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昨晩の事covid-19の感染者が出ていない自治体に住む息子から「マスク送ってください」のライン我家は一切買いだめをしていない事は今も、これからも同じだ在庫を分けて送るにしても、当該自治体、親方から公式発表の気配がないけれどどれだけタイムリーに公表されるのか対応が楽しみだ以前「温い」と書いたけれど、新幹線は時間約300㌔、飛行機は1000㌔で移動できる自転車並みの情報公開だけは避けてほしいものありのまま、真実をタイムリーに公表することを一番求めている情報なくして、自己防衛もとれまい感染する事より、知らさられない事の方が何より恐ろしい日頃から信じられる振舞いをしてきただろうか???
2020.02.29
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名古屋市北区大杉1白壁の秋葉宮から名鉄瀬戸線尼ケ坂駅に向かう途中、高架沿いを走る道端に赤い幟が立っています。尼ケ坂駅前から西を注視すると見えるかもしれません、尼ケ坂駅の南の交差点から歩いて2~3分程です。尼ヶ坂延命地蔵菩薩を安置する小さな地蔵堂です。堂前に「尼ケ坂延命地蔵菩薩」の複数の奉納幟が立てられています。古くからここに暮らす地元の方々から、今も慕われ、地域のコミュニケーションの場として欠かせないもの、幟の数はそれを物語っています。堂の左に手水鉢が置かれています、側面に寄進者伊藤萬蔵(1833~1927)と彫られているようです。某神社を訪れた際、地元の老人から「ここの狛犬は伊藤萬蔵さんが奉納してくれたもの・・・・・」と教えられた事がある、その方の名をここで改めて知る事となった。この方、名古屋城下塩町で「平野屋」の屋号で開業し財を成した方で、狛犬や灯篭など多くの寺社へ寄進された方だという。荒廃する小さな社を見かけることも多い、現代の伊藤萬蔵さんはいないものだろうか。開け放たれた堂の扉から中に入らせてもらいます。最初に目に入るのは壁一面に安置された菩薩や地蔵さん。赤い前掛けに帽子を被った像や座布団の上に座るものなど様々な像が安置されています。手前に目をやると、天井から吊るされた多くの奉納提灯と赤い幕が吊られています。奉納提灯は「南無延命地蔵大菩薩」小さく、狭いお堂に多くの方がお参りに訪れ、崇拝されている事が奉納提灯の数からも伝わってきます。中央の像が「延命地蔵大菩薩」どこまでも穏やかなその表情は、眺めているこちらの気持ちも妙に穏やかにしてくれます。騒がしいいこの頃、こんな時こそ穏やかで冷静な振舞いをすべきと示しているかのようです。地蔵菩薩は安産、健康、長寿、智恵、豊作、求財などにのご利益があると云われていて、壁に掛けられた手書きの解説に「みなさんのお地蔵さま」と書かれているように、地域の身近な仏様なのかもしれません。中央の座像は「光明菩薩地蔵」延命地蔵菩薩の左側のお地蔵さまは前掛けはなく、しっかりと彫られた像の全身がよく見られます。静かに目を閉じ穏かな表情をしています。延命地蔵菩薩の右側には五鈷杵を持つ弘法大師像が安置されています。これらの像の年代や、いつからここに安置されているのか、諸事情でここに纏められたものなのか詳細は分かりません。伊藤萬蔵さんの生没年から、寄進したのが大正頃として、その頃が堂の建立時期なのか?このあたりの事は管理されている大杉の普光寺で尋ねると分かるのかもしれません。見るものに何かを教えてくれるお地蔵さま達に、新しとか、古いとかは必要ないのかもしれません。おやじが地蔵さまから感じたのは「周りに惑わされることなく、冷静に振舞いなさい」です。尼ケ坂「延命地蔵菩薩」住所 / 名古屋市北区大杉1-21-7公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」下車、西に2~3分
2020.02.28
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首塚社から5分程西に向かいます、既にここは東区となります。この近隣は同じ区分けの中に北区と東区が複雑に入り混じっています。一筋先には交通量の多い国道41号線、その上に見上げれば首が痛くなるような所を名古屋高速1号線が南北に延びています。上街道を清水口方向に進むと、民家と駐車場の間に瓦葺の小さな堂が見えてくるのが東区白壁3の「秋葉宮」。手前の道筋は昔の上街道、街道脇の秋葉さんということです。上(うえ)街道は江戸時代に尾張藩が名古屋城下東片端から小牧城、犬山城を経て中山道伏見宿を結ぶ目的で作った街道です。現在の上街道は車の通りは意外に少なく、人通りも多くはない。一本西に国道41号線がありながら、落ち着いた住宅地の趣がある。「秋葉宮」正面全景。堂の前面は玉垣を囲われ、境内に一対の灯篭があるだけの簡素な外観。近代工法の住宅街にあって瓦葺の堂は目立つ存在かも知れません。隣の駐車場から前斜景。向拝が奢られた入母屋造りの様です。駐車場との区切がないので、駐車場はひょっとすると、この秋葉宮の敷地だったのかもしれません。堂に掲げられた扁額に「秋葉宮」とある。上街道沿いに集落ができ、住居が密集すれば自ずと火伏の神が祀られることになる。堂内全景。吊るされた提灯から察するに、左は「津嶋神社」、中央の金色の飾り金具満載の社が「秋葉神宮」、右が「青面金剛明王」の社のようで、今も庚申講が受け継がれているのかな。拝所から境内の眺め。手前の灯篭は大正初期のもの、庚申塔も探して見るも見当たりませんでした。お世辞にも広いとは言えないこぢんまりとした境内ですが、さすがシラカベーゼの街だけあって、綺麗に手入れが行き届き、訪れて気持ちがいい。願わくば謂れでも掲げられていれば有難いものです。技術の粋を集めて作られた高速、その傍らに羽団扇の紋が施された鬼瓦が印象的な白壁の秋葉宮です。さてと、ここから尼ケ坂駅方向に戻り、もう一カ所訪れる事にします。「秋葉宮」創建 / 不明祭神 / 不明(津嶋社、秋葉社、青面金剛明王)住所 / 名古屋市東区白壁3丁目5-17公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「清水」駅から南に徒歩5分程
2020.02.27
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守山区小幡周辺の路地には複数の小さな赤い社が祀られています。今日はその内の一つ、守山区小幡常燈にある赤い社を訪れます。三連休の最終日の夕方、さぞかし道は行き交う車が多いかと思っていたけれど意外に車も歩行者も少ない。世の中に広まりを見せる「COVID-19」の影響だろうか。基幹バス汁谷で降車、矢田川に架かる千代田橋を渡り、城下交差点を右に折れ、城下東の交差点で左に曲がり、緩やかな上り坂をひたすら「瀬戸電」方向に歩く。基幹バスを降りてから30分程の道中です。電車利用は「瀬戸電」小幡から線路沿いに歩けば近い。やがて正面に「瀬戸電」の歩行者用の踏切が見えてきます、そして交差点の右角に目をやると赤い覆い屋が建っています。常燈の赤い社に到着です。ここは目と鼻の先に「瀬戸電」が東西に走り、その先には瀬戸街道が東西に延びています。その昔の瀬戸街道は名古屋城から現在の尾張旭市を経由し、瀬戸市へ続き江戸時代中期、あゆち潟周辺で作られた塩を遠く信州まで運ぶ交易の道として古くから街道沿いには集落が点在し、寺社も建てられた。そんな土地柄故に地名には過去の名残が残り、この辺りの「城下」も何やらイメージさせるものがある。角地の奥まった場所に石垣が積まれ、その上に赤い覆い屋が建っています、建っているというよりは乗せられているといった方がいいのかもしれません。この覆い屋のある地名は常燈10。守山区大字小幡の一部と字常燈、字宮ノ腰の一部を纏め1994年に現在の小幡常燈。宮ノ越やら常燈やら想像が膨らむ地名の多い事、地名は正に過去のその地を表すもの。常燈の赤い社。石垣を高く積み、その上を台座にして、瓦で葺かれた切り妻の覆い屋を乗せた印象を受ける。夕陽を受けて赤が一段と浮き立っています。正面以外は重い屋根を支える四本の足に玉垣が付けられ、強度を上げるのに一役買っているようにも見えます。石垣に使われている石も個性的な石が使われ、赤い山土で盛られたその光景は、住民のハンドメイドの香りが漂います。板宮造の小さな社。扉は開け開かれ中のお札「津島神社神札」が良く見え、この社の素性がよく分かる。社の下に石、なんだろう? 重石代わりだろうか?質素で面白みのない社と片付ける事なかれ。日々お参りに見える方がいるようで、心ばかりの賽銭も置かれています。お賽銭はいくらが良いとか言われる向きもありますが、米や酒でもいいだろうし、札でもいい。要は気持ち、金額で忖度するどこぞの輩とは違います。おやじも僅かばかりの賽銭を上げお詣りさせて頂きました。この天王社(津島社)について、どこからか遷座されたものなのか、もとからここに祀られていたものかなど情報は少ない。こんな時に参拝に訪れる方に遭えると意外な話を聞くこともできるのですが賽銭の主は現れなかった。夕陽が差し込むこの通りにあって、交差点角地で日当たり良好の好物件。そこに祀られた赤い天王社は、今も身近な「天王さん」として崇拝されているようです。常燈の天王社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市守山区小幡常燈10公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「小幡」下車西に徒歩10分程おやじのルート / 基幹バス基幹2「汁谷」降車千代田橋経由北へ徒歩30分天王社から瀬戸電に向かってみました。瀬戸電は名古屋の中心部栄と瀬戸を繋ぐ、約20kmの名鉄(名古屋鉄道)瀬戸線の事で、前身の瀬戸電気鉄道の略称。おやじには名鉄瀬戸線よりは「瀬戸電」の方が馴染みがあります。夕陽に輝く線路の先から赤い電車が走って来たら、子供のころから見慣れた光景となるのですが。矢田川の川面に写る赤い電車も今やステンレス製の4000系と呼ばれるスマートな車両が走っています、いつまでも「瀬戸電」では失礼だね。帰りはこれに乗って帰ろう。2020/2/24
2020.02.26
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尾張高野山宗総本山 大慈山 岩屋寺伊勢湾岸沿いに知多半島先端の師崎に続く国道247号線を山海交差点で左折、そこから県道470号線を走る、すぐに県道276号線に変わり5分程で左手に岩屋寺が見えてきます。県道右側に大きな無料駐車場があり、車で訪れても駐車場に困る事はありません。訪れたのが1月18日、この日はかみさんが知多四国八十八箇所霊場巡りのイベント参加のため、送迎を兼ねおやじはコース対象外の岩屋寺を訪れました。こちらの参拝前に国道沿いの神社を複数巡ってきたので、かみさんからのお迎えコールがいつ来てもおかしくない。そんな事でいつものように時間をかけて見て廻る余裕はなく。駐車場から岩屋寺の伽藍が良く見渡せます。左が本堂、中央の門前の先に鐘楼と多層の建物が見て取れます。門前を右に進み鐘楼側から境内を見ます。袴腰が施された鐘楼に視線が行きます。鐘楼から更に右の眺め。左が拝殿、右は庫裏でしょうか。これだけ大きな伽藍を持ちながら、岩屋寺の門前に山門は見当たりません。門前の石段前の左に「新四国第四三番札所」、右に「岩屋観音」の石標が建っています。石段左に瓦葺入母屋造の手水舎。境内右の休憩所と手前に弘法堂。焦点が合っていない堂内写真ですが、左に弘法大師と中央に不動明王の姿が拝めます。弘法堂の左に袴腰が施された瓦葺の鐘楼。当初は四脚鐘楼だったとされ、1697年(元禄10)の火災で焼失、1753年(宝暦3)に再建されますが、再建までの長きにわたり梵鐘は本堂の軒端に吊されていたそうです。横長の鐘楼は斜めから眺めると安定感があり、木組みも美しく、岩屋寺の伽藍の中にあって「経蔵」と並び存在感のあるもの。下り棟に強面の鬼瓦が睨みを利かしています。「阿弥陀堂」鐘楼の向かえに建つ入母屋瓦葺の建物。平治の乱に敗れ、この地に辿り着いた源義朝、匿われていた長田忠致の裏切りから命を奪われ、野間に葬られます。1159年(平治元年)、源義朝(頼朝の父)の霊廟をお詣りに訪れた浄土真宗の開祖親鸞聖人が岩屋寺を参詣、その際に弘法大師七井の井戸の水を汲み、自ら阿弥陀如来の一尊を書き納められたと云われ、現在の阿弥陀堂の本尊となっているようです。石段の正面に石の鳥居と二層建物。大師ヶ嶽を背にして建ち、伽藍にあって目を引く存在です。瓦葺二層造りの「一切経蔵」と呼ばれるもので、現在の経蔵は2年の歳月をかけ1801年(寛政13)に完成したもの。内部の輪蔵(経が収蔵され、一回しで収められた経典全てを唱えたと同等の功徳があるとされる)は、1812年(文化9)から三年の歳月をかけ作られたと伝わります。軒を支える木組みは、飾り彫りこそないものの、荷重を巧みに分散する先人の知恵が凝縮された美しい造形美をみせてくれます。「一切経蔵」の左の明神鳥居を構えた「笠森稲荷」。理由は不明ですが、伏見稲荷の抱き稲と豊川稲荷の紋が入る神社幕が吊るされています。石段の先に狛狐。「笠森稲荷」本殿始まりは旧山海村に住んでいた山本助左衛門という村人が、上州を訪れた際に目の病にかかり、失明しかけたそうで、現地に祀られていた笠森神社に願掛けした所、治ったことから、帰郷後、自宅近くの岩屋寺塔頭であった谷ノ坊に建立した事が始まりと云われます。眼病平癒に霊験あらたかで、参詣者が絶える事が無いほど崇敬されていたようですが、助左衛門の死に伴い岩屋寺に併祀されたようです。「一切経蔵」の右に三つの堂と山肌に五百羅漢像が祀られています。右に地蔵堂と奥の方型の堂は「薬師堂」薬師堂内。左の堂は「遥拝所」斜面を覆わんばかりの羅鑑像は、1820年(文政3)当時の岩屋寺住職の豪潮律師によって開眼されものだそうで、其々表情も違い、中には永年の風化により表情が分からないものもある。羅漢像はこの脇から続く参道を登り、大師ヶ嶽の山頂にある弘法大師立像にまで祀られています。この羅漢像を見て行くだけでも相当な時間が必要、しかしそれに見合うだけの壮観な光景が続きます。この「遥拝所」はここから山頂の大師像を拝むためのものだと思われます。境内左に「本堂」右に「尾張高野山の寺号標」左に「南知多観音第二十五番札所、東海百観音第七番、知多四国四十三番」霊場と彫られた石標が建つ。「知多西国三十三所霊場」の一番札所でもあり、昨年(2019年)は開創250年の知多半島最古の霊場。尾張高野山とは元々は天台宗だった岩屋寺に1925年(大正14)に転住した豪鉄大僧正により、1951年(昭和26)尾張高野山宗 総本山として開創したもの。岩屋寺の歴史は古く、715年(霊亀元年)に行基の開基と云われ。 創建当時の伽藍は十二坊に大門、楼門、多宝塔など建立され、壮観な伽藍を有していたと云われます。本尊の千手観音は、高野山に金剛峰寺を創建後の弘法大師が再び諸国遍歴を行い、岩屋寺で百日間の護摩修行を行った際の護摩の灰で作られたものと伝わり、奥の院を開きそこに祀ったものと云われ、現在は本堂で祀られているそうです。昨年、60年ぶりに御開帳が行われたようです。因みに弘法大師が南知多町大井聖崎に上陸したのは814年(弘仁5)とされます。尾張名所図会に描かれていた岩屋寺は現在の伽藍に近いもので、鐘楼から右に延びる奥の院へ続く道筋は現在も面影を留めています。寄棟瓦葺で流麗な屋根勾配が印象に残る本堂は幾度か火災で焼失し、1804~1818年(文化年中)に密蔵院から訪れた豪潮寛海により再興される。現在の本堂の再建は分かりませんが、尾張名所図会に描かれている姿に近いものです。扁額は「厳窟寺」とある、別称で千眼光寺厳窟寺とも呼ばれるようです。白地の幕に三つ葉葵の寺紋が入る。1819年(文政2)、尾張徳川藩主の加持祈祷所となり、三葉葵の紋章を許されたとある。長い歴史を持つ岩屋寺、文化財も多く残り「一切経」、「金銅法具」などが受け継がれ本堂右の宝物殿で所蔵されています。本堂の参拝を終え、鐘楼方向へ、その先は「拝殿」こちらでは檀家の位牌を安置するほか、写経や落語などの催事が催される場。拝殿入口左に菩薩像。拝殿から右の本坊。境内に掲げられた岩屋寺、奥の院の案内図、広大な境内です。奥の院入口までは車で数分で行けるようですが、残念ながらここでかみさんのお迎えに行かねばなりません。多宝塔のある奥の院へは次回改めて訪れます。かみさん提供の奥の院「多宝塔」厳粛な空間に佇む多宝塔、やはり自分の目で見てなんぼのもの、再訪するだけの価値がある寺だと思います。知多四国巡り、ありかもしません。尾張高野山宗総本山 大慈山 岩屋寺宗派 / 尾張高野山宗開基 / 715年(霊亀元年)本尊 / 千手観世音菩薩住所 / 愛知県知多郡南知多町山海間草109車アクセス / 南知多道路「南知多」ICから内海方向、国道247号線山海を左折、県道470号線、県道276号線経由車で20分程公共交通機関アクセス / 名古屋鉄道「知多新線」内海⇒海っ子バス西海岸線⇒松原停留所から徒歩(時間帯により岩屋寺停留所までの便がある)
2020.02.25
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地下鉄鶴舞線3番出口から北へ徒歩1から2分程のビルの1階にある、麺屋幸光坂に行ってきました。店舗前から3番出口方向の眺め麺屋幸光坂はコンビニとJR中央線の間にあるビルの一階に店舗を構えます。外観は小さな暖簾と左にメニューが置かれ、至ってシンプル、ちょっとした寿司屋か割烹の様な佇まい。店内は所謂ラーメン屋の雰囲気とは違い、和モダンを意識した女性受けする内装。おやじが大好きな壁は油こての狭いラーメン屋とはかけ離れた、今どきのラーメン屋。名駅の新幹線ガード下にある麺屋獅子丸で食べた伊勢エビラーメン、そのお店と同系列の半蔵グループのラーメン店。旅行からの帰り道、晩御飯代わりのラーメンです。まずは、ビールと摘み代わりにぜいたく盛りを注文。贅沢盛りは豚の角煮・煮卵・ローストビーフ・野菜の添え物・カキフライとビールのお供に最適。お疲れ様の乾杯の後からラーメンをオーダー。おやじは「アゴと貝出汁の醤油そば」税別880円、かみさんは20食限定の「三河赤鶏と魚介の濃厚つけ麺」税別1,100円。おやじは魚介系出汁は大好物、かみさんはアゴだしは好んでは食べない。待つことしばし、アゴと貝出汁の醤油そばが到着。三種(鴨肉、鶏むね肉、豚肩ロース)チャーシューと幸と焼かれた四角い物体は湯葉、彩りに三つ葉が添えられ京風の外観。麺は北海道産の小麦で打たれた、やや細めの拘り麺、純粋ろ過フィルターから作られた純水を用いた水を使用しているそうな。細麺ながらアゴのスープとよく絡み、ほんのりと鼻に海の風味が抜けてくる。三種のチャーシューも個性があり、なかなかおいしい。スープは飲むなと良くかみさんに云われるが、醤油ベースの魚介スープは見た目ほど辛くはなく、美味しく飲める。かみさんが頼んだ三河赤鶏と魚介の濃厚つけ麺ぐつぐつと煮えたぎる濃厚なつけ麺ダレはチーズフォンデュに通じるもの、麺は小麦の粒子が見えまるで蕎麦。味はかみさん曰く好まないはずの魚介系でありながら、それを感じさせない濃厚な鳥の風味で「美味しい」との評価。店内は昨年できたばかりで明るく、客席の間隔も結構広く確保され綺麗な店内、カウンター席はちょっとした寿司屋の雰囲気があり、外観同様ラーメン屋の印象はない。がさつなおやじが気軽にラーメンするには、お店もラーメンも綺麗すぎるくらいに女性向けのおいしいお店。お店の狙いなのかも知れないけれど、初めて訪れる際に外から中の様子がみえないのは、若干敷居の高さみたいなものが残るけれど、店内も接客にしても「心して食べよ」というお店ではない事を書き加えておこう。総合評価は5点満点で3.5点。美味しいお店だ。麺屋 幸光坂住所 / 名古屋市中区千代田5-22-18営業時間 / 11:00~14:30、17:30~22:00定休日 / 火曜日
2020.02.23
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蔵王山 延命閣 地蔵院から5分程西に歩く。南北に延びる道筋を左に曲がると道は緩やかな登坂になり、更に南下すると中産連ビルの東側を経て出来町通りに至ります。「首塚社」はこの坂の手前の左側に鎮座しています。坂の手前に玉垣に囲まれた白い幟が目印になるのかな。幹線道も近い事から街中の喧騒に包まれているかと思いきや、意外に静かな住宅地。古くは武家屋敷も存在した地域柄で、二筋程西には名古屋城の東大手門から北に犬山を経由し中山道に続く上街道が南北に続きます、とは云っても地蔵院の始まりともなったように、辻斬りが横行するような環境にあったようです。周辺の道筋には上街道の面影を感じさせるところも残ります。坂の手前に見える簡素な覆屋が首塚社。幟には「首塚霊神」とある、御嶽講とつながりがあるようです。首塚社社頭。屋根から飛び出した御神木?の大きな切株、それを取り込むように建てられた拝所?と左の覆屋、中には社が見えます。右に「首塚社」社号標、1978年(昭和53)と刻まれていました。その後ろに外から見えていた切株、表面が滑らかなその木が何かは分からないけれど、樹齢を重ねていたようです。突き当りに手水鉢が置かれています。拝所から覆屋の眺め。拝所の中には右から「大国主命大神、大日大聖不動明王、松本露仙霊神、塩釜大神、白龍大神・末廣大神」の提灯が5つ吊るされています。長椅子が用意され、首塚社を中心に地域コミュニティーとしての役割を担っているようです。紫の奉納幕の吊るされた覆屋。石の台座の上に3つの社と石像が一体見て取れます。鈴を鳴らして参拝、奉納幕の内側にも5つの提灯が吊るされていました。1枚には収まらないので諦めです。右から「大国主命大神、大日大聖不動明王、松本露仙霊神、塩釜大神、白龍大神、末廣大神」表札がありますが脱色し読めませんでした。白龍大神の前には赤い座布団の上に置かれ重かる石。「重い?軽い?」、試しに持ってみましたが思ったよりは軽かった、が無心で持ったので願は掛かっていないわね。大日大聖不動明王。素朴な造形の像ですが、右手に利剣、左手に羂索を持ち、不浄なものを焼き尽くす火炎もしっかりと彫られ、お不動さんと呼びたくなる親近感の沸く姿のものです。覆屋から拝所の眺め、入口に吊るされた納提灯は、首塚社が身近な神として今も親しまれている事を物語ります。おどろおどろしいイメージがある首塚社。ここは尾張藩家老の竹腰家の屋敷跡と云われ、水戸藩の隠密だった山伏が人目を避け竹腰家に滞在中に尾張藩に身元が知られ首を刎ねそれを埋めた首塚だとか、竹腰家を門付けに訪れた虚無僧が門番との言葉の取り違えから無礼討ちにされ、その僧を哀れに思った竹腰家により塚を作り葬ったとか。謂れは諸説あるようです。本当のところはともかく、身近にあってあれなに?、どうかするとその物自体がいつしか消えていたりすることを思うと、こうして語り継がれ、受け継がれていく事が大切なのではといつも思います。風化したものは二度と蘇ることはないだけにこの光景、許される限りは留めていてほしいものです。そこにあるにはそれなりの動機があったはずで、いつかまた過去を振り返り、その意味を知る事になる。街角の石碑や石像にしても時代の語り部なのかもしれません。「振り返るな〃過去には何もない」という向きもありますが、けっしてそんな事はない。首塚社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市北区大杉1-15-2公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅⇒地蔵院⇒首塚社へ徒歩10分 地蔵院から西へテクテクと5分程
2020.02.22
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一泊二日で東京お上りさんツアーに行ってきました。 ご時世を考え中止も考えました自己防衛として個人としてできる事は準備、実行を徹底しての観光。具体的に何をしたのか?と云われても、マスクと手殺菌用の75%アルコールスプレー程度。後はなるべく物に触れない、触った後の手洗いくらいでしょうか。豊洲や月島にも行ってきましたが、やはり大陸からの観光客は明らかに少ない。一時は多すぎて問題もあったようですが、少ない。見えない「COVID-19」相手に怯えていても仕方がない。自己防衛しても尚、お土産をもらってきた場合は適切に申告するだけの事。スカイツリーで出会った多くの修学旅行生、楽しそうに眺望を眺め歓喜していたし、電車ではTDLに向かう親子の光景も。それぞれ楽しい思い出を刻んでいます。ネットの書き込みを見ると個人を責める書き込みも目に付く、一人が書くと集団心理が働く。河津桜のピンクの色合いはとても暖かいものがあるけれど、こうしたコメントは寂しさを覚える。これで五輪が海を渡るようなことがあると、この船はどこに向かうのかなぁ。
2020.02.21
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岩倉市栄町の県道149号線沿いの歩道を西に歩いて、栄町1丁目交差点の手前で地蔵さん達と出逢いました。この道を東に進むと名鉄犬山線を越え本町の神明太一宮に至ります。岩倉は古くから名古屋城を起点に美濃路を経て枇杷島橋から別れ犬山城に続く岩倉街道として古くから栄えた町。お地蔵さんの由来はさっぱり分からなかったけれど記憶に留めたいものとして掲載することにします。上は現在(右)と左が明治のこの辺り、上下に続く赤線は岩倉街道で青いマーカーは神明太一宮、赤星がお地蔵さん達の場所。歩道沿いの個人の敷地と思われる一画、二つの覆屋の中から三体のお地蔵様の視線を感じ足を止めました。何度も前を通りがかっていながら初めて彼らの存在に気付きました西側の覆屋の中に不動明王と地蔵が二体。出逢ったのが2020/元旦ということで写真のように鏡餅がお供えされていました。個人で守られているのか、地域で守られているのか定かではありませんが、この光景から大切にされていることが分かります。手前の覆屋、おやじに視線をくれたのがこのお地蔵さん。右に聞きなれない白鶴龍神と三福三宝荒神と彫られた石標。三福三宝、調べてみると、仏・法・僧の三宝を守り、家庭の火伏せ、災難除けとして屋内社でも祀られるということ、白鶴龍神も調べてみましたがよく分からない。ここは歴史など意味がない、個人や地域が意図を持ちここに祀り、今も尚こうして親しまれ、守られている事に意味があるのではないでしょうか。お供えの生花にお地蔵様達と人とのつながりの強さみたいなものを感じます。視線をくれたお地蔵様に心ばかりの気持ちを供え駅に向かいました。また会おう。住所 / 岩倉市栄町1丁目10公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線「岩倉」下車、神明太一宮⇒新溝神社⇒岩倉招魂社経由で徒歩25分程
2020.02.20
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以前掲載した、名古屋城西の屋根神様から徒歩5分程西に、住宅や店舗が混在する一画に小さな杜に赤い稲荷鳥居が見えてきます。掘川の西にあたり、美濃路沿いの城下町の趣が感じられます、堀川沿いの四間道を境にして東が幅上、鎮座地のある西は幅下とされました。現在の住所は名古屋市西区浅間1になります。すぐ南に国道22号線、西に県道63号線がありながら以外に静かな一画です。今回の徘徊最後の目的地『冨士浅間神社』に到着。ランチでご機嫌のかみさん、ここまでは快く付き合ってくれました。神社北側の道路からは、シックな色合いの玉垣の先に、見上げる位置に佇む本殿が良く見えます。神社東の通りに東参道、左に社号標があり、鳥居から先の境内は石畳が敷かれ、正面に社務所が窺えます。東鳥居を通り過ぎ、その先を右に曲がると南鳥居に出ます鳥居の正面に拝殿が望めます。左に『郷社 冨士浅間神社』と彫られた社号標。pcにふじと入力し一発変換で出てくる富士ではなく「冨士」が正しいようです。この先間違えて使っていたらごめんなさいです。鳥居から拝殿左方向の眺め。左は先程東鳥居から見えていた社務所、正面に一対の狛犬と拝殿。賽銭箱には桜の紋が描かれています。右手に手水舎、鉢の前後に石標が見えます。手前の石標。以前は神社の西に江川が流れていました、そこに架けられていた「江川橋」の親柱だということです。江川は1932年(昭和7)埋め立てられますが、過去のこの地を伝え残す遺構として境内に移されたようです。手水鉢はふたつの龍頭があり龍口からは絶えることなく清水が注がれています。手水鉢の奥の石碑。1937年(昭和12)に神域拡張した際に建てられたようで『神域拡張敷地・九十三坪二合四勺』と彫られています。手水舎の左の建物は神楽殿?、高床構造が必要だったのか分からないけれど、ここでは神楽殿としておきます。神楽殿の左に鳥居があり、その先は鬱蒼とした緑に包まれ、参道は奥へと続きます。突き当りに境内社があるようです。右に赤い幟が連なっています。鳥居に掲げられた扁額と幟には「浅間稲荷社」とあります。参道は二手に分かれ、右に進むと赤い稲荷鳥居が建ち並ぶ浅間稲荷社へ続きます。豊川稲荷と同じ神紋の入る赤い幟、赤一色の空間に身を置くのは久し振りのような気がします。浅間稲荷社。複数の狛狐が突然訪れた見慣れぬ訪問者をじっと見つめているようです。正面参道の奥に境内社。その前を小ぶりな狛犬が守護しています。頭の形に特徴がある狛犬です。境内社全景。左から天神社、右隣の相殿に秋葉社、津島社、八幡社、白山社、疱瘡社、神明社が祀られています。境内社から左の本殿側面を眺めると内研ぎの千木と鰹木を持つ神明造の様です。玉垣から先の本殿域は見通せず、末社の存在までは確認できませんでした。入母屋造の拝殿正面全景。ふくよかな容姿の拝殿前の狛犬は昭和に入り奉納されたものです。木造の拝殿は木の温かみを感じる落ち着いたもので、扁額もそれに調和する色合い。個人的な見方で大袈裟ですが、この国や国民性を象徴する原点がこの光景じゃないかと思っています。掲げられた扁額、吊るされた提灯は「淺間」と書かれ、提灯には五七の桐紋と桜紋が施されています。神紋が桜紋で社紋が五七の桐紋。本殿方向の眺め、御幣の左右に小さな狛犬があります。『冨士浅間神社』は1398年(応永5)、現在の東区東桜1で当時前山と呼ばれていた場所に三谷源太夫が駿河冨士浅間神社の分霊を勧請したのが始まりと云われ、祭神は木花開耶姫。家康も参詣したとされます。現在地の幅下に遷座するきっかけは、1610年(慶長15)の名古屋城築城、元地を石垣の加工場とするため一時的な替地としてこの地に移転したもので、築城後の元地には冨士神社が再建されますが、そのまま現在地に留まることになったようで、前山の冨士神社を「冨士権現」、幅下の『冨士浅間神社』を淺間社と呼び分けていたようです。元地の前山は、今や片側4車線の桜通りが目の前を通り、なかなか静かに落ち着いていられない。ある意味幅下に留まって正解だったのかも知れない。これから温かくなって境内の桜が咲くと別の表情を見せてくれそうです。冨士浅間神社創建 / 1398年(応永5)祭神 / 木花開耶姫境内社 / 天神社、秋葉社、津島社、八幡社、白山社、疱瘡社、神明社住所 / 名古屋市西区浅間1-3-2公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「浅間町」から北へ徒歩5分程
2020.02.19
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『乃野神社』知多半島の伊勢湾に面した海岸線沿いに伸びる国道427号線。国道に面し神社仏閣が多い場所。それもそのはず、弘法大師所縁の地として江戸末期から八十八寺の霊場を整え、知多四国八十八か所巡礼(番外含め98か所)として今も巡礼に訪れる姿が絶えることはありません。かみさん自身の直近のテーマが知多四国八十八か所全コンプリートを目指しています。休みが合えば、送迎を兼ねて、おやじは近隣の神社仏閣を見て回っています。『乃野神社』は国道247号線越しに山海港を眺める松林に鎮座します。国道からは南参道の鳥居が目印になります。国道から眺める南参道口。松を主にした杜は防風林としての役割もあるのでしょう、常夜灯と石段の先に鳥居を構えます。海辺のせいか、境内は玉砂利ではなく海砂の様です。『乃野神社』の表参道は南鳥居の右に奥へ続く道があり、そこを進むと、袴腰が施された趣のある常夜灯が現れます。その右には「御嶽大神」の石標が建っています。この常夜灯、神社の規模の割にえらく立派なものです。常夜灯の左が境内、石段左に「村社 式外 乃野神社」と彫られた社号標。道路から見た境内の高さはそれほどでもないけれど、こうして見ると随分と高く盛られているのが分かります。鳥居の先に拝殿が間近に見えています。切妻瓦葺のシンプルな拝殿と境内、訪れた方の足跡が残るほど地面は柔らかく砂場のようです。境内右に目を移すと右から手水舎、境内社と由緒碑が一列に並びます。手水舎、生憎、鉢に清水は満たされていませんでした。境内社の後方に複数の石碑が祀られています。何か書かれていますが目を凝らしても読み取れません。境内社は5社祀られ、奥から津島社/庚神社、子安社/山神社、海神社/金刀比羅社、津島社、御嶽社と並びます。『乃野神社』愛知県知多郡南知多町大字山海 式外 乃野神社 祭神 豊受比賣命「由緒 当神社は本国神明帳に従三位乃野天神内海庄久村神明と称す。1186年(文治2)3月宣命に依り位階を賜ると所載有り。又、往古より神明社と称せられたが、1871年(明治4)5月名古屋藩庁より本国神明帳に所載するにあたり、乃野神社と神号を訂正する。豊受比賣命またの御名を萓野比賣命と申し、往古より当跡力蓬ノ繁殖地なることよりしても如何二神慮ノ然をしむる所以なり。1872年(明治5)村社、1908年(明治41)指定村社、1953年(昭和28)宗教法人認証、神社本庁所属」外観から想像できなかったけれど、1186年(文治2)には既にこの地に鎮座する長い歴史があるようです。「蓬ノ繁殖地」のくだり、繁殖地とあるけれど、この辺りで蓬湯や蓬餅は見かけますがよく分からない。蓬(ヨモギ)は食品や湯舟に入れたり、屋外で応急の止血としたり身近なハーブ、昔の生活には有難い自然の恵みだったのか?、今は雑草と思われているかも。本殿左に「天照皇大神、神武天皇遥拝」の石標。 目の前に広がる海、その対岸は伊勢神宮なので遥拝所なのでしょう。素朴な外観の拝殿。一対の狛犬が本殿を守護しています。昭和初期に奉納された狛犬。街中で見かける色白のものとは違い、日焼けした色合いをしています。拝殿から本殿の眺め。全貌は窺えませんが、本殿は外研ぎの千木と鰹木が施された流造の様です。砂場のような境内全景。ベンチもあり、潮騒を聞きながら子を遊ばせ、神さまと共に見守るには絶好の場所。境内から南の鳥居の眺め。穏やかな山海港の先は伊勢神宮。国道脇のスイセンが春を告げています。『乃野神社』長い歴史を持つ潮の香りが漂う素朴な神社創建 / 不明(1186年(文治2)以前?)祭神 / 豊受比賣命境内社 / 津島社/庚神社、子安社/山神社、海神社/金刀比羅社、津島社、御嶽社住所 / 知多郡南知多町大字山海橋詰52車アクセス / 南知多道路「南知多」ICから内海方面へ国道247号線経由つぶて浦・荒熊神社経由で15分程
2020.02.17
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名古屋市北区大杉1「蔵王山 延命閣 地蔵院」名鉄瀬戸線「尼ケ坂駅」を起点に周辺を歩いて見ました。最初の目的地は駅から徒歩5分程の「蔵王山 延命閣 地蔵院」。「尼ケ坂駅」の南側道路の前に街中にしては大きめの公園、ここは「尼ケ坂公園」。入口の二つの石には公園の紹介、尼ケ坂の地名の由来が記されたプレートが埋め込まれています。上は公園の紹介「出会いの杜 尼ケ坂公園 この付近は、名古屋城から見て北東の位置に当たり、古くは名古屋城の鬼門を守る"鎮守"とされていました。今もなお、片山神社をはじめとして、長久寺、普光寺、久国寺など神社仏閣が数多く点在しています。その中で片山神社はその昔、"片山蔵王権現"と言い、境内一帯の緑は"蔵王の森"と呼ばれ、名古屋を代表する杜の一つとして有名でした。 現在では名古屋市緑地保全地区に指定されており、地域に息づく身近な自然との"出会いの杜"として親しまれている。」下は尼ケ坂の地名の由来「尼ケ坂地名むの由来と伝説片山神社に西から登るなだらかな坂道と、東から登る急な坂道があります。それぞれ"尼ケ坂"、"坊ケ坂"と呼ばれていますが、江戸時代この地に住んでいた"権現小町"と呼ばれる美人の村娘と高位の青年武士の悲話が地名の由来伝えられています。 "尼ケ坂"はその昔、樹木が茂る中を縫うような薄暗い道で、坂上の名古屋台へ向かう通路として"尼ケ坂近道"とも呼ばれていました。 当時は、辻切りが多く出没し、通行人が被害を受けることもしばしばでした。 公園の西にある"地蔵院"は、その霊をとむらうようにと、久国寺の住職が、寺の門前にあった六地蔵の内一体をここに移して祭ったのが初まりといわれています。 名古屋市史跡散策路では、このような地域の歴史を紹介しています。 一度歩いてみてはいかがですか。」なかなか分かりやすく書かれ、この散策路をトレースする感じでしょうか。プレートに書かれていた片山神社と蔵王の杜は文政(1818年~1831年)に纏められた「尾張名陽図会」に絵として残されていました。本殿の左上に「尼ケ坂」とあります、当時はこのような場所だったということです。尼ケ坂の駅は本殿の右の崖下に位置します。現在は右の片山神社と左の尼ケ坂公園の間は、切り開かれて車道と歩道が作られています。道路脇の擁壁の高さは名古屋台地と北の平地の高低差を物語っています。写真は下が尼ケ坂駅方向にあたります。因みに道路の上にかかる歩道橋から神社と公園を行き来することができます。地蔵院はここから西の坂を下ったところになります、尼ケ坂を足で感じることになります。坂を下ると右手に先ほどの尼ケ坂公園と駅が見えます、坂を体感したくない方は公園から直接アクセスできます。歩道橋先の杜の間から片山神社の本殿も見えています。「蔵王山 延命閣 地蔵院」全景。尼ケ坂の傾斜地にグレーのシャープな塀で囲まれた地蔵院が建つています。同系色の瓦が葺かれた入母屋造りの堂は塀とマッチし、境内の地蔵にかけられた前掛けの赤が浮き立っています。東側に境内入口。「南無延命地蔵菩薩」と書かれた赤い幟が並びます。境内左に手水舎、小さいけれど瓦で葺かれ重厚感が漂うものです。鉢に清水は注がれていません。下り棟の鬼瓦に五三の桐が施されています。境内右に赤い前掛けと帽子をかけられた六地蔵。毛糸で編まれた赤い帽子、今年は雪もなく温かくていいよね。全て地蔵さんは少し首を傾げてやさしい笑みを浮かべている、一体一体その表情は様々。還暦過ぎのおやじですが、目を三角にする表情も時にはある、災い除けの赤を身に着け、余分な力を抜いて自然な笑みを浮かべたいもの。堂の右の院号標は「蔵王山 延命閣 地蔵院」とある。堂の右脇に一体の地蔵が祀られています。下半身は地の色が現れていますが、顔だけが妙に黒ずんでいます。個性を主張するかのように、この地蔵だけグレーの帽子をかぶり、六地蔵を見つめています。久国寺から移された地蔵か?と勘繰りたくなりますが彼ではないようです。六地蔵の幼い愛らしい表情とは違い、目をうっすらと開け、瞑想でもしているかのような顔つきの寡黙な地蔵さん。本堂の鬼瓦。こちらにも五三の桐が入っています。堂に掲げられた山号額、これで「蔵王山」。言われれば読めなくもない。堂内の眺め。正面に小さな座像と奥に三体の地蔵が祀られています。公園の由緒に書かれていた久国寺門前の六地蔵から移されたとされる一体は中央のものです。鬱蒼とした杜の尼ケ坂、通行人目当ての辻切りが出没しても何らおかしくない。そんな蛮行の犠牲となった人の無念も残り、安らかに弔いたいと念じる気持ちが芽生えるのは自然だ。久国寺住職から「君しかいない」と期待と願いを託され、単身赴任でやってきて責務を全うし続けた。住職もさぞかし満足なことだろう。薄暗い尼ケ坂を行き交った旅人から、今や周囲は開け明るい森に変貌し、駅を目指す通勤・通学の住民が行き交う、緑が残る閑静な住宅地となり辻斬りに逢うこともない。変貌したとはいえ、ここで犠牲になった方々の無念を鎮めるため故郷には戻れる予定はなさそうです。「蔵王山 延命閣 地蔵院」住所 / 名古屋市北区大杉1-21-8公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂駅」から南へ徒歩5分程
2020.02.15
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煽るつもりはないけれど不特定多数に感染し始めた「COVID-19」発生国の国民の入国を制御できなかった水際対策、検疫、検査対象の設定など、国の全ての対応は桜咲き乱れる島国ならでは温い対応だったよね。それぞれの現場の声、プロの声をどこまで反映した対応だったのか疑問が残る。背景には観光立国として目先の経済への影響を懸念してのことだと理解できる。目先の経済のために大きな代償を払った形です。もはや汚染国といっても過言ではない。リーダーシップを取るべきトップはのらりくらりと真実を語れない。取り巻きも体裁造りに終始し、今・将来の舵取りをすべき場が子供の口喧嘩の様な議論に時間も費用も費やされているのを目や耳にする度にこの国の将来に大きな不安を感じる。人口ピラミッドの推移、出生率、労働人口など統計は何十年も前から将来起きる事を示し、福島はワーストケースを示している。方向を決めるべき備えるべき対応の時間をのらりくらり、税金、年金改革同様に国民負担のお願いばかり、お国の組織自ら前に出て痛みを感じる改革が必要なのかもしれない。いっその事、福島や埠頭の前、埋め立て現場や被災地でも構わない、現場で議論すればいい。都合が悪くなると入院、仕事をしないが給料はもらう、それでも組織が回るのであればそもそも要員過剰。リーダーが正直に話せない、現実を伝えられない今の組織から発信される情報の信憑性はいかほどか。お地蔵さんにごめんなさいと素直に言うか言わないかはルーレットで決める気だろうか。自らが判断しなければならないようでは、この組織そのものが検疫対象。ガラス越しに春の陽ざしを受け縁側から外を眺め、枯れ葉を掃除するおやじに「今日は温かいね」と声かけ頂いても、外は風が吹いて寒いのよ。生温さを感じるこの頃。ガスが抜けすっきりしたところで外に出てみるか、マスク? どうするかな
2020.02.14
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「上宿山神社」の南隣の区画の角地に村社「武島天神社」が鎮座します。番地で云えば城西5-16北に「山神社」、手前に「武島天神社」の2社が視界に入る距離です。南向きに二つの鳥居を構え、石畳の敷かれた参道は真っすぐ拝殿へ続きます。拝殿左に覆屋が見えています。境内入口右に社号標「武島天神社」と刻まれています。社名の頭の武島はこの辺りが武島梅の木と呼ばれた名残と思われますが、その後も五平蔵町、上宿六軒町、天神町と編入を重ね、1980年に城西へ町名が変わる以前は泥町と呼ばれ土地柄を表しています。その昔は名古屋台地の北端に建つ名古屋城を見上げるように低地が広がり、雨に見舞われるとすぐに湿地となる土地柄だったようです。「武島天神社」は山神社と同様、現在の名古屋城深井丸付近に鎮座していたとされ、築城に伴い現在地に遷座したとされます。社殿全景。瓦葺で切妻造の吹き抜け拝殿。境内には梅が咲き誇り、天神様を主張するかのようです。境内左の手水鉢。菅原道真を祀る天神社には撫で牛。白い体に特徴的な黒い立派な角が生えています。拝殿の右が社務所の様で、石畳は左の覆屋に続いています。拝殿前の狛犬は彫が深く多少頭でっかち。拝殿に掲げられた扁額は「武嶋天神社」とある。鬼瓦に桐の紋があしらわれています。拝殿から神明造の本殿は良く見通せます。武島天神社由来「勧造年月不詳、一説に応安元年1568という、万治4年(1661年)社殿修築、明治13年三月村社となる。 祭神 少彦名命、菅原道真とも伝えられる例祭日 十月第三日曜日古来の説によると、五穀豊穣の祈願は勿論、家内安全、殊に子供の無事な成長を祷る神という信仰が厚く、天神様即道真公となったものかと。又戦前には古鏡の内に現れ給う菅公のお姿を心霊として発行した。末社 天王社熱田神宮、津島神社、秋葉神社のみたましろを受け町内安全、火難鎮䕶を祷る泥町一丁目、二丁目、三丁目それぞれの屋根神様。」1661年(万治4)に社殿が修築されたととある、創建はそれ以前となります。尾張名所図会に武島天満宮について記されていました。「武島天満宮、山神の社の南にあり神前の古鏡に武島天満宮の文字あり、武島はもと地名にして今川氏豊の家臣等、たけしまに居住ありしよし・・・・・」名古屋城以前の那古野城にまで遡るようです。拝殿左の覆屋。手前の灯篭は1915年(大正4年)の奉納。覆屋の中に祀られた板宮造りの社が由緒にある末社の天王社。元は泥町1丁目、2丁目、3丁目に祀られていた熱田神宮、津島神社、秋葉神社の屋根神様だとされます。屋根神様は1600年頃から始まった名古屋独特ともいえる祭祀形態と云われますが、空襲や区画整理、建て替えに伴い極端に減ってきました。屋根の上に屋根神が祀られた町の光景も、遠くない将来それも見る事が出来なくなるやも。天王社脇の梅は今がピークを迎え、周囲にほのかに春の香りを漂わせています。拝殿から参道入口方向の眺め、境内に彩りを与えてくれる梅もやがて桜にバトンタッチ。『武島天神社』創建 / 不明祭神 / 少彦名命、菅原道真境内社 / 熱田神宮、津島神社、秋葉神社住所 / 名古屋市西区城西5-16-40公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「浄心」下車、大師寺、屋吉地蔵、上宿山神社経由で徒歩16分程
2020.02.13
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知多郡南知多町大字豊浜字中之浦「中州神社」国道247号線の中之浦あたりに差し掛かると、道路沿いに石灯篭と大きな鳥居が目に留まります。鳥居から先は神社に続く舗装された参道があり、周囲はちょっとした門前通りの趣があります。この辺りは豊浜「鯛まつり」で知られます。中州地区の「鯛まつり」の中心は「中洲神社」といっても過言ではないでしょう。祭りは中州神社の祭礼の添え物として行われ、愛嬌のある顔をした鯛の山車が練り歩き、最後は海で泳がせる漁師町に相応しい男気満載の祭り。発端は明治の頃に中洲の大工さんが祭礼に「はつかねずみ」の輿を作ったのが始まりとされます。その後「ねずみ」から他の動物のだし物も造られますが、明治30年頃から漁師の村のということから、土地柄に相応しい海の生き物に代わっていき、現在の「鯛」が造られるようになったのは大正に入ってから、以降「大鯛」が定番になったようです。神輿の中で御囃子をしながら海上を泳ぐ「大鯛」、現在では豊浜地区と合わせ5匹の赤や黒(黒鯛)が造られ季節の風物詩になっています。「ニノ鳥居」鳥居先の右手に手水舎、参道の先には三ノ鳥居が見えます。左に「中洲神社」と記された社号標。ニノ鳥居から拝殿全景右手に社号標そこには「中須神社」と刻まれています。三ノ鳥居の左に石標が二つ。右は忠魂碑、左は社務所新築記念碑。三ノ鳥居を守護する担当は色白で綺麗な容姿をしています。石段の先には拝殿警護担当の顔が見られます。境内は石垣が三段に盛られ、二段目に四方に庇を持つ入母屋の平入拝殿、左右に覆屋、本殿は三段目。素木の木造で周囲の景観に溶け込んで趣があります。本殿後方には山肌が迫り、近頃の大雨や台風の影響が気になる土地柄です。拝殿前担当の面々、こちらも色白。切妻の拝所に掲げられた扁額「中州神社」とあり、社号標は「中須」と記されています。創建は古く、江戸時代初期まで遡るようです。当時この辺りは「中須」と呼ばれ、神社も社宮司社と称したようで、地名の「中州神社」に変わったのは明治11年に須佐村と合併後に現在の「中洲」に変わったようなので、扁額の「中州」はそれ以降の拝殿建替え時に揮毫されたものだと思います。 創建年度、祭神は不明。拝殿、幣殿内の眺め、大きな御幣が三つ捧げられています。拝殿左に4社祀られていますが、こちらも山肌が迫っています。覆屋の左に板宮造りの三社、左から春埜社、秋葉神社、御嶽神社が祀られています。右に祀られる茅葺で流造の多賀神社は一人部屋。拝殿左から本殿の眺め、全貌は見て取れません。本殿脇の覆屋に2社が祀られているようで、玉垣の先には小ぶりな狛犬の姿があります。温かみのある石材で彫られた狛犬は、外観は「…ゲットだぜ」のキャラクターの様でもあります。小さいながら永い年月を経てきた、そんな風貌をしています。彼らが守護するのは左の津島神社、右はあまり馴染みのない天泊社宮子。拝殿右の覆屋。根が成長したのか、根と石垣の間に建てたのか分からないけれど、根の張り方は見事なものです。それにしても綺麗に積まれた石垣だこと、自分じゃ作れないだけに形にできる職人はさすが。何積みというのかな、きりこみはぎでいいのかな?覆屋内には3社、左から蛭子社、皇人神宮、山ノ神社が祀られていました。土地柄ですね、屋根は潮風で腐食が進んでいます、しょうがない。本殿右の覆屋に1社。こちらにも狛犬の姿。左の狛犬とよく似ています、年代を見たいものですが無理ですね。彼らが守護する・・・・・?ここにもとても小さな狛犬、彼らが最後の要、小粒ながら重責を担っている。彼らが守護するのは金刀比羅神社、細部には彫飾りが施されています。拝殿前から三ノ鳥居、二ノ鳥居方向を見下ろす。この先は海。境内で見かけた最も古い年代は灯篭に刻まれた1828年(文政11)。漁港の前に佇む小さな神社ですが、古くからこの地の守り神です。一ノ鳥居とその先に海、ここから巨大な鯛が泳ぐ姿を見られるのは7月です。『中州神社』創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 金刀比羅神社、津島神社、天泊社宮子、春埜社、秋葉神社、御嶽神社、多賀神社、蛭子社、皇人神宮、山ノ神社住所 / 愛知県知多郡南知多町大字豊浜字中之浦32番車アクセス / 南知多道路「南知多」ICから内海経由、国道247号線で師崎方向に16分程
2020.02.12
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名古屋市西区城西5「屋吉地蔵」を後に西に向かい歩きます。最初の道を左に進み次の目的地「上宿 山神社」に向かいます。この道は「弁天通り」交差点から南に向かい、堀川の「筋違い橋」に至る道。すぐに名古屋のビリヤード店では老舗となるお店が現れます。その左に赤い稲荷鳥居と白い幟が靡く「上宿 山神社」に到着です。左の社号標は「村社 山神社」とあり大正に入り建てられたもの。「上宿 山神社」全景。住宅街の中の神社といった趣きです。南を向いて立つ鳥居と入母屋瓦葺の社殿、左に稲荷、右の脇参道にも社があります。境内に小振りで暖色系の色合いの狛犬が見られます。境内左の手水舎、右に「橿原神宮遥拝所」の石標。赤みのある自然石の手水鉢。清水は注がれていないけれど水は澄んでいます、手を清めて参拝。通りから見えていた暖色系。見慣れた色白に比べ、柔らかい砂岩のようにも見え、温もりを感じる色合い。耳垂れの目が強調された可愛い狛犬です。山神社拝殿全景。幟に「上宿山神社」とあるのは、その昔この辺りは上宿(かみしゅく)と下宿(しもしゅく)と呼ばれ、上宿の山神様なので「上宿山神社」。ここから西の「上宿第一公園」、「上宿第二公園」に地名の名残をとどめています。元は現在の名古屋城御深井丸付近に鎮座していたとされ、1610年(慶長15)の名古屋城築城に伴い遷座したようです。当時の絵を探してみましたが残念ながら見つけられませんでした。上宿の山神様の御祭神は山の神として知られる大山祇ノ神。創建は不明。この辺りでは山神さんとして親しまれているようです。拝殿右の稲荷鳥居、扁額に「豊丸稲荷」とあります。参道の先の「豊丸稲荷大明神」の扁額。伏見稲荷から勧請したのではないか思われますが、詳細は分かりません。社は三対の狛狐が守護しています。西陽に照らされ浮き立つ狐、肉付きもよく生真面目そうな感じです。それに対してこちらの狛狐、全身苔むした痩せた容姿で、右の狐は尾が欠け落ち、悲壮感が漂っています。覆屋の中の社は茅葺の流れ造り。小さいけれど木鼻や蟇股にはしっかりと彫飾りが施されています。詳細は不明です。拝殿右の参道先には鳥居(元号は昭和)を構えた社。鳥居の先の覆屋。何でしょうか、蟇股に丸に金とあります、金刀比羅社の様です。詳細は不明です。「豊丸稲荷」同様に社は覆屋の中で祀られているので、茅葺の屋根を含め傷みは少なく、彫飾りなども綺麗な状態。金刀比羅社から振り返った境内の眺め、この先は昔の故郷、名古屋城。拝殿はシンプルで飾りの少ない素朴な作り、悪戯に着飾ってはいません。こちら神紋は拝殿の扉が閉じられ、境内も見渡してみるも目につきませんでした。境内右の社務所。お城の築城で居場所を追われた山神さま、上宿に引っ越して上宿山神社に呼名を変え今も地元では親しまれています。「上宿山神社」創建 / 不明祭神 / 大山祇ノ神境内社 / 豊丸稲荷大明神、金刀比羅社住所 / 名古屋市西区城西5-18公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「浄心」下車、大師寺、屋吉地蔵経由で徒歩15分程さて次の目的地は・・・・・南を見ればそこに見えていました。
2020.02.11
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情報に乏しい神明社の記載にあたって、教えを頂いた浄土寺ご住職、南知多社会教育課担当者の方、お世話になりました。「ありがとうございました」知多郡南知多町大字豊浜小佐郷4「村社 神明社」豊浜港の「峠の地蔵さん」から国道247号線を師崎方向へ車で5分ほど、距離にして1㌔程走る。電柱に浄土寺の看板も視界に入ってきます。国道左側に玉垣で囲われた小佐郷神明社が現れます。2020/1/18に行われた、「第10回歩いて巡拝四国」のスタートとなる浄土寺の入口です。このイベントのコンプリートを目指すかみさんをここで降ろし、送迎担当のおやじはコースから外れた地元の寺社を巡る。浄土寺さんの入口にまさか神社があろうとは。巡礼の方もまだ到着していないようなので、参拝させてもらいました。国道脇の左に「村社 神明社」の社号標、その先の広々とした境内に社殿があります。神明社の左の道をまっすぐ進むと浄土寺に至ります。石の神明鳥居、右手に手水舎、狛犬、拝殿と伽藍は整っています。こちらは神職不在の地域の方により守られている神社。神職不在とはいえ、境内はとても綺麗に維持されていて、地元に親しまれているのが伝わってきます。こうした神社を訪れるのはとても気持ちがいいものです。小佐漁港に近い神明社、境内に朝陽が差し込み始めました。境内に入ると右に手水舎があります。その右は多分ですが町内の集会所でしょうか。朝陽を受けて拝殿前の狛犬は陰影が強調され彫の深さが現れています。入母屋造りの木造瓦葺の拝殿。素木の壁と瓦の色合いがシンプルで素朴な外観を醸し出しています。拝殿内全景。拝殿から渡廊で本殿に繋がります。白壁は木の色を引き立て綺麗な内部、そこに古びた太鼓が置かれています。祭神は天照大神創建は不明ですが、1338年(暦応元年)には既に鎮座していたらしい。元は浄土寺と関りがあったようですが、浄土寺の現住職も分からないとの事。明治の神仏分離以降、寺と神社は各々別の道を歩み、繋がりも風化し消えていくものです。拝殿側面全景。海辺ということもあり、板の雨戸が付けられています。拝殿右奥に石垣が積まれた神域に覆屋が二つあり、5社が祀られています。石垣の右手に随分前に奉納されたと思われる手水鉢が置かれています。本殿右の末社全景。右と左に二つの覆屋があります。右の覆屋には3社が祀られていますが、何れも表札もなく詳細は分かりません。左の覆屋には2社が祀られていました。教育委員会の方によれば、全ては分からないけれど、古い記録によると「御鍬社」、「伊雑社」が祀られているが、それが5社のどれなのか、他の三社についてまでは分からない。とはいえ、それが分かっただけでもありがたい。時間と共に風化していく記憶、形に留めて後世に語り継ぎたいものです。本殿左にも覆屋が一つあります。中には二つの石が祀られていました。右側に御幣が立てられた白い縦長の石。左にも白い石が‣・・・・、これらも教育委員会の方に伺いました。残念ながらこの石の存在は把握していないとのことでした。正体は分かりません、推測になりますがミシャグジさまかもしれません。また、小佐の海の対岸では海女さんの守り神として石神さまも祀られます。小佐郷のある一帯は古くから漁業で栄えている街、なので海で従事する女性の守護として石神さまが祀られていても不思議ではないかも。いずれにしても潮風に浸食されるように、こうした事も少しづつ風化していくのかもしれません。海辺の小さな神社ですが、地元の方にこれからも大切に守られ続けていく事でしょう。小佐郷 神明社創建 / 不明祭神 / 天照大神住所 / 知多郡南知多町大字豊浜小佐郷4車アクセス / 南知多道路「南知多」ICから内海経由、国道247号線で師崎方向に20分程
2020.02.08
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名古屋市昭和区川名本町 市営地下鉄桜通線「川名」駅から西に5分程歩いた山王通り沿いに鎮座します。入口右に「曹洞宗 太平寺」の寺号標。広い境内の正面に庫裏、左に本堂の伽藍です。入口左掲示板の教え「一歩自分に振り返って、静かに坐り自己内省することで 物事への執着から放たれ「本来の面目」あるべき姿が現れてくる」曹洞宗の教えは座禅が根源と云われます。「形に拘ることなく禅を組み、姿勢を正し、心を集中することで心と体のバランスを整える」ものだと解釈しています。普段の雑念や今どきの煽りを受け、一日中不愉快な時などは坐って落ち着かせるようにします。この教えは広い意味でそうした時を持てと言っているのかも知れません。お寺の教えは普段忘れている事を教えてくれたりもします。境内正面に唐破風が施された庫裏、右手には山門があります。入口右の手水鉢。その後方は複数の地蔵を収めた堂に続きます。方型の堂を含め三つの地蔵堂が並んでいます。石畳の敷かれた右の参道の先は山門に続きます。手前の堂には錫杖と宝珠持つ地蔵菩薩を含め5体が安置されています。左の切妻屋根の覆屋の内部は二つに分かれ、左右に各々2体が安置されています。作られた年代など詳細は分かりませんでした。左の覆屋には複数の地蔵が安置されています。弘法大師や馬頭観音、役行者に千手観音、如意輪観音やユニークな不動明王なども安置されています。さながら石仏博物館の様相。伽藍全景。左の本堂裏手の墓地には、室町時代に作られたと云われる五輪塔があるそうです。山門全景。正面が山門、その先に本堂の伽藍なので、現在の山王通りの入口に対し、東側の細い路地に面したこちらが本来の入口だったのかな。山門左の戒壇石「不許葷酒入山門」とあります。葷(くん)は匂いのある野菜や肉、酒はおやじ大好物のサケだよね。臭いのあるものは修行の妨げになるので入門してはダメよという事。今日のおやじは大丈夫、飲んでませんよ。正面に入母屋瓦葺の本殿、右に庫裏。本殿の右には春を告げる梅が境内に彩りを与えています。梅の下にひっそりと小さな地蔵が祀られています。風化により像の表情や、正面に刻まれた文字は読み取れません。本殿全景。本殿の山号額。護邦(ごほう)山と読むそうです。創建は定かではありませんが、この地を治めた佐久間氏によるとも云われます。初代住職が1533年(天文2)に亡くなったと云われます、なのでそこから更に遡ることになります。1584年(天正12)の小牧・長久手の合戦で焼失、1897年(明治30)に再建されますが再び焼失、現在の伽藍は1931年(昭和6)に再建されたもの。本尊は聖観世音菩薩、大本山は福井県の永平寺。太平寺と北側の飯田街道にある川原神社とは関りがあり、神仏分離により大般若経のすべてが太平寺に移されたと云います。本堂の木鼻装飾(上)と半鐘(下)、最近はお寺の除夜の鐘も苦情として上がる世の中らしい、今も使われているのだろうか。本殿左の寄棟瓦葺お堂、詳細は分かりません。お堂の前の参道を右に進むと墓地に至ります。堂前に吊るされた鰐口と赤い鰐口紐。神社と寺では呼び鈴ともいえる鳴り物の形態や紐の色は微妙に違ってきます。どちらも風情のある音色に変わりないのですが。堂内、焦点が合っていないけれど、お釈迦様と脇侍が安置されているようです。本堂南側からの眺め。雲をデザインした鬼飾りには「太平」の寺号が入っています。子供の頃、ばあさんに連れられ、こちらにお参りに来た記憶があります。おやじになった今、当時の記憶をたどる様に訪れましたが、菩提寺ではない太平寺を訪れた理由は今となっては分かりません。子供は理由より駄菓子の方につられるものです。太平寺山号 / 護邦山宗派 / 曹洞宗創建 / 不明本尊 / 聖観世音菩薩住所 / 名古屋市昭和区川名本町4-24-7公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「川名」駅から西に5分程、途中「川名の三体石仏」もあります。
2020.02.07
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名古屋の代名詞と云えばやはり金鯱輝く名古屋城。1609年(慶長14)家康により築城され、明治維新まで尾張徳川家17代の居城で、日本三名城(熊本城、大阪城)の一つに数えられます。金鯱輝く大天守は1945年(昭和20)の名古屋大空襲で焼失するまで当時の姿を留め、戦後鉄筋コンクリートで復元されたもの。この大天守も木造復元の計画が持ち上がりながら、なかなか一歩が進まないようです。一方で手前のホテルナゴヤキャッスルは2020年秋頃には建替えのため一時営業を終える。象徴する二つの建物のツーショットが見られるのも秋までです。今回はお城ではなく、水堀の西側で見かけた屋根神様。尾張名所図会に描かれた名古屋城と水堀。絵図の赤丸の範囲が下の写真になります。暖冬とはいえやはり冬、枝だけの木々はいかにも寒々としています。間もなく訪れる春には水堀とお城に桜の彩りが加わり美しい場所です。西区樋の口町の屋根神様はこの通りの対面に聳えるビルの脇に鎮座しています。左のビルに寄り添うように朽ちた小さな覆屋が建っています、神棚はその中に祀られています。冒頭の名古屋大空襲では多くの人命と共に、周辺の住居も焼かれてしまいます。町内の守り神は地に降りて今はここに祀られています。屋根の高さの違う屋根違いの神棚には三社が祀られています。お供えの榊は生き生きとし、今も神社当番があり、面倒を見てもらえているようです。覆屋は朽ち始めていますが、神棚は綺麗に手入れされています。祭神は秋葉社、熱田社、津島社と云われ、町内の守り神は今も健在です。樋の口町の屋根神様住所 / 名古屋市西区樋の口町1-15樋の口町の屋根神様を後に西に向かい、堀川に架かる「大幸橋」を渡ります。そこから先は「美濃路」東海道熱田宿から桑名を結ぶ海のルートに対し、熱田宿から名古屋、清須を経由して垂井で中山道と合流する陸のルートです。その道を更に西に2~3分程で信号のある交差点を左に進みます、次の目的地は西区城西の屋根神様です。信号を渡り左に進むと写真のような小さな公園が視界に現れます。手前の建物の二階に小さな社が祀られています、西区城西の屋根神様到着です。写真は通りから南方向の眺め。見えていた公園は「城西南公園」住宅街の小さな公園は、街中にあって子供が安全に集える貴重な場所かもしれません。子供の頃はこうした公園で遊んだものですが、今どきはどうでしょうかね。通りから北方向の眺め。一階の庇の上に綺麗に祀られるています。屋根神を祀る住宅は住人の方も住まわれているようです。運良くお会いできればお話をお聞きしたかった、訪れる側はその時限りでも、住まわれる方にしてみれば毎日かも知れません、屋根神様を見て廻る際はその配慮が必要かもしれません。扉は閉じられ中の様子は窺い知れませんが、こちらの祭神も秋葉社、熱田社、津島社が祀られているようです。ここ城西の守り神もこうして現存し、屋根の上から町を見守っています。堀川沿いには昔の面影を留める民家や名古屋固有ともいわれる屋根神様が残っています。屋根神様を祀るようになったのは明治頃と言われ、特に堀川の西にかけての四間道(しけみち)界隈は空襲を免れた町屋や土蔵も多く残り、ゆっくりと屋根神散策するにはいい場所かもしれません。「城西の屋根神様」住所 / 名古屋市西区城西1-1かみさんとランチの後の腹ごなし、かみさんのご機嫌もよろしいようで、あと一社は付き合ってくれそうです。ここからもう少し西の通りを目指すことにします。
2020.02.06
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2020/1/18知多郡南知多町大字豊浜かみさんの知多四国八十八ヶ所霊場巡りで豊浜漁港を過ぎた辺りを通りがかり見かけた「峠の地蔵さん」息子達が小さい頃、目の前の豊浜の漁港へ釣りに訪れたことはあるが、当時は気にもしなかった。左のカーブの手前に「峠の地蔵さん」と書かれた白い幟が立ち並んでいます。ブラインドカーブの右手には荒磯松園地という小さな公園があります。山を背にして立つ堂は「峠の地蔵さん」とあるけれど、名に対して地蔵堂の周辺はそれほど峠感は感じられません。豊浜漁港に駐車させて頂き地蔵さんに向かい、正面全景を収める。境内左に立派に枝を張った巨木が聳え立ち、その勢いは堂を覆いつくさんばかり。交通安全と書かれていますが、事故が多発する?から堂が作られたという訳ではないようで、それ以外の動機からここに峠の地蔵を安置する理由があったはずです。そのあたりは由縁を語るものがあると思っていました。道路を渡り堂の周辺を見渡す。唯一掲げられていた「峠六地蔵尊御詠歌」とあり、三首が書かれています。「斎藤駒吉作1. 帰命頂礼(きみょうちょうらい)六菩薩(ろくにん)の峠にまします地蔵尊 岬の山を背に負いて港の船を眺めつつ 身を焼く夏も寒き夜も衆生済度(しゅうじょうさいど)と立ち給ふ 2.荒磯の 松に吹く風を 諸行無常の聲(こえ)と聞き 磯うつ波を 華と見て 巷につづく人々も 走る車も押なべて 移る現世(このよ)の 影絵なり3.春は桜の花吹雪 秋は真澄の月の影 心にもしも 憂あらば 菩薩の前に叩頭(ぬかづ)きて 必ず苦難打ち解けむ 嗚呼ありがたや地蔵尊 嗚呼ありがたや地蔵尊昭和47年8月 日輪山第65世 秀空大俊合掌」どなたか調べて見ましたがわかりませんでした。帰命頂礼(きみょうちょうらい)六菩薩とあるけれど、帰命頂礼が分からないので調べて見た、「仏の教えに一身をささげ従い、頭を仏の足にすりつけて礼拝する」意味の様です。6菩薩と詠われているけれど、堂内には7体の地蔵が安置されています。写真は二枚貼り合わせてありますが、数え間違いではなさそう。堂の右手に裏山に続く小路があり、上まで登ってみました。小路の途中から眺めた豊浜漁港。古くは「すさの入江」と呼ばれ漁業で賑わった場所、それは今も変わりません。豊浜港は自然地形を生かした天然の良港として古くから「須佐の入江」として栄えていました。その光景は尾張名所図会にも描かれていました。近くには縄文時代中期の遺跡も残り、遥か昔から人が生活していたところ、そのことから万葉集にも「須佐の入江」として「あぢの住む 須佐の入り江の荒磯松 我を待つ児らはただ一人のみ」など二首が残る歴史ある土地柄です。冒頭のカーブの右手の荒磯松園地はここから来ているものと思われます。小路は少し上ると見晴らしの良い高台に出ます。その奥に三体の胸像がありますが、詳細は分かりません。峠の地蔵さんに纏わる何かを期待しましたが、特にこれといったものは見当たりませんでした。ただ、ここから眺める西の伊勢湾、下の豊浜漁港は見晴らしがいい、なかなかのビュースポット。豊浜漁港もこの見え方です。たまには海を眺めるのもいいもんです。「峠の地蔵さん」住所 / 愛知県知多郡南知多町大字豊浜打合車アクセス / 南知多道路「南知多」ICから内海方向、国道247号線経由師崎方面に25分程
2020.02.04
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名古屋市東区芳野名鉄瀬戸線「尼ヶ坂」駅から南東方向を見るとすぐ目の前に高台が迫っています、「片山神社」はその高台に鎮座します。この高台は熱田台地の北端にあたり、ここから北の矢田川にかけて、高台は見られなくなります。市内にあって、郊外をイメージする豊かな緑が残っています。東に国道19号線、南に県道215号線、西に国道41号線と交通量は多いけれど、神社周辺はいたって静かな環境で時間はゆっくりと過ぎていきます。西陽に赤く照らされた境内には地元の方が入れ代わり立ち代わりに参拝に見えます。境内東側の神門。以前はここが境内への入口だったのでしょう、右に社号標もあり立派な門がありますが、現在は封鎖されていました。先程までばおあちゃんが居た南にある鳥居。右に社号標、やや東を向いて石鳥居を構えています、正面は社務所の様です。更に、鳥居の横を進むと、東を向いて鳥居が建っています。正面の入母屋の建物は神楽殿でしょうか。先程の鳥居に戻り境内へ。鳥居左には名古屋市教育委員会の解説板が掲げられ、その先の両脇に狛犬がいます。解説には以下のように記されています。「社伝によれば和銅二年(709)の創建とある。延喜式神名帳にもみえている古社で、山田郡鎮座。十九座の首位にあり、また国内神名帳には従三位片山天神とある。祭神は安閑天皇と国狭槌尊の二神を祭る。安閑天皇の御生母が、尾張連の祖の媛であったところからこの地に祭られたと伝えられる。」鳥居の先の狛犬。彫りの深い纏まった容姿をしています境内から見た東の神門。神門の左の一画に石標群。ここにも社号標がある。木々の間に建つ社務所、趣のある光景です。社務所から本殿方向の境内の眺め。左から手水舎、拝殿、幣殿、本殿の伽藍。大きな木々が聳える境内、それ程広大ではないけれど閉塞感は全くなく開放感を覚えます。切妻瓦葺の手水舎。大きなイチョウ、椋木が聳え、木漏れ陽が境内に差し込んできます手水鉢に龍はいませんが、厄除けの新竹が吊るされていました。拝殿正面全景。切妻瓦葺で唐破風の向拝を持ちます。拝殿左から社殿全景。左の巨大な切り株は老木故に伐採されたご神木、幹の巨大さが神社の歴史を物語っているのかもしれない。拝殿の左右に末社が祀られています。拝殿前の狛犬は両前足はしっかりと地につけています。拝殿屋根で踊る獅子、瓦には菊紋が施されています。拝殿向拝と鬼瓦。この神紋は桜紋だろうか?眼光鋭い拝殿前の龍の彫飾り。拝殿内部、渡廊にもこのような龍の彫飾りが施されています。参拝を終え、拝殿前から本殿方向の眺めを収める。片山神社は役の行者が創祀したとも言われるようですが諸説ありと受け取った方がいいでしょう。創建は709年(和銅2)祭神は安閑天皇、国狭槌尊、蔵王大権現。拝殿右の社は浅間社。浅間社の右に観音大神が祀られています。どこ?と思われるかもしれません。浅間社の脇から幣殿、本殿方向を眺めてみるが、本殿の全容は捉えきれません手前は本殿ではなく、回廊が付属した神門です。なんとなくですが、灯篭の右奥の本殿域に小さな社が見えているような・・・・・本殿域は見事に窺えませんでした。拝殿左のご神木の前に白山社。その右奥に龍神大神が祀られています。楠の巨木の左に5社が整然と祀られています。後方に本殿の千木が僅かに見えてはいる、相変わらず全容を見せてはくれない。5社の前を守護する垂れ耳の狛犬。左から稲荷社/玉津嶋社/金刀比羅社/香良須社/秋葉社が整然と並び祀られています。玉垣に薄っすら社名が記されています。賽銭箱の文字はとても鮮明。さて冒頭に神楽殿?とはっきりしませんでした。自宅に戻って調べて見たけれどやはり結果は同じ、もやもやです。今思えば、社務所で伺えば良かった、参拝に行かれる方は是非とも訪ねて頂きたいものです。神楽殿?と拝殿の間から西に続く参道があり進んでみました。本殿脇を通る参道から、なんとなく本殿の姿。上から下に切られた千木は外研ぎ、俗に男神を祀ると云われますが・・・・・銅葺流造の様に見えなくもないが良く分かりません。上は少し前のこの辺り、田畑が取り巻く一帯の小高い丘の上に片山神社が記されています。左上に尼ケ坂とあります、現在の尼ケ坂公園と尼ケ坂駅方向になります。手前に坊が坂(山門脇の細い小道)も記されています。ここに描かれた社殿の伽藍、鳥居と本殿の間に神楽殿らしきものも描かれています。現在の伽藍の向きとは違い、南方向を向いているような描かれ方です。因みに東側の坊ヶ坂、西の尼ケ坂共に昔の言い伝えから付いているようで、この杜には天狗も出没すると云われていたそうです。何れも、それだけ鬱蒼とした森だったという事でしょう。そんな尼ケ坂は参道から少し歩けば見下ろすことができます。上は尼ケ坂駅方向、下は尼ケ坂公園の眺め。以前は片山神社の一画で「蔵王の森」と呼ばれていたところ、大きな境内を誇っていたようです。上飯田、下飯田の地名は杜の中の神杉の上枝と下枝の指す方向から付いたとか。今は境内と公園の間は道路が作られ分断された形です。灯篭。左は1918年(大正7)、右は1849年(嘉永2)と刻まれています。保存樹のムクノキ境内に木漏れ陽もなくなり、夕陽を浴びた鳥居だけが赤く染まり出す。2020/1/11『片山神社』創建 / 創建は709年(和銅2)祭神 / 安閑天皇、国狭槌尊、蔵王大権現境内末社 / 稲荷社/玉津嶋社/金刀比羅社/香良須社/秋葉社/白山社/浅間社住所 / 名古屋市東区芳野2-4-28公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅下車徒歩5分
2020.02.03
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名古屋市西区城西5-22-13名古屋城のすぐ北を流れる堀川に架かる「筋違橋」から北に5分程歩いた住宅地に「 尾州高野山 大師寺」は鎮座します。赤い鳥居が目印になるのかも境内入口に「嵐の中で生きている、されど嵐に気付かず生きている」住職の教え書かれた掲示板が目に付きます。道路を更に進むと本堂が見えてきます。右に寺号標が建っているけれど、フェンスの「高野山真言宗 大師寺」の看板の方が目立っています。こちらにも「心中の悪魔を認める事ができる人は、自分を制す」と書かれています。「自らを分析し、改めるべきところは改めよ」という事でしょうか。耳が痛い言葉です。道路から境内を眺めると、正面に方形屋根の瓦葺本堂と左に稲荷鳥居が目に付く。手水鉢は境内右 芝生の境内と置かれたテーブルが個人宅のような趣で親近感ある雰囲気があります。境内左に稲荷鳥居が連なります。ふくよかな風貌の狛狐の先に熊鷹稲荷大明神。詳細が分からなかったので後日住職に伺ったところ、いつ頃のものかは分からないとの事。ただ、伏見稲荷から勧請したものとお話。ん?稲荷の右に宝船に乘った七福神。境内右に水子地蔵、釈迦如来、大師像が安置されています。笠を被った小さな地蔵が行儀よく並んでいます。本堂。方形の木造瓦葺屋根の頂の露盤はシンプルなものですが、本堂のシンプルな外観に相応しいものです。本堂前に重軽地蔵尊、赤い前掛けと笠を被ったお洒落な地蔵さん。願いを込めて地蔵を持ち上げ「一度目より二度目に持ち上げた時が軽く感じれば願いは叶う」そうだ。本尊は阿弥陀如来、宗派は真言宗 、創建は不明。住職によれば明治頃に御園座近隣に高野山の隠居寺として鎮座していたそうで、空襲で焼失後の1949年(昭和24)にお替地でこちら建てられたとの事。この近隣にはそうした時期に移ってきた寺院は多いとか。その後の昭和44年~60年の間は無住職の時期があったそうです。境内の眺め。風もない穏やかな午後、庭でお茶でも的な趣です。境内右の波切不動明王。弘法大師31歳(804年)に入唐する際に暴風雨に遭い、一心に念じたところ「波切不動」が現れ、荒れ狂う荒波を断ち切り船を導いたと云われます。住職によれば四国三十六不動尊霊場の二十番札所の光林寺の本尊と同じという事です。波切不動の左に印塔とその左に福光大龍神の社。現住職によれば移転の際には稲荷含めて祀られていたもので詳細は分からないとのこと。境内西の道路際の空き地に弘法大師像。大師寺の敷地で2-3年ほど前に居住者不在となり、大師寺に譲与されたそうで、住人の供養も含め建立したものだそうです。首を少し傾げた穏やかな表情の地蔵が弘法大師の脇に安置されています。大師寺から一筋西の城西5の道筋で見かけた地蔵堂。阿波国二三大師 一番、二番札所と刻まれた石標が建ち、側面には城北講と刻まれていて、調べてみるも辿り着けなかった。左手の手水鉢は清水を湛えています。堂内には一体の石地蔵「屋吉地蔵」が安置されています。こちらについても住職に伺うが、この地域で古くから祀られていたもので、戦災で焼け残り、新たに堂を設けて親しまれているものではないか、屋吉とは人の名ではないかとの事。真言宗 尾州高野山 大師寺創建 / 1949年(昭和24)本尊 / 阿弥陀如来境内社 / 熊鷹稲荷大明神、福光大龍神住所 / 名古屋市西区城西5-22-13公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「浄心」から東に徒歩10分程屋吉地蔵住所 / 名古屋市西区城西5-19-2
2020.02.02
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おはようございます 早いものでもう二月梅は咲き誇り、気の早い桜まで春の訪れを告げています そもそも冬はあったのか、膝神の怒りも今年はあまり現れないので、おやじにはとてもありがたいけれど新型肺炎は水際をすり抜け、見事に上陸を果たし身近に現れつつある、これはありがたくない 感染のメカニズムも明確になっていないものに恐れすぎ、騒ぎすぎ日常のマナー(手洗いと自ら咳が出るなら飛沫防止のマスク)の範疇の対処、それ以上に何をしろと 広い意味で自分に心当たりがあれば、インフル同様に個人が賢明な対応を取る事が問われているのではないかな過剰に除菌マスクを買い求めたり、人込みでマスクもせず咳込んでいる光景を見るといかがなものかと思う我家には普通のマスクが残っているけれど、買いだめに走ってはいません二月となれば節分、恵方巻の時期 名古屋城を中心に四方向に観音様がありますどこのお寺も千年以上の歴史を持つお寺です 名古屋城を中心に見て鬼門の方角にあたる寺院(笠寺観音・甚目寺観音・荒子観音・龍泉寺)を城を守る寺院として尾張四観音と定め、その寺を繋ぐ尾張四観音道もあります その年の恵方にあたる寺では盛大に節分祭が行われます今年の恵方は西南西の荒子観音に参拝に行くといいらしい 恵方巻も西南西を向き無言で食べるという事ですが、なかなかそれはできない今年八方塞がりにあたるかみさんは「厄除けのお祓いしようかナ」と言い出した 歳を重ね最近は50肩を訴え、毎朝ラジオ体操まで実践しているけれど内に秘めた衰えを感じているのだろう、それで気持ちが落ち着くのならお供させて頂きますよおやじはお祓いには縁がない、過去に一度だけ車のお祓いをした けれど、納車一週間でひたすらまっすぐに続く道でセンターラインを越えた対向車が突っ込んできた以来お祓いはしていない 厄払いではないだろうけれど、一月最後の昨日 名古屋城近くに飲茶を食べに出かけてきました以前飲茶を食べに来てリピートする機会を模索していたようです かみさん曰く息子誘っても相手にしてくれないらしく、おやじの休みに合わせネット予約「今回は全種類食べる!」と意気込んでいました・・・・・が意気込んではいたものの、若かりし頃の「まぼろし~!」と現実にはギャップがあるようです ブッフェだの食べ放だのは無理、シェアしての全品制覇、お腹一杯です内に秘めていた前回の無念もこれで晴れた事でしょう ご機嫌のかみさんに「せっかくなので腹ごなしに徘徊しよう」誘い、周辺を少し散歩 ホテルも今年中には解体らしい、奥の名古屋城も木造化、見納めです戦災の被害を受けた土地柄ながら、歩いて見ると新たな発見に出会えます 右は堀川沿いで見かけた屋根神さま 上は武嶋天神社境内で見かけた梅も見事に咲いていました 因みに梅も元は大陸から観賞用にやってきたと云われ、今では当たり前に見かけます腹ごなしで歩いたつもりですが・・・・・晩御飯はいらない感じ背赤ゴケクモ、ヒ蟻、米、トイレットペーパー、あの騒ぎは何だったんだろうと過去を振り返り笑い話になる集団行動に惑わされむやみに身構える必要はないのでは
2020.02.01
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