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『大神教本院』から大鳥居沿いに大和國一之宮大神神社へ。参道を横切る桜井線の踏切を越えてニノ鳥居に向かいます。やがて左に大量の樽が見えてきます、「大神神社酒殿」ここまで来るとニノ鳥居も目前。まだまだ飲んだことのない銘柄の多い事。大神神社ニノ鳥居。左の社号標は人と比べるとその大きさがイメージできよう、大和国一之宮の風格が伝わってきます。ニノ鳥居をくぐり境内を進みます、コロナ禍とはいえ参拝者が途切れることはありません。参道に架かる新橋の左に人が集まっています。「祓戸神社」まずは祓戸四柱の神に参拝し、穢れを清める。祭神 / 瀬織津姫神、速秋津姫神、伊吹戸主神、速佐須良姫神夫婦岩を過ぎ、目の前の石段の先に拝殿が見えてきます。石段を上ると左に手水舎三輪の7本杉のひとつ「しるしの杉」と呼ばれる御神木(株のみ)、手水鉢に清水を注ぐのはとぐろを巻いた蛇。大きな樹には白蛇はつきものだ、この境内には何匹の白蛇がいることやら。大神神社境内案内図、御神体である三輪山。そこに多くの摂末社が点在し、ササッと訪れ参拝するには広すぎる。拝殿現在の姿は1664年(寛文4)徳川家綱により再建されたものと云われ、この拝殿の先にあるべき本殿はない。三輪山そのものをご神体とする大神神社には本殿がなく、拝殿を通して三輪山そのものを拝む原初の神まつりの姿を留めています。訪れたのが6月末、拝殿前には大きな茅の輪。杉、松、榊と神霊の宿る霊木が飾られたこの輪をくぐる事で無病息災を祈願するもの。拝殿からその奥にある三ツ鳥居を通し、大物主大神が鎮まる三輪山を拝する。三輪山は大黒様の人を幸せにする幸魂と、知性の奇魂が宿る、御神体の三輪山そのものを崇める。我国最古の神社とされ、この拝殿の先に本殿はなく、拝殿奥の三つ鳥居を通して三輪山を拝む原初の神祀りの姿を今も伝える。大和國一ノ宮三輪明神 大神神社御祭神 大物主大神配神 大己貴神、少彦名神この地は大和の文化発祥の地とされ、山の辺の道や最古の市とされる海柘榴市(つばいち)等、政治・経済・文化の中心として栄え、大神神社は皇城鎮守神の明神大社22社の一つとして奉幣を受け、中古より大和國一ノ宮として崇敬されている。勅使殿から拝殿からの眺め、左の御神木は「巳の神杉」と呼ばれる樹齢500年と云われる杉の巨木。大物主大神の化身とされる白蛇が棲むとされる。現在の社殿は1992年から始まった平成の大造営により、1997年に儀式殿、参集殿、祈祷殿を築造、1999年に三ツ鳥居(重要文化財)と拝殿が保存修理の手が入れられたもの。勅使殿から右に進むと左に末社「神宝神社」の鳥居。参道の傍らに解説板。神宝の名が示す様に古くよりお宝・財物を守護する神として崇敬されている。祭神は家都御子神、熊野夫須実神、御子速玉神を祀る。「天皇社」三宝神社の右の小高い山の頂に鎮座します。鳥居左に解説板。石段を少し登ると視界は広がり「天皇社」が現れます。祭神は三輪山の麓に都をおかれ、小さな国々を平定し大和朝廷の基礎を確立された第十代の崇神(すじん)天皇。拝殿から左方向に進むと「宝物収蔵庫」と「祈祷殿」、「狭井神社」へと続きます。1997年に建てられた「祈祷殿」、日々の祈祷や結婚式を奉仕する施設。久すり道(くすり道)狭井神社へ続く緩やかな登り坂が続く参道。三輪山登拝は社務所に申し込み、決められたルールを順守することが求められます。参道脇には薬業関係者により奉納された薬木や薬草が植えられています。「狭井神社」鳥居。鳥居脇の鎮女池に浮かぶ「市杵島姫神社」桜井市茅原に鎮座する末社の富士・厳島社から勧請された神社で、祭神は素盞嗚大神の子で、水の守護神とされる市杵島姫命を祀ります。安芸の宮島のご祭神として、七福神の中で福徳財宝、芸能を司る神様として親しまれています。5月下旬から6月上旬にかけて境内のささゆり園のささゆりが見頃を迎えます。この辺りの水辺でも見られ、神社に彩りを与えてくれる。摂社「磐座神社」背後に鬱蒼とした杉の樹が迫る神秘的な空間、鳥居の先に社殿はなく、玉垣で囲われた中の岩(磐座)をご神座として祀る。祭神は「神農さん」とも呼ばれる薬の神様、少彦名神を祀る。「狭井神社」正式には狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわのあらみたま)神社と呼ばれ、大神神社の荒魂を主神に大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)、事代主神を祀ります。創建は垂仁天皇の時代の創建されたと伝わるそうです。入母屋檜皮葺の拝殿と春日造りの本殿の伽藍。こちらに参拝する目的の一つに、拝殿左奥にある井戸(薬井戸)から湧き出る霊泉でしょう。病気平癒、身体健康の神様として信仰が篤い神社、そこに湧き出る霊泉は様々な御利益があり、それを授かりに訪れる。井戸の周囲は狭いけれど、コップも用意されています、立ち寄って御利益を授かってはどうでしょう。ここからだと本殿の姿も窺うことができます。「狭井神社」を後に久延彦神社方向の展望台に向かいます。展望台は恋人の聖地と称するようですが、ネーミングはともかく、ここから見下ろす三輪の街並みと、そこにそそり立つ大鳥居の光景は恋人でなくとも立ち寄ってみても損はない。上久延彦神社の外れにある遥拝所、傍らにフクロウの絵馬が掛けられています、その数はすさまじい。下「久延彦神社」拝殿末社『久延彦神社』知恵の大神祭神は久延毘古命をお祀りする、「世の中の事を全て知る知恵が優れた神様」なので知恵や学問向上、合格・就職成就の徳を授かりに訪れ、そしてフクロウの絵馬に願をかける。久延毘古命も大変だ、黄金色の稲穂が実る田んぼの中でのんびりしたいのではないだろか。摂社「若宮社」久延彦神社正参道から山の辺の道を右に進み、右手に株だけになってしまった「おだまき杉」が現れるとそこが「若宮社」、直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)とも呼ばれ国の重要文化財に指定されています。線の太い姿の鳥居前の狛犬。写真で大きさは伝わらないと思いますが、台座の上の彼らは見上げる様な高さにある。境内右手に小さな池があり、訪れた時には睡蓮の白い花が咲き誇っていました。その先には小さな社。末社「琴平神社」祭神は大物主神を祀ります。末社「御誕生所社」社務所の右に鎮座し、「磐座神社」同様に鳥居の先に本殿はなく磐座が祀られています。鴨津美良姫命を祀ります。「御饌石」お正月の御神日祭り際、正面にある岩に久延彦神社に神饌を供えたり、ここから大神神社を遥拝する場所として使われる。拝殿正面。外観は拝殿と云うより本堂の方がマッチする。明治の神仏分離以前までは大神神社の神宮寺「大御輪寺」であった。現在は大神神社の摂社として「若宮さん」として崇敬されています。祭神は大物主大神の子孫で大直禰子命で、 少彦名命と活玉依姫命の二柱を配祀しています。神宮寺当時の本尊の十一面観音像(国宝)は現在聖林寺に安置されているそうです。「若宮社」から正面に進めば目と鼻の先がニノ鳥居。素の道すがらで見かけたお堂、寺号標がある訳でもなく「馬場木村のお地蔵さん」とあるだけ。ボケ封じ、脳天地蔵かぁ、中に入りたいとこですが、ここで道草をする訳にはいかない。かみさんを追いかけねば。大神神社の参拝は以上で終わり、行きたかった神社もありますが、帰りの時間を考えるとこれ以上は回れません、ニノ鳥居に戻ります。「大和國一之宮大神神社」御朱印「大和國一之宮大神神社」住所 / 奈良県桜井市三輪1422公共交通機関アクセス(名古屋より) / 近鉄名古屋駅⇒名張駅⇒近鉄大阪線⇒桜井駅⇒JR桜井線「三輪」駅下車 関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳 ・大神神社境外摂社 綱越神社・大神神社 『大神教本院』
2020.10.31
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「諏訪神社、吉嶽稲荷神社、参拾番神社」尾張旭市の愛知県森林公園を御存知の方は多いと思います。森林公園は名古屋市と尾張旭市の境に位置しますが、目的地は森林公園西外れのテニスクラブ付近。県道75号線の北側になり、住所は名古屋市守山区中志段味南原になります。『諏訪神社、吉嶽稲荷神社、参拾番神社』は県道脇に三つの鳥居が並んでいて、分かりやすいと思いますが規模は小さなものです。鳥居は左から諏訪神社、吉嶽稲荷神社、参拾番神社と並びます。左の『諏訪神社』、縁起含めて詳細は分かりません。ここから北西に20分程歩いた中志段味宮前にも諏訪神社がありますが、そちらと関連があるのかもしれません。伽藍は左に手水舎と正面にこぢんまりとした拝殿、その奥にコンクリートの小さな覆屋へと繋がっています。諏訪神社狛犬大陸の香り漂う線の太い容姿ですが、下を向く姿が怒られた子供のようで妙にこの姿印象に残る。外からも拝殿からも本殿の姿を窺うことは出来ません、祭神は武御名方命。過去の地図など調べて見ましたが、創建を推測する鳥居の印は見られません。『諏訪神社』創建 / 不明祭神 / 武御名方命関連記事 / 『諏訪神社』名古屋市守山区中志段味右隣りの『吉嶽稲荷神社』コンクリートの覆屋の中に社が収められていますが、外見から稲荷を印象付けるものは見当たりません。以前からここに鎮座するものなのか、宅地化に伴いこちらに纏められたのか詳細は不明。鳥居に額が掲げられているだけでもありがたいと思うべきだろうか。『吉嶽稲荷神社』創建 / 不明祭神 / 不明一番右が参拾番神社。参拾番神社額。神仏分離前には結構身近に祀られていたようで、それも徐々に衰退していったようです。あまり馴染みがない社名ですが、過去に記載した「山口街道と民俗史跡めぐり 1 三十番神社」の様に、街中でひっそりと佇んでいるかもしれません。こちらもコンクリートの覆屋の中に社が収まっています。こちらの祭神はそうそうたる顔ぶれ。陰暦の1日から30日を日替わりで三十番神が入れ替わる。ここにきて毎日参拝すれば全てを拝める。移動手段が整った今とは違い、ひと昔前はこれらを詣でるのは一大イベント、身近にこうした神社の祀られるのも自然の成り行きかもしれない。 それにしてもこんな小さな社に多くの神さま、さぞかし賑やかなことだろう。『参拾番神社』創建 / 不明祭神 / 参拾番神関連記事 / 山口街道と民俗史跡めぐり 1 三十番神社それにしても・・・・・君何かあったのかい? 悩みでもあるのかい?力にはなれないけれど、せめて上を向こう。『諏訪神社、吉嶽稲荷神社、参拾番神社』住所 / 名古屋市守山区中志段味南原公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」下車、南に庄内川を越え徒歩40分
2020.10.29
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前回掲載した「飛騨の水屋と天醫稲荷大明神社」宿から稲荷神社、温泉寺を経由し温泉街に向かったのですが、写真の並びが宜しくない、温泉寺の写真の並びを変えています。下呂の温泉街から少し東に外れた「中根山」の麓に温泉寺参道があります。参道入口の寺号標と地蔵堂が目印です。「子守り地蔵尊」その昔、飛騨川が氾濫したときに幼い子供と、そのお婆さんが濁流の犠牲となり亡くなったそうで、それを哀れんだ村人がお祀りしたのが始まりと云う。後半の言葉はとても重たい。堂内にはしっかりと幼い子供を抱く子守地蔵様が安置されています。173段の石段も間もなく終わりです、目の前には城壁の様な壁と山門も間近。山号は「醫王霊山」山門の先で「下呂五福神」がお出迎え。毘沙門天と福禄寿は秘仏のため、ここには安置されていません。歳と共に日常生活で若かりし頃との違いを実感するこの頃、そんな歳である。それでも普通に五体満足であることにここで感謝する、「おかげさまで・・・・・」と。右から補修中(9/28時点)の社は旧飛騨屋邸地蔵堂、中央が「本堂」で、左の方型の建物は「湯掛薬師」。「飛騨屋は元禄期より北海道松前藩のもと、アイヌやロシアと交易、北前舟などで材木や魚介類を本州に輸送した江戸時代の大財閥。この檜皮葺の地蔵堂は飛騨屋久兵衛4代益郷が1821年(文政4)下呂本店屋敷内に建立したもので現存する唯一の遺構。」「湯掛薬師」お湯掛け薬師とも呼ばれ、師如来像の鎮座する蓮台から温泉が湧いて、若い頃とは違う個所に温泉をかけ、お参りすると癒されるそうだ。全身浴びたいところですが・・・・・目だね。本堂前から堂内の眺め、下呂温泉と白鷺は切り離せない、堂内にはその白鷺が彫られた額が飾られています。現在の本堂の創建は1671年(寛文11)とされ、それ以前は「湯島薬師堂」とよばれ記録では1507年(永正4)まで遡るそうです。下呂温泉は平安時代には既にあったと云われ、1265年(文永2)湯ヶ峰にあった湯源が涸れてしまつたそうです。ある時益田川に舞い降りた白鷺が村人に新たな湯源を告げたという。白鷺は再び飛び立ち「中根山」中腹の松に留まったそうで、村人がその場所に行くと金色の薬師如来が鎮座していた、白鷺は薬師如来の化身で、舞い降りた場所が温泉寺という事です。「さるやの石」この地に伝わる昔話で、日本昔話にも取り上げられた、養蚕を営んでいた優しい夫婦が親とはぐれた小猿を飼うようになった、子猿は成長と共に夫婦をよく助けたそうです、特に蚕を食べてしまうネズミの駆除をよくつとめてくれていた、やがて猿は天寿を全うし、お墓を作ったところ「猿の墓の回りの小石を持ち帰るとネズミ避けになる」と評判になったそうで、以来願掛けの小石とされるようになったそうです。「中根山」中腹の境内、その西側に建つ「温泉寺普明堂」。ここから写真右手を眺めれば、はるか下に流れる飛騨川(益田川)と下呂温泉街が一望できる。あれから一か月を経て、今は紅葉の山々と境内の紅葉が美しい事でしょう。堂内右側の机に並ぶ白い物体、願がかけられた石が山積みです。山門脇の鐘楼、白鷺が羽を広げたような軒の広がりを見せている。下呂の街にこの鐘の音は良く響き渡る事でしょう。本堂の右には上に続く細い参道があり、本堂の裏山に続きます、この絵馬は本堂の側面に飾られていたもので、よく見ると文政等の元号が記され絵馬も見られます。本堂裏から上に登っていくと既に掲載した「飛騨の水屋と天醫稲荷大明神社」へと続きます。温泉街の外れの地蔵堂から続く173段の長い石段、ゆっくり上って辿り着く温泉寺境内から眺める下呂の街並み、それだけでも満足感は得られるはずです。良くぞここまで上れたものだ、五体満足に感謝するしかないだろう。醫王霊山温泉寺宗派 / 臨済宗妙心寺派創建 / 1671年(寛文11)本尊 / 薬師如来住所 / 岐阜県下呂市湯之島680関連記事 / 飛騨の水屋と天醫稲荷大明神社
2020.10.28
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今日は風もなく穏やかな一日でした。今年はコロナ禍で知多四国巡りも中断が続いていたけれど、かみさんのテーマでもあり、久し振りに参加するとのこと、ならば車で知多半島まで送迎しよう。二人とも久しく歩いていなかったので久しぶりのウォーキングです。とはいえ歩くのは彼女、おやじは車で周辺の寺社を回ってきました。今回徘徊したのは野間近辺。まずはかみさんの第一チェックポイントの知多四国五十七番札所「報恩禅寺」。ここで知多四国巡りの彼女を見送り、おやじは別行動。第一目的地はおやじには似合わない「恋の水神社」万病に効く延命の神水として、近頃では「恋の水」として若者たちが参拝に訪れるそうだ。桜姫もこんな沢山の願いを叶えなければならないとは恋の水神社住所 / 知多郡美浜町奥田中白沢92-91大己神社美浜町奥田の小学校の南の高台に鎮座、大己貴命を祀る神社、先の「報恩禅寺」とは所縁がありそうです。住所 / 知多郡美浜町奥田海道田181八幡社南知多ビーチランド付近の国道247号から東に入った、細い昔ながら路地に鎮座する。祭神は応神天皇をお祀りする住所 / 知多郡美浜町大字奥田字儀路8瑞延寺八幡社からすぐ近く、1504年(永正元年)の開基で本尊は延命地蔵菩薩。住所 / 知多郡美浜町奥田海道田136冨具崎港の東の小高い山の頂にある小さな冨具崎公園。車で行けるけれど道が狭くすれ違いは大変、駐車場も数台分展望台からビーチランド方向の眺めはなかなか見通しがいい。住所 / 知多郡美浜町野間冨具崎114冨具神社美浜町野間の総鎮守、志那津比古命と志那津比賣命を祀り、尾張国神名帳に文治二年丙午(1186)の記録が残る。車で頂の駐車場まで行けますが、東側の旧参道の石段を登り参拝する事をお勧めします。住所 / 知多郡美浜町大字野間字冨具崎65秋葉神社内海千鳥ヶ浜海水浴場の目の前の小山に鎮座します、海を臨む趣のある神社。住所 / 知多郡南知多町内海東座頭畑 以上が今日参拝できた寺社、3時間少々ですが結構効率的に回る事が出来ました。丁度秋葉神社の石段を下っている時にかみさんからのお迎え要請、久し振りなのに結構ペースは速かったようです。ピックアップポイントの野間灯台に向かいます。久し振りの2万歩越え、久し振りの海、久し振りの遠景・・・・・飛び交う飛行機の少ない事。折角なので海を眺めて昼ご飯、Go To Eat。昼にしてはボリューム満点、晩御飯抜きか?お腹も満たされ、13時に常滑コストコ経由で岐路に着く。
2020.10.26
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春日井市大留町『子安神明社』天王山古墳から庄内川右岸堤防沿いに歩いて5分程上流に向かいます。堤防に上がり上流を眺めれば対岸は東谷山、左に高蔵寺も視界に入ってくる。この辺り、現在は住宅が立ち並び更に広がりを見せていますが、1546年(天文15)頃は足利義輝配下の村瀬氏の領地、この地には大留城が築城され、村瀬作右衛門が城主となり篠木荘一帯を治めていた。『子安神明社』は庄内川右岸堤防北側、大留城二の丸跡に鎮座しています。城は1584年(天正12)の長久手合戦で作右衛門の討ち死により廃城となり、現在は城の痕跡は本殿後方に空堀らしき痕跡?が残る程度。通り沿いに子安神明社の新旧の社号標が建ち、参道の先に鳥居を構えています。参道に入ってまず目につくのが大きなクロガネモチの樹、その下に小高く盛られた上に建つ赤い社。社は社名札がなく詳細は不明、右の石標は社号標かと思っていたけれど『大留城趾』の石標。嘗てここに城があった事を伝える唯一のモニュメントかも知れない。参道は左に曲がり奥へと続き、そこに鳥居が建てられています。右に手水舎、鳥居の先に蕃塀と拝殿、本殿の伽藍の様です。個人的にこの辺りで舟型の手水鉢を見かけるのは珍しい。鳥居の先でドーンと蕃塀が構える。鳥居方向の眺め。蕃塀左の樹の根元に何か石標らしきものがあります。水神社張り出した根の勢いで石標も傾いてしまっています。蕃塀の先に四方吹き抜けの切妻瓦葺の建物は舞殿?それとも拝殿?よく分からないのでここは舞殿としておこう。吹きっ晒しにしては綺麗な床、舞殿から拝殿の眺め。石垣が積まれ一段高いところに神殿域、手前で狛犬が守護している。向拝が付けらた切妻妻入の拝殿のようです。狛犬、強調された吽形の目が印象に残る、出目金ならぬ出目狛。拝殿、本殿の全景、右側に複数の石碑が建てられている。本殿後方と右側に僅かに城の空堀らしき名残が残る。拝殿内から本殿の眺め、社名から推測すると祭神は天照大御神。創建となるとさっぱりわからない。鳥居は大正の元号が彫られていましたが、1891年(明治24)の地図でここに鳥居の印が記載されているのでそれ以前である事は間違いない。渡廊から本殿。本殿域右側、本殿右に板宮造の小さな社があるようですが、詳細は不明。拝殿の左側、左に猿田彦神社と本殿域にも一社祀られているようです。玉垣から続く塀の端に陶器の小さな狛犬。本殿左の三本の鰹木と内削ぎの千木が施された社、こちらも社名札はなく詳細が分かりません。本殿域右の石碑群は霊神碑、御嶽神社です。東側から境内の全景。ここに城があった、そんな面影は感じられません。神社南側、この土手の向こうは庄内川が流れる。『子安神明社』創建 / 不明祭神 / 天照大御神住所 / 春日井市大留町6丁目20-8公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車、「大留神明社」、「天王山古墳」経由で徒歩30分関連記事 / 大留町神明社、 天王山古墳『大留城趾』築城 / 1546年(天文15)廃城 / 1584年(天正12)城主 / 村瀬作右衛門
2020.10.25
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お国からの還元の恩恵は漏れなく利用しよう。そんな趣旨で9月の終わりGOTOで下呂温泉へ。宿から下呂の温泉街を徘徊した間、現地で見かけて目に留まった寺社を今回は記載します。下呂の町には「ここは行っとけ」的な寺社がありますが、それは意識していません、どこまでも道すがらです。まずは宿から少し下ったところに温泉寺の参道があったのでここから温泉街に向かいました。山の斜面を切り開いた細い参道を下っていきます、下を眺めるとすぐ下に社が見えます。かみさんに道草に付き合ってとお願いし、写真だけは収めてきました。神社に降りていく参道沿いには所々こうした石像が安置されています。上は天保(1831~1845)の元号までは読めるがそれから下は今一つ分からない。下は馬頭観音だろうか? こちらは元号すら分からない。参道をさらに下ると左の斜面に水屋が現れる。「飛騨の水屋」と云うようで、屋根が飛騨地方特有の建築様式だという。栗の木を割った「板ぐれ」とよばれるもので葺いているそうです。水屋の中には石が組まれ、三つの碑が建っています。左が山之神、中央に水神、右が氏神とある。山の神の後方斜面から清水が湧き出ています。その水は松の木を刳り貫いて作られた水船に溜められ、中を二つに区切り片側は飲料水として、時には夏場に野菜や果物を冷やしたり、もう一方では洗い物に使い分けていたそうです。飛騨地方の水屋の解説板。水屋の先が上から見えていた神社。稲荷神社の様です。「天醫稲荷大明神社」由緒書きには以下の記載。・1856年(安政5)、温泉寺の鎮守として祀られた。・温泉寺山号の「醫王霊山」に基づき天醫稲荷と伝わる。・明治維新後、神仏混合廃止令により当地若宮八幡宮へ合祀されたが、明治4年、寺の平安と温泉街の発展を願い、京都伏見稲荷大社より勧請、温泉寺境内に再び祀られた。・平成20年、造営150周年を機に地元有志により新築落慶。鳥居から天醫稲荷大明神社の全景。石で作られた流造の社、狛狐、灯篭など、2008年に建て替えられただけあって、緑に囲まれた環境の中で石の白さと鳥居の朱が鮮やかに見える。鳥居の傍らの由緒書き。今頃は緑の樹々は赤や黄に彩りを変えている事でしょう。飛騨の水屋と天醫稲荷大明神社創建 / 1858年(安政5)祭神 / 宇迦之御魂神住所 / 岐阜県下呂市湯之島関連記事 / 青春18切符で京都まで VOL1『伏見稲荷大社登頂』
2020.10.24
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大神神社境外摂社綱越神社 を後にして三輪山方向へ細い道筋に唐突に広い参道と鳥居が現れます。これが大神神社の一ノ鳥居。鳥居の先に見える反橋は渕本橋、橋を横目に参道を進みます。参道の先に唐破風付きの建物が『大神教本院』なんとなく『大神教本院』の鳥居にも思えてしまいますが、大鳥居が一ノ鳥居ではなくこちらの鳥居が大神神社一ノ鳥居。大鳥居からニノ鳥居へ続く車道と歩道が整備され、今では表参道の様になり、一の鳥居のあるこの参道から参拝に向かう方は少ないようです。「三輪へ参らば上下かけよ どちら欠いても片参り」、大神神社を上の宮とすると『大神教本院』は下の宮にあたり、 ここは一ノ鳥居から参拝でしょう。大神教本院は「大三輪神祠大神教本院」とも呼ばれ、大神神社の分祀に当たるようです。大三輪神祠(神殿)には大神大物主大神、大己貴神、少彦名神、事代主神を主神として、天之御中主神、天照大神、伊邪那岐神、等神代七代の神々をお祀りする。大三輪霊祠(祖霊殿)幽世之大神(三輪大神の別称)・明治天皇・照憲皇太后の御神霊、歴代管長、歴代大神神社宮司、一般崇敬者の祖霊及び累代の零位が祀られている。教旨神ながらの大道を遵奉し、儀式・行事を行い敬神と崇祖を生活の信条とする。大神神社との関係明治5年、明治の大教院制度公布により、大神神社に小教院を付設したことに始まります。同13年、大神神社小教院から大教会へ名称を改める。同28年に神道大教から分離・独立する事で現在に至る。・・・・・一杯書いてある、理解には到底及ばないけれど神仏分離令に大きく影響を受けているようだ。なんか、沢山の神様がお祀りされているようです。神殿(拝殿)味のある「大神教」の額。この額はここから車で15分程北の、四世紀頃に築造された古墳、「柳本大塚古墳」から出土した木棺の蓋が再利用されているそうです、並大抵の味わいではない。それにしても出土品が額に転用できるとは。五七の桐の紋が際立つ神社幕。ここに先程の多くの神が祀られている。手水鉢の龍、多くの神〃が見ているからか、えらく良く働いています。手水舎その左に鳥居がある。ここにも龍はいるけれど、目が届かないからか、少しさぼっているような。鳥居の先、神殿側に祓戸社。祓戸社祭神 三輪大神祓戸の四柱神 / 瀬織津比売神、速開都比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神祓戸の二柱神 / 神直日神、大直日神祓戸の三柱神 / 表筒男神、中筒男神、底筒男神疫病除の神 / 速素盞嗚神災難除の神 / 意富加牟豆美神覆屋は二段になっていて、上に社、下に古神符を収めるようです。上段に社、ここも大所帯のようだ。祓戸社左に見た事のない三角形の鳥居。所謂笠木と云われる最上段の横の柱が三角形に組まれている。指ではじいてみると金属音が響く。三柱鳥居と呼ばれ、ムスビ鳥居とかヒフミ鳥居とも呼ばれるようです。宇宙の元霊神の三つの神理に参入する特殊な鳥居とされ、古事記にも記され、始まりの神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の造化三神を表わしているとされ、心身を清めこの鳥居を通り抜けることで神縁を得られるとされる。その先の右が稲荷大神、左が三寶荒神。これから向かう大神神社には所謂本殿はなく、拝殿の先の三輪山そのものが本殿。拝殿の先の禁則地「三輪山」に結界を張るように建つ三つ鳥居がありますが、それとは少し性格が違うようです。ここにも桐紋稲荷大神小さな白い狐が社を守護しています。祭神 / 宇迦之御魂神、佐田彦神、大宮能売神右手が三寶荒神ここは小さな狛犬が見えるこちらは三つ巴の紋後方の白いのは?レンゲか?しゃもじ?か三寶荒神祭神 / 火産霊神、奥津彦神、奥津媛神防火、竈の神大鳥居から参道を歩いていると道路に面して上の写真の様に『大神教本院』と特徴のある三柱鳥居が見えます。下の宮、素通りするにはもったいない。下の宮を参拝し更に東に進むと、大鳥居からの表参道に出ます、そこからは歩道沿いにニノ鳥居を目指します。歩道は先程とうって変わって参拝客でいっぱいです、道路も近い駐車場を目指す車がならんでいます。出口に近い大鳥居の駐車場を選ぶか、ニノ鳥居に近いけれど先の見えないこの列に加わるか?視界の先に見えているのは目指す三輪山です。大神神社 『大神教本院』奈良県桜井市三輪1198関連記事 / 大神神社境外摂社 綱越神社
2020.10.23
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春日井市大留町6-13「天王山古墳」県道15号線中志段味交差点から県道214号線を春日井方向に向かいます。庄内川右岸の堤防沿いに「天王山古墳」があります。2004年測量、2007年発掘調査が行われる前の古墳の外観は竹藪の中にあり、それが古墳だということも知られていなかったようです。その後古墳を含め一画は「天導塚公園」として整備され、古墳は保存された様です。庄内川右岸堤防から北側の公園の眺め、古墳の公園といってもいいでしょう。ここから西に徒歩5分の所に「大留町 神明神社」鎮座します、そこは古墳(親王塚古墳)の場所に神社境内が設けられ、この辺りではそうした神社と古墳がセットになったところが結構あります。こちらは古墳単独で保存されています。天王山古墳全景築造は古墳時代前期(4世紀頃)とされ、2007年の発掘調査で根拠となる出土品として、赤彩を施した二重口縁壺や高坏が出土したそうです。それ以前は古墳時代後期(6世紀頃)と云われていたいたそうですが、それらの出土品により現在では4世紀頃築造が定説のようです。現在の墳丘の規模は高さ4㍍で直径は26㍍の円墳ですが、本来の高さは5㍍、直径は34㍍だったと考えられています。すぐ前に庄内川が流れていることから、川砂や粘土質の土で盛り上げ、その斜面には川石を敷き詰め葺石としたようで、墳丘の周囲には周溝もあったようです。そうして築造された墳丘の頂上、中断、下段には赤く彩色した壺型の埴輪が1㍍間隔で配されていたようです。埋葬者は不明。「天導塚公園」の現況竹藪はなくなり、公園に整備され、円墳の古墳が保存されています。周囲は宅地化、区画整理が進み住居が建っていますが、公園になっていれば今後も今の姿を留めていくでしょう。天王山古墳古墳様式 / 円墳築造年代 / 古墳時代前期(4世紀頃)住所 / 春日井市大留町6-13関連記事 / 大留町 神明神社
2020.10.21
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取り敢えず床は貼り終えた。結局この工程で7時間を費やすどこで時間を費やした?便器周辺の型取り、水道金具の型取りに相当時間をかけてしまった。この便器の型があればどうという事はないけれど、メーカーサイトの情報がなく全て実測。この一番微妙な型を取るのが面倒な場所、なにぶん狭い。見えない。そんな場所で厚紙にトレースしようとするも、片手で紙を抑えつつ、鉛筆で線を引くその姿勢、あっちこっちの筋肉が引きつってくる。それに耐えて型さえ取れれば、それをもう一度デコウッドにトレースして大きめの鋏で切るだけ。写真左上の水道金具は直径を計り、カッターで型をくりぬいて、端から切り込みを入れれば金具を取り外すこともなく綺麗にフィットさせる事が出来ます。切り抜き誤差で出来た些細な隙間は木工ボンドで埋め、乾く前に拭き取ると綺麗に埋まり、乾くとあの白い色は透明になり目立たない。大きな誤差は端切れでその型に合わせ切り出して埋めれば目立たない。木目は敢えて柄やトーンの違うものを交互に貼りアクセントにしてみた。この一面を貼るためにデコウッドを9枚使用。やり出すと止まらなくなるのでキリの良い所で一旦中断、残った13枚は腰壁に使います。次は給水タンクの中の排水弁パッキンを交換しよう。我家のトイレメーカーは「とーとー」。給水タンクの中の写真の部品の黒いパッキンは二枚セットで700円(送料別)で手に入る。因みに我が家のSH670BAの給水タンクで排水弁パッキンの型番はHH11027。水道屋さんでも手に入ると思うけれど、空振りは無駄なのでwebで発注、普通郵便で手配中それが届くまで作業は一休み・・・・・届いても一休みかもしれない。やるぞ!となるまでに時間がかかる関連記事 / 雨・・・・・トイレのリニューアルやるか
2020.10.20
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粉河寺(5/5)最後となる今回は本堂左の千手堂の右から粉河産土神社方向を見ていきます。千手堂の右奥が赤い鳥居が「粉河産土神社」鳥居に続く石段の左に行者堂の案内、まずはそちらに向かいます。石段左の小路を進み行者堂へ。先が見えない道はどれだけ歩くのか不安になるけれど、この看板から50㍍(1~2分)もあれば行者堂です。行者堂、瓦葺のこぢんまりとした建物。石段を登ると森の一画を切り開いて造られた小さな空間、中央のこぢんまりとした建物が行者堂。役小角(神變大菩薩)を安置し、年に一度正面の扉が開放されるそうです。再び粉河産土神社に戻り参拝に向かいます。神社への参道は二通り。右の赤い矢印が本堂右側の薬師堂から、左が写真の石段のある場所。入口左、延暦年間に始まったとされる「粉河祭礼渡御式縁起」の解説。この渡御式は二年に一度開催されるそうで、とんまか通りを複数のだんじりが曳航されるそうです。石段の先にある朱の鳥居をくぐると境内が広がり、拝殿が迫ります。おんどり石『鎌倉時代末、元寇の時、元の大軍を前に日本の武士たちは勇敢に戦ったが大苦戦で退去を余儀なくされた。その際、当社の祭神丹生大明神が鶏に乗り現地に赴き、神力で大風吹き起こした。元の軍船は殆ど難破し、沈没して全滅した。所謂、「神風」で敵を退けたのである。この鶏が石となって産土神社境内に坐り続けて神社を守護している。更に正月三日にはこの「おんどり石」が一声鳴いて石段を登ると云われ、鳴き声聞くものは長生きをすると言われている』所謂、蒙古襲来。「文永の役(1274年)」、「弘安の役1281年)」大陸からの二回の侵略を受けます、何れも神風により救われますが、その風を起こしたのが鶏に乘った丹生大明神だという。拝殿風猛山を背にして鎮座し、春日造の本殿が二棟並んで鎮座しています。現在の本殿は江戸時代に再建されたものという、創建は770年(宝亀年間)に粉河寺創始に際し、鎌垣庄の各村の氏神を勧請したのが始まりとされます。祭神は丹生都姫命(にうつひめのみこと)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀ります。産土神はその土地の守り神、それらを纏めて祀る神社が粉河産土神社。粉河産土神社狛犬粉河産土神社額中央の大麻で身を払い、二礼、二拍手、一礼。拝殿にはこちらに勧請された各村の氏神が記されています。拝殿から春日造の本殿の眺め。煌びやかな彩りで各所に彫飾りが施されています。本殿域左に須佐神社、大神社の二社が鎮座するようです。天福神社。耳垂れでややスリムな容姿の天福神社狛犬。とてもシンプルな天福神社の額。天福神社本殿全景。祭神は天降大明神を祀り、擬宝珠の銘に1727年(享保12)と刻まれているという。その両脇を小さな陶製?の狛犬が守護しています。本殿左に熊野社、吉野社の二社が鎮座するようです。天福神社から鳥居方向の境内。奥の右側に「ピーちゃん」と呼ばれる孔雀が飼われています、今一つ愛想がない。それに比べ「癒しの黒猫タンゴ」、この子は愛想がいい。手前の粉河産土神社から天福神社の眺め。境内は更に右手に広がります。天福神社から右手に進むと遥拝所。左に猿田彦碑。更に進むと複数の社。手前の赤い社は左から楠神社、一言神社、多賀神社、日吉神社、北野神社が祀られています。その右が護国神社。粉河白山神社、社殿は春日造で向拝が付く。その右が粉河稲荷大明神の鳥居。粉河寺薬師堂の鳥居から来るとこちらに続きます。正面を向いた狛狐が守護する粉河稲荷大明神。5回に分けて記載した「西国第三番霊場 粉河寺」。多くの伽藍や句碑等見所が多く、境内の樹々や花の種類もいろいろあり、四季それぞれに表情を変え楽しませてくれそうです。「粉河産土神社」 創建 / 770年(宝亀年間)とされる祭神 / 丹生都姫命、天忍穂耳命「天福神社」創建 / 不明(擬宝珠に1727年(享保12)の銘)祭神 / 天降大明神 住所 / 和歌山県紀の川市粉河2787関連記事 / 『中門から本堂』 西国第三番霊場 粉河寺(4/5)
2020.10.19
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7月トイレの給水タンクの中で水が漏れ、ダイアフラムパッキン(700円)交換して落ち着いていたけれど、ずっと前にトイレのイメージチェンジを図るため、クロスを貼り換えるかフローリングにするか考えていた。そもそも、動機は我が家の男どもの影響があった、そうです。ある日ホームセンターでフローリング貼替より安価でお手軽にイメチェンが出来そうな「デコウッド」なる商品を見かけwebで購入していた。今日は近場の寺社を回る予定でいたけれど外は雨、「いい加減やったら?」という事なんだろう朝から床の掃除をして先ほどまで少し手掛けて見た。現在の状況子供達が小さかったのでフローリングは無理だろうと全て防水クロスを貼っていた。それも長年にわたるスリッパの汚れで床は黒ずみ、壁面も褪色、かみさんが「何とかして」と云うのも分かる。余談になりますが、トイレと云えば最近よく耳にするのが高額請求のトラブル。何かあれば元バルブを締めてしまえば急ぐことはない。ゆっくりメーカーサイトで消耗品を調べればいい、基本消耗品は全て販売され、単価も数百円から数千円のもので、家庭用の工具セットがあればほぼ修理はできてしまうものです。くれぐれもご注意を。話がそれてしまった、本題へ。この商品とてもお手軽です、木目プリントシールみたいなもんです。木目も色々なトーンがあり、好みに合わせ選べる。素材は塩ビで幅は15㌢、長さは1㍍、厚みが2ミリ程でハサミやカッターで切れるので扱いやすい。これが22枚梱包されています。裏紙を剥がし貼るだけなので一枚の作業時間は1分もいらない。一番面倒なのが突起物の型抜、ここにどれだれ拘るかで時間は変ります。下書きと裁断精度が出来栄えに大きく影響するのでじっくりといきたいところ。裏が粘着テープなので張り直しは容易にできます。必要な工具はカッターナイフかハサミ、定規、形を取るために鉛筆、そんなもんです。全備 接着剤付ウッド調タイル「デコウッド」 チーク 22枚セット【北海道・沖縄・離島配送不可】 AW5651価格:7,980円(2020/10/17 11:53時点 )感想:0件取り敢えず午前中にトイレの床、三分の一ほど貼ってみた写真が下。これで4枚使っていますが残ったものは腰壁に使う算段です。まずはお昼寝して再び型をとり、本日中に床は終えたい。とっかかりで貼って見たけれど、浮さえ出なければ意外にお手軽価格でイメチェン可能です。
2020.10.17
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春日井市篠木町7 神明社下街道(県道508号線)の南、かんね公園の西側に隣接する神社。神社周辺は閑静な住宅街で公園区画の一部が境内で周囲を玉垣で囲われている。境内は写真の様に大きな杜で覆われ、宅地化された環境の中で貴重な緑が残っています。社頭は交差点の角に鳥居が建ち、参道は北に向かって真っすぐ拝殿に続きます。鳥居から拝殿の眺め。鳥居右に由緒が彫られた碑が建っています。由緒神明社 鎮座地 春日井市篠木町7丁目1-22御祭神 天照大神境内社 大宰府天満宮(菅原道真)、金毘羅宮(大物主命)、尾張大国霊神社 (尾張大国霊神)、津島神社 (須佐之男命)沿革創建は不明、昔からここには小さな祠があった。伊勢山と呼ばれ伊勢参宮の時、村の代表をここで見送り、帰ってきた時はこの地で人馬を出迎え酒食を出し「伊勢へ参ったかヨーイヨイ」と歌い労をねぎらったという。昭和54年再建され、現在の神明社になった。境内に元文三年(1738)、天保8年(1837)の燈籠があり、300年以上昔から鎮座していると思われます。大自然の恵みや、先祖に感謝しながら家内安全、商売繁盛、事業繁栄、良縁成就、小授け、安産、交通安全などを祈願しましょう」ここまで書かれていれば初めて訪れた者にはとてもありがたい。明治のこの辺りは左の様に西に下街道(緑の線)とその沿線や田園に集落が点在、其々に集落の神社が祀られています。篠木町の神明社は集落の外れに鎮座し、「村の代表の見送り、出迎え・・・・・」のイメージが湧いてきます。伊勢へは恐らく下街道から向かっていったはず、村の外れで代表を見送り、出迎えたとすると由緒にある村とはどこなんだろう?鳥居から境内へ、左手にも石碑があるようです。総社尾張大国霊神社(国府宮)裸祭りに鏡餅を奉納する奉賛会の記念碑のようです。正面が燈籠、拝殿、左に手水舎があり、拝殿左奥にも覆い屋が見えます。手水鉢の龍、今日はお休みの様ですが、鉢の清水は澄んでいました。拝殿四方吹き抜けの切妻瓦葺で彫飾りなどは抑えられシンプルな外観、正面に本殿が良く見通せます。・・・・・拝殿内の天井に何か描かれているようです。天井の中央に雲竜図が描かれています。拝殿からは本殿を守護する狛犬と6本の鰹木と内削ぎの千木が施された神明造りの本殿が見通せます。ここで雲竜図に出会えるとは予想外、京都に行かなくても済んでしまう?作者やいつ頃描かれたものか詳細は不明。本殿域と境内社の全景丸い石で二段に積まれた石垣の上に社が祀られ、肉付きの良いフォルムの狛犬が本殿を守護しています。左に瓦葺の覆い屋がふたつ。本殿全景創建は不明ですが、祭神は由緒に記されていたように天照大神で間違いないと思われます。本殿左の二つの覆い屋右の妻入りの覆い屋には津島社左の平入の覆屋に三社右から金比羅宮、大宰府天満宮、尾張大国霊神社と並び祀られていますが、これらがいつ頃勧請されたものかはわかりません。道真公を祀る大宰府天満宮という事で牛か梅など見られるのかと思いきや、意外にそれを印象付けるものはありません。一通り由緒に記された神社の参拝を終え後にしようと思いましたが、その前にもう一度雲竜図をよく見ておこう。拝殿の上に上がらせて頂き、真下から一枚写真に収める。新しいとか、古いとかは大きな問題ではない、心を込めて描かれたものには人を魅了するものがある。絵心のない自分から見て、こうして形にできる技術は尊敬に値する。篠木町の神明社の見所はこの雲竜図といってもいいだろう。神明社創建 / 不明祭神 / 天照大神境内社 / 大宰府天満宮 (菅原道真)、金比羅宮 (大国主命)、尾張大国霊神社 (尾張大国霊神)、津島神社 (須佐之男命)住所 / 春日井市篠木町7-1-22参拝駐車場 / 鳥居の右方向にありますが常時開放されているものではないようです。公共交通機関アクセス / JR中央線春日井駅下車北へ徒歩30分関連記事 / 神明大明神 春日井市下市場町 、 神明神社 春日井市堀ノ内町
2020.10.17
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奈良県桜井市三輪国道169号線の三輪参道入口交差点に来ると嫌が上にも大神神社の大きな鳥居が目に入ります。鳥居方向は県道238号線となり鳥居を過ぎてすぐに左右に駐車場があるので右側の駐車場に駐車します。大神神社参拝はここに停めるのがお勧め。当然歩く距離は長くなるけれどその代わりに参道沿いの社など見て行くことが出来、何より帰りの渋滞を考えると出口に近いのはストレスがない。それにしてもこの大鳥居の大きなこと、この鳥居は一の鳥居ではなく、後から作られたものです。車を停め、さあ最古の神社と云われる大神神社参拝と行きたいところですが、まずはこの駐車場の南から直接アクセスできる大神神社摂社の「綱腰神社」に参拝していきます。駐車場から綱越神社は歩いて1分、公園の様に広い空間にこんもりとした杜と玉垣が見えます。大神神社参道は綱越神社の横にある道が一の鳥居へ続く本来の参道。神社は境外の参道入口に鎮座する形です。神社横の道路から参道があり、正面に手水鉢、本殿は右の鳥居の先。鳥居脇の由緒書き「祭神 祓戸大神 大神神社参道入口に位置し、「祓戸の大神」を祀る延喜式内社。夏越しの社とも云われ旧6月晦日の大祓「夏越祓」が行われる古社として知られ、社名の綱越は「夏越」から転化したと云われる。本社の最も大切な「卯の日神事」つまり例祭である大神祭の前日に神主以下奉仕員が初瀬川で禊の後、当社に於いて祓いの儀を受け、初めて本社の神事に携わる事ができました。現在は7月30日、31日の両日、御祓祭が執り行われ、特設の茅輪をくぐり無病息災を祈願する。」明神鳥居から拝殿方向の眺め。切妻瓦葺で平入のシンプルな拝殿。拝殿内から本殿の眺め。掲げられている「おんばら社」の額、これは御祓をする社からきているようです。由緒に書かれているように、ここでお祓いを受けた者しか大神神社の神事に関わる事が出来ない。大神神社参道入口を守護し、尚且つここで禊を行う、重要な役割を担う神社のようです。本殿檜皮葺春日造りの本殿。創建は不明ですが、延喜式神明帳に859年(貞観元年)、従五位下の神階を贈られていると記録が残り、我国最古と云われる大神神社と関りがあるとなるとかなりの古社といえる。祭神は『祓戸大神』とある、いわゆる祓戸四神(織津比咩、速開津比咩、気吹戸主、速佐須良比咩)と呼ばれ、お祓いや禊を司る神々。大神神社の境内には「祓戸神社」もあり、綱越神社が関係者用と形容すれば「祓戸神社」は参拝者用の位置づけになるのかナ。本殿右に注連縄が張られた大きな岩「磐座」があるも解説等はなく詳細は不明。ここから細い道路に出て東に、三輪山を眺めつつ少し進むと一の鳥居だ。大鳥居のある通りに比べるとここを通る参拝客はとても少ない。古都奈良の雰囲気を感じることができます。大神神社境外摂社 綱越神社(おんばらさん)創建 / 不明祭神 / 祓戸大神(織津比咩、速開津比咩、気吹戸主、速佐須良比咩)住所 / 奈良県桜井市三輪1172公共交通機関アクセス(名古屋より) / 近鉄名古屋駅⇒名張駅⇒近鉄大阪線⇒桜井駅⇒JR桜井線「三輪」駅下車関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳
2020.10.16
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勝山市平泉寺町大渡白山山麗の山地を切り開き、田んぼや畑が点在する自然豊かな山間地です。自然が豊かなのでクマの出没情報もあり、人を襲う(2020/10時点)などの記事が目に付く。それほど山深いと感じないけれど、最近はクマの方が里山に近づいている。長閑だねと感じる場所は、思いもよらぬ生きものに「出逢うもの」と認識しておく必要があるのかも。平泉寺白山神社に向かう道すがら、県道169号線(平泉寺大渡線)沿いで見かけた白山神社。明るく開けた境内を持つ神社ですが、つい最近までは境内は大きな杉の杜に包まれていたようです。境内の至る所に名残の切株が無数に残っています。県道沿いから眺める大渡地区の白山神社、こうした神社が集落ごとに点在しています。玉垣などで結界が張られ、敷居が高そうな神社に対し身近に感じる特別な空間。嘗ては豪雪地帯だったこの辺り、それを実感する機会も減ってきているでしょうが、伽藍を見ていると高く積まれた石垣や渡廊など雪を意識して作られている。大渡地区案内板。集落の外れに白山神社は鎮座します。(赤丸)社頭から拝殿の眺め。右手に社号標、左が手水舎、参道は真っすぐ拝殿に向かう。清水は井戸からの汲み上げるようです。1925年(大正14)の社号標。白山神社明神鳥居(1947年(昭和22))手前の狛犬、素朴な石灯籠と入母屋造の拝殿。子持ちの狛犬と奥に小さな社がある。板宮造りのこの社、詳細は分からないけれど、随分と朽ちてきている姿は痛々しい。阿形は毬を持っている。拝殿から幣殿、本殿の眺め、暗くて見通す事はできなかった。こちらの由緒等福井県神社庁で調べて見ました。創建など詳細な記載まではありませんが、境内社に王子社、祭神は天照皇大神とありました。上の朽ちかけた社が王子社なのだろうか?それだけでもどこぞの神社庁と比べれば情報は載っている、ありがたいものです。拝殿から西方向の眺め。見通しがきくようになった境内から、その先の集落に住む氏子たちを見守っている。大渡地区の白山神社祭神 / 天照皇大神住所 / 勝山市平泉寺町大渡28白山神社小沢4関連記事 / 平泉寺白山神社
2020.10.14
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熱田神宮境内末社『菅原社』前回掲載した熱田神宮摂社『下知我麻神社』、そこで頂いた石は願いが叶った時に倍の大きさの石にして『菅原社』お返しする習わし。願うばかりではなく、結果に対してお礼も忘れてはいけない。菅原社へは市営地下鉄神宮西駅から南に歩き、熱田神宮西門の鳥居に向かいます。熱田神宮に車で参拝に訪れるとこの西門の鳥居はあまり縁がないものです。写真は西鳥居全景。西鳥居の脇の境内案内図。目的地の「菅原社」は西鳥居をくぐってすぐ、案内図の赤丸あたりに鎮座します。西門に入り左にある常夜灯付近、合格祈願に掛けられた多くの絵馬がある社が目的地。熱田神宮には二つの天神様があり、文化殿北側の「内天神社」に対し「外天神」とも呼ばれる神社がここ菅原社です。祭神は学問の神様として広く知られる菅原道真を祀ります。由緒によれば1529年頃に描かれた享禄の古図に天満天神社とか外天神と称されていた。下知我麻神社で戴いた石は、願いが叶ったら倍の大きさの石をここに奉納するのですが、果たして石が山積みになっているのか。社の前や神域には結構な数の大きめの石が奉納されています。この数だけ願いを叶えたと・・・。シャープな神明造の社が主の熱田神宮にあって、菅原社の社は玉垣に囲われ全容がつかみにくいけれど、屋根には緩やかな曲線が見られることから流造のようです。創建等詳細は不明ですが、由緒にも記載があるように1529年より以前から鎮座し、多くの願いを叶えてきたことは確かな様です。熱田神宮末社 『菅原社』 創建 / 不明 祭神 / 菅原道真 住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「神宮西」駅下車2番出口から南に徒歩5分関連記事 / 『下知我麻神社』
2020.10.13
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粉河寺(4/5)の今回は中門から本堂の伽藍を見ていきます。盥漱盤から先の石段、その先の中門。入母屋瓦葺きの三間二戸の楼門で軒の出と高さのバランスが良く威風堂々とした佇まいをしています。左右の間に四天王像を安置しています。中門棟札には明和年間(1764年~1772年)に着工、1832年(天保3)に完成したという。とても長い年月をかけ作られたものです。「風猛山」の扁額は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。石段から扁額が掲げられた軒の眺め。木鼻等彫が施されていますが、この門を見て印象に残るのが各柱の斗栱。重さを分散しつつ見た目も意識して一つの形にする先人の工夫は素晴らしいものがある。首は疲れるけれど、じっくり見上げて見たい門です。「西国第三番霊場粉河寺」山号額も趣がある。中門も想定外の所に千社札が貼られています。門を造る知恵もさることながら、貼る知恵は凡人には想像できないものがある。軒下の「風猛山」の扁額。紀州徳川十代藩主の徳川治宝(はるとみ)の直筆とされます。中門の正面左の間に安置されている多聞天(毘沙門天)。左手に宝塔を持ち北を守る。正面右の間から西を守る広目天。左手には羂索を持っている。中門から振り返り、大門に続く石畳と盥漱盤、太子堂方向を眺める。中門裏側全景。こちらも左右に四天王が安置されています。左の間に安置されている南方守護担当の増長天。右の間に東方天の持国天が安置されています。これらの四天王、作者など詳細は分かりません。彼らを保護する網があり写真では伝わらないけれど実物はかなりのイケメン。イケメンを収めたいがために網に穴が開けられている、ここにも知恵が。中門をくぐると左手に本堂の全景が広がります。右に本堂、中央の朱色の鳥居は粉河産土神社、更に左が千手堂。手前の石庭は本堂に続く石段を挟んで東と西に別れ、敷地の高低差(3㍍程)を生かし巨石で組まれた枯山水の庭園です。粉河寺庭園県内の庭園では養水園と並び二大名園に数えられ、使われている石も緑(青)や茶、黒(紺)等、多様な石を使い一つの山とそこから流れ落ちる滝を表現している。西庭の解説によれば桃山時代に作られたとある。写真では大きさが伝わらないけれど、傍で眺める石の大きさや数、それらを巧みに配し作り上げる人のエネルギーと知恵には驚くばかりだ。境内左に水向地蔵堂と丈六堂。水向地蔵。塔婆に水を手向け、亡き人の冥福を祈る事からこの様に呼ばれる。丈六堂。身の丈が一丈六尺(約4.84㍍)の阿弥陀如来像を安置する堂。解説によれば1806年(文化3)に再建され、1982年(昭和57)に補修の手が入ったようです。堂内の阿弥陀如来座像。優しい眼差しと穏やかな表情で訪れた者を見つめる姿は思わず拝みたくなる。光背などの亀裂、彩色や金箔も剥がれ像の劣化が見受けられます。こちらにも修復の手が入るといいのだが。粉河寺本堂。とても複雑な作りの本殿、入母屋に破風が施され、複数の棟が組み合わさり、折り重なるように屋根と破風が付く。八棟造りと呼ぶそうですが、力強く堂々としていながら、落ち着いた印象を受ける。本堂正面全景。西国三十三ヶ所の寺院の中では最大の本堂と云われる。奈良時代の770年(宝亀元年)に創建とされ、現在見る姿は1720年(享保5)に再建されたもの。江戸時代中期の寺院建築を代表する建造物とされ、内陣の厨子には本尊で秘仏の千手千眼観世音菩薩が祀られている。本尊の千手千眼観音菩薩は絶対秘仏で内内陣の地中に埋められているという。ここも当然ながら千社札が溢れている。寺紋の井桁が描かれた大きな赤提灯。大きな屋根の下の広い拝所、おびんずる様もあり、この奥には外陣、内陣と続く。この大きな拝所は外陣と呼んでもいいくらいの大きさ、外外陣とでも云えばいいのかな。本堂西側からの本殿斜景。複数の棟と其々に破風が付けられ、見た目に立派。云い方を変えると増築〃を繰り返したのか?と思える。本堂脇の解説「本尊の両側には侍者として28部衆、内陣の背面に裏観音、東に鬼子母神、西に不動明王、大日如来、閻魔大王、その他諸仏が祀られている。」本堂左の千手堂。(右が粉河産土神社、現在写真取り纏め中)瓦葺方型の建物で宝暦1767年(宝暦10)の建立とされる。堂内は正面に千手観世音菩薩が安置され、その両側に歴代の紀州藩主と所縁のある方の位牌が安置されていると云う。本堂の本尊は絶対秘仏、こちらの千手観世音菩薩は御開帳され、その姿は本尊のお前立に似た木像の様です。御開帳の時期は不定期、直近では2008年、2017年、2020年の三回だったようです、不定期というのが一番困ったものです。千手堂から神社に向かいたいところですが、ここから本堂に戻り境内右側を見て廻ります。湯浅桜と六角堂。湯浅桜紀州湯浅(現在の和歌山県)の住人藤原宗永が、本寺の本尊千手観音のお告げで本堂の東南方向に植えたとされるのがこの桜の木。六角堂瓦葺の六角堂は1720年(享保5)の建立で、1995年(平成7)に補修の手が入る。内部に西国三十三観音が安置されています。境内奥に巨大な楠木が聳えています。この根の張りは半端なものじゃない。これを見てしまうとシンボルツリーに楠木は向かないね。本堂右の鐘楼。左手の赤い鳥居は粉河稲荷神社に続きます、右手奥は薬師堂。鐘楼の先に地蔵菩薩像。1564年(永禄7)に砂岩から作られたもので、高さは2㍍10㌢の地蔵菩薩像。薬師堂。粉河寺境内の一番東にあたり、大きな向拝が付けられた寄棟瓦葺の堂。「薬師如来を安置す眼病を初め諸病平癒祈願の仏である」薬師堂の左の粉河稲荷神社参道。ここから先は粉河産土神社で記載します。西国33所巡りの第三番札所、風猛山 粉河寺 開創は770年(宝亀元年)と云われ、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北4キロ余の境内地と寺領四万余石を誇っていた、1585年(天正13)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。後の紀州徳川家の庇護と信徒の寄進により、江戸時代中期から後期にかけて現在の諸堂が形作られ今に残ります。 個人的な見所は金剛力士の赤い大門、四天王の中門、西国33所巡りの寺では最大で複雑な屋根構造の本堂等で他にも芭蕉の句碑など見所は多い。剪定が行き届いた境内は、とても居心地のいい時間を与えてくれる。四季それぞれに色々な表情を見せてくれる寺だと思います。さて、次は粉河産土神社に参拝です。 「風猛山 粉河寺」 創建 / 770年(宝亀元年)山号 / 風猛山 本尊 / 千手千眼観音菩薩 西国33所巡り / 第三番札所 住所 / 和歌山県紀の川市粉河2787関連記事 / 『大門から太子堂』西国第三番霊場 粉河寺(3/5)
2020.10.11
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最初に書いておいた方がいいでしょう、神社へは車では行けません。歩道と車道は高低差があり、歩道脇に路肩駐車や境内乗り入れなど不可能で、自分の足で行くしかありません。『松岡神社』市営地下鉄名城線「神宮西」で降車、二番出口から東に徒歩数分ほど東へ、『松岡神社』は名古屋市熱田区森後町に鎮座します。歩きだしてすぐに熱田街園の「めだかの学校」、神宮外苑の歩道にメダカが放されたビオトープがあります、とは書いては見たがメダカの姿は見れていない。学校のある辺りは熱田神宮社地の北側になります。休校中のメダカの学校から東の交差点。この横断歩道を渡り、茶色のビルを右に見て真っすぐ進めば目的地の『松岡神社』は近い。右手に下る坂、なんとなく熱田台地(象の鼻)の縁にいる感じがします。松岡神社社頭歩道と接していますが、車は通れません。鳥居は北向きに建ち、歩道沿いに玉垣で囲われています。境内は鳥居から奥は短く、東西に長いようです。歩道から本殿域に東向きに社が二つ祀られているのが良く見えます。松岡神社社号標と鳥居、背中を見せる狛犬は境内が狭小である事を物語っている。社頭東からの神社全景、地味に西へ傾斜しているか?いずれにせよ周囲の環境からすると、今まで良くぞ残っていられたものだ、そう感じる。鳥居から境内の眺め、すぐに突き当り、ドン付きに手水鉢があります。後方に見える建物の高さ関係を見ると、その先は崖になっているようです。突き当りの手水鉢参道は右に延び、その先に常夜灯、狛犬、少し盛られた神域に社が二つ祀られています。狛犬から先は近づけません。社の前の意外にやさしい顔つきの警護担当、「これ以上寄るでない」。社全景玉垣の扉の脇に古い社号標、右の石標に「大正十三・・・」と記されているようです。松岡神社、地名か?いや〃、熱田の杜の後ろに当たるから森後とついたとされるので、地名ではないようです。この神社の詳細はさっぱり分かりません。熱田旧記に以下の記載を見つけました。それによると、日本武尊東征の時に亡くなった尾治多那久摩連命を東国平定後祀るために作られた社の様で、同じく成果を上げた松岡真人も祀られているよう、熱田神宮の神職松岡家の先祖になるようです。以後は松岡家が代々守り継ぎ、社名はそこから来ているようです。二つの社、どちらが尾治多那久摩連命で松岡真人を祀っているのだろうか。由緒同様分からない事ばかりだ、取り敢えず今回は参拝まで。松岡神社創建 / 不明祭神 / 尾治多那久摩連命、松岡真人住所 / 名古屋市熱田区森後町8-6 公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線 神宮西駅下車 東へ徒歩2分
2020.10.10
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総社穴馬神社 岐阜県白鳥町から福井方向に向かう国道158号線を走る。九頭竜湖畔沿いに続く国道沿い、右手に大きな石鳥居と穴馬総社の社号標は運転していても視界に入ってきます。 湖畔を見下ろす高台に鎮座する穴馬神社。社頭の前の通りが国道158号線、手前に広い駐車場があり、そこに車を停めておけば気兼ねなく参拝できます。山んなかの人気のない国道に接する社頭正面の眺め。大きな「穴馬総社」の社標と石鳥居、その先に石段が続きます。その先にニノ鳥居と拝殿の姿が視界に入ります。ニノ鳥居拝殿に掲げられた扁額は国道からも見て取れる大きなものです。拝殿山奥の神社なので石段の先は鬱蒼とした雰囲気の境内をイメージしましたが、目の前に広がる境内は山の斜面を切り開き、陽光が入る明るく綺麗に整備された広いものでした。境内正面の拝殿は床下が上げられた切妻造で曲線のないシャープなもの。以前は冬ともなれば雪に閉ざされる土地柄です、こうした事もこの外観に繋がっているのかもしれません。 境内の狛犬(吽形)後方の碑は忠魂碑狛犬(阿形)白地の狛犬も苔に覆われ、やがては周囲の緑と同化していくのでしょう。後方は春日神社社号標、境内に春日灯籠がありますが、その理由がこれで分かりました。阿形後方には社号標が二つ。春日神社と立今神社の社号標九頭竜湖の湖畔を見下ろす高台に鎮座する穴馬神社。神社近隣に集落はありません。こちらの神社は九頭竜ダム建設に伴い、湖底に水没する集落で祀られていた神社を纏めて祀るため、昭和39年に建てられたもの。穴馬総社由来湖底に沈んだ一帯は「穴馬郷」と呼ばれ、神社名はそこからきているようです。穴馬郷には十七の部落に約400世帯が生計を営み、それぞれ春日神社、立合神社、神明社、白山神社等氏神を持ち八社があった。この碑はそうした故郷を語り継ぐもの。生まれ育ち、先祖が眠る故郷がなくなる、街で生活する者から見ると非現実的な話でピンと来ないし、移転の代償はお金と云われても府に落とせる問題ではないだろう。ダムの恩恵を受ける背景に、こうして故郷から離れざるを得ない地域の協力があっての事です。以前は訪れる人もいなかった山深い里、そこには岩魚が潜み、そこで命を育む自然も溢れていました。ダムや高速道路の延長に伴い多くの恩恵を得た反面、見上げるような橋脚が聳え、山は切り開かれ渓流の景観が一変した光景を見ると寂しい思いを感じる・・・・・多少不便でもいいのかもしれない。拝殿「穴馬神社」の額建立は昭和39年、御祭神は 天照皇太神他、十七村八社の氏神を合祀。 境内右手水舎その右に水没した村々の英霊を忍ぶ忠魂碑が建つ。忠魂碑から右手の斜面に道が続き本殿横へ続きます。本殿こちらも拝殿同様コンクリートの切妻平入。拝殿後方に戻り、斜面に付けられた石段を登り本殿まで進みます。本殿後方には緑にあふれる大きな杜が迫ります。訪れる方は少ないようです。本殿に掲げられた額。故郷は湖底に沈み、そこに住む住民は離れ離れとなるも、村人の去ったこの高台から嘗ての故郷を見守つています。村人にとって故郷を思う時、ここを訪れることで当時の記憶が蘇ってくる事だろう。余談ですが、競馬を知らないので確かな事は言えないけれど、「穴馬」の名に肖って競馬ファンが必勝祈願に訪れるとか。 『総社穴馬神社』建立 / 1964年(昭和39)祭神 / 穴馬郷十七村八社の氏神住所 / 福井県大野市野尻54-1-2関連記事 / 苔を訪ねて白山の麓まで 平泉寺白山神社
2020.10.08
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春日井市大留町「禅源寺」大留町の神明神社から5分程東へ、進路に庄内川の堤が現れます。一旦、堤に出て庄内川上流の流れを望みます。この上流付近は小牧・長久手の合戦の舞台にもなった大留城址があった場所。また、この辺りにも庄内川の渡し「大日の渡し」があったようです。江戸時代、幕府は諸国を見回る巡見使を各地に派遣していたという、この地を訪れた巡見使が嘗ての「大日の渡し」を利用した記録が残るようです。渡しの碑があるだろうと河原や堤を探してみるもそれらしい物は見つかりませんでした。堤から北に下りると正面にお堂が現れました。グーグル先生もこのお堂が何かは御存知ないようで、右手に鎮座する「禅源寺」だと仰る。「禅源寺」の左に隣接する堂、左には「冬至、弘法大師、開運徳神」の石標がある。こうした石標を見たのは初めてかも知れない。冬至は弘法大師が托鉢に訪れる日とされ、当日はあずきの粥を御馳走として振舞い、翌日はぜんざいを振舞う風習があったそうです。「禅源寺」を横目にこの「冬至弘法」から最初に訪れてみました。遠目に狛犬が見えていたが、ここまで来ると狛犬以上に堂の朽ち方が目に入る。切妻瓦葺で妻入の堂は、荒れ果てた印象を受け、もしかすると現在は使われていない?遠巻きに見させて頂き、玉垣の寄贈者「蚕種家」、「河田悦治郎」とあった。自宅で調べて見るとこの方は蚕で名を馳せた方のようです。春日井における蚕種改良と育成技術の普及に尽力された方のようだ。明治維新から大正にかけ養蚕は広まり、昭和30年代になくなるまで盛んに養蚕が営まれ、農家の収入源の一つとして貢献したようです。堂の左に手水鉢があるけれど使われている形跡を感じない。民家の陰になり気付かなかったけれど、左にも堂がありました。堂は瓦が落ち屋根も抜けているようで、見るからに痛ましい。蚕種家の支援があったであろう「冬至弘法」、蚕の衰退と同じ道を辿っているのか。右に禅源寺が鎮座していますが、フェンスがある事から寺と関連しているのか定かではありません。本尊は大日如来で、嘗て美濃国可児郡の長瀬村安置されていたそうです。洪水により像は流失し、玉野川(庄内川)沿いのこの地に流れ着き、この渕に生えていた椋の木の股に懸っているのを村人が見つけ堂を建て安置したのが始まりのようです。「大日の渡し」の「大日」はここ禅源寺を指す様で、寺の近隣から上志段味へ渡していたようです。小牧・長久手の合戦では、秀吉側の池田・森軍が渡河した場所とされるようです。入母屋瓦葺の重厚感漂う本堂ですが、1627年(寛永4)に再興、1826年(文政9)再建、1891年(明治24)の震災で被災、その後再建されたもの。「禅源寺」宗派 / 臨済宗妙心寺派創建 / 1397年(応永4)本尊 / 大日如来(行基作と云われる)住所 / 春日井市大留町810関連記事 / 大留「神明神社」
2020.10.06
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春日井市下市場町江戸時代は尾張国春日井郡下市場村に属し、その後明治、昭和と統廃を繰り返し現在に至るようです。一貫して残った「下の市場」のワード。場所は分かりませんが、かって東木戸、西木戸があり境界を設けていたようです、この近くに下街道がある事からこの街道沿線でしょう。そこには馬市が立ち、市を中心に西の方を下の市場、東の方を上の市場と呼んでいたという。町名はそこからきているようです。神明大明神全景。南北に長い境内の南に鳥居を構えています。鳥居左に神明大明神の社号標。北に地蔵川、東に内津川が流れ、二つの川はここから少し南で合流し庄内川へ繋がる、輪中の様な立地に神社は鎮座しています。左は明治24年のこの地、古くから田園が開かれ村が点在します、神社から西に引いた赤い線は下街道。つい最近?の40年ほど前、この辺りの印象は結構な田舎だったけれど、現在は宅地整備されその名残はありません。鳥居から石畳の参道が続き、大きな樹々の先の拝殿へ続きます。境内は公園にもなっているようです。参道の狛犬鳥居の右の覆屋は天王社。更に右には社務所?と消防団の施設?が隣接しています。かつての馬市の名残を伝えるように「跳ね馬」の紋が軒下に飾られています。大きな樹々の先に拝殿。外から見る杜は鬱蒼とした印象を受けますが、境内は風の通りもよく、明るい境内。大半の樹々は市の保存樹として守られています。切妻瓦葺の四方吹き抜けの拝殿。参道はここから二手に別れます。拝殿左に手水舎。拝殿前を守護する狛犬。拝殿から本殿方向の眺め。拝殿の額は「神明社」、祭神は天照大神。神社の由緒は定かではありませんが、境内の常夜灯に「1863年(文久3)癸亥」の干支が記されている事から、伽藍は綺麗で古さは感じませんが、歴史は意外に古そうです。拝殿天井には色鮮やかな花や鳥の天井画が施されています。この神社の見所かも知れません。幣殿は切妻瓦葺の平入で、流造の社が二社祀られています。ほぼ同じ社が並行して並びます。手前の千木は外削ぎで2本の鰹木、奥は内削ぎで2本の千木が施されている。主祭神は恐らく天照大神でしょう。本殿後方東から拝殿方向の眺め。千木の削ぎ方、鰹木の本数で男神、女神が識別てきると云われることがあります、アマテラス自体も男神、女神など諸説あるようです、こうした場合はどう理解すればいいのか困ったものです。本殿後方西から拝殿方向の眺め。本殿後方には五つの鳥居があり、右側の少し離れた場所で南を向きに、ひと際高い台座の上に冨士浅間神社が祀られています。駿河の浅間神社から勧請して奉祀されたものでしょう、詳細は不明です。その左に南を向いて三つの鳥居が並びます。右の社は金毘羅宮。中央の赤い鳥居、社の前で狐が守護する稲荷神社。左の鳥居の先はこんもり盛られた頂に小さな社と霊神碑が立ち並ぶ御嶽神社。唯一東向きに建てられた鳥居。鳥居の先には御神木?とその傍らに庚申塔が建っています。拝殿から鳥居方向の眺め。手入れが行き届き、陽光が差し込む明るい印象の神明大明神です。由緒書きは見落としているのかもしれませんが、「こんなものが」と思う気づきがある神社です。『神明大明神』創建 / 不明 (常夜灯に「1863年(文久3)癸亥」)祭神 / 天照大神境内社 / 天王社、冨士浅間神社、金毘羅宮、稲荷神社、御嶽神社住所 / 春日井市下市場町5-2公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅から徒歩で約20分
2020.10.05
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今年は酒のイベントは自粛が相次ぎ寂しい限り。そんな中、数日前からかみさんが「行ってみる?」と誘われていた「久屋大通 秋の日本酒まつり」3日・4日の二日間の開催されるこのイベント、今朝の朝刊に下の記事を見付ける。今日で最後か、18時までか・・・・・悩むところだ
2020.10.04
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熱田神宮摂社『下知我麻神社』こちらへの参拝は境内から訪れる事はできません。熱田神宮西鳥居から境内を出て、西側の歩道を北に進み地下鉄「神宮西」に向かう事になります。西鳥居から北の『下知我麻神社』が鎮座する神宮西方向の眺め。延喜式神名帳に尾張国、愛智郡鎮座の「下知我麻神社」と記された古社。地下鉄「神宮西」の2番出口、その右手前に西向きの神明鳥居が建つ。このあたり、古くは東海道や七里の渡しから佐屋街道に向かう道筋、そうした事から旅の安全にご利益があるとされ古くから崇められて来たそうです。歩道から社頭の眺め。境内か境外か?となると、これは境内でしょう。境内の一画を玉垣で囲った単独の神社、伽藍の関係もあるのでしょうが、なぜ境内からの参道が与えられなかったのかは分からない。下があれば上もある。南鳥居の左側に上知我麻神社が鎮座しますが、元は市場町(現在の神宮2辺り)に鎮座していたといわれ、現在は境内のいい場所に遷座している。上知我麻神社は、宮簀媛命の父親となる乎止與命(おとよのみこと)を祀り「源大夫社」とも呼ばれ、あまり好きな言葉ではないけれど式内社の分類。ここ『下知我麻神社』も式内社で「紀大夫社」とも呼ばれ、祭神は真敷刀俾命(ましきとべのみこと)、宮簀媛命の母親を祀る。なんで離れ離れなの?と感じてしまう、しかも境外からしか参拝できないとは。『下知我麻神社』全景。内削ぎの千木と四本の鰹木が施され、熱田神宮では一般的な神明造。創建は定かではありませんが、1362年(正平17)に造営、1692年(元緑5)、楠ノ御前社と同時期に造替られた記録があるそうです。倍返し。ドラマの台詞じゃないけれど、ここ『下知我麻神社』と西鳥居から入って左の菅原社に面白い風習が伝わるそうです。菅原社の祭神は学問の神、菅原道真公を祀り、こちらで参拝を済ませ、『下知我麻神社』に参拝の後に境内の石を持ち帰るのだそうだ。願いが叶ったら戴いた石の倍の大きさの石を菅原社に「倍返し」で奉納するものらしい。菅原社には倍返しで奉納された石がさぞかし山積されているのだろう。境内から鳥居方向を眺める、正面は国道19号線(伏見通り)。歩いて旅する人の姿から、移動手段が車に変った今も、ここから道中の安全を見守っているようでもあります。熱田神宮摂社 『下知我麻神社』創建 / 不明祭神 / 真敷刀俾命 住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1 公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「神宮西」駅下車2番出口から南に徒歩1分関連記事 / 熱田神宮摂社『上知我麻神社』熱田神宮別宮『八剣宮』 日割御子神社、南新宮社、孫若御子神社、楠御前社、「徹社」・「二十五丁橋」
2020.10.02
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秋を告げる虫の声、今夜の散歩は中秋の名月がきれいだ
2020.10.01
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粉河寺(3/5)今回は大門から中門までの伽藍を見ていきます。「大門」重要文化財指定。入母屋瓦葺の二層の楼門で左右に金剛力士像が安置されています。鬼瓦に1707年(宝永4)の刻銘が残る事から建立はその頃ではないかとされます。上層の斗栱に雲肘木と尾捶を使って大きな軒を支える構造は当時としては珍しいものらしい。大きさだけではなく、全体を朱?で赤く塗られ、存在感のある門です。阿形力感溢れる像は「仏師春日作」によるものと云われ、門から少し離れていてもその存在感が伝わってくる。吽形大門の解説板。大門をくぐり、とんまか通りの眺め、「大神社」の大楠も良く見える。大門は細かな彫飾りなどは見かけません、質実剛健とでも云えばいいのかな。大門から先は石畳が中門まで案内してくれます。大門をくぐり最初に現れるのが不動堂。弘法大師爪彫りの不動明王を祀る、内部は暗く姿を拝むことは叶わなかった。方型瓦葺で拝所に向拝が付く。中津川路改修碑(左)と粉河寺案内図。長屋側右岸沿いに参道は続き、参道左側に複数の堂が並びます。正面に見える入母屋の屋根が本堂。子育て地蔵。1734年(享保19)地元の鋳物師木村安成の作とされ、子供の無病息災を祈願する仏が安置されている。後方は本坊。羅漢堂寄棟瓦葺で詳細は分かりませんでした。鰐口の先に見える色褪せた彫飾りに魅かれて立ち寄ってみましたが、羅漢像だと思いますがアップにしても今一つ分かりません。仏足石二つの石碑とその前に釈迦の足跡が刻まれた石が置かれている。紋様は千輻輪相を表し、その大きさは人徳の偉大さを象徴するとした信仰の対象。出現池本尊千手観音の化身 童男大士が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池から出現したとされる。左の赤い堂は三角堂と呼ばれそこに千手観音が安置されています。正面に安置されている石像が童男大士。右に馬蹄石があるらしいが、窓の直下で捉える事は出来ませんでした。童男大士は現世利益の佛として殊に病気平癒の霊験があらたかとされ、祈願成就の際はこの池に鯉を離す風習があるそうです。左が本坊、右に童男堂。本坊全景。童男堂千手千眼観世音菩薩の化身といわれる童男大士を祀っています。棟札から建立は1679年(延宝7)とされ、正堂と礼堂でなり、正堂内陣小壁、板壁の障壁画、天井絵は見事なものだと云う。県指定文化財。念仏堂入母屋瓦葺の千鳥屋根と唐破風向拝が施されている、 江戸時代後期に建立されたとされる。光明殿とも呼ばれ阿弥陀如来が安置されている。粉河寺阿弥陀如来坐像。1862年(文久2)に紀州藩主徳川重倫や、妹光安院の生母、清信院の寄進により寄進されたもの。太子堂。寄棟瓦葺のこぢんまりとした堂。文字通り聖徳太子を祀っています。ここまで来ると境内は広がりを見せ、正面に手水舎と奥に中門、左に本堂が間近になってきます。重厚感のある手水舎。盥漱盤(かんそうばん)は1775年(安永4)、粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作で、銅製の蓮の花と葉をかたどったもの。今も現役で清水を注ぎ続けています。市指定文化財。朱の大門とは趣も違ったシックな佇まいの中門が迫ってきました。住所 / 和歌山県紀の川市粉河公共機関アクセス / JR和歌山線「粉河」下車北へ徒歩15分程関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳 『大神社』西国第三番霊場 粉河寺(1/5)『善光寺』『蛭子神社』 西国第三番霊場 粉河寺(2/5)
2020.10.01
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