます。性格的にも正反対で、兄は不良タイプ、弟は優等生タイプです。その二人が時にはぶつかり合いながらも協力して旅は続いていき、やがて天使と悪魔との最終戦争に巻き込まれてしまうのですが。なんだかつれつれとあらすじを書いていましたが、書けば書くほど、あんまり興味をそそられないかも、と気づき始めています。というのも、結局最後まで見たのは、お兄ちゃん役の俳優さんが好きだからという、至極単純な理由だからなんでしょうね。いえ、本当に格好いいんです。役柄的にも、本人さん的にも。物語がつまらないわけではなく、飽きたりとかもしなかったんですけども、自分がそんなに惹かれていないタイプのストーリーについて感想を書こうとしても、やっぱり無理があったようです。当たり前ですけども。明日は週の中休み。最近、久しぶりにドリームキャストを出して(懐かしすぎるますね)、サクラ大戦の3をやっています。なんだか、久しぶりに遊びたくなりまして。私の中で、サクラ大戦3は、とにかく楽しく笑えるゲームなんですよね。たぶん、本来は恋愛物なんでしょうが、サクラ大戦のキャラクターというのは、本当に個性がよく描かれているので、あんまりそういう感じがしないんですよね。ストーリーはベタなんですけども、登場人物の掛け合いが面白くて、気持ちが沈んだ時にやると楽しくなるな、と思いました。個人的には10年ぶりぐらいに出したドリームキャストが、まだ動いたことが一番感動でしたけども。後は、普通に読書、時々考え事。という感じでしょうか。すっかり日常に戻っている自分がいますが、まだあの震災から3ヵ月なんですよね。その間に、人々の時間がただ立ち止まっていたわけではなく、線路がつながって新幹線が復旧していたり、電気が少しずつ灯り始めたり、ガレキの数が減っていったり、原発の建屋内に入れるようになったり、復興ファンドが立ち上がったり、たくさんのNPOやボランティアが現地の力になったり。ぜーんぶ、無名の人、ひとりひとりのがんばりなんだと思うと、本当に頭が下がります。名前を知らない人々が、時には自分の無力を嘆きながらも、毎日毎日自分のできることを着実に積み重ねていって、それが色々な形になって名前も知らない人を助けている。このすごみを、忘れてはいけないなあと思います。それが希望の側へと、私たちを導いてくれる光となるのでしょうから。
2011年06月07日
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知られざる超大作の扉が今ひらく! 五百羅漢の絵師 狩野一信 全100幅一挙掲載!ということで、芸術新潮5月号の特集は、江戸時代の絵師狩野一信でした。狩野一信と聞いても、そういえば歴史の教科書に狩野派とかあったなあ、でも狩野一信は聞いたことがないなあ、くらいで、初めてその作品を知ったことになります。そもそも、私はこの辺の日本画があまり好きではなく、伊藤若冲とか曽我蕭白といった近年注目度が急上昇した絵師たちも、芸術新潮に特集でも組まれていなければ見ることもありません。なんといいますか、ちょっとグロテスクに感じるんですよね。見ても、ただただそのパワーに圧倒されはするのですが、もっと知りたいな、見たいな、という特別な興味を誘われることもなく来ました。ですので、今回の狩野一信特集も、さらりと読んで終わりかな、と思っていたのですが……羅漢とは、入滅するお釈迦様から仏法の護持を任された弟子たちだそうで、江戸時代にその信仰の大衆化が進んだそうです。狩野一信の「五百羅漢図」は、その名のとおり、500人の羅漢さんを、1幅5人(1部4人や6人の場合もありますが)ずつ100幅に描いたものです。羅漢さん達の日常生活?的なものから、修行や人々の救済まで、縦約172センチ、横約85センチの画面に詳細に描き出したその作品は、もう、情熱を通り越して執念の一言ですね。100幅までには10年の歳月を要した上に、作成途中で狩野一信は心身の不調をきたし、残り4幅を残して亡くなってしまいますので、一部には弟子の手も入っているそうです。それでも、いきいきと生命を吹き込まれた500人の羅漢さんたちと、(いきいきしすぎて、失礼ながら、そこらへんのおじさんみたいな羅漢さんも)従者や救済を求める人間や動物、地獄の住人や架空の生き物まで、確かな存在感を持って掛け軸の中に生きているようでした。これだけの画面を、緻密に色鮮やかに、様々な技法を駆使して描き続けたその執念の方に、感動してしまいました。日本画は図版ではなく、ある空間の中で鑑賞しなければ、その奥行きとか作品の持つ力は伝わらないといいますが、(勿論、どの作品でも等身大の持つ力、というのはあるとは思いますが)この「五百羅漢図」の持つエネルギーは、紙面からあふれ出しているみたいでした。これは是非、一度は本物を見てみたいですね。
2011年06月05日
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