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厚生労働省COCOACOCOA、その気になったのに残念
2020.07.31
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国難はCOVID-19だけだろうか?????
2020.07.31
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吉田城址春日井市下条町の八幡社で吉田城址を公園整備中複数の大きな石が見つかり、神社に一つ移されたとあったことから訪ねて見ました。八幡社から北に向かい王子町の交差点で西方向に向かいます。この周辺で遠景写真を撮ると必ず写り込んでくる製紙会社の赤白の煙突。ここまで来ると見上げる高さに迫ってきます。春日井のランドマークと云っても過言じゃない。この工場が稼働を始めたのは昭和27年頃、当時は田畑が多く長閑な景観だっただろう。名古屋のベットタウンとして宅地化が進み、現在は工場を取り囲む様に住宅が広がっています。上は1894年(明治24)頃と現在のこの辺り移り変わり。現在の下条公園が赤のマーカーになります。明治の頃にして既に地図上に城の痕跡はないようです。以前訪れた上条城址には石積みなどの遺構を見ることができましたが、吉田城址に遺構らしきものは皆無。下条公園から北の眺め、この正面に施錠された石碑がありますが、それは公園の竣工碑。竣工碑、柵で囲って施錠までするんだ。という事で城址の碑はどこよ。吉田城址の碑は公園の南側の東角に建てられていました。囲いもなく、間近で見ることができます。とはいえ碑だけしかないのですが。この碑の台座になっている大きな石、根拠はないけれどこれも公園整備で見つかった岩が使われているのかな。吉田城室町時代に築城された日本の城(平城)。但馬国で出生した小坂吉政(1466年(文正元年)~ 1517年(永正14))が但馬から、応仁の乱の頃に京都に入り織田敏定の家臣となり尾張国に入った。当初奉行所として館を建てた事が城の始まりのようで、やがて土塁や堀を築かれ、当初は柏井城と呼ばれていたらしい。その後吉政が吉田孫四郎吉政と改名したので吉田城と名乗るようになった。1554年(天文23)の清洲攻めの際、当時の城主であった小坂正氏が清洲城の南西で討死。跡継ぎのいない正氏死後、城は放置されていた、織田信長は前野宗吉の母の生家だった、小坂家と城を継がせ、小坂孫九郎尉雄吉と名を改めた。こうして小坂雄吉は、ここ吉田城と上条城の城主になっていった。 信長亡き後の1584年(天正12)、小牧・長久手の戦いに於いて羽柴秀吉が休戦と引き換えに官職を解き、吉田城や上条城、小牧にある諸城の取り壊しを命じられ廃城になった。現在はそれを伝えるこの石碑のみがかつてここに城があった事を伝えています。小坂雄吉のその後についてはよく分からない。吉田城の絵が欲しいところですが生憎見つけきれません。「勝川郷土資料館」に古い地籍図などが展示されているようなのでこちらを訪ねると城の痕跡が見られるかも知れません。吉田城址築城 / 室町時代 初代城主 / 小坂吉政遺構 / なし住所 / 春日井市下条町3-10-4公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅から南西に徒歩30分下条 八幡社からのアクセス / 八幡社から北へ王子町の交差点を西に関連記事 / 下条町八幡社 上条城
2020.07.30
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誰か代わりは?
2020.07.29
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春日井市下条町795八幡社県道30号線を春日井方向に向かい、中切町交差点から次の信号機のある交差点が目的地「八幡神社」の社頭。交差点の角から北に向かい参道が続くけれど、県道から少し奥まった場所に社号標と鳥居があるので、車で訪れると分かり辛いかもしれない。徒歩だとJR中央線春日井駅から南西の下条町に鎮座しています。参道両脇はこの様に並木が出来ていて、その先には蕃塀が見えています。並木を過ぎると公道の先に境内が広がります。境内の西方向の眺め。社地の一部が公園になっていて、その先にお堂のような建物も見えます。境内は左が社務所、中央に蕃塀があり、拝殿の屋根しか見る事は出来ません。石段右の石像風化により輪郭がはっきりしませんが、役行者の様に見えます。蕃塀社殿の容姿は番塀が遮り見通しは利きません。社殿全景伽藍は瓦葺妻入の四方吹き抜け拝殿と一段高くなり幣殿、本殿。参拝の前に伽藍を見て行きます。まずは拝殿の眺め。幣殿前の狛犬。幣殿。渡廊から続く本殿は流造。祭神は應神天王。左右に脇社が祀られ、右の板宮造の赤い社は天王社だろうか。左に神明造の脇社。こちらも社名札がなく特定はできませんでした。八幡社の境内をひと回りしましたが、創建年度や由緒等の記載は見当たらず詳細は不詳。拝殿の外観はシンプルですが、各所に彫飾りが施されています。特に妻の部分に彫られた龍の飾りは手間がかかっています。上から龍の視線を感じながら参拝させてもらいます。境内西側から見た社殿の眺め。左側に玉垣で囲われた一画、その奥の杜の中に屋根が見えます。境内の拝殿前などには大きな岩が置かれています。ここから西に下条公園がありますが、ここに吉田城(現在は碑のみ)があり、遺構などは残ってはいませんが、公園の辺りは本丸が築かれていたそうです。跡地を公園に整備する際の工事で跡地から大きな石が数個見つかったそうです。そのうちの一つが八幡社にあると云う。それらしい岩は確かにあるけれど、残念ながら由緒や解説がなくどれがその石なのかまではよく分かりませんでした。上玉垣で囲われた一画の中央に黒地に白の模様が入った岩が祀られています、磐座なのだろうか。それとも吉田城から移された石がこれなのか、 玉垣で囲うだろうか?下杜の中の祠祠の中には小さな社と複数の石が安置されているものの、詳細は分からなかった。杜の中から磐座、蕃塀方向の眺め。社殿を取り囲む様に杜が作られ、それは鬱蒼とした杜ではなく風も通り解放感を感じる。社地の一画は公園になっていることもあり広くて解放感を感じます。梅雨のこの時期、僅かに自生する苔の緑が鮮やかです。公園の外れにある下条観音堂。西国三十三所巡礼の証として祀らた観音像が多数安置され、大正時代の物も見受けられます。鳥居(1916年建之)から国道を眺める。この周辺には他にも複数の八幡社等の寺社や城址点在し、寄り道が多くなる地域。八幡社創建 / 不明祭神 / 應神天皇住所 / 春日井市下条町795公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」から南西に徒歩で約30分
2020.07.28
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主税町筋を国道19号方向の東に進むと、城下町の名残を留める棟続きの建物が僅かに残る区域があります。国道19号線からなら平田町北交差点を西に入ったあたりになります。「主税町」なんて読むんだぁ?と思った方もいると思います、これで「ちからまち」と読みます。町名の由来は尾張藩士の野呂瀬 主税助(ちからのすけ)が屋敷を構えたことから付いたとされます。こうした趣のある町並みには雨が似合う。街中にあって静かな通りはしっとりとした落ち着いた雰囲気が漂います。こうした道筋には軒の神さまとの出逢いがあったりして歩く楽しみにもなり、ついつい軒下に視線が行きがちになります。東区主税町4丁目来ると以前は軒下に祀られていたであろう屋根神さまが一階軒下に祀られています。地上から高く積まれた台座の上に祀られた社、その中には提灯も吊られ今も現役の様子。この社がこの状態で祀られるようになったのかは定かではありませんが、棟続きの住宅が立ち並んでいた頃には、町内の災い除けとして見通しの良い二階の軒下から町内を見守っていたと思います。そうした光景も時の移り変わりと共に、棟続きの住宅は歯抜けになり廃社になったり、社の手入れをされる方の高齢化に伴い、梯子を使ってお世話をするのも難しくなる。住環境の向上を図れば、屋根神さまの居場所は変わっていく。そうして見ると、ここ主税町4丁目の屋根神さまは恵まれているのかも知れない。地に下りた屋根神さまは人目に付く、社の前を通りがかった際に小さな我が子から「これなに?」と聞かれたら説明も必要だろう。その内容によっては、子供なりにこの箱の捉え方が違ったものになるのかもしれない。余談になりますが、昨年諏訪湖周辺を訪れた時の事、集団登校の小さなグループを見かけました。道端のお地蔵様の前でペコッとお辞儀をしていく光景を見かけ、それが今も印象に残っている。親や地域の人から、彼らがそうしたくなる上手な説明がされているのだろう。さあ、この箱を子供に尋ねられたらどう回答しようか? 話を戻して、こうして住宅が集まると、地域の厄除けとして津島神社、火伏の秋葉神社、地域の氏神様を祀り、屋根神さまを中心に神社当番の様な町内の人の結びつきが生まれていきます。何かを中心に住民のコミュニケーションが取れている間はいいけれど、それがなくなると意外にご近所様の顔や名前も分からなくなるのは早いものです。姿を消す屋根神さまが多い中、ここはそんな心配は当分なさそうです。主税町4 屋根神さま創建 / 不明祭神 / 秋葉社、熱田神宮、津島社住所 / 名古屋市東区主税町4丁目 東区橦木町の屋根神から5分関連記事 / 東区橦木町の屋根神様
2020.07.25
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紀伊國一之宮 日前神宮紀の川が作った和歌山平野、紀伊國一之宮は和歌山市の秋月に鎮座します。和歌山電鉄貴志川線「日前宮」駅から徒歩で2~3分あれば、県道138号線沿いに鎮座する紀伊國一之宮の社頭に辿り着けます。県道の北側に社頭があり、道沿いに日前(ヒノクマ)神宮、國懸(クニカカス)神宮の社号標が建っています。鳥居前に少ないながら駐車場もあり駐車が可能、境内西側に幼稚園がある事から時間帯によって送迎バスが駐車場を通るので通行の妨げにならない配慮が必要かも。紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮社頭全景。住宅や田畑が広がる和歌山平野にあって、緑豊かな社地はさながら緑の浮島の様にも見える。神社の外周は小さな堀で囲われ、石橋を渡れば境内。この橋と正面に見える大鳥居は白さが際立っています、建替えられて間もないようです。参道は杜の中へ消えていきます。鳥居右の由緒書き、鳥居をくぐり左が手水舎。『日前神宮祭神 日前大神 相殿 思兼命、石凝姥命國懸神宮祭神 玉祖命 相殿 明立天御影命、鈿女命謹みて按ずるに日前國懸大神は天照大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからざる太古天照大神天の岩窟に幽居まし、時群神憂ひ迷ひ手足措く所を知らず諸神思兼命の儀に従ひて種この幣帛を備へ大御心を慰め和め奉るに當り 石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る是れ日前神宮奉祀の日像國懸神宮奉祀の日矛の鏡にして二鏡齊き祀る例祭 九月二十六日 和歌山市秋月鎮座』手水舎全景。神楽殿・絵馬殿内部に掲げられた複数の奉納額。上の左の額は1864年(元治元年)、右は 1696年(元禄9)と記されている、右の絵は七福神図のように見える。下は1628年(寛永5)と記されているように見える。どれも長い年月を経ていながら鮮やかな色彩が残り、躍動感のある描写が描かれています。境内右手に授与所。授与所から参道を進む、参道は杜の中で二手に別れ、右が國懸神宮。左に進むと日前神宮に繋がる。上は日前神宮へ続く参道。下が國懸神宮へ続く参道。各々の参道脇に摂社が祀られています。まずは國懸神宮のある右に進みます。摂社中言神社祭神 / 名草姫命(ナグサヒメノミコト)、名草彦命(ナグサヒコノミコト)由緒『祭神である名草彦命は、天道根命を初代國造にして五代目にあたり、また夫婦神として名草姫命と御一緒に中言神社として奉祀されております。名草郡の地主の神として崇敬され、『紀伊続風土記』には名草郡だけでも中言社と呼ばれた神社が十二社もあった程で、同郡では最も多い神社であったと伝えられております。明治十年三月二十六日官命を以て日前國懸両神宮の摂社に定められました。』摂社松尾神社祭神 / 大山咋神(オオヤマクイノカミ)、中津島姫命(ナカツシマヒメノミコト)由緒『京都洛西の総氏神である松尾大社から分社され、当宮の末社となりました。特に醸造の祖神として特別な崇敬を受けており、毎年十一月には「松尾祭」が厳かに斎行されております』摂社市戎神社祭神 / 蛭子神(ヒルコノカミ)由緒『旧記』(くき)によると、市戎神社はかつて境内の外にお祀りされていた庭外社で、江戸時代の享保6年に境内に御遷座され日前宮末社となりました。もともとこの社の近くで「市」が立ち非常に賑わったことから、次第に市のえべっさん・市えびすと呼ばれるようになり、往時は新内(あろち)から芸者衆の「宝恵かご」が出て、たいそうな賑わいであったようです』國懸神宮 祭神 / 國懸大神(クニカカスノオオカミ)相殿 / 明立天御影命、鈿女命切妻造の拝殿から本殿の眺め、向拝付き平入の入母屋造、7本の鰹木と千木は外剥の様です。摂社天道根神社祭神 / 天道根命(アメノミチネノミコト)由緒『天孫降臨の時、天道根命は二種の神鏡とともに従臣として仕え、神武天皇二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命されました。紀氏は天道根命の末裔にあたり、歴代に渉り國造職を受け継ぎ明治十年三月二十一日には官命を以て日前國懸両神宮の摂社として定められました。』摂社邦安神社 (左)祭神 / 松平頼雄命由緒『御祭神の松平頼雄公は紀州藩支藩の伊予西条藩の世継ぎでありましたが、お家騒動で廃嫡の憂き目にあうと不遇の生活を強いられていました。そこで、紀州藩々主で従弟であった徳川吉宗公は頼雄公を紀州へと移され、ここに紀州徳川家と頼雄公の御縁が始まります。その後、吉宗公が将軍となり紀州を去ると再びその地位を追われることになった頼雄公は、51歳で非業の最後を遂げられました。やがて和歌山城内に頼雄公を祀る神社が創建され、代々徳川氏によってお祀りされていましたが、幕末の混乱期に日前宮へ御遷座されました。(現社殿は平成25年正月再興)』深草神社(右)祭神 / 野槌神由緒『祭神の野槌神はイザナキ・イザナミ二柱の大神の御子にして、草や野に関するすべてを司り、守護する神であります。古来より神の使いとしての「牛」と信仰を結び、野草を食むことからくさ(人体の腫物)を食むという「病気平癒」の高い御神徳があります』紀伊國一之宮 日前神宮 祭神 / 日前大神(ヒノクマノオオカミ)相殿 / 思兼命(オモイカネノミコト)、石凝姥命(イシコリドメノミコト)御神体 / 日像鏡日前神宮鳥居から拝殿方向の眺め、日前神宮、國懸神宮共に社殿配置、造は瓜二つ。現在の社殿は1926年(大正15)に建て替えられたもの。日前神宮の左に社務所へ続く参道が続きます。写真は参道右側。参道の左右に切妻造の社が祀られていますが、社名の表記がなく何れも不明。写真は参道左側にも二社。全ては参拝した気になっていたが、略記によれば境内末社は20社とあった。杜を抜けると右手に社務所が見えてきます。境内には紫陽花が植えられ、この頃に見頃を迎えていました。『紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮』住所 / 和歌山市秋月365公共交通機関福セス / 和歌山電鉄貴志川線「日前宮」駅から徒歩で2~3分関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳
2020.07.24
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明るい2020年がスタートしたときよもやこんな世の中になるとは誰も予想していなかっただろう。やめだ!と云えずオリンピックも延長はしたもののはたして来年に環境が整っているのか、疑問ばかりだ思い付きなのか、TVの影響なのか、やる事・なす事、感覚もスピード感も…多分、現実はもう一人の自分ではわかっているはず国民全員抗体ができるのを待ち、将来を担う世代から希望を失っていくのを見ているのかな?マスクの人、巣ごもりしていないでお二人だけでGo Toして見ては失礼・・・・・できなかったね、尖閣に議事堂つくるのはいかがだろう数か月前の学び、今日までの準備・・・・国内は疲弊、国土も縮小しかねない、トンネルの出口は見えない荒波で舵取りが出来るリーダーがいないのが一番の禍なのかも知れない自己防衛……しかないか、安心という出口はいつ見えてくるのだろう?
2020.07.23
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2020/07/10この日は珍しく梅雨らしく穏やかな雨が降っていました。ここは東区橦木町、お城と共に発展してきた街で、当時の香りを漂わせる武家屋敷の名残や日本で最初の女優と云われる川上貞奴邸(東二葉町より移築復元)がある地域でもあります。県道215号線の出来通りにある「中産連ビル前」交差点から南に入った筋が上の写真です。周囲の景色を写し込む道の光景は情緒さえ感じる。江戸時代の町割りが残り白壁筋、主税町筋、橦木筋が東西に延びて筋沿いは、趣のある門や塀が残ります。交差点から5分程南に向かって歩くと右手に日蓮宗の遠霑山妙道寺の山門が見えてきます。山門右手の石標に「尾張藩士 禄5百石 高梨五左衛門邸跡」とある。高梨五左衛門は高梨家八代にあたり1816年~1869まで尾張藩に仕え、日蓮正宗の信者でもあったことから、九代政道により妙道寺へ土地を寄進したという。1881年(明治14)、その跡地に建てられたのが妙道寺。名古屋城の東にあたるこの周辺にはこうした中級武士の屋敷が立ち並んでいた。妙道寺から南の眺め、先に見える木々は山吹谷公園で公園の前を左右に伸びる筋が橦木筋。閑静な住宅地が立ち並ぶ一帯には棟続きの懐かしい住宅も留められています。ひと昔前はこうした住宅が連なっていたのだろう、その多くは建替え、或いはぽっかり空いた空間は月極駐車場に姿を変えました。人が集まればその地域ごとに屋根神さまも祀られていきます。ここの軒下にも嘗て屋根さまが祀られた名残を見ることができます。通りからしばらく眺めていましたが社の姿はみられません、ひょっとすると既に廃社となり外観だけで社はないのかもしれません。情緒のある棟続の住宅の軒下、ここに町の移り変わりを見続けて来た屋根神さまがいたことを教えてくれています。そぼ降る雨の中に佇む棟続の住宅と屋根神様の光景、情緒があっていいものです。いつまでも残っていけるといいのでしょうが、そうはいかないんだよね。東区橦木町の屋根神さま住所 / 名古屋市東区橦木町2-22公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「高岳」下車、北に10分程
2020.07.21
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東京都港区新橋2烏森神社を訪れたのは現在の様なコロナ禍に陥る前の2月20日の事、当時でもアルコールスプレーとマスクは用意していった。おやじにとって新橋と云えば賑やかで居酒屋などが密集する聖地。その聖地のビル街に鎮座する烏森神社は都会の様式に適応した神社だ。ここでは鎮守の杜はビルだ、ひっそりと佇む神社のイメージとは若干かけ離れている。神社に向かう路地裏は洗練された都会の姿とは別の表情を持つ、大好きな雰囲気です。かみさんの舵取りがなければ、親父の進路は神社からそれていくのは間違いない。烏森神社は芸能の神として崇められる天鈿女命を祭神とする神社。見慣れない形の一ノ鳥居、なんと呼べばいいのだろう平安時代の940年(天慶3)、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で知られる藤原秀郷が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐が現れ白羽の矢を与えたという。その矢を持って東夷を鎮めることができた事から、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れ、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、お告げ通りの烏が群がる場所に出逢い、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりとされる。『江戸名所図会』の烏森稲荷社に当時の様子が描かれています。石畳の参道と鳥居、その先に社殿を構え周囲は杜に囲まれていた様子が描かれていました。当時から参詣者で賑わい日本橋の椙森神社、神田の柳森神社と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されてきた神社。参道脇の光景は変れど、当時の面影は今も漂っている。明暦の大火が起こった際、江戸の町は焼け野原となり、烏森稲荷社の周辺は焼けてしまった。しかし不思議な事に烏森稲荷社だけが延焼を免れたそうです。これは神威の致すところと考えられ、人々の信仰は厚くなっていったようです。延焼しなかった烏森稲荷社ですが秀吉の小田原征伐の際に、稲荷社は焼失してしまいます。その後、家康が跡地に大名屋敷を建てたそうですが、屋敷に入った大名家は相次いで断絶に至るという不吉な結果が起こったことから、社殿を再興したそうです。1873年(明治6)にそれまでの烏森稲荷社の社名から「烏森神社」へ改め現在に至るようです。今日まで新橋烏森の守護神として人々から崇敬され続けている。烏森神社ニノ鳥居と拝殿全景。一ノ鳥居同様に不思議な形をした鳥居です、現在の鳥居は1993年(平成5)に建てられたコンクリート製の鳥居。石段の先の社殿も鳥居同様に伝統的な様式に固執しない独特の造りで1971年(昭和46)に造営されたもの。ニノ鳥居の先で拝殿を守護する狛犬。狛犬は鳥居や社殿の様に弾けられなかったと見え、見慣れた面々です。手水鉢は個性的で、類を見ないおしゃれな外観です。烏森神社では、心願色みくじと呼ばれる、おみくじと一緒に願掛けができるくじがあります。赤が(恋愛、良縁)、黄は(金運、幸運、商売)、青が(厄祓、仕事学業、芸)、緑は(健康、家庭)に色分けされ、おみくじと同じ色の「願い玉」と呼ばれるお守りと願掛けの「願い札」が授与され、書かれた願い札は後日神職により心願成就祈願が行われるそうです。参拝者に訪れる方の年齢層や性別の傾向を見ていると恋愛・良縁を求める若い女性が多いようです。カラフルな御朱印も女心をくすぐる一つなのかも知れません。吽形の狛犬の先に「きやり塚」と記された石標があります。 江戸時代の町火消し「め組」一番組が奉納したと伝わり、明暦の大火を免れた事もあり火伏せの神として、町火消しから崇敬が篤かったとされる。地名の由来(神社HPより)『 烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。その為、当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。』例大祭 (神社HPより) 『5月4.5.6日 江戸時代までは稲荷信仰にしたがって、2月初午の日が例祭日とされていた。『祠曹雑識』によれば、百余りの稲荷番付の中で烏森稲荷は東の関脇に位置付けられている。氏子町は神輿・山車踊りや練り物等を出すのが習わしで、稲荷祭の賑わいとしては江戸で1・2を争うものであった。明治以降は例祭日を端午の節句5月4.5.6日に改め、夏祭りのはしり烏森祭として全国的に有名である。』幕には烏・森・稲をあしらった紋と三つ巴の紋。ご利益を求め訪れる参拝客は途切れることはなかった。質感のないビルが密集する中にコンクリートの社殿、木の質感を強調したシンブルな額や拝殿内の木の色が唯一温もりが感じられる部分。烏森神社(烏森稲荷)創建 / 940年(天慶3)祭神 / 倉稲魂命、 天鈿女命、 瓊々杵尊住所 / 東京都港区新橋2-15-5 公共交通機関アクセス / 地下鉄(銀座線・都営浅草線)新橋駅 徒歩数分細い路地に赤ちょうちん・・・・・おやじ心をくすぐる光景だ。親方様は宣言解除したものの…解除はすれども具体的な施策は示されない。日々発表される数値だけを捉えると2月はいいタイミングだったのかもしれない。親方様、お忍びで自分の目と足で町に出て見たらどうだろう、舵を切る方向が見えてくるのでは
2020.07.19
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梅雨の晴れ間の7/16、福井方向に車を走らせてきました。目的地は九頭竜経由で勝山市平泉寺。雨後の晴れ間で陽が昇る頃には生き生きした苔の緑が見られるだろう、そんな目論見です。名古屋発は6:00、守山SIから名神高速に乗り一路、東海北陸自動車道「油坂IC」を目指す。そこから国道158号線を経由し平泉寺に向かいます。上は国道158号線(恐竜街道、美濃街道)の九頭竜川右岸にある道の駅「九頭竜」。大雨による道路への影響もなく8時過ぎに到着。ここのコンビニでゆっくりと朝食をとる事にした。息子達が恐竜に興味を持った頃、ここの対岸にあるキャンプ場で宿泊し、福井県立恐竜博物館の化石発掘体験に行った時以来久し振りに立ち寄った、今も2頭の恐竜のモニュメントが置かれ、時が来ると雄たけびを上げる、子供だましにはいい場所だった。ここは福井市越前花堂駅から伸びる越美北線の最終駅でもあり、駅の先には線路はない。ここから目的地までは九頭竜川を下る事。約一時間も走れば到着だ。ここまでの登りでは悲鳴を上げていた軽のエンジンも幾分静かになってきた。目的地の平泉寺白山神社へは9時30頃到着、無人の有料駐車場に300円投入し、一旦駐車場から参道を下る事とした。鬱蒼とした杉の巨木が立ち並ぶ中宮平泉寺参道を下り切り、勝山城博物館、下馬大橋まで下る。ここから再び参道を登り始める。中宮平泉寺参道 日本の道100選に選ばれている、約1.2kmの旧参道である。菩提林とよばれる樹齢1000年とも云われるスギや広葉樹の老木の並木に覆われ旧参道の石畳。室町時代に九頭竜川の河原の石を、修行僧が手送りで運びつくりあげたもので、長い年月により石畳は自然の苔で覆われ、目にも鮮やかで趣のある光景が残っている。左に道路もあるけれど、これとて馬を通すための道を自動車用に作り替えたものだ。空を覆う参道の樹々と苔の緑のトンネル、静まり返った空間は特別な感じを嫌が上にも感じられる。フィルターでろ過された空気とでもいえばいいかな。吸い込む空気もひんやりとして、心なしか美味しく感じる。平泉寺白山神社717年(養老元年)、泰澄によって開かれ、霊峰白山に続く3つ(加賀、越前、美濃)の越前禅定道にあたり、白山の美濃入口は長瀧白山神社白山長瀧寺、加賀は白山比咩神社、越前はここ平泉寺白山神社で三馬場と呼ばれ、山頂を極楽浄土と見立てた白山信仰の登拝拠点として栄えたそうです。ここ平泉寺白山神社も盛期には48社、36堂、6000坊院を誇ったそうです。写真は精進坂ここから先は身を清め心を慎む修行の場、この坂より上には魚の持ち込みは禁止されていた、それゆえ精進坂と呼ばれるそうです。中央の石段、昔は52段だったそうで、1段の高さが高くのぼるのが大変だったようです。現在は84段となりのぼりやすくなったと云われます。下からの参道もそうですが、雨後などは丸い石が滑りやすくなるので足元と、周囲を見ながらの歩行は要注意。それさえ気を付ければ豊かな自然と緑の苔の世界を楽しめます。精進坂の中ほどからニノ鳥居。参道脇は御覧の様に一面鮮やかな緑の苔の絨毯です。久しぶりに目も覚めるような緑を見たような気がします。境内全域は白山国立公園特別指定区域内に位置し、その広さは15万平方メートルあるといいます。梅雨時から夏にかけ一面に生える見事な苔が平泉寺の見どころ、京都の西芳寺と共に苔寺として知られる。苔の種類も豊富で素人目に見てもその違いが分かるほど、苔マニアにはたまらない場所かもしれない。ニノ鳥居。山王鳥居に似たこの鳥居は中央に屋根がついた神仏習合の時代の独特な様式だといわれ、おそらく日本にはここにしかないと云われ、当時の鳥居は一向一揆で消滅しましたが、こうして見る鳥居は1778年(安永6年)に再建されたものだそうだ。控え柱が付いて、周囲の景観に溶け込むような佇まいだ、一目見てこの鳥居の虜になりました。鳥居に掲げられた大額の白山三所大権現は中御門天皇の皇子天台座主公遵法親王が書かれたものという。鳥居の先に見える拝殿は江戸時代に再建された寄棟檜皮葺のもので、1574年(天正2)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、46間(83㍍)あったと言われ、京都の三十三間堂より大きな建物だったそうです。それを裏付けるように礎石が点在し、当時の大きさを物語っています。本殿は1795年(寛政7)に福井藩主松平重富により再建された、総欅造で外観は白木造ですが、内部は美しく彩られているといいます。向拝など見事な龍の彫刻が施され見事となものです。この本殿の扉は33年に一度しかあけられないそうで、次に扉があけられ見事に彩られた内部が見られるのは2025年だそうです。祭神は伊奘冊尊をお祭りする。本殿の左の大汝社、祭神は大己貴尊をお祀りしています。本殿右にも同様の社があり別山社といい、天忍穂耳尊をお祭りします。本殿と左右の社は白山を構成する三つの山を表しているそうだ。拝殿から本殿にかけては苔の宮ともいわれるだけに、静寂な境内一面が緑の絨毯を敷き詰めたように緑の苔が広がります。平泉寺白山神社、霧雨の様な雨がしっとり降る早朝に訪れると更に別の表情を見せてくれそうだ。平泉寺白山神社住所 / 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63関連記事 / 長瀧白山神社平泉寺白山神社で十分に目の保養を行い、次は越前蕎麦を食べに大野市に向かいます。その前に、白山神社に向かう道すがら見かけた神社に「ちゃちゃと見てくるから寄らせてくれる?」とお願いし立ち寄る事にしました。白山神社から車で10分程下った県道169号線脇の草むらの中に鎮座する神社。妙に伽藍に魅かれた、入母屋の本堂と床の高い渡廊、本殿は流れ造の鞘堂で覆われ、いかにも雪深い土地柄を感じさせるもの。コンパクトに纏められています。社頭からの全景。社号標は白山神社とある。由緒書きなく詳細は不明ですが、石鳥居は昭和22年、社号標は大正14年と彫られています。境内は広くあちらこちらに切株が点在しています、つい最近まで境内は杜で包まれていたようです。伐採され陽当たりも風の通りもいい境内、緑の草むらに佇む「大渡地区の白山神社」大渡地区の白山神社住所 / 福井県勝山市平泉寺町大渡28小沢4平泉寺白山神社からのアクセス 国道169号線経由で10分程さて気になった神社にも寄り道することも出来たので蕎麦〃。大渡地区の白山神社から恐竜街道を南下、県道240号線を経由し15分程で越前おおの結ステーション多目的広場兼駐車場に到着。随分と遅い昼ご飯になってしまった。広場に建ち「時鐘」、高さ約8㍍の木造で四方に時計を備える。明治の頃までは上に吊るされた半鐘を打ち鳴らして時を知らせたそうだ、この時鐘はそれを懐かしんで復元されたようです。モデルになったのは長良川のほとりに立つ「川湊灯台」だと云われます。時鐘の左の山の頂に見えるお城は越前大野城。この駐車場は廊下式の和風建物やステージが併設され、嬉しい事に駐車場は無料。ここに車を停め七間朝市通りの「十割そば処 七間本陣」へ。町屋風の外観で、以前は棟続きの長屋が続いていた名残を留め、気が付いたら両隣は無くなってました的な外観。普段ならざる蕎麦となるけれど、ここに来たらおろし蕎麦でしょう。蕎麦の香りは控えめですが、ほどよい弾力と喉越しのよさ、そばつゆに大根おろしが入った「おろしそばつゆ」で頂く蕎麦、大根の刺激が涼を感じさせるものです。後味はとてもさっぱりして夏に向く蕎麦だと思う。結構蕎麦の量は多く3玉の三間盛が1.5人前相当、かみさんから一玉プレゼントされたが4玉はお腹一杯。さっぱりした越前蕎麦に大満足です。「十割そば処 七間本陣」住所 / 大野市元町3-20越前おおの結ステーションから北に徒歩5分程お腹を満たし、周辺の酒屋さんで地酒を買い求め、ここからは羽島のコストコ経由で帰途に着く。その途中の九頭竜湖でもう一社寄らせてもらった。総社穴馬神社九頭竜湖畔の国道158号線沿いに大きな石鳥居と穴馬総社の社号標は運転していても視界に入ってきます。湖畔を見下ろす高台に鎮座する穴馬神社。周辺に集落はないながら何故ここにと感じるけれど、目の前の九頭竜湖の下に集落はあった。九頭竜ダムの建設で水没した氏神様をまとめて祀るために昭和39年に建てられたもの。シャープな切妻造の拝殿とその後方に神明造の社殿がある。境内には水没した集落にあった春日神社、立今神社の社号標も残る。御祭神 天照皇太神他、17カ村の氏神を合祀立合神社・春日神社氏神は立合神社、元は神明神社であったとされ、明治44年野尻・大谷入会地にあった八幡神社を合祀し、立合神社と改称された。故郷は湖底に沈み、そこに住まっていた住民は離れ離れとなるも、人の去ったこの高台に氏神が纏められている。故郷を思う時ここを訪れることで当時の記憶が蘇ってくるだろう。総社穴馬神社住所 / 福井県大野市野尻54-1-2大野市から車で45分程さて晩御飯の時間には戻りたい、コストコに寄って帰る事にします。今回各地にとんでもない降雨量をもたらし、各地に深い傷跡を残しました、被災された方々には心からお見舞い申し上げます。自然の驚異を実感させられ事が多くなり、それは他人事では済まされないほど地球規模で歯車が狂ってきているようです。個人でも支援の手を差し伸べる手段はある、明日は我が身、困ったときはお互い様だ。明日は今日よりいい日が来る。
2020.07.18
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昨日は何事もなく誕生日を迎えイベントもなく普通に過ぎて行った。遅まきながらのかみさんからの誕生日プレゼントはTOTO ウォシュレット一体形便器のダイアフラム弁から「水がぽたぽた漏れ、止まらない」なんというプレゼント。まずは給水タンクの上蓋、内部のカバーも取り外し、全貌を確認します。黄色稲妻マークから常に僅かな漏れがあり、水音がしているようで、最近水道の使用量が増えていたそうな。赤丸部分を外さねば話にならないまずはトイレ周辺にある水のバルブを閉じる事から始まりです。フロートのレバーは樹脂製の受けに爪が入り込んで止まっているようです10年以上経過したもの、迂闊に扱うと「ばっきーん!」折れてしまう予感あズキルーペでよく見ると、なるほど両端を押し込んで、突起を外すようだあまり力は架けたくないよね、ラジオペンチで青〇部分を軽く挟み込み突起を受けに干渉しないようにして軽くフロートを持ち上げるとすんなりフロートは取り外せました。フロートを取り外した状態のダイアフラム弁黄色→のリングは正ねじになっているのでこれを緩める(左回し)のだけど、このリングだけ持って緩めると本体の取り付けが赤の爆発マーク一カ所なのでそこから折れ二次災害の予感がします赤丸全体を手で持ち、リングを緩める力が本体にかからないようにしてリングを緩めます。リングを外します、ダイアフラム弁が露わになります。弁は二カ所の突起で固定されリングにより締めこまれているだけ。その突起は大きさが違います、組み立ての際は突起の大きさに合った溝に入れさえすれば正しく入ります。大きさの違うそれぞれの溝に正しくはめ込めばすんなりです。突起を間違えてセットすると正しく入らないばかりか、リングが正しく締まり切らないはずです。白地の突起に白の溝では、よく分からない、優しくない設計だ事。露わになった弁体をまっすぐ上に持ち上げるとダイアフラム弁は簡単に外せます白い受け部分と黒いパッキンが密閉されて正常なのでしょう、どちらかに密閉が保てない要因があるようです。念のため受けの部分に割れや、欠けがないか指先の感覚で確かめる、すべすべなので欠けはないようなので割れてはいないか・・・・ひびがあったとしても見えるわけもなく、あズキルーペでもおやじの目には見えない。ダイアフラム弁の先端に突起があり(4枚目の写真中央)、突起の先端に針程の小さな穴が開いていました。その穴をフロートのレバー先端に付いた小さなパッキンで水を止めているようです。ここは受けに問題なしという事で・・・・・となると黒いやつだ上はダイアフラム弁を外した状態でほんの少しだけ水を出して(ほんの少しだけですよ、噴水になります)流れを見て見ました。 本来は青→だけに流れればいいものがリングが付いていても稲妻方向に漏れていく。中央に10㎜程の細い穴があり、給水された水はダイアフラム弁の突起(4枚目の写真中央)先端の針の程の穴を介し給水タンクに清水が満たされるようです。龍口みたいなものか?給水され、フロートが上がるとフロートのレバー先端部分に付いた小さなパッキンで針の孔を塞いで水を止める構造。フロートが下がれは針の孔を抑えなくなるので水は手水鉢に給水される。取り外した弁体を上の様に二つに分けて見ました、この二つで構成されています左のピンは右のパッキン側の穴に入ります、なので向きを間違えると正しく元に戻りません向きさえ違ってなければ、軽く二つに分かれますさて、右の部分、底は全面パッキンと中央が盛り上がっており、その部分で一つ前の水が出てくる部分を止めるような構造、見た目に割れや劣化はないようですが納得いかないけれど、ダイアフラム弁は5年で交換とな。ホームセンターでダイアフラム弁を購入(700円程)取り替えて見た。交換後10分程観察するもフロートはしっかりと針の穴を塞いでくれているようで漏水は止まったようです。自分の目には見えない穴が開いていたようです。かみさんの話でダイアフラム弁決め打ちでいたけれど、かみさんの読みは正しかったようです。気を付けないといけないのが、折角ダイアフラム弁が機能し給水を止められたとしても、給水タンクの底面の便器に水を供給するパッキンが劣化や水垢で便器に水が漏れていると、タンクの水位は下がり、それによりフロートが下がり、針の孔を抑えている部分から水が出てきてしまいます。それをダイアフラム弁から漏れていると錯覚しかねない。便器の水面を見ると分かるはず、水面が鏡のようであれば給水タンク底面パッキンは良し。水面が揺れていれば給水タンク底面のパッキンがoutと云う事です。給水タンクの底にある給水タンク弁のパッキンを触ってみれば触診で確認できます。水垢だけであれば清掃すれば密閉は保てるはずです、不幸にもパッキンがボロボロだとパッキン交換になります。このパッキンもパーツ販売され1000円以下で手に入るはずです。もっとポイント毎に写真を取れば良かったが、狭くて自分には暗いので途中でやめてしまった。webには同じ悩みを自分で解消した動画も氾濫しています。なんだかんだと人件費が一番高い、業者だと幾らになるのか分かりませんが700円では済まないはず。10年も過ぎれば色々と不具合も出てくるものです、見事復旧したら大蔵省との折衝次第で一杯飲めるかも?おやじには折衝する勇気はありませんが、取り敢えず止まって良かった。
2020.07.17
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春日井市上条町8先に掲載した和爾良神社の飛地末社「大日社」から南に歩いて10分程で「和爾良神社」です。社頭の全景は、郊外の古い神社らしく、比較的長い参道がまっ直ぐに続きます。右は住宅、左は今も住宅が建とうとしています。西に県道25号線と東に県道30号線が伸びていますが、神社はその間に鎮座しているせいでしょう、至って静かで車の往来も少ない。右に「和爾良神社」社号標と常夜灯、その先に石鳥居を構えています。参道の先に蕃塀もあるようで、ここからでは蕃塀の存在から拝殿全景は窺えません。鳥居から境内に続く参道、参道脇は桜並木の様で桜の咲く時期はきっと華やかな表情を見せてくれるだろう。鳥居左に板宮造の赤い社。詳細は分かりませんがこの外観は・・・・・社の左に植木の陰に隠れ、存在が目立ちにくいけれど庚申塔があります。「延喜式神名帳」に「尾張国山田郡和爾良神社」の記載と式内社と記されているようですが比定には諸説があるようで、大日社でも記載したけれど和爾良神社だとする神社は他にもあり、どれも決定的なエビデンスがないのが実情でこの神社を探し求める方も多く存在するようです。上は1891年の当地で現在の上条町以前は庄内川と内津川が交わる辺り一帯は和爾良村とあり、素直に「ここね?」としたい。由緒書きによれば和爾良神社は和爾氏由来の神社で1218年(建保6年)に小坂孫九朗光善が上条城築城に際し、荒廃した神社を嘆き再興し、光善の祖神磯城津彦命と菊理姫命を合祀、和爾良白山宮と称した頃もあったようだ。1993年(平成5)に創建時の呼称「和爾良神社」に戻したと記されている。先に記載した大日社はこの際に造営されたとある。再興後800年を記念してこれら手が掛けられているが、1218年以前には既に存在していたので、創建は更に遡っていき、地名や社名に和爾が残った様に和爾氏の頃まで遡るのかもしれません。街が整備されお洒落になり、地名も古い地名からお洒落になったりすると、その地の謂れも消えていきます。 地名は意外とその地を知るのに便利なもので、昨今の異常気象による禍は地名を辿っていくと先人達が地名で警鐘を鳴らしていたりします。参道を進むと正面に蕃堀、その先の境内は一段高くなり拝殿が建てられ、拝殿の右は公園になっているようでカラフルな遊具も見えます。境内右の夜泣き石、春日井市の史跡に指定されているようです。和爾良神社の右に大光寺がありますが、春日井市の昔話によるとこの石は大光寺にあったそうです。昔、この地に住む松右衛門が庭石にしようとこの石を寺から家に持ち帰ったそうです。持ち出されたこの石は夜になると鳴き声とともに「大光寺に戻りたい」と涙を流し訴えたと言う伝説が残る。参道から西側の眺め左から手水舎、脇参道、集会所手前に蕃塀がある。控え柱を持つ木造蕃塀と拝殿、手前に狛犬が守護しています。背後には楠木の巨木が大きな杜を形作っている。和爾良神社の瓦葺切妻拝殿と右は瓦葺入母屋造の大光寺本堂、寺と神社が綺麗に並ぶ。狛犬の阿形の右に「小野道風公発祥地」と記された石標。拝殿に繋がる石段前の狛犬。(2枚貼り合わせ)和爾氏宗家が絶えたその後、和爾氏を祖とする小野葛絃が上条に赴任、894年(寛永6)に小野道風が誕生したという、その生誕地は道風記念館のある松河戸だったり、ここ上条付近だとか諸説あるようです。こちらでは生誕の地に道風が祀られていないのは寂しいとのことから、平成30年に滋賀県の大津に鎮座する小野道風神社から道風の分霊を勧請したらしい。拝殿正面、白壁の白と木の色合いがシンプルで美しい。派手な飾りのない落ち着いた佇まいの拝殿。「延喜式内社 和爾良神社」の額と拝殿内。拝殿西から幣殿、本殿方向の眺め。拝殿左、東向きに板宮造の三社が祀られています。左から市杵島神社(市杵島姫命)、御嶽社(少彦名命)、稚児社(天照皇大神)御神木の楠は社殿の上空を覆うように枝を張り、境内に大きな木陰を提供してくれている。木陰を求め本殿方向へ。右の幣殿と本殿。千木は内削で鰹木は6本の様に見られます。作りは神明造の様です。本殿後方は一周でき、公園に繋がります。道路から隔てられ、緑も多いこの境内、神さまの傍で安全に遊ばせるにはいい場所かもしれない。稀に「子供の遊び場ではない」と張り紙のある神社も見かける、子供を遠ざける神域故に当然理由があるけれど、子供の頃こうして遊んできたおやじから見ると受け入れてくれるようなこうした光景が見られる神社に妙に魅かれるものがある。和爾良神社創建 / 不明祭神 / 阿太賀田須命、建手和爾命、磯城津彦命、菊理姫命境内社 / 市杵島神社(市杵島姫命)、御嶽社(少彦名命)、稚児社(天照皇大神)住所 / 春日井市上条町8公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、南に徒歩20分関連記事 / 大日社拝殿右の切妻瓦葺で向拝が付いた小さな堂は「上条元三大師堂」和爾良神社を参拝した後はここにもお参りすると御利益を得られる。「南無元三大師」と唱えることで交通安全、家内安全、合格祈願、無病息災などあらゆる悩みにご利益が得られそうだ。角大師とも呼ばれ、宗派に拘ることなく、戸口に御札を貼る事で災いから守っていただけると云う。拝殿の右に並ぶ入母屋瓦葺のシックな建物は大光寺本堂。軒下で涼を取り、左の公園で遊ぶ子を見守る親の姿もある。代々の西国三十三ヶ所遥拝の記念奉納額が掲げられ、中には色褪せたものもあり、信仰心の厚さが伝わってきます。切妻瓦葺で向拝が付いた小さな堂は「上条元三大師堂」和爾良神社を参拝した後はここにもお参りすると御利益を得られる。「南無元三大師」と唱えることで交通安全、家内安全、合格祈願、無病息災などあらゆる悩みにご利益が得られそうだ。角大師とも呼ばれ、宗派に拘ることなく、戸口に御札を貼る事で災いから守っていただけると云う、広い心をお持ちの仏様。ここは寺、なので参拝作法の切替が必要。僅かな賽銭多くの願い、何卒流行病を…堂内の厨子は天台宗の中興開山の元三大師という僧の石仏が祀られているらしい。この厨子の棟木に1510年(永生7)と銘があるといい、もとは鳳来寺にあったとされます。小さな厨子ながらその作りは凝ったものがあり、室町時代から守り継がれてきた春日井市の指定文化財。大光寺門前から元三大師堂全景。西国三十三ヶ所本尊の石仏が安置されています。千手観音や馬頭観音、十一面観音など像容のはっきりした大小様々な像が見られる。山門から境内左が本堂、中央が庫裏になるのだろうか。大光寺の創建は不明ですが和爾良神社の別当寺であったとされ、1218年(建保6)上条城主の小坂光善により和爾良白山宮と共に現在地に移されたという。どこから移されたか? それは、ここから北西の朝宮町に朝宮公園があるけれど、その南に鎮座する朝宮神社あたりだという。この大光寺は山号を朝宮山といい、朝宮町とは所縁がありそうです。だとすると和爾良神社の旧社地はこの辺りという事か?「和爾良神社はここね?」とはいかなくなってきた。大光寺創建 / 不明宗派 / 天台宗山号 / 朝宮山本尊 / 十一面観世音菩薩像住所 / 春日井市上条町8
2020.07.15
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近所の公園を散歩中にセミの脱皮した抜け殻を見かけ写真に収めてみました。抜け殻から種類まで特定するだけの知識もないが、長い事幼虫として地中の中で命を繋いできただけに、空き家の主が無事に羽ばたいたのか、気になったりもする。息子達がまだ天使の様に見えた頃があった。夕刻の公園で彼らのイベントの練習に付き合っていた際に地中から無数の幼虫が這い上がり、この形態で動いているのを一度だけ見たことがある。既に羽化の真っ最中の方もいたりして、思わず天使たちを呼び寄せてその瞬間に立ち会わせた事を覚えています。長年地中で生き続け、羽化タイマーが入り地上に這い上がり、手近な木や植木にしがみつきその時を迎える。天使たちの視線の先で羽化したばかりの白いセミ、普段は可愛いねと云っていた野鳥が白いセミを捕食する瞬間を見て彼らの表情が曇ったのを覚えている。羽化するのも、捕食するのも自然の生業だ、食べられてもそれ以上に這い上がってる幼虫達にエネルギーすら感じたものだ。幼い頃にそうした光景を体験させるのもいいことかもしれない。長年暗い地中で成長し、晴れの日を迎え羽化・飛翔したとしてもその寿命はあまりにも短い。異常気象に土地改良、地上にでれば「こんなんだったけ?」と戸惑っているのではないかな?この主は無事に羽ばたき「GO TO!」となったのだろうか。その結果は間もなく鳴き声で知る事になるのだろう、新聞配達より早く泣き出し、目覚ましタイマーが不用となるのも間もなくか。マスクの方、派手にばらまいて頂いたお手当も昨日入ったようです。ありがとうございます、このお手当、別の使い方せずに我々「GO TO!」で本当に大丈夫なんですよね? ・・・・・親方さま、まだ地中にお見えですか?
2020.07.14
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名古屋市東区筒井1、尾張徳川藩菩提寺「徳興山 建中寺」がある。普通にナビに導かれると恐らく三門に導いてくれるのではないかと思います。三門の前の道路を隔て、南側に広がる公園は建中寺公園、桜の時期にはのんびりと花見ができる場所です。その公園の南にポツンと総門が建っています。もとはここを含めて建中寺の寺領。尾張名所図会で描かれた建中寺伽藍、赤丸が鳥居のある位置になり、左にかけてが現在の建中寺公園。入口となる総門の前は、周辺の道幅に比べ妙に広い。その理由は後述するとして、この広い通りから総門を眺めると門の先に公園、更に先には三門を望める。この総門の右手に明神鳥居が目に留まると思います、今回の目的地はこの小さな社。唐破風造りの社が南を向いて祀られています。以前からあるのは知っていましたが、筒井天王祭を調べていて、この社が実は以前は屋根神さまだったと知り、おまけ的な取り上げ方から一つにしておくべき存在だなと感じ再訪しました。1652年(慶安5)に建立された総門、その築地塀の右手に緑青に包まれ、注連縄の張られた銅葺の明神鳥居は目立つ存在です。額束に社名は記されていないけれど、この社が屋根神さま。幕も張られ、後は提灯が吊るされていればほぼ正装の装いに近い。笠木の両端の緩やかな反り上りは、小さな鳥居ですが存在感のあるものです。この社がいつからここに祀られているのか、以前はどこに祀られていたのか?具体的には定かになりませんが、web情報では1954年(昭和29)頃の道路拡張に伴いこちらに祀られることになったようです。総門南側の異様に広い道路を見据えるかのように高い台座の上に祀られてる社、唐破風造といえばいいのだろう、妻入の切妻屋根の全体が唐破風構造になったもので、正面から見ると中央が盛り上がり軒にかけて緩やかな曲線を描き下っていき、その先で跳ね上がり重厚感のある外観です。屋根神さまと云えば、熱田社、津島神社、秋葉社等が祀られているのを見かけますが、以前訪れた際は社の扉が開いており、津島神社の神札は見ましたがその他は目に留まらなかった。今回は残念ながら扉が閉じられ神札は見られませんでした、筒井町天王祭の際には提灯が吊るされ、扉は開けられると思います、それを見てから祭神は書き加えよう。この屋根神さまの祭礼が「筒井天王祭」であり、ここ建中寺門前を本陣とする神皇車と情妙寺前を本陣とする湯取車の二台の山車が無病息災・家内安全を祈り曳き回されます。湯取車の納庫は情妙寺の西にあり、その脇にも屋根神様は祀られています。筒井町天王祭、その日に車でたまたま遭遇すると、通行規制が入り「運悪る」とか思っていたが、山車のからくりも披露され、宵の奉曳では山車の提燈に火が入り幻想的でもあるようだ、何よりも総門の前には屋台が連なるそうです。(イカ焼き片手にビールしかないな、好きなやつだ)普段は人通りの少ないこの通りもこの日ばかりは大賑わい、屋根神さまもその様子を眺めて微笑んでいるのではないだろうか。そして次の世代にもこの繋がりを受け継いでくれることを願っているやも。由緒はきっと良く分からないかも知れないけれど、神社当番があり今も大切に受け継がれている。繋いで行けるものがあるという事は素晴らしい事だといつも思う。筒井町天王祭、2020年は6月6・7日の予定だったそうですが、このコロナ禍のご時世、中止になったようです。この禍の出口はいつ見えてくるのだろう。「緑の鳥居のその先は屋根神さま」創建・祭神 / 不明住所 / 名古屋市東区筒井1-11公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車、北に徒歩10分程関連記事 / 建中寺、東区筒井町4「秋葉神社、熱田社、津島神社」、東区筒井1の小さな社、車道町2「秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社」
2020.07.12
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春日井市上条町4左手に製紙工場があり、子供の頃は「香しいにおいの漂う場所」の印象が強かった。その後技術も進歩し今やそんなことは全くない。過去の事かもしれない。県道25号線(称春日井一宮線)で写真の前方、春日井市役所方向に向かうと県道508号線下街道に交わります。大日社は大手製紙会社春日井工場の東にあたります。目印は歩道橋と右手の森かも知れません。大日社正面全景、緑の中に鳥居の白さが際立ちます。県道沿いの小さな杜に南を向いて明神鳥居が見られます。所謂参道はなく、杜を取り囲む様に玉垣で囲われていて、鳥居の前の月極駐車場を通りそこから鳥居へ向かう事になります。見た所参拝者駐車場もないので車で訪れると困るかもしれません。大日社境内全景。広い境内の中央に社殿があり、間引かれて大きく枝を張って育った木々が境内に程よい木陰を作っています。風通しも良く、木々が鬱蒼としているわけでもないので、この時期悩ませられる蚊や、じめじめした環境ではありません。陰か陽かで表現すれば陽の神社。大日社鳥居と境内に木陰を提供してくれる樹々。大日社が単独で社殿を構える姿はあまり記憶がありません。鳥居右のトウカエデの巨木とその手前に道風橋の石標。このあたりは小野道風生誕地として、ここから庄内川方向の松河戸付近に道風記念館が建てられています。道風の生誕地は諸説あるようで、記念館のある松河戸説とここ上条町の上条城付近の二つの説があるようです。何れも決定的な根拠を見出せないようです。今ほど河川整備されていない昔、暴れ川で流れを幾度か変えてきた庄内川の付近で生活するとしたら?個人的に住むのであればこの辺りだろう。サボテンや葡萄、桃などで馴染みのある春日井ですが道風以外にも謎があります、それは和爾良(カニラ)神社。大日社は和爾良神社の飛地末社として記されていますが、東に少し歩けば事実、和爾良神社が鎮座しています。我こそは幻の和爾良神社と伝えられていたり、ここがそうだと推定される神社は複数存在し、考察されていますが決定打は出ないようです。和示良神社 / 名古屋市名東区猪高町猪子石両社宮神社 / 春日井市宮町綺麗な透塀に囲われた社殿全景。柿渋が塗られているのかな? 木漏れ陽を受け、落ち着いた色合いで佇む姿は個人的に好きな光景です。祭神は大日霎命で創建などの詳細は分かりません。4本の鰹木と内削ぎの千木を持つ神明造の社、こちらも経年劣化を感じさせない綺麗なものです。後方は県道25号線、交通量は多い方ですが境内では意外に苦にならない。歩道を行き来する歩行者も少ないようで、ベンチでもあれば涼んでいきたくなる。大日社由緒祭神 大日霎命(日の神)住所 春日井市上条町4丁目2181番地由緒鎌倉時代の健保6年(1218年)木曽義仲の四天王の一人である今井四郎兼平の孫の小坂(男坂)孫九朗光善が上条城を築城した折、衰微していた和爾良神社を再興し、また、三の丸の外に外廊の土塁をめぐらせ、その西南の隅(本丸中心から150間)に御旅所を造営し、大日霎命をお祀りした。大日の森(道風の森)として親しまれている。」御旅所とはよく耳にするけれど神社の祭礼など神さまが神幸の途中で休憩やお泊りになる場所の事、なので普段は御旅所には神さまはお見えになりません。そうした事から由緒に祭神を記さない場合もあります。時に摂末社や配偶神を祀って社殿を構えるものもあったり、諸事情により元の鎮座地から一時的にお祀りされたりする場合もあるようです。参拝させてもらい、社の全容を収めさせて頂きました。シックな社だけに僅かに施された金色の飾り金具は存在を主張してきます。こちらの由緒書きに大日霎命(オオヒルメノミコト)と記されているので、普段からこちらにお見えの様です。(大日霎命は天照大御神の別名)西側から見た境内の眺め、社殿の左に注連縄が吊るされた石があるようです。由緒によれば上条城を築城した折、衰微していた和爾良神社を再興し、本丸から150間に御旅所・・・・・とあります。上条城は写真右手方向になります。この御旅所が本丸から150間となると少し距離間が違うような気もしないでもないが、大した問題ではないだろう。何よりもここを知る方がそうらしいといい、後世に語り継ぐ目的で記された由緒は率直に受け入れ尊重するものです。個人的にこの差は長いスパンで見れば「それがどうした?」と思ったりする話です、古老の伝承は時にウイットに富んだジョークの様な事を語ってくれたりもする、悪意でも、利権に絡むものでもない彼らにすれば真実そのもので聞くのが楽しかったりする。昨今世の中で起きている???と比べれば、取るに足らないし、歴史の謎は専門家が出してくれるのだろう。昨今起きている???は謎ではなく、その気になれば結論が出せるものばかり。境内の左わきの石標。相変わらず学びがない、写真で読めばいいとする悪い習慣から、今回も刻まれている中身は読み取れない。指でなぞるか?境内から鳥居方向の眺め。鳥居や玉垣は2018年(平成30)と刻まれています、和爾良神社・合祀再興800年を記念し建之されたもののようです。梅雨の晴れ間、汗だくの体に心地よい日陰と風を提供してくれた大日社、歴史も分からないし謎の多い地域ですがとても快適な環境を提供してくれました。和爾良神社の飛地末社 大日社創建 / 不明祭神 / 大日霎命住所 / 春日井市上条町4-2181公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、徒歩で南へ15分程関連記事 / 上野天満宮御旅所、上条城址
2020.07.10
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名古屋市東区代官町町名の由来は江戸時代にこの地は代官が屋敷があり、家来なども居住したことから「代官」となったと云われます。東西の町を竪(たて)代官町、南北の町を横町といったことから萱屋町の東の竪の道を横代官町と呼ばれていた。やがて昭和に入り住居表示変更により東区の相生町、葵町、小川町、萱屋町、竪代官町、舎人町、平田町、横代官町の各一部を編入し代官町となったようです。今回の目的地代官町の「屋根神さま」は代官町の竪代官公園の東に祀られています。この公園自体は1983年に整備された比較的新しい公園で、街中にあって小休止するにはありがたい。実は先に書いた「松山神社」へ向かう途中に偶然出会った社です。公園の東に代官町会館がありますが、屋根神さまは会館の入口左に祀られています。恰も会館を訪れる地元の方を見守るかの様に鎮座しています。会館の右には大きな石標があるようです。高く台座が組まれその上に銅葺き屋根で山形造りの社が南を向いて祀られています。区画整理が行われ、軒から地上に降ろされた社、一時期は向かいの公園に鎮座していたとも云われ、その後この場所で安住の地を得たようです。会館南角から見た社と石標の全景。こうしてみると会館を訪れた方は真っ先にご挨拶したくなる場所です。いい場所に祀られたものです。社正面全景。シックで小さい社ですが細部には彫が施され、シックな飾り金具も施されています。扉が開いていないので祭神の詳細は分かりませんが熱田神宮、秋葉社、津島社ではないかと思います。丸織跡街園の石標。街園とは「区画整理に伴い生まれた空間を一般交通の用に供しないで広場的、公園的機能を有し、地域にゆとりあるスペースを提供する施設または車両の安全円滑な通行及び歩行者の横断の安全を確保するために、交差点、車道の分岐点に設けられる島状の施設」と書かれています。頭の丸織跡とは明治の終わりから昭和の中頃まで市内には大きな紡績工場が複数あり、ここ代官町にも丸織会社の織布工場があり、多くの女工さんがいた、それに伴い周辺の商店なども賑わったようですが、昭和に入り工場は移転し広大な空き地が生まれ、そこから区画整理を経て現在の姿になったようです。それにより生まれた事を伝えたものなのかも知れません。碑の裏にも刻まれていますが、写真に収める事も出来ず詳細までわかりません。いつ頃、どこから地上に降ろされ、その始まりがいつなのか全く分かりませんが、現在の代官町を災いから守ってきた身近な神様なのは間違いない。2020/06/19代官町の屋根神さま創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市東区代官町25-18公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車、北へ10分程筒井消防団から徒歩10分関連記事 / 松山神社、車道町2「秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社」
2020.07.09
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名古屋市東区泉3マンションや住宅の密集する一帯の小さな一画に社殿を構える「松山神社」。名の由来はその昔この辺りは松の樹が生い茂る広大な山林だったことから「松山」神社と付いたらしい。現況を見る限り、とてもそんなイメージが湧きたつことはない。松山神社社頭全景、後方のビルに対し、古風な建物に目が行く。まるで旅館の様な佇まいの建物は松山神社の社務所。この一画だけが時間の流れに取り残されたかのようでもある。松山神社の参道は西側を向いて神明鳥居が建つこちらの参道と、南に鳥居を構えた脇参道の二カ所があり、どちらも鳥居と社号標が建っています。どちらが表参道かと云えば、西側を向いて拝殿を正面に見るこちらが表という事でいいのだろう。鳥居の右に掲げられた松山神社の略記。それによれば「当社は名古屋市東区泉3-2-29に在り。此の地往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり。因って松山神社といい、近世天道宮、天道社又は松山天道とも呼べり。創立年代不詳。大永年中羽前羽黒山の修験隆海之を再興し、守護すること30余年二代…海の後社殿大に荒廃す。元和年中美濃久々利の修験秀恵重興し且つ寿命院を建立別当となる。以来藩主の命に依り祈願所となり、崇敬篤く元文3年5月、御紋付の挑燈を寄付せらる。 明治の初年村社に列し、別当を廃して祠掌を置く。祭神中央は天照皇大神、右は品陀別命、左は市杵島姫命なり。社殿は神殿、拝殿、神饌所、神楽殿、社務所あり、境内に加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社がある。 例大祭は10月14、15日、月次祭毎月1、15日他に5月14日に大祭、7月1日赤丸神事、7月25日茅輪神事がある。 古来土地の氏神として一般の崇敬篤く家内安全、商売繁盛、学業成就、開運厄除の守護神として広く庶民に信仰されている。昭和54年10月吉辰」と記されています。このあたりで熊野、白山、秋葉、御嶽は馴染みのあるところですが、出羽三山の一つ羽黒山は馴染みがありません。大永年中(1521~ 1528年)に遥か遠く羽黒派修験者がこの地を訪れ再興したとあり、現在の松山神社の前進は更に以前からとなるようです。間口は狭く境内は狭い印象を受けます、後方の大きな入母屋屋根の円明寺とは背中合わせとなり、奥がない分、境内は右に広がり、鍋谷町通り沿いの脇参道へと続き、意外に狭さは感じません。境内すぐ右側に鍋谷町の石標があり、その奥に手水舎、手水鉢があり「恵の水」と書かれています。龍口から勢いよく清水が注がれています。井戸水なのだろうか、松山神社創建以前からあり、枯れる事のない井戸として珍重されたらしい。願い事が叶う不思議な水のようです。銅葺屋根で入母屋造の拝殿は神殿へとつながり、手前には狛犬が守護しています。拝殿右手ら稲荷鳥居と右に境内社が纏められているようです。拝殿前を守護する狛犬は1871年(明治4)の建立。拝殿から本殿方向の眺め。よく見ると本殿前にも小さな狛犬がいるようです。拝殿左に、秋葉社、津島社、加茂社、天神社、猿田彦社が纏められている。社殿全景、本殿全体は見通せません、7本の鰹木と外削ぎの千木が施された流造のように見えます。社務所全景、レトロ感漂う佇まいはなかなかのもの。境内はイチョウの樹が多いようで、秋には自然の恵みも得られるかも。この池は?神仏分離に伴い近隣から八幡社と弁財天社を合祀したとある事から、これはひょっとすると弁天池?拝殿右に神楽殿も建てられ、小さいながら伽藍は整っています、左には石灯籠(左は1908年)が並ぶ。拝殿右脇の長寿の大銀杏。昭和初期までは御神木とした古樹があったそうです。その御神木と共存するようにイチョウの樹があり、御神木が朽ち果てた後もこのイチョウは大樹へと成長、天災に遭いながらも成長を続ける生命力から、いつしか御神木の生まれ変わりとして信仰されるようになったそうです。奥は福守稲荷社の社。長寿の大銀杏から右手に鍋谷町通りの続く参道と鳥居が伸びています。通りから境内を見ると福守稲荷社の赤い鳥居と幟が一際目立ちます。福守稲荷社全景。折しも見頃を迎えた紫陽花が境内に彩りを添えていました。紫陽花にはしっとりと降る雨が似合うものですが、記録的な雨はこれ以上勘弁願いたいものです。社の前で程よい肉付きの二対の狛狐が守護しています。福守稲荷社の由緒などの詳細は調べきれませんでした。鍋谷町通りから見た松山神社。円明寺とは壁一枚で区切られています。近代的な作りの円明寺や周囲の景観と比較すると鳥居が無ければ神社の存在感は薄いかもしれない。社務所北側の通りから本殿の眺め、本殿はここが一番見通せる場所かも知れません。境内に聳える長寿の大銀杏とケヤキが住宅街にあって目立つ存在。神社自体はこぢんまりとした目立つ存在ではないかも知れませんが、このあたりの氏神様として、家内安全、商売繁盛、学業成就、開運厄除の守護神として今も崇敬され続けています。2020/06/19松山神社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、品陀別命、市杵島姫命境内社 / 加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社住所 / 名古屋市東区泉3-2-29公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「高岳」下車、北へ徒歩10分程
2020.07.07
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東京都港区芝公園4「芝東照宮」増上寺から日比谷通りを5分程南に歩く。芝公園を右手に眺め旧台徳院霊廟惣門(右)と増上寺(中央)、後方に東京タワーも一望できる。芝公園の一画が目的地「芝東照宮」。社号標の先の参道は駐車場になっているようで、参道を普通に車が出入りしています。参道に入ると1788年(天明8)に奉納された凛々しい容姿の一対の狛犬。参道の明神鳥居と扁額、「家達」(いえさと)の文字が入っています。家達(1863~1940)は徳川家16代当主で、徳川幕府の終焉がもう少し遅ければ慶喜の次を担う将軍の座も現実のものだっただろう。この扁額は2000年(平成12)に改修されたもの。鳥居から最初の石段を上る。両脇の芝東照宮の提灯には当然ながら葵の紋が入ります。正面にはいかにも東照宮らしい拝殿が見えてきます。境内右に徳川家光が植樹したと伝えられる御神木のイチョウの大樹。戦災を免れ今も境内右に聳えたっています、1956年(昭和31)に東京都の天然記念物に指定されているようです。境内右に手水舎、手水鉢があり清水は常に注がれています。参道両脇に「徳川家康公(家光公お手植え公孫樹)」と書かれた青い幟。公孫樹? イチョウの事ですね、黄金色に染まった境内はとても綺麗なもの。杉などに比較すると非常に燃えにくい樹で、落ち葉の絨毯は防火シートの役割も果し、銀杏が実れば食料にもなる、そんなことから神社仏閣や広域避難場所などの周囲で見かけることが多い。権現造の拝殿全景。芝東照宮は日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。大きさは違えど煌びやかさは通じるものがあります。芝公園は古くは増上寺境内でそこに勧請されたもので、境内の社殿の一つだった。由来は家康が1601年(慶長6)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城に於いて祭祀していた。1616年(元和2)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言したとされ、その年に着工、1617年(元和3)に竣工、完成した社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」から「安国殿」と呼ばれ、これが芝東照宮の起源とされる。上野東照宮の創建が1627年(寛永4)とされるので、芝東照宮の方が創建は早かった事になる。拝殿左の由緒書きと境内の方位石。芝東照宮創建 / 1617年(元和3)祭神 / 徳川家康御神体 / 徳川家康寿像創建以来年月を重ね、明治の神仏分離令に伴い、増上寺から切り離されて芝東照宮となります。そして1945年(昭和20)の東京大空襲により伽藍を焼失し、唯一焼け残ったのは御神体の「寿像」と神木のイチョウだけだったという。今見る社殿が再建されたのは1969年(昭和44)の事だという。鉄筋コンクリートの東照宮として生まれ変わり、近年では2014年(平成26)に幣殿、拝殿、外部壁や、飾り金具等に補修の手が入っているようです。斜めから見る姿は実に複雑な屋根構造をしている。南から見た芝東照宮社殿。左の本殿から拝殿が繋がっているのが分かります。ここ芝東照宮は久能山東照宮、上野東照宮の様に本殿域の拝観できないようです。上野東照宮より創建が古いけれど、空襲で被災するかしないかで随分と佇まいに差を感じてしまう。キンキラで近寄りがたい存在感の上野東照宮に対し、身近で親しみやすいのが芝東照宮かもしれない。芝東照宮の境内から南に続く小道があり、そこを抜けると梅林が広がります。「銀世界の梅」と呼ばれ、2/20の頃の梅林は赤・白の梅が咲き始め、満開にはまだ少し早かった。色合いの乏しい街中にあって、四季を感じることができる貴重な場所かもしれない。 東京タワーが一望できる芝公園の中、芝東照宮の背後に小高い盛り上がりがあります。芝公園ランプの北側の切通しになった部分で、通りには「丸山貝塚」の解説が掲げられています。ここは5世紀後半につくられたと推定される前方後円墳の「丸山古墳」。墳丘へは石段もあり自由に登ることができる。看板の辺りは円型に繋がる方型部分の裾にあたるようだ。埋葬者など詳細は不明なようですが、長さは約112㍍にもなり、都内最大規模の古墳と云われる。この古墳、円型の墳丘部分は江戸時代に既に広場となっていたと言われます。古墳として認識されたのは意外に新しく1893年(明治26)の事で、発掘調査では埴輪や須恵器などが見つかったそうですが遺構らしいものは見つからなかったいう。丸山古墳周辺には7世紀頃の小型の円墳が複数存在したようで、副葬品も出土されたようです。ビルが立ち並ぶ環境にあって、現在では海岸のイメージすらできないけれど間近に海が迫っていたようです。2020/02/20芝東照宮創建 / 1617年(元和3)祭神 / 徳川家康住所 / 東京都港区芝公園4-8-10公共交通機関アクセス / 都営地下鉄三田線 御成門駅下車 A1出口より徒歩2分関連記事 / 増上寺、久能山東照宮、上野東照宮増上寺からアクセス / 徒歩で南へ5分程
2020.07.05
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東区車道町2丁目建中寺東交差点を北に進むと右側の歩道に筒井消防団の赤い「火の用心」の幟に目が行きます。黒門公園の西側にあたり、近隣に学校もあり登下校時には学生を多く見かける。筒井町4「秋葉神社、熱田社、津島神社」から北に5分もあれば辿り着けるでしょう。消防団の建屋の西隣、こちらにも地上に降りた屋根神様が祀られています。歩道脇に樹が植えられ、笠木が赤く塗られた小さな神明鳥居がある事に気が付くはずです。手水鉢もありますが網が掛けられていました。境内は落ち葉が積もっているようなこともなく手入れされていました。奥行のない狭小地、鳥居正面から眺めると、直ぐに石垣が高く積まれた台座が迫ります。社の前には基礎が赤く塗られた木造りの常夜灯が一対建てられています。よく見れば鳥居の台石も赤く塗られています、この色は守山などでよく見かける天王社のイメージカラー。小さな境内ですが、手作り感満載の覆屋になんとなく気持ちが伝わってきます。そんな覆屋の下に祀られる社は神明造で派手な飾り金具のない素朴なものです。格式が高く、立派な神社は見応えがあるけれど、道筋で見かける小さな社。時に見栄えはいまひとつでも、思いを込めて手が掛けられた姿を見ると、そこに住む人々と社のつながりを感じられます。この社が軒下にいつ頃まで祀られていたのかよく分かりませんが、東海地方の特徴的な祭祀形態で、住居が密集する下町などで出会う、堀川周辺には典型的な屋根神様を見ることができます。人が集まり家が軒を連ね共に生活を営むとある意味運命共同体。様々な災いが起こります、今のタイミングだとCOVID-19? それらの災い除けにこうした社が祀られていくのも自然な事で、お世話をする持ち回りの当番ができ、それにより町内の結束を高めていくのに屋根神様は一役買っていた。それらも景観や人の移り変わりに伴い徐々に姿を消してきています。一概には言えませんが津島神社、熱田神宮、秋葉神社が祀られるのが一般的で、熱田神宮に代わり地元の産土神が祀られる場合もあるようです。社に社名札が掲げられていないと困ったもんだ。運よく月次祭に訪れるとそれぞれの提灯が吊るされ一目瞭然ですが、偶然に遭遇するのはラッキーかもしれない。消防団や集会所など人が集う場所の傍らにこうした社があったりします、「小さな杜に社あり」ばかりではなさそうです。2020/6/30車道町2 秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社創建 / 不明 祭神 / 不明 住所 / 名古屋市東区車道町2-30-1アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車北へ筒井町4「秋葉神社、熱田社、津島神社」からアクセス / 北へ徒歩5分程関連記事 / 東区筒井町4「秋葉神社、熱田社、津島神社」
2020.07.03
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春日井市小木田町「小木田神社」小木田町の名由来はこの神社からついた町名だという。小木田神社社頭全景。境内を取り囲む様に杜があり、石の神明鳥居と左に社号標があります。訪れた際は社頭の前の狭い通りは、以外に交通量が多い印象を受けました。また参拝者駐車場は見かけませんでした。社頭左に立派な花崗岩のプレートに小木田神社の由緒が刻まれていた。「神社名 小木田神社鎮座地 春日井市小木田町147番地。祭神 大己貴尊、素戔鳴尊、少彦名尊。合祀の御祭神 興津比古命、菅原道真。祭礼日 4月16日沿革当社の創建は定かではないが、古伝によれば養老3年(719)という。明和5年(1768)に再建した棟札がある。郷社であり、古く天王社と云われた。小木田の名はかつては村名となったこともあるが、篠木荘中の古村であった。天 ?2年に境外社であった林島の荒神社と? 大臣の天神様とが本社に合祀され、関田村の産土神として多く???から崇められてきた。尚、県指定無形文化財の源氏天流棒の手が祭礼に奉納されている。境内末社神明社、天神社、熱田神宮、金比羅社、荒神社、八幡社、秋葉社」読みにくい部分もあるけれど、しっかりと書かれていてわかりやすい。鳥居の先の狛犬。狛犬も派手な彩色が施されたものを見かけるけれど、個人的に好きにはなれない。僅かに彩色がされ、これくらいなら許容範囲の上品な化粧。境内左に自然石の手水鉢、緑鮮やかな楓の木が手水舎だ。手水鉢から拝殿方向の境内の眺め。この時期の緑はしっとりとしながら鮮やかで、目には優しいものがある。上境内右の覆屋、その下に正方形の石枡。下同じく境内右外れに義勇奉行公碑。源氏天流棒の手碑棒の手、主に棒を使った武術的な民俗芸能で、尾張や三河に多くの流派が伝承されています。源氏天流とは、清和天皇の子孫源義家を流祖とされ、戦国時代の実践的な古武道の型をそのまま伝えた豪快な点が特徴とされるそうです。明治時代になって現在の名古屋市守山区から春日井市の旧関田村(現在の小木田町)に伝わったようだ。小木田の棒の手は、源氏天流の棒の手復興に努力した河野萬三郎義次、加藤平輔義平などが明治21年(1888)に相伝目録3巻及び免状1巻を小木田神社に奉納したことにはじまるという。現在「小木田町源氏天流関田棒の手保存会」が保存・伝承活動を行っているそうで、毎年、地域の氏神である小木田神社とここから少し西の貴船神社、名古屋市熱田区の熱田神宮の祭礼には棒の手を奉納しているという。境内左に注連縄が吊られた小さな堂。雨が降る中、地元の方が本殿とこちらで手を合わせていく姿を見かけました。堂の左右に石塔と二体の石像が安置されています。解説らしきものはなく、像はどちらも風化は激しく像容は分かりません。拝殿全景。社殿はコンクリート工法で作られた新しいもの。左に狛犬が見えますが、これは末社を守護するもので、拝殿前に狛犬は配されていません。切妻平入拝殿に向拝が施されています。拝殿の扁額と拝殿、幣殿の眺め、桐が神紋のようです。拝殿左に境内末社が纏められている。末社の左に注連縄がかけられた石標があり、文字は刻まれているが全てが読み取れず不明。末社を守護する狛犬。板宮造りの社が7社が並んで祀られています。奥から順に神明社、天神社、熱田神宮、金比羅社、荒神社、八幡社、秋葉社。末社から見た本殿、外削ぎの千木と鰹木が見られる。上拝殿から鳥居方向の境内の眺め。雨の日の境内はこんな感じです。下拝殿の西側に脇参道があり、鳥居の先は小木田公園になります。「小木田神社」創建は不明ながら、この辺りの産土神として今も崇敬され、源氏天流小木田棒の手と共に次の世代に受け継がれていきます。2020/06/13「小木田神社」創建 / 不明、1768年(明和5)の棟札が残る祭神 / 大己貴尊、素戔鳴尊、少彦名尊境内末社 / 神明社、天神社、熱田神宮、金比羅社、荒神社、八幡社、秋葉社住所 / 春日井市小木田町147公共交通機関アクセス / JR中央線春日井駅から北に徒歩10分程
2020.07.02
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